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聖なる光に貫かれる 再生と照明――聖霊が心を照らす恵み

  • thewordforyoujapan
  • 11月8日
  • 読了時間: 10分

イザヤ6章/ヨハネ12章37–41節/マタイ16章13–17節

2025.11.2 豊川の家の教会礼拝メッセージ

1. 神の聖なる光 ― イザヤ書6章から

神は“私の味方”である前に、“聖”として現れます。

では、聖とは何でしょう。


イザヤは神殿で主の栄光を見ました。

「聖なる、聖なる、聖なる主、万軍の主。 その栄光は全地に満ちている。」(イザヤ6:3)


神の本性は、単に聖なる方でありません。更に聖なる、聖なる方でもありま せん。 天使が大声で叫ぶ、「聖なる、聖なる、聖なる方」です。

「聖なる、聖なる、聖なる」――神の本当の姿をあらわす言葉 この「聖なる、聖なる、聖なる主」という言葉は父、子、聖霊の 三位一体の神への賛美でもあるのです。

『聖なる、聖なる、聖なる』は、教会史を通じて三位一体の神への賛美としても受け取られてきました。 イザヤが見たのは、「聖なる、聖なる、聖なる主」でした。 ただ天使は「聖なる方」ではなく、「聖なる」を三回、繰り返しているのです。

これは、聖書の中で神を表すときに使われる、最も荘厳な言葉です。


1) 一回の「聖なる」――神は人とは違う方 「聖なる」とは「分けられている」「他と違う」という意味です。 神は、私たち人間と同じように作られた存在ではなく、 すべてのものから区別された、完全に特別な方です。 だから私たちはイエスさまを『友のように』と語るだけでなく、恐れと敬いをも って近づくべきです。


2) 2回の「聖なる、聖なる」――神の聖さは欠けがない ヘブライ語では、何かを強く言いたいとき、同じ言葉を繰り返します。「聖な る、聖なる」と言うとき、それは 「少しも汚れがない」「完全に純粋で、完全に正しい」ことを表しています。 つまり神は、どんな罪も、偽りも、ゆがみもない完全な方なのです。私たちの 考えや行いの中にどんな小さな罪があっても、 そのままでは近づけない完全な方です。


3)3 回の「聖なる、聖なる、聖なる――言葉では表せないほど完全 ヘブライ語には「いちばん〜」「もっとも〜」という最上級の言い方がありませ ん。 だから、言い表せないほど強く強調すべき時に、三度の反復で最上級の強 調を表します。


『聖なる、聖なる、聖なる』は、限りなく完全な聖を 示す最強の賛美です。

「聖なる、聖なる、聖なる主」とは、 つまり「どこまでも、限りなく、完全に聖なる方」という意味です。 「神は比較を超え、完全に聖そのものであり、 その存在全体が完全に美しく、魂を圧倒し、ひれ伏させます。

聖なる、聖なる、聖なる方。 神の義は聖なる義、 神の愛は聖なる愛、 神の力は聖なる力、 神の知恵は聖なる知恵です。

神のすべては「聖さ」の中に満ちています。

聖はすべてを包み、

義は聖の実行であり、

愛は義の中心にある憐みと慈しみであり、

力と知恵は、その愛と義を調和させ、現実に実現させる神の働きです。


三位一体の神の本性「すべては聖のうちにあり、聖の外には何もない」
三位一体の神の本性「すべては聖のうちにあり、聖の外には何もない」

聖のない義は存在せず、

愛は義の中にあり、

愛の中に力はあり、知恵は力とともにあります。

すべては聖のうちにあり、聖の外には何もない。


4) 信仰の告白としての意味

「聖なる、聖なる、聖なる主」 それは神ご自身が“聖そのもの”である方だという告白です。

つまり、神は他のどんな存在とも比べられない。 完全に正しく、完全に美しく、完全に清い。 そして、その神が選ばれた人々に近づき、 罪を清め、新しく生かしてくださる――それが福音です。


「その瞬間、イザヤは自分の罪を悟り」こう叫びました。

「ああ、私は滅びる。私は汚れた唇の者だから。」(6:5)


神の聖さは、人の想像を超えた完全な純粋さと光です。


R.C.スプロールは言います。

「神の聖さの前で、人は自分の罪と死を悟る。 だが、神は滅ぼすためではなく、清め、命を与えるために近づく。」

「主よ、あなたの聖にふさわしい恐れと喜びを、私の心に。」

2. 聖なる光の火 ― 再生の瞬間

もし聖なる光が私たちを焼くなら、なぜイザヤは生きたのでしょ う。

神は祭壇から火ばさみで炭火を取り、それをイザヤの唇に触れさせました。


「これがあなたの唇に触れた。あなたの咎は除かれ、あなたの罪は赦され た。」(イザヤ6:7)


