天から新しく生まれる
- thewordforyoujapan
- 5月24日
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更新日:6月14日
今日は、ヨハネの福音書の14章20節をもう一度読みます。
その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなた方にわかります。
「あなたがたがわたしのうちに」いることのスタートポイントは、再生です。「新しく生まれた」、ここからスタートします。プリントの中心が一番重要です。それは、「天から新しく生まれ永遠に結合する。」であり、天から新しく生まれ永遠に結合することは、100%神の主権の業です。人はここに一切関与できません。私たちの願いや思いではなんともなりません。これが聖書が言っていることです。
人が天から新しく生まれることは、ヨハネの福音書第3章からの引用です。ニコデモとイエスキリストの会話の中で、ニコデモがイエス・キリストから言われたことです。ここに、ニコデモの葛藤がありました。ニコデモは秀才で、宗教観、儀式、知識においてはユダヤ人の中でもエリートであり、そして律法の実践においても、やはりトップのユダヤ人だったのに対して、イエス・キリストはそれを全て否定しました。つまり、人間の業や行いでは誰一人として義と認められないということです。
そして十字架の死まで、この一体性というのは関連します。十字架の死も、この一体性からスタートするということです。キリストと結合しているこの結合を基本として、それが元となり、十字架の死と復活が私たちの死と復活になっているということです。十字架の死というのは、私たちがイエス・キリストと結合しているので、十字架の死に結合しています。そして、十字架の復活に結合しています。
この十字架の死と復活をさらに詳しく語ります。
私たちの罪を、イエス・キリストが身代わりとなり罰を受けてくださり、対処してくださいました。イエス・キリストの33年間の人としての人生、この神の人が、33年間イスラエルで、ユダヤで、エルサレムで生きた、完全なその人生が、神によって義と認められています。この義が、私たちに渡されました。私たちはその、十字架のイエス・キリストと結合しているので、そこで私たちの義をキリストから頂きました。それは、キリストの義です。私たちの義ではありません。イエス・キリストの義なので私たちには自分が誇るものが何もありません。
私たちの罪の身代わりとして、キリストが死んでくださったいました。そしてその時に、私たちはイエス・キリストとともに十字架で死にました。
これが信仰義人という教義です。
そしてまた同時に、この十字架の上で行われたのは、私たちが死んで蘇ったということです。
この死が、現在生きている私たちにどう適応されるかというと、イエス・キリストの死を私たちはずっと帯びています。
すなわち、私たちは、罪に対して死んでいるという人生を送ります。罪は私たちを支配することができません。これが聖化の教義です。
私たちは、今生きていますが、それは私たちが生きているのではなく、イエス・キリストが生きています。このガラテア人への手紙2章20節の信仰告白は聖化の話しをしています。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
パウロは、私はイエス・キリストを信じて、キリストともに十字架につけられ、今生きているのは、イエス・キリストが信仰により私のうちにいると言っています。その信仰は神が与えてくださったものです。
そしてそれが聖化だということです。
神との一体性は、選びからスタートします。用紙の中央にある、「天から新しく生まれる」という今現在のアクションを神が行ってくださったことから、私たちがイエス・キリストと一体であるということがスタートします。そして、その完成は、信仰を受けた時なので、パウロは、「私たちの内にイエス・キリストが信仰によって住まわれますように」と表現します。私たちは、何も分からない時に、罪にまみれて完全に死んでいる時に、キリストと一体とされました。そして、この十字架の御業による信仰義人が来て、聖化が起こります。これは御言葉を受けた時にきます。
私たちの内に始まった、神との一体は、神との結合は、良い土地です。良い土地を神が準備してくださっているというみことばに行きます。私たちが良い土地に、私たちの努力、思い、願いによって変わることはありません。神が変えてくださいます。
用紙の中央にある、「天から新しく生まれる」は永遠の結合です。神が行ったことは、誰もキャンセルできません。神は約束を守る神ですから、選ばれた者を決して捨てません。これが神の約束です。
この永遠の約束の象徴は聖霊です。一体となっている人に、「聖霊によって証印を押された」という言葉がエペソ人への手紙にありますが、私たちは約束の聖霊によって証印を押されました。再生と信仰義人によって、キリストとの結合がスタートして完成したということが聖霊の証印です。証印が押された時です。
再生された時に、結合が開始されました。そして、みことばが来て、信仰が来た時に、その時にキリストとの結合が成立します。そのことを、パウロは、聖霊によって証印を押されたと言っています。
ホーリーネス運動では第2のバプテスマとして、第2の感覚やそういったことで、聖霊のバプテスマを受けたと言いますが、そうではありません。
聖霊のバプテスマを受けるということは、再生されてから信仰をいただいた間において、神の力とみことばが私たちの心を変えて行きます。そして、最終的に私たちは信仰を受けます。この信仰を受けるまでの中で約束の証印を押されます。これは、先ほど言いましたが、新しく生まれ永遠に結合する、その永遠の保証です。これが永遠の保証です。
そして、その中において、私たちは信仰を受ける際に何もしなくていいわけではないです。ここで間違えてはいけないのは、最初の再生の時には、全く何もありません。私たちが関与するものはありません。ただし、私たちは信仰を受けることと、悔い改める時にそれはみことばとしてくるので、私たちはそこで反応します。ここで初めて、私たちは応答という言葉を使うことが出来ます。神の言葉に、私たちが「アーメン」と言って、従うことができるようになるんです。
それは聖霊によって変容された私たちの、良い土地である心が、みことばに従うことを選びます。それは私たちの反応です。私たちの応答と言っていいです。
なので、最初から応答ではありません。信じて救われるのではなく、救われたから信じるのです。信じて救われるのは、違います。救われた結果、私たちは信じるものに変えられたのです。神の力によって。
【祈り】
愛する天のお父様感謝します。私たちは天から新しく生まれて、そして、永遠に結合されました。
それは聖霊による証印でした。
私たちは、第2のバフテスマを求める必要がなく、信仰いただいた時に永遠まで約束されました。
素晴らしいこの、御霊の贈り物を感謝します。そして、いつもみことばによってあなたが私たちを導くこと、
あなたが私たちに語ることに対して、そこに私たちは従うという、その心さえ与えてくださっています。
私たちがそのようなものに変えられていくことは、強くなっていくという聖化の過程であるということも、感謝します。
すべてのことはあなたの恵みによって行われています。愛するイエス・キリストの御名を通して、感謝してお祈りします。アーメン
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