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第1回 旧約聖書に見る「主を仰ぎ見る」信仰

  • 8月15日
  • 読了時間: 19分

2026.8.9 特別礼拝 第1回 

旧約聖書に見る「主を仰ぎ見る」信仰― 神は試練を通して、ご自身の民を、神に代わるものに頼る者から、主だけにより頼む者へ造り変えられる ―


聖書には六十六巻の書物があります。歴史書もあれば、詩篇もあり、預言書もあり、福音書もあり、手紙もあります。それぞれ、書かれた時代も、著者も、背景も異なります。しかし、聖書全体を見ると、そこには神がご自身の民を救い、完成へと導いてくださる一本の大きな流れがあります。それは、創造・堕落・契約・贖い・完成という、神の救いの歴史です。神学では、この聖書全体を貫く神の救いの歴史を「救済史」と呼びます。


この救いの歴史の中で、神が一貫して行っておられることがあります。それは、罪によってご自身から離れた民を、ご自身のもとへ取り戻し、ご自身だけを望みとして生きる民へ造り変えることです。


創世記において、人は神から目をそらしました。そしてすべての人は、知識、経験、方法、制度、宗教的行為、霊的体験、経済力、人間関係など、さまざまなものを神に代わる拠り所とする者となってしまいました。しかし神は、その人間を見捨てられませんでした。それは、神の永遠のご計画によるものです。


「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」エペソ人への手紙1章3~6節


旧約では、この信仰の歩みが、「主を仰ぎ見る」「主を待ち望む」という言葉によって表されました。そして新約では、「御霊によって歩きなさい」と語られます。この二つは、まったく別の教えではありません。旧約における「主を仰ぎ見る」「主を待ち望む」という信仰は、新約において、御霊によってキリストに結ばれ、キリストを信頼し、キリストに従って歩む生活として、いっそう明瞭に現されます。


しかし、最も大切なのは、キリストとの結合です。キリストとの結合こそ、神がご自身の民に与えてくださる、すべての救いの祝福の源泉です。信仰者はキリストに結ばれることによって、キリストの義にあずかり、神の前に義とされます。キリストに結ばれることによって神の子とされ、聖化され、最後まで守られ、やがて栄光の姿へと変えられます。義認も、子とされることも、聖化も、堅忍も、栄化も、すべてはキリストとの結合から流れ出る救いの祝福です。


御霊はキリストの栄光を現し、私たちをキリストに結び、キリストのことばを私たちの心に適用し、私たちの目を絶えずキリストへ向けてくださいます。しかしこれは、御霊がすべてを行われるので、信仰者は何もせず、ただ受動的でよいという意味ではありません。御霊が私たちをキリストに結び、私たちの心に信仰を働かせてくださるので、私たちは現実にキリストを仰ぎ、罪を退け、神のことばに従います。その信仰と服従は救いの原因ではありません。それは、キリストに結ばれた者のうちに、御霊が結んでくださる救いの実なのです。

これから、創世記から始まり、やがて黙示録の完成へと向かう神の御業を見ていきます。


第一 創造──人は神を仰ぎ、神との交わりに生きるために造られた

聖書は、「初めに、神が天と地を創造された」という言葉から始まります。すべての始まりは神です。人間ではありません。神は混沌の中に秩序を与え、光を造り、大地を整え、生き物を満たし、最後にご自身のかたちとして人を創造されました。人は偶然に存在するようになったのではありません。神は明確な目的をもって人を造られました。創世記1章26節には、「われわれのかたちとして、われわれの似姿に人を造ろう。」とあります。

人は神のかたちとして、神を知り、神を愛し、神を礼拝し、神の御前に生きるために造られました。


エデンの園では、人には何一つ欠けたものがありませんでした。罪も、死も、恐れも、恥もありませんでした。神は人とともに歩まれ、人は神の御声を聞き、神との親しい交わりの中に生きていました。その意味で、人は神を仰ぎ、神との交わりの中に生きる存在として造られたのです。ここでいう「仰ぐ」とは、単に肉眼で見ることではありません。神を信頼し、神を喜び、神を礼拝し、神を中心として生きることです。人の心も、その信頼も、その望みも、自分ではなく神へ向いていました。これが創造の秩序でした。したがって、聖書が語る救いとは、単に新しい宗教を始めることではありません。罪によって失われた神との交わりを回復し、再び神の御前に生きる者とされることです。しかし新約が明らかにするのは、この回復が単にアダムの状態へ戻ることではないということです。


