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  • マタイ24章 選びの民は誰か 黙示録3

    2026.1.25 豊川の家の教会礼拝メッセージ   マタイの24章の選びの民は誰か、また反キリストと獣の刻印、そして終末的迫害をどう位置づけるべきか。ここのところを整理していくと、終末論は「これから何が起こってくるのか」「どういう出来事が起こるのか」という出来事探しから、神の召しに生きることへ変わっていきます。   マタイの24章の「選びの者」とは、選ばれた、時の始まる前に選ばれた者たちということです。マタイの福音書24:22にこうあります。「その日数が少なくされなかったなら、だれも救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのためにその日数は少なくされます。」   また24:31にこうあります。「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方から、その選びの者たちを集めます。」   このマタイの24:22と24:31は、一つの裁きの後に語られます。イエス様はイスラエルの神殿が破壊されることを予言しています。AD70年のことです。この後に、選ばれた者たちを集めると言っています。そしてその集め方は「天の果てから果てまで、四方から」です。  すなわち、神殿制度が神によって破壊されて、旧約の祭司による、また動物の犠牲による、また神殿による礼拝を神は否定しました。そして神は、聖霊によって新たに生まれた人たちを四方から集めると言っています。   選びは民族イスラエルではありません。これは聖書が一貫して言っていることです。キリストの中に置かれている人たちです。エペソ1:4はこう言います。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選ばれました。」   ここでとても重要なのは、「キリストにあって(in Christ)」、そして「世界の基が据えられる前」です。この中において選ばれたと言っています。   ですから、聖書は初めからイスラエルという国家民族を選んだのではなく、時の始まる前からキリストにあって、キリストに結ばれた中において、御子の中で人々を選んだとはっきりと言っています。これはローマ書11章でもパウロが「選びの恵みによる残りの者」がいると言っており、そのことを言っています。   したがって「最初はイスラエルが選ばれていた。そして次に教会が現れたのでそれを教会に置き換える」という考え方は、ディスペンセーションが「置換神学」と呼んで批判するものです。ディスペンセーションを信奉している人たちは「最初はイスラエル、後で教会に置き換えた」ということが、これが聖書的に間違っていると言います。しかし、この枠組み自体が聖書の御言葉をねじ曲げています。もともと選びは民族ではありません。   神はイスラエル民族全体を救うという根底が、もともと存在していないのです。この考え方は聖書の御言葉をねじ曲げて作られています。それが分かります。その構図、「置換神学」と言っている構図自体が、エペソ1章と全く違います。   またローマ書も、またその他の箇所も、聖書が一貫して言っている選びは、神の主権によって時の始まる前に行われているということです。ディスペンセーション神学はそれをねじ曲げています。これが真実です。   最初から選びはイスラエル民族ではなく、神の主権によって、キリストとの結合に置かれている、in Christであり、一貫しています。そして贖いも、子としての身分も、すべてキリストの中で与えられていると聖書は言っています。すべてがキリストにあって、すべてがキリストにあってです。   「キリストにあって」という一点に集中します。救済史の中心は常にキリストです。アブラハムの民族でも、モーセの契約でもないです。神殿でもないです。祭司制度でもありません。生贄でもありません。御子に結び合わされているという一点です。   一つの選び、一つの救済史であり、分断されません。そして一つのキリストと結ばれている民がいます。   マタイの24章の選びの者は、すべての選ばれた人々、すなわちキリストの体です。それを聖書はエクレシアと呼びます。   だから、民族イスラエルは選びの者ではありません。ディスペンセーションの教えの問題の核心はここです。なぜ私はディスペンセーションを批判しているのか。批判ではなく、これは事実です。そして、このディスペンセーション主義が日本の多くの教会の終末論の根底を今形成しています。どこに行っても、ほとんどの教会はディスペンセーション主義の終末論が入ってきています。それは大きな問題です。   この選びをディスペンセーション主義的に民族イスラエルと呼ぶためには、どのようにしなければならないのか。なぜ日本の教会はそのようにディスペンセーション主義を取るところが多いのか。   それは、新約聖書において、すべての選ばれた人々に与えられている言葉があるからです。それは「選び」「聖なる民」「神の所有」という言葉です。新約において、パウロもペテロも、選びの民としてそれを語っています。選び、聖なる民、神の所有です。   もしこれを将来の民族イスラエル、国家イスラエル、そして教会とは別というふうに分けるのであれば、その「選び」「聖なる民」「神の所有」という選ばれた人々に与えられた言葉を、教会から奪う必要があります。騙して奪って、国家イスラエル民族のものであると認めさせる必要があります。   ですから彼らの教えの中に何があるか、例えば「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉を、これはイスラエル民族に語られたものだからクリスチャンは関係ないと言います。「あなたがたはこれをイスラエルから取ってはいけない。あなたがたにはあなたがたに向けた言葉がある」と言います。   そのように騙して、そして選ばれた民から、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉を取り上げます。それは「あなたは選びの民ではない、聖なる民ではない、神の所有ではない」と言っているのと同じです。そのようにして、選びの民から「選び」「聖なる民」「神の所有」を奪います。   しかし聖書は一貫して言います。神は、時の始まる前から、あなたに言うのです。in Christ、あなたは選ばれている、選びの民です。あなたはキリストの体です。キリストによる新しい契約の民です。そしてあなたが生きるその行いは選びの結果です。宗教的な偽善ではないと聖書は語り続けています。   従って、マタイの福音書の「選びの者」、また聖書全体に書いてある選び、エペソの選び、ローマの選び、パウロ、ペテロたちが語るこの選び、時の始まる前、そして「聖なるもの」、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉は、国家イスラエル、民族イスラエルではありません。   もしこれを民族イスラエルだとする論理を持ち出したら、聖書の全体の構造と正面衝突します。聖書の全体の構造とは、永遠の時の始まる前から、神が私たちを選んで、そして召して、再生して、そして信仰、義認、聖化、栄化、永遠の未来までを保障しているという全体です。これと全面的に衝突しています。   従って、マタイ24章で守られて集められる選びの者というのは、時の始まる前から選ばれている者たちであり、それはイスラエルの中から神が時の始まる前から選んだ人々がいます。また、すべての異邦人から、時の始まる前から選ばれた人たちがいます。そして彼らは召し出されてきます。   それらの人を、すべての民と言います。そこには老若男女の違い、子ども、老人もありません。すべて選ばれた人たちです。彼らはキリストの体と呼ばれます。ギリシャ語ではエクレシアと言います。そのエクレシアとは、召し出された、選ばれた、集められた者たちの集まりと聖書は正確に呼んでいます。なのに「民族イスラエル」と呼んでいるこの人間中心的な宗教は、なんと人々を苦しめるのでしょうか。   終末的迫害は、教会の不在の時期かどうかということについて話します。   ディスペンセーションの傾向思想は、「教会は地上から除去される」「大患難はイスラエルと未信者の時代である」という考え方です。これはディスペンセーションから来ている思想ですが、多くの福音派教会に広がっています。   