信仰義認の本質について
- 7 日前
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2026.4.15 The Word for you
今日は「信仰義認」について話します。
十字架の強盗も取税人も、彼らは聖書に熟知していたわけでもないし、神学を学んだわけでもありません。教会に通っていたわけでも、教会のメンバーでもなかった。彼らは「悪い人」でした。彼らは、キリストが時の始まる前に選んだ人と結合しているなんて話など、聞いたことも見たこともない、そういう人たちでした。
だけど彼らは時の中で、神が再生(ボーン・アゲイン)を起こしてキリストに結びつけられたのでしょう。そして、そんな中で神の憐れみにすがり、十字架のキリストを「王」として仰いだのです。
彼らの口から出た言葉は、すごく単純でした。ゴテゴテと話してはいない。その単純な言葉の裏には、聖霊の再生の働きがありました。人間の理解の深さや、御言葉をどれだけ知っているか、聖書をたくさん読むかといった話は、そこには全くなかったのです。「聖書を読み、御言葉を蓄えれば良いクリスチャンになる」という考えは聖書にはありません。神がキリストに結びつけられた「結果」として、信仰が現れているのです。
厳密に言うと、「贖い(あがない)」——これはキリストが十字架の上で成し遂げられた救いの獲得ですが——その「贖い」という考え方と「信仰義認」を切り離すことはできません。
「贖い」とは何でしょうか。それは、あなたや私が罪の中に死んでいて、律法の呪いの下にあり、死の支配の中にいる状態……例えるなら、完全に水の中に沈んでいて息ができず、出口もない、そんな苦しい状況から神様が十字架の上で尊い血を流し、助け出してくださるということです。
「贖う」とは、正確に言えば「買い取る」という意味です。買い取った相手はサタンでも神でもありません。それは「罪と律法の呪い、そして死の中にいる人をそこから出すために、神様が命を払ってくださった」ことを意味しています。
旧約聖書から明らかなように、アダムの時から「罪は命をもって償うしかない」と書かれています。罪の代償は命です。死ななければならない。その代償をイエス様がご自身の命を十字架の上で捧げることによって、罪と死と呪いがイエス様の上に降り注ぎ、イエス様は亡くなられたのです。
そして、それは私たちがイエス・キリストと再生されて「結ばれている」ことから始まります。そうでなければ、取税人は「神様、私を憐れんでください」とは言わなかったでしょう。
しかし、現代のキリスト教(表向きのキリスト教)は、これを「お芝居」にしてしまう。自分がそう言えば大丈夫だ、という「宗教」にしてしまうのです。しかし、取税人が言った「神様、罪人の私を憐れんでください」という叫びは、自己保存の恐れから出る感情ではありません。一時的な高揚でも、地獄を回避したいという欲求から出たものでもない。「自己憐憫」ではないのです。自分だけが不当に苦しんでいる、自分が被害者だ、自分が可哀想だといった感情ではありません。
それは、神によって新たに生まれた者、神の前に砕かれた者、憐れみのみに服した者の真の叫びです。強盗も、十字架の意味を教理的に理解していたわけではありません。これを私たちは忘れてはいけない。
「この方は悪いことを何もしていない。私を思い出してください」そこにはキリストに結びつけられた者に起こる、切実な現れしかありません。表面的なキリスト教を学んだ人たちは、言葉さえ真似すれば助かるという風に受け取ってしまいますが、それは違います。ですから、こう言えるのです。「信仰義認」とは、イエス様との永遠の結合から流れ出る結果としての恵みであり、神様が罪人を一方的に「義」と宣言することなのです。
救いとは、十字架の御業をどこまで論理的に把握できるかではありません。聖書の中身をいかに説明できるかでもない。それは後からついてくる結果です。
永遠の昔から、キリストがあなたと一つに結ばれている。だから、キリストの死はその人の死となり、キリストの復活はその人の命となる。キリストの正しさ(義)はその人の義となるのです。すべては、永遠の昔に神によって結ばれたという「源泉」から流れ出ています。
取税人も強盗も知識ではありません。時の中で新たに生まれ、キリストとの結合がこの世に現れ、「信仰義認」と「贖い」として結実したのです。
取税人は頭が良かったのではありません。「信仰義認」をスラスラ言えたわけではなく、彼の中で「信仰義認」が生きたのです。ロジック(論理)で信仰義認は起こりません。それはまるで「音楽」のようです。音楽にはまず「音」があり、それを聴く。譜面に書き起こすのは後です。
