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「いのちの御霊の律法」

  • thewordforyoujapan
  • 8月31日
  • 読了時間: 12分

「いのちの御霊の律法」2025.8.31 礼拝メッセージ


ローマ8:2-4

"なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。""それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。"

1.ローマ8章とパウロの命令

 

ローマ8:13

"もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。"

 

ローマの8章は聖化の過程の信仰者について話しています。再生した者への語りかけです。

これは未信者について話していません。そこから理解をします。

 

ローマ8:1

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

「キリストにある者」=キリストと結合された者=すでに信仰によって義とされた者。

ローマ書8章の冒頭から、対象は「救われた者」であるとパウロは明言しています。

 

また、ローマ8:9で言います。

「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでいるなら、あなたがたは肉の中ではなく、御霊の中にいるのです。もしキリストの御霊を持たない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」

パウロは「御霊が住んでいる」ことを確定的に語っています。

これは再生した者です。未信者には御霊の内住がありません(ヨハネ14:17)。

未信者はローマ書8章の対象ではありません。

 

そしてパウロは御霊が住まわれる人を 「神の子ども」とローマ8:14–15で呼びます。

「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。…あなたがたは、再び恐怖に陥れる奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」 子としてくださる御霊を受けた人々は神の世継ぎとなる身分を受けたと言うことです。 

2.からだの行いを殺す命令の意味

 

ローマ8:13の「からだの行いを殺すなら」と命令は、神の子とされた信仰者に与えられた命令です。そしてそれは日常、継続的に殺しなさいと言う命令。「殺すなら」(θανατοῦτε)=日常的、継続に神を選択、罪を断つ

 コロサイ3:5 「ですから、地上の体の部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、また貪欲を殺してしまいなさい。」  「殺してしまいなさい」というその場ではっきり決断するように命令。「殺してしまいなさい」(νεκρώσατε)」=その場ではっきり、神を選択、罪を断つ決断

 

パウロの命令は日常、継続的に神を選択し、罪を断ち、また、その場ではっきりと罪を断つ決断の命令

 3.ローマ8:13の御言葉をピリピ2:12-13から理解

 

ローマ8:13の御言葉をピリピ2:12-13から理解

"こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

 

"この命令は恐れおののいて自分の救いを達成するように言う命令です。しかし、その命令の達成は神が神の主権、御心のままに、働いて、神があなたに思いを与えると言います。しかし、恐れおののいて、あなたの救いを達成させると言う人間の常識では理解が困難な命令です。どう言うことなのか解説します。

 

<命令> 「私がいない今は、なおさら、あなたは恐れおののいて自分の救いを達成するように努力しなさい。 この命令はどのように完成されるかと言う説明をパウロはその次の節で説明している。

 

どのようにパウロの命令が完成するのか?

1) 神はみこころのままに

2) あなたがたの内に働いて 

3)そして神があなたがたの内に志を立たせる

4) そして事 「あなたの救い それは聖化の過程」を

5)神があなたに行わせる

 ➡ 「ピリピ2;14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい」

 

<何に不平を言うな、疑うな、従えとパウロが言っているのか? 

1)神はみこころのままに

2)あなたがたの内に働いて 

3) そして神があなたがたの内に志を立たせる

4) そして事 「あなたの救い それは聖化の過程」を

5) 神があなたに行わせる

1)から5)の原理について不平を言うな、疑うな

聖霊が御言葉を通してあなたに与える啓示、志にしっかり従いなさい。

4.この命令は誰に与えられたか?

 

御霊が御言葉を通してあたえる啓示はあなたの心を深くとらえます。

それはあなたの内に従順を生み、心から従う心を創造し、あなたを自分の欲に引っ張る罪の性質の力を支配し、御言葉に従い通す努力を生みます。

  

<罪と死の律法 ローマ8:7–8>

「なぜなら、肉にある者は神に敵対しており…肉にある者に神に喜ばれることはできないからです。」

再生していない者(肉にある者)は、罪を殺すどころか、神に喜ばれることができない。

したがって、8:13の命令はこの人々には絶対、不可能であり、それらの人々は対象外。

 

ローマ8:13の「御霊によってからだの行いを殺す命令」が与えられている者、

ローマ8:1 「キリストにある者」  ローマ8:9「御霊が住んでいる者」 ローマ8:14「神の子とされた者」

 

つまり、「御霊によってからだの行いを殺す命令」は御霊によって再生し信仰によって義とされ、御霊が内住している信者に与えられた。すなわち、キリストと結合されている者のみに与えられている。

