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最終回 主を仰ぎ見る―救いの完成

  • 8月29日
  • 読了時間: 12分

2026.8.23 豊川の家の教会礼拝メッセージ

主を仰ぎ見る――救いの完成

 

私たちの救いは、罪が赦されることで終わるのではありません。苦しみが取り去られることでも、ただ天国へ行くことでもありません。救いの完成とは、主ご自身とともにおり、主をありのままに仰ぎ見ることです。

しかし、この救いは、私たちが地上でキリストを信じたとき、突然始まった計画ではありません。聖書は、さらに深いところまで私たちを連れて行きます。

 

エペソ1章4節

 

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」

世界の基が据えられる前から。まだ私たちが生まれる前です。まだ世界そのものが造られる前です。神は、私たちを「キリストにあって」選んでくださいました。ですから、救いの源をたどっていくと、私たちの信仰や決心に行き着くのではありません。さらにその前、天地創造よりも前です。父なる神が、御子キリストにあってご自分の民を選ばれた、その永遠の恵みのみこころにまでさかのぼるのです。

 

Ⅱテモテ1章9節

 

パウロは、エペソ人への手紙で語った「キリストにある選び」の教理を、テモテにも語っています。

「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、永遠の昔に私たちに与えられ」

神の救いの計画そのものが、初めから「キリストにあって」なのです。ここで、はっきり区別する必要があります。私たちが永遠の昔から、御霊によって現実にキリストと結ばれていた、ということではありません。永遠の昔、私たちは神のご計画においてキリストにあって選ばれました。そして歴史の中で、有効召命により、御霊によって現実にキリストと結ばれたのです。

世界の基が据えられる前、キリストにあって選ばれた。歴史の中で、御霊によってキリストに結ばれた。そして地上では、キリストが私たちのうちに住んでおられる。救いの中心はキリストであり、すべての恵みはキリストとの結合から流れてきます。

 

イエス様は、十字架にかかられる前の祈りの中で、驚くべきことを語られました。

 

ヨハネ17章21節

 

「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らもわたしたちにいるようにしてください。」

23節では、「わたしが彼らにおり、あなたがわたしにおられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と言われています。イエス様は、信仰者とご自身との関係を、単なる先生と弟子の関係として語っておられません。「わたしが彼らにおり」と言われるのです。これは、キリストとの結合です。

今、復活されたイエス・キリストは、栄光の身体をもって天におられます。父なる神の右に座し、すべてを支配しておられます。しかし同時に、その同じキリストが、聖霊によって信仰者と結ばれ、私たちのうちに住んでおられます。

 

パウロはガラテヤ2章20節で、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言いました。またローマ8章10節では、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら」と語っています。ここでいう「私のうち」「あなたがたのうち」とは、単に心の奥にキリストがおられる、という意味ではありません。

 

Ⅱコリント4章7節

 

「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」

この「土の器」とは、弱く、壊れやすく、死に定められた身体をもつ私たちです。そして「宝」とは、直前の6節にある「イエス・キリストの御顔にある神の栄光を知る知識の光」、すなわち、キリストの栄光を現す福音の光です。

 

この箇所の直接の文脈は、弱い人間に託された福音の務めです。そのため、Ⅱコリント4章7節だけで、キリストとの結合のすべてを説明することはできません。しかしパウロは、ガラテヤ2章20節で、キリストが私たちのうちに生きておられると語り、Ⅰコリント6章19節では、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる聖霊の宮」と語っています。

 

キリストとの結合は、心や魂だけの結合ではありません。御霊によってキリストに結ばれるのは、身体を含む信仰者の全人格、全存在です。

パウロはⅡコリント4章10~11節で、「イエスのいのちが私たちの身に現れるため」「私たちの死ぬべきからだに、イエスのいのちが現れるため」と語っています。キリストのいのちは、抽象的な内面だけでなく、この死ぬべき身体をもつ私たちの全存在に現されるのです。

 

ウェストミンスター大教理問答66

 

