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第2回 キリストに結ばれて、キリストを仰ぐ

  • 8月15日
  • 読了時間: 21分

2026.8.13 特別礼拝 第2回

第2回 キリストに結ばれて、キリストを仰ぐ

― その救いの起点は永遠の神、中心はキリスト、その恵みはキリストとの結合において与えられる ―

 

「キリスト教の言葉を聞いていること」と「福音を聞いていること」を同じにしてはいけません。聖書を見ると、宗教的な言葉を聞いていること、教会に属していること、イエスについて聞いていることと、聖書が告げる福音そのものを聞いていることは、必ずしも同じではありません。

パウロがガラテヤ1:6–9で「ほかの福音」に非常に厳しい警告を与えたのもそのためです。「福音」という名前を掲げながら、その内容が変質することがあり得ます。さらにⅡテモテ4:3では、人々が「健全な教えに耐えられなくなり」「自分の好みにしたがって」教師を集めることが語られています。つまり聖書自身が、人間が必ずしも神を中心とする福音を望むわけではないことを示しています。

キリスト教は広い。しかし福音は一つです。そして、その福音の主語は人間ではありません。神です。

 

そもそも聖書が明らかにする福音とは何か

 

では、そもそも福音とは何でしょうか。福音とは、「罪人が神のために何をするか」ではありません。「神がキリストにおいて罪人の救いのために何を成し遂げられたのか」という知らせです。それは単に「信じれば、死んだ後に天国へ行ける」という知らせではありません。また、「神を信じれば人生がうまくいく」「祈れば問題が解決する」「信じれば守られる」というような、現世的な利益を約束する知らせでもありません。

よく、日本と外国を「キリスト教人口が多いか少ないか」で比較して、福音が広がっているかどうかを判断して嘆き、「神の御国の拡大のために福音を伝えましょう」と語るメッセージがあります。しかし、聖書が問題にしているのは、ある国に「キリスト教徒」と呼ばれる人が何人いるかということではありません。人口比率によって分かるのは、あくまでその国におけるキリスト教という宗教の広がりです。それによって、神によって救われた民がどれだけいるのかを知ることはできません。そのような数字だけをもって、神の救いの御業の大きさを判断することはできません。

聖書が救いについて語るとき、重要なのは、「キリスト教徒」と呼ばれる人が何人いるかということではありません。重要なのは、神が永遠からキリストにあって選ばれたご自身の民です。

パウロはローマ11章で、預言者エリヤの時代を取り上げています。エリヤの目には、イスラエル全体がバアルに傾き、自分一人だけが主に忠実な者として残されているように見えました。しかし、神は何と言われたでしょうか。

 

「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」(ローマ11:4)

 

重要なのは、「七千人が自分たちの力で残った」ということではありません。神が「わたし自身のために……残している」と言われていることです。そしてパウロは続けて、「今も、恵みの選びによって残された者たちがいます」と語ります(11:5)。

つまり、神の救いの御業は、人間の目に見える宗教人口や社会的な勢力によって測られるものではありません。神はご自身の恵みの選びにしたがって、ご自身の民を残し、召しておられるのです。福音の起点には、永遠からキリストにあってご自身の民を選ばれた神の恵みがあります。

しかし、これは「選ばれた者なら放っておいても救われる」ということではありません。パウロ自身、11章14節で「何人かでも救いたい」と願っています。神の選びは福音宣教を不要にするのではありません。神は福音の宣教を通して、ご自身の民を召されるからです。

そして11章32節では、ユダヤ人も異邦人も、自分の立場や功績によって救われるのではなく、不従順のもとにある者として、ただ神のあわれみによって救われるという大きな構図が示されます。だからこそパウロは、最後に人間の働きや成果を誇るのではなく、神をほめたたえるのです。「神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。」(ローマ11:33)

 

聖書がまず明らかにする福音は、とても深刻な現実です。

すべての人は罪によって聖なる神に背き、神の怒りのもとにあり、そのままでは神の正しい裁きを受け、永遠の滅びに至る存在です。しかも、すべての人は罪のゆえにその魂は死んでおり、自分から神を求める能力がありません。