この祝福はキリストと結合している者だけのみに与えられる祝福

 

5.御霊によってからだの行いを殺す命令の理解を角度を変えて考える

 

違う角度で、再度、話してみます。

「罪の性質の働きを殺すとは一度きりの完全勝利ではなく、いつも継続して殺し続ける行為」 

重要な理解は「罪のからだが滅ぼされる」、すなわち、罪の支配は無力化された(καταργέω)と言う事実、しかし、未だ、経験的には日々、支配的な力を喪失した罪の性質の残存が信仰者を悩ませる。

 

パウロが言う「からだの行いを殺す」とは、御霊によらない人間の自己努力や方法で罪を抑圧することではない。罪を殺すのは御霊なる神の働きであり、信仰者は御霊に満たされるように命令されていいます。

御霊に満たされると言うことは感情の高ぶり、神秘体験、聖書知識の量や方法ではありません。

 

救いは信仰を通して恵みより与えられた。信仰義認も与えられた。

聖化における罪の性質を殺すと言う行為も神から与えられた。

  これは「信仰を通して恵みによる」

「信仰を通して恵み」は「いのちの御霊の律法」  それは同じ原理です。

救いの始めから最後までを貫く神のあわれみと慈しみです。

 

 6.信仰は神の恵みを受ける空の器

 

信仰が有効なのはただキリストとの結合によります。

それは神から与えられる「空の器よう」です。

真の信仰者は自分から善を生み出す力はなく、主を離れては何もできなないことを御言葉と経験を通して悟ります。そして信仰は神の恵みがあふれでる泉です。

 

真の信仰は自分を制する人間の技術や努力ではなく、山を動かす技術ではありません。

信仰は自分が芯まで腐り果て無力であると確信し、絶えず、神に助けを求める空の器。その空の器に神は恵み注ぎます。そして神はその空の器に志しを与えるのです。

 

空の器に神が信仰を通して御霊が御言葉によっていのちと力を注がれます。

信仰者は神の志に従いたいと言う動機、思いが注がれて、御言葉から「強い決断と継続した行動」が与えられます。それが御霊によって歩むことの結果です。

神が肉の欲を満足させない強い決断と継続の意思の歩みをあなたの内に実際に生み出します。

(ガラテヤ5:16)。

 

したがって、人生を生きる1分、1秒を「自分は芯まで腐っている」「自分はなんてみじめな人間である」という現実の認識をもち、空の器を主に向けて絶えず神に助けをもとめ、御言葉をしたい求め続ける、御霊によって歩く――それは「信仰によって生きる」、聖化そのものです。(マタイ5:3)。


 7.聖霊が御言葉によっていのちと力を注がれる

 

ローマ10:17「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのことばによるのです。」 

信仰は自分で神を信じきる、信じなさいとか漠然とした願いや感情ではない。

信仰と御言葉は一つです。決して別々に存在しません。 

 

御言葉は絶えず、聖霊によって信仰者の心を神の主権、キリストとの結合、永遠の救いのご計画、福音の構造、十字架の死と復活、キリストへと導きます。 

 

 神の選びと御心の計画のなんたるかを啓示によって与えられ、そして信仰を通して救いの確信と安らぎを天から受けるのです。神は信仰者を常に「御霊に満たされる空の器」として生きるようご計画されてそのように変えられて行きます。

 

信仰とは「自分を芯まで腐りきっているとあきらめ、自分への希望をすべて捨て、イエスキリストのみが救いであるとすがり続ける」 その者はいつも神の御言葉を飢え、渇き、愛し求めます。

すべての真の信仰者はローマ7章、8章をいつも経験します。 

パウロはローマ人への手紙 9章23~26節で言います。

 

"しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。

 

「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。

あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

 

あわれみの器である選ばれた人々は心の中でいつも、どこでも心のなかで祈ります。

「わたしは芯の芯まで腐っている罪人です。私には何も良いものはありません。主よ、憐れんでください。神よ。心から感謝します。あなたは私を選び、キリストに結びつけてくださった。主よ、感謝します。」

 

8.罪と死の律法、原理を不信者の視点から理解


キリストと結合していない者は自分が芯まで腐っていることを認めず、罪の性質が自分のすべてに影響していることをしらない。

 

言い換えれば「自分は芯まで腐っていない」と主張し、罪の性質すなわち、「肉は自分の存在のすべてであることさえ」しることはない。その心は神を頼むことから離れ、そして人間の欲の力、いろいろな方法に頼り、罪の性質から逃れるために必死にのたうち回り、絶望する。

