黙示録4~7章講解― 御座におられる神と、屠られた子羊が歴史と救いを完成される ―
2026.9.19 豊川の家の教会礼拝メッセージ
黙示録4~7章講解
― 御座におられる神と、屠られた子羊が歴史と救いを完成される ―
黙示録は、単に「終末に何が起こるのか」を説明する書ではありません。その中心にあるのは、「歴史を支配しているのは誰か」という問いです。答えは一貫しています。御座におられる神と、屠られた小羊です。
父なる神は永遠にキリストにあってご自身の民を選び、御子は十字架と復活によって贖いと勝利を成し遂げ、御霊は時の中でその民をキリストに結びます。そして神は、竜・獣・偽預言者・バビロン・死が激しく抵抗する歴史の中でもご自身の民を守り、最後には御顔を永遠に仰ぎ見る民として完成してくださいます。黙示録は、1章から22章までを単純な時系列として読むよりも、キリストの初臨から再臨・最後の審判までの同じ救済史を、異なる角度から繰り返し示す「巡回啓示」として読むと、その構造がよく見えてきます。
大きく分けると、
1.1~3章 キリストと七つの教会
2.4~7章 御座・小羊・七つの封印
3.8~11章 七つのラッパ
4.12~14章 女・竜・二匹の獣・小羊
5.15~16章 七つの鉢
6.17~19章 バビロンの滅亡とキリストの勝利
7.20~22章 サタンの敗北・最後の審判・新天新地
となります。
つまり、「キリストの初臨から再臨まで → 終末的完成」というように、同じ歴史を何度も巡回しながら描いているのです。これは「ディスペンセーションが言う教会時代」を意味しているのではありません。十字架・復活・昇天によってすでに開始された終末の時代を、天上・地上、教会・世界、迫害・審判、キリスト・サタンという異なる角度から繰り返し見せているのです。そして巡回するたびに視点は深まり、終末的対立はいっそう鮮明になり、最後には獣、偽預言者、竜、死、よみまでもが完全に滅ぼされ、神の民が新天新地における完成へ導かれます。したがって、黙示録の基本的な動きは単純な「1章 → 2章 → 3章……→22章」という一本道の未来年表ではなく、「初臨 → 現在 → 再臨・審判」という同じ救済史を何度も巡りながら、その意味を次第に深く啓示していく構造なのです。
1~3章――栄光のキリストと教会: 黙示録は獣から始まりません。キリストから始まります。ヨハネが見るのは、死んで復活し、「死とよみの鍵」を持つ栄光のキリストです。したがって黙示録が始まった時点で、すでに勝敗は決定しています。
2~3章の七つの教会には、迫害、偽り、妥協、霊的死があります。しかしキリストは燭台の間を歩いておられます。教会は自力で生き残る共同体ではなく、復活されたキリストに属し、キリストによって知られ、守られ、完成へ導かれる民です。だから繰り返し「勝利を得る者」と呼ばれます。その勝利は自分で作り出すものではありません。すでに勝利されたキリストに属するゆえの勝利です。
4~7章――御座、小羊、封印 : 4章では天の御座が示されます。5章では、神の御手にある巻物を誰も開くことができず、ヨハネは泣きます。しかし「ユダ族から出た獅子が勝利した」と告げられます。ところがヨハネが見ると、そこには屠られた小羊が立っています。ここが黙示録の福音の中心です。6章では戦争、飢饉、死、迫害が現れます。しかし、封印を解いているのは小羊です。7章では最後にはあらゆる国民・部族・民族・言語からなる大群衆が小羊の前に立ちます。神の民は苦難を免れるのではなく、苦難の中で神に属する者として守られ、最後まで導かれるのです。
黙示録4章から7章に入ると、ヨハネの目の前に天が開かれます。ここから黙示録は、地上で起こっている出来事を、天の御座から見せていきます。
4章 天にある御座――すべての中心におられる神: 3章まででは、地上にある七つの教会が描かれていました。教会には弱さがあります。迫害があります。偽りの教えがあります。霊的な眠りがあります。しかし4章になると、ヨハネの視線は地上から天へ移されます。「その後、私は見た。すると見よ。開かれた門が天にあった。」そして御霊に捕らえられたヨハネが最初に見るものは、御座です。「見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。」黙示録を理解するためには、この順序が重要です。ヨハネは最初に獣を見たのではありません。竜でもありません。戦争でもありません。迫害でもありません。最初に御座を見たのです。地上では獣が支配しているように見えますが違います。しかし、神の御座です。これが黙示録全体を見る視点になります。