しかし神は、世界の基が据えられる前から、キリストにあってご自身の民を選ばれました。そして時が満ちて御子を遣わし、キリストはその民の罪を負って十字架で死なれ、よみがえられました。聖霊は、定められた時に、罪の中に死んでいたその民を生かしてキリストに結びつけ、その罪を赦し、神の前で正しい者と宣言してくださいます。

 

こうしてキリストに結ばれた者には、その結合のゆえにキリストのいのちが与えられ、キリストとの結合を源泉として、神がキリストにあってご計画された救いのすべての恵みが与えられるのです。福音とは、罪人が自分で決心して神の救いを得る知らせではありません。世界の基が据えられる前の選びから、キリストによる贖い、御霊による適用、そしてキリストとの結合において与えられる救いのすべての恵みに至るまで、初めから終わりまで神が成し遂げてくださる救いの知らせです。

 

これが福音の骨子なのです。

 

そして、なぜここまで福音の起点を確認する必要があるのでしょうか。

それは、これから見る「キリストを仰ぐ」という歩みそのものが、人間の内側から自然に生まれてくるものではないからです。神が永遠から救いを定め、キリストが贖いを成し遂げ、御霊がその救いを適用して私たちをキリストに結びつけてくださる。そのキリストとの結合から、キリストを仰ぎ、キリストに生きる歩みが生まれてくるのです。

 

この福音と違えば、同じ「イエス」「十字架」「聖霊」「恵み」という言葉を使っていても、福音の理解そのものが違ってきます。一方では、

「私に問題がある。私が求める。私が信じる。私が祈る。すると神が動いてくださる。」

という人間を起点とする理解になります。

しかし福音は、

「神が永遠から定め、キリストが成し遂げ、御霊が適用し、神が最後まで完成してくださる。」

 

という神を起点とする救いの知らせです。

したがって、問題は単に「どの教えを強調するか」という違いではありません。そもそも何を福音と理解しているのかが違うのです。

そして、福音を正しく聞けば、人間が自動的にそれを受け入れるということでもありません。Ⅰコリント1:18では、十字架のことばは滅びる者には愚かであり、救われる者には神の力であると語られています。神だけがご自身の民をご存じであり、その民をキリストにあって召し、救い、最後まで完成してくださるのです。

 

「悔い改めなさい」「信じなさい」という命令

 

聖書は罪人に、「悔い改めなさい」「信じなさい」「キリストのもとに来なさい」と命じます。

しかし、聖書はその命令への応答を救いの起点とはしません。人は実際に悔い改め、信じ、キリストのもとに来ます。しかし、それによって救いが始まるのではありません。神が御霊によって、罪の中に死んでいた者を生かし、キリストへと引き寄せてくださるからこそ、人は悔い改め、信じ、キリストのもとに来るのです。

したがって、信仰や悔い改めは不要なのではありません。それらを、人間が神を動かして救いを獲得する方法へとすり替えてはならないのです。

 

では、なぜ聖書は罪人に、「悔い改めなさい」「信じなさい」と命じるのでしょうか。

神の主権と福音の命令は矛盾しないからです。

聖書が罪人に「悔い改めなさい」「信じなさい」「キリストのもとに来なさい」と命じるのは、悔い改めと信仰が救いを生み出す原因だからではありません。神が福音の宣教とその命令を、ご自身の民をキリストへ召すための手段として用いられるからです。

 

ここで、イエスが死んでいたラザロに、

 

「ラザロよ、出て来なさい」(ヨハネ11:43)

 

と命じられた出来事を、一つの類比として考えることができます。

もちろん、ヨハネ11章が直接、有効召命の教理を説明しているという意味ではありません。この箇所で直接語られているのは、キリストが死んだラザロをよみがえらせた出来事です。しかし、死者に対するキリストの主権的なことばという点において、福音の召しを考えるための一つの類比を見ることができます。

ラザロは、自分の中に命令へ応じる力を持っていたから生き返ったのではありません。キリストのことばが死者に命を与え、ラザロは実際に墓から出て来ました。

福音の召しも、罪人の中に自力で神へ向かう能力があることを前提としているのではありません。神は罪人に信じるよう命じられます。そして御霊が福音のことばを用いて、罪の中に死んでいる者を生かし、キリストへと引き寄せられます。その結果、その人は本当に悔い改め、本当に信じ、本当にキリストのもとに来るのです。

 

