御霊によって歩くとは何か
- 7 日前
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― 神の支配と、キリストとの結合の現実の中に生かされること ―
2026.4.12 豊川の家の教会礼拝メッセージ
聖句
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」
ガラテヤ人への手紙5章16節
「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊によって進もうではありませんか。」
ガラテヤ人への手紙5章25節
1.救いのすべては、「キリストにあって」与えられている
まず、土台をはっきりさせなければなりません。
御霊によって歩くとは何かを語る前に、救いがどこから来るのか、その源泉がどこにあるのかを、はっきり見なければなりません。
エペソ1章4~14節で、パウロは繰り返し「キリストにあって」と語ります。
神は、世界の基が据えられる前から、キリストにあって ご自分の民を選ばれました。
神は、イエス・キリストによって ご自分の子にしようと、あらかじめ定めておられました。
私たちは、このキリストにあって その血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。
また、キリストにあって 御国を受け継ぐ者とされました。
さらに、このキリストにあって 約束の聖霊によって証印を押されました。
つまり、救いは部分ごとに別々に与えられているのではありません。神は、ご自分の民に、何か一つずつ救いの恵みを配っておられるのでもありません。そうではありません。救いは、キリストとの結合を源泉として、そこからすべてが流れ出ているのです。
義も、
いのちも、
聖化も、
保守も、
栄化も、
すべてはキリストとの結合から流れます。だから、救いとは、何かの祝福を受け取ったこと以上に、キリストご自身に結ばれたこと です。ここが土台です。
2.御霊によって歩くとは、神が始めて、神により成り、神に至る歩みである
この土台の上で、ガラテヤ書の「御霊によって歩く」を見なければなりません。
御霊は神です。
一言で言えば、
父なる神が御子にあって定められた再創造を、時の中で信仰者に起こし、キリストとの結合の現実の中に生かす神です。
だから、御霊によって歩くとは、人が自分の力で信仰生活を進めることではありません。 人が自分で自分を変え、守り、完成させることでもありません。
御霊によって歩くとは、父なる神が御子にあって定められた救いを、御霊が時の中で信仰者のうちに現実とし、キリストとの結合の中に生かし続ける、その神の支配の中を歩くことです。
ガラテヤ書3章でパウロは律法主義に騙され、翻弄されている兄弟たちに語ります。
「あなたがたは御霊を、律法を行ったから受けたのですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」
さらにこう言います。
「あなたがたはそんなに愚かなのですか。御霊によって始まったのに、今、肉によって完成されるというのですか。」
御霊によって歩くとは、
御霊によって始められた者が、最後まで肉に戻らず、キリストにある恵み、神の再創造の中を歩かされることです。
言い換えるなら、
御霊によって歩くとは、再創造です。
神が始めて、
神により成り、
神に至る歩みです。
古い創造に属する生き方ではなく、御霊による新しい創造を生きる現実です。
それは、人が自分で始める歩みではありません。
人が自分で維持する歩みでもありません。
人が自分で完成させる歩みでもありません。
御霊は、キリストを離れて働かれません。
御霊は、キリストの外に人を導かれません。
御霊は、神がキリストにあって備えられた救いの現実の中に、ご自分の者を生かし、保ち、歩かせます。
だから、御霊によって歩くとは、
神の支配と、キリストとの結合の現実の中に生きること です。
3.御霊によって歩くとは、見えるもので歩くことではない
私たちは苦しみの中で、すぐに変化を求めます。
問題がなくなることを求めます。
重荷が軽くなることを願います。
見える答えが与えられることを願います。
しかし、神はご自分の者を、いつもそのようには導かれません。
祈っても、すぐに何も変わらないことがあります。
苦しみが残ることがあります。
痛みが続くことがあります。
答えが見えないように置かれることがあります。
そのとき人は思います。
どこに神の導きがあるのか。
どこに神の支えがあるのか。
御霊によって歩くとは、いったい何なのか。
しかし聖書は、御霊によって歩くことを、見える答えに支えられて進むこととしては語りません。
ヘブル2章はこう語ります。
「今なお、私たちはすべてのものが彼に従わせられているのを見てはいません。」
見えていないのです。
神の支配が見えない。
救いの完成が見えない。
祈りの答えが見えない。
しかし、その次にこうあります。
「ただ、イエスのことは見ています。」
ここです。
御霊によって歩くとは、見えるものがそろったから歩ける、ということではありません。見える支えがなくても、イエスを見るように置かれることです。
4.御霊によって歩くとは、神の支配の中で、キリストに頼らざるをえない歩みである
ここではっきり言わなければなりません。
御霊によって歩くとは、
苦しみがすぐになくなることではありません。
状況がただちに変わることでもありません。
安心できる形が先に与えられることでもありません。
神は、ご自分の者を見捨てておられません。
神は退いておられません。
神は沈黙しておられるように見えても、御手を止めてはおられません。
では、なぜ見える答えがすぐに与えられないことがあるのか。
それは、神がただ状況を変えることよりも、もっと深いことをしておられるからです。