御座に着いておられる方: ヨハネは神ご自身の姿を直接描写しません。碧玉や赤めのうのような輝きとして描きます。これは神を人間の形に閉じ込めるのではなく、その栄光、聖さ、威光を象徴的に表しています。さらに御座の周りには、エメラルドのような虹があります。虹は創世記9章のノア契約を思い起こさせます。裁きを行われる神は、同時にご自身の契約を覚えておられる神です。
二十四の御座と二十四人の長老: 御座の周りには二十四の御座があり、二十四人の長老が白い衣を着て、金の冠をかぶっています。二十四という数字についてはいくつかの理解がありますが、黙示録全体、とりわけ21章の十二部族と十二使徒との対応を考えるなら、完成された神の民を代表する天上の長老たちとして理解することができます。彼らは冠を持っています。しかしその冠を自分の栄光として保持しません。神の御前に投げ出します。つまり、神の民が受ける栄光さえ、その源泉は神にあるということです。
稲妻、声、雷鳴: 御座から稲妻、声、雷鳴が出ています。これは出エジプト記19章のシナイ山を思い起こさせます。神はただ優しく慰める方として描かれているのではありません。聖なる、恐るべき、全能の神として御座におられます。この稲妻・声・雷鳴は、その後8章、11章、16章にも現れ、神の裁きが進んでいく重要な表現になります。
七つの火のともしび――神の七つの御霊: 御座の前には七つの火のともしびがあります。ヨハネはこれを、「神の七つの御霊」と説明します。七は完全を表す数です。七人の聖霊がいるという意味ではありません。完全な働きをなさる聖霊を象徴的に表しています。したがって御座の場面には、父なる神だけでなく、御霊の働きもあります。そして5章では子羊が現れます。4~5章には三位一体的な構造を見ることができます。
ガラスの海: 御座の前には水晶に似たガラスの海があります。聖書において海はしばしば混沌や脅威と結びつきます。しかし神の御座の前では、それは荒れ狂っていません。水晶のように静まっています。混沌さえ神の御座の前では支配されています。
四つの生き物: 御座の周りには四つの生き物がいます。獅子、雄牛、人間、鷲のような姿をしています。これはエゼキエル1章、10章、そしてイザヤ6章の幻を背景にしています。彼らは昼も夜も絶え間なく、「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者」と神を礼拝します。神の聖さは三重に強調されています。そして二十四人の長老もひれ伏します。4章の礼拝の中心は、創造です。「あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」世界は偶然存在しているのではありません。神のみこころによって存在しています。したがって4章の中心は、創造者である神が御座におられ、すべての被造物がその神を礼拝しているということです。
5章 巻物と屠られた子羊: 5章では、御座に着いておられる方の右手に巻物があります。その巻物は内側にも外側にも文字が書かれ、七つの封印で封じられています。この巻物は、これから歴史の中で実現していく、神の裁きと救いを含む神のご計画を表していると理解できます。力ある御使いが叫びます。「巻物を開き、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」しかし、天にも、地にも、地の下にも、巻物を開くことのできる者はいません。そこでヨハネは激しく泣きます。
なぜなら、もし巻物が開かれなければ、神のご計画が歴史の中で完成しないからです。しかし長老の一人が言います。「泣いてはいけない。」「見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利した。」これは創世記49章のユダの獅子、そしてイザヤ11章のエッサイの根というメシア預言につながっています。ヨハネは、獅子について聞きました。しかし見ると、屠られた姿の子羊が立っています。ここが黙示録全体の中心の一つです。キリストは獅子として勝利されました。しかし、その勝利は、子羊として屠られることによって成し遂げられました。十字架こそキリストの勝利です。