ですから、こう整理することができます。

 

【誤】命令 → 人間には自力で応じる能力がある

【正】命令 → 神がご自身の民を召し、救いを実現される手段として用いられる

 

【誤】信仰 → 人間が救いを始める原因となる

【正】信仰 → 神によって生かされた者のうちに実際に生じる

 

そして、もう一つ重要なのは、罪人には神に立ち返り、キリストを信じる責任があるということです。罪の中で死んでいるとは、「信じる責任がない」という意味ではありません。罪人の霊的無能力は、神の命令を無効にするものではありません。

それだけではありません。罪人は、神と救いとの間にある中立的な場所に立って、「信じるか、信じないか」を選んでいるのでもありません。罪人はすでに罪の中にあり、神のさばきの下にあります。イエスは、「信じない者はすでにさばかれている」(ヨハネ3:18)と言われました。

ですから、「悔い改めなさい」「信じなさい」という福音の命令は、中立的な人間に救いを選択させるための呼びかけではありません。神が、罪の中に死に、すでにさばきの下にある罪人に向かって、キリストへ来るよう命じておられるのです。

そして神は、ただ命じられるだけではありません。御霊によって罪の中に死んでいた者を生かし、キリストへと引き寄せ、悔い改めと信仰を与え、実際にキリストのもとへ来る者としてくださいます。

したがって、聖書は罪人に「信じなさい」と命じながら、その救いの起点を人間の決断には置きません。罪の中に死んでいた者を生かし、キリストへと引き寄せ、信じる者としてくださる神ご自身に、救いの起点を徹底して置いているのです。

 

人間を起点とする宗教と、神を起点とする福音

 

ここまで見てきたことを踏まえるなら、問題は明らかです。

人間の要求を起点として神を語り、

 

「あなたが求めれば神が動く」

「あなたが信じれば神が守る」

「あなたが祈れば神が勝利を与える」

 

という方程式へ福音を変えてはなりません。

 

「あなた+求める・信じる・祈る=神が動かれる」

 

これが福音の根本構造なのではありません。

たとえ「神の主権」「選び」「恵み」といったカルバン主義的・改革派的な用語が語られていても、それだけで福音が語られていることにはなりません。

 

「主イエス」

「十字架」

「聖霊」

「恵み」

「神があなたを守る」

「神があなたを癒やす」

「神が御使いを遣わす」

「霊的戦いに勝利する」

「祈れば神の御業を見る」

「神があなたの問題を解決する」

 

このようなキリスト教の言葉が教会で使われているからといって、それだけで福音が語られているわけではありません。もちろん、聖書は、神がご自身の民を守られること、祈りを聞かれること、苦しみの中で助けられること、時には病を癒やされることも語っています。

問題は、それらをどこから語り始めるかです。

「私に問題が起きた。私が神に助けを求めた。すると神が動いて私を助けてくださった。」

これが福音の根本構造ではありません。神がご自身の民を守られることの起点は、私たちが神に助けを求めた瞬間より、はるか以前にあります。

 

起点は時の始まる前

 

神がご自身の民を守られることの起点は、時の始まる前からです。

私たちが祈る前から、神はご自身の民をご存じです。私たちが危険に気づく前から、神はご自身の民を御手の中に置いておられます。私たちが神を求める以前から、神はご自身の民をキリストにあって選び、その救いを定めておられました。

だから祈りも、「私が神を動かすための手段」ではありません。祈りそのものが、キリストに結ばれた神の民に与えられた恵みです。神はご自身の民に祈らせ、その祈りをも用いて、永遠から定められた御心を成し遂げてくださいます。

その救いの中で、神は祈りを聞かれ、必要を満たし、時には危険から救い出し、病を癒やされることもあります。しかし、それらが福音を生み出すのではありません。福音によって救われ、キリストに結ばれた神の民が、父なる神の主権的な摂理と守りの中に置かれているのです。

 

福音の中心を人間の必要へすり替えてはならない

 

御使い、奇跡、癒やし、霊的戦い、守り、祈りによる勝利、特別な体験が中心となり、「キリストの十字架」さえも、「これほど神はあなたを愛しているのだから、あなたを守ってくださる」「神があなたに勝利を与えてくださる」「神があなたの問題を解決してくださる」という人間中心のメッセージを保証するための材料として用いられるなら、福音の中心がすり替えられています。

