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  • 10人の乙女の例え話(マタイ25)

    2025-2-4 10人の乙女の例え話 マタイの福音書 25章   1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれが“ともしび”を持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。3 愚かな娘たちは、“ともしび”は持っていたが、油を用意しておかなかった。4 賢い娘たちは、ともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。7 娘たちは、みな起きて、自分の“ともしび”を整えた。 8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。 11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。 12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。   ある牧師先生の解釈を説明します。 ●前回、「一人は取られ、一人は残される」という携挙について学びました。「取られる」とは携挙を意味します。同じ主を信じている者であっても、「残される」者がいることを教えています。ここで重要な点は、「取られる」のはクリスチャンで、「残される」のはノンクリスチャンだということではないということです。クリスチャンでありながら、「一人は取られ、一人は残される」のだということです。「残された者」はより厳しい状況(大患難)の中を通らなければならなくなります。それは救いの問題ではなく、褒賞の問題です。つまり、「目を覚ましている賢い娘」であるかどうか、主に褒められる「忠実なしもべ」となるかどうかの問題です。   この牧師先生の解釈はとても恐ろしく、また、とても間違っています。この解釈理解の根底にあるのは救いは恵みと行いであると言うことです。 このような間違った理解をしている人達が多くいます。   花婿はキリストです。花婿が彼の教会との結婚式を祝うためにくると言うたとえ話です。結婚式への出席者には娘たちがいます。北海道の牧師の解釈ではそれらの人は、教会に信仰をもって集まっている人々であり、クリスチャンです。そしてその半分は賢明な娘たち、そしてもう半分は愚かな娘たちです。 そして、問題はこの賢明な娘たちと愚かな娘たちとは誰のことなのかが問題です。 さて、質問ですが、北海道の牧師先生が言うようにこの娘たち全員はすべて真の信仰者なのでしょうか?すべての見える教会には神がキリストにあって時が始まる前から選んだ人々だけがいるでしょうか? この質問は私たちの「この賢い娘たちと愚かな娘たちは誰なのか」についての視点を広げます。    アウグスチヌスが言うには教会には見える教会と見えない教会があります。見える教会とは物理的な教会に集まる人々を外面的に見ています。見えない教会とは、神に選ばれている人達の教会です。 ですから見える教会には見えない教会の人々がいます。つまり、この10人の娘たちは見える教会、見えない教会、偽りの信仰者と真の信仰者を意味しています。   愚かな娘たちが、愚かである理由は、娘たちが結婚式に準備ができていない状態で来たからです。物理的な教会の一員であるためには、ほとんどの場合、教会の歴史を通じて、人はキリストへの信仰を告白しなければなりません。ですから、この10人の娘の全員がキリストへの信仰告白をしたと考えます。 しかし、そこには救いに至る信仰告白があり、偽りの信仰告白があります。 そこにはキリストの御霊と一体である魂があり、また、うわべだけの行為、信仰の魂はキリストと一体ではありません。   そして、その違いは賢い娘たちはランプだけでなく、ランプ用の油も持ってきたと言う表現に現わされています。愚かな娘たちはランプを持ってきたが、必要な油は持ってこなかった。 そして、結局、新郎が予定した時間にそこに着かなかったため、結婚式は遅れました。 娘たちが遅れた花婿の到着を待っていたとき、娘たちは眠りに落ちました。 そして真夜中、娘たちは呼び声で目覚めました、「見よ、花婿が来ています。」 そして、賢明な5人の娘たちはすぐにランプを取りました。  しかし、愚かな乙女たちは、必要なもの、つまりランプの油がないことに気づきました。 そしてなんとかして油を得ようと買いに走りますが、間に合わず買いに行くこともできません。 花婿が来て、結婚式に入り、慣習に従って、外のドアは閉められ、鍵がかけられました。これらの愚かな娘はこの喜びに満ちた結婚式のお祝いから締め出されました。