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  • 「この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる」

    「この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる」― マタイ16:13–18より 2025.6.10みことばをあなたに     「私は芯の芯まで腐っています。イエス様、どうか助けてください。このような者をあわれんでください。」   この叫びが心の底から湧き上がるということは、いったい何を意味しているのでしょうか?   これは単なる悲鳴でも、芝居がかった感情表現でもありません。 これは、神によって砕かれた魂の叫びであり、聖霊によって与えられたまことの信仰告白なのです。 すなわち、これが信仰と悔い改めそのものです。   この信仰と悔い改めにより、神はその人を義と認めてくださいます。 これを信仰義認と呼びます。     【ペテロの信仰告白とキリストの宣言(マタイ16:13–18)】   「あなたは、生ける神の御子キリストです」 「わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」   ペテロのこの告白は、イエスがキリストであり、神の御子であるという信仰の核心を表しています。   そして主は言われました。   「この岩の上に、わたしの教会を建てる」   ここで言う「岩」とは、ペテロという人物ではなく、 彼の語った信仰告白そのもの――つまり、キリストご自身とその救いの福音を指しています。     【ロードシップ・サルベーション:主の主権による救いと教会の土台】   ジョン・マッカーサーは次のように語ります:  “真の救いとは、イエス・キリストを主(Lord)として告白することである。それは、人が自分の意志で決断するものではなく、神によって心が砕かれ、主にひれ伏すしかないと認めさせられた者の叫びなのだ。”   「イエスは主です」という言葉は、自分の力で言えるものではなく、 再生された者の信仰の実です(1コリント12:3参照)。   「イエス様、あなたしかいない」という叫び。 「私は腐っています」という自己絶望の中から出る祈り。 これこそが、まことの教会が建てられる岩なのです。     【信仰義認の恵みと教会のかたち】   改革神学はこう教えます:   「義とされる(Justified)」とは、罪人が神の前で正しいと宣言されること。 それは、キリストの完全な義がわたしに転嫁された結果であり、 罪人が信仰を通して神から受ける恵みの賜物です。   この信仰はどこから来るのでしょうか? エペソ2:8は明確にこう語ります:   「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。 それは自分自身から出たことではなく、神の賜物です。」   つまり、信仰は人間の選択や努力ではなく、神の賜物です。 ゆえに、その信仰によって義とされた者たちの集まり――教会とは、神のわざそのものであり、 人間の制度や組織ではありません。     【教会とは、信仰告白に結ばれた者たちの契約共同体】   教会は、「信じたから入れるクラブ」ではありません。   神の永遠のご計画の中で、選ばれ、再生され、信仰によって義とされた者たちが、 キリストに結合されて生きる契約的な命の共同体です(エペソ1:22–23参照)。   「教会はキリストのからだであり、すべてをすべてで満たす方が満ちておられるところです」   イエスはこう語っておられるのです:   「この信仰の告白、この信仰の上に、わたしの教会を建てる」   「イエスは主です」、つまり、 「私は芯まで腐っています。イエス様、助けてください」―― この告白こそが、教会の真の土台なのです。   【この土台は神の業である】   教会に通えば救われるのでしょうか? 親や友だちに合わせて教会に来ているだけではないでしょうか? ただ雰囲気が好きで教会に来ているだけではありませんか?   神はあなたに問いかけています:   「あなたの心の底から、 『私は腐っている。神よ、私の希望はあなたしかいない』と叫んだことがあるか?」   この信仰の叫びこそが、 キリストがご自身の教会を建てられる“岩” なのです。   そして、あなたが今日もなお、この叫びの中に生きているなら―― あなたは主の教会の一部なのです。   まとめ   教会は、人間の組織や制度ではありません。 教会とは、神の恵みによって信仰が与えられた者たちの集まりです。   イエス・キリストが語られたその岩とは―― 「私は芯まで腐っています。イエス様、どうか助けてください」 というまことの信仰の叫びなのです。   この叫びの上に、キリストは今日もご自身の教会を建てておられます。 教会とは、立派な建物の中にあるものではありません。 十字架が立っている場所にあるわけでもありません。   教会とは、「私は本当に罪人です。どうかこんな私をあわれんでください」と告白する者たち自身なのです。

  • 広さ、長さ、高さ、深さ

    エペソ人への手紙第3章18節の祈りに対する整理 2025.6.15 礼拝メッセージ パウロは、エペソの信徒たちのためにこう祈りました。   「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、 あなたがたに 知恵と啓示の御霊 を与えて、 神を知る ことができるようにし、 心の目をはっきり見えるようにしてくださいますように。」 (エペソ1:17–18)   この「知る」とは、ただ情報を得ることではありません。 それは、 心の目が開かれ、神の救いのご計画を全体として御霊により啓示され悟ると言うこと です。    ・予知(前もって知る)―ローマ8:29・予定(あらかじめ定める)―ローマ8:29 ・召命(召す)―ローマ8:30 ・再生(新しく生まれる)―ヨハネ3:5、「御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできない」 ・信仰・悔い改め ―ピリピ1:29(信仰は与えられる)、使徒11:18(悔い改めは神からの賜物)       ・義認(義と認める)―ローマ5:1 ・聖化(聖なる者に変えられる)ローマ6:22 ・栄化(栄光を与える)―ローマ8:30       1)救いの御業の目的は個人の救いを通して、神の栄光がこの地上に現れること私たちは、神との選びにおいて、キリストのからだなる教会に計画され、召され、結合されているのです。 「私たちは、神の御心により、御子にあって前もって定められ…」(エペソ1:11) 「教会はキリストのからだであり、すべてをすべてで満たす方が満ちておられるところです」(エペソ1:23) 2)信仰者は、キリストと結合し(1コリント6:17)  霊によって新しく生まれ(ヨハネ3:5)、 信仰と悔い改めを神から与えられ(ピリピ1:29, 使徒11:18) その結果として教会という共同体に結合される(1コリント12:13) 「ひとつの御霊によって、私たちは皆、ひとつのからだにバプテスマされ…」(1コリント12:13) 3)さらに、父・子・聖霊の三位一体の神が、信仰者のうちに永遠に住まわれます。 ・「わたしたちは、御父と御子が、その人のところに来て、住まう」(ヨハネ14:23) ・「キリストがあなたがたのうちにおられる」(コロサイ1:27)・「あなたがたのうちに住まわれる聖霊」(ローマ8:11)   4)真の信仰者たちは神の神殿とされる「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊が宿っておられる」(1コリント3:16)結合(Union)は、一度きり、全人格的、契約的に、有機的にキリストに結ばれたこと。 内住(Indwelling)は、神が信仰者のうちに臨在され続けること。ペンテコステの聖霊降臨の重要性はここにあります。 ➡ この結合、内住は教会が生まれることの土台となる。   <結合と内住の違い> 区分 結合(Union with Christ) 内住(Indwelling of God) 定義 全人格・契約・有機的な結合。再生と同時に成立 結合に基づく神との霊的交わり 時期 再生と同時、一度限り 継続的に続く 主体 キリストとの関係(位置) 三位一体の神の臨在(経験) 聖句 1コリント6:17、ローマ6:5 ヨハネ14:23、ローマ8:10、2コリント13:5     【キリストの内住 ― 教会と信者における現実】 「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」(コロサイ3:11)この御言葉は、単なる象徴ではない。   再生された者には、実際にキリストご自身が聖霊を通して内住している。 ・信者の心の中に、キリストが住まわれる ・教会全体に満ち、満ちるキリスト ・その結果、私たちは内から造り変えられていく(これが「聖化」)   パウロは、エペソの信徒たちのためにこう祈りました。 17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、 19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。  この「知る」とは、ただ情報を得ることではありません。 それは、心の目が開かれ、神の救いのご計画を全体として知ることです。これは聖霊の働きによります。     エペソ1章〜2章からの要点 【1:4】天地の創造の前に、神は私たちを選ばれました 【1:7】キリストの血によって、私たちは贖われました 【1:13–14】聖霊によって、将来の相続が保証されました 【2:1–5】死んでいた私たちを、神はキリストとともに生かしてくださった 【2:8–9】救いは行いではなく、ただ神の恵みによるものであり、信仰は神の賜物 これが全体像:選び、贖い、再生、義認、聖霊の保証、相続 ──すべて神の恵みによる壮大な救済の計画   私たちは、これらの神の素晴らしい恵みの働きをどれほど知っているでしょうか? どれほど心を打たれて、感謝と礼拝に導かれているでしょうか? パウロはこう祈り続けました。 18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。  まさにそうなのです。   ――パウロの祈りの「神学的深み」そのものです。 パウロは、創造のはじまりから栄化の終わりまでのすべてを、「キリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さ」で貫いて祈っています。   これは単なる「霊的体験、個人的な祈り」ではありません。   これは――神の救済史の全体を、愛によって貫き、キリストの十字架によって確証された、福音の全構造を震える心で語る祈りです。   【エペソ3:18】その広さ、長さ、高さ、深さについて    神の救済計画(創造〜栄化)の構造   1. 広さ=創造と選びの広がり:存在するすべてのものを貫く神の愛   神は世界を創造された時から、愛によって計画を始められた(創世記1:1、エペソ1:4)       •光も闇も、天も地も、天使も人も――すべてが神の愛のご計画の中で造られた。     •「選び」は人間の自由意思ではない。被造世界の中で、主がご自身の愛の対象を定めた主権の現れ。     •広さとは、創造に先立つ「愛の永遠の意志」の広がり。   「 宇宙を超えた創造と選びにおける主権的な愛の広がり」     2. 長さ=歴史の流れを導く愛:再生・信仰・悔い改めの中に働く神の導き   「神は、時が満ちるに及んで、御子をお遣わしになった」(ガラテヤ4:4)   •私たちは時の中にいるが、神の愛は時を超えて先に働いている。 •再生は、時間の中で起こるが、永遠のご計画の成就として与えられる。 •信仰も悔い改めも「人間の応答」ではなく、愛の長さの中に仕込まれた恵みの出来事。   「創造から終末までの「歴史全体」に流れ込む、切れ目なき愛の持続」    3. 高さ=義認と聖化による天への引き上げ:神の栄光と結合される愛の高み   「あなたがたはキリストとともに天の所に座らされた」(エペソ2:6)       •十字架の義によって罪の下から引き上げられ、     •聖化によって神のかたちに変えられつつあり、     •やがては栄化によってキリストとともに完全な栄光に与る。   この「高さ」に含まれるもう一つの驚くべき真理は、神の救いの完成は、すでに決定しているという確実性です。 パウロはローマ8:30でこう語ります: 「神はあらかじめ定めた人たちを、さらに召し、召した人たちを義と認め、義と認めた人たちには、さらに栄光をお与えになりました。」 ここで注目すべきは、「栄光をお与えになりました(過去形)」という表現です。 私たちの時間の中ではまだ到達していない「栄化」が、 神の永遠の計画の中では、すでに与えられたものとして語られているのです。 これは、神の救いの計画が途中で頓挫することは決してないという確信を与えます。   選ばれた者たちには、神によって完全な救いが始まり、神によって成り、神によって確実に完成されます。 このように、選びから栄化までのすべてが神によって語られ、すでに完成形で示されていることは、神の民が必ず終わりまで堅く保たれるという」確信となります。   これはパウロがピリピ1:6で語る「あなたがたのうちに良い働きを始められた方が、それを完成してくださる」という約束と一致します。 したがって、栄化とは、単なる希望ではなく、神の契約における確実な未来なのです。        「最も低き者を、神の御座へと引き上げる神の愛の高さ」    4. 深さ=十字架の御業:死、呪い、裁き、断絶の最も深いところまで降りられた愛   「キリストは死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリピ2:8)  •ただ主は死んだのではない。 •ローマ3:25「神はこのキリストを、信仰による血による宥めの供え物 神の怒りと呪いを、私たちの代わりに一身に負われた。  •その深さは、誰も届かない罪の底へ、神ご自身が降ってくださった深み。  •神の愛の深さとは――神が沈黙された場所で、なお私たちを見捨てなかったという事実。   「神の断絶すら飲み込む十字架の愛の深み」    パウロの祈り:これは福音の全体構造へ「神の愛という光」を当てる祈り   「私は、創造から栄化に至る、すべての神のわざの中心に、キリストの愛があることを、聖徒たちとともに悟ってほしい――そのように祈る。」   19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。    「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」  こうして ➡「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」    <人知を超えたキリストの愛の全貌>   神の主権にすべてがあり(私たちは神の主権の中にあり) キリストとの結合 (キリストはわたしの内にあり)    広さ=創造と選びの愛:すべての時空を超えた主権  長さ=再生・信仰・悔い改めの愛:時間の中の契約的導き  高さ=義認・聖化・栄化の愛:神の子としての天の御座に引き上げられた  深さ=十字架の御業:裁きの底にまで届いた神の愛 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ること   「人知をはるかに越えたキリストの愛」=人間の理性では捉えきれないが、御霊による啓示によってのみ悟られる福音の奥義   1コリント2:9–10 "しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。   それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。" 神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。 · 神ご自身の満ち満ちたさまにまで…」というのは、キリストの愛を知り、信仰の成熟へと造り変えられていく、内住の現実と結びついている。     「天地創造の前からあなたに注がれていた愛、 十字架でそのすべてを証明された愛、 天の御座にまであなたを引き上げる愛、 そして時間も空間も死さえも打ち破ってあなたに届いている愛―― その“福音の全体構造の広さ、長さ、高さ、深さ”を、すべての聖徒たちとともに、心の目が開かられて理解する力を与えられるように。」   この祈りの内容は、人間の自由意志による決断や霊的感覚の追求とは異なり、神の主権とキリストの完成された救いの計画を啓示によって知ることを求める祈りです。