この「ディスペンセーション」という言葉を知らない人たちはとても多いです。ディスペンセーション主義という考え方を理解していない人たちは多いです。言葉は知っていても内容を理解していません。だから「ディスペンセーション主義って何ですか」と言っても、その目的と結論を言える人はほとんどいません。   ディスペンセーション主義の目的は、ユダヤ主義、神殿主義、祭祀主義、動物の生贄に戻ることを目的としています。   話を戻しますが、ディスペンセーション主義は「教会は迫害から除去されて逃げられる」「大患難は通らなくてよい」「私たちは空の上から迫害と大患難を見るが私たちは大丈夫」という精神に人々を向かわせます。自分たちには関係ないという方向へ行きます。しかし黙示録13:7はこう言います。 「彼は聖徒たちに戦いを挑み、これに勝つことが許された。また彼はあらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」   ここで私たちははっきりと見ます。聖徒たちは迫害されています。選ばれた者たちは迫害されているのです。さらに黙示録全体で繰り返される言葉があります。それは「ここに聖徒たちの忍耐がある」です。また黙示録13:10でこう言います。「捕らわれの身となるべき者は捕らわれの身となり、剣で殺す者は剣で殺されなければならない。ここに聖徒たちの忍耐と信仰がある。」   忍耐と信仰が必要であるのです。さらに14:12。「ここに神の戒めを守り、イエスへの信仰を保っている聖徒たちの忍耐がある。」忍耐があるのです。そして患難の中にいるのです。どこに「私たちは空の上から迫害と大患難を見ていればよい」という発想があるのですか。聖書の黙示録の中にはありません。それは全く間違っています。   「男が二人いて畑にいると、一人は取られ、一人は残される」についても同じです。ノアの箱舟の文脈で固定されていて、取られる者たちは滅ぶ者たちです。いつの間にか携挙思想は、「自分たちは苦しみを避けたい」という人間の欲に従って「逃げること」を選ばせています。しかしイエス様は、その者たちは滅ぶと言っています。   なぜディスペンセーションが携挙を挟んでくるのか。それはイスラエルが終末期において救いの中心になるというロジックを立てるからです。最初に言った通り、彼らは「イスラエルは神殿が再度再建され、祭祀制度が戻り、動物の生贄が始まる」とします。それを彼らは記念としてだと言いますが、これはヘブル書が言っていることと全く違います。生贄はもうありません。イエス・キリストが神殿です。   そして彼らのロジックは、終末においてそれをイスラエル国家が、イスラエル民族が回復する、それが神の救いのご計画の第一義だという形で来ます。   そうすると彼らの考え方で一番困ることがあります。それは「選ばれた者たちはイスラエルでなければならない」ということです。異邦人はおこぼれをもらうという考え方です。   さらに、教会が大患難期を通って存在していくと困るのです。なぜなら教会がキリストの体であり主役だからです。この主役である教会が大患難期を通って存在していくと、主役がイスラエルに行かないのです。   だから彼らは教会を取り除くのです。「携挙」という言葉は聖書にはありません。しかし第一コリント15章を携挙だと言って使い、教会を一回外に出して、残りの患難期7年のそこからイスラエルが主役で出てくるとします。そして神殿を作らせて、祭祀制度を始め、動物の犠牲を始める。これは聖書が非難している律法主義に戻ることです。   だから彼らは旧約を全うしたいのです。なぜなら旧約の中にキリストを見つけることができなかったからです。旧約の中に神の主権とキリストとの結合を見つけられず、旧約を読んでもキリストを見つけられなかったのです。だからそこに行きます。それは滅びの道です。   患難はこのように選ばれた者たちが必ず通る道です。聖書に患難を通らないクリスチャンなど一つも書いていません。聖書の中で患難を通らないクリスチャンは書いていません。どうしたらそうやって読めるのですか。読めるのです。それは聖書の御言葉をねじ曲げるのです。   ですから大患難の時代は、イエス様が話している通り、イエス様が昇天してから神殿がローマ軍に囲まれて破壊されたところからもう始まっています。何百万というユダヤ人たちが迫害を受け、殺されていきました。今まで見たこともないような悲惨な状態です。イエス様はそう予言しています。すでにそこで予言が成就しています。そしてこの患難は、イエス様が再臨されるまで必ず続いていきます。   三つ目に反キリストについて話します。反キリストは一人の超人物か。反キリストをどのように考えるのか。人々は反キリストを探そうとします。反キリストは額に666と書いてあるから、お前の頭の中に666があるか、などと冗談で言っていた時があります。しかし第一ヨハネ2:18はこう言っています。 「子どもたち。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストが来ると聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることが分かります。」   ここでヨハネは「今や多くの反キリストが現れています」と複数形で語っています。反キリストは歴史の中で現れ続けるということです。そして「それによって今が終わりの時であることが分かります」と言っています。終わりの時は始まっているのです。   しかしディスペンセーションは「終わりの時はまだ来ていない」と言います。けれどもヨハネは「今が終わりの時であることが分かります」と言っています。なぜなら反キリストが多く現れているからです。だからイエス様が昇天してから再臨される間、反キリストは多数現れるということです。   そして反キリストというのは、キリストの人性であるキリストと、神であるキリストを否定する者たちです。キリストの受肉を否定するということは、キリストが人であることを否定し、そして神であることを否定します。すなわち十字架と結合を否定しているのです。十字架は、人として来られたキリストと共に死んだことです。それは代表です。これを破壊します。福音を破壊します。彼らは教会の真の教会の内外から現れてきます。偽教師です。そして現れ続けます。彼らは人間中心主義の思想です。   ヨハネは「目を覚ましていなさい」と語ります。この「目を覚ましていなさい」とは、自分がキリストの子どもであること、キリストと共によみがえったこと、この位置にしっかりと自分がいること、その生き方を続けなさいということです。   パウロもテサロニケで、この人間中心主義の思想、教えに対して真っ向から戦っています。そのように私たちにパウロは語っています。ヨハネも同じように、獣の支配、偽りの礼拝を描いています。「すべての者が彼を拝んだ」と書いてあります。この「すべての者が彼を拝んだ」とは、刻印を押されているということです。反キリストによって獣の刻印を押されています。  終末において、権力と宗教が結合した反キリスト体制が政治としても生まれてくる可能性はあります。しかし聖書は、反キリストは一人の人物ではないと言っています。反キリストの霊は福音に対する敵対構造です。それは人間中心主義です。それは外面的な宗教、また啓蒙主義的な人間中心主義の中に潜んでいる霊そのものです。    支配神学や霊的戦い神学、決心主義、神秘主義、あらゆる人間中心の「私が私によって、私による信仰」「私は強い信仰を持っている」「私はまだ腐っていない」という態度が反キリストです。そこに反キリストの霊があります。   では獣の刻印とは何を意味するのか。黙示録13章で刻印のことを言っていますが、最近オカルトや漫画などで、反キリストの刻印をマイクロチップだとか国家管理だとか生体認証だとかワクチンだとか電子通貨だとか言う人たちがいます。これは幼稚です。黙示録を理解していない人たちです。照明がないから分からないのかもしれませんが、それにしても聖書を読んでいないのだと思います。   ここで刻印の対比構造を見ればすぐ分かります。黙示録7:3を見てください。「私たちの神のしもべたちの額に印を押すまでは、地にも海にも木にも害を与えてはならない。」ここには、「神のしもべの額に印を押す」と書いてあります。その後十四万四千の話が出てきて、その後すべての国民の話が出てきます。こういう文脈です。   そして「印を押す」ということは、エペソ1章が言っている通り、聖霊によって印を押されることです。