金銭を愛する生活
- 7月4日
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2026.7.1 The Word for you
では始めます。ヘブル書の13章の5節。
金銭を愛する生活をしてはいけません。今持っているもので満足しなさい。主ご自身が私は決してあなたを見放さずあなたを見捨てないと言われたからです。
このみことばの意味は、金銭を愛する生活をしてはいけませんと言い、その後に「私は決してあなたを見放さずあなたを見捨てない」と言われました。この意味は、金銭はあなたを救うものではないと言っています。神はご自分の民を最後まで決して見放さずに守られる。決してご自分の子を見捨てられない。だからここでお金を信頼して、お金によって安心や自分が安全な地域に逃げるという、心を持ってはいけないと言っています。
直接的には金銭をする心、すなわち神以外のものに望みを置くことへの戒めです。しかし、その根本にあるというのは、神が今与えておられるもので満足しないという心です。その構造は、知識を求め続ける肉の貪欲さにも当てはまります。つまり、これはあらゆる欲。しかし例えば金銭欲、知識欲を単純に同一するのではなくて、満足しないという肉の貪欲の構造です。
例えばキリスト教に関する宗教知識であっても、同じようになってしまいます。知識で自分を安全な場所に置こうとする。お金で自分の安心を買う。知識で自分の安心を買う。同じです。神はすでに安全なものを与えている。だからお金ではなく言葉。「私は決してあなたを見放さず私はあなたを見捨てない」というところにとどまりなさい。それでも満足せずお金を求める。それは、キリストを与え、福音を与え、御言葉を与えておられるのに、それでは満足せず、なお次の知識、次の刺激、次の話を求め続ける。
それはもはや熱心ではありません。それは神が与えたもので足りないという心、構造がそこにあります。今、キリストから与えられたものに満足できない理由。お金もそうです。お金も神が与えています。同じようにみことばも同じです。その心が、満足できないという心が目を塞いでいる。あなたにキリストが与えられている。福音が与えられている。みことばが与えられている。悔い改め導く光が与えられている。それでも満足できないのは、見えていないからです。
見えていないから与えられていません。肉の思いは神の恵みを小さく小さく見せます。肉の思いはキリストを当然のものとします。肉の思いはみことばを聞き流させます。肉の思いはもっと別のもの、新しいものが欲しい。そのように心を掻き立てます。あなたの心はみことばで満足せずインターネット、あなたの心はみことばで満足せず他のメッセージ、他のメッセージ、まだ何かあるんじゃないか、まだ何かあるんじゃないか、そのように心が移っていきます。あなたは 感動しても満足しません。それは単なる知識の不足ではありません。問題は、肉の思いに目を塞がれて、すでに与えられているキリストの尊さ、この素晴らしいキリストが見えなくなってることです。
知識を求めること自体が悪いことではありません。しかしあなたがキリストにひれふすためにではなくて、自分の知識欲を満足するために知識を求めるなら、それは全く霊的成長にはつながっていません。あなたは知識を得たから、さらに霊的になっていくと思います。それは100%間違いです。知識は、キリスト教の知識はあなたを霊的にしません。ただの肉の貪欲です。真理はそのように働きません。
真理は絶えず罪人を砕き、キリストの前に低くさせるために与えられています。それなのに聞いても砕かれずに、知っても悔い改めずに、なおも知りたい、このような知識欲は信仰ではありません。肉の思い、貪欲と言います。それはこういう形で表れてきます。もっと知りたい、もっと知りたい、もっと知りたいと言いながら、実際には従わない人生。もっと聞きたい、もっと聞きたい、もっと読みたい、もっと知りたい。実際にはでも、悔い改めがない。もっと深く知りたい。そう言いながら実際には与えられたみことばにとどまることがない。