  • 教会に地上支配の権限は与えられていない

    教会に地上支配の権限は与えられていない 2025.6.18 支配神学と霊的戦争思想を福音の光で撃ち砕け 【1. 支配神学の主張とその根拠とされる聖句】 支配神学の主張:教会は「神の国の地上代表」であり、あらゆる領域(政治・教育・経済・文化など)を支配し、悪魔の勢力を駆逐する使命を負っている。神はアダムに地の支配権を与え、それをキリストが回復し、今や教会に委ねた。よって教会は「地上における神の統治機関」である。 誤用される聖句: 創世記1:28「地を従わせよ、支配せよ」 詩篇8:6「あなたの御手のわざを人に治めさせ…」 ルカ10:19「蛇やさそりを踏みつける権威を与える」 マタイ16:19「天の御国の鍵をあなたに与える」 黙示録11:15「この世の国は、我らの主とそのキリストの国となった」 【2. みことばによる教会代理支配論の完全破壊】 【誤用1】 創世記1:28「地を従わせよ、支配せよ」 アダムに与えられたのは「創造の秩序管理」の責任であって、霊的・地政学的支配ではない。 ローマ5:12「罪が一人の人によって世に入り」 支配は崩壊、サタンの支配下に。 詩篇103:19「主は天にその御座を備え、主の王国はすべてを支配する」 人間ではなく神が支配者。 【誤用2】 詩篇8:6「万物を彼の足の下に置かれました」 ヘブル2:6–9で明確にキリスト預言として解釈される。「すべてが人に従った」のではなく、「私たちはイエスを見ます」とある。この支配は教会の支配ではなく、キリストの栄光による成就。 【誤用3】 ルカ10:19「蛇やさそりを踏みつける権威」 宣教時の霊的保護の約束であり、地上支配や悪霊追放命令の普遍原理ではない。続く20節で、「霊が従うことを喜ぶな。名が天に書かれていることを喜べ」と教えられる。支配ではなく、救いと神の恵みが中心である。 【誤用4】 マタイ16:19「天の御国の鍵をあなたに与える」 原語の「つなぐ・解く」はラビ的表現であり、天の御旨を宣言する責任の意味。福音の扉を開く責任として、ペテロはユダヤ人・サマリヤ人・異邦人に福音を伝えた(使徒2, 8, 10章)。支配ではなく、宣教の鍵=御言葉の宣言的責任。 【誤用5】 黙示録11:15「この世の国は…主とそのキリストの国となった」 これは終末における最終的成就の預言。現在の教会に地上支配が委ねられた証拠ではない。支配はキリストが再臨されるとき、完全に実現される(黙示録19:16) *ミニコラム* 霊的領域を勝ち取るという異端を撃ち砕け! 「この土地に祈って勝利を宣言しよう地域の悪霊を打ち破り、霊的領域を奪い返そう」 こうした叫びは、現代のカリスマ的スピリチュアル・ウォーフェア思想に満ちている。しかし、それは福音ではない。それは「キリストのすでに勝ち取った勝利」を否定し、教会が支配者として悪霊と戦って勝利しなければならないという偽の福音である。 聖書は明確に語る: コロサイ2:15「キリストは十字架で、支配と権威を打ち破られた」 コロサイ1:13「私たちはすでに暗闇から移された」 ヨハネ18:36「わたしの国はこの世のものではない」 私たちは領域を勝ち取るのではない。福音を宣言し、神が再生された者に御国が来るのを待つのだ。 【3. 真のキリストの王国は何か?】 ヨハネ18:36「わたしの国はこの世のものではない」 ピリピ3:20「私たちの国籍は天にある」 コロサイ1:13「暗闇の力から救い出され、御子の御国に移された」キリストの王国は、「教会が地上を支配する制度的構造」ではない。神によって再生された者が、福音によって神の支配に服する霊的現実である。 【支配神学を福音の光で撃ち砕け】支配神学は、アダム契約を誤読しキリストの十字架を過小評価し教会に与えられた福音の宣言という謙遜な召しを忘れ地上的支配にすり替えた偽りの王国ビジョンである教会は王ではない教会は王を指し示す者である教会の武器は、勝利を叫ぶことではなく悔い改めと信仰を呼びかける十字架の福音の宣言である。 【まとめ】 支配神学が聖書によって明確に否定される証明ヨハネ18:36「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしがユダヤ人たちに渡されないように、わたしのしもべたちが戦ったことでしょう。しかし、わたしの国はこの世のものではありません。」主イエスご自身が語られた決定的宣言である。 地上的支配(政治、軍事、国家、制度)とは無縁であることをはっきりと告げておられる。キリストの国は、御言葉と福音によって支配される霊的な国であり、地上の統治権を信者や教会に委ねたとは一言も語っていない。 ルカ17:20–21「神の国は、見えるかたちで来るのではありません。『見よ、ここにある』『あそこにある』と言えるようなものではありません。実に、神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」 神の国は地上的制度的支配や領域的占有ではない。「ただ中にある」とは、神の御霊によって再生された者のうちに始まる、霊的支配の現実である。 教会が制度的支配を握るという考え方は、キリストの福音に対する完全な反逆である。 2コリント10:4–5「私たちの戦いの武器は、この世のものではなく、神の御前で要塞をも打ち砕く力があるのです。私たちは、あらゆる思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせます。」 戦いとは、支配することでも領域を奪い返すことでもない。それは、神に逆らう高ぶった思いを砕き、キリストの福音に服従させる霊的戦いである。真の支配は御言葉によって魂がキリストに従うことにある。支配神学は、地を征服しようとして魂を見失う異端的運動である。