選ばれた者たちに聖霊が内住するということです。エペソ書に書かれている、選ばれた人々の救いの証印です。  また、「四方から集める」とありますが、それはどのように集めるかというと、一か所に物理的に集めることではありません。宇宙的な教会のことです。すべての信じている人たちはキリストにあって御霊によって一つになるということです。   続けて、黙示録13:16-17に来ます。「また、彼は、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者に、その右の手か額に刻印を受けさせた。この刻印を持たない者は、だれも買うことも売ることもできなかった。」これを「生体認証だ」「電子マネーだ」と漫画で言うのは違います。この刻印は象徴です。対比構造を見てください。先ほど「聖霊による印」を言いました。そして、今ここで「獣の刻印」が対比で出てくるわけです。   この刻印は、あなたが聖霊の証印を押されているか、すなわち聖霊の内住を受けているか、獣の刻印を押されているかということです。獣の刻印とは、人間中心主義的な、啓蒙主義的な人間中心主義の思想、思い、感情、それに支配されているかどうかです。そしてその現実は今起こっています。   あなたが聖霊によって新たに生まれるまでは、獣の刻印を押されているのです。死んでいたのです。そしてあなたが、どこに属しているかの問題は、誰を礼拝しているか、どの支配に従っているかです。あなたが神のものであるか、サタンのものであるか、そのどちらかに忠誠があるかです。それの象徴です。   刻印とは、あなたが真の神を礼拝し忠誠を保つか、サタンに礼拝し忠誠を保つかという話です。「刻印がないと売ることも買うこともできない」とは、社会で生きる中で必ずそういう時が来るということです。信仰をしていなければ、社会生活で困るという状況が生まれてきます。経済的損失や社会的迫害を受けるということを象徴しています。それは心に押されている刻印です。   聖霊を受けている人、真のクリスチャンは、どんな時にも神に礼拝し、神に忠誠を保ちます。それが刻印です。聖霊による刻印です。逆に獣の刻印は人間中心主義です。「私は腐っていない」という態度です。表面的なクリスチャンです。ローマ帝国時代にも皇帝礼拝を拒否した者は社会的に生きにくくなりました。中世においても、ある宗教的な同調を受けなければ社会で生きることが困難でした。日本でも日常の中にそのような状況があるでしょう。友達との付き合いもあります。ゲームもあります。iPadもあります。音楽もあります。異端の宗教もあります。   その中において、あなたが神の主権とキリストとの結合の福音、パウロが伝える福音を聞いた時に、あなたはどちらに従うかと問われます。表面的、人間中心主義のキリスト教に従う場合、彼らはあなたを仲間とします。「教会に行っているから救われている」「信じているから大丈夫」「私は信仰がある」という外面的な言葉でまとまります。しかしそれらを拒絶する者は批判されます。攻撃を受けます。罵声を受けます。損失や迫害を受けます。それは教会の中で、地域コミュニティの中で、家庭の中で起こってきます。   適当に嘘をついて逃げる人がいます。口先で逃げる人がいます。「今日は法事」の後の食事だけなどと言って妥協する人がいます。しかし問われるのは「あなたは神を礼拝していて、神に忠誠を保っていますか」ということです。   もし心が嘘をついて逃げるのであれば、それは獣に従っているのと本質的には変わりません。ビンタをされようが、嘲られようが、私はこの神に忠誠を尽くすという姿勢を保つ場合、損失を受け、迫害を受けます。しかし、信仰は聖霊によって証印を受けているのです。   嘘を言って逃げる人、偽りの外面的な信仰で神に近づく人は、真の神に礼拝と忠誠を捧げていません。そういう人たちは行動で出てきます。外面的には礼拝に来て祈りますが、実態は偽りです。   それは、聖霊の印を受けていないということです。逆に獣の刻印をまだ持っているのです。だからその人は新たに生まれなければならないのです。死んでいるからです。   刻印はすぐには剥がれないのです。死なない限り剥がれません。だから「自分はまだ腐っている」と認めることは重要です。それによって神はあなたをキリストと共に死んだところに置いてくださいます。十字架の強盗も主税人も、死んでいるのです。キリストと一緒に死んでいるのです。   ですから刻印というのは、目に見える印だとかチップではありません。そういう幼稚な考え方は捨てなければならないのです。第三神殿と同じくらい愚かです。真の神に礼拝と忠誠を捧げず、獣の偽りの礼拝に従い、その中で生きる者が獣の刻印を持つ者です。偽りが刻印を表します。これが刻印の意味です。   五番目に結局、終末論の中心は「誰が残るか」ではありません。「誰に属するか」です。いつもそうです。聖書はいつも「誰に属するか」です。   終末論が歪められると、「いつ起こるか」「誰が敵か」「どんな事件が生じているのか」そちらに関心が行きます。それは終末論が歪められている状態です。すなわち福音ではありません。しかし聖書が一貫して問うのは、あなたは誰に属していますか、誰を王として礼拝していますか、迫害の中で誰に従い続けますか、です。   黙示録の核心は獣の正体ではありません。「子羊に従う者たちの忍耐」にあります。子羊に従う忍耐です。しかし忍耐は自分が頑張って作るものではありません。   ここまでを一本でまとめるとこういうことです。旧約の神殿、神殿制度、動物の犠牲は、AD70年のローマ軍の攻撃によって完全に消滅しました。神殿制度もありません。神殿もありません。動物犠牲もありません。それは神が行ったのです。裁きがイエス様によって行われたのです。イエス様がAD70年に破壊したのです。   それは、選ばれた民が神の民として教会として出現することにつながっています。キリストの初臨から再臨までが、完全な欠けのない期間として象徴的に描かれています。教会は患難と証しの中に置かれ続けます。反キリスト的勢力は歴史の中を通して現れ続けます。再臨は完成であり、復活、裁き、新天新地が同時に起こります。教会は途中で地上から取り去られません。  終末の中心の舞台はイスラエル国家ではなく、選ばれた民です。イスラエルの中の選ばれた民と異邦人の選ばれた民で構成されている「十二×十二=十四万四千」が中心です。  したがって終末論は未来予測のための年表解析ではありません。黙示録は、苦難の中で信仰を保ちながら、また保たれながら生きていく選ばれた者たちを支える啓示です。   最後に徹底的に重要な点があります。携挙思想や年表終末論は、あなたたちの目を出来事に向けさせ続けたのです。イスラエルに何か起こるとそちらに目が行き、アメリカで何か起こるとそちらに目が行き、起こってくる現象に目が行きます。決して王であるキリストに目が行きません。   しかし聖書は、信仰者の目を、選ばれている者の目を、常に、すでに王であるキリストに向けさせ続けます。は永遠の時の始まる前の結合から、永遠の未来に目を向けさせます。   偽りの教えは恐怖による備えになります。必ず携挙思想や年表終末論の中には恐怖に対する備えがあります。そして「自分が救われていなかったらどうしよう」という思いが絶えずあります。   しかし真の救いは結合にある命です。その命は平安です。新約の終末論の中心です。その中心の中で私たちは忍耐について学びます。黙示録13:10に「ここに聖徒たちの忍耐と信仰がある」とあります。ここで言われている忍耐は、逃げ出さない決意や気合や精神力ではありません。  文脈上、獣の支配が全地に及び、抵抗すれば殺され、礼拝すれば妥協になるという逃げ場のない状態に、神が民を置いておられることを前提にしています。  例えば会社で偶像礼拝への同調を迫られ、断れば立場を失い、従えば妥協になるというような状況が来ます。辞めれば生活が損害を受ける。逃げ場がない。これが「忍耐がある」ということです。   忍耐とは、自分で選び直す余地のない場所、逃げられない場所に神があなたを置いているという現実そのものです。   黙示録14:12に「ここに神の戒めを守り、イエスへの信仰を保っている聖徒たちの忍耐がある」とあります。   信仰は神からの賜物です。誰も自分の内から神を信じる信仰を生み出すことはできません。私たちは罪の中で死んでいたからです。私たちのうちに良いものは一つもありません。   忍耐も神からの賜物です。神が信仰から離れない位置に置いておられるという事実です。   