第3回 御霊によって歩み、キリストを仰ぐ
- 8月22日
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2026.8.17 豊川の家の教会礼拝メッセージ
第3回 御霊によって歩み、キリストを仰ぐ
前回、私たちは、救いは初めから終わりまで神の御業であり、そのすべての恵みがキリストとの結合において与えられることを見ました。救いの起点は、私たちがキリストを信じた時ではありません。永遠の昔、父なる神がご自身の民をキリストにあって選び、御子に与えられたところにあります。
旧約の契約共同体イスラエルの中に、神が恵みによって選ばれた真の神の民がいたことを学びました。イスラエル全体が紅海を渡り、マナを食べ、シナイで契約の言葉を受けました。しかし、そのすべてが主を信じ、主を仰いだのではありません。紅海を渡ってもつぶやき、マナを与えられても神を試し、シナイで契約を与えられても金の子牛を造りました。
「イスラエルから出た者がみな、イスラエルなのではありません。」(ローマ書9章6節)
神が恵みによって選ばれた者たちは、神の約束を信じて主に従いました。人間の意志や力ではなく、神の選びが、契約共同体の中に真の神の民を保ったのです。そして神は、新しい契約において、ご自身の選ばれた民のうちに御霊を置き、神に従って歩ませることを約束されました。
「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしの掟に従って歩むようにする。」(エゼキエル書36章27節)
神は単に「歩きなさい」と命じられたのではありません。ご自身の民のうちに御霊を置き、神に従って歩ませると約束されたのです。
そして時が満ちると、御子は人となり、十字架と復活によってご自身の民の救いを成し遂げてくださいました。復活し、天に昇られたキリストは、ペンテコステにおいて御霊を注がれました。こうして、新しい契約に約束されていた御霊の内住が実現したのです。
では、キリストが成し遂げられた救いは、どのようにして罪の中に死んでいた私たちのものとなるのでしょうか。
聖霊が、定められた時に私たちを新しく生まれさせ、信仰を与え、キリストに結び合わせてくださいます。イエスは言われました。
「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3章3節)
ヨハネ3章のニコデモは、パリサイ人であり、ユダヤ人の指導者でした。律法を知り、宗教的にも社会的にも高い立場にありました。しかしイエスは、そのような宗教的知識や立場によって神の国を見ることはできないと示されました。人は御霊によって新しく生まれなければならないのです。それは風が吹くように、人間が支配したり生み出したりできるものではありません。新しく生まれることは神の主権的な御業です。そして神は、この御霊によって、ユダヤ人と異邦人の中から選ばれた人々をキリストに結び合わせ、一つの神の民とされました。異邦人もキリストの血によって近い者とされ、ユダヤ人とともに、一つの御霊によって父なる神のもとに近づく者とされたのです。では、このようにキリストに結ばれ、神の国に入れられた神の民は、どのようにして最後までキリストを仰ぎながら歩むのでしょうか。
神は、ご自身の御霊によって歩ませてくださいます。御霊は神の民をキリストのいのちに生かし、試練をも用いて御子のかたちへ造り変え、最後まで守ってくださいます。そしてその歩みを、聖書の最後に示される完成へと導かれます。
永遠の昔にキリストにあって選ばれ、時の中でキリストによって贖われ、定められた時に御霊によって新しく生まれた神の民は、御霊によって歩み、最後には神の御顔を仰ぎ見る者として完成されるのです。
御霊の働き
主イエスは弟子たちに、聖霊が来られる目的をはっきりと教えられました。
「その方はわたしの栄光を現します。」(ヨハネ16章14節)
御霊は、ご自身を目立たせるために来られたのではありません。御霊はキリストを現されます。キリストの十字架と復活の意味を明らかにし、そのみことばを弟子たちに思い起こさせ、キリストにある救いを神の民に適用してくださいます。
つまり御霊の働きは、私たちを御霊ご自身へと向けることではなく、キリストの栄光を現し、私たちをキリストへと向け続けることです。
では、御霊はどのようにして私たちをキリストにあるいのちに生かしてくださるのでしょうか。そのことをローマ人への手紙8章から見ていきます。
パウロはローマ8章で、「肉」と「御霊」を対比しています。ここでいう「肉」とは、単に身体そのものを意味しているのではありません。罪の支配のもとにあり、神に敵対し、神に従うことのできない堕落した罪の性質を指しています。
肉に従う人間は、神ではなく自分を中心として生きます。自分の力、自分の知恵、自分の義により頼みます。それは創世記3章において、神のことばから離れ、自分の判断によって善悪を定めようとした人間の姿へとつながっています。