神はご自身の民を第二のアダムであるキリストに結び、キリストのうちにある、さらに豊かな新しいいのちへ導かれます。救いの完成は、単なるエデンへの帰還ではありません。キリストに結ばれた新しい人類として、永遠に神との交わりに生きることなのです。この視点を持つと、創世記から黙示録までが一本の線で結ばれて見えてきます。


第二 堕落──人は神から目をそらし、自分を頼る者となった

しかし、この美しい交わりは長くは続きませんでした。創世記3章で、蛇はエバに近づき、まず神のことばに疑いを抱かせます。

「本当に神はそう言われたのですか。」

罪は、神のことばを疑い、神の真実さを疑うところから始まりました。蛇はさらに、「あなたがたは決して死にません。」「それを食べると神のようになります。」と語りました。ここで問題となったのは、果実そのものではありません。人が神よりも自分を信じたことです。エバは、神のことばよりも、自分の目で見たものと、自分の判断を信じました。聖書は、「その木はいかにも食べるのによさそうで、目に慕わしく、賢くしてくれそうで好ましかった。」と記しています。


ここに罪の本質があります。

罪とは、単に悪い行いをすることではありません。神ではなく自分を拠り所とすることです。神のことばではなく、自分の判断を最終的な基準とすることです。人は神の下に立つことをやめ、自分で善悪を決める者になろうとしました。言い換えるなら、人の視線が神から自分へ移ったのです。その結果、人は神との交わりを失いました。アダムとエバは、自分が裸であることに気付き、恐れ、恥じ、いちじくの葉で自分を覆いました。神が園を歩まれる音を聞くと、木の間に身を隠しました。これまで神との交わりを喜んでいた人が、神から逃げる者となったのです。


この姿は、罪が人間にもたらした根本的な変化を表しています。罪は人を神から遠ざけ、自分を守り、自分を正当化し、自分の力で生きようとする者へ変えてしまいました。そして、この姿はアダムだけのものではありません。私たちも同じです。困難に直面すると、まず自分の知恵を使おうとします。自分の経験を頼り、自分の力で解決しようとします。そして、自分の力ではどうすることもできなくなった時に、初めて神を求めようとします。


しかし聖書は、人間には自分から神へ立ち返る力がないことを教えています。ローマ人への手紙3章には、「神を求める者はいない。」とあります。またエペソ人への手紙2章では、「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた。」と語られています。死人には、自分で立ち上がる力がありません。神を求める力も、神を見る力も、神を選ぶ力もありません。だから救いとは、人間が自分から神へ向かうことではありません。神が罪人のもとへ来てくださることです。


そして新約は、この救いを二人のアダムという視点から説明します。最初のアダムにあって人類は罪と死の支配の下に入りました。しかし神は、第二のアダムであるキリストを遣わされました。救いとは、単に罪を赦されるだけではありません。古いアダムに属する者が、御霊によってキリストに結ばれ、キリストにある新しいいのちにあずかることなのです。神は、ご自身から目をそらした人間を見捨てられませんでした。むしろ、そのような人間をご自身のもとへ取り戻し、キリストに結ぶ救いの御業を進めてくださいました。ここから、神が永遠の昔から定めておられた救いのご計画が、歴史の中でいよいよ明らかにされていきます。

神は契約を結び、ご自身の民を選び、長い歴史を通して、自分ではなく神だけを望みとする民を造り上げていかれるのです。


第三 契約──神はアブラハムを召し、ご自身を信頼する信仰を育てられる

人は罪によって神から目をそらし、自分を頼る者となりました。しかし神は、そのような人間を見捨てられませんでした。創世記12章で、神はアブラハムを一方的な恵みによって召し出されます。

「あなたは生まれ故郷、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」


ここで大切なのは、アブラハムが神を探し求めたのではないということです。神が先に選び、神が先に語りかけ、神が先に契約を結ばれました。救いの主語は、最初から最後まで神です。神はアブラハムに、「あなたを大いなる国民とする。」と約束されました。しかし現実は、その約束とは正反対に見えました。サラには子どもがなく、年月だけが過ぎていきます。待ち続ける中で、アブラハムは神の約束を待ちきれず、自分の方法で約束を実現しようとしました。ハガルによってイシュマエルをもうけた出来事は、その象徴です。


