聖書は誰のために書かれたのか神との結合 ルカ8:43–48における真の救い
- thewordforyoujapan
- 7月21日
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更新日:8月11日
聖書は誰のために書かれたのか 神との結合 ルカ8:43–48における真の救い 2025.7.20
1.聖書解釈の鉄則:神の主権の視点から読むこと
聖書解釈の第一の鉄則は、神の主権に立って永遠のご計画の視点から読むことです。救いも「信じる」ということも、すべて神の御意志と御業によって成り立っています。人間の信仰・意志・行いは、神の選びと摂理に基づく結果です(ローマ9:16)。
2. 聖書が語る信仰
聖書が「信じなさい」と命じるすべての箇所は、神が信仰者を先に引き寄せるという福音構造に基づいています。エペソ1章4節では、「この方にあって(en Christō)」という表現が用いられ、選びがキリストとの結合のうちにおいてなされたことが明らかにされています。神が私たちを選ばれたのは、私たちの将来の信仰や応答を予見されたからではなく、神の愛と主権的ご計画に基づいているからです(ローマ9:11–16)。選びは神の意志による一方的な御業であり、それに先立つ人間の意思・思い・感情とは一切関係がありません。聖書を読む際には、常にこの視点を軸に据えるべきです。
3. 救いの順序
救いは神の秩序の中で順序があります、神の主権を証明しています。決してこの順序を無視して読んではいけません。
神の永遠のご計画に基づく救いの順序:
• 選び(エペソ1:4、ローマ8:29)
• キリストとの結合(エペソ1:3–6)
• 再生(ヨハネ3:5、テトス3:5)
• 信仰と悔い改め(使徒16:14、ピリピ1:29)
• 義認(ローマ5:1)
• 聖化(第一テサロニケ4:3)
• 栄化(ローマ8:30)
4. キリストにある選び
エペソ1章4節の「この方にあって(ἐν αὐτῷ)」という語句は、選びがキリストとの結合のうちにおいてなされたことを明確に示しています。つまり、選びは「永遠におけるキリストとの結合」にあります。神は「永遠のキリストとの結合のうちに」あらかじめ人々を定められました(ローマ8:29)。結合がなければ、選びの実現も救いのあらゆる祝福もあり得ません。「結合こそが私たちの救い、すなわち神の新しい創造のスタート」です。この「結合の教え」は、現代に広まる異端的な別の福音構造(経験主義・決断主義・関係主義・神秘主義)に対する堅固な防壁となります。
■ 神の主権とキリストとの結合を知らない人 ― その誤りと危険性
神の主権とキリストとの結合を知らない人は、以下のような傾向に陥ります:
• 「神の導きが感じられない」
→ 神秘主義:自分の感覚や印象で導きを判断し、「確かなみことば」よりも感情的、神秘的なものを信仰の基準とします。すなわち、福音を理解できないので、感覚にしたがいます。
• 「決断することが信仰と考える」
→ 決断主義:救いや祝福が自分で決めると起こると考える。行いによって救われると言う誤った教えに傾向。
• 「キリストにもっと近づきたい、関係を深めたい」
→ 「結合」という契約的・客観的真理を無視し、心理的努力や宗教儀式、偽りの音楽、感覚によって神との親密さを追求。
• 「聖霊の熱い火が心を燃やす、聖霊に包まれたと感じた」
→ 経験主義:「私はそう体験した」という自己体験の主張を救いの基準とする。
人間中心の主観的なものが「神の主権、キリストとの結合中心」に置き換えられ、それが聖書解釈の基準となる。
しかし、神の主権、キリストとの結合に立つ者は:
• キリストにある者として選ばれ(エペソ1:4)
• キリストと共に死に、共に生かされており(ローマ6:5)
• その確信と導きも、神の主権と結合の事実に立っており
• キリストの完成された十字架の御業に根ざし、神の主権の福音構造に立つ。
この「神により結合させられた事実」こそが、現代の異端的傾向を見抜き、排除するための真理であり、選ばれた者が確信と平安のうちに立ち続けるための福音の中心なのです。
5. 人間中心的解釈への警告
人間中心の読み方は、聖書の本質を逸脱し、神の主権的意志を歪めます:
• 「私は感じた」• 「私は信じると決断した」• 「神が直接に語った」
このような読み方は、聖霊の客観的聖書のみことばによる啓示を感覚にすり替え、経験と自己確証を真実にしてしまいます。人間中心的な解釈は、誤謬・混乱・不信・偽りの確信を生む毒です。