  • 十字架の血により贖われ罪と戦う

    2025.6.17_The Word foy you 十字架の血により贖われ罪と戦う あなたは贖われた。でも、戦いは続いている 聖書:1ペテロ1:18–19 / ローマ6–8章     1 はじめに:船を作った少年の話 ある少年が、手作りの木の船を作りました。心を込めて仕上げたその船は、彼の宝物でした。ある日、その船を川に浮かべて遊んでいたとき、強い流れに流され、船は見えなくなってしまいました。   数日後、町のおもちゃ屋のウィンドウに、自分の作ったその船が並べられているのを見つけました。少年は店に入り、「これは僕の船だ」と言いましたが、店主は「買いたければ代金を払いなさい」と答えました。   少年は家に帰り、お金をかき集めて再び店に行き、その船を買い戻しました。そして彼はこう言いました。   「君はぼくのものだよ。ぼくが作ったし、買い戻したんだから。」   2 贖いとは何か ペテロはこう書きました。   「あなたがたは、…金や銀のような朽ちるものによってではなく、傷のない、汚れのない子羊のようなキリストの尊い血によって贖われたのです。」(1ペテロ1:18–19)   神は私たちを造られた方です。でも私たちは、罪によって神から離れました。それでも神は、私たちをあきらめず、イエス・キリストの命という最高の代価を支払って、買い戻してくださいました。これが「贖い」です。   3 贖われたのに、なぜまだ罪に苦しむのか? それは当然です。   ローマ6章6節にはこう書かれています。   「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされ、もはや罪の奴隷でなくなるためです。」   ここで使われている「滅ぼされ」は、ギリシャ語で「カタルゲオ」。この語は、「完全に無くす」ではなく、効力を奪う・支配力を破るという意味です。   つまり、罪はまだあなたの中に存在します。でも、もはやあなたを支配することは出来ないと言うことです。   罪は今も、あなたの想像力、欲望、肉体を通して誘惑してきます。しかし、あなたはもはやその奴隷ではありません。   4 パウロの叫び:ローマ7章の現実 パウロは、贖われた後でもこう叫びました。   「私は自分のしたい善を行わず、したくない悪を行ってしまう。わたしは、なんと惨めな人間なのでしょう!」(ローマ7:19, 24)   これは未信者の姿ではありません。再生された者が経験する、内なる霊と肉の激しい葛藤の証言です。   5 聖化とは:贖われた者の戦いの道 聖化とは、贖われた者が罪と戦いながら、少しずつキリストに似た者とされていく過程です。   すでに始まっているけれど、まだ完成していない   倒れることもあるけれど、御霊が導き続けてくださる   あなたが罪と戦っているのなら、それこそが再生された者のしるしです。   6 御霊の力の中で生きる(ローマ8章) 「御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きる」(ローマ8:13) 「御霊も同じように、私たちの弱さを助けてくださいます」(ローマ8:26)   自分の力で戦おうとすれば、必ず敗北します。でも、御霊があなたのうちで働いてくださり、罪を憎む心、キリストに従いたいという願いを与えてくださいます。   7 よくある誤解と訂正 「十字架で罪は完全に打ち砕かれたから、もう罪は残っていない」 これはカタルゲオの意味を無視した誤った教えです。ここから、「完全聖化」や「罪を清める第二の祝福」が生まれます。   「聖霊のバプテスマを受ければ、罪に勝てる」 これは十字架の完成性を否定する異端的な思想です。十字架に“足りないもの”があるかのような、福音への侮辱です。   正しい理解はこうです。   キリストはすでに贖いを完全に成し遂げられました。しかし、罪との戦いは今も続いています。それは、神が私たちをきよめ続けておられるしるしです。御霊が日々、戦いの中で私たちを支えてくださっています。   8 信仰は「私が決めた」ことではない 信仰もまた、神の賜物です。「私はイエスを信じた」と言うと、まるで自分の意志と選択で救われたように聞こえてしまいます。 聖書が教えるのは、「神があなたを再生させ、キリストに信頼する信仰を与えてくださった」ということです。   ですから、私たちはこう告白します。「神が私の心を開いてくださり、キリストを信じるようにしてくださいました。」   9 まとめ ・あなたは神に造られた者 ・しかし罪により、神から離れていた ・神はあなたを見捨てず、キリストの血で買い戻してくださった ・罪の支配は打ち砕かれた(カタルゲオ) ・しかし罪との戦いは今も続いている(ローマ7章) ・それは聖化の道、御霊による導き(ローマ8章) ・信仰も神の賜物であり、あなたは神によって信じる者とされた

  • 祈りは依存 ― 再生前から始まっている主の訓練

    2025.6.20_The Word for you 祈りは依存 ― 再生前から始まっている主の訓練 マルコの福音書 9章25~29節 1. はじめに:祈りってなに? みなさん、「祈り」ってなんでしょうか? 「祈れば神さまが動いてくれる」「祈れば問題が解決する」――そう思っていませんか? でも、それは聖書が教える祈りではありません。 祈りは、神を動かして自分の願いを叶えるための手段ではありません。 祈りとは、神にすがり、神の御心に従う者へと変えられていく「信仰の応答」そのものです。 2. 今日の聖書:マルコ9章25〜29節 ある父親が、悪霊に苦しめられている息子をイエスの弟子たちのもとに連れてきました。 弟子たちは、イエスから「悪霊を追い出す権威」を与えられていましたが…このときはできなかったのです。 イエス様はその子から悪霊を追い出しました。 その後、弟子たちはこう尋ねます: 「どうして私たちは霊を追い出せなかったのですか?」 イエス様の答えはこうでした: 「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」 3. 再生されていなかった弟子たち ここで大事なのは、弟子たちはまだ「新たに生まれて」いなかったということです。再生とは、神が聖霊によって心を新しくされること。信仰も祈りも、再生がなければ生まれません。 弟子たちは祈れなかった。できなかった。それは当然のことでした。まだ新しくされていなかったからです。 4. ではなぜ、イエス様はできない弟子に権威を与えたのか? それは、「失敗させるため」ではなく、「主が不在を教えるため」です。 弟子たちは「任命された」「力をもらった」ことで、自分たちの中に何かがあると思っていました。 でもそれは違いました。 イエス様は、あえて彼らを失敗させることで、こう教えようとされました: 「あなたは自分の力では何もできない。私が与えなければ、あなたは祈ることも、従うことも、信じることもできない。」 5. 訓練は再生される前から始まっていた ここが今日のポイントです。 弟子たちはまだ再生されていない。祈れないし、信じられない。でもイエス様は、それでも彼らに訓練を与えていたのです。  ・ 訓練は、再生を起こすための条件ではありません。  ・再生されたときに、かつての訓練が「意味を持つようになる」ための神の備えです。 イエス様は弟子たちに、できないこと、祈れないことを体験させておられた。それは、将来祈る者とされるときの「燃え上がる種火」となるためです。 6. 祈りとは何か(本質的定義) ここではっきりさせておきます: 祈りは、神を操作して、自分の目的を達成するための手段ではありません。 祈りは、自分が無力であることを神に告白し、神の御心に従う者へと砕かれていく応答です。 祈って癒されたから信仰があるのではありません。祈る者とされたのが神の恵みであり、それが「信仰」です。 7. 終わりに 祈りは、信仰者が自分からつくり出すものではありません。あなたが神を操作して、あなたが思う必要なものを与えてもらうため方法ではありません。 神は永遠の昔からご自身の時の中であなたのために祈りを準備していました。 もしあなたが、自分の意思で神に近づき、神にすがりついたと思っているなら、それは根本的な誤解です。神があなたの心を変え、砕き、祈る者とされたからこそ、あなたは祈ります。 祈りには、偽物と本物があります。 ・偽りの祈りは、神を動かして自分の願いを叶えようとするものです。 ・ 本物の祈りは、神ご自身が与える依存の叫びです。神にすがりつき、助け求める主の祈りの本質です。 神の栄光です。 弟子たちができなかったのは、祈れなかったからです。 祈れなかったのは、再生されていなかったからです。 主はその失敗を通して、後に祈る者へと変えられていくための訓練を始めておられたのです。 主は、あなたを祈る者とされるために、救われる前から、今も、将来もその訓練を行います。

  • 「神との結合1 ろうそくの火と部屋のたとえ」

    「ロウソクと部屋の例え 結合」2025.7.8 The Word for you 聖霊によって三位一体の神と結ばれるとは? (R.C.スプロールの改革神学に基づいて) ロウソクと部屋のたとえ:キリストは火、私たちは部屋 ある家に暗い部屋があります。中にロウソクの火が灯されると、火の光と熱は部屋全体をやさしく照らし、あたためていきます。 このたとえの中で ロウソクの火はキリストを表しています。 部屋は信者の全存在――つまり、あなたの意志、感情、思い、身体、人格そのものを表します。 そして、聖霊は空気のように、火の光と熱を部屋中に届ける働きをするお方です。 部屋とは「あなたのすべて」 部屋はただの空間ではありません。 この部屋には―― あなたの意志(どこへ向かおうとするか) 感情(何に反応し、何を愛し、何を嫌うか) 思い(何を考え、何に価値を置くか) 身体と生活 そして、あなたという存在のすべて ――が含まれています。   この全体が「あなた」という「器」であり、「部屋」です。   神との関係は「契約」によって結ばれている   この関係は単なる霊的な影響ではなく、神ご自身が御子キリストにおいて一方的に結んでくださった「救いの契約」に基づいた関係です。 「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:33) この契約は、神の主権と誠実さによって保証されています。 R.C.スプロールが強調するように、これは「人間の応答による不確かな絆」ではなく、神の変わらぬご意志と恵みによる、確かな約束です。 有機的な結びつき ― ぶどうの木と枝のように   この関係はただの「法律上の契約」ではありません。生きたつながり、すなわち有機的な結合です。 キリストはこう言われました: 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5) 枝は木から切り離されると死にます。 私たち信者も、キリストと結び合わされてはじめて、いのちを受けて生きることができます。 聖霊はこのぶどうの木と枝の間にある命の流れのように、キリストの恵みといのちを、信者のうちに届けるお方です。   三位一体の神は聖霊をとして以上のように聖霊を通して信仰者と結合しますが、ろうそくの火は部屋とは区別されたまま存在します。   「結合」と「内住」のちがい   結合(Union with Christ): 再生のときに聖霊によって与えられる、キリストとの霊的な結びつき これによって、私たちは義認・聖化・栄化といった救いのすべての祝福にあずかります。 これは神との根本的な結びつきの事実そのものです。 内住(Indwelling of the Spirit): 結合の結果として、聖霊が私たちの内に住まわれること これは、信者が日々の生活の中で神の臨在と助けを経験する現実です。   ロウソクのたとえで言えば: 結合は、火と部屋が深く結び合って、部屋を変える「霊的関係」そのもの 内住は、火の光と熱が部屋全体に満ちて、住む人を照らし温めていく「日々の実感と変化」 まとめ:スプロールの改革神学とともに理解する   あなたがキリストを信じるのは、あなたが選んだからではありません。 神が主権的な恵みによってあなたを選び、聖霊があなたを再生させ、キリストと結び合わせてくださったのです。 そして今、あなたの意志も、思いも、感情も、身体も、存在のすべてが―― キリストの命に照らされ、導かれ、日々きよめられています。 この結びつきは、契約に基づいた永遠に破れることのない絆であり、 同時に、ぶどうの木と枝のように、日々いのちが流れる生きた関係でもあるのです。