そこで中心として置かれているのは、「守られたい私」「癒やされたい私」「勝利したい私」「問題を解決してほしい私」「特別な神の御業を体験したい私」です。

神について語りながら、実際には人間の必要と体験を中心に置き、その必要を満たす方として神を配置しているのです。

しかし、聖書全体を貫く福音の中心はそこではありません。福音の主語は神ご自身です。そして救いの中心におられるのはキリストです。そのすべては、神が永遠からキリストにあって定められた救いのご計画に基づいています。

 

聖書全体を貫く二つの流れ

 

ここで、聖書全体を貫く重要な構造を見なければなりません。聖書には、単に「神を信じる個人」と「信じない個人」が並んでいるだけではありません。創世記から黙示録まで、神に属する者と、この世に属する者という二つの流れがあります。

創世記3:15では、女の子孫と蛇の子孫という二つの流れが示されます。カインとアベル、ノアの時代、アブラハムの召命、イスラエルと諸国民という歴史を通して、その区別は救済史の中に現れていきます。

しかし、旧約のイスラエル民族に属している者が、そのまますべて霊的な意味で神の民だったわけではありません。パウロは、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルなのではありません」(ローマ9:6)と語っています。

見える契約共同体としてのイスラエルの中にも、約束にあずかる者と、そうでない者がいました。ですから、イスラエル民族そのものを、そのまま最終的な神の民と考えることはできません。イスラエルの歴史そのものが、やがてキリストにおいて完成される救いを指し示していたのです。

 

契約共同体イスラエルに、神は救いの型を示された

 

神はアブラハムを召し、その子孫からイスラエルという契約共同体を造られました。そしてイスラエルの歴史の中に、後にキリストにおいて完成される救いの型を具体的に示されました。

エジプトでは、神の民が自分の力で奴隷状態から脱出したのではありません。神が救い出されました。過越の血によって贖い、紅海を通して導き出されました。

荒野では、自分たちで命を維持することのできない民に、神が天からマナを与え、水を与え、雲の柱と火の柱によって導かれました。民が罪を犯し、燃える蛇にかまれた時にも、自分自身を救う方法が与えられたのではありません。神が備えられた青銅の蛇を仰ぎ見ることによって生きるよう命じられました。

 

幕屋、祭司、いけにえ、過越、贖罪の日、約束の地、王国、捕囚と回復。これらも、それ自体が救いの完成ではありませんでした。

イスラエルの歴史全体を通して示されたのは、人間が自分自身を救うのではなく、神がご自身の民を選び、贖い、養い、導き、守り、完成へ導かれるという救いの型でした。

しかし、イスラエルは繰り返し失敗しました。紅海を渡ってもつぶやきました。マナを与えられても神を試しました。シナイで契約を与えられても金の子牛を造りました。約束の地に入っても偶像を求めました。王を与えられても背き、最後には捕囚へ至りました。

これは単に、「昔のイスラエル人は信仰が弱かった」という教訓ではありません。人間は、外側から律法を与えられるだけでは、自分自身の力によって神に従うことができない。そのことがイスラエルの歴史の中で明らかにされたのです。

だから神は、新しい契約を約束されました。石の板に律法を書くのではなく、心に律法を書き、石の心を取り除き、新しい心を与え、ご自身の霊をその内に置いて歩ませると約束されたのです(エレミヤ31:31–34、エゼキエル36:26–27)。

 

「主を仰ぎ見る」から、新しい契約の「御霊によって歩く」へ

 

この救済史の中で、旧約の神の民に繰り返し示されたのが、「主を仰ぐ」「主を待ち望む」「主に目を注ぐ」という信仰でした。

紅海では、「主の救いを見なさい」と言われました。青銅の蛇では、神が備えられたものを仰ぎ見た者が生きました。詩篇では、神の民は主を避け所とし、主を待ち望みました。ヨシャパテは、「私たちは何をすべきか分かりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」と祈りました。

しかし、旧約の民は自分自身の力によって主を仰ぎ続けることができませんでした。そこで新しい契約において、神ご自身が御霊をご自身の民のうちに住まわせ、神に従って歩む者へと造り変えてくださいます。

 