しかし御霊は、そのような私たちの心を造り変え、自分ではなく、キリストにより頼む者としてくださいます。それは人から出たものではありません。御霊によって、キリストにあるいのちが私たちのうちに現されるのです。
さらにパウロは、この歩みの土台を示しています。
「もしキリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」(ローマ8章9節)
御霊を持っているということは、キリストに属しているということです。そして続けて、
「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら……」(ローマ8章10節)と語ります。
キリストとの結合は、心の奥底にだけあるものではありません。また、人間の中に「霊」という独立した部分があって、そこだけに御霊がおられるということでもありません。聖書は人間をそのように切り分けて救いを語ってはいません。
御霊によってキリストに結ばれた者は、その存在全体がキリストのものとされています。身体もまた私たち自身であり、聖霊の宮です。キリストとの結合は、御霊によって私たちの存在全体に及ぶのです。
御霊によって歩くとは、キリストに結ばれた者として生きることです。
神はすべてのことを用いて、信仰者の心を造り変えてくださいます。それまで自分を支えていたもの、自分が築いてきたもの、自分のプライド、富、知識などが次第にその絶対的な価値を失い、キリストだけが真の宝であることを知らされていくのです。
神は試練をも用いて、私たちの自己中心、自己依存を砕かれます。そしてその中で御霊は、御言葉を通してキリストの卓越性を私たちの心に明らかにしてくださいます。
信仰者は、キリストにある神の知恵と知識の富のすばらしさに圧倒され、その美しさと卓越性に心を捕らえられ、ますますキリストへと引き寄せられていくのです。
自分を頼みとして生きていた者が、キリストを頼みとし、キリストを宝として生きる者へと造り変えられていく。これが御霊によって歩くということです。
使徒たちは、自分たちを「キリストのしもべ」と呼びました。「しもべ」と訳されるギリシャ語「デューロス」は、本来「奴隷」、すなわち主人に所有され、主人に属する者を意味します。
ジョン・マッカーサーは著書『キリストの奴隷』において、この「デューロス」という言葉がキリスト者の姿を理解するうえで重要であることを強調しています。
キリスト者とは、罪の奴隷から解放され、キリストの血によって買い取られ、キリストに属する者です。しかし、ここには福音の驚くべき逆説があります。キリストに属することこそ、真の自由なのです。
罪の支配から解放され、御霊によってキリストの卓越性を知らされ、その美しさに心を捕らえられた者は、いやいやキリストに従うのではありません。自らを贖ってくださった主に喜んで属し、主に従い、主に仕える者へと造り変えられていくのです。
ですから、キリストの「デューロス」として生きることと、「御霊によって歩く」ことは切り離されたものではありません。御霊は私たちを、自分を主人として生きる者から、キリストを主として生きる者へと造り変えてくださいます。
それは外側から強制される服従ではありません。キリストの価値を知らされ、キリストに心を捕らえられた者の、喜びから生まれる服従です。
こうして創世記3章とローマ8章が一本の線で結ばれます。堕落によって神から離れ、自分を中心とし、自分により頼んで生きる者となった人間を、神は御霊によってキリストに結び、キリストにあるいのちと交わりに生かしてくださいます。
自分を主人として生きていた者が、キリストを主として生きる者へ。自分を頼みとしていた者が、キリストを頼みとする者へ。自分の栄光を求めていた者が、キリストの栄光に心を捕らえられる者へ。そして罪の奴隷であった者が、罪から解放され、喜んでキリストに属する者へと造り変えられていくのです。
これが、御霊によって歩くということです。
そして、この御霊の働きをさらに明確に語っているのが、第二コリント3章です。
覆いを取り除かれ、主の栄光を映しつつ、主と同じかたちへ変えられる
第二コリント3章16〜18節にはこうあります。
「人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
ここには、御霊が神の民になされる働きが明確に示されています。
第一に、主に立ち返るとき、覆いが取り除かれます。罪によって心が覆われていた人間は、自分の力によってキリストの栄光を見ることはできません。しかし御霊は、死んでいた者を新しく生まれさせ、キリストへと立ち返らせ、覆いを取り除いてくださいます。