  • 日本における決断主義的伝道の歴史

    2025.6.22 礼拝メッセージ 日本における決断主義的伝道の歴史   1 明治・大正期 明治初期から、日本には世界中から来日したキリスト教の宣教師たちが来日しています。多くはメソジスト、ホーリネスからでした。改革派は全体の5%に満たないぐらいです。 ジェームズ・ハミルトン・バラは1861年に来日し、オランダ改革派の宣教師で日本初のプロテスタント教会「日本基督公会(海岸教会)」の創設に寄与しました。ジェームスバラの話は日本のリバイバル運動の先駆けのようにリバイバル系の教会で神話のように語られます。   宣教師の教派別人数と構造的優劣の分析 改革派・長老派宣教師は明治〜大正期を通して推定10〜20名程度であったのに対し、アメリカのメソジスト派やホーリネス系教団の宣教師100名以上が来日しており、そのうち女性が83名以上。男性宣教師を含めるとかなりの人数は派遣されていました。 【教派別 宣教師数比較(明治末)】 教派 宣教師数 備考 改革派 10〜20名 講解説教中心 ホーリネス・メソジスト 100名以上 うち女性宣教師83名超   <質問> 第1節 それにしても、なぜ改革神学の宣教師は少なかったのか? 改革神学は、福音を最も正確に解き明かす組織神学的体系。 神の主権、罪の全的堕落、キリストの完全な贖い、信仰による義認、聖霊による再生と聖化―これらはすべて改革神学の中核であり、真の福音宣教を成り立たせる基盤である。しかし現実には、改革神学に立つ宣教師・説教者の数は世界的にも、日本においてもきわめて少なかった。召され、語る者が少なかった。 この事実は、単なる偶然でも、時代の流れでもない。それは、教会制度そのものが聖書からそれ、召された者たちを正しく立てることができなかったという罪によって生じた深刻な霊的現実である。   第2節 神の召命と教会制度 【神の召命は主権的である】 聖書は、語る者――すなわち預言者・使徒・牧師・教師が人間の判断によらず、神の主権的召命によって立てられると繰り返し教えている(エレミヤ1:5、使徒13:2、エペソ4:11)。語るという行為は、単なる職務ではなく、神の言葉を神の民に正しく伝えるという聖なる務めである。   【制度による召命の囲い込み】 神の召命の上にあった教会制度と人間的な条件― 学歴(神学校卒業)、手続き(教派による承認)、礼典(按手)、所属(公的組織との関係)を“前提条件”として設け、召命の霊的実体を制度的形骸化で囲い込んだ。その結果、召命を受けた者が、「資格がない」、「ルートが異なる」、「秩序を乱す」として排除・沈黙させられてきた。   第3節 語る者が語れなかったという歴史的罪 【福音が語られなかった理由】 語るべき者たちはいた。彼らは主を恐れ、十字架の福音を愛し、再生された者たちであった。しかし彼らは語らなかった―否、語れなかった。それは制度が封じたのではなく、制度が聖書から逸れ、人間的な条件が語る者を正しく見分け、立てる務めを果たせなかったからである。この過ちは、単なる運営上の失敗ではない。神が立てた器を、神の名のもとに沈黙させたという教会の罪である。   第4節 沈黙の文化と忠実の誤解 多くの敬虔な改革派信徒は、「語るな」「教会の許可なく語ることは傲慢」と言われ、沈黙することを“忠実”と受け止めた。だがそれは本当に忠実だったのか? 神が語れと言われているのに、人間の制度を恐れて沈黙することが、神への従順なのか? ➡ この沈黙の文化こそ、現代の改革派教会が直面している最大の霊的問題である。    第5節 制度を聖書に立ち返らせ、語るべき者を正しく立てよ 【制度は神が与えた秩序である】 改革神学は制度を否定しない。むしろ制度を重んじる。だがその制度は、聖書に基づいて、召命を見分け、賜物を認定し、語る者を公に立てるためのものでなければならない。  制度は福音を縛るためにあるのではなく、福音を守り、語る者を送り出すために存在する!!   【改革の使命】 ゆえに今、私たちはこう叫ばねばならない:「制度を聖書に立ち返らせよ。そして、語るべき者を正しく立てよ。」按手や資格制度を、神の召命に従った賜物認定の手段として回復せよ。聖霊の賜物を無視せず、制度の形だけで判断する悪習を打ち砕け。語ることに召された者に、恐れず講壇を委ねよ   第6節 神は語る者を再び立てる 神は今も生きておられ、御心にかなう者を必ず立てられる。その者は、人の承認を第一とせず、制度に逆らうのではなく、制度を福音のために改革し、十字架と義認の真理を、何者をも恐れずに語る。「制度を恐れず、ただ主の召命と御言葉によって語る者」 それはRCスプロールやジョン・マッカーサーのように、福音の純粋性に生きた者たちである。 語る召命を受けたなら、沈黙するな。神が語らせる! 教会の制度に仕えるなら、語る者を見分け、正しく立てよ。 教会に属する信徒なら、語る者を支え、聖書の制度回復のために祈れ。 私たちは、制度を聖書に従わせる使命を担っている。そして、正しく整えられた制度の中でこそ、真の召命を受けた者が立ち、真の福音を語る。 神が真の長老、牧師、教師を立てる。神はそのために制度をもって秩序を与える。    さて、話をジェームスバラに戻しますが、 「1883年、ジェームズ・ハミルトン・バラ宣教師は夢を見て悔い改め、その祈祷会から全国的なリバイバルが始まった」という物語をリバイバル系の教会で感動的な証を話します。また、そのように聞こえますが、本当にそれが歴史的に事実なのか、御言葉に照らして吟味する必要があります。改革神学の宣教師のバラが、まるでホーリネス運動の宣教師のように語られているからです。   第1に、この話は事実としての根拠がありません。 この物語は、実在したバラ宣教師の手紙や日記、公的記録には確認されていません。つまり、後になってから、体験主義的な神学、特にホーリネス運動や福音派の一部によって、霊的な「物語」として作られた可能性が高いのです。   第2に、神学的に対立しています。 ジェームスバラはオランダ改革派教会の宣教師であり、カルヴァン主義に立つ伝道者でした。彼が信じ、教えていたのは、救いは神の主権と恵みによって与えられるということです。夢や感情ではなく、みことばの説教と神の主権、聖霊による再生が信仰の土台であるという教理に立っていました。ですから、「夢を見て悔い改めたことでリバイバルが始まった」というような体験中心の霊性とは、根本的に全く相容れません。   第3に、倫理的にも重大な問題があります。 ジェームスバラの名を語って、自分たちの霊性やリバイバル運動を正当化することは、さも歴史的、神学的な事実を語っているように信者を感情的に扇動し、聖霊の働きを勝手に話していることです。倫理的に大きな問題があります。   最後に、私たちが守るべき真理とは何か。 神の御業は、ショッキングな体験や夢によってではなく、静かに、確実に、御言葉と聖霊によってなされます。ですから、「1883年のバラ宣教師のリバイバル神話」は、史実としても、神学としても、否定されるべきであると私ははっきり言います。     2 日本におけるホーリネス運動拡大と感情・決断重視の信仰の定着   19世紀末にアメリカで誕生したホーリネス運動は、人間の自由意志による選択、聖霊のバプテスマを強調し、日本では中田重治を中心に急速に展開されました。この運動は『信仰=決断』『神聖な感情体験』を重視し、神の主権と再生に基づく救済論よりも、人間の選択と献身に基づく信仰理解を定着させました。 「長野県、飯田リバイバル」 今日は1919年に起こったとされる「飯田リバイバル」について、簡潔にお話しします。この出来事は、1919年11月、東京・淀橋教会で徹夜の祈祷会を行い、その翌日から長野県の飯田で数日間にわたり祈祷会を行ったことに始まります。その場では「サタン打ち」とも呼ばれ、叫び、転がり、笑い、倒れるという集会が行われて多くの人が癒しの奇跡や救いの体験をしたと記録されています。 この運動に関わった人物たちは、いずれもホーリネス運動に属していました。ホーリネス運動は、もともとメソジストに由来し、体験を強く重視します。祈祷による癒し、聖霊のバプテスマ、感情的な運動です。このホーリネス運動は日本へ最も多くの宣教師を来日させ各地で宣教を行っていきました。    3 戦後アメリカ型福音主義とカリスマ的傾向の浸透   戦後、GHQ宗教課(CIE–RRU)の宗教自由政策により、1945年~1951年に約2,248名の宣教師が来日し、うち1,165名は米国出身であった。内訳は、自由主義福音派(メソジスト系)、ペンテコステ・カリスマ派、エホバの証人などが多数を占め、改革派は推定100〜200名に過ぎなかった。   【教派別 宣教師数比較(GHQ期)】 教派 宣教師数(推定) 備考 改革派 100〜200名 主に長老派 自由主義・福音派 1,000名以上 主流派メソジスト等 ペンテコステ他 数百名以上 カリスマ系   4  平成後期以降の第三の波・リバイバル運動・リベラル神学 第三の波運動およびリバイバル運動が1980年代以降日本に浸透し、日本リバイバル同盟や福音派系団体、リベラル神学系教団を中心が多数を占めるに至った。 【教派別 教会・宣教師数比較(平成以降)】 分類 改革派 非改革派(福音派・カリスマ等) リベラル教派 教会数 100〜150 1,100〜1,200 約1,500 宣教師数 10〜15名 200〜300名以上 不明(多数)   以上、このように世界的な流れと日本におけるキリスト教の歴史をみると明治時代から現代まで日本で伝道された福音は人間の自由意志とその選択により救われると言う決断主義の福音でした。SNSがない時代においては神の主権による福音を聞くことは極めて稀なことだったと言わざるを得ません。   神は語る者を再び立てる。神は今も生きておられ、御心にかなう者を必ず立てられます。 その者は、 人の承認を第一とせず、 制度に逆らうのではなく、 制度を福音のために改革し、 十字架と義認の真理を、何者をも恐れずに語ります。   「ただ主の召命と御言葉によって語る者」 それはRCスプロールやジョン・マッカーサーのように、福音の純粋性に生きた者たちです。 あなたは今、何をなすべきでしょうか? 語る召命を受けたなら、沈黙してはいけません。 教会の制度に仕えるなら、語る者を見分け、正しく立てなさい。 教会に属する信徒なら、語る者を支え、聖書の制度回復のために祈りなさい。

