律法による義、信仰による義-律法主義、霊的戦い神学、福音の三要素はなぜ十字架の御業を冒涜するのか
- thewordforyoujapan
- 9月20日
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更新日:11月2日
律法による義、信仰による義 2025.9.14 礼拝メッセージ
ローマ10章6-11
10:6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
10:7 また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
ローマ10章のパウロの警告
「天に上る」=自分の努力でキリストを降ろそうとする。
「地に下る」=自分の力でキリストを復活させようとする。
「律法主義」「霊的戦い」「福音の三要素」がなぜ十字架の御業を冒涜することになるのか
1. 律法主義 ― 十字架+律法遵守
<特徴>
「人は律法を守ることによって義を得る」と教える。
実際には誰も完全に守れないのに、行為を救いの条件に据える。
<十字架への冒涜>
もし人間の律法遵守が救いの条件なら、「キリストの義は不十分」ということになる。
これは「十字架は必要だが、それに加えて自分の行いも必要」とする立場。
実質的に「自分の義を立てる」ことで神の義を拒んでいる(ローマ10:3)。
2. 霊的戦い神学 ― 十字架+断ち切り儀式
<特徴>
「人は本質的に霊的に死んでいるのではなく、地域を縛る悪霊が目を覆っている」
罪を犯すたびに悪霊が入り込むため、「断ち切り」「縛り」の儀式を繰り返す必要があると教える。
<十字架への冒涜>
聖書は「キリストは一度の犠牲で永遠に完全にした」(ヘブル10:14)と教える。
しかしこの教えは「赦しはまだ不完全。断ち切りを続けなければならない」と主張する。
つまり、「十字架の赦しでは足りない、悪霊や罪の対処が必要」とする。
結果、キリストの十字架の贖いを無視、結果的に否定して「断ち切り儀式」に置き換えてしまう。
3. 「福音の3要素」 ― 十字架+口の告白
<特徴>
「イエスが死に、葬られ、よみがえったと信じて口で告白すれば救われる」と強調する。再生によって与えられる信仰や悔い改めを無視し、未信者の口の決断行為に救いを依存させる。
<十字架への冒涜>
聖書の順序は「再生 → 信仰と悔い改め → 義認 → 告白はその果実」。
しかしこの教えは「ただ告白すれば救いが成立する」とする。
結果、「十字架と復活はまだ不十分。あなたの告白が加わって初めて救いが完成する」という構造になる。
4. 「律法主義」「霊的戦い」「福音の3要素」の共通点
・十字架の十分性を否定する。
・救いを人間の行為で条件づける。
・信仰義認を実質的に拒否する。
すべて、「十字架+〇〇」がなければ救いは成立しない、と言っている。
それは、十字架を不完全と見なし、御業を軽んじる冒涜。
5. 3つの異端の教えの接点
1)律法主義=「天に上る」試み
律法を守って自力で義を獲得しようとすること。
2)霊的戦い神学=「地に下る」試み
悪霊を断ち切ることで、赦しや解放を自力で完成させようとすること。
3)福音の3要素=「天にも地にも行こうとする」試み
告白という人間の行為を救いの成立条件にし、御業を補おうとすること。
すべて「十字架の完成を不十分と見なし、自分の手で完成させようとする」という点で、パウロの警告と直結する。
6. 福音の答え
「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」(ローマ10:8)。
救いは「遠くに探しに行くこと」でも「儀式で断ち切ること」でも「口で条件を満たすこと」でもない。すでに完成された十字架の御業が、再生によって信じる心に与えられている。そこから自然に信仰の告白があふれ出る。
7. まとめ
律法主義も、霊的戦いも、福音の3要素も、みな共通して 「十字架+人間の行為」 を条件とし、キリストの御業を冒涜している。未信者はこれを理解できない。また、霊的に幼い信仰者は頭で理解するが実践においては心で理解していないので騙される。パウロの警告どおり、それは「天に上ろうとし」「地に下ろうとする」愚かさ。 しかし福音はこう告げる:
「キリストはすでに来られ、死に、葬られ、復活された。その御業は完全だ。キリストは律法の完成、キリストは律法の到達点だ。再生され、信仰、悔い改めを与えられた者だけが、ただその完成された救いにあずかる。」
「十字架+人間の行為」の異端の教えに絶対、騙されてはいけない。
8. 最初の信仰と義認の理解
ローマ10:9-10
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
1)ここには2つの義の意味が含まれている。
再生の瞬間に与えられる信仰と悔い改めによって、人は義とされる
• スプロール:「信仰の始まりは、自分の徹底的な堕落を認め、神に憐れみを求めるところから始まる」(Faith Alone, p.121)。
• 「神よ、私は罪人です、助けてください」という叫びが義認の信仰の典型。
• 義認は一度きりで完全に成し遂げられる。
「口でイエスを主と告白し、心で神がよみがえらせたと信じる」とは、日本版福音の3要素のように表面的に信じることを決断し、ただイエスを主と告白して神がイエスをよみがえらせたと唱えることではない。それは神が信仰者に与える信仰、悔い改めではない。
なぜなら未信者は主の主権、キリストとの結合によって信仰者に適用される十字架の意味も復活の意味も知らず、正しい知識の啓示を受けず、表面的にしか「口でイエスを主と告白し、心で神がよみがえらせたと信じる」と唱えることしかできないからである。
再生された人は、最初に与えられる信仰・悔い改めに根ざし、その本質的な信仰はキリストと信仰者が御霊によって結び合わされている、その結合を源泉としている。