人間の目には、それが現実的で最善の方法に思えたのでしょう。しかし、それは神を待ち望む歩みではなく、自分の知恵によって神の約束を完成させようとする歩みでした。神はその方法を、約束の成就としてはお認めになりませんでした。さらに年月が過ぎ、アブラハムは百歳、サラは九十歳になります。人間的には、子どもが生まれる望みは完全に絶たれました。しかし、まさにその時、神は約束を実現されます。イサクが誕生したのです。なぜ神は、これほど長く待たせられたのでしょうか。それは、人間には何一つ誇るものがなく、すべてが神の御業であることが明らかになるためでした。


もし若い時に子どもが与えられていたなら、人は「まだ人間的な可能性が残っていた」と考えたかもしれません。しかし百歳のアブラハムと九十歳のサラには、自分の力に期待できるものは何も残っていませんでした。だからこそ、イサクの誕生は、神だけが成し遂げられた御業であることが明らかになったのです。神は、待つ時間や試練を通して、アブラハムの信仰を育てられました。それは、単に約束されたものを求める信仰ではありません。約束を与えてくださった神ご自身を信頼する信仰でした。そして最後に、神はアブラハムに最も大きな試練を与えられます。


「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを献げなさい。」この命令は、人間には理解できません。神は約束を与えられ、その約束の子を、今度は献げよと言われるのです。

しかしヘブル人への手紙11章は、その時のアブラハムの信仰をこう説明しています。

「神には、人を死人の中からよみがえらせることもおできになると考えた。」


アブラハムは、約束されたものだけを見ていたのではありません。約束を与え、約束を必ず成し遂げられる神ご自身を見ていました。たとえイサクを献げることになったとしても、神はご自身の約束を決して破られないと信じていたのです。ここに、「主を仰ぎ見る」という信仰の姿があります。そして新約は、アブラハムに与えられた約束が最終的にキリストへ向かっていたことを明らかにします。神の救いの計画は、アブラハムから始まったのではありませんが、アブラハム契約を通してさらに明瞭にされ、やがてキリストにおいて成就します。そしてキリストに結ばれた者が、その約束の祝福にあずかるのです。


神は、ご自身の民を一瞬で完成させるのではありません。待たせ、試練を与え、時には人間の失敗さえも用いながら、神から離れて自分を拠り所とする自己信頼を砕き、ご自身だけを最後の望みとする者へ造り変えてくださいます。この原則は、アブラハム一人だけで終わりません。神はイスラエルという民全体にも、同じことを教えていかれます。その舞台となるのが、出エジプトです。


第四 出エジプト──神はご自身だけを仰ぐ民を造られる

アブラハムに約束された子孫は、やがて大きな民となりました。しかし、その民はエジプトで奴隷となり、自分たちの力では決して自由になることのできない状態に置かれます。しかし神は、アブラハムとの契約を忘れてはおられませんでした。神はモーセを遣わし、ご自身の力によってイスラエルを救い出されます。ここで大切なのは、イスラエルが自分たちの力でエジプトから脱出したのではないということです。十の災いも、過越しも、紅海も、すべて神の御業でした。救いは、人間の努力によって獲得されたのではありません。神の一方的な恵みによって与えられたのです。


この原則は新約においても変わりません。私たちも、自分の努力や功績によって罪から救われたのではありません。キリストの十字架によって成し遂げられた贖いを、ただ神の恵みによって受けたのです。そして、そのキリストの贖いの祝福は、御霊によってキリストに結ばれることによって私たちのものとなります。


紅海──神だけが戦われる

エジプトを出たイスラエルは、すぐに絶望的な状況へ導かれます。前には紅海、後ろにはエジプト軍が迫っています。人間的に見れば、完全な行き止まりです。しかし、この場所へ導かれたのは偶然ではありません。神ご自身が、民をこの場所へ導かれました。なぜでしょうか。それは、イスラエルが自分の力では救われ得ないことを知り、神の救いだけを見るためでした。

モーセは民に言います。

「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」

さらに、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなさい。」と語ります。

ここには、救済史を貫く重要な原則があります。戦われるのは神です。救いを成し遂げられるのは神です。民は、神が成し遂げられる救いを見るのです。海を分けられたのは神です。乾いた道を造られたのも神です。エジプト軍を滅ぼされたのも神です。人間が誇ることのできるものは、何一つありませんでした。神はご自身の民を、「自分では何もできない場所」へ導き、ご自身だけが救い主であることを教えられたのです。

私たちも人生の中で、まるで紅海の前に立たされるような経験をします。自分ではどうすることもできない問題に直面し、知恵も力も尽き果てることがあります。しかし、そのような時、神はご自身の民を見捨てておられるのではありません。むしろ神は、自分の力への信頼を砕き、ご自身の救いを仰ぐ者へ造り変えておられるのです。