七つの角と七つの目: 子羊には七つの角と七つの目があります。角は力を象徴します。七つですから、完全な力。七つの目は、「全地に遣わされた神の七つの御霊」です。つまり子羊は完全な力を持ち、御霊によってすべてをご存じです。
子羊が巻物を受け取る: 子羊は御座に着いておられる方の右手から巻物を受け取ります。すると天全体の礼拝が始まります。四つの生き物と二十四人の長老は子羊の前にひれ伏します。彼らは琴と香の満ちた金の鉢を持っています。その香は、「聖徒たちの祈り」です。つまり地上で苦しみながら祈っている神の民の祈りは、天では神の御前に届いています。これは6章の殉教者たちの「いつまでですか」という祈りにもつながります。
新しい歌: 彼らは歌います。「あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い……」救いの根拠が明確です。子羊の血です。そして贖われる民は一つの民族に限定されません。すべての部族、言語、民族、国民から神の民が集められます。これは7章の数えきれない大群衆につながります。さらに無数の御使いたちが、「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」と叫びます。最後には、天、地、地の下、海にいるすべての被造物が、御座に着いておられる方と子羊を礼拝します。4章では創造者なる神への礼拝。5章では贖い主なる子羊への礼拝。ここで神と子羊が礼拝の中心に並んでいます。
6章 子羊が歴史の封印を解かれる: ここから子羊が封印を解き始めます。重要なのは、封印を解いている主語が子羊であることです。
第一の封印――白い馬: 白い馬に乗る者が現れ、弓を持ち、冠を与えられ、「勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った」とあります。この騎手についてはキリスト、福音、征服者など複数の解釈があります。しかし第二から第四の騎手との連続性を考えるなら、ここでは人間世界における征服・支配・戦争へ向かう力と理解する方が自然です。重要なのは、冠が「与えられた」ということです。その力は絶対的ではありません。許された範囲でしか働けません。
第二の封印――赤い馬: 赤い馬の騎手には、地上から平和を奪うことが「許され」ます。ここでも神の主権があります。戦争は恐ろしい現実です。しかし戦争さえ神の主権の外にある独立した力ではありません。
第三の封印――黒い馬: 黒い馬の騎手は秤を持っています。小麦、大麦が非常に高価になります。これは飢饉、物価高騰、経済的困窮を表しています。しかし、「オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない」と言われます。裁きには限界があります。完全に無制限ではありません。
第四の封印――青ざめた馬: 第四の騎手の名は、「死」です。よみが後についてきます。剣、飢饉、死病、野獣によって人々が死にます。しかしここでも、「地上の四分の一を支配する権威が与えられた」とあります。四分の一です。つまり死の力にも限界があります。神が定められた範囲を越えることはできません。第一から第四の封印を通して繰り返されるのは、「与えられた」「許された」**という構造です。悪は存在します。戦争もあります。飢饉もあります。死もあります。しかし、それらが主権者なのではありません。封印を解いているのは子羊です。
第五の封印――祭壇の下の殉教者: ヨハネは、「神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たち」を見ます。彼らのたましいは祭壇の下にいます。旧約では犠牲の血が祭壇の土台に注がれました。したがって、彼らの命が神へのささげ物のように描かれています。しかし彼らの死が贖罪を成し遂げるのではありません。贖罪を成し遂げたのは子羊だけです。彼らは、子羊に属し、神のことばを証ししたために殺された者です。彼らは叫びます。「聖なるまことの主よ。いつまでですか。」これは不信仰の叫びではありません。神が必ず裁かれることを信じているからこそ、「いつまで」と祈ります。そして彼らは自分で復讐しません。裁きを神に委ねています。彼らには白い衣が与えられ、「もうしばらくの間、休んでいるように」と言われます。神の答えは、「裁かない」ではありません。「まだその時ではない」です。