2)義認に伴う信仰の表れ
ローマ10:9にはキリストの十字架の御業に対する自分の直接的な参加を深く理解している信仰が見える。これは「義認の条件」ではなく、「義認に伴う信仰の表れ」である。
• 「口の告白」は最初の与えられた義認が信仰の心から外側にあふれる表現であり、かつ聖化に伴う継続的な表現であり、信仰義認と聖化の両面性がある。この告白の現れは再生直後の真実な信仰告白も聖化の過程にもおける信仰告白も同じである。
救いの条件でなく、救われた者に現れる証である。
• RCスプロール「これは浅い信仰ではなく、内容を伴う真の信仰告白である」(Romans: An Expositional Commentary)と言っている。
• この告白は「義認の条件」ではなく、キリストとの結合から流れ出る信仰の成長した更なる義の姿。
3)義認と聖化の区別
• 義認=一度限りの法的宣言。信仰によって直ちに義とされる。
• 聖化=義認の必然的結果として伴い、生涯を通じて告白と従順が深まっていく、更なる義。
• 「義認は信仰のみによるが、決して信仰が独立しているのではなく、必ず聖化の実を伴う」(What Is Reformed Theology? p.151)。
• ローマ10:9の告白は、聖化の果実として外に現れる信仰の姿。
4) 信仰の持続と連続性
• 義認を与える信仰は一度きりで完全に成立する。
• しかしその信仰は連続性を持ち、生涯を通じて態度として持続し、成熟し、最後の信仰となって神の前に立つ。
• 信仰は「義認の条件」ではなく、「義認に伴う信仰の外面への現れ」
• 「口の告白」は両面性があり、義認の初期的外的な現れであり、同時に聖化に伴う継続的な外的な現れでもある。
• 最初の信仰と最後の信仰は同じ本質を持つ。
• 信仰義認は一回限りの出来事であると同時に、救済の全体構造を貫く本質として継続する。
5)義認の連続性
• ローマ10:9の告白は「義認の条件」ではない、救いの結果である。
• 義認は一度きりで完全に与えられる。
• しかしその信仰は連続性を持ち、生涯を通じて成長し、聖化の中で「イエスを主と告白する」という形で必ず現れ続ける。
• 最初の信仰は最後の信仰へと持続し、救済の全体構造を貫く本質となる。
6)揺るがない確かさ
• 「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない」(10:11)。
• スプロール:救いは人間の努力に基づかず、神の憐みと慈しみによる。
• その保証は確実に確かなものであり、その救いは決して揺らぐことはない。
このメッセージはローマの教会のユダヤ人、異邦人のクリスチャンへの語りかけであることを理解する。ユダヤ人のつまずきと異邦人の思い上がりがその背景にある。
7)「キリストの十字架の御業によって救われる。」
• 人間が律法によって義を得ようとするのはまさに「天に登ってキリストをさがして連れて来る」「冥界に下ってキリストを見つけよみがえらせる」という、愚かであり絶対に不可能な試みである。
• しかし神はすでに十字架と復活において救いを完成された。
キリストは律法の成就であり、到達点である。救いはキリストについて語られたことを聞くことであり、「信仰者の心に、口に」ある。
• 人は心で信じて義とされ、口で告白することで信仰が外に現れる。それはキリストとの結合により与えられた結果である。義認は一度きりでまた完全である。
• 神に与えられた信仰は連続性を持ち、さらに生涯を通じて持続し、信仰者をキリストの似姿に変え続ける。最後の信仰へと至る。最後の信仰、すなわちクリスチャン人生の最後の信仰の本質は最初の信仰の本質と全く同じである。
• そして、真に信じる者は決して失望させられることがない。
8.信仰による義がもたらす結果
ローマ10:1-11はキリストとの結合を源泉とする救いの実際的な適用を説明している。信仰から来る告白は義認の条件と言うより、むしろ、救われた結果の信仰が外的・継続的にその人に現れると言う聖化そのものである。
1)ローマ10章の中核
救いの土台はすでに成し遂げられたキリストの御業
人は自分の努力で天に登ったり、死の陰府からキリストを引き上げたりすることはできない(10:6–7)。 これは「律法による義」の不可能性を示す。
すべてはすでに キリストの受肉・死・復活という完成された福音 による。
信仰による義は、人間の行為ではなく、神の恵みの絶対的主導。
信仰と告白は聖霊によって与えられた心の動機のあふれ
「心で信じて義と認められ、口で告白して救われる」(10:9–10)。
スプロールはこれを「救いを獲得する条件」とは理解しない。
むしろ、神が新しい心を与えたときに必ず現れる内的動機の外的表現。
したいこと=志しとしての告白であり、律法主義的な「しなければならない」ではない。
2)信仰による義が生み出す結果は内からあふれる恵みのしるし
福音は神の力として響きわたる
福音は単なる情報ではなく「神の力」(ローマ1:16)。
テサロニケの教会のように(Ⅰテサ1:8)、受けた福音が生活と証しを通して自然に「響きわたる」。
これは運動主義的な活動ではなく、聖霊が御言葉を通して世界に響かせる霊的な喜びの躍動。宣教は人間の戦略の成果ではなく、神の定めた手段を通して御霊がなさる働き。
3)伝道は義務ではなく、愛の志し
「遣わされなければ、どうして宣べ伝えることができるだろう」(10:15)。
教会全体が関わるのは、律法的義務ではなく、神に愛された者が押し出されて持つ志し。
祈り・支援・派遣は神の子どもとしての特権。
宣教への関与=「やらねば」ではなく、「せずにはいられない」喜びの務め。
4)ローマ10章の中核の整理:
救いの根拠はすでに完成されたキリストの御業にある
信仰と告白は、聖霊が新しい心に与える志しの自然なあふれ
福音は人間の活動でなく神の力として響きわたり、実を結ぶ
福音伝道は義務でなく、愛と感謝に押し出された喜びの特権