教会が苦しみを避けて一時的に取り去られる。これは楽です。未信者や不信仰な者は飛びつきます。「楽だ」と言います。しかしそれは「キリストがある」ではなく「自分の都合がある」という態度です。   ディスペンセーションの教えは、黙示録が語る忍耐と信仰の歩みを破壊しています。黙示録が示すのは、苦難の中にあってもキリストとの結合に立ち続ける者たち、最後まで忠実に歩む信仰の姿です。だからこそ黙示録は、携挙で逃げるのではなく、現実の苦難の中で主に結びついて終わりの日の栄光を待ち望む信仰を強調しています。   永遠の時の始まる前から、キリストとの結合に選ばれたという源泉から始まって、再生、そして信仰、悔い改め、義認、聖化、そして栄化と続く福音の一貫した全体構造の流れの中で、私たちはどんな試練の中でも、私たちが頑張るのではなく、キリストが私たちと一体であるがゆえに、その立場の中で生かされます。その全体構造を踏まえてこそ、黙示録も単なる未来の出来事探しではなくなります。   この全体構造を理解してください。キリストとの結合に選ばれたという源泉から始まり、再生、信仰、義認、聖化、栄化と続く一貫した福音の流れを踏まえて黙示録を理解するのです。もはや単なる未来の出来事探しではなく、神の主権の中で結合された者が忍耐の中に置かれ、最終的に栄光の完成へ至る希望の書であることが理解できます。   結局、すべては神から始まり、神によってなり、神に至ります。その永遠の結合からすべてが展開していっていることを理解してください。   黙示録14:13にこうあります。「また、私は天からの声がこう言うのを聞いた。『書き記せ。今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。』御霊も言われる。『しかり、彼らはその労苦から解放される。彼らの行いは彼らについて行く。』」   ここで天の声と御霊が強調しているのは、迫害の時代にあってなお、結合にある者の行き先が破滅ではなく完成であることです。忍耐の焦点は状況を変えることではありません。迫害に勝利することでもありません。 まして信仰の努力が報われるという人間中心主義でもありません。   忍耐の焦点は、生きるにしても死ぬにしても、結合の中に留められるということです。生きても死んでも、結合の中に留められ、そのまま完成に導かれるということです。   「主にあって死ぬ」とは単に肉体が死ぬ出来事ではありません。死が訪れる時でさえ、あなたはキリストとの結合の中にいて、神はあなたを守り続け、必ずあなたを完成へ導きます。殉教であっても、そうでなくても、生と死のすべてが結合に貫かれるという意味です。   「労苦から解放される」とは、途中で苦しみが軽くなることではありません。結合の完成によって労苦そのものが終わるという終末的な解放です。「彼らの行いは彼らについて行く」とは、行いが救いの条件になるのではなく、神がキリストにあって私たちを造られたときに備えられていた良い働きが、時間の中で顕現し、神の前に喜ばれるということです。   したがって黙示録は苦難からの脱出を約束していません。苦難のただ中に置かれたまま、結合から引き離されることなく、生を通しても死を通しても導かれるという救いの在り方を語っています。   忍耐とは、この地上で状況が改善されるまで踏ん張ることではありません。生きるにしても死ぬにしても、結合の支配のもとに守られ続け、最終的な栄化、キリストの再臨に至るまで導かれていく過程そのものです。  「忍耐がある」とは「忍耐を持ちなさい」と言っているのではありません。「忍耐がある」と言っています。その忍耐とは、結合の支配のもとにあなたが守られ続け、最終的な栄光に至るまで導かれている過程のことです。   忍耐の最終点は生き残ることではありません。忍耐の最終点は、最後まで永遠の結合の中に留め続けられ、 栄化の完成へ至ることです。   最後に、黙示録は選ばれた人々がどこに導かれるのかを示しています。 黙示録21:3-4にこうあります。「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をぬぐい去ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」   「見よ、神の幕屋が人とともにある。」これが完成です。神は人々の涙をその手で拭われます。この「神の幕屋が人とともにある」とは、神との結合が現実のものとなっているということです。永遠と実体が一致することです。   そして「神が涙を拭う」とありますが、神の手があなたの頬に触れるということです。あなたが栄化されていなければ、朽ちる者のままでは神の栄光に耐えられません。神があなたに触れるということは、あなたも栄光化されているという証です。   選ばれた者の結合の完成とは、神が信者を永遠の過去においてキリストと結合し、時の流れの中でその結合が顕現し、そして完成するということです。これは福音の一貫した救済構造です。   神は時の始まる前から永遠の未来に至るまで、ずっと結合の中でご自分の民とともにおられ、見失わず、奪われず、引き離されることなく守り続けています。   ヨハネ10:28に「だれも彼らをわたしの手から奪い去ることはできない」とあります。   選ばれた人々には罪の性質の残骸があります。死の体があります。この世の苦難があります。時の中において、なお罪の性質と戦い、死の体をまとい、この世の苦難の中に置かれています。   しかし完成時において、これらはすべて取り除かれます。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされます。罪の性質は消え、死は勝利に飲み込まれ、この世は過ぎ去り、新しい天と地が到来します。   第一コリント15章に「死は勝利に飲み込まれた」とあります。黙示録21:1に「最初の天と最初の地は過ぎ去った」とあります。21:5に「見よ、わたしはすべてを新しくする」とあります。   最後です。黙示録は、苦難から逃げ切った者の勝利ではありません。黙示録は、最後までキリストとの永遠の結合の中に置かれ、患難の中を通過してきた選ばれた十四万四千、キリストの民、イスラエルの中の選ばれた民と異邦人の選ばれた民が、ともに到達する完成です。   終末とは患難からの逃避でも携挙の時でもありません。終末とは永遠の結合が完全に顕現し、現れ、完成する時です。ハレルヤ。アーメン。ではお祈りします。   愛する天のお父さま。感謝します。私たちの黙示録に対する考えが今日一変したことを感謝します。私たちの理解をはるかに超えた恵みの素晴らしさ、終末論がこれからどうなるのかという出来事探しから、神の召しに生きるというその意味を、今日あなたが語ってくださったことを感謝します。   愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。

  • 黙示録1

    2026.1.18 豊川の家の教会礼拝メッセージ 黙示録シリーズ1 今週から終末論について話を進めていきます。 この終末論は、教会が「結合の民」であり、選ばれている民が最後まで地上に置かれ、完成に導かれるという視点で話をしていきます。  イントロダクション  黙示録をどこまで話していくかにもよるのですが、ローマ書の11章、それからマタイの24章、黙示録の7章と14章を合わせて、一本の救済史の全体構造として話していきます。今週から何週間かに分けて講解していきたいと思います。   黙示録は黙示書・預言書ですので、ゆっくりと味わいながら講解していきたいと思います。    黙示録の主題は一つです。     神の民は誰か     教会は終わりまでどこに置かれるのか   そして現代の多くのクリスチャンは、むしろ終末論の議論になると、出来事の順番、またイスラエルがどのようになるか、そのような話になりがちです。   しかし聖書が語っている中心、黙示録が語っている中心は、出来事の順番やイスラエルがどうなるかではありません。そこに中心はありません。   聖書が語る中心、すなわち創世記から黙示録までのすべてに対して聖書が語っている中心は、神がどのように永遠の過去においてキリストにあって選び、召し、再生させ、義とし、聖化し、栄化へ導くのかという福音の全体構造です。   この福音の全体構造なくして黙示録は理解できません。   イントロダクションとして、現代の教会にある終末論理解の全体像を、今から簡単に説明します。どのように教会が終末論を理解しているのか、どのように語られているのかを整理します。   