第六の封印――大いなる裁きの日: 大地震が起こります。太陽は黒くなります。月は血のようになります。星は落ちます。天は巻物のように消えます。山と島が動かされます。これはイザヤ13章、34章、ヨエル書などに見られる、「主の日」の裁きの言語です。単に天文学的現象を説明することが中心ではありません。神の最終的な裁きが来ることを示しています。王、高官、千人隊長、金持ち、力ある者、奴隷、自由人。すべての階層の人間が神の御前で同じになります。彼らは、「御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ」と叫びます。創世記3章で、罪を犯した人間は神の御顔から隠れました。ここでも罪人は神の御顔から逃れようとします。そして6章は、「神と子羊の御怒りの大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」という問いで終わります。
7章 「だれが耐えられよう」への答え: 7章は6章から切り離してはいけません。6:17の、「だれが耐えられよう」という問いへの答えが7章です。
四人の御使いと四方の風: 四人の御使いが地の四隅に立ち、四方の風を押さえています。つまり裁きが直ちに始まるのではありません。別の御使いが、「私たちの神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木々にも害を与えてはいけない」と言います。ここでも裁きを支配しているのは神です。裁きより先に、神がご自身の民に印を押されます。
神の印: この印は、神の所有と守りを表します。しかしこれは、「苦難に遭わない」という意味ではありません。なぜなら7:14で、この人々は、「大きな患難を経てきた者たち」だからです。神の守りとは、患難を一切経験させないことではなく、患難を通しても、ご自身の民を最終的に失わず、救いの完成まで守り抜くことです。
144,000人: ヨハネは、「印を押された者たちの数を耳にした」と言います。144,000人。12×12×1000です。また、この部族表は通常の旧約の部族表とは異なります。ユダが最初です。ダンがありません。レビが入っています。ヨセフとマナセが入り、エフライムという名前はありません。したがって、単純な民族的イスラエルの人口統計として読むより、メシアであるユダ族の獅子キリストを中心として完成された神の民を象徴していると理解することができます。
「聞いた」と「見た」
ここは非常に重要です。5章でヨハネは、「ユダ族から出た獅子」について聞きました。しかし実際に見ると、屠られた子羊でした。獅子と子羊は別々のキリストではありません。同じキリストを異なる角度から示しています。同じように7章では、144,000人のイスラエルについて聞きます。しかし、その後、「私は見た」と言います。するとそこには、「すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆」がいます。したがって、144,000人と大群衆を二つの別々の救済集団とするより、神から見れば完全に数えられた神の民を、ヨハネが見ると、世界中から贖われた数えきれない大群衆だったという構造として読むことができます。
御座の前に「立つ」大群衆: 6:17では、「だれが耐えられよう」と問われました。ところが7:9では、大群衆が、「御座の前と子羊の前に立って」います。誰が立つことができるのでしょうか。彼らは叫びます。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」答えは彼ら自身の中にはありません。救いは、神と子羊にあります。
白い衣
長老がヨハネに尋ねます。「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。」そして答えます。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」彼らが御座の前に立つことのできる根拠は、患難に耐えた自分の功績ではありません。殉教したことでもありません。信仰の強さでもありません。子羊の血です。血で洗って白くなるという逆説によって、キリストの贖罪の完全性が示されています。