私たちは、問題がなくなることを願います。重荷が軽くなることを願います。
見える形で安心できることを願います。
しかし神は、そこに留まられません。
神は、ご自分の者を、見える答えではなく、
キリストご自身に頼らざるをえないところへ置かれます。
これが、御霊によって歩くということです。
御霊によって歩くとは、自分の思う形で守られることではなく、
神の支配の中で、キリストなしには立てないところへ導かれることです。
5.神は、肉の支えを断ち、キリストに頼る歩みへ導かれる
私たちは、神を信じると言いながら、実は別のものに頼っています。
自分の考え。
自分の見通し。
自分の経験。
自分の力。
自分が安心できる形。
そして、信仰生活においてさえ、
「見える答えがあれば進める」
「状況が整えば従える」
「不安が消えれば平安になれる」
というところに立とうとします。
しかし神は、その支えを断たれます。
なぜですか。それが肉だからです。それがキリストの代わりになっているからです。
ガラテヤ書が退けるのは、まさにこの肉です。
肉とは、単に欲望の激しさだけではありません。
自分で立とうとすること、
自分で完成しようとすること、
自分で義を保とうとすること、
自分で安心できる形を持とうとすること、それが肉です。
だから神は、
見える答えがない、
自分では持たない、
自分では立てない、
そういう場所へご自分の者を置かれます。
そこで何が起こるのか。
人は初めて知るのです。
自分では支えられない。
自分では立てない。
自分では持たない。
そして、キリストに頼らざるをえないのです。
これが、御霊によって歩く歩みです。
御霊によって歩くとは、肉が安心できる道を歩くことではありません。
肉の支えを断たれ、キリストだけが支えであることを知らされながら歩くことです。
6.パウロも、弱さの中で御霊によって歩かされた
第二コリント12章で、パウロは肉体のとげについて語ります。
彼はそれを取り去ってくださいと主に願いました。
しかし主はすぐには取り去られませんでした。
その代わり、こう言われました。
「すると主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。力は弱さのうちに完全に現れるのだ』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
ここで分かるのは、神がパウロを放っておかれたのではないということです。
神は、パウロの願った形ではすぐ答えなかった。しかし、もっと深い導きを与えられたのです。
それは、問題がなくなることよりも、キリストの恵みが十分であることを知る歩みです。
つまり神は、パウロを弱さからすぐ出すよりも、
弱さの中でキリストに結びつけて歩かせ続けました。
これが、御霊によって歩くことです。
御霊によって歩くとは、
自分が強くされて進むことではありません。
弱さの中で、キリストの恵みが十分であることを知らされながら歩くことです。
7.だから、見るべきは見える結果ではなくイエスである
ヘブル12章3節はこう語ります。
「耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」
聖書は、見える答えを見て安心しなさい、とは言いません。
状況が変わってから進みなさい、とも言いません。
イエスのことを考えなさい。イエスを見なさい。
耐え忍ばれた方を見上げなさい。
なぜですか。
見える結果が私たちを最後まで支えるのではないからです。
キリストが支えるからです。
御霊によって歩くとは、苦しみがないことではありません。
見える答えがそろうことでもありません。
見える答えがなくても、
キリストが十分であるところへ神が置かれることです。
そして、その中で、
ただキリストを見て歩かされることです。
8.神がなぜ、祈りにすぐ答えないのか
私たちは苦しいとき祈ります。助けてくださいと祈ります。
状況を変えてくださいと祈ります。
しかし、祈ってもすぐに何も変わらないことがあります。
痛みが残ることがあります。苦しみが続くことがあります。不安が絶えずあることがあります。
神の答えが見えないように置かれることがあります。
そのとき人は思います。神は聞いておられないのではないか。
神は遠くへ退かれたのではないか。もう祈っても無駄ではないか。
しかし、聖書はそう語りません。
神が祈りを聞いておられないのではありません。
神は聞いておられます。神は退いておられません。
神は沈黙しているように見えても、ご自分の者を見捨ててはおられません。
では、なぜすぐに答えが見えないのか。
それは、神がただ状況を変えることよりも、もっと深いことをしておられるからです。
私たちは、問題がなくなることを願います。重荷が軽くなることを願います。
見える形で安心できることを願います。しかし神は、そこに留まられません。
神は、ご自分の者を、見える答えではなく、
キリストご自身に頼らざるをえないところへ置かれます。
これが、祈りにすぐ答えない理由です。
私たちは神に祈りながら、実は別のものに頼っています。
自分の考え。
自分の見通し。
自分の経験。
自分の力。
自分が安心できる形。
そして祈りにおいてさえ、
「答えが見えれば安心できる」
というところに立とうとします。
しかし神は、その支えを断たれます。
なぜですか。 それがキリストの代わりになっているからです。
だから神は、
祈ってもすぐ変わらない、
見える答えがない、
自分では持たない、
そういう場所へご自分の者を置かれます。
そこで何が起こるのか。
人は初めて知るのです。
自分では支えられない。
自分では立てない。
自分では持たない。
そして、キリストに頼らざるをえないのです。
祈っても何も変わらない。
祈っても答えが見えない。
祈っても苦しみが残る。