ですから、新約の「御霊によって歩く」は、旧約の「主を仰ぎ見る」と無関係な別の教えではありません。しかし、単純に同一でもありません。「御霊によって歩く」とは、「主を仰ぎ見る」という信仰を含みながら、新しい契約においてさらに豊かに実現された神の民の生活全体です。

御霊は、キリストに結ばれた者のうちに住み、キリストの栄光を示し、肉の働きを殺し、御霊の実を結ばせ、祈らせ、御言葉に従わせ、試練の中でもキリストを最後の望みとして歩ませてくださいます。

旧約で繰り返し示されていた「主を仰ぎ見る」歩みが、新しい契約では、キリストとの結合と御霊の内住によって、神の民の生活全体の中に豊かに実現されるのです。

 

キリストにおいて、型は実体となる

 

旧約の契約共同体イスラエルに型として示されていた救いは、キリストにおいて実体となりました。過越の小羊そのものが救いの完成ではありません。キリストが真の過越の小羊です。

荒野のマナそのものが永遠のいのちを与えるのではありません。キリストがいのちのパンです。

青銅の蛇そのものが最終的な救いではありません。十字架に上げられるキリストを指し示していました。岩から出た水そのものが救いの完成ではありません。パウロは、「その岩とはキリストです」と語ります。幕屋も、祭司も、いけにえも、それ自体が救いの完成ではありません。すべてがキリストを指し示していました。

そしてキリストは、イスラエルが果たすことのできなかった従順を完全に成し遂げられました。父なる神に完全に従い、十字架に至るまで従順であられ、罪を負い、死に、そしてよみがえられました。ですから福音とは、旧約の型をもう一度繰り返すことではありません。旧約に型として示されていた救いが、キリストにおいて歴史的・決定的に成し遂げられたという知らせです。

そして御霊は、その完成された救いをご自身の民に適用し、キリストに結びつけられます。ここに、型から実体への移行があります。

 

神の民はキリストとの結合において一つとされる

 

新約における神の民を考える時、民族的な血筋そのものを救いの根拠にすることはできません。ユダヤ人であっても異邦人であっても、救いはキリストにあります。

パウロは、「ユダヤ人もギリシア人もありません」と語り、さらに、「あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(ガラテヤ3:28–29)と語ります。重要なのは、民族そのものを中心に置くことではありません。

中心はキリストです。

神の民であることの究極的な根拠は、民族、血統、教会歴、宗教的経験ではありません。キリストに属していることです。キリストとの結合において、神の民は一つとされます。

そしてここに、福音の中心的な真理があります。

 

神が永遠から定められた救いのすべての恵みは、キリストとの結合においてご自身の民に与えられる。

 

「神は、キリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(エペソ1:3)。

贖いも、義認も、子とされることも、聖化も、最後まで守られることも、そして栄化も、キリストとの結合において与えられます。だから、救いを人間の決心、信仰の強さ、祈り、奇跡、癒やし、霊的体験から始めることはできません。

救いの起点は永遠の神です。救いの中心はキリストです。救いのすべての恵みは、キリストとの結合において与えられます。そしてその救いを御霊が適用し、最後まで完成してくださいます。これが福音の土台です。

 

福音が与える確信

 

ですから、福音の問いは、「あなたは奇跡を経験しましたか」ではありません。「神に守られた経験がありますか」でもありません。「霊的戦いに勝利しましたか」でもありません。

問われなければならないのは、「あなたの救いの根拠はどこにあるのか」ということです。

自分の決心なのか。自分の信仰なのか。自分の祈りなのか。自分の体験なのか。それとも、永遠から救いを定め、キリストにおいて贖いを成し遂げ、御霊によってキリストに結びつけ、最後まで守ってくださる神ご自身なのか。

ここに、福音と人間中心の宗教を分ける決定的な境界があります。

病気が治らなくても、問題が解決しなくても、奇跡を見ることがなくても、御使いを見ることがなくても、苦難が取り去られなくても、キリストに結ばれた者を、神の救いのご計画から引き離すことは誰にもできません。

これこそが、福音が与える確信です。

だから、御使いを最後の望みとして見るのではありません。奇跡を見るのでもありません。癒やしを見るのでもありません。霊的体験を見るのでもありません。自分がどれほど守られたかを見るのでもありません。キリストを最後の望みとして仰ぐのです。