すなわち、これは真理を求めているのではないということがはっきり分かります。あなたがそのような姿勢でみことばに挑んでる、みことばに求めてるのであれば、それは単なる真理を利用した自分の欲望を養っているだけです。その人は見た目によって歩く意味すら分かっていないし、三位一体 自体も分かっていません。キリストも分かっていません。見た目によって歩くというのは、知識を増やすことではありません。聖書の言葉を多く知ることでもありません。正しい理屈を並べて書くことでもありません。あなたのノートにどれだけみことばを書こうが、理屈を書こうが、真理を書こうが、新しい正しい教理を書こうが、そんなことは一切関係ありません。
ただ、みことばによって歩くとは、あなたが試練の中に置かれ、肉の思いがその試練の中で砕かれていき、自分の欲、知識欲、自分の満足、自分の正しささえ死に付けられる、キリストと共に。そしてキリストを最後の望みとして歩く人生。その信仰の中に歩かされること。だからもう一度言いますけど、あなたが聞いても従わず、知っても砕かれず、教えられても悔い改めず、試練を嫌だと逃げ出し感謝せず、試練は嫌いだと言い、口先の宗教になる。口先では試練は良いと言いながら、その実は試練の前で逃げるあなたは何者ですか?なお次の知識を求め続ける人。そのような人は、御霊によって歩いてるのではありません。肉によって、歩いて死に向かって歩いています。その姿が見えませんか?
だから、悔い改める。キリストで満ち足りない心はどれだけ貪欲なのか?みことばで満ち足りているということを知らない。すなわち、みことばによって生きなければ何の意味もない。情報不足ではありません。これが、貪欲だからです。神が与えたキリストの真理を軽んじて、なおもなおもそれを軽んじておいて、キリストの真理を求める。その欲しがる心こそまさに神によって砕かれなければならない、神が砕く心です。だからそのような心、そのような態度、そのような生活をして、みことばを粗末に扱うその心は砕かれるということをあなたは知らなければいけません。
どれだけ神のみことばを使い捨てにするのか。聞いて満足せずに、知って従わずに、教えられて悔い改めずに、また知識を求める。どれだけみことばを使い捨てにしたらいいんですか?あなたたちは。あなたはみことばを命として受け取っているのではありません。ただ知識欲を満たす材料として浪費しているだけです。みことばはあなたの知識欲の刺激のための情報ではありません。そのような人には、どれほど素晴らしいことが語られても、決して見えないです。どれほど真理が明らかにされても、決して悟らない。どれほど福音が差し出されても、決して癒されることはない。
それが答えです。なぜならあなたが求めてるのはキリストではない。キリストについての宗教知識です。あなたが求めてるのは悔い改めではない。自分の暇を埋める材料、自分を満たすための刺激、自分が安全になりたいという知識。あなたが求めているのは従順ではない。なおも知り続け、なおも知り続けることで自分をごまかす道ですよ。それは聞き流し使い捨て、次の話に走る暇つぶしの道具。それは単なる愚かさじゃない。それは神のみことばに対する冒涜です。
どれだけ知識を求めたら気が済むんですか?そうじゃないでしょう。あなたは、そのみことばに生きなければ何ら意味がない。あなたは試練の中を歩かなければ何ら意味もない。あなたが単なる知識を、キリスト教の宗教知識を求めるのであれば、それは肉に従って歩いているということです。
お祈りします。愛する天のお父様、どうか私たちが真にあなたにへりくだり、このみことばの素晴らしさ、尊さ、イエス様が十字架の上で本当に苦しんで私たちのために、私たちの罪、私たちの神の怒り、私たちが一方の呪いを受けてその全てを背負って亡くなられた、この福音のみことばをどれだけ、どれだけ大切にするか、しなければならないか、あなたが今日語ってくださったことを感謝します。今日聞いている兄弟姉妹たちの中で、そのようにあなたが示されたのなら、どうか心から悔い改め、神に許しを請い、そしてみことばを大切に、そしてそれによって生きるものと変えてもらうように祈ってください。愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。アーメン。