荒野のマナ──日ごとに神を信頼する

紅海を渡った後も、神の訓練は続きます。荒野には畑もなく、十分な食べ物もありません。そこで神は、毎朝マナを降らせられました。しかし神は、一つの命令を与えられます。一日分だけを集めるように命じられたのです。安息日の前日を除いて、翌日の分を蓄えることは許されませんでした。余分に残せば、腐ってしまいました。なぜ神は、このようにされたのでしょうか。

神は、ご自身の民に、日ごとに神を信頼することを教えられたのです。

人は、将来に必要なものを自分で確保し、自分の力で安心を手に入れたいと考えます。しかし神は、今日必要なものを今日与え、明日もまた神が養われることを信じるよう教えられました。信仰とは、一度だけ神を信じることではありません。今日も神が支えてくださることを信頼し、明日も神が養ってくださることを信じて歩むことです。イエスが主の祈りにおいて、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」と教えられた背景には、この荒野の出来事があります。神の民は、自分の力によって生きているのではありません。毎日、神の恵みによって生かされているのです。


青銅の蛇──十字架のキリストを仰ぎ見る

荒野で最も象徴的な出来事の一つが、民数記21章の青銅の蛇です。民は再び神につぶやきました。その結果、燃える蛇が送られ、多くの者が噛まれて死んでいきます。人間には、自分を救う方法がありませんでした。自分の努力も、知恵も、経験も役に立ちませんでした。

そこで神はモーセに命じられます。

「燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。噛まれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」

これは、人間の知恵から出た方法ではありませんでした。しかし神は、この方法によってご自身の救いを示されました。救いは、人間が考え出すものではありません。神が備え、神が与えられるものだからです。青銅の蛇を仰ぐことによって与えられた肉体的な救いは、やがて十字架に上げられるキリストを信じる者に与えられる永遠の救いを指し示していました。

誤解しないように補足します。青銅の蛇による救出は、キリストによる永遠の救いを指し示す型です。しかし、「型において肉体的救出を受けた者」と、「型が指し示すキリストにあって永遠に救われる者」を、そのまま同一視してはいけません。これは1コリント10章を見るとはっきりします。パウロは荒野のイスラエルについて、彼らがみな雲の下にあり、みな海を通り、みな霊的な食べ物を食べ、みな霊的な飲み物を飲んだと語ります。それにもかかわらず、

「しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」1コリント人への手紙10章5節

したがって、旧約の契約共同体に属して神の外的な恵みを受けることと、永遠の選びに属して救われることは同じではありません。では、なぜ神はこのような「型」を旧約の歴史の中に置かれたのでしょうか。それは、神が永遠の昔から定めておられた救いのご計画を、ご自身の民の歴史の中で少しずつ明らかにしていくためでした。旧約の型は、単なる分かりやすい教材ではありません。神は実際の歴史の中でご自身の民を救い、その出来事そのものを用いて、やがてキリストにおいて完成する救いをあらかじめ指し示されたのです。

当時のイスラエルの民が、その意味をすべて理解していたわけではありません。青銅の蛇を仰いだ人々が、「これは将来キリストが十字架に上げられることを意味している」と理解していたわけではありません。しかし神は、彼らが理解している以上の意味をご自身の御業の中に置いておられました。そして時が満ちてキリストが来られたとき、イエスご自身が、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」と語り、その意味を明らかにされたのです。ですから、旧約と新約は別々の救いではありません。旧約に置かれた影が、キリストという本体へ向かっていました。救いのご計画を立てられたのも神、その計画を歴史の中で示されたのも神、そして御子を遣わしてその救いを完成されたのも神なのです。


イエスは、ヨハネの福音書3章で、この出来事をご自身の十字架に結び付けられました。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」

青銅の蛇を仰いだ者に肉体的ないのちが与えられたように、神はこの出来事を通して、やがて十字架に上げられるキリストによって与えられる永遠の救いをあらかじめ指し示しておられました。しかし、青銅の蛇を仰いで肉体的に救われた者すべてが、永遠の救いにあずかったという意味ではありません。青銅の蛇による救出は、キリストによる救いを指し示す型だったのです。そして新約における救いは、キリストをただ外側から眺めることではありません。御霊は私たちを、十字架につけられ、復活されたキリストご自身に結び付けられます。私たちはキリストに結ばれることによって、その死と復活の恵みにあずかるのです。


