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福音の構造の中で御霊に満たされる 1

  • 5月16日
  • 読了時間: 10分

2026.5.10 豊川の家の教会礼拝メッセージ

 「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。

大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、

そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」

ガラテヤ人への手紙 6章15~16節

 

パウロはこう宣言する。

 

「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」

 

これが基準である。

割礼でもない。

無割礼でもない。

宗教的しるしでもない。

外側の所属でもない。

人間の努力でもない。

感情の高揚でもない。

霊的体験でもない。

 

基準は、新しい創造である。

 

新しい創造とは、神がキリストにあって、御霊によって死んだ心を新しく造られることである。この新しい創造こそ、神の民のしるしであり、神のイスラエルの基準である。

 

ガラテヤ6章16節は言う。

「この基準に従って進む人々の上に、平安とあわれみがありますように。

神のイスラエルの上にありますように。」

 

つまり、神のイスラエルとは、民族的しるしや宗教的外形によって定義されるのではない。キリストにあって新しく造られた者である。この新しい創造の基準によって進む者である。だから、この基準から外れる教えは福音ではない。

キリスト教の語彙を使っていても、十字架を掲げていても、「イエス・キリストは神です」と言っていても、新しい創造が中心になければ、福音の構造ではない。


では、この新しい創造はどこから来るのか。それは、永遠のキリストとの結合から来る。神は永遠において、キリストのうちにご自分の民を結ばれた。これが救いの源泉である。

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び」

 エペソ1:4

 

救いは、時間の中の人間の決断から始まっていない。永遠において、神がキリストのうちに民を選び、結ばれたことから始まる。その永遠の結合の恵みが、時間の中で現れる。それが再生である。死んだ心を生かすのは人間ではない。

 

御霊なる神である。

「神は、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。」

 エペソ2:5

「風は思いのままに吹きます……御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

ヨハネ3:8

 

再生とは、神が死んだ心を新しく創造されることである。つまり、新しい創造は、人間の宗教努力ではない。

御霊なる神の創造の御業である。この新しく造られた心に、神は信仰を与えられる。その信仰によって、罪人はキリストの義のゆえに義と宣言される。これが信仰義認である。

 

「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」 ローマ3:28

「私たちは、この方にあって、神の義となるためです。」 第二コリント5:21


信仰は人間の功績ではない。信仰は、再生によって神が創造された新しい心の働きである。義認の根拠は信仰そのものではなく、キリストの義である。信仰は、そのキリストを受ける器である。

 

しかし神は、義とされた者をそのまま放置されない。新しく造られた者を、聖化の中で実際に造り変えていかれる。

 「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」第一テサロニケ4:3

 「御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」ローマ8:13

 

「御霊によってからだの行いを殺す」とは、御霊なる神が、信仰者のうちに残る肉の働きを砕き、自力、自信、自己義、偶像に立つ心を死なせ、キリストの恵みにより頼む心を現されることである。

 

信仰者は、自分の力で肉を殺すのではない。 御霊によって、肉を殺される。御霊によって、神に頼らざるを得ない者とされる。御霊によって、キリストだけを望みとする者として歩かされる。これが、御霊に満たされることと矛盾しない。むしろ、御霊に満たされることの中に、肉を殺す働きが含まれている。

 

 ここに「御霊に満たされる」という教理が位置づけられる。

 

御霊に満たされるとは、信仰者が霊的に興奮することではない。感情が高まることでもない。特別な恍惚体験でもない。人間が自分で霊的状態を高めることでもない。御霊に満たされるとは、試練や苦しみを通して、神が信仰者の自力を砕き、神の力に頼る心を現されることである。

 

御霊に満たされるとは、みことばを通して、信仰者をキリストへ結びつけ、神だけを頼る心を現される。

 

御霊に満たされるとは、信仰者の心が、みことばによって神を頼らざるをえない心へと造り整えられ、その現実が日々の生活の中に現れることである。

 

御霊に満たされるとは、その中で御霊なる神は、みことばを通して、信仰者をキリストへ結びつけ、神だけを頼る心を現される。だから、神を頼る心は、ただの気持ちではない。

 

御霊に満たされるとは、試練の中でみことばに支配され、キリストの恵みにより頼まされることである。

 

御霊に満たされるとは、御霊なる神が、信仰者の心を、キリストだけを望みとする心として現されることである。

 

これは一度きりの出来事ではない。毎日の歩みの中で、神の導きと恵みが現れ続ける。これが、御霊によって歩くことである。

 

 それは、新しい創造として造られた者を、御霊なる神が聖化の中で支配されることである。

「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。」

エペソ5:18

 ここで言われているのは、熱狂ではない。 支配である。酒に支配されるのではなく、御霊に支配される。肉に支配されるのではなく、御霊に支配される。自己中心に支配されるのではなく、神に支配される。

 すなわち、肉の行いも殺す働きをされる。

 

その支配は、日々の摂理の中で現れる。キリストを頼らなければならない心は、試練の中で現れる。 

 

