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黄金の鎖

  • thewordforyoujapan
  • 3月29日
  • 読了時間: 6分

更新日:8月11日

今日は、以全話した黄金の鎖 について、もう一度ゆっくりと話したいと思います。


今週は、二回に分けて話したいと思います。


【ローマ8章:29〜30】

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子の形と同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人 たちにはさらに栄光をお与えになりました。


この教えは、神の救いの計画です。

途切れなく完全に成し遂げられるということを表しています。


この教えはとても重要です。

これが救いのほぼ全体像になります。


以前、皆さんに説明した救いの全体マップを見て頂けると分かりやすいのですが、神の計画というのは、永遠の過去、そして現在、そして永遠の未来に続きます。


そして、この永遠の過去から、現在、未来に渡って、神のご計画はそこにあります。

永遠の過去は選びというのがあります。


そして、新たに生まれる、信仰、悔い改め 、聖化、栄化、というのが軸になっています。

永遠の過去から永遠の未来まで、100%神の働きです。選びから始まり、新しく生まれ、そして、信仰が与えられ、悔い改めがおこります。

ここは、神の領域で、人は一切関わることができません。実はこの救いという部分について、人が何かできることは全くありません。すべて神様が行われています。


信仰を受けて悔い改めるというところぐらいから始まって、聖化の中に入っていきます。ここは、神様だけの働きではなく、救われた人にも責任があります。

それは、人間側の責任です。神の御言葉に従うということです。


パウロは、「私は自分の体を打ちたたいて従わせます。」と言ってます 。この従うというのは、御言葉によって、私たちの心が変容していきます。

そして、神の素晴らしさ、キリストの素晴らしさを理解していく中において、私たちはこの世のものを、「ちりあくた」というふうに理解していきます。価値観がこの世の価値観から、聖書世界の価値観に変わっていきます。

それは、神の御霊の働きです。その価値観が変わっていく中において聖化されていきますが、罪の性質がまだ私たちのうちにいつもあるということを知っています。


本当のクリスチャンの人は、いつも聖書の教えの中において、自分のうちに罪の性質が宿っていることを理解しています。 


そして、その罪の性質は絶えず私たちにおられる聖霊と相対時します。この罪の性質はものすごい力を持っています。


そして、人間的な方法や手段、宗教的な行い、哲学、いろんな教え、また行いによって、この肉の性質を打ちまかすことはできません。


私たちはどうやってこれを対処する事ができるのでしょうか。

神の恵みによってです。


それは、私たちは絶えず御霊に満たされるイエス・キリストの真理の啓示を私たちの内に置くことによって、私たちが絶えず神の御言葉をしたい求め 、私たちの内に神の言葉が浸透していきます。私たちは、御言葉を理解する土台をもらっているので、その御言葉の真理を理解することができます。それを事実として捉えて、

そこに信頼を置くということが信仰です。

だから、信仰に立つということは御言葉を理解することです。


以前私たちは、「信仰に立ちなさい」というのはどういうことなのか理解していませんでした。


感情なのか、「イエスは主です」と告白するだけで救われるのか。しかしそれは信仰に立ってはいません。


なぜなら、御言葉を理解していません。御言葉を正しく理解していないので、御言葉に立てるわけがありません。


「イエスは主です」とは誰でも言えます。

しかし、その言葉の意味は、神の救いの全用の中にあります。

そして、聖霊の働きによって、少しずつ御言葉を理解していく中で、その深さ、広さ、高さを理解していきます。それが、聖化です。

そして、私たちの心が変容されていき、神の素晴らしさに圧倒されていきます。そうなると、この世のものを欲しがらなくなります。

そういうものに変えられていきます。


救われていない時にはこの世のものしか求める事ができませんでした。皆さんは、救われていなかった時のことを思えば、いかに聖書を誤って理解していたか分かるでしょう。

そこには、御言葉 、聖化というところの仮定があります。

そして、聖化の仮定というのは、霊的戦いです。この聖化の仮定はキリストを着ることです。真の信仰者だけが行う事ができ、経験する事ができます。なぜならキリストに似たものになるとあらかじめ定められているからです。


偽のクリスチャンや 、未信者、求道者と言われる人たちは、霊的戦いの土台にも立つ事はできません。なぜなら、霊的戦いというのは神の国に入らなければ戦えないからです。


神の国に入っている者だけが 、霊的戦いがそこにあります。神の国に入っていない人たちは 、霊的戦いには入ってもいません。すでに、罪の中にいて、その人たちは幻想を見せられています。サタンに騙されていて、そこで戦っているかのように思い込んでいます。

そして、戦っているかのように悪霊を追い出したり、奇跡を行います。その奇跡を見て、ますますその幻想に取り込まれていきます。その人たちは、神を知らないのです。


聖書にはこう書いてあります。

【マタイ7章22〜23】

その日には多くの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」

しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」


これが霊的戦いを騙されていく偽の聖化です。それは聖化とは全く関係ない世界です。なぜなら、救われた者たちだけが聖化に入ります。 選ばれ、新しく生まれて、信仰と悔い改めを与えられた人たちは、その信仰によって義と認められます。信仰は神からきます。


そして、その信仰を受けた者が信じる信仰を持って、福音を聞いた時に義とされます。心が変容されていきます。

それは、キリストの十字架の御業を信じた時にキリストの義がその信仰者に転化されます。

そして、その義は完全なキリストの義であり、私たちの義では全くありません。だから私たちは、私たちを変えていい人になろうとか、私たちの義を積み上げようとか、そんなものは全くありません。完全なキリストの義です。

そして、私たちは、大きな神の御計画の中に置かれて聖化されていき、キリストが帰られる時に主の顔を仰ぎ見る事ができます。

そして、キリストは私たちを引き上げて、栄光の体を与えてくださると聖書は言っています。そして、その栄光の体を私たちが受ける時に完全に罪の性質に打ち勝ちます。


そこには完全な罪に対する勝利があります。

それはイエス・キリストの十字架の御業です。


【祈り】

愛する天のお父様。私たちの救いが断片的なものでなく、全てが一貫しており時の始まる前から選び永遠の御国まで一貫して恵みのみであること。私たちが全ての栄光を返す時に、私たちは全てがあなたの恵みのみで、あなたの憐れみのみで 、あなたの優しさのみで 、私たちがそのように救われたことを感謝します。他に何もないことを感謝します。ただ あなたの喜び 、あなたの愛で、私たちを選んでくださったことを心から感謝してお祈りします。アーメン

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