ウェストミンスター大教理問答66は、この結合をはっきりと言い表しています。

「選ばれた者がキリストと持つ結合とは、神の恵みのみわざであり、それによって彼らは、霊的に、神秘的に、しかし現実に、そして分離不可能に、彼らのかしらまた夫であるキリストに結び合わされることであり、それは彼らの有効召命においてなされる。」

永遠の昔に定められた選びが、有効召命において、御霊による現実のキリストとの結合として私たちに適用されるのです。

 

キリストとの結合は「霊的に」なされます。これは、復活されたキリストの身体が、私たちの身体の中に入ってくるということではありません。聖霊によって、私たちは天におられるキリストに結ばれるのです。そして、それは「神秘的に」なされます。私たちには、この結合のすべてを説明し尽くすことはできません。

しかし、神秘的だからといって、単なる象徴ではありません。大教理問答は、「しかし現実に」と言います。私たちは、キリストについて考え、キリストを模範としているだけではありません。聖霊によって、本当にキリストご自身に結ばれているのです。

そして最も大切なのが、最後の言葉です。「分離不可能に。」一度、御霊によってキリストに結ばれた者は、死によってもキリストから引き離されません。

 

ここから、私たちの救いを四つの段階で見ていきます。

 

一 世界の基が据えられる前――キリストにあって選ばれた

 

エペソ1章4節には、「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び」とあります。救いの源は、私たち自身の中にはありません。私たちの信仰や決心から救いが始まったのではありません。

永遠の昔、父なる神がキリストにあって私たちを選ばれました。ただし、この段階で私たちがすでに存在し、御霊によって現実にキリストと結ばれていたのではありません。永遠の昔にキリストにあって選ばれ、歴史の中で御霊によってキリストに結ばれるよう定められていたのです。

 

二 地上にいる現在――御霊によってキリストに結ばれ、信仰によって主を仰ぐ

 

今、私たちは地上にいます。復活されたキリストは天におられます。私たちはまだ、その御顔を肉眼で見ることはできません。しかし、見えないからといって、キリストから離れているのではありません。

ガラテヤ2章20節で、パウロは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言います。

 

ローマ8章10~11節には、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊は義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます」とあります。

 

ここでパウロは、現在の御霊の内住と、将来の身体の復活を一つにつないでいます。今、御霊は私たちのうちに住んでおられます。そして、その同じ御霊が、やがて私たちの「死ぬべきからだ」も生かしてくださいます。キリストとの結合による救いは、魂だけの救いではありません。身体を含む、私たちの全存在の救いです。

 

Ⅱコリント3章18節には、「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」とあります。

今はまだ、私たちのうちに罪があります。弱さがあり、苦しみがあり、死があります。しかし御霊は、キリストに結ばれた私たちを、少しずつキリストと同じかたちへと変えてくださいます。私たちは、信仰によって天におられる主を仰ぎながら歩いているのです。

 

 

 

三 死後・再臨前――魂はキリストとともにあり、身体は復活を待つ

 

私たちは、死んだ瞬間にキリストとの結合を失い、天に行ってからもう一度キリストと結ばれるのではありません。

パウロはⅡコリント5章8節で、「むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています」と語ります。また、ピリピ1章23節では、「世を去ってキリストとともにいることを願っています。そのほうが、はるかに望ましいのです」と語っています。

死によって身体と魂は一時的に分かれます。しかし、魂がキリストとともにあるだけでなく、墓に置かれた身体も、なおキリストに結ばれた身体として、復活の日を待つのです。

 

黙示録6章9~11節には、殉教した聖徒たちについて、「神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちの魂を、祭壇の下に見た」とあります。ここでヨハネが見ているのは、まだ身体の復活を迎えていない「魂」です。彼らは意識を失っているのではありません。神に向かって叫び、神から答えを受け、最終的な完成を待っています。

 

「祭壇の下」とは天国の地理的な位置ではなく、旧約のいけにえを背景とした象徴です。旧約では、いけにえの血が祭壇の土台に注がれました。

「その血はすべて、全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。」(レビ記4章7節)

したがって、祭壇の下にいる殉教者たちの魂は、彼らの命が神へのささげ物として注ぎ出されたことを表しています。そこは神から遠い場所ではなく、彼らの死が神に覚えられ、その魂が守られていることを示す場所です。