  • 表面的な言葉に騙されない

    表面的な言葉に騙されない2025.7.18   表面的には「信仰義認」「恵みによる救い」「聖霊の導き」などの福音的言語を用いながら、実際には決断主義・経験主義・自己吟味主義が混入している典型的な事例を挙げ、その欺瞞構造を明らかにします。 このような話は現代の多くの教会でそれが本当だと思って話されています。目を覚ましていてくだい。 【事例①:ある証しの例】  「私は10年前にイエス様を信じて救われました。そのとき、涙が止まらず、全身が震えて、神さまの臨在を体験しました。それ以来、私は聖霊に導かれて歩んできました。でも最近、自分がどれほど主に喜ばれない生き方をしてきたかに気づかされ、もう一度真剣に神さまを求めたいと思っています。やはり、悔い改め続ける者だけが本物の信仰者ですよね。」  〇表面上のキリスト教用語 • 「イエスを信じて救われた」 •  「神の恵み」「聖霊に導かれて」 •  「悔い改め続ける」「主に喜ばれる」  〇神学的欺瞞の実際の内容  1.  決断主義:救いの根拠が「信じた日」「決断した瞬間」に置かれ、「神の選びと再生による救い」が語られていない。  2.  経験主義:涙や震えといった感覚的体験を、救いの証拠として持ち出しており、聖書的根拠ではなく体験の印象に依存している。  3. 自己吟味主義:「自分は十分に主に喜ばれていないのでは」といった不安が信仰の真偽を測る基準となっており、客観的な義認に根差していない。  【事例②:説教の締めくくりによくある表現】  「今、神の御霊があなたの心に語りかけているなら、それは救いの招きです。神はあなたを愛しておられます。あなたがイエスを信じると決断するなら、その信仰によってあなたは今日、救われます。」  表面上のキリスト教用語 • 「神の御霊」「信仰による救い」「神の愛」 〇神学的欺瞞の内実   1. 決断主義:救いの鍵が「あなたの今の決断」に置かれており、神の主権的再生・召しが語られていない   2. 経験主義:「御霊が語っていると“感じる”」という主観的印象が、救いの確証の根拠になっている。 3.形式的告白主義:信仰を「賛成すること」「告白すること」に矮小化し、キリストとの結合や罪の赦しの神学的実体を欠いている。 【構造的特徴と欺瞞の共通点】   1. 正しい言葉を用いながらも、意味が抜けている  • 「信仰」「恵み」「聖霊」「義認」「悔い改め」などの語が用いられていても、それが神の側の主権的業としてではなく、人間の選択・感情・努力に置き換えられている。    2. 神中心ではなく人間中心の枠組み • 誰が主語かを見れば明らかである。改革派では「神が、キリストを通して、聖霊によって救いを施す」だが、これらの欺瞞事例では「私が決断した」「私が感じた」「私が従おうとした」となる。 3. キリストの客観的救済の事実ではなく、個人の内面の状態に焦点がある • 神の怒りからの贖罪、十字架の義認、キリストとの結合といった福音の中心が曖昧にされ、代わりに「自分の感情」や「行動」が強調される。  【改革派的に明確に拒絶すべきポイント】    • 救いの起源は「時空間の中での決断」ではなく、「神の永遠の選びと召し」にある(エペソ1:4、ローマ8:29)。  •  信仰は「人の意志の選択」ではなく、「再生の結果として与えられる賜物」である(ヨハネ3:5–8、ピリピ1:29)。  •  聖霊は「感じる」存在ではなく、「みことばを通してキリストを啓示する神」であり、私たちの感情ではなくキリストを真理によって指し示す方である(ヨハネ16:13–14)。 •   義認の確信は「自分の内面状態や行い」ではなく、「キリストの完成された御業とそれに結合しているという事実」に根差す(ローマ5:1、ガラテヤ2:16)。