それは、聖書全体の読み方、福音の捉え方の違いを反映しています。    まず黙示録の理解は、大きく二つに分けられます。黙示録という本の全体像についてです。   それを「循環的解釈」と「直線的解釈」として整理できます。     黙示録の二つの読み方  1)循環的解釈   循環的解釈とは、黙示録が同じ救済史の構造を、角度を変えながら何回も描写しているという理解です。これが重要です。   黙示録は、イエス・キリストの初臨、すなわち受肉されたイエスが来られてから、イエスが再臨するまでを描きます。これが一周です。   イエスが来られ、十字架の死があり、復活があり、そして再臨するまで。これが一つの区間です。黙示録は、この同じ区間を何度も、角度を変えて繰り返し語ります。   このように理解していく読み方を循環的解釈と言います。   循環的解釈は、宗教改革においても前提とされてきた読み方です。20世紀に至っても、聖書の書き方そのものがそのようであるため、そのように読むという立場が続いています。     2)直線的解釈   もう一つが「直線的解釈」です。直線的解釈は、ディスペンセーション神学に代表される読み方として広く知られています。   この立場は、出来事が時間順に一度ずつ進行していくという捉え方を取ります。    この違いがそのまま終末論に影響します。神殿、第三神殿、イスラエル観、王国、再臨の理解など、すべてに影響します。  一つは循環的な解釈、すなわち神の救いの全体構造をいろんな角度で繰り返し語る読み方です。  もう一つは直線的解釈、すなわち時間軸に従って出来事が順に進行する読み方です。  それでは、この二つを順に見ていきます。まず循環的解釈の基本構造から話します。  1)循環的解釈の基本構造   この理解では、主イエスが来られてから御霊の働きが始まります。選ばれた者たちが地上に現れます。ペンテコステ以降、教会が歴史の中に成立します。   イエスの初臨から再臨までを、黙示録の中でどのように描いているかというと、黙示録は七つの循環に分かれています。   ここで「七つ」と言っても、A、B、C、Dと順番に進んで、七つ目で終わるという意味ではありません。同じストーリーを、違う表現、違う強調点で見せています。しかし語っている内容は同じです。   それは、イエスが来られ、十字架につかれ、復活し、そして終末が来るという流れです。これを違う角度で見せています。しかし同じことを語っています。これが黙示録です。   ですから、救いの全体構造、裁き、迫害、勝利という構造を繰り返し、象徴を用いて語っています。   つまり黙示録は、全体構造を七つに分割したのではなく、七つの表現で反復して示しています。   七という数字は創造の完成です。契約の完成、御業の完成を示します。聖書において七は完全を表します。   黙示録は最初から最後まで七によって構成されています。七つの教会、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢など、七つの構造で世界を描写しています。   黙示録が七つの循環ブロックに分かれていることは意図的です。偶然では起こりません。   七つの循環ブロック(概観)     七つの教会(黙示録1–3章)     七つの封印(4–7章)    七つのラッパ(8–11章)    女と竜と獣(12–14章)    七つの鉢(15–16章)    バビロンの滅亡と白馬の勝利(17–19章)    千年王国と最終完成(20–22章)    これらは別々の時代を順番に描いているのではありません。初臨から再臨までの王国時代、すなわち教会時代全体における地上の選ばれた者の歩みを、視点と強調点を変えて描写しています。   そして各循環ブロックの終わりには、必ず最終の裁きと完成が描かれます。   循環構造の前提:結合と「すでに/いまだ」   この循環構造の前提は、福音の中心がキリストとの結合にあるということです。   王国はすでに始まっています。イエスは「神の国はあなたがたのただ中にある」と語られました。王国はすでに存在しています。   そしてすべての選ばれた者は御国に属しています。   同時に、私たちの人生には苦難と勝利が同時進行します。そこには「すでに/いまだ」という構造があります。   この「すでに/いまだ」の構造が終末論にもそのまま適用されます。   将来的に何が起こるか、いつ出来事が来るか、神殿がどうなるか、という話ではなく、今も「すでに/いまだ」の構造の中で進行している霊的現実の描写が黙示録です。   私はすでに永遠の結合の中に生きています。しかし罪の残存の中も歩みます。これは個人の「すでに/いまだ」です。これが救いの全体構造へ広がっているだけです。   この理解では、次の結論になります。     第三神殿は不要です(キリストが真の神殿です)     イスラエル国家が特別なのではなく、イスラエルの中で選ばれた者、異邦人の中で選ばれた者が、教会として一つに集められ、神のイスラエルとなります     千年王国とは、初臨から再臨までの王国時代全体を指します     救済史は一本の契約の下で進みます。二本の計画ではありません。救いは恵みによる信仰のみです   2)直線的解釈(ディスペンセーション)の基本構造    次に、直線的解釈としてディスペンセーションの基本構造について話します。   ディスペンセーション神学は、歴史的には19世紀後半にダービーによって体系化が進み、その後スコフィールドなどによって広く整理されていきました。   この立場では、出来事が時間順に一度ずつ進行していくという前提を置きます。 そのため黙示録は、封印、ラッパ、鉢、大患難、再臨、千年王国、最終審判といった順番に進む年表として理解されやすい傾向があります。   またこの枠組みでは、イスラエルと教会を明確に区別することが多く、教会時代を「挿入」として捉える説明がなされる場合があります。 その結果、終末では再びイスラエル中心の歴史が前面に出る必要があるという構造が組み込まれます。  そしてこの体系では、神殿と祭祀と国家・王国の回復が重要要素として位置づけられやすく、第三神殿や祭儀の回復が語られることがあります。 千年王国も、霊的支配というより地上の政治的王国として説明されることが多いです。    しかしこの点で私たちは、ヘブル書の教えと注意深く照らし合わせる必要があります。   ヘブル書10章18節はこう言います。 「もし罪の赦しがあるなら、もはや罪のためのささげ物は不要である。」   ここで語られているのは、罪のための犠牲が再び必要になるという方向ではなく、キリストの贖いが完結的であるという論理です。  同じヘブル書10章は、同じささげ物の反復が罪を除き得ないことを示すとも語ります。   このヘブル書の筋道に照らすと、終末において動物犠牲が何らかの形で再開されるという説明は、少なくとも非常に慎重に扱わなければなりません。  なぜなら、キリストの十字架の十分性とどう整合するのかという問題が必ず出てくるからです。  したがって私たちが問うべき点は、単に読み方の好みではありません。  どちらの枠組みが福音の全体構造、すなわちキリストの贖いの完結性と、結合に基づく救済史と一致しているのか。ここが決定点になります。   循環構造の聖書的根拠(預言の語り方)    循環的理解に着目すると、旧約の預言でも、バビロンの裁き、終末の裁き、メシア王国が混在して語られます。そこでは時間軸が整備されていません。   イエスの説教も、神殿の崩壊の話、再臨の話、世界の終わりの話が重なって語られます。代表例がマタイ24章です。マタイ24章には二つの終わりが含まれます。しかし注意して読まなければ読み取れません。   一つの終わりは神殿制度の崩壊、すなわちユダヤ教体制の終わりです。その後に宇宙的な終わり、すなわち最終末の終わりが語られます。   これを理解するためには、御霊による照明なしに理解できません。   聖書の語り方そのものが、裁きと救いを同時進行として語ります。人間の年表整理に従って語られていません。   したがって、聖書自体の語り方を尊重し、循環構造の理解を採用するというのが私の立場です。    決定点:どちらが福音の全体構造と一致するか    循環構造の解釈では、中心はキリストとの結合です。王国はすでに存在しています。救済史の全体構造は一つの契約によって成り立っています。恵みによる信仰のみです。   他方、直線的解釈は、関心が将来の政治的王国や出来事の配列へ強く向かいやすい傾向があります。  