そして、愚かな乙女たちが戻ってきて、結婚式が始まったことに気づくと、彼らはドアを引っ張りました。彼らは入ろうとしました。   ドアは施錠されていた。彼らはドアをノックし、ドア越しに叫び、結婚式を中断して、「主よ、主よ、私たちを入れてください」と言っています。聖書では2回神が名前を呼ぶ箇所が15回あります。 アブラム、アブラム、ヤコブ、ヤコブ、アブラム、ヤコブ、ヤコブ。私の父、私の父、エリシャはエリヤに言います、そして聖書全体を通して、マルタ、マルタ、サウル、サウル、なぜ私を迫害するのですか? アブサロム、アブサロム。そのため、名前が繰り返されるとき、それは個人的な親密さを表現でした。愚かな娘たちが来て、ドアが鍵をかけられているとき、彼女たちは外の暗闇の中でただ泣くだけではありません。主よ。しかし、彼らは言う、「主よ、主よ、愛しいしよ。あなたは私の主です」。ここにいたかった。あなたの結婚式に来ると思っていました。そして、あなたは私の主です、主よ。 この2度、娘たちが主の名を呼ぶ意味は声は「主よ、あなたは私を知っています。私はあなたについて親密な知識を持っており、あなたとの親密な個人的な関係を持っています。」と言っています。   しかし、主は言います。私はあなたを知らないと言われます。愚かな娘たちは「主よ、主よ」と呼びますが、主は言われます。私はあなたのことを知りません。マタイの福音書の前半で、イエスが第7章21節で「主よ、主よ」と私に言うすべての人が天国に入るわけではなく、天で私の父の意志を行う者が天国に入ると言っているのと同様の方法で終わる、山上の説教を読みます。  その日、多くの人々が私に言うでしょう、「主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡を起こしたではありませんか」。 そして、その人たちは言うかもしれません。私は牧師でした。私は日曜学校の先生でした。私は長老でした。私は執事でした。私は毎週、教会に行き、献金をして、祈祷会も参加していました。献金も十分の一献金をしていました。私はイエスキリストの御名により、実際に奇跡を起こし、本当に悪霊を追い出しことをしました。人の病気も癒したことがありました。私は神学を学びました。私はジョンマッカーサーの神学校で聖書を何年も勉強しました。それは私のプライドです。私は健康です。神に感謝しています。献身して教会のために働きました。私は財産から教会に2000万円献金しました。 しかし、主は彼らに宣言します、私はあなたを知らない。無法を行う者よ、私から離れなさい。ここには類似点があります。結婚式で、花婿は「私はあなたを知らない」と言います。ここで、山上の説教の終わりに、イエスは言われました、「私はあなたを知らない」。   主のこの話を聞いている目に見える教会の愚かな娘たちは不安と恐怖に襲われます。愚かな娘たちは自分たちが御国から締め出されるのは油をもっているか、もっていないかであると理解していません。神の与える聖霊が油です。油の意味を理解していません。そして油を買う活動に走ります。しかし、愚かな娘たちは主が言われる油が何か理解していません。そして愚かな娘たちには油は“もの”となってしまいます。 ものとは律法主義で言えば、恵みと行いで義を得ることが出来る信仰や知識、また、福音派では「第2の祝福、聖霊の火など」それはすべて、行い、体験、感覚です。 愚かな娘たちは、自分たちの不安と恐怖を埋めようと必死にそれらのものをお金で買います。   しかし、聖書では油は聖霊であると一貫して教えています。決して油はお金では買えません。 主は言われます。 ヨハネ3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」 5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。 6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。   主はマタイ25章13節で真の信仰者に目を覚ましているように命令しています。それは真の信仰者は暗闇の領域から解放されているので、罪と無知の夜から連れ出され、神の光の中に入れられます。真の信仰者は光の中にいるので、霊的な無関心と安楽の中で眠るのではなく、周囲の霊的な問題に気を配る必要があります。彼らは、主の日によって眠っている人々が目覚めさせられるように、眠っている暗闇の人々のように生きるのではなく、御霊によって歩くようにと命令されています。 主の日において、「神が永遠の時の始まる前から選んだ神の子どもたち」がキリストにあって神の御国に一つに集められることを感謝して、神の御顔を直接、仰ぎ見ることができる光栄を喜び、感謝しましょう。

  • 人はどうして、キリストを信じるようになるのでしょうか?

