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神の法廷での赦し、そして聖化における赦し

  • 4月4日
  • 読了時間: 6分

2026.4.1 The Word for you

 今日は「赦される」ということについての理解をお話ししたいと思います。はじめに、第一ヨハネの1章9節、聖書はこう語ります。

「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださいます。」

 

 このような御言葉を読むと、多くの人は「罪を告白したら赦される」と理解します。しかし、この理解は完全に間違っています。

 罪を告白したら赦されるという理解のまま進むと、必ず大きな誤りに陥り、苦しむことになります。なぜなら、赦しの根拠が「十字架」ではなく、「罪を告白する」という「人の行為」になってしまうからです。構造が「人間中心」にすり替わってしまうのです。


 赦しの源泉:キリストとの永遠の結合

 赦しの源は一つです。それは**「キリストとの結合」**です。

 信仰者は、十字架におけるイエス・キリストの死と葬りと復活に結合し、私たちのすべての罪は、一度きりで完全に代償されました。

聖書にはこうあります。

 * ヘブル書9章28節:キリストはただ一度ご自身を捧げて、多くの人の罪を負われました。

 * ヘブル書10章14節:キリストは一つの捧げ物によって、聖なるものとされる人々を永遠に完成されました。


 「完成された」ということは、決して繰り返されないということです。イエス様の十字架の御業は完全であり、一回限りです。すべての罪は十字架において完全に取り扱われました。したがって、真の信仰者にとって、赦しとは「すでに完成された現実」なのです。

二つの視点:法的な赦し(義認)と、時の中での赦し(聖化)

聖書が言う**「赦し」には、永遠の視点と時の流れの視点**の二つがあります。

1. 法的な赦し(信仰義認)

 これは神の法廷における「無罪放免」の宣言です。

 ローマ書8章1節には「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」とあります。これは「in Christ(キリストにあって)」結合された者に対して、神が確定させた事柄です。

 この赦しは一回きりであり、永遠に変わりません。あなたの感情、気分、状態に左右されることはありません。すべての罪は十字架により一度で完全に赦されています。


2. 聖化における赦し(清めと交わり)

 ここで「罪はすでに対処済みなら、もう告白する必要はないのではないか」という誤解が生じます。しかし、第一ヨハネ1章9節が語る告白は、この「聖化」の過程において重要な意味を持ちます。

 聖化における赦しとは、信仰義認によって救われた者が、時の中で犯す罪を神が現実的に取り扱い、信仰者をキリストの義に立たせ続ける働きを指します。


 なぜ罪の告白が必要なのか

 罪の告白は、新たな**「赦し」を得るためや、義認をやり直すためのものではありません。それは「清め」のため、すなわち「神との交わりの中に留まり続けるため」**のものです。

 * 神の主権的な働き: 神は時間の中で働かれ、信仰者の罪を示し、それを隠し通すことを赦しません。神は愛する者を懲らしめ、告白へと導かれます(ヘブル書12章)。

 * 清めの定義: 清めるとは、私たちをキリストの義の中に保ち続けることです。罪の告白を通じて、私たちは自分が惨めな罪人であることを再認識し、自分に義がないことを認め、絶えずキリストのみに頼る位置へと引き戻されます。


 構造の逆転を拒否する

 私たちはこの構造を逆転させてはいけません。「永遠の裁きを免れるために告白しなさい」という教えは、信仰義認を無視した完全な誤りです。

第一ヨハネが語る構造はこうです。

 * 再生と照明: 神が光を与え、自分が罪人であることを理解させます。

 * 悔い改めと信仰: 信仰によって義とされ(義認)、十字架によって一度で赦されます。

 * 継続的な聖化: この赦しを前提として、私たちは絶えず罪を告白し、神の「清め」を受けます。これにより、私たちは父・子・聖霊との交わりの中に保たれるのです。

結論:父・子・聖霊との交わり

 第一ヨハネ1章の主題は「交わり」です。

「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(1章3節)


 罪の告白とは、聖化において赦しを得るための「行為」ではなく、聖化の中で神ご自身との交わりに信仰者を立たせ続ける「神の働き」です。

 神の法廷における赦しは、一度で完全であり、完璧です。私たちは「罪に定められることはない」という御言葉に固く立ちます。同時に、地上においては未完成から完成(天のエルサレム)へと向かう途上にあります。

 罪を告白するたびに、私たちは自らの無力を知り、キリストにのみ頼る者へと変えられていきます。そのへりくだりこそが、私たちを父・子・聖霊の豊かな交わりの中へと導き続けるのです。

お祈り

愛する天のお父様。今日、あなたが私たちに罪の告白の真意を教えてくださったことを感謝します。「ああ、私はなんと惨めな人間でしょう」と祈らざるを得ない現実の中に私たちはいますが、同時に、あなたが与えてくださった完璧な「義」を私たちが着せられているという揺るぎない事実を思い起こさせ、感謝します。

私たちが絶えずあなたとの交わりの中に置かれ、清められ続けていくことができますように。

主イエス・キリストの御名によって、感謝してお祈りします。アーメン。

参 考

第一ヨハネ1:9はこう語ります。

「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます。」

ここで言う「罪を言い表す」とは、単なる言語的告白ではなく、神の光のもとで、自分が何であるかを神の前にそのまま認めることです。改革神学者たちは、この点を明確にしています。


カルヴァンは『キリスト教綱要』において、罪の告白についてこう述べています。

「罪の告白とは、神の前で自分を正当化せず、完全に有罪であることを認めることである。」

さらに彼はこう説明します。

  •      人は自分を弁護しようとする

  •      しかし告白とは、その弁護をやめること

  •      神の裁きに対して「その通りです」と立つこと

つまり告白とは、神の宣告に同意することです。


スプロールは罪の告白を、神の聖さとの関係で説明します。

「真の告白とは、神が罪を見ておられる通りに、自分の罪を見ることである。」

彼はこう続けます。

  •     告白とは感情の問題ではない

  •     神の基準に自分を合わせること

  •     神の義の前で、自分の不義を認めること

つまり告白とは、神の視点に引き上げられることです。


マレーは救済の秩序の中で、告白をこう位置づけます。

「罪の告白は、義認を得るための条件ではなく、すでに義とされた者が、その恵みの中にとどまる歩みである。」

ここが決定的です。

  •  告白は救いの原因ではない

  •   すでにキリストにあって赦された者が

  •    その赦しの中に立ち続ける働き

つまり告白とは、義認に戻る行為ではなく、義認の中にとどまる現れです。


構 造

第一ヨハネ1:9の「罪を言い表す」は、次の構造です。

  •   神が光を照らす(主語は神)

  •   罪が明らかにされる

  •   人は弁護をやめる

  •   神の裁きに同意する

  • その中で赦しときよめに立たされる


まとめ

罪の告白とは、「自分が罪人であり、義はキリストにのみある」と神の前で事実に立つことです。それは行為ではなく、神の光の中に置かれた者の状態です。


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