その結果として、出来事を追い、出来事によって終末を測ろうとする方向へ流れやすい場合があります。  しかし聖書は一貫して、救いの中心を人間中心、制度中心、民族中心に置きません。中心は神の主権と、キリストの贖いの完結性と、結合に基づく救済史です。   まとめ    循環的解釈は、教会時代全体を終末的現実として、象徴を用いて反復描写します。キリスト中心、結合中心、契約は一つです。   直線的解釈は、終末を未来の段階的イベントの列として読みやすく、イスラエル中心、神殿、祭祀、動物犠牲の回復が重要要素として語られやすい傾向があります。   したがってこれは単なる解釈技法の違いではありません。福音の全体構造の理解の違いがここに表れます。終末論の違いではなく、福音構造の理解の違いが、二つの違いを生みます。   循環構造の再確認(黙示録1–3章)   もう一度整理します。黙示録は教会時代全体を七つのサイクルで反復描写しています。同じ初臨から再臨までを、象徴を変えて何度も語っています。視点と強調点を変えます。そして各循環ブロックの終わりには必ず最終の裁きと完成が来ます。   第一の循環ブロックは七つの教会で、黙示録1章から3章です。この範囲は、キリストの昇天から再臨直前までの教会の実態を表しています。迫害、偽教師、妥協、忠実な残れる者、そして終わりが書かれています。   臨在の約束と裁きの警告が各教会に与えられています。当時実在した教会も含みますが、「すべての諸教会」として、教会時代全体の教会に向けた言葉でもあります。   私たちはすでに終末的緊張の中に教会が置かれていることを理解すべきです。   千年王国の始まりは、イエスが来られ「御国があなたがたのただ中にある」と語られた時からすでに存在します。神の王国であり、霊的現実です。 第二の循環ブロック(黙示録4–7章:封印)   第二は七つの封印で、黙示録4章から7章です。   これは初臨から再臨までの時代の中で起こる歴史的苦難です。戦争、飢饉、疫病、迫害、殉教、そして終わりが描かれます。天地震動の中で、王も奴隷も裁きの前に立ちます。   その終わりには、明らかに最終審判の姿も描かれます。   7章では地上の視点で十四万四千人が出てきます。ここは多くの人が関心を持つので、少しだけ触れます。   黙示録7章:印と十四万四千   黙示録7章で「印」と「十四万四千人」という言葉があります。  「生ける神の印を押すまでは、地も海も木も害してはならない」(7章3節)。    この箇所を読む鍵は、黙示録21章12節から14節です。   城には十二の門があり、門にはイスラエルの子らの十二部族の名が記されています。  城壁には十二の土台石があり、そこには子羊の十二使徒の名が記されています。   ここで門は旧約の十二部族、土台は新約の十二使徒です。旧約の約束の民と、新約の完成された民が、一つの神の都に組み込まれていることが示されています。   神の民は、全てのユダヤ人ではありません。ユダヤ人の中で選ばれた者であり、異邦人の中で選ばれた者です。旧約も新約も同じく、選びによって形成される民です。   十二は約束の民の完全形を表す象徴です。  そこに千が掛けられます。千は数量の上限ではなく、神の完全性・十分性・永続性を示す象徴数です。    12 × 12 × 1000 が十四万四千です。    「千の山の獣はわたしのものだ」という表現は、神が全てを所有することを示します。  「千代まで契約を守る」も、千代で終わるという意味ではなく、永遠の契約の確かさを示します。  第二ペテロが「一日は千年のよう、千年は一日のよう」と語るのも、時間計算を拒否する文脈であり、神の支配の超越性を示します。   したがって十四万四千は、完全で欠けのない全体の象徴です。十二が二重になるのは、神の民が救済史の中で完全に成立していることを示します。選ばれた者が漏れなく救いの中にあることを示します。   なぜこの極限表現が必要か。  それは、大患難のただ中にある教会に対して、「神の民は途中で崩壊しない」という保証を与えるためです。 神の計画に賭けはありません。見える現実に左右されず、神の民は完全に守られます。   ここは人数ではなく身分の宣言です。人数として読むと、救いの限定や霊的階級化へ流れやすくなります。それは福音と一致しません。   象徴として読むなら、「神の民は誰一人漏れない」という宣言になります。結合は絶たれません。これはローマ書8章と一致します。   「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができるでしょうか。」    黙示録はこの神学を、象徴と言語構造で語っています。   そして黙示録7章9節では、天上に「すべての国民、部族、民族、国語からなる数えきれない大群衆」が描かれます。これは別集団ではありません。十四万四千と同一の教会です。地上の視点と天上の視点の違いに過ぎません。   したがってローマ書11章の「残りの者」、マタイ福音書の弟子共同体、黙示録7章の十四万四千は、すべて同一の神の民を指しています。キリストに結ばれている、時の始まる前に選ばれた民です。    今日はイントロダクションが長くなりましたが、概ねこのような全体像です。あと2、3週ほどかけて、ゆっくり話していきます。よろしくお願いいたします。   最後に祈ります。 祈り  愛する天の父なる神様。  この黙示録へ私たちを導いてくださったことを感謝します。  十四万四千、それは選ばれた民が完全に守られるという身分の宣言です。  私たちが時の始まる前からキリストにあって選ばれ、地上において象徴として示され、あなたが最後まで守り続けられることを感謝します。   天上において、すべての部族、すべての国、すべてのところから集められる大群衆として、同一の民が示されることを感謝します。   私たちは永遠の中で生かされ、現在において試練と困難を通りますが、御霊によって導かれ、あなたが守り抜かれることを感謝します。   初臨からすでに患難は始まり、再臨によりすべてが完成することを感謝します。  その完成の時、私たちの体が栄光の体へ変えられ、永遠の御国へ導かれることを感謝します。  愛する主イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン。

  • 結合の民は最後まで地上に置かれて完成に導かれる 黙示録2

    黙示録シリーズ2 2026.1.21 The Word for you  ヨハネの福音書の17章、ローマ書の11章、黙示録の7章、そしてまた14章を、一本の救済史の線で読むというメッセージです。  これは先週、ローマ書の11、7、黙示録の7、14、マタイの24をテーマに話していきますと言い、前回はイントロダクションで終わりましたが、今日はそこの部分に少し入っていきます。  時間は30分ぐらいで終わればいいと思いますが、終わらければ、また次回という形でしたいと思っています。  テーマは、「結合の民は最後まで地上に置かれ、完成に導かれる」です。神はご自分の選ばれた民をこの世の外に避難させるということはしません。  この世の中で守り続け、完成へ導かれます。  これが聖書全体に一貫している救済の全体構造です。  この真理を主イエスご自身は祈りにおいて明確に語られています。  ヨハネの福音書の17章15節から読んでいきます。 「私がお願いすることは、あなたが彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」  彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。  20節。 「私は、ただこの人々のためだけではなく、彼らのことばによって私を信じる人々のためにもお願いします。」 この祈りは弟子たちだけではなく、すべての時代の教会に向けられています。そして、ヨハネの福音書の17章21節から23節、ここで私たちは驚く言葉を聞きます。 「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちのうちにいるようにしてください。あなたが私を遣わされたことを、世が信じるようになるためです。また私は、あなたがくださった栄光を彼らに与えました。私たちが一つであるようになるためです。私は彼らのうちにいて、あなたは私のうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。」  