 

教会で語られるメッセージを見極める

 

ですから、教会という場所にいるから安心だと思ってはいけません。教会で語られるメッセージを、御言葉によってよく確かめなければなりません。

「イエス」「十字架」「恵み」「聖霊」「神の主権」という言葉が使われているかどうかだけではありません。そのメッセージは、どこから始まっているのか。人間から始まっているのか、神から始まっているのか。その中心に、人間の必要と体験が置かれているのか、それとも、神がキリストにおいて成し遂げられた救いの御業が置かれているのか。

救いが初めから終わりまで神の御業として語られているのか。キリストが救いの唯一の根拠として語られているのか。救いのすべての恵みが、キリストとの結合において与えられることが語られているのか。

よく聞いてください。見極めも、人間の頭の良さや神学知識だけから生まれるものではありません。御霊は御言葉を通してキリストの栄光を示されます。

イエスは、「御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」(ヨハネ16:14)と言われました。

 

ですから、御霊の働きによって神の民の目が向けられていく中心は、奇跡、癒やし、御使い、霊的戦い、特別な体験ではありません。キリストです。

御霊は、キリストに結ばれた者の目をキリストへ向け、救いが自分自身から生み出されるものではなく、初めから終わりまで神の恵みの御業であることを、ますます知らせてくださいます。

だから、自分が長年何を聞いてきたのかを、教会歴や体験によって判断してはいけません。御言葉によって確かめてください。

人間を起点として、「求めれば、信じれば、祈れば、神が動かれる」という宗教的な構造を聞いてきたのか。それとも、永遠の神が、キリストにおいて救いを成し遂げ、御霊によってご自身の民をキリストに結びつけ、最後まで完成してくださる福音を聞いてきたのか。

これは神学上の細かな違いではありません。

そもそも何を福音と信じているのかという、救いそのものに関わる重大な問題です。

 

信仰の創始者であり完成者であるキリストを仰ぐ

 

ヘブル人への手紙は、苦しみの中を歩む神の民にこう語っています。

 

「忍耐をもって、私たちの前に置かれている競走を走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:1–2)

 

聖書は、「イエスから目を離さないでいなさい」と命じています。しかし、この命令は、自分の信仰の強さによってキリストを見続けなさいという意味ではありません。

ここで仰ぐイエスは、単なる信仰の模範ではありません。「信仰の創始者であり完成者」です。キリストは、私たちの信仰の歩みの先頭に立ち、その歩みを完成へと導かれる方です。

そして、私たちがキリストを信じ、キリストにより頼んで歩むことそのものも、自分自身の内側から生み出されるものではありません。信仰もまた神の恵みとして与えられ、キリストに結ばれた神の民のうちに御霊が働き、御言葉を通してキリストの栄光を示してくださいます。

さらに神は、与えられる試練をも用いて、自分中心の考えや自己信頼を砕いてくださいます。自分の知恵、自分の力、自分の経験、自分の信仰の強さではなく、キリストだけを最後の望みとする者へ造り変えてくださるのです。

ですから、「イエスから目を離さないでいなさい」という命令と、「キリストに結ばれた者を御霊が最後まで守り、完成してくださる」という神の御業は、互いに反対するものではありません。

御霊が絶えず働いてくださるからこそ、神の民は実際にキリストを仰ぎ、忍耐をもって走り続けます。そして神は、試練さえも用いながら、神の民の自己信頼を砕き、キリストだけを最後の望みとする者へ造り変えてくださいます。

こうして神の民は、信仰の創始者であり完成者であるイエスを仰ぐ者として、最後まで守られていきます。

 

福音の起点は永遠の神です。福音の中心的出来事は、神の主権的なご計画の中でキリストが成し遂げられた十字架と復活です。救いの中心はキリストです。そして、その救いのすべての恵みは、キリストとの結合においてご自身の民に与えられます。

そして御霊がその救いをご自身の民に適用し、試練をも用いてキリストを仰ぐ者へ造り変え、最後には栄光の完成へ導いてくださいます。

神は、ご自身の民をキリストから目を離さないように、最後まで守ってくださいます。

 

選びから栄化まで、初めから終わりまで、すべて神の御業です。

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