「それゆえ」15節は、: 「それゆえ」と続きます。子羊の血によって白くされた。それゆえ、神の御座の前にいる。ここに神の御前に立つ根拠があります。
神が幕屋を張られる: 「御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。」これは聖書全体を貫くテーマです。エデン、幕屋、神殿、キリスト、そして新しいエルサレム。神の救いの目的は、単に罪を赦して終わることではありません。神がご自身の民とともに住まわれることです。この約束は21:3で完成します。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。」
もはや飢えず、渇かない
16節はイザヤ49:10を背景にしています。神は荒野を通るご自身の民を養い、水の泉へ導かれます。ここには新しい出エジプトのイメージがあります。神がご自身の民を、苦難から永遠の安息へ導かれるのです。
子羊が羊飼いになる: そして17節。「御座の中央におられる子羊が彼らを牧し」とあります。これは驚くべき表現です。子羊が羊飼いになる。詩篇23篇の「主は私の羊飼い。」ヨハネ10章の「わたしは良い牧者です。」これらがここで完成へ向かいます。屠られて私たちを贖われた子羊が、今度はご自身の民を牧してくださいます。そして、「いのちの水の泉に導かれる。」救いとは単に裁きを免れることではありません。神がキリストによってご自身の民をご自身のところまで導くことです。
神が涙をぬぐわれる: そして、「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」彼らは涙を流さなかった人々ではありません。患難を通りました。迫害されました。飢えました。渇きました。ある者は殺されました。しかし、最後には神ご自身がその涙をぬぐわれます。これは21:4で完全に成就します。
4章から7章を一本につなぐ: ここまでを見ると、4~7章には非常に明確な流れがあります。4章―御座。すべての中心には、創造者であり全能者である神がおられる。5章―子羊。神の永遠のご計画を実現するのは、屠られて復活されたキリストである。子羊はご自身の血によって神の民を贖われた。6章―封印。子羊が歴史を開いていかれる。征服、戦争、飢饉、死、迫害がある。しかし、それらの力にも限界があり、歴史は一瞬たりとも子羊の御手から離れない。殉教者の「いつまで」という祈りも神の御前に届いている。そして最後には神の裁きが来る。7章―印を押された神の民。「だれが耐えられよう」という問いに対して、神はご自身の民を完全に知り、ご自身のものとして印を押し、子羊の血によって白くし、患難の中でも守り、最後には御座の前に立たせてくださる。したがって4~7章の中心は、「終末に何が起こるのか」ではなく、「そのすべてを支配しているのは誰なのか」です。答えは、御座におられる神と、屠られた子羊です。神の民は患難を経験します。しかし患難が神の民を支配するのではありません。戦争も支配者ではありません。飢饉も支配者ではありません。死も支配者ではありません。迫害者も支配者ではありません。竜も獣も支配者ではありません。御座におられる神と、屠られた子羊が支配しておられます。そして神は、ご自身の民を苦難から常に取り除かれるとは約束されません。むしろ患難の中を通されることがあります。しかし、神はご自身の民を一人も失われません。印を押し、子羊の血によって贖い、白い衣を着せ、患難の中でも守り、子羊によって牧し、いのちの水の泉へ導き、すべての涙をぬぐい、最後には御座の前に立たせてくださいます。
そしてこの流れは黙示録22章へ向かいます。創世記3章では、罪を犯した人間は、神の御顔から隠れました。黙示録6章でも、神に敵対する者たちは、「御座に着いておられる方の御顔から私たちを隠してくれ」と叫びます。しかし、子羊の血によって贖われた神の民について、最後にはこう書かれています。「彼らは御顔を仰ぎ見る。」(黙示録22:4)ここに聖書全体の救いの歴史があります。神の御顔から逃げた罪人を、神が子羊の血によって贖い、ご自身のものとして印を押し、患難の中でも守り、子羊によって牧し、すべての涙をぬぐい、最後にはご自身の御顔を永遠に仰ぎ見る民として完成してくださる。黙示録4章から7章は神と子羊の救いの御業を私たちに見せているのです。