イエス様の祈りは大祭司の祈りです。そしてイエス様がはっきりと言っています。  取り去ることではなく、悪い者から守ってください。そしてイエス様は、「私は彼らのうちにいて、あなたは私のうちにおられます。」  教会は世から取り去られるのではなく、三位一体の神と結合し、この世のただ中で守られ続け、完成へ導かれるという、救いの源泉から流れる終末構造を、永遠の時が始まる前から真理として確定されています。  驚きますね。そして、ローマ書の11章は、取り去られず継ぎ木された一本の民を言っています。パウロがローマ書の11章で扱っているのは、イスラエルの不信仰、異邦人の継ぎ木、しかし、神の選ばれた民は、一本のオリーブの木、そういう構造です。選ばれた民は最初から一本の木として理解されています。  ローマ書の11章24節で、パウロは、野生であるオリーブから切り取られて栽培されたオリーブに継ぎ木されたのであれば、本来栽培されていた彼らは、もっと容易に自分の元のオリーブに継ぎ木されるはずです。  このみことばで言っているのは、重要なのは、異邦人が別の木に移されたのではなく、同じ木に継ぎ木されたという点です。  結論はここです。  賜物と召命は取り消されることがありません(ローマ書11章29節)。  救いは決して、選ばれた者に与えられている救いは決して取り消されることはない。それは一本の木に約束されています。したがって、教会が途中で退場し、別の民が地上史を受け継ぐという構造は、パウロの教えている救いの全体構造と正面から衝突します。  救済史は常に同じ選ばれた民が、同じキリストとの結合の中で完成に導かれるという一本線で進んでいきます。    そして、黙示録の7章に来て、私たちは大患難を通ってきた群衆を見ます。ヨハネは14万4千人の、象徴的な完成数としての神に印された神の民を見ます。  「イスラエルの子らのすべての部族から印された者の数を聞いた。十四万四千人であった。」黙示録7章4節です。  この十四万四千の「144」は、12×12×1000。  この12×12はどこから来ているか。それは黙示録の新しいエルサレムの情景の中に、すでに刻印されています。  すなわち、都には十二の門があり、それはイスラエルの十二部族の名。また十二の土台があり、それは小羊の十二使徒の名。  一つの「12」は旧約の民、契約の民を表し、そしてもう一つの「12」は、新約における選ばれた民、使徒的教会を表します。  そして、この二つの12は混ざり合います。別々の民ではなく、結合して144になる。そして、ローマ書11章が語るとおり、同じ一本のオリーブの木、すなわちキリストにおいて継ぎ木され、旧約と新約を貫く一つの神の民として統合されていきます。  そしてそこに「1000」が掛け合わされて十四万四千になります。この「1000」は人を増やしているという計算ではありません。「1000」は象徴的数として、限界のない充足、欠けのない完成、徹底した充満を表しています。  それは神の救いが、どこにも欠けるところがなく、完成されていることを示す数字です。  すなわち、十四万四千という数字の意味は、旧約と新約にわたる神の選ばれた民が、キリストにおいて完全に一つとされ、そして神の主権の下で完全に保たれ、完成に導かれていることを示します。これは救済史の全体構造の完成の象徴数です。  また、私たちは黙示録7章9節で、同じ民を別の角度から見ます。 「その後、私は見た。すると見よ、すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が、御座の前と子羊の前に立ち、白い衣をまとい、手にナツメヤシの枝を持っていた。」 「この人たちは誰ですか。」と長老が私に言った。「私の主よ、あなたこそご存じです。」と答えると、長老は言った。 「これらは大きな患難から出てきた者たちで、その衣を洗い、小羊の血によって白くしたのです。」黙示録7章14節。  ここで描かれているのは、地上から取り去られた人たちではありません。守られ続けてきた人たちです。しかも彼らは、小羊の血によって贖われた者たちです。  特別な時代の特別な信徒ではない。小羊の贖いの血潮によって救われた教会は、患難を回避される集団ではなく、患難の中で守られ続ける集団として描かれています。  世界のただ中を通過して、完成へ導かれていく勝利者。  黙示録14章、最終的勝利の場面です。  黙示録14章1節でこう言います。 「また私は見た。すると見よ。小羊がシオンの山に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と小羊の父の名が記されていた。」  13章ではこう言います。 「獣は聖徒たちに戦いを挑んで勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。地に住む者たちで、世界の基が据えられた時から、ほふられた小羊のいのちの書にその名が書き記されていない者は、みなこの獣を拝む。」黙示録13章7〜8節。  つまり、14章の勝利者たちは、支配と偽りの礼拝が世界を覆う時代、その歴史のただ中を通過して、そして守られ続け、完成に至った人々です。  黙示録14章の勝利者たちは、世界を覆う巨大な獣の支配、そのただ中を通過しつつ、そこから守られ完成に至った民です。  黙示録13章、14章、7章、ヨハネ17章、マタイ24章の構造的連結から明確にされています。  黙示録13章の獣の支配は、全地に及ぶ歴史的事実です。前提として黙示録13章では獣の支配はこう言われています。  獣はあらゆる部族、民族、国民を支配する権威を与えられた。13章7節。13章8節で、地に住む者たちは皆彼を拝むと言っています。  ここに描かれているのは、地域的な一時的事件ではなく、全世界的な規模で反キリスト的な構造があるということです。そこには偶像礼拝があり、偽りの礼拝が行われていると言っています。  そして13章10節でこう言います。 「ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。」  この獣の支配のただ中に、聖徒たち、選ばれた者たちが存在しているということが明言されています。  構造を見ます。  獣の支配が広がります。偽りのキリスト教が広がります。そして同じ時間帯に、選ばれた者たちは地上に置かれ、忍耐を求められています。  教会が携挙された後の時代ではありません。本文はそのような構造を一切取っていません。  そして14章で勝利者たちは、獣の時代を通過した後に現れてきます。14章1節。 「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っており、小羊とともに十四万四千人がいた。」  13章の直後に配置されています。文学構造上、これは逃避ではありません。これは通過後の到達点を意味しています。 それはさらに重要なのは14章12節です。 14章12節でこう言います。 「ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を保っている者たちの忍耐がある。」 これは13章10節と対応しています。 13章10節「ここに、聖徒の忍耐が必要である。」 14章12節「ここに、聖徒の忍耐がある。」  つまり13章は戦いのただ中にある聖徒たち。14章はその戦いを通過してなお、守られ続けている姿という連続的構造になっているのが見えます。 したがって14章の勝利者は、獣の時代を逃げた人々ではなく、時代を通過してなお、信仰を保たれた人々です。  黙示録7章に戻ります。 大患難から出てきた群衆。同じ構造は7章でさらに明確になります。 7章14節でこう言います。 「これらは大きな患難から出てきた者たちで、その衣を洗い、小羊の血によって白くしたのです。」  ここで「患難から出てきた」とは、患難を経験した後に到達した状態を示しています。ここでは、患難を回避した者とは書かれていません。  そして、十四万四千人と数えきれない群衆は、象徴構造は違いますが、見せ方としては同一の神の民を別角度から描写しているのが分かります。  黙示録の構造は一貫して、「安全地帯に行く勝利」ではありません。そんなことは一切書いていません。戦場を通り、守られ続ける完成という形を取っています。  マタイ24章で、再臨と裁きが同時に到来する構造を私たちは見ることができます。主イエスは終末を、教会が途中で地上から消える出来事としては一切語られていません。  