  • 「霊・魂・体」? ― 三部分説の誤りと、聖書が教える人間理解 

    「霊・魂・体」? ― 三部分説の誤りと、聖書が教える人間理解       2025年4月13日 おさらいですが 結合について先週、学びました。 「結合」とは、信仰によって、キリストと結合されることです。三位一体の神と結合されることです。 【結合とは】 ・人格をもって結ばれる ・キリストの血による新しい契約によって結ばれる ・有機的な関係に結び合わさる ⇒ そのいのちにあずかり、交わりに生きることを意味します。 夫婦 エペソ5、ぶどうの木と枝 ヨハネ15 結合とは神の御霊が私たちの魂が混ざり、神秘的な融合することではありません。   ― ヘブル4:12とローマ12:1–2を中心に ― 【今日のテーマ】 今日のメッセージのテーマは、神と結合する私たちは霊と魂、そして体という三つの部分でできているのか?」という問いです。 この教えは「三部分説(Trichotomy)」と呼ばれ、多くの霊的書籍やメッセージで取り上げられています。 一見、聖書的に見えるこの教えですが、実は多くの誤解と危険を含んでおり、霊的な高慢、神秘主義、教会の分裂を引き起こす要因となっています。 今日はこれを改革派の聖書理解(Reformed Biblical Anthropology)に基づいて丁寧に見ていきましょう。 【1. 聖書が語る「霊と魂」の関係 ― ヘブル4:12の意味】 ヘブル人への手紙4章12節です。 「神のことばは生きていて、力があり、どんな両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通し…」 この箇所をもとに、「霊と魂は明確に違うものだ」とする解釈がよくなされます。しかし、これは**詩的な強調表現(ヘブル詩のパラレリズム)**であって、教義的区別ではありません。     ●【用語解説】パラレリズム 旧約聖書によく見られる表現技法で、二つの似た要素を並列して、ある真理を強調します。 ここでは「魂と霊」と「関節と骨髄」が並べられ、神の御言葉がどれほど深く人の心を見抜くかを詩的に語っています。 霊と魂が「切り離される」と言っても、それは比喩的に「神のことばは見分けられないものすらも識別できる」という意味であって、 「人間は三つの構成要素から成っている」という教義を教えているわけではありません。 ルカ1:46、47のマリアの賛美はマリアの全人格を霊と、魂のパラレズム技法により表現しています。   ●霊と魂は「不可分(inseparable)」である 聖書は、霊と魂を詩的に霊と表現したり、魂と表現したりすることはあっても、本質的に別個の存在とは教えていません。 【用語解説】不可分(inseparable)とは? 「切り離すことができない」という意味です。 つまり、「霊」と「魂」は異なる機能や面を持っていても、一つの非物質的実体=人格の一部として分けることができないのです。 例えるならば、「知性」と「感情」は人間の中で異なる働きを持ちますが、それぞれが“別の存在”というわけではありません。 同じように、「霊と魂」は**機能的区別(functionally distinct)**はあっても、**本質的には分離不可能(ontologically indivisible)**です。   【神学的理由】 改革派の人間理解は「魂の単純性(simplicity of the soul)」を前提としています。これは、魂(または霊)は物質的に分けることができるパーツではなく、人格の不可分な中心であるという考えです 参考:ウェストミンスター信仰告白4章2節「神は、…不滅の魂を人に与えられ…」魂は“分割可能な構造”としてではなく、“全人格の座”として扱われます。 【2. 三部分説と二部分説の比較】 では、三部分説と改革派が採用する二部分説(Dichotomy)の違いを明確にしましょう。 項目 三部分説(Trichotomy) 二部分説(Dichotomy)=改革派 人間の構造 霊・魂・体 魂(または霊)・体 魂の定義 知性・感情・意志の領域 非物質的な全人格 霊の定義 神と交信する最深部の霊的器官 魂と同じ意味(詩的強調) 主要聖句 ヘブル4:12、1テサロニケ5:23 創世記2:7、マタイ10:28、ルカ1:46–47 問題点 誤解された構造により、階層主義や神秘主義が生まれる 全人格の一体性と単純性(simplicity)を守る   【3. 三部分説が生み出す霊的危険】   ● 危険1:聖書解釈の誤用 三部分説は、詩的・比喩的な聖句を「構造図」として用います。 これは聖書の文学的特徴を無視した乱暴な読み方です。   ● 危険2:霊的エリート主義の温床 三部分説の最大の問題は、「霊的クリスチャン vs 魂的・肉的クリスチャン」という二階層の信仰観(Two-Tier Christianity)を生み出すことです。 「霊的になれば、神と直接交信できる」 「魂や体に支配されていると、信仰が浅い」 このような発想は、ローマ8:9の「御霊が宿っていない者はキリストのものではない」という教えに反し、信仰者全体の一致を壊します。 ·        三部分説は、ディスペンセーション主義の「霊的/肉的クリスチャン」という教理を正当化する“人間構造の枠組み”を提供し、主観的な霊的体験主義や階層的クリスチャン観を生み出すメカニズムとなりました。   ■ 構造の図解:三部分説 → 二階層クリスチャン → ディスペンセーション神学の応用   1. 【三部分説の前提】 人間の構造 主な特徴 霊(spirit) 神との直接交わりの場、再生される場所 魂(soul) 知・情・意、人格的機能、未熟で訓練が必要 体(body) 物質的、罪の影響を受けやすい → この構造により、「霊は新しくされていても、魂と体はまだ影響を受けている」とされます。 2. 【この考え方からつくられた「2種類のクリスチャンのグループ」】 種類 特徴 神学的応用 霊的クリスチャン 聖霊に従い霊主導で生きる、勝利的 第二の祝福、献身、完全信仰、霊的支配 肉的クリスチャン 救われてはいるが魂や体の支配下、未熟 自我中心、訓練不足、実を結ばない状態 3. 【ディスペンセーション神学における影響】 ■ チャールズ・レイリー(C.I. Scofield)とスコフィールド注解聖書 1コリント3:1–3に見られる「肉的クリスチャン」は、救われているが敗北しているクリスチャンと解釈。 この理解は三部分説を背景にしており、「霊は再生されているが魂が訓練されていない」と解釈される。   ■ ルイス・ペリー・シェイファー(Dallas Theological Seminary創設者) 著書『He That is Spiritual』で「3種類の人間」教理を展開: 未信仰者(natural man) 肉的クリスチャン(carnal man) 霊的クリスチャン(spiritual man)   → これは三部分説の「霊(再生済)・魂(未成熟)」の区分がなければ成立しない構造。   4. 【現代のカリスマ・福音派にも残る形】 「聖霊に満たされていないと霊的ではない」 「異言がないなら第二の祝福を受けていない」 「あなたは肉的だから癒されない」などの発言 → これらすべてが、三部分説によって支えられた“段階的祝福論”や“階層的クリスチャン観”に依存。   ■ メカニズムまとめ:三部分説が生んだ霊的階層構造 ステップ 内容 結果 ① 人間を霊・魂・体に分割 霊だけが神と交わり、魂は不安定とされる 魂が「聖化の遅れの原因」とされる ② 「霊的支配」が成熟の基準に 魂や体を制御できる人が“霊的”とされる 経験主義・自己訓練主義へ ③ 霊的 vs 肉的クリスチャンの区別 再生はあるが、従っていない者は「肉的」 救われていても実を結ばない者とされる ④ 第二の祝福論・異言・癒し体験が「霊的」の証明に 特別な経験者が“上級クリスチャン”となる 分裂・自己義・教会内ヒエラルキーの温床   三部分説は、ディスペンセーション主義が「霊的 vs 肉的クリスチャン」という階層構造を正当化するための人間理解の枠組みを与えた。その構造のゆえに、主観的経験主義、第二の祝福思想、神秘主義、エリート主義へと非常に傾きやすい神学的土壌を作り出しています。 【4. 三部分説がつくる神秘主義】 三部分説に基づいた教えは、神との「直接交信」や「啓示・異言」などの主観的体験を強調する傾向があります。 このような神秘主義(Mysticism)は、神との交わりを「霊的感覚の深さ」として評価し、神の言葉に基づく信仰の歩みを破壊する危険があります。 以下、神学的・霊的な流れを体系的に説明します。   1. 三部分説の基本構造が「霊の領域」を特別な場所とする 領域 特徴(三部分説における) 問題点 霊 神と直接交わる場所/内なる聖所とされる 神との合一体験が「魂」や「知性」よりも上とされ、客観的真理より主観的霊的感覚が優先される 魂 感情・知性・意志などの人格的機能 知的理解や信仰告白よりも、「霊的体験」に劣るとされる 体 単なる器/地上的・動物的側面 「霊的なもの」への過度な傾斜が起こる   この構造が霊的階層(spiritual hierarchy)を正当化し、 ·        「あなたは魂的だからわかっていない」 ·        「私の霊では神から啓示を受けた」 など、内的な啓示至上主義(inner light theology)を正当化する根拠になります。 2. 三部分説がつくる神秘主義のパターン 三部分説(人間=霊・魂・体)が神秘主義を発生させる仕組みは、その人間観と霊的成長の構造が、非聖書的な“内なる神体験”や“霊的エリート意識”を正当化する仕掛けになっているためです。以下、段階的に解説します。 部分 主な機能(とされる) 特徴的誤解 体 物質的存在 罪に最も汚染された部分 魂 知性・感情・意志など 自己の人格的活動の領域、しかし不完全 霊 神と交わる内なる最も深い部分 「神の臨在に直接触れる霊的チャネル」とされる ここで霊を「特別な神的領域」であるとしたところが神秘主義的思考の出発点です。   ■【展開】神秘主義を発生させる5ステップ構造 ① 「霊」は魂や体より 高次で純粋な部分とされる →「魂」は地上的、感情的で信仰には不十分 →「霊」こそ、神と直接交信するチャネルだとされる ② 「霊的クリスチャン vs 魂的クリスチャン」の二階層信仰が生まれる “霊的クリスチャン”だけが「本当の神の声」を聞けるとされる 経験的に神とつながる少数の“上級信仰者”が出現 → これが霊的エリート主義と階層的神秘主義へ ③ 「神の声」「啓示」「ビジョン」などの 直接的・個人的霊的体験が強調される 聖書的吟味より「感じた」「啓かれた」が優先される → 聖書の客観的真理より、内的霊的経験が神の語りかけとされる → これが内在神秘主義(inner light theology)やクワイエットリズムへ ④ 「霊の中で神と一体化する」思想へ傾く Watchman NeeやWitness Leeのように「霊と霊の混合」→神人合一 または、瞑想や沈黙により魂を抑え、霊の奥に神を体験しようとする傾向へ → 東洋神秘主義(ヨガ、禅)や中世カトリック神秘主義と酷似 ⑤ 結果: 客観的真理より主観的神体験が基準となる霊的危機 「私は神から直接聞いた」が最上位の霊的権威となる 教会的秩序、聖書の権威、信仰告白的枠組みが排除される → カルト・預言運動・超自然主義的教会分裂へ   以下のような危険な神秘主義が、三部分説の土壌から育ちます:   パターン 内容 危険性 内なる霊との交信 自分の霊が神と交わり、「直接語りかけ」や「ビジョン」を受ける 啓示完結性(sola Scriptura)を否定する霊的独立主義 理性軽視・知性排除 「聖霊が語った」として、聖書的吟味を拒否 聖書に反する体験でも「霊的」と誤認される 霊魂の分離的修練 瞑想・沈黙・空っぽになることで「霊の領域」へ達しようとする 中世カトリック神秘主義や東洋神秘思想(仏教、グノーシス主義)と同様 合一主義 (ミスティックユニオン) 「神と私の霊が合わさった(混じり合った)」という異端的感覚 ウィットネス・リーのような混合(mingling)神学への入口     3. 歴史的な影響と異端の事例 教師・運動 どのように三部分説が神秘主義につながったか Watchman Nee(ニョウマン) 『霊・魂・体』で、魂を十字架につけ「霊的生活」へ達する過程を強調。→第二の経験・第二の祝福神学へ ウィットネス・リー 「霊の中の霊(mingled spirit)」という概念を導入し、神の霊と人の霊が混ざると教える カリスマ派の預言・異言運動 「魂では理解できないが、霊が受け取った」とする内的啓示重視の神秘的経験 グノーシス主義的霊性 「外なる魂や体は悪で、霊のみが善」という二元論に接続しやすい   4. 改革神学からの批判と信仰者への守り 改革神学は以下のように三部分説を否定し、神秘主義的傾向から信仰者を守ります: 改革派の主張 内容 人格の単一性         (魂の単純化) 人間は「魂(あるいは霊)と体」で構成され、魂=非物質的全体と理解 聖書のみ 啓示は聖書において完結しており、個人の霊的体験は吟味されるべき       (1ヨハ4:1) 御言葉と聖霊の一致 聖霊は決して御言葉から逸脱して個人に啓示を与えることはない 全人格的な信仰        (全人的応答) 信仰とは霊の中の神秘体験ではなく、理性・感情・意志の全体がキリストに従うこと(マルコ12:30)   三部分説は、「霊の領域は特別で、他の部分とは異なる」とする構造を持つため; ·        主観的啓示を正当化し、 ·        聖書を超える霊的体験を求め、 ·        最終的に「神との一体化」「内なる神」「自己の神格化」などの神秘主義・異端的思潮へと傾く危険が非常に高いです。 聖書的教義 内容 人格の単一性            (simplicity of the soul) 人間の魂は統合された非物質的実体であり、「霊・魂の分離」は詩的な強調にすぎない 聖書の全的権威              (sola Scriptura) 霊的体験ではなく、御言葉のみが啓示の基準 聖霊の働きと御言葉の一致 聖霊は必ず聖書に一致して働く。主観的啓示は吟味されるべき(1ヨハ4:1) 全人格的な信仰生活 霊だけでなく、魂(知性・感情・意志)と体すべてがキリストに服する(ロマ12:1–2)   三部分説は; ·        「霊の領域が神との特別交信のチャネル」という構造を生み、 ·        内面的霊的経験を真理の基準とする誤謬を育て、 ·        結果的に神秘主義・霊的エリート主義・自己啓示信仰という異端的思潮を正当化する強力な温床となります、   【5. 改革神学が語る「人間の構造と信仰生活」】 改革派は、聖書の人間理解に基づいて、次のように教えます: ● 人間は「魂と体」で構成される(マタイ10:28) 魂は霊を含む非物質的な実体であり、「霊と魂」は本質的に同義的に用いられています(詩篇・ルカ1:46–47)。 「霊だけが神と交信できる」とする理解は、霊的優越意識と分裂を生み出します。   ● 聖化とは「全人格」の変革   ローマ12:1–2はこう命じます:   「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖なる生きた供え物としてささげなさい…思いを新たにすることで自分を変えなさい」   ここで重要なのは、「霊だけが神と交わる」とは言っていない点です。 神は私たちの心・意志・思い・行動のすべてを変えてくださるのです。「全人格的聖化(Holistic Sanctification)」です。 【6. 信仰者への警告と励まし】 ● 三部分説のメッセージを聞いたことがある人へ もし「あなたはまだ魂的で、霊的になっていない」と言われたことがあるなら、それは聖書の教えではありません。 すべての信仰者は、信仰によってキリストと結び合わされ、聖霊がすでに内住しておられます(ローマ8:9)。 特別な「霊的ゾーン」に入る必要はありません。 【7. 結論:神が造られた人間は、霊魂体ではなく「人格の統一体」】 三部分説は; 神との交わりを神秘的霊的体験に限定し 信仰者の間に階層を生み 聖化のプロセスを分裂的に理解し 最終的には教会の一致を破壊します。   しかし聖書は語ります: 「私たちは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛する」(マルコ12:30) 私たちの全人格をもって、キリストに従いましょう。 キリストの恵みは、私たちの霊、魂、思い、体のすべてを、ひとつの人格として神にささげるように導きます。 【祈り】   「恵み深い天の父よ、 私たちの存在のすべてをあなたに捧げます。 霊だけではなく、私たちの心、感情、意志、そして体も、 キリストの似姿に変えてください。 真理のみことばによって私たちを守り、 主観的経験ではなく、御言葉の確かさに生きる信仰を与えてください。 主イエスの御名によって祈ります。アーメン。」