    2025年4月20日 みことばをあなたに みんなに、ひとつ大切な質問をします。   「人は、どうしてキリストを信じるようになるのでしょうか?」 自分でそう決めたから? それとも、何かが先に起こったのでしょうか?   この質問は、じつはとても大事なことです。 なぜなら、あなたが神さまに愛され、救われていることをずっと信じていられるかどうかが、これで決まるからです。     【1. 私たちはみんな罪人】   聖書は、私たちが生まれたときから神さまと離れているって教えています。 たとえば、ローマ人への手紙3章11節には 「神を求める人はいない」と書いてあります。   私たちはみんな、神さまのことを知ろうともせず、従おうともしない心を持って生まれました。 だから、自分の力では、キリストを信じることができないんです。     【2. 神さまがしてくださる奇跡】   でも、神さまはそんな私たちをあきらめませんでした。 神さまは、私たちの心を新しくしてくださる奇跡をしてくださいます。   それを**「新しく生まれる(新生)」**っていいます。 これは、自分の力じゃなくて、神さまがしてくださるんです。     【3. イエスさまのことば】   イエスさまも、ヨハネの福音書3章でこう言いました。   「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。」   ここでいう「新しく生まれる」とは、神さまがあなたの心を変えて、 キリストを信じられるようにしてくださることです。     【4. だからキリストを信じられる】   みんなが「キリストを信じます」と言えるのは、 あなたがすごいからではありません。 神さまが先に心を変えてくださったからなんです。   つまり順番はこうです:   新しく生まれる → キリストを信じる   これが聖書の教える救いの流れです。     【5. この順番が大切な理由】   もし、「信じることが先で、新しく生まれるのはそのあと」だと考えると、 こんな不安が出てきます:               •             「今日信じられなかった…私、救われてないのかな?」               •             「失敗しちゃった…神さまに嫌われたかも…」   でも、聖書はこう教えています:   「神があなたを生まれさせた。神のわざだ。」(ヤコブ1:18)   神さまが始められた救いは、決して途中で終わりません。 だから、あなたの救いは、ぜったいになくなりません。     【6. あなたは新しくされた人】   もしあなたが今、キリストを信じているなら、 それは神さまがあなたを新しくされたしるしです。   聖書にはこう書かれています:   「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2コリント5:17)   古い心は過ぎ去って、神さまが新しい命をくださったのです。     【まとめ】               •             人は自分からキリストを信じることはできません。               •             神さまが心を新しく変えてくださるから、信じられるようになります。               •             それが「新しく生まれる」ということです。               •             これは神さまの完全なわざだから、失われることはありません。               •             今あなたが信じているなら、それは神さまがあなたの中で奇跡を起こされたということです!     【最後にひとこと】   神さまがくださった新しい命は、永遠に続きます。 だから、あなたがキリストを信じているなら、 「わたしは神さまの子どもです!」 と安心して言っていいのです!

  • 神の主権100

    神の主権100 神はすべての創造物の主として、天と地でその主権を行使します。 しかし、主権とはどの程度のものなのでしょうか? 創造された宇宙には神が統治していない領域があるのでしょうか? 神にはすべての人を救う力があるのでしょうか? 神はすべてのすべてに勝り、その主権は永久にあります。 これらのみことばは神の主権について語っている多くの聖句から 100 聖句をランダムにあげたものです。 1. 創世記 1:1 初めに神は天と地を創造された。 → 万物の創造における神の絶対的権威を示す。 2. 創世記 50:20 「あなたたちが考えたことは、神が定められたことであり、あなたたちの意図は神の 御計画にかなったものであった。」 → 人間の意図さえも、神の主権の中にあるという教え。 3. 出エジプト記 15:18 「主は、その名によって永遠に統治される。」 → 神の永遠の支配を宣言している。 4. 民数記 23:19「神は真実であり、変わることがなく、約束を破られることはない。」 → 神の性質と約束の確実性を強調。 5. 申命記 7:9 「主は忠実な神、契約を守る神である。」 → 神の忠実性とその主権を示す。 6. 申命記 32:4 「彼は正義の岩であり、その業はすべて真実である。」 → 神の正義とその御業の普遍性。 7. ヨシュア記 23:14 「主は、天と地のすべてのものを引き継がれる。」 → 神の国と支配の永続性を示す。 8. 士師記 21:25 「その時代は、主の支配がなく、人々は自分勝手に生きた時代であった。」 → 主権の不在がもたらす混乱と対比。 9. サムエル記上 2:7 「主は、弱い者を強くし、貧しい者を力ある者とされる。」 → 神の主権が人間の立場を覆す働きを示す。 10. サムエル記下 22:31 「神の道は完全で、その言葉は真実である。」 → 神の支配と真実さが強調される。 11. 列王記上 8:23「主はイスラエルの神、全世界を治める方である。」 → 国々を統べる神の主権を表現。 12. 列王記下 17:36 「神は万物の王、すべてに対して絶対的な支配権を持つ。」 → 神の全能性を示す。 13. 歴代誌 29:11 「主よ、あなたの国と力、栄光は永遠にあなたのものです。」 → 神の永遠の支配と栄光を賛美。 14. 詩篇 8:4–6 「人は、神の栄光を冠するために造られ、支配者として任命された。」 → 被造物における神の秩序と主権の意図。 15. 詩篇 19:1 「天は神の栄光を語り、大空はその手の業を示す。」 → 自然界を通して現れる神の御業。 16. 詩篇 24:1 「地とそこに満ちるものはすべて、主のもの。」 → すべての被造物が神の所有である事実。 17. 詩篇 47:2 「神は全地を治め、その王国は万国に及ぶ。」 → 神の国的支配を示す。 18. 詩篇 93:1「主は威厳ある王、永遠に治められる。」 → 神の永遠の主権を賛美。 19. 詩篇 103:19 「主はその御心によって天を定め、すべてのものを支配される。」 → 宇宙全体を御支配される神の力。 20. 詩篇 115:3 「われらの神は天におられる。神はその意のままに行われる。」 → 神の行動が完全に御意にかなうことを宣言。 21. 詩篇 135:6 「主はその言葉によって万物を行われる。」 → 神の言葉がすべてを動かす力である。 22. 詩篇 136:5 「主は天を定められた、その恵みは永遠に続く。」 → 神の創造と恵みの永続性。 23. 箴言 16:4 「主はすべての事を定め、その悪も善も彼の計画の中にある。」 → 人間の計画も神の主権の下にあること。 24. 箴言 19:21 「多くの計画があるが、主の御心が成る。」 → 人間の思いよりも神の計画が優先される。 25. 伝道の書 3:11「神は万物に時を定め、また永遠の喜びをも定められた。」 → 時間と喜びも神の主権の中にある。 26. 雅歌 4:12 「あなたはわたしの心の王、その愛は永遠に。」 → 神の愛と支配の象徴としての描写。 27. イザヤ 9:6 「わたしたちに一人の子が生まれ、彼は平和の君、その名は驚くべき助言者。」 → 救い主としての神の働きと支配の約束。 28. イザヤ 12:2 「主はわたしの力、わたしの救い、わが神である。」 → 神の救いと支配に対する信頼。 29. イザヤ 26:4 「主に信頼せよ、永遠に変わることのない王に。」 → 神の変わらぬ主権への信頼。 30. イザヤ 33:22 「主は神、裁き主、王であり、すべてのものは彼の手にある。」 → 神の三位一体的支配の側面。 31. イザヤ 40:28 「知恵も力も尽きることのない主は永遠の神である。」 → 神の無限の知恵と力。 32. イザヤ 40:31「主に望みを置く者は、新たな力を得る。」 → 神に信頼する者への恵みの約束。 33. イザヤ 45:7 「光と闇、平和と災い、すべてはわたしが行う。」 → 神がすべての対立する要素を統べる。 34. イザヤ 45:10 「わたしは主である、わたしにほかに神はない。」 → 神の唯一性と絶対的主権。 35. イザヤ 45:22 「地の果てまで、わたしに帰れ。わたしに救いがある。」 → 神の救いの普遍性と統治権。 36. イザヤ 46:9–10 「昔のことを思い出せ。わたしは神であり、終わりから始まりを告げる。」 → 時間の全体を支配される神の全能性。 37. イザヤ 55:8–9 「わたしの思いはあなたがたの思いと異なり、道はあなたがたの道とは違う。」 → 神の計画の高さと人間の理解を超える主権。 38. エレミヤ 10:12 「主は大いなる力で天と地を造り、その名は永遠に残る。」 → 創造主としての神の権威。 39. エレミヤ 23:6「彼は正義に導き、平和の君として統べる。」 → 救い主としての神の支配の約束。 40. エレミヤ 32:17 「主よ、あなたは何も不可能なことはない。」 → 神の全能性と主権を宣言。 41. エゼキエル 38:23 「主は強大な力をもって国々を治められる。」 → 神の全世界に及ぶ統治権。 42. ダニエル 2:21 「神は時を定め、国々を変えられる。」 → 歴史の運命さえも神の御手中にある。 43. ダニエル 4:35 「神はその思いのままにすべてを行われる。」 → 神の全能と支配の明確な表現。 44. ホセア 11:9 「主は憐れみ深く、愛に満ちておられる。」 → 神の愛と憐れみが主権に基づく。 45. ヨエル 2:28–29 「神の御霊はすべての人に注がれる。」 → 神の御霊の普遍的な働きと主権。 46. アモス 3:6「もし災いが来るなら、主がそれを定められた。」 → 災いも神の御手にあるという認識。 47. オバデヤ 1:21 「主は全地の王、すべてを支配する。」 → 神の絶対的な支配権の表明。 48. ヨナ 2:2 「私は苦しみの中で主に呼ばわり、主は私を助けられた。」 → 人の絶望の中で現れる神の支配と救い。 49. ミカ 7:18 「主は恵み深く、憐れみ深い、永遠に忠実である。」 → 神の慈悲と永遠の主権。 50. ナホム 1:7 「主は良い者であり、その憐れみは絶えずある。」 → 神の変わらぬ善意と支配。 51. ハバクク 3:19 「主はわたしたちの力、救いの歌である。」 → 苦難の中で信者を支える神の力。 52. ゼパニヤ 3:17 「主はあなたの上で戦い、あなたを救い、愛し、喜ばれる。」 → 神の救いと支配が信者に及ぶ約束。 53. ハガイ 2:6「主の御業はすぐれ、神殿は再び栄光に満たされる。」 → 神の働きが再び顕現される将来の希望。 54. ゼカリヤ 4:6 「これは力によるのでもなく、勢いによるのでもなく、主の御霊による。」 → 神の働きが人間の努力を超えた恵みに基づくこと。 55. マタイ 6:10 「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように。」 → 神の国と御心の実現が祈りに表される。 56. マタイ 10:29–31 「神はすべてのものを知っておられ、あなたがたもその御手にある。」 → 神の全知と保護の主権。 57. マタイ 19:26 「人にはできないことも、神にはすべてできる。」 → 神の全能性を強調。 58. マタイ 28:18 「イエスは近づいて来て言われた、『わたしに与えられたすべての権威は天と地に及 ぶ。』」 → 御子に与えられた神の全権を宣言。 59. マルコ 10:27 「人にはできないことも、神にはできる。」 → 神の力がすべてを可能にするという確信。60. ルカ 1:37 60.「神には不可能なことは一つもない。」 → 神の絶対的な力と主権をシンプルに表現。 61. ルカ 4:6 (悪魔の誘惑中の発言を通して)神の全能が暗示される。 62. ルカ 22:42 「父よ、もし可能なら、この杯をわたしから取り去ってください。」 → 神の御業に対する人間の限界と従順。 63. ヨハネ 1:1–3 「初めに言があった。言は神と共にあり、言は神であった。」 → 言(ロゴス)を通して表される神の創造的主権。 64. ヨハネ 3:3 「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 → 再生の必要性と神の救いの主権。 65. ヨハネ 5:19 「子は父の意志に従って働く。」 → 御子の働きを通じた神の統治。 66. ヨハネ 6:38 「御子は自分の御心を行なうために来られた。」 → イエスの従順さと神の御計画。 67. ヨハネ 11:4「この病は、神の栄光のためにある。」 → 病にも神の主権が働く。 68. ヨハネ 12:28 「父よ、御名が栄光に輝きますように。」 → 神の栄光と支配が讃えられる。 69. ヨハネ 17:5 「父の中で栄光を受けた私も、あなたの中で栄光を受けさせたかった。」 → イエスの祈りにおける神の支配の肯定。 70. ヨハネ 17:6 「彼らはあなたの言葉を受け入れた。」 → 神の言葉が信者に働く力を示す。 71. ヨハネ 18:36 「わたしの国はこの世のものではなく、わたしの国は神のものである。」 → キリストの国が神に属することを宣言。 72. ヨハネ 19:11 「定めた者は、どんな定めも越える力を持つ。」 → 神の定める計画の圧倒的な力。 73. 使徒 1:8 「聖霊があなたがたに降ると、あなたがたは力を受け、わたしの証人となる。」 → 神の霊による力の供給とその働き。 74. 使徒 2:36「神は、このイエスを主かつキリストと定められた。」 → 神が救い主としてのイエスを定めた主権。 75. 使徒 4:12 「救いは、イエス・キリストによってのみ与えられる。」 → 神の救いの唯一性と統べる力。 76. 使徒 10:36 「神はすべての国々に対して、その御心に従って働かれる。」 → 異邦にも及ぶ神の統治。 77. 使徒 13:48 「福音はすべての人に開かれている。主は、定めた者を救いに導かれる。」 → 神の選びと救いの普遍性。 78. ローマ 8:28 「すべてが、神を愛する者の益となるように働く。」 → 神の御計画の中でのすべての出来事の意義。 79. ローマ 8:31 「神があなたがたと共におられるなら、誰があなたに敵対し得ようか。」 → 神の保護と統治の確信。 80. ローマ 8:33 「神は、その御子をもって万物を統べられる。」 → 神の子を通して現れる全能の主権。 81. ローマ 9:20–21「神は陶工、われわれはその器である。」 → 神の主権的裁きと創造の働き。 82. ローマ 11:33 「神の判断は奥深く、彼の道は測り知れない。」 → 神の知恵と判断の無限性。 83. 1 コリント 2:6–7 「神の知恵は、この世の知恵をはるかに超える。」 → 神の超越した知識と主権。 84. 1 コリント 15:27 「すべてはキリストに服従させられる。」 → 万物がキリストの下に置かれている神の秩序。 85. 2 コリント 4:4 「この世の権力に対抗する神の国は、闇の権勢に打ち勝つ。」 → 神の国の力と主権の表現。 86. 2 コリント 4:6 「神は、私たちの心に光を輝かせる方である。」 → 神の光が人々の内面を照らす。 87. ガラテヤ 1:8 「もしも別の福音があれば、それは呪われる。」 → 神が定めた福音の普遍性と主権。 88. ガラテヤ 6:18「主の恵みによって、平安があるように。」 → 神の恵みと救いの主権。 89. エペソ 1:11 「神は万物の運命をその計画に従って定められた。」 → 万物が神の御計画の下にあることを強調。 90. エペソ 3:20 「神は、信じる者に計り知れない力を働かせる。」 → 神の力が信者に及ぶ範囲の広さ。 91. エペソ 1:22–23 「すべてはキリストの手に委ねられ、その教会は彼の体である。」 → キリストを通して現れる神の支配。 92. エペソ 2:6 「私たちはキリストとともに立たせられた。」 → 神の救いの働きとその持続的支配。 93. コロサイ 1:16–17 「万物は御子によって造られ、御子によって保たれている。」 → 創造と維持における神の御業。 94. コロサイ 3:11 「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、すべてはキリストにあって一つである。」 → 神の国における統一性と主権。 95. ピリピ 2:9–11「神は、キリストにあらゆる名を超えていただいた。」 → キリストの超越した権威と支配。 