第二に、覆いを取り除かれた神の民は、主の栄光を鏡のように映す者とされます。御霊は私たちの心を照らし、御言葉を通してキリストの栄光を明らかにしてくださいます。かつては見えなかったキリストの価値、その美しさ、その卓越性を知らされるようになるのです。
第三に、その神の民は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。
そしてパウロは、この変化について、
「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
と語ります。 ここでも、救いの主語は神です。
私たちが自分で覆いを取り除くのではありません。御霊が私たちを新しく生まれさせ、主に立ち返らせてくださいます。私たちが自分の知恵によってキリストの栄光を見いだすのではありません。御霊が私たちの心を照らし、御言葉を通してキリストの栄光を明らかにしてくださいます。そして私たちが自分自身を造り変え、キリストに似た者になるのでもありません。御霊なる主が、私たちを栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えてくださるのです。
新しく生まれさせ、覆いを取り除き、キリストの栄光を明らかにし、その栄光を映す者とし、さらにキリストと同じかたちへと造り変えてくださる。これが御霊の働きです。
ですから、「主を仰ぎ見る」とは、人間が自分の力だけで必死に視線を主へ向け続けることではありません。「御霊によって歩く」とは、自分の力で霊的な状態を作り出したり、維持したりすることでもありません。
御霊が覆いを取り除き、御言葉によってキリストの栄光を明らかにし、その御霊に生かされた神の民が、キリストを信頼し、キリストに従って歩むのです。
ヨハネ15章──ぶどうの木と枝
主イエスは、この真理をぶどうの木と枝のたとえによって教えられました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人のうちにとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません。」(ヨハネ15章5節)
枝は実を結びます。しかし、その実を生み出すいのちの源は枝自身にはありません。ぶどうの木にあります。
同じように、信仰者も実際に信じ、従い、愛し、忍耐し、実を結びます。しかし、そのいのちの源は信仰者自身にはありません。ぶどうの木であるキリストです。
ですから、「御霊によって歩く」とは、自分自身の霊性を高めることではありません。キリストからいのちを受けて歩むことです。枝が木からいのちを受けて実を結ぶように、信者もキリストとの結合に生かされることによって実を結びます。
ここでも、救いの主語は最後まで神です。
父なる神がご自身の民を養い、御子がいのちの源となり、御霊がそのいのちを私たちのうちに働かせてくださいます。そして、その神の恵みに生かされた神の民が、実際に信じ、従い、実を結んでいくのです。
三位一体の神が、ご自身の民を完成へと導いておられます。
そして、この神の働きは平穏な時だけになされるものではありません。神はすべてのことを用いて、ご自身の民を御子のかたちへと造り変えてくださいます。そのために神が用いられる大切な手段の一つが、試練です。
試練──神は御霊によって、キリストとの結合に生かし続けられる
試練は、神の摂理の外で偶然に起こるものではありません。神の子どもにとって試練は、父なる神がご自身の民を聖化し、完成へ導くためにも用いられます。
神は試練を通して、私たちが自分の力や知恵により頼むことのむなしさを明らかにし、キリストだけが変わることのない望みであることを教え、キリストにますますより頼む者へと造り変えてくださいます。
パウロはローマ5章で、「苦難さえも喜んでいます」と語ります。それは苦しみそのものが喜ばしいからではありません。神がその苦しみさえも、ご自身の救いの御業の中で用いてくださることを知っているからです。
苦難は忍耐を生み、忍耐は練られた品性を生み、練られた品性は希望を生み出します。そしてその希望は、漠然とした楽観ではありません。神の栄光にあずかるという確かな希望です。
ヘブル人への手紙では、神の子どもが受ける苦難が父の「訓練」という視点から語られています。「主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられる。」
これは、キリストにある者に対する罪の刑罰としての裁きではありません。父が子をご自身の聖さにあずからせるために行われる訓練です。
訓練はその時には喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われます。しかし後になると、これによって鍛えられた人々に義という平安の実を結ばせます。
この真理を具体的に示しているのが、第二コリント12章のパウロです。