聖霊の神は御言葉を通してイエス・キリストを啓示します。 救いは:
• 神によって始まり(神の意志)
• キリストにおいて実現され(結合)
• 選ばれた者の益のために施され(摂理)
• 神の栄光の賛美のために完結します(エペソ1:6,12,14)
実例による読み方:ルカ8:43–48における真の救い
「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ8:48)
"そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています」と言った。しかし、イエスは言われた。「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。
イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」"
「あなたの信仰があなたを救ったのです」の間違った理解とその枠組み:
① 半ペラギウス主義:「私が信じたから救われた」
→ 信仰を自分の努力と考える。 正解:信仰は神からの賜物(エペソ2:8)
② 決断主義:「信じると決めたから救われた」
→ 救いを自分の選択と結びつける。 正解:救いは神のあわれみによる(ローマ9:16)
③ カリスマ的誤解:「信仰の力で癒しを引き出した」
→ 奇跡の力に焦点。 正解:信仰の目的はキリストにより頼むこと。
④ 神秘主義:「深く感じたから救われた」
→ 感覚や体験が基準。 正解:救いは体験、感覚によらずキリストの御業に基づく確かな真理。
神の主権とキリストに結ばれている人々の理解。
神の主権による救いの全体構造、秩序から目を離しません。
選び、結合、再生、信仰と悔い改め、信仰義認、聖化、栄化は普遍的な救いの全体構造です。
① この女は病気が治りました。
イエスさまはその女が病気から救われたと言ったでしょうか?この女は結局、その後再び病み、そして死にました。 なぜなら、誰もが必ず死ぬからです。永遠に病気もなく死なずにいる人など一人もいません。
② 問題は、イエスさまが「あなたの信仰があなたを救った」と言ったとき、
「彼女に一体何が起こったのか?」ということです。
答えは――永遠の救い、すなわち神による結合、再生、信仰と悔い改め、イエスの義が与えられたのです。
③ 「あなたの信仰があなたを救った」という御言葉は、癒しの結果を語っているのではなく、信仰義認の宣言です。それは一時的な肉体的な回復ではなく、神の御前で義とされたという永遠の決定です。
④ この女は、完全な絶望の中にいた
彼女は12年間、止まらない出血に苦しみ、医者に全財産を費やしたが癒されなかった(ルカ8:43、マルコ5:26)。律法(レビ記15章)により「汚れた者」とされ、神殿に入ることも、人に触れることもできず、神からも人からも断たれていました。
しかし、ここに神の摂理の御手がありました。神はこの女を選ばれて恵みの摂理によって導いておられた。彼女は、長い苦しみと孤立を通して、 「自分には何の望みもない。何をしても救われない。自分には義も力もない」 という現実に打ち砕かれていました。
⑤ 自分にまだ救いの可能性があると信じている者は救われていません。
「私にはまだ、良いところがある!」という者は自己義認の世界にいます。そこには信仰も悔い改めも与えられていないからです。だが、「私はなんて汚れいるにか。主よ、あなただけが希望です。助けてください。」と叫ぶ者神によって砕かれた者です。キリストに結ばれて、新たに生まれ、信仰による義を神から受けています。
⑥ そして重要ない理解は――この絶望は、彼女自身の努力により、内から出たものではないということです。
「父がわたしのもとに引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとに来ることはできない」(ヨハネ6:44)
彼女がイエスにすがったのは、自分の決意によるものではありません。神が摂理によって彼女を取り扱い、結合し、再生し引き寄せたのです。
⑦ この女は、神の恵みによって「自分に絶望し、神にすがる者」とされました。
これこそ、黄金の鎖(ローマ8:29–30)のうちにある者にのみ現れる、神の主権的救いの真の姿です。 そしてこの女はキリストに近づきました。「この方にすがれば救われる」と確信し、群衆を押し分けて主の衣に触れました。
それは彼女の「勇気ある行動」ではなく、すでに与えられた信仰に応答していたのです。
⑧ 彼女は「自分」を捨て、「キリスト」にすがりました。