96. ピリピ 4:13 「わたしを強くしてくださる方によって、すべてを行うことができる。」 → 神の力による信者の勝利。 97. テサロニケ 3:3 「主は真実に、あなたがたを守ってくださる。」 → 神の保護と主権の現実。 98. ヘブライ 1:3 「御子は神の栄光の輝き、その本体の正確な表れである。」 → キリストを通して示される神の本質。 99. ヘブライ 13:8 「イエス・キリストは昨日も今日も、永遠に変わることがない。」 → 神の御子の不変性と主権。 100. 黙示録 4:11 「われらの主、あなたはあがめられ、栄光と権威とを受けるにふさわしい。すべては あなたの御意に従って存在している。」 → 天における神の全能な統治と賛美。 このリストは、旧約・新約・黙示録にわたって神の主権、全能、計画、救いの働きなど を示す代表的な聖句 100 節です。各節は、神が創造、保全、裁き、そして救いのすべ てを主権的に行われるという聖書全体の一貫したメッセージを反映しています。

  • 半ペラギウス主義の危険性

    2025-2-23半ペラギウスの危険性 アルミニウス主義や半ペラギウス主義が世界中の教会に広く受け入れられている理由は、いくつ かの要因に分けて考えることができます。特に、これらの神学的立場が人間の自由意志を強調 し、現代の文化や伝道の実践と適合しやすいことが、大きな理由となっています。 1. 自由意志の強調が人間の直感に合う アルミニウス主義や半ペラギウス主義は、どちらも「人間の自由意志」を強調します。これは多くの 人々にとって自然に理解しやすい考え方です。 • アルミニウス主義:「神の恵みは不可欠だが、人間は自由意志によって救いを受け取ることがで きる」 • 半ペラギウス主義:「人間には神に応答する良い心が少し残っている。その意志がまず神に向か おうとし、それに対して神の恵みが応答する」 この考え方は、個人の選択や責任を重視する現代の価値観と調和しやすいため、多くの教会で広 く受け入れられています。 2. 福音伝道のしやすさ アルミニウス主義や半ペラギウス主義の考え方は、伝道活動において実践しやすいという点があ ります。福音派の中にも広がり、大衆伝道など伝道を熱心に行うところで実践されます。それは神 は全ての人々を愛しており、救われる可能性があると言う考え方が根本にあるからです。 • 「神はすべての人を愛しており、誰でも救われる可能性がある」というメッセージは、福音伝道の 際に聖書を全く理解していなくても簡単なロジックで伝える方も伝えやすく、理解されやすい。 • 「あなたはイエスを信じるかどうか決めることができる」といった決断を促すアプローチは、これも シンプルで理解しやすいので多くの伝道集会で用いられる。 • たとえば、リバイバルの伝道では、福音を広める際に人々の「信仰の決断」を重視し、多くの人 がアルミニウス的な理解のもとで信仰に導かれるようになった。そこには一時的な思い込みで信じ たと思う人々が起こり、心の変容のない状態で教会クラブにいたり、去ったりする。 しかし、神の選びに預かっている者もおり、麦と多くの毒麦が混在する状態になる。 このように、アルミニウス主義の神学は、実際の伝道活動と親和性が高いため、広く受け入れられ ています。 例えばリバイバルには半ペラギウス的なリバイバルと選びによるリバイバルがあることを聖書は 教えている。(半ペラギウス的リバイバル) "人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言 った。イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再び ただ一人で山に退かれた。" ヨハネの福音書 6 章 14~15 節 (選びによるリバイバル) "異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちにあずかるように 定められていた人たちはみな、信仰に入った。" 使徒の働き 13 章 48 節 "その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を 見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。" ヨエル書 2 章 28~29 節 終末のユダヤの救いも神の主権による真のリバイバルである。選びによる救いが数多く、一度に イスラエルに起こる。それは人の努力や決心ではない、ただ神の憐れみといつくしみである。 3. 神の愛と公平性を強調する アルミニウス主義は、「神はすべての人に救いの機会を与えている」と教えます。この考え方は、 多くの人々にとって慰めとなり、また神の公平性を強調するため、受け入れやすくなります。 • キリストの贖いは選ばれた者にのみと言う聖書のことばは受け入れがたく、「キリストの贖いはす べての人のためである」という普遍的贖罪(ユニバーサリズム)の教えは、多くの教会で支持されや すい。 • 特に、神の愛を強調する現代のメッセージと親和性が高い。 4. 肉の行いの生産物である文化や思想との相性 現代社会では、個人の自由や選択が重視されています。 • 欧米の個人主義文化では、「自分で信仰を選ぶ」ことが強調されるため、アルミニウス主義や半 ペラギウス主義の「人間の決断」を重視する考え方が受け入れられやすい。 • アジアやアフリカなどの地域でも、「修行や努力によって神に近づく」という宗教観が根付いてい るため、半ペラギウス的な「人間の側の努力が重要」という考え方と相性が良い。 このように、現代の価値観に合致しているため、これらの神学的立場が広く受け入れられていま す。5. 