パウロは「肉体のとげ」を取り去ってくださるよう三度主に願いました。しかし主はそれを取り去らず、
「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れる。」
と言われました。
パウロ自身、このとげが与えられた目的について、高慢にならないためであったと語っています。神はパウロに、自分の力ではなくキリストの恵みにより頼ることを教えられました。
だからパウロは、「私は弱いときにこそ強いのです」と告白します。彼が誇ったのは弱さそのものではありません。弱さの中に働くキリストの力でした。
そしてパウロはピリピ3章で、それまで自分の誇りとしていたものを、キリストのゆえに損と思うようになったと語ります。
「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」のゆえに、それらを「ちりあくた」と考えました。
これは単に自分の過去を否定したということではありません。キリストの卓越した価値を知らされたために、それまで自分を支えていたものの価値が変わったのです。
神は試練を通して自分への信頼を砕き、御霊によって御言葉を用い、キリストの恵みと卓越性を明らかにし、私たちをキリストにますますより頼む者へと造り変えてくださいます。
自分自身を誇る者から、キリストを何よりも尊いとする者へ。
これが、神が試練をも用いて進めてくださる聖化の御業です。
そして、この神の御業は地上の歩みで終わるものではありません。父なる神は、ご自身が始められた救いの御業を最後まで成し遂げ、ご自身の民をついには栄光のうちに完成してくださいます。
小羊を仰ぎ見る民として完成する
聖書の最後、黙示録には、贖われた民の完成した姿が描かれています。
「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。」(黙示録22章3〜4節)
ここに、神の救いの御業の完成があります。創世記では、人は神から目をそらしました。しかし黙示録では、贖われた神の民が御顔を仰ぎ見る者として完成しています。
黙示録の中心的メッセージを極端に短く言えば、
「獣を見よ」ではありません。「小羊を見よ」です。
「これから何が起きるのかを解読せよ」でもありません。「神の救いの御業を仰ぎ見よ」です。
すでに勝利された小羊が、今も歴史を支配し、ご自身に結ばれた民をあらゆる苦難の中で守り、最後には御顔を仰ぎ見る民として必ず完成される。そのことを見よ、というのです。
この意味で、黙示録は聖書66巻の最後に置かれた単なる「終末論の本」ではありません。創世記から始まった神の救いの御業を、十字架で勝利された小羊を中心として完成まで見せる、聖書全体の壮大な終結部なのです。
旧約で語られた「主を仰ぎ見る」歩みは、新約において、御霊によってキリストに結ばれ、キリストを仰ぎながら歩むというかたちで、より豊かに明らかにされます。
父なる神は時の始まる前にご自身の民をキリストにあって選び、御子は贖いを成し遂げ、御霊は時の中でその救いを適用してご自身の民をキリストに結び、御子のかたちへ造り変え、最後にはすべての神の民を御顔を仰ぎ見る者として完成へ導いてくださいます。
黙示録7章9〜10節にはこうあります。
「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。
『救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。』」
救いは、御座に着いておられる神と子羊にあります。
御座は天にあり、主権は神にあります。
救いは人間を起点として始まるものではありません。人間が成し遂げることのできるものでもありません。
この賛美は、救いが御座に着いておられる神と子羊にのみ属することを宣言しています。
私たちは第一回の旧約における「主を仰ぎ見る」から始まり、第二回の「キリストに結ばれて、キリストを仰ぐ」、そして今日、第三回として「御霊によって歩み、キリストを仰ぐ」を通して、創世記から黙示録までを貫く聖書全体の救いの原則を学んできました。
救いは初めから終わりまで神の御業です。そして、救いのすべての恵みは、キリストとの結合において神から与えられます。
・父なる神が永遠の御心においてご自身の民を御子にあって選び
・御子が十字架と復活によってその民の贖いを成し遂げ
・聖霊がその完成された救いを神の民に適用してキリストに結びつけ
・御子のかたちへと造り変え、最後まで守り、栄光へと導いてくださいます。
そして最後には、贖われたすべての神の民が、御座の前と子羊の前に立ち、
「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」
と神と子羊を直接に仰ぎ賛美するのです。
救いは、父・御子・聖霊なる三位一体の神によって始められ、成し遂げられ、完成される神の御業なのです。