これは象徴的な行為ではなく、再生された者だけに与えられた救いの結果です。神への真の信頼です。
信仰と義認
• 信仰とは、自分を捨ててキリストにすがる「空っぽの手」のようです。
• それは努力でも選択でもなく、神が与えた道具、インストルメント(instrument)です。
• 信仰は「内なる力」や「霊的パワー」ではありません。信仰は力ではありません。
信仰そのものに力があるのではなく、信仰が向けられているお方――キリストに力があり、救いはキリストの御業によって信仰を通して与えられるのです。
信仰は、キリストの義を受け取る単なる手段、空っぽの手です。すなわち、自分には何もなく、ただ神にすがるしかないという砕かれた心そのものです。それは試練を通して神が主権的に与えられる恵みの器であり、キリストに向かう徹底した依存と明け渡しの姿を意味します。
• 「救った(σέσωκεν)」はギリシャ語の完了形であり、永遠に確定された救いを示しています。
イエスの言葉:「あなたの信仰があなたを救った」 「救った(σέσωκεν)」は完了形であり、その時点で永遠に確定された救いを意味します。イエスは「わたしがあなたを救った」とは言わず、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。
<この言葉の意味を人間中心視点で誤解してはならない>
この女が癒されたのは、彼女が信仰によって義と認められた者であることを、主が「癒しをしるしとして公に明らかにされたのです。彼女の癒しは彼女の救いを世界に示すサインでした。彼女は社会的に「汚れた者」とされ、律法のもとで追放され、人々に見捨てられた「ゴミのような存在」とされていました。
だが神の選びはこの世の人々に現されました。それは彼らにこびりついた宗教の常識を破壊するためでした。それはパラダイムシフトです。メシアであるイエスさまはそのような者をこそ、恵みにより選び、愛し、救い、「娘よ」と呼ばれました。
この癒しは、単なる肉体の癒しではありません。神は、神の主権の救いをこのように示されたのです。イエスさまは他の聖書の箇所でも奇跡を起こされたときには、必ず、神の主権とキリストとの結合が世に示されたのです。それは旧約の預言の成就であり、神のご計画の目的に従っているのです。
<メシア到来のしるしとしての癒し>
「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳は開かれる。そのとき、足なえは鹿のように躍り上がり、口のきけない者の舌は喜び歌う。」― イザヤ35:5–6
この箇所は、神の贖いの民の回復を預言する文脈の中で、「盲人」「聾者」「足なえ」「口のきけない者」が癒されるという具体的なしるしが挙げられています。イエス・キリストはまさにこの預言の通り、地上での公生涯においてこれらすべてを癒されました(ルカ7:22)。
ゆえに、癒しの奇跡はメシアの権威の証明であり、「神がキリストにあってご自身の救いを啓示された」ことのしるしです。
メシアは今でも選ばれて人々、今も、社会に見捨てられ、人に拒まれ、自分でも自分を見捨てた者を探しています。 恵みにより選び、救い、その恥を覆い、キリストにある栄光を現されます。 癒しの奇跡は神の信仰義認が神の選びであり、キリストとの永遠の結合であることを神に民に知らせるためのしるしです。
イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われましたが、それは彼女の行いではなく、神がプレゼントとして与えた信仰によって義と認められたことを公に示されたのです。その義も神が女に贈り物として与えたのです。
以上のように、聖霊により、神の主権とキリストとの結合の土台に立つとき聖書のみことばの真理は開かれます。
それは人間の信仰の力や行為に応じて引き出されたものではなく、神がご自身の選びの民に対して、キリストにある義を与えたという救いの現実を啓示されることです。すなわち、聖書は目に見える癒しや、奇跡、感情、意志でもなく、神が選んだ人々に与えた神の永遠のご計画に基づく一方的な憐れみと慈しみによる命を聖霊により、御言葉を通して啓示するのです。
そしてそれは、今もなお神が選ばれた民を呼び集め、御子の似姿へと造り変えるための恵みの証なのです。
イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われましたが、それは彼女の行いではなく、神が与えた信仰によって義と認められたことを公に示されたのです。