神学的な誤解や単純化 多くの教会では、神学的な議論が十分にされず、アルミニウス主義と半ペラギウス主義が混ざっ た形で教えられています。 • 牧師や教師が厳密な神学を学ばずに、「救いはすべての人に提供されており、あなたの決断が 大切」というシンプルな形で教えてしまう。 • 教会の教育が十分でない場合、アルミニウス主義と半ペラギウス主義の違いが明確に理解され ず、人間の自由意志を強調する方向へ進みやすい。 このような神学的な単純化や誤解が、結果的にアルミニウス主義や半ペラギウス主義の広まりに 影響を与えています。 アルミニウス主義や半ペラギウス主義が世界中の教会に広く受け入れられている理由は、以下の ようにまとめられます。 1. 自由意志の強調は人々の直感に合っている。 2. 伝道活動のしやすさ 簡単な理解 3. 神の愛と公平性の強調 により、人々には魅力的なメッセージとなる。 4. 現代文化との親和性 があり、人々が受け入れやすい。 5. 神学的な誤解や単純化 により、深い議論なしに広がっている。 これらの要因が重なり、多くの教会でアルミニウス主義や半ペラギウス主義が広まっています。 問題はアルミニウス主義に半ペラギウス主義が理解のないままミックスされて教えられていること です。それを吟味して見分けることは一般のクリスチャンにはとても難しいと思います。 半ペラギウス主義の信仰的な危険性 半ペラギウス主義(Semi-Pelagianism)は、人間の自由意志が神の恵みに先行し、救いの決定的 な要素となる という立場を取るため、歴史的に異端とされてきました(529 年、オランジュ教会会 議で異端宣告)。この教えはアルミニウス主義の教えとともにミックスして教えられているのが実態 です。そもそも半ペラギウス主義、アルミニウス主義についての厳密な学びがなく、教義について の問題まで理解している人々が少ないと言うことが背景にあります。その信仰的な危険性は、実 際の教会や個人の霊的成長にも影響を及ぼします。1. 「人間中心」の信仰に陥る 半ペラギウス主義は、「神の恵みは助けてくれるが、最初のステップは人間が決める」という考え を持っています。 この結果、以下の問題が生じます。 (1) 神ではなく人間が主導する信仰、原罪(人間に宿る罪の性質)の無理解、否定 • 聖書の教え:「人間は霊的に死んでおり、自力で神を求めることはできない」(エペソ 2:1-5, ロー マ 3:10-11) "さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、 不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望む ことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われた のは恵みによるのです。" エペソ人への手紙 2 章 1~5 節 "次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。 悟る者はいない。神を求める者はいない。" ローマ人への手紙 3 章 10~11 節 • 半ペラギウス主義:「人は神の恵みがなくても、最初に神に近づくことができる」 • 結果:信仰の出発点が神の主権ではなく、人間の意思に置かれる ため、自己努力による救い の概念が生まれる。 (2) 祈りや信仰が「努力主義」になりやすい。 • 「もっと信じなければ」「もっと祈らなければ」と、神の恵みよりも人間の意志と行動が強調され る。• 信仰生活が「神の恵みによるもの」ではなく、「自分の決意と努力」に依存するものとなり、喜び や確信が失われる。 2. 恵みによる救いが損なわれる (1) 「救いは自分の選択次第」=行いによる救いへと傾く • 半ペラギウス主義では、「神の恵みは人間の自由意志を助けるもの」とされる。 • その結果、「救われるためには、まず自分から信じることが必要」という考えに結びつき、救いが 神の恵みよりも人間の決定に依存する ことになる。 • これは「行いによる救い」に繋がる危険性がある(ガラテヤ 1:6-9, 2:16)。 "私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、こ のように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音 があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者た ちがいるだけです。しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝え た福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。私たちが 以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反 する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。"ガラテヤ人 への手紙 1 章 6~9 節 "しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認め られると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを 信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっ ては義と認められないからです。"ガラテヤ人への手紙 2 章 16 節 (2) 救いの確信が失われる • 「私はまた、罪を犯した、また、犯した、救くわれていない?」 • 「もし私が神を拒んだら、すぐに救いを失うのではないか?」 • こうした疑問が生じると、救いの確信が神の約束ではなく、自分の意志や努力に基づくものにな り、不安定になる(ヨハネ 10:28-29, ローマ 8:30)。 "わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも 彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手か ら奪い去ることはできません。" ヨハネの福音書 10 章 28~29 節 "神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たち にはさらに栄光をお与えになりました。" ローマ人への手紙 8 章 30 節 3. 「神の主権」が弱まる (1) 神の選びが絶対主権であると言う聖書の教えが相対的なものに変わる • 聖書は「神が私たちを選ばれた」と明確に教えている(エペソ 1:4-5, ローマ 8:29-30)。 "すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷 のない者にしようとされたのです。 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にし ようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。" エペソ人への手紙 1 章 4~5 節 • しかし、半ペラギウス主義では、「神の選び」は「人間が信じることを見越したもの」 とされること が多い。 • その結果、「神の選び」は絶対的なものではなく、人間の意志によって変わり得るものとなる。 (2) 神の恵みが十分に強調されない • 聖書の救いの本質は、「神の恵みによるもの」(エペソ 2:8-9) "この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たこと ではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。" エペソ人への手紙 2 章 8~9• しかし半ペラギウス主義では、「人間が神に近づくための努力」が強調されるため、「神の恵みが 完全に人を救う」という聖書の教えが薄れてしまう。 4. 教会の実際の問題点 (1) 「決断」重視の伝道方法の問題 • 半ペラギウス的な教会では、「救われるにはイエスを選び、決心しなさい」というアプローチが主 流になる。 • しかし、聖書は「神が選び、神が信仰を与える」と教えている(ヨハネ 6:44, 2 テモテ 2:25)。 "わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできませ ん。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。" ヨハネの福音書 6 章 44 節 "反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせて くださるかもしれません。" テモテへの手紙 第二 2 章 25 節 • 神の選びではなく、人間の決断と、「一時的な決断はしたが、心の変容のしていない偽りの信者 が増える(マタイ 7:21-23)。 "わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたし の父のみこころを行う者が入るのです。 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あ なたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法 を行う者たち、わたしから離れて行け。』" マタイの福音書 7 章 21~23 節 (2) 救いの確信を持てない信者が増える• 「私は十分信じたのか?」 • 「私の信仰は本物なのか?」 • こうした不安を抱える人々が増え、恵みの確信ではなく、「決断の質」による自己評価 になる • これは本来の福音のメッセージ(神の恵みによる救い)とは異なるものとなる。 5. 結論:半ペラギウス主義の信仰的な危険性 問題点 結果 神の主権と人間の自由意志のバランス 神の主権が弱まる 神の恵みより人間の努力の重視 行いによる救いに傾く 救いの確信が不安定になる 信仰生活が不安になりやすい 伝道が「決断重視」になる 名ばかりの信者が増える 半ペラギウス主義は、異端とされた理由が明確にあるように、信仰を人間中心にしてしまい、神の 恵みの完全性を損なう という危険性があります。正しい聖書の教えは、「神の主権と恵みを中心 とし、信仰さえも神の働きの結果である」というものです(ピリピ 1:6, ヘブル 12:2)。 "あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成さ せてくださると、私は確信しています。" ピリピ人への手紙 1 章 6 節 "信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前 に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたので す。" ヘブル人への手紙 12 章 2 節 そのため、半ペラギウス的な教えに傾かず、「すべては神の恵み」 という福音の本質を守ることが 重要です。聖書の世界観と異教の世界観、すなわち、宗教、文化、慣習、学問、政治に支配され ている世界との違いが根底にあります。 聖書の世界観は神の支配、権威、権力、主権がすべての上にあります。救いは神の絶対なる恵 みです。

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