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万が一 失敗して罪をしてしまったら~罪の告白~

  • 3月14日
  • 読了時間: 4分

2026.3.11 The Word for you

「万が一 失敗して罪をしてしまったら?」「キリストの御名によって父なる神に告白して。」

 

 信仰者は完全ではありません。罪との戦いは続きます。しかし、そのとき信仰者が向かう先は決まっています。父なる神のもとです。

 

ヨハネ第一1:8-10

"もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。

 

 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

 

 もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。"

  ここでは

  • 罪を隠さない

  • 神に告白する

 という姿が示されています。

 

8節:罪の性質(罪の状態)

 「もし自分には罪がないと言うなら」

  ここでの「罪」は、罪という状態(罪の性質)です。ギリシア語は単数形 hamartia で、罪の行為だけでなく、

  • 人が罪人である状態

  • 内側にある罪の性質

 を指しています。

  つまりヨハネは「自分は罪人ではない」と言う者は自己欺瞞であると語っています。これは原罪の否定を遮断しています。

 

9節:犯している罪(具体的な罪)

「もし私たちが自分の罪を告白するなら」

 ここは複数形で、実際に犯す罪の行為です。

 信仰者は

  •  再生している

  •  しかしまだ完成していない

    ので、罪を犯します。

  だから、罪を否定するのではなく告白すると書かれています。

 

ここでの約束は

  •  神は真実である

  •  神は正しい方である

  • だから赦す  というものです。

 

赦しの根拠はキリストの十字架です(2:1–2)。

 

10節:罪を犯した事実の否定

「もし罪を犯したことがないと言うなら」

 ここは罪を犯した歴史そのものの否定です。

 つまり

  •  自分は罪人ではない(8節)

  •  自分は罪を犯していない(10節)

 この二つをヨハネは遮断しています。そして10節ではさらに強く言います。「神を偽り者とする」

 なぜなら聖書は

  •  すべての人は罪の下にある(ローマ3:9)

  •  義人はいない(ローマ3:10)

 と神が宣言しているからです。

 

ヨハネ第一1:8–10は三つを語っています。

 1.       罪の性質の否定を遮断(8節)

 2.       具体的な罪の告白(9節)

 3.       罪を犯した歴史の否定を遮断(10節)

 

つまりこの箇所は、原罪と実際の罪の両方を含んでいます。

 そして文脈の核心は次です。すぐ次の節です。

 「しかし、もしだれかが罪を犯しても、父の前で弁護してくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」(Ⅰヨハネ2:1)

 

ヨハネは

  • 信仰者は罪を否定しない

  • 罪を告白する

  • そして義はキリストにある

 という構造を語っています。

 信仰者は

  • 自分の義に頼むのではなく

  • キリストの義によって父のもとに行きます。

 だから祈りは、キリストの御名によってささげられます。

 

ヨハネ14:13

「あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。」

 

つまり信仰者の歩みは

 罪を犯す

→ 父に告白する

→ キリストの御名によって赦しを受ける

 

この繰り返しの中でヘブル12章が語るように、未完成から完成へと導かれていきます。

 罪は十字架で処理されました。

 コロサイ2:13–14

「神は、あなたがたのすべての罪を赦してくださった。

私たちに不利な証書を消し去り、それを十字架に釘付けにされました。」

 ここで語られているのは

  •  罪の許しは行いによらない

  •  十字架で成し遂げられた

 という事実です。

 

さらにヘブル書も同じことを言います。

 ヘブル10:12

「キリストは罪のために一つのいけにえを献げて、永遠に神の右に着座されました。」

 つまり

  • 何度も償われるのではない

  • 一度で完全に成し遂げられた

 ということです。

 

だから信仰者が罪を犯したとき、

 赦しの根拠は

  •  自分の悔い改めの強さ

  • 自分の行い

 ではありません。十字架です。

 

そして信仰者は、1ヨハネ1:9のように罪を告白しながら、すでに十字架で成し遂げられた赦しに立つのです。

 結局すべてはここに戻ります。罪は十字架で処理され、義はキリストにあります。

 罪の告白は

  • 十字架を繰り返すためではない

  • 救いを取り戻すためでもない

 

信仰者が、自分は罪人であり、救いはキリストにある。罪人であり、義人である。という位置に立ち続けるためです。

 

だから信仰者は、罪を犯すたびに、絶えず父なる神に告白し、キリストの十字架に立ち返るのです。

 

 

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