そのとき肉は、もうだめだ、別の支えを探そう、自分で何とかしよう、と動きます。
しかし神は、そこでご自分の者を放しません。
神は、すぐに状況を変えることで支えるのではなく、
祈りの中でキリストに縛りつけることがあります。
私たちは、「この問題を変えてください」と祈ります。
しかし神は、「おまえをキリストから離さない」と答えられることがあります。
私たちは、「この苦しみをなくしてください」と願います。
しかし神は、「この苦しみの中で、おまえはキリストなしには立てないことを知れ」
と導かれることがあります。
これは、祈りにすぐ答えない神の働きです。
9.キリストとの結合こそ、失われない宝である
キリストがご自分の民と永遠に結合しておられる。
これ以上の宝はありません。
なぜなら、その結合は一時的な慰めではなく、救いの源泉そのものだからです。
義も、
いのちも、
聖化も、
保守も、
栄化も、
すべてはキリストとの結合から流れます。
人は、状況を宝にしやすいです。目に見える平安を宝にしやすいです。
祈りへの答えを宝にしやすいです。しかし、聖書が示す中心は、それらではありません。
キリストご自身です。
しかも、その結合は、知識の多さによって成り立つものではありません。
人の感情の強さによって保たれるものでもありません。
人の理解の深さによって確かになるものでもありません。
神が、御子のうちに、ご自分の者を永遠に結びつけておられるのです。
そして、その結合は、時の中を生きる私たちの歩みの中でも失われることなく現れます。
倒れる日も、
乾く日も、
見えない日も、
苦しい日も、
神は、ご自分の者をキリストに結びつけておられます。
その結合から外れることはありません。
神は、苦しみ、痛み、悲しみの中を通して、
ご自分の者をキリストに頼らざるをえないところへと導かれます。
だから、宝が失われることはありません。
人が自分で握っている宝なら、落とします。
目に見える宝なら、やがて消え去ります。
主が言われた通りです。
"自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。
あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。"
また。、ローマ8章のことばどおりです。
何ものも、私たちを神の愛から引き離すことはできません。
それは、キリストとの結合が神の永遠の御業だからです。
本当に、こんな宝はありません。
一言で言えば、
救いとは、何かを受け取ったこと以上に、キリストご自身に結ばれたことです。
<まとめ>
エペソ書が示すように、救いのすべてはキリストにあって 与えられています。
ガラテヤ書が示すように、御霊によって歩くとは、
その救いを肉で完成させようとすることではありません。神は、祈りにすぐ答えることによって私たちを支えるとは限りません。
むしろ神は、答えが見えない中でも、なおキリストにあって生かされているという現実の中に、私たちをとどまらせられます。
なぜなら、御霊によって歩くとは、
自分の願いが早くかなうことによって安心することではなく、
神の支配のもとで、キリストとの結合の現実に生かされることだからです。
肉は、目に見える答えを求めます。
肉は、状況が変わることで平安を得ようとします。
肉は、祈りの結果を握って安心しようとします。
しかし御霊は、私たちを別のところへ導かれます。
再創造の神である御霊は、試練の中で、神がすべての源であり、
すべての保持者であり、すべての目的であることを、私たちの内に照明します。
だからパウロは、
「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。
この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
(ローマ11:36)と賛美したのです。
これは単なる教理のまとめではありません。
これは、御霊によって歩かされる者、照明を受けた者の告白です。
すべてが神から発し、
神によって保たれ、
神に至るのであれば、
救いも、祈りも、聖化も、忍耐も、回復も、すべて神の御手の中にあります。
ですから、神が祈りにすぐ答えないときも、
神の働きが止まっているのではありません。
むしろそのとき、神はご自分の者を、
結果ではなくキリストご自身により頼む者としておられるのです。
すぐに状況を変えないことによって、
神は、私たちがどこに望みを置いているかを明らかにされます。
答えそのものではなく、
キリストこそが救いのすべてであると、御霊によって歩ませられるのです。
神の主権の中で、私たちを肉から引き離し、
キリストとの結合の現実に深くとどまらせる、聖化の道です。
だから御霊によって歩く者は、答えが見えない中でも、こう告白させられます。
「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。
この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
この賛美そのものは、御霊によって歩くということです。
神が祈りにすぐ答えないのは、
見える答えではなく、キリストご自身に頼らざるをえない者として、ご自分の者を立たせるためです。
そして、そのように導かれるのは、キリストとの結合こそが、失われない宝だからです。
だから、祈っても何も変わらないように見えるとき、こう覚えるのです。
神は退いておられない。神は今、私をキリストに縛りつけておられる。
私を支えるのは、見える答えではない。 キリストである。
「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊によって進もうではありませんか。」
ガラテヤ人への手紙5章25節
神は信仰者を新しい創造に導き続けられています。
以上です。