 

それは罪と死の律法の支配にある状態

パウロはこれを「罪と死の律法、または原理」と呼びます。 "肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。

 

 9.真の信仰者はキリストと結合により、いのちの御霊の律法によって歩む

 

ローマ人への手紙 8章8~10節

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。

キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。"

 <いのちの御霊の律法> キリストの御霊を持つ者

 1)神はみこころのままに

2)あなたがたの内に働いて 

3)そして神があなたがたの内に志を立たせる

4)そして事 「あなたの救い それは聖化の過程」を

5)神があなたに行わせる

 

<罪と死の律法>(ローマ7章)キリストの御霊をもたない者 

1)人間は己の欲望のままに歩む

2)律法の命令に直面すると、罪がかえって力を増す

3)罪の支配のしたにおり、罪の奴隷となっている

4)罪が意志を支配し、肉の行いが死臭のように覆う

5)その結果、律法は救いではなく、罪の認識と死の宣告をもたらす

6)その人の心は罪に対して無感覚になり、神の放置の裁きに入る


<いのちの御霊の律法と罪と死の律法の比較>

・「いのちの御霊の律法」= 神が内に働き、聖霊によって義と命へ導く原理

・「罪と死の律法」= 人間の堕落と罪の支配の下で、律法によりかえって死に閉じ込められる原理

 

➡ 神は御霊によらない人間の方法や人間の努力を信仰者に与えていない

神が信仰者に与えたのは御子キリスト」


 10.まとめ  キリストとの結合による「いのちの御霊の律法」とキリストのからだ

 

ガラテヤ5:16 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。」

 いのちの御霊の律法、原理は「御霊によって歩む」とは、「御言葉=信仰によって生きる」ことです。

信仰は、自分の力に頼らず、すべてを神にすがりつき生きること。

 

それは御霊によらない人間の方法や努力ではない。絶えず御言葉を通して神に、頼む生き方。

その生き方は個人的な生き方ではありません。それはキリストの体である選ばれ、召し出された人々の共同体、教会、交わり、説教、賛美、祈りの中にある生き方です。

 

コロサイ3:16は言います。

 

“キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。”

 

この理解はとても重要です。神は時の始まる前から人々を神の住まい、教会として選んだのです。

キリストとの結合による「いのちの御霊の律法」は真の信仰者の共同体となります。

クリスチャンが教会のメンバーと、夫婦で、家族で、御言葉の真理を語り、励まし、祈り、賛美しあうことは何という祝福でしょうか。それはキリストを頭としたキリストのからだであり、神がすべての人々がキリストによって満ちるところです。

 

「神によって選ばれた人々はともに1人の人であるキリストの似姿に変えられて行き、ともに栄光の体を与えられます。」 選び、再生、信仰、義認、聖化、そして栄化のすべては神の御業であり、神から選ばれた人々への贈り物です。

エペソ書1:4: 神は世界の基が据えられる前から「キリストにあって」、私たちを選び、御前で聖なる傷の無いものにされようとしました。 このみことばは聖化が神の御業であることを宣言しています。神はこの素晴らしい真理を聖書を通して啓示されています。

                       

「いのちの御霊の律法」は私たちの理解を遥かに超えます。

ただ神の御心は「選ばれた人々に対する憐みといつくしみ」であることを信じてください。 

イエスさまは言いました。決してあなたを見捨てることはありません。

それは変わることのない永遠の約束です。

そういうことで選ばれた人々にとって「いのちの御霊の律法」は決して強制とはなりません。

しかし、キリストにあって幼い人々はこの真理をなかなか理解できません。

知恵と御霊の啓示を神に祈り求めてください。神は必ず与えてくださいます。

 

ですからパウロは命令するのです。神の憐みと慈しみ信じること。そして神を選択し、不平をいわず、疑わず、こころから感謝して「いのちの御霊の律法」に従いなさいと。

いつも聖霊が御言葉を豊かにあなたの心に住まわせ、神が与える志に不平を言わず、疑わず、決断し、継続して従順に従うように。これは「いのちと御霊の律法を守りなさいと」言う命令です。

 

<いのちの御霊の律法> キリストの御霊を持つ者へ パウロは命令します。

1)神はみこころのままに

2)あなたがたの内に働いて 

3)そして神があなたがたの内に志を立たせる

4)そして事 「あなたの救い それは聖化の過程」を

5)神があなたに行わせる

ですから 不平をいわず、疑わず、聖霊が御言葉を通して与える志にしっかり従いなさい。


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