苦しみの中で現れる。 弱さの中で現れる。 砕きの中で現れる。神は摂理によって信仰者を砕かれる。神は試練によって肉を焼かれる。神は苦しみによって偶像を暴かれる。

 

神は弱さの中で、キリストに頼る信仰を働かせられる。信仰者の中にある肉の自力、高慢、自己保身、自己憐憫、偶像は、そのまま残されない。御霊なる神が、聖化の中でそれを精錬される。

 

「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり」

 第一ペテロ1:7

 

「あらゆる試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰が試されると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っているからです。」 ヤコブ1:2–3

 

「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し」 ローマ5:3–4

 

 

試練は偶然ではない。神の父としての訓練である。

 「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子にむちを加えられる」 ヘブル12:6

 「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、

後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」 ヘブル12:11

 

ここで、新しい創造が実際に現れる。神を信じざるを得ない心。偶像に頼れない心。キリストにより頼まざるを得ない心。神のことばに服さざるを得ない心。兄弟を愛さざるを得ない心。これは、人間の決意ではない。

御霊による新しい創造の顕現である。

 

だから、御霊に満たされるとは、単なる「御霊の支配」という抽象的な説明では足りない。また、「みことばに従う」という道徳的説明だけでも足りない。それだけでは、人間中心の実践論に落ちる危険がある。

 

必ず、救いの流れの中で語らなければならない。

永遠の結合

再生

信仰義認

聖化

摂理

試練

精錬

新しい創造

愛によって働く信仰

この流れである。

 

パウロはガラテヤ5章6節でこう言う。

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受けるか受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」

これは、愛という行いによって救われるという意味ではない。信仰が、愛を生み出すという意味である。

そしてその信仰は、人間の決意ではない。御霊が新しく創造された心に働かせる信仰である。だから、「愛によって働く信仰」とは、新しい創造が時の中に現れた姿である。キリストとの結合を源泉とし、御霊によって働かされる信仰が、愛として実を結ぶのである。

 

またパウロは言う。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

ガラテヤ5:22–23

 

実は、人間が自分で作るものではない。御霊が結ばせるものである。信仰者は木ではなく、枝である。命の源泉はキリストにある。その命を御霊が適用し、実を結ばせられる。だから、新しい創造は外側の宗教行為ではない。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」 第二コリント5:17

キリストのうちにある者は、新しく造られた者である。この新しい創造こそ、神の民の基準である。

 

そしてパウロは最後にこう言う。

「これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。

私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」 ガラテヤ6:17

パウロの焼き印とは、単に過去の迫害の傷ではない。神がパウロを置かれた試練、苦しみ、悲しみ、迫害、弱さの中で、キリストに属する者として刻まれた現実である。

 

パウロは、石打ちにされ、むち打たれ、投獄され、苦しみを受けた。しかしそれは単なる不幸ではなかった。神が、キリストに属する者として、パウロを聖化の道に置かれた現実だった。焼き印とは、本来、奴隷や家畜が「誰の所有か」を示す印である。つまりパウロは、「私はキリストのものだ」と言っている。 そしてこれは、パウロだけの特殊な誇りではない。

 

信仰者もまた、神の摂理の中で試練、苦しみ、悲しみ、弱さに置かれる。そこで肉を砕かれる。 自力を砕かれる。 偶像を暴かれる。自己保身を焼かれる。 その中で、御霊が新しい創造の心を現される。神により頼まざるを得ない心。 キリストに属する者として歩まざるを得ない心。愛によって働く信仰として歩まされる心。 これが、信徒の現実における「焼き印」である。

 

だからパウロの

「だれも私を煩わせないようにしてください」とは、

「新しい創造ではない別基準を持ち込むな」

という意味である。

 

パウロはこう言っている。

 「割礼、無割礼、宗教形式、民族的しるし、人間の誇りを持ち込むな。」

 

現代で言うなら、こうである。

「律法主義を持ち込むな。 放縦主義を持ち込むな。 人間の功績を持ち込むな。霊的体験主義を持ち込むな。 自己保身を持ち込むな。 自己憐憫を持ち込むな。人間中心の思想を持ち込むな。 宗教的外形を持ち込むな。哲学やこの世の知恵を、福音の基準として持ち込むな。」

 「新しい創造ではない別基準を、キリストの福音に混ぜるな。」

 「神が試練の中で刻まれた、キリストに属する現実を、外側の宗教基準で否定するな。」

パウロは、民族的しるしを誇っていない。 宗教的肩書きを誇っていない。

律法主義を誇っていない。外面的宗教を誇っていない。

「新しい創造ではない別基準を持ち込むな」

パウロは自分が今まで誇っていたものを「ちり・あくた」とみなしている。

 「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」 ピリピ3:8~9

 

新しい創造。 

キリストに属する現実。 

御霊によって歩まされる現実。

愛によって働く信仰。 

 

これが最後まで、「パウロの基準、神のイスラエルの基準」だった。 

 これが神のイスラエルである。

 

「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」 ガラテヤ人への手紙 6章15~16節

 

以上。

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