神が人を死から命に救う。それは「楽譜(教理)」そのものではありません。本質は、キリストと一体になっている私たちが、神の命によって生き、イエス・キリストと共に死ぬことが、神によって「実体化」しているということなのです。
イエス様は「信仰義認」を教理として難しく理解しろとは一言も言っていません。ただ、神が全く望みのない罪人を、キリストのゆえに「義」と宣言されている。
もう一度言います。十字架の強盗を考えてみてください。彼には「義」とされる根拠が一つもありません。略奪、危害、殺害、己の欲と罪の中に生きてきた。良い行いも償いも功績もない。挙句の果てに十字架に釘打たれ、動くこともできず息絶え絶えになっている。全くの無力。残された時間もない。それが私たちの姿、罪人です。
しかしその時、神はこの罪人に、十字架につけられた御子を仰がせました。神はこの者を、ただキリストのゆえに「義」と宣言したのです。一方的に。
ですから、私がどれほどひどい人間かなどは関係ありません。感情がどうだろうと関係ない。関係あるのは「神が宣言しているかどうか」だけです。時の始まる前に、キリストにあって結ばれているかどうかだけなのです。それが神の働きによって、神を神として認め、自分が罪人であることを認め、神に頼る者に変えられる。これが「信仰義認」です。
中心は、私たちが何をしたかではなく「神が何をなさったか」です。ここに核心があります。あなたが告白した、祈った、そんなことは重要ではない。神が何をなさったか、なのです。
神は十字架の強盗に、彼自身が裁きに値する者であることを示しました。だから彼は「私はこうなるべきだった(自分は悪かった)」と言い、イエス様には罪がないことを告白した。そして、十字架のイエス様こそが御国の王であることを認めさせた。その瞬間、それが「信仰義認」なのです。
これは全く人間の力ではありません。
ある人が私に「自分の力で告白した、こんな私でも……」と書いてきましたが、あれは信仰義認ではなく独りよがりの思いです。
極限の場、両手両足を釘打たれ、息も絶え絶えな状況で、神はその罪悪の塊の口をキリストに向けさせたのです。それは神の業です。
そしてイエス様は言われました。「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」。
聖書の中で、イエス様に直接こう言われた人は他にいません。ここにあるのは、人間の努力の報酬ではないのです。
死ぬ直前に地獄に行きたくないと願う自己保存でも、自分を惨めだと思う自己憐憫でもない。神がこの強盗を再生し、信仰と悔い改めを与え、永遠に定めていた「キリストとの結合」を顕現させた事実。それが信仰義認であり、救いの源泉から溢れ出た実なのです。
「信仰義認」とは、神がキリストにあって(in Christ)、罪人を義と宣言すること。人の功績によらず、ただ神の恵みによってなされること。これを覚えてください。
そして神は「義」とされた人たちを、聖化の過程や試練の中で、ますます自分ではなくキリストにのみ寄り頼む者として保たれます。最後まで神が守り通し、最後にはキリストと共に栄光を受けるのです。
信仰義認は、それほどシンプルなのです。
私たちの思いや感情ではなく、神が導き、神が変え、神が告白させるのです。
私たちは罪の中で蠢き、自力では出られなかった。それを神様が十字架の御業によって買い取ってくださった。どこへ? 神の御国へです。神の所有とされたのです。
多くの人は「私は惨めな人間です」という宗教をやり始めます。「私を憐れんでください」というパフォーマンスを救いの確認にしてしまう。しかし、そこに行ってはいけません。あなたは神様が与えた苦しみの中で、心の奥底から叫ぶ。動機が違うことを、神様は御言葉と聖霊を通じてあなたに語っておられます。その心の本質を示されたなら、それを悔い改め、口に表して告白し、キリストに頼らざるを得ない場所に留まり続けるのです。
お祈りします
愛する天のお父様、
私たちが「信仰義認」と思っているその思いすら、いつの間にか肉の働きによって「宗教」や「行い」になってしまう。その危うさをあなたが示してくださっていることを感謝します。
私たちは本当に価値のない者ですが、あなたが時の始まる前にキリストにあって私たちを選び、内側から変え、キリストのゆえに「義」と宣言してくださっている、この素晴らしい恵みを心から感謝します。
どうか、この素晴らしい教理が守られますように。
愛するキリストの御名を通して、感謝してお祈りします。
アーメン。