ここで、旧約と新約は一本につながります。神は初めから、キリストによる救いを指し示しておられたのです。出エジプトと荒野の歩み全体を通して、神はご自身の民のうちにある、神から離れて自分を拠り所とする自己信頼を砕き、ご自身だけを最後の望みとする信仰を育てられました。この「主を仰ぎ見る」という信仰の歩みは、詩篇や預言者たちによってさらに深められ、新しい契約において、御霊によってキリストに結ばれ、キリストを信頼して歩む生活として、いっそう豊かに実現していきます。


御霊によって歩く――このすべてを御霊が実現される

ここで新約の「御霊によって歩く」という言葉の意味が見えてきます。

「御霊によって歩みなさい」ガラテヤ人への手紙5章16節

これは、旧約からまったく別の原則が始まったということではありません。旧約の「主を仰ぎ、主を待ち望む」という信仰の原則が、新約ではキリストとの結合を土台として、御霊によって歩む生活の中に、より明瞭で豊かな形で現されるのです。御霊は試練さえも用いて、私たちの中に残っている自己信頼を砕き、キリストへと向かわせます。だからパウロは、「御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」(ローマ人への手紙8章13節)と言います。


御霊によって歩くとは、人間が自分の力を強くして肉に勝つことではありません。御霊が私たちの自己信頼を砕き、キリストにより頼ませ、キリストによって罪と戦い、キリストに従って歩む者へ造り続けてくださることです。旧約の信仰の証人から新約のキリストの証人を並べてみると、聖書全体に一本の流れが見えてきます。

アブラハム――約束ではなく、約束の神へ。

紅海――自分の道ではなく、主の救いへ。

マナ――自分の蓄えではなく、日々与えてくださる神へ。

青銅の蛇――自分の力ではなく、神の備えへ。

ギデオン――人間の力ではなく、神の力へ。

ハンナ――自分の願いではなく、主へ。

ダビデ――王座ではなく、主を避け所として。

ヨシャパテ――自分の方法ではなく、主へ目を向けて。

ヨブ――与えられたものではなく、神ご自身へ。

捕囚の民――自分の力ではなく、主を待ち望んで。

ダニエルの友人たち――救出そのものではなく、神ご自身へ。

ペテロ――自分の強さではなく、キリストの恵みへ。

パウロ――自分自身ではなく、死人をよみがえらせる神へ。

肉のとげ――自分の強さではなく、十分なキリストの恵みへ。

ヘブル人への手紙――苦しみの中で、イエスから目を離さずに。


これらの証人の歩みは、「以前より聖書知識を得ること、神学を理解すること、立派な人間になること」ではありませんでした。まして、「特別な霊的体験をしたり、感情が高揚したりすること」でもありません。神はご自身の民を、自分の知恵、自分の力、自分の経験、自分の信仰の強さに頼る者のままにはされません。試練を通してそれらを砕き、最後には、「私には何もありません。しかしキリストがおられる。キリストは私の宝、私のすべてです。」と生きざるを得ない者へ造り変えてくださいます。


パウロはガラテヤ人への手紙の最後で、「大事なのは新しい創造です」と語り、その基準に従って進む者たちを「神のイスラエル」と呼びます。神の民とは、自分の力で自分を造り変えた民ではありません。神ご自身によって新しく創造され、その新しいいのちの中に神が生み出してくださった信仰によって生きる者とされた民なのです。神はその民を、試練を含むすべての御業を通して、御子の似姿へと変え続けてくださるのです。

旧約で神が「主を仰げ」「主を待ち望め」と教えてこられたこの歩みは、新約に入って消えてしまうのではありません。むしろキリストが来られ、御霊が与えられることによって、その意味はいっそう明らかになります。そして新約では、キリストに結ばれた者が「御霊によって歩く」こととして、さらに豊かに実現していきます。


自己信頼からキリストへの信頼へ。自分の力から御霊による歩みへ。これこそ、神がご自身の民のうちに成し遂げてくださる聖化であり、聖書全体を貫いている一つの神の御業なのです。そして、この神の御業はそこで終わりません。創世記から始まったこの救いの歴史は、やがて黙示録において完成します。

次回は、「御霊によって歩く」とは何を意味するのか、そしてキリストとの結合から与えられる新しいいのちの中で、神が御霊と神のことばを用い、試練を含むすべての摂理を通して、どのように私たちをキリストに似た者へ造り変えてくださるのか、そしてそれがどのように完成するのかを、黙示録まで見ていきます。

 

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