  • 現代の「表面的福音主義」とは何か?

    現代の「表面的福音主義」とは何か? このような偽の福音は福音の本質を語らない別の福音です。   表面的福音主義とは、 以下のような特徴を持つ現代の福音理解を指します: •   罪の深さを語らない:  人間の「芯まで腐っている」罪の本質を曖昧にし、「自己実現」「自己肯定感」といった心理的安心感を優先する。   •   決断主義に基づく救い:  「自分が信じると決めた」「従うと決心した」という人間の意志による信仰が強調され、神の主権的働きが見えなくなっている。     •    安価な恵み(cheap grace):  「信じれば救われる」とだけ言い、悔い改め・聖化・十字架を負う覚悟など、福音の本質的な代償を語らない。      •  「イエスはあなたを愛しています」だけの語り方:  それ自体は真実でも、罪・裁き・悔い改め・十字架の必要性を語らず、薄められたメッセージとなっている。

  • キリストとの結合と摂理 ― 救いのすべてがそこから始まる ―

    キリストとの結合と摂理 ― 救いのすべてがそこから始まる ― 2025.7.6 礼拝メッセージ   「キリストとの結合」    1.キリストとの結合とは  キリストとの結合(union with Christ)とは、神が選んだ者をキリストと霊的に結び合わせることです。この結合のうちで、私たちは「キリストにある者」とされ、そこから再生・信仰・義認・聖化・栄化といった救いのすべての恵みを受けるのです。   この結合を、3つの側面で理解します。   全人格的 :真の信仰者の思い・感情・意志・存在すべてがキリストと結びづけられ、その思い・感情・意志・存在すべてはいつもキリストの影響を受けていきます。 契約的 :永遠の約束です。神は永遠の救いを約束として信仰者に与えました。それはキリストと信仰者が約束によって結合しているからです。 有機的 :ぶどうの木と枝のように、キリストに絶えず依存して生かされていると言う霊的事実の結合です。   結合は神のご意思により行われます。救いのすべては神の贈り物です。 感覚的、神秘的に「キリストのいのちが信仰者に流れ込み、混ざり合い、一体となる」という神と被造物の区別を消し去るような神秘主義的考え、教えは異端です。信仰者はキリストによって養子縁組をされて神の子とされると聖書は教えています。(エペソ1:5他)   創造主である神と、被造物が本質的に1つになる言う教えは聖書の教えと反しています。創造主と被造物は区別され、その立場は永遠に変わりません!   創造主である神と被造物である信仰者は全く違う本質であり、その区別にありながら、永遠に神と結合されてます。   2.「キリストにあって」「キリストと共に」「キリストがうちに」――   新約聖書には300回以上、「キリストにあって(in Christ)」または同義の表現が使われています。救いの中心はキリストとの結合にあります。  <すべてキリストとの結合を表している言葉>  in Christ(キリストにあって)  キリストのとの結合にあって  with Christ(キリストと共に) キリストとの結合と共に  through Christ(キリストを通して) キリストとの結合を通して  Christ in you(キリストがあなたのうちに) キリストとの結合があなたのうちに    これらはすべて、信者がキリストと霊的に結び合わされている状態(union with Christ)を表す表現です。すべての神の御業はキリストとの結合から始まっています。     3.結合のゆえに、キリストとともに死に、ともによみがえった   この結合の結果、信者はキリストの死と復活にあずかる者とされます。 エペソ2:5–6はこう語ります。結合によってキリストの十字架の死と復活は信仰者の実際となります。  「…キリストと共によみがえらせ、キリスト・イエスにおいて共に天の所に座らせてくださいました。」  神の御前では霊的にキリストと結ばれているがゆえに、私たちの死と復活、天上での祝福も実現されている。  同様にローマ6:5: 「もし私たちが、キリストの死の様と結ばれているのなら、その復活の様とも結ばれることになるのです。」     4.「キリストがあなたがたのうちにおられる」の意味?    「Christ in you」(キリストがあなたがたのうちにおられる)という表現は、神の本質そのものが信者のうちに直接宿るという意味ではありません。それは、キリストと信者が聖霊によって霊的・契約的に結合されているという霊的現実を意味しています。     【カリスマ・神秘主義的な間違った教え】  [神の本質]+[信仰者の本質]= 混合・融合 つまり、「一体化」して「神になる」。 ⚫︎ 神と被造物の境界が消えている  ⚫︎ ヒンズー教・東方神秘主義・ニューエイジ思想・一部カリスマ神学に見られる  ⚫︎ RCスプロール、カルヴァン、マレーらはこれを異端とみなす    【誤った理解:火と鉄の融合】 鉄を火に入れて赤くなると、火と鉄が混ざってどちらがどちらかわからなくなるように思える。こういう考えは「本質的同一化」のイメージに近い。  「神の霊が人に流れ込み、一体となる」 「自分が神になる」という神格化・神化の思想に通じる。 ➡ これは異端的な神秘主義。被造物と創造主の区別が崩壊。     【聖書に基づく教え】   RCスプロールはこう説明します― R.C. Sproul, "Union with Christ": “When the Bible says, ‘Christ in you, the hope of glory,’ it is not saying that the divine essence is distributed spatially into each Christian. Rather, it teaches that believers are united to Christ by the Holy Spirit. That union is real, vital, and spiritual.” <訳>神は確かに私たちの内におられますが、それは「神と一体になる」という意味ではなく、聖霊によってキリストと結ばれているという意味です。神と私たちは永遠に創造主と被造物の関係を保ったまま、真に、命と霊によって結合しています。 [神(三位一体の創造主)]          ↓(聖霊によって) 【キリストとの結合(キリストの霊的な臨在】          ↓聖霊を通して信者のうちに    ↓キリストご自身が臨在 [信仰者(被造物)]    ⚫︎ 神と人の区別は保たれる  ⚫︎ 信仰者はキリストに霊的・契約的に結ばれている(ヨハネ14:23)  ⚫︎ 三位一体の神は信仰者の内に臨在し、住まわれる(1コリント6:19)   【正統的理解:ろうそくの光の臨在】 ろうそくを部屋に灯すと、部屋は光に満たされるけれど、壁や空気が「光そのもの」になるわけではありません。   神の臨在とは、その栄光と交わりが信者のうちに本当に届いている状態です。でも信者は「神の一部」になったわけではなく、神と交わっている被造物のままです。➡ これが「臨在」「霊的結合」「人格的交わり」    旧約と新約における「神の臨在」の連続性   旧約:幕屋に宿られた神の臨在 ― シャカイナ・グローリー   「それから、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(出エジプト記40:34)   幕屋(タバナクル)はイスラエルのただ中に置かれ、神がご自身の民の間に臨在されるしるしでした。 神の臨在は目に見えるかたち(雲と火)で現され、それが後に「シャカイナ・グローリー(栄光の臨在)」と呼ばれるようになります。 新約:信仰者のからだが神の宮(temple)とされる   「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる聖霊の宮であり、神から受けたものであり、自分自身のものではないことを知らないのですか。」(1コリント6:19)   神の民(教会)だけでなく、信仰者一人ひとりが「神の宮」とされています。神は、聖霊を通して信者のうちにキリストご自身の霊的な臨在を実現させます。    比較:幕屋と信者のうちなる神の臨在 旧約:幕屋 新約:信者の内なる臨在 神が幕屋に栄光の雲として臨在された(出40:34) 神が信仰者の内に聖霊として住む(1コリ6:19) 民のただ中に神が住む象徴的中心 信仰者一人ひとりの内に神が住まう霊的実在 目に見えるシャカイナ・グローリー 霊的で見えないが、真にリアルな結合と臨在 年に一度だけ大祭司が神の前に出られた 常にキリストによって神の御前に大胆に近づける   旧約時代、神は幕屋に臨在し、ご自身の栄光を雲と火で表されました。それがシャカイナ・グローリー(神の臨在の栄光)です。   しかし今、イエス・キリストによって贖われた信仰者には、聖霊を通して三位一体の神ご自身が住まわれています。あなたは神の宮です。 そのうちにおられるのは、シャカイナ・グローリーではなく、それを超える本物の臨在=聖霊を通して実現されるキリストの臨在なのです。    キリストがうちにおられることを理解する まとめ   旧約において、神の臨在は幕屋を満たしたシャカイナ・グローリーとして現れた。新約においては、神の臨在は信者のうちに霊的かつ契約的に宿られ、キリストとの結合を通して真に実現されている。 この恵みは、贖われた者にのみ与えられた、永遠に変わらない住まいである(ヨハネ14:23)。     5.結合の中にすべての救いがある   このように、キリストとの結合の中にこそ、 再生(新しく生まれる) 信仰(キリストを信じる力) 義認(義とされる) 聖化(主に似せられる) 栄化(最終的に栄光に変えられる)  という、救いのすべての段階が与えられているのです。     6. 聖書全体が結合の真理を土台とする   福音は、「キリストにある」者たちに与えられた神の恵みの宣言です。 「キリストにあって」「キリストと共に」「キリストがうちにおられる」という表現のすべてが、 信者とキリストが、創造主と被造物の区別を保ったまま、霊的に結ばれているという事実に立脚しています。 この結合があるからこそ、私たちは死に、よみがえり、天に座しているのです。 (エペソ2:6)     結合は私たちの信仰生活に大きな変化をもたらす 結合と神の摂理― そして私たちの人生におけるその慰め   私たちは時に、神がなさることに戸惑いを覚えます。なぜこうなったのか、なぜ今なのか、なぜこの人なのか――そうした問いに明確な答えが与えられないまま、ただ神により頼むしかない時があります。   使徒パウロはローマ11:33でこう語りました。 「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。そのさばきは究めがたく、その道はきわめがたい。」   神のなさることが理解できない時。悲劇に見舞われる時、思いがけぬ喜びに驚かされる時、悲しみに押しつぶされそうな時、答えが見つからない時、そして不安に悩み、ただ信仰に踏みとどまるしかない時。そんなときこそ、私たちはキリストにより頼み、神の摂理に信頼します。   「摂理」   1.摂理とは何か?   神の摂理とは、神がその主権によって、万物を支配し、出来事・意志・状況をすべて用いて、御心どおりに計画を成し遂げられる支配の知恵です。これは一時的な奇跡以上に深く、持続的に歴史を通して今も日々、私たちの生活のなかで続く驚異的な神の働きです。   ローマ8:28にはこうあります。   「神を愛する人たち、すなわちご計画に従って召された人たちには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」   この「益」とは、29節に明確にされます。   「神はあらかじめ知っておられた人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」 すなわち、神の摂理の目的は、選ばれた者がキリストに似た者とされることにあります。     2.キリストの埋葬における摂理の成就   この摂理の真理は、キリストの死と埋葬という人間的には最も暗い出来事の中にさえ、驚くほど明瞭に現れています。   ローマ兵士たちの無意識の行動   ヨハネ19章では、兵士たちがイエスの脚を折らず、槍で脇腹を突き刺したことが記録されています。彼らは預言など知りません。ただ命令に従って動いていたのです。   しかしそれによって、   •「彼の骨は一本も砕かれない」(出エジプト12:46、詩篇34:20)   •「彼らは突き刺した方を見る」(ゼカリヤ12:10)  という預言が正確に成就したのです。  これはまさに、神が人間の意志さえ用いて御心を成し遂げられる摂理の証です。 アリマタヤのヨセフとニコデモ ― 信者の行動にも摂理が働く  マタイ27章。アリマタヤのヨセフは、ユダヤ議会の議員でありながら、密かにイエスの弟子でした。イエスが死なれたとき、彼は勇気を出してピラトに願い出て、遺体を自分の墓に葬ります。同時に、ヨハネ3章のニコデモも現れ、香料を持ち寄って主の遺体を丁寧に包みます。   これにより、 •イザヤ53:9「彼の墓は富む者と共に設けられた」 •マタイ12:40「三日目によみがえる」  という預言が正確に成就する時間と方法が備えられました。   信仰者はこの世における名誉、地位の破滅を覚悟して行う勇気ある行動をしましたが、それもまた神の摂理によって整えられ、預言の成就に正確に用いられていたのです。     敵対者たちの策略さえ神の手の中に  マタイ27章。祭司長たちは「弟子たちが遺体を盗んだと主張するかもしれない」と言って、墓に封印をし、番兵を置きました。 これは不信仰から出た行為でした。   しかしそれが結果として、イエスの復活の証拠を明確にするために用いられました。敵意さえも、神の計画からは一歩もはみ出すことはできません。     3.そして、私たちの人生においても   キリストの死と埋葬において摂理が完全に働いていたように、今、私たちの人生のすべてにも、同じ摂理が絶え間なく働いています。   私たちは、自分の置かれている状況が理解できないとき、苦しみの意味が見えないときも、そうでない時も、ただ信仰にとどまり、主を仰ぎ見て(みことばを豊かに自分の内に住まわせ)歩むように命令されています。   しかしその試練、すべての出来事が、キリストにある者にとても深い意味を持ちます。神は、キリストとの結合のうちにある者に対して、あらゆることを益に変えてくださるのです。    4.キリストとの結合 ― 摂理の慰めの根源   旧約時代、大祭司だけが年に一度、幕を越えて至聖所に入ることが許されていました。しかし今や、キリストご自身がその幕を裂き、ご自身の死と復活によって神の御前への道を開かれました。そして今、キリストにある者は、その結合によってすでに霊的に神の御前にあり、永遠のいのちと確かな将来に結びつけられてます。   「この希望は、私たちのたましいのための、安全で確かな錨(いかり)のようなものであり、それは天にある神の臨在の奥深くにまで届いているのです。」(ヘブル6:19) この魂の錨(いかり)――それはキリストとの結合という霊的現実(臨在)にあります。   それゆえ、どんな嵐の中でも、このキリストとの結合は断ち切られることがなく、 神の摂理はキリストとの結合(臨在)を通して確かな慰めと希望と変わります。    「結びに」   イザヤ46:10はこう語ります。「わたしのはかりごとは成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる。」   この主が、キリストの死と埋葬を支配された方です。同じ主が、あなたの人生をも、今も変わらず御手の中で支配しておられます。    たとえ今は先が見えなくても――ヤコブがかつてこう叫んだように: 「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」(創世記28:16) この叫びも、信仰者の心からの叫びです。   摂理の中にあっても、私たちはしばしば見失い、泣き、疑い、それでも主にとどまろうとします。 だからこそ―― キリストと結合している者は、神の摂理にすがり、見えなくても、知らなくても神に信頼して、歩むのです。

