聖霊の内住とその偉大さ
- thewordforyoujapan
- 1月10日
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2026.1.4 聖霊の内住とその偉大さ 豊川の家の教会礼拝メッセージ
はじめに:最初に誤りを明確にする
聖霊の内住について、今日多くの教会において、誤った聖霊(御霊)の内住が語られている。
それは、
人を「霊・魂・体」に分解し
聖霊はその人の「霊」の部分に住む
霊が救済・霊性・支配の中心である
と言う教え。
これは神学では三部分説・神秘主義的理解と呼ばれる。これは聖書の教えではない
1.三部分説の正体
「霊・魂・体に分ける」は聖書ではなく、人為的神学装置
1)三部分説は次のように教える
人は「霊・魂・体」の三つから成る
霊が神と交わる中心
魂は感情や人格
体は器で二次的
霊が強い=霊的に高い
霊が神の霊と結合する
霊は良い、体は悪いという2元論
三部分説(trichotomy)が成立・発展してきた流れは、ほぼ例外なく
プラトン的二元論
新プラトン主義
グノーシス主義
霊肉二元論的禁欲主義
と結びついている。これらは共通して、
霊=高次・純粋・神的
体=低次・汚れ・束縛
という価値序列を前提にする。
したがって、三部分説は、歴史的には明確に〈霊善・体悪〉二元論と同系統。
2)聖書神学的に見てどうか
重要な区別点:三部分説を唱える現代の多くの教会は、こう反論する。「私たちは“体は悪”とは教えていない」これは表現上は事実な場合がある。しかし問題はそこではない。
3)「教えている」のは明示か、構造か
三部分説は、明示的に教えなくても、次を必然的に生む。
霊=神と直接つながる領域
体=二次的・従属的・管理対象
霊の状態が救済・霊性の指標
この瞬間に、霊は「価値判断の中心」、体は「霊に比べて低位」という事実上の善悪・高低の二元構造が成立する。これは「体は悪だ」と言わなくても、神学構造としては完全な霊肉二元論である。
4)聖書との決定的衝突点
聖書は一貫して、
創造:体は「非常によかった」(創1:31)
受肉:御子は肉体を取られた(ヨハ1:14)
救済:体も贖われる(ロマ8:23)
終末:体の復活(1コリ15)
を語る。
つまり聖書は、
体は悪→ 捨てられる ではなく、
体は被造物 → 堕落したが → 贖われ → 栄化される
という反二元論的構造。
三部分説はここに真っ向から衝突します。
三部分説は一見すると霊的に聞こえる。しかしこれは、聖書の人間観を分解し、体験を最上位に置くための仕組み。
この瞬間に起きるのはこれ、
本来「人が救われる」という福音が、「霊だけの物語」に縮小される。
2.3分解理解の問題点と破壊
霊、魂、体と単語が並んでいる=構成部品ではない
三部分説が最も依拠する聖句の解析。
1テサロニケ5章23節(新改訳2017)
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。また、あなたがたの霊、たましい、体のすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところなく保たれていますように。」
ここから、三部分説は、「人は三つの構成要素でできている」と主張する。字義的に聖書を読むことが大切であると言う。
しかし、それは字義的理解ではない。それは部品化読み。
同じ聖書はこう言う
申命記6章5節
「あなたは、心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
これを「人は心・いのち・力の三部品」と読む神学はない。理由は明白。これは、「存在のすべてをもって」という全体表現を意味することがわかるから
1テサロニケ5:23の構造も全く同じ
しかも直前には、
「完全に」
「すべて」
という全体語が置かれている
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。
また、あなたがたの霊、たましい、体のすべてが、、、
文脈上の意味は一つしかない、神が、あなたがたを完全に、一切取り残しなく守られる。ここに「霊と魂は別実体」という構成論を持ち込むこと自体が、文脈破壊。
3.文脈理解の破壊
聖書は一部の聖句を切り取って、解釈してはならないという字義的解釈論の基本がある。聖書は文脈で理解する。すると、人間の構造図を教えていないことがわかる
聖書は、人を「霊・魂・体の階層構造」として説明するために書かれていない
聖書が創世記から黙示録まで一貫して語る文脈は、
神が信仰者の存在すべてを創造された
神が信仰者の存在すべてを所有される
神が信仰者の存在すべてを救われる
神が信仰者の存在すべてを支配される
神が信仰者の存在を栄化へ導かれる
という救いの現実。
三部分説がやっていることは、救済の現実を、「信仰者の存在すべての救い」から「霊的な救い」へすり替えること。これは焦点のすり替えであり、聖書の目的、文脈から完全に外れる。