 

彼らは主に呼びかけ、白い衣を与えられ、主の答えを聞いています。しかし、まだ身体の復活を迎えていないため、「もうしばらくの間、休んでいるように」(黙示録6章11節)と言われています。

死は身体と魂を一時的に分けることはできても、信仰者をキリストから引き離すことはできません。キリストとの結合には、死による空白はありません。

 

四 再臨・復活後――栄化された全存在をもって、復活された主を直接仰ぐ

 

終わりの日、キリストが再臨されるとき、死んだ信仰者たちはよみがえらされます。

ピリピ3章20~21節には、「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」とあります。

 

キリストが身体をもってよみがえられたように、私たちもよみがえらされます。私たちの卑しい身体は、キリストの栄光の身体と同じ姿に変えられます。

Ⅰテサロニケ4章16~17節には、「主ご自身が、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえります。それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」とあります。

ここで注目すべきなのは、「キリストにある死者」という言葉です。彼らは死んでいても、なお「キリストにある」のです。そして、その「キリストにある死者」がよみがえります。

Ⅰヨハネ3章2節には、「私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者となることは知っています。キリストをありのままに見るからです」とあります。

キリストをありのままに見る。今まで信仰によって仰いでいた方を、復活した身体をもって直接仰ぎ見るのです。

 

ヨハネ17章24節で、イエス様は、「わたしがいるところに、あなたがくださった者たちもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです」と祈られました。

そして聖書の最後、黙示録22章3~5節には、「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らには、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める」とあります。

復活し、栄化された神の民が、全存在をもって神と子羊の御前にいます。そして、「御顔を仰ぎ見る。」ここに救いの完成があります。

 

Ⅰコリント13章12節も、この現在と完成の違いを、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります」と表しています。

今は部分的にしか知ることができません。しかし完成のとき、私たちは主の御前で、完全な交わりに入れられます。キリストとの結合は、御顔を仰ぎ見るときに終わるのではありません。私たちはキリストに結ばれたまま、復活した全存在をもって、そのキリストを直接仰ぎ見るのです。

ヨハネ17章で、イエス様は、「わたしが彼らにおり。」「彼らがわたしとともにいる。」「わたしの栄光を見る」と祈られました。この三つが、救いの完成において一つになるのです。

 

 

まとめ

 

私たちの希望は、単なる未来の場所ではありません。

 

1)永遠の昔、神のご計画において、キリストにあって選ばれた。

2)歴史の中で、有効召命により、御霊によって現実にキリストと結ばれた。

3)死によって身体と魂が一時的に分かれても、キリストとの結合は断ち切られない。魂は主とともにあり、身体もなおキリストに結ばれた身体として、復活の日を待つ。  

4)再臨のとき、私たちは栄光の身体によみがえり、復活された主を直接、間近に仰ぎ見る。 

5)そして永遠にキリストにあり、永遠に主の御顔を仰ぎ見る。

 

救いは、永遠の昔、キリストにあって定められました。歴史の中で、有効召命により、御霊によって私たちに適用されました。私たちは、身体を含む全存在をもってキリストに結ばれています。

死によって身体と魂が一時的に分かれても、キリストとの結合は断ち切られません。魂は主とともにあり、身体もなおキリストに結ばれた身体として、復活の日を待ちます。

 

そして再臨の日、私たちは栄光の身体によみがえり、全存在をもって、復活された主を直接仰ぎ見ます。私たちは、キリストに結ばれたまま、そのキリストを仰ぎ見るのです。

 

「わたしが彼らにおり。」「彼らがわたしとともにいる。」「わたしの栄光を見る。」

 

この三つが、救いの完成において一つになります。

「彼らは御顔を仰ぎ見る。」

 

救いの完成とは、単に天国という場所を得ることではありません。

永遠にキリストにあり、

永遠にキリストとともにおり、

永遠にキリストの御顔を仰ぎ見ることです。

 

「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」

コロサイ人への手紙 1章27節

 

これが真の信仰者の希望です。これが、救いの完成です。

 

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