  • 自由ってなに?-罪人と神

    2025.6.24 The Word for you 自由ってなに?-罪人と神 「人権が保証された自由な国に住んでいる人間でも自由なのに自由じゃない」 3:12) みなさんこんばんは? 今日は「自由意志」ってなんだろう?ということを、聖書から一緒に考えてみましょう。   私たちがよく言う「自由」とは、「自分で選べること」、自分で決めることだと思っていませんか? たとえば、今日のお昼ご飯を選んだとき、「カレーにしようか、ラーメンにしようか」と考えて、自分で決めたとします。 普通、「私は自由に選んだ」と思います。ラーメンやカレーは自分の体の欲求によって選ばれています。 でも、聖書が教える人間の自由はもっと深く、重要な問題があると教えています。それは、私たちが「自由に選んだ」と思っているその選択は、実は心の中の「欲望」よって決まっているからです。 1. 選択、決定には必ず理由がある  人がある事を選ぶとき、その選択には何かしらの理由や動機があります。 「なんとなく」というのも、実はその人の性格や気分、過去の経験などが関係しています。 つまり、まったく理由も動機もない「純粋な自由な選択」なんてものは、現実には存在しません。 2. 問題は、心が神を望んでいないこと  聖書は「人はみな罪を犯した」と教えます。人の心は、本当の神に従いたいという思いをもたない状態にあると聖書は言います。   だから、人は「自由意思に」まことの神を拒み、「自由意思で」罪を犯しているのです。神を信じない人は、神を信じる能力がありません。それはすべての人を指しています。 3. 人は一番強い欲望に従って選ぶ  ジョナサン・エドワーズと言う牧師は、「人は常に、ある瞬間に最も強い欲望に従って選ぶ」と言いました。 これはとてもシンプルですが、とても真実な仕組みです。  たとえば、ある人が罪を犯したとき、その瞬間に「罪を犯したい」という気持ちが、他のどんな気持ちよりも強かったということです。 4. 神を選びたくなるには「新しい心」が必要  罪人がキリストを信じ、従うには、「神を信じたい」という願いが心の中に生まれる必要があります。 しかし、人は自分ではその願いを生み出せません。能力がもともとないのです。だからこそ、神の恵みによって、心そのものが新しくされなければならないのです。 5. 自由とは、「神を選べること」 人は自分の心に従って自由に選んでいます。問題は、その心が神を望む能力がないということです。聖書でこの状態を死んでいると表現します。  人間は自由意志を持っていますが、その意志は堕落しており、神を選ぶことは決してしません。すべて人は罪の中で死んでいると聖書は言います。 6. 神からの贈り物 神の方から私たちの心を変えてくださるとき、初めて私たちは「自分の意思で」神を選ぶようになります。 罪の中で死んでいる人の側から神に近づくことはできません。 これは人間の選択や意思によるのではなく、神の憐れみによるによる働きです。私たちが自分が本当に心から罪深いものであり。真の神に助けを求める原因は100%神から始まるのです。 終わりに 人間の自由意志は、自分の心の欲望、罪の性質に従って動いています。その罪の性質は、アダム以来、すべての人間にあります。だからこそ、神の救いは「新しい心」を与えることから始まります。 神を選べるようになるのは、神が私たちの心に働いてくださるからです。良いことしたからではありません。イエスキリストからの贈り物です。真の神、イエスキリストです。

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