この「火」は、単なる物質的な象徴ではありません。 それは「聖なる、聖なる、聖なる」主の栄光の光が、火として臨んだものでし た。

神の聖なる光が、聖霊を通してイザヤの魂に触れたのです。

この炭火は「祭壇」から取られました。

祭壇とは、罪のための「いけにえ」がささげられる場所―― すなわち、キリストの十字架を予表する贖いの祭壇です。

したがって、この火は、単なる清めの象徴ではなく、 受肉前の御子の臨在を指し示す予表でした。

この点について、ヨハネは次のように説明しています。


「イエスは多くのしるしを彼らの前で行われたが、彼らはイエスを信じなかっ た。これは、預言者イザヤの言葉が成就するためであった。彼はこう言っ た。 『主よ、私たちが聞いたことを、だれが信じたでしょうか。 主の腕はだれに示されたのでしょうか。』(イザヤ53:1) それゆえ、彼らは信じることができなかった。イザヤはまたこう言った。『主は 彼らの目を盲目にし、心をかたくなにされた。 それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、立ち返って癒やされることのないた めである。』(イザヤ6:10) イザヤはイエスの栄光を見て、彼について語ったのである。」 (ヨハネ12:37–41)


このように、ヨハネ自身が明確に証言しています。 イザヤが見た「聖なる主」とは、まさにイエス・キリストの栄光の顕れであった のです。

イザヤが神殿で見た栄光の光は、十字架の贖いにおいて完全に啓示され た受肉前の御子の臨在を指し示す予表でした。

炭火の光は、キリストの贖いの力が聖霊によって適用された象徴なのです。

その光は裁きの炎ではなく、再生をもたらす命の炎でした。

罪を焼き尽くすと同時に、新しいいのちを生み出す光です。 イザヤはその瞬間、死から命へと移されました。

御怒りを受けるべきだった者が、神の栄光の光―― すなわちキリストの贖いの光―によって生かされ、神の器とされたのです。


「神の火はイザヤを滅ぼさなかった。それは彼を新しくした。」

したがってここで起こったのは、 十字架の贖いの光による再生の出来事でした。 聖霊を通して、神の光が魂の奥深くまで貫き、 罪の死から永遠のいのちへと移す――それが再生です。

3. 聖霊の超自然的な光 ― 再生から照明へ

信仰は“分かった”から始まるのではなく、 “照らされた”ときに始まります。


ジョナサン・エドワーズはこう語りました。

「この神の光は、自然な理解によるものではなく、 神ご自身が魂に直接注がれる超自然的な光である。 それが来ると、魂はキリストの栄光と美しさを見るようになる。」


この神の光 ―それは創造主の栄光そのもの―が、 聖霊を通して信仰者の心と魂に触れます。 そのとき、闇に沈んでいた心は照らされ、御言葉の真理を悟るようになりま す。

「人が自力で神を信じるのではなく、 聖霊が、栄光の主の光をもって心の闇を照らし、悟りを生み出す。」 これが、再生の結果として起こる照明(illumination)です。


照明とは、聖霊が理性を清め、心の眼を開いて、すでに与えられた 啓示を“真理として見る”ようにする恵みです。

ここで注意すべきは、 これは「新しい啓示」ではありません。 すでに語られた聖書の啓示が、 聖霊によって信者の心に悟らされるのです。


スプロールは言います。

「聖霊はまず照らす。 その光が魂を貫き、私たちに真実の神の美しさと栄光を見せる。」


照明とは、御言葉の真理が心に実在として見えるようになることです。

聖霊は考え(理性)を清め、心の目を開き、すでに与えられた御言葉を真 理として見えるようにしてくださいます。

それは知的理解を超えた神秘的体験ではなく、 聖霊によって理性と心が共に啓かれる霊的理解です。


ジョナサン・エドワーズもこう言いました。

「信仰とは、神について多くを知ることではなく、 神の美しさに心が打ち砕かれることだ。」

「聖霊よ、私の考えをきよめ、心の目を開いてください。」

4. ペテロが見た光 ― (マタイ16:15–17)

イエスが弟子たちに尋ねました。

「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」

ペテロは答えました。

「あなたこそ、生ける神の御子キリストです。」

イエスは言われます。

「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。 それをあなたに示したのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父です。」 (16:17)


