誰が隣人となるのか?
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2026.9.2 The Word for you
ルカの福音書10章25節から37節より、隣人についてイエス様が教えておられることを学びたいと思います。ここで語られているのは「誰を愛するのか」ではなく、「目の前の人にどう向き合うか」についてです。
ルカの福音書10章25節~
さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば命を得ます。」
しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは誰ですか。」
イエスは答えられた……。
この箇所で語られているのが、有名な「良きサマリア人」の例え話です。律法の専門家がイエス様に「どうしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」と尋ねました。これはニコデモが言っていた「どうしたら神の国に入ることができるでしょうか?」と同じ問いです。
イエス様から「律法には何と書いてあるか?」と尋ねられた専門家は、「心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい。」と答えました。イエス様は「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。」と言われました。
ところが、この専門家は「では、私の隣人とは誰ですか?」とさらに質問しました。聖書は彼がこの質問をした理由を明確に書いています。「自分が正しいことを示そうとして」とあります。ここが、この例え話を理解する上で非常に大切なポイントです。
彼は律法を知らなかったわけではありません。「隣人を自分自身のように愛しなさい」ということは知っていました。問題は、「どうやって、自分はその律法を守れていることにするか。」ということです。もし隣人が「自分の家族」や「仲間のユダヤ人」、「自分に好意を持ってくれる人」だけであれば、「私はその人たちを愛しています。だから律法を守っています。」と言えます。だから彼は「隣人とは誰ですか?」と尋ねたのです。はっきり言えば、「具体的に誰までが隣人ですか?」と範囲を決めたかったのです。
しかし、イエス様はその線引きを壊されました。イエス様は誰が隣人なのかを、一つの例え話を通して語られます。
ある人(ユダヤ人)が強盗に襲われ、服を奪われ、殴られて半殺しの状態で道に投げ捨てられました。そこへ祭司が通りかかりました。祭司はその人を見ましたが、避けて道の反対側を通り過ぎていきました。次にレビ人が来ました。レビ人もその人を見ましたが、やはり反対側を通り過ぎました。この二人(祭司とレビ人)は、神様について何も知らない人たちではありません。律法を熟知し、宗教に深く関わってきた人たちです。しかし、困っている人を見ながら通り過ぎていきました。
そこへ一人のサマリア人が通りかかりました。当時、ユダヤ人とサマリア人の間には深い隔たりがありました。しかし、このサマリア人は倒れている人を見ると「かわいそうに」と思いました。それだけでは終わりませんでした。近づいて傷を手当てし、自分の家畜に乗せて宿屋まで運び、介抱し、費用を払いました。さらに「もし不足があれば、帰りに自分が払います。」とまで言ったのです。
ここでイエス様は、最初の質問とは違う問いを投げかけられます。律法の専門家は「私の隣人とは誰ですか」と、隣人の範囲を狭めようとしました。しかしイエス様の問いは違いました。
「この三人の中で、誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
問いが変わっているのです。「誰が、私の隣人か」ではなく、「あなたが、誰かの隣人になっているか」ということです。
律法の専門家は「哀れみ深い行いをした人です。」と答えました。するとイエス様は「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われました。ここがこの例え話の結論です。
つまり、「隣人を選ぶ」のではないのです。私たちはともすると、愛する相手を選びたくなります。この人は好きだから助ける、仲間だから助ける、教会の人だから、お世話になったから助ける。しかし、この人は自分と違う、関係がない、この人の分まで責任は持てないと、線を引きたくなります。イエス様は、その線を打ち壊されました。
神の民はユダヤ人だけではありません。サマリア人も異邦人も、神様のご計画の中に選ばれています。そして、私たちには「誰が神様に選ばれているのか」は分かりません。だから「この人は関係ない」と自分側で決めて、愛する対象から外すことはできないのです。
目の前に困っている人がいる、助けを必要としている人がいる。その人に対して「この人は私の隣人だろうか?」と考えるのではありません。イエス様が言われたのは、「あなたがその人の隣人になるのだ。」ということです。
ここで分かる重要なことは、「隣人愛とは気持ちだけではない」ということです。サマリア人は「かわいそうだな」と思っただけではありませんでした。実際に動いたのです。近づき、手当てをし、運び、お金を出しました。愛は行動に現れます。
これは私たちの実生活に繋がっていきます。家庭の中で、教会で、職場や道端で困っている人がいるとき、「誰かがやるだろう」「自分の担当ではない」「自分には関係ない」と言って通り過ぎることがあります。祭司やレビ人も見なかったわけではありません。見ましたが、通り過ぎました。サマリア人も同じものを見ました。しかし、彼は近づきました。違いは「見えたかどうか」ではなく、「見た後にどうしたか」です。
「愛している」と言うことと、「責任を引き受ける」こと。ここで隣人愛と責任が繋がります。自分の前に置かれている問題から「関係ない」と言って逃げないこと。サマリア人は「なぜ私がここまでしなければならないのか」とは言わず、自分にできることを果たしました。
実生活における隣人愛は、困っている人に声をかけること、自分から手伝うこと、家の中で気づいたことを誰かに言われる前にすること、職場で自分の目の前にある問題を放置せず確認し、人のせいにせず責任を持つことかもしれません。隣人を愛することと、責任から逃げないことは同じなのです。
キリストと結ばれている者たちは、その結合ゆえに溢れてくる、喜びと希望と神を愛する心から、困っている人を見たら近づき、動きます。自分にできることを引き受けます。これが「良きサマリア人」の姿です。そしてこれはすべて、キリストを仰ぎ見る中で進む「聖化」の歩みです。
ここで大切なのは、隣人愛を単なる宗教的な道徳や、外面的な優しさに変質させないことです。聖書が語る隣人愛は、人間の中から作り出されるものではありません。神に選ばれた者は、御霊によってキリストに結ばれ、その結合の中で聖化されていきます。
聖化とは、ただ自分が少しずつ「良い人」になることではありません。神様は選ばれた者を様々な試練の中に通されます。その中で、自分の力では立てないこと、自分の知恵では解決できないこと、人間も自分自身も最後の望みにはならないことを知らされます。その中で、「キリストこそが最後の望みである」ことを深く知らされていくのです。
信仰者は試練の中で、絶えず主を見上げます。自分を見るのでも、状況だけを見るのでも、人を見るのでもなく、ただ主イエス・キリストを最後の望みとして仰ぎます。御霊はみことばを通じて私たちの心を照らし、神様が今何を求めておられるかを示されます。それは時に、私たちが本来見たくないものや、厄介なことかもしれません。しかし、そこで逃げるのではなく、神様が置かれた場所を歩んでいくのです。
イエス様は言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
近づきなさい、手当てをしなさい、運びなさい、実際に動きなさい、と主は語られています。「かわいそうだな」と思うだけでは足りません。実際に動くのです。
それは、私達を試練や自分との戦いの中に連れていくかもしれません。「自分にはできない。」と思うこともあります。しかしその中で神様は思いを立たせ、「今、従いなさい」と語りかけておられます。私たちのうちに働く御霊の力によって、私たちは神様のみこころを行っていくことができるのです。
お祈りします
愛する天のお父様、隣人を愛することは責任から逃げないことと、まったく同じであること、そしてそれは単に「かわいそうだな」と思う気持ちだけでなく、実際に近づき、手当てし、運ぶという行動を伴って、私たちの生活に繋がっていることを教えてくださり感謝します。
私たちが御霊によって歩むとは、どれほど深いことでしょうか。心から今日の御言葉を感謝いたします。
イエス・キリストのお名前を通してお祈りいたします。アーメン。