4.霊と魂は同一である
聖書自身が霊と魂を交換可能に用いている。もし霊と魂が別の実体なら、聖書は厳密に使い分ける。
しかし実際には、同一人物・同一経験・同一行為、同一聖書箇所で霊と魂を言い換える。
4-1.マリアの賛歌(ヘブライ詩文並行法)
ルカ1章46–47節
「マリアは言った。『私のたましいは主をあがめ、私の霊は、私の救い主なる神を喜びたたえます。』」
これはヘブライ的並行法で、魂=霊=私の全存在を二重に言い切る。
4-2.イエスご自身の用法(同一の苦悩)
•ヨハネ12章27節「今、わたしの心は騒いでいます。」
•ヨハネ13章21節「イエスは霊において激しく心を騒がせ…」
同一人物、同一文脈、同一苦悩
結論は明確で、霊と魂は部品ではない。同一の人を指す、文脈依存の表現である。
5.なぜ多くの教会で三部分説が好まれるのか
理由は「聖書的だから」ではない。この理解は、次のような構造を必然的に生み出す。
人間存在の一部(霊)だけを「聖なる領域」として切り離す
霊を基準として、組織、グループ内に霊的序列や支配構造が形成される
福音が、完成した救いの宣言ではなく、体験・操作・対処への方法と再定義される
これは霊的深化ではなく、福音の構造的破壊である。
6.聖霊の内住の真理
聖霊の内住とは、
人間の霊が神の霊と合体する神秘主義ではない
神が、主として、人の存在すべて、そのものを住処とされた現実である
エペソ3章17節
「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。
そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが…」
「信仰によって」とは、
人の理解
人の努力
人の感情
ではない。神が与えた信仰という通路を用いて、神ご自身が、結合の現実を存在全体に確証として現されること。
つまり、こういう意味
信仰とは、人が理解して到達する力でも、内面で何かを感じ取る能力でもない。
神が与えた信仰とは、神がご自身の救済の現実、恵みを人に与えるために、神ご自身が用いられる空の器(通路)である。
したがって、
人が信仰によって結合を「作る」のではありません。
人が信仰によって結合を「引き起こす」のでもありません。
神が、永遠の時の始まるまえに信仰者を選んだ結合の現実を、信仰という通路を通して、その人の存在全体に「現実としてあらわされる」ということである。
言い換えるなら、結合は信仰の結果ではなく、信仰は結合が現れるために神が備えられた空の器である。
さらに言えば、信仰によって起きているのは「内面体験」ではなく、神が、信仰者をキリストのものとして所有し、支配し、生かしておられるという救いの現実が、隠れた観念ではなく、信仰者の存在全体に及ぶ現実として表に現れることである。
だからこれは、「分かった、気づいた、感じた、泣けた、心が熱くなった」という話ではない。神が、その人を結合の中に生かしておられる、という事実が動かしようなく示される、それが「信仰を通して」起こること。
7.結合は肉体にまで及んでいる
三部分説は結合を聖霊と自分の霊のつながりと思わされるため、結合が全人格的、全契約的、全救済史的であることを知らない。その中で結合が信仰者の肉体までおよぶと悟る者は稀有である。
ローマ12章1節
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる生きた聖なる供え物として献げなさい。」
1コリント6章19–20節
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる聖霊の宮である…」
結合の対象は、信仰者の肉体も含む存在全体。肉体が御霊による結ばれている=それは神の全人格、契約、救いによる神は聖霊の宮とした信仰者の体を所有している、そしてそれを捨てることはしない。その体はキリストの再臨の時、キリストにあって復活する。
"すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、"
テサロニケ人への手紙 第一 4章16節
8.御霊が人に住まわれるとは
神が、ご自身の主権によって、人を住まいとされた現実である。それは比喩でも、象徴でも、内面体験でもない。
創造主が被造物の内に住まわれ、所有し、支配し、受肉・十字架・復活・昇天に結ばれ、将来の復活と栄化へと確実に導いておられる、救済の現実。
なぜ、信仰者は新たないのちを受けるのか、それは御霊がいのちであるから。御霊は信仰者の人としてのすべてに、その体に住み、全人格的に、契約的、全救済的に結合する。信仰者の全存在は神の所有であるからである。
我々の偉大な神、人が何かを成し遂げたからではなく、神が、そのように成しておられるからである。
これは、三位一体なる神が、父なる神により、キリストにあって、御霊によって信仰者の全存在そのものを結合し、守り続けて、生かし、治めておられる。これが結合である。