ペテロがキリストを信仰告白できたのは、 彼の知恵や知識の力ではありません。

天の父が、聖霊によって彼の心を照らしたからです。

これはイザヤが体験した光と同じです。

再生によって、死から命へと移された者が、 聖霊の照明によって、 神の真実の美しさと栄光を悟るようになるのです。

5. パウロが見た光 ― ダマスコの途上で

パウロもまた、イザヤやペテロと同じ「聖なる光」に貫かれた人で した。

彼はもともと、律法の熱心な守り手として、教会を迫害する 者でした。

しかし、彼がダマスコへ向かう途中、その人生を根底か ら変える光に出会います。


「ところが、行く途中、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼をめぐり照らした。彼は地に倒れ、『サウロ、サウロ、 なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。」 (使徒の働き9:3–4)


この光は単なる物理的な輝きではありません。

それは「聖なる、聖なる、聖なる主」の臨在――すなわち復活のキ リストご自身の光でした。

パウロはその光に打たれて地に倒れ、肉の目が見えなくなりまし た。

しかしそのとき、魂の目が初めて開かれたのです。 彼は、イザヤと同じように、自らの罪の深さを悟り、 ペテロと同じように、キリストの真実な栄光を見ました。 そして彼もまた、聖霊によって再生と照明の恵みを受けました。


「すぐに、サウロの目からうろこのようなものが落ち、再び見える ようになった。彼は立ち上がってバプテスマを受けた。」 (使徒の働き9:18)


この「うろこのようなものが落ちる」という描写は、 聖霊の光が心の闇を貫き、覆いを取り去る照明の象徴です。

パウロは再生の恵みによって新しい命を受け、照明の恵みによって 真理を悟りました。

その後、彼は生涯をかけてこう告白します。


「神は暗闇の中から光が輝き出よと言われた方です。その神が、キ リストの御顔にある神の栄光を知る光を、私たちの心に輝かせてく ださったのです。」(Ⅱコリント4:6)


パウロの体験は、イザヤが「聖なる主の光」に貫かれ、 ペテロが「父からの啓示」によってキリストを見、 そして信仰者すべてが「再生と照明の恵み」を受けるという、 救いの光の連鎖を完成させています。

イザヤは「聖なる光」によって罪を悟り、

ペテロは「啓示の光」によってキリストを告白し、

パウロは「復活の光」によって生涯の方向を変えられました。

三人に共通するのは―― 神の聖なる光が、罪の闇を砕き、心を照らし、使命を与えるという 一点です。

6. 信仰の告白としての意味

聖の光が触れると、人は二つの声を聞きます ――「私は滅びる」と「あなたこそキリスト」。

聖霊の照明は、単なる「理解」でも「感情体験」でもありません。 それは心と魂を刺し通す霊的悟りです。 「神の聖なる光は、心と魂を刺し通し、 人を恐れさせ、そして魅了する。 その光は人を壊すが、同時に癒す。」

この光に触れるとき、信仰者のうちには二つの反応が生まれます。

罪の醜さを悟る恐れ。イザヤが「私は滅びる」と叫んだように。

神の美しさに圧倒される喜び。 ペテロが「あなたこそキリストです」と告白したように。

また、パウロはその光に打たれて地に倒れ、肉の目が見えなくなりました。 しかしそのとき、魂の目が初めて開かれたのです。

自分の罪深さと、神の恵 みの素晴らしさに。 この二つの悟りを通して、信仰者はこう確信します。

「聖なる、聖なる、聖なる主の栄光は、 まことに真実で、美しく、永遠である。」

まとめ

神の聖なる光があなたの心に触れるとき、あなたは自分の罪の闇を知り、 同時に神の美しさと栄光を悟ります。

それは裁きの火であり、同時に再生の光です。 その光は人を砕き、同時に生かします。

真の信仰者は祈ります。

「聖なる、聖なる、聖なる主よ、 あなたの光は真実で、美しく、栄光に満ちています。」


Ⅱコリント4:6 「初めに『光あれ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光の知識を、 私たちの心に輝かせてくださったのです。」


人間の知恵によって神を知ることはできません。 神が聖霊によって、御言葉を通し、 キリストの真理を悟らせてくださいます。 そして、あなたは変えられていくのです。

私たちの再生と照明は、 すべてキリストとの結合から流れ出る恵みです。 キリストとの結合は救いの源であり、泉です。 聖霊は、 この結びつきを私たちの現実の歩みの中で 確かに働かせてくださいます。 だから私たちは―― 『恐れと喜び』で主に近づき、 御言葉により生かされ、生きるのです。

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