むしろ、教会が地上に置かれ続ける現実と、そのただ中で終末が一挙に到来するという現実を並べて語られています。  まず、教会が苦難を通されることが前提として語られます。 「その時、あなたがたは苦しみに引き渡され、殺されます。」マタイ24章9節。  ここで重要なのは、苦しみの有無ではありません。この予告が教会の地上存在を前提にしているという点です。  主は終末が近づく過程を、避難する過程としてではなく、地上に置かれたまま守られ続ける過程として語られています。  終末の到来点をこう示されます。 「そのとき、人の子のしるしが天に現れ、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて来るのを見るのです。」マタイ24章30節。  ここに描かれているのは、まず教会がなくなり、その後で主が来るという順序ではありません。  再臨そのものが終末の決着だと言っています。  この構造の核心は、再臨が完成、裁き、分離の同時到来だということです。完成、裁き、分離は同時です。  再臨は次の段階の開始ではありません。栄化の成就です。完成です。  そして主は分離がどのように起こるのかを示されています。  マタイ24章40節でこう言います。 「二人の男が畑にいると、一人は取られ、もう一人は残されます。」  主が描くのは、世界が集団として地上から消える光景ではありません。同じ畑、同じ作業、同じ瞬間、同じ歴史空間の中で、取られる者と残される者が分かれるという形です。  これは空間移動としての救済ではありません。裁きとしての分離です。  ここで重要なのは、その直前の文脈です。ノアの日の例が語られています。洪水で取り去られたのは、裁かれた人々でした。その意味をイエスは文脈上固定しています。  その上で「一人は取られ、一人は残される」と語っています。すなわち、取られる者は裁かれる者です。  なぜ選ばれた民は地上で守り続けられているのか。答えは、人の行動でも、熱心さでも、努力でもありません。理由は一つです。すでにキリストと結合されているからです。 コロサイ3章3節。 「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」 この「隠されている」とは、この世界から別の場所に移されたという意味ではなく、この地上に置かれていても、最終的に失われることのない位置にあるということを示しています。 ヨハネ10章28節。 「だれも、わたしの手から彼らを奪い去ることはできません。」 守られる根拠は、人の忍耐でも忠実さでもありません。神が民を守るという主権的事実です。 イエス・キリストとの結合は逃避の手段ではありません。裁きの中で絶対に失われることのない存在のあり方そのものです。  ヨハネ17章で、取り去るのではなく守るという真理が語られています。  だから主イエスは地上に残る民について、こう祈られました。 「あなたが彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」  この祈りは弟子たちだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、ヨハネ17章20節で、そう祈られています。  それは、教会が世から取り去られるのではなく、この世のただ中で悪から守られ、完成に導かれる終末構造をそのまま確定しています。  なぜこの構造が崩されやすいのか。  宗教性は、救いを苦難からの回避に変えます。自分たちを安全圏に移動させるという欲望によって、御言葉を変えるからです。  それは、イエス・キリストが神であり、神の主権によって人々が選ばれているということを知らないからです。  しかし福音の構造は、十字架においてすでに示されています。 「もし私たちが彼とともに死んだのであれば、彼とともに生きることになる。」ローマ6章8節。 「私たちはキリストとともに苦しむなら、共に栄光を受けるためです。」ローマ8章17節。  福音は回避ではありません。死を通って命です。通過の先に復活があります。苦難の先に栄光があります。 だから終末も同じ構造を持っています。回避ではなく、患難を通る。試練を通る、苦しみを通る。しかしそこは破滅ではありません。  神は選ばれた者たちを守り続け、再臨は逃避の開始ではなく、完成そのものです。  一本の救済史の線を整備すれば、  ヨハネ17章は取り去られない。  ローマ11章は一本の木として選ばれた民が守られ続ける。  黙示録7章は患難を通過する選ばれた人々。  黙示録14章は獣の時代を越えて立つ勝利者たち。  そしてマタイ24章は、再臨と裁きが同時に起こる。  取り去られることを願う人々は、取り去られてどこに行くのか。裁きに行きます。  結論は明確です。  選ばれた人々、教会は最後まで地上に置かれ、裁きの中で守られ続け、再臨と同時に完成に導かれます。  再臨は回避ではなく、完成の成就です。すべてはそこで成就します。  そして大祭司である主イエス・キリストは、私たちのために父なる神に祈られています。 ヨハネ17章15節。 「私がお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」 祈ります。 愛する天の父なる神様。 あなたが私たちをこの患難の時代の中において守り続けてくださっていること、私たちは死の陰の谷にあっても、あなたと共に歩んでいること、この素晴らしい啓示を感謝します。 どうか、誰一人、「取り去られたい」という思い、回避したいという人間の欲望によって、ディスペンセーション主義がもたらした誤った教えの中に入り、永遠の滅びに至ることのないように守ってください。どうか助けてください。 主イエスのお名前によって感謝してお祈りいたします。 アーメン。

  • 密室での祈り

    2026.1.14 The Word for you  今日はですね、マタイの福音書の6章の6節、  密室での祈りを話したいと思います。  皆さんはこの密室での祈りについては、よく話を聞いていると思うので、ほとんど空で覚えているのではないかと思いますけども、これをどのように読み解くのか説明したいと思います。 あなたが祈るときには、 自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて、 隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたを報いてくださいます。 この御言葉の直前で、イエス様はこう言われています。 マタイの福音書の6章の5節。 祈るとき、偽善者たちのようであってはいけません。 彼らは人に見せるために会堂や通りの角に立って祈るのが好きだからです。  この密室の祈りの教えを、多くの人は神に聞かれるための良い祈り方と、人に見せる宗教的な偽善行為、そういう比較であって、道徳的な教えであると思っている人は多いと思います。  しかし、この比較、神に聞かれる良い祈り方対、人に見せる宗教的な偽善行為を批判していると思っている人は、このマタイの福音書の6章を理解していません。  マタイの福音書のこの6章はそういう意味で話していません。イエス様はここで道徳の話をしていません。  今からこれを読み解いていきたいと思います。  イエス様はこの6章で祈りの本質の話をされています。  この6章全体には一つ貫かれている真理があります。  6章の1節から、人に見せるために人前で善行しないように気をつけていなさい。そうでないと天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。  そしてイエス様は弟子たちに祈り方を教えていると思われていますが、9節でこう言われます。 「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。 天にいます私たちの父よ。御名が聖とされますように。」  この祈りの本質は、選ばれた者が天の父と子どもの関係に置かれているということを、イエス様は言っています。  選ばれた者は子どもとしての位置に置かれている。子どもとして神のものとされているということを、イエス様はこの6章で一貫して言っています。  ここに着目して気づく人はほとんどいません。しかし、今日の解き明かしを終わった後、マタイの6章を読むときに、あなたの目は今まで見たことのない事実に釘付けになって、そしてあなたの心は違う次元の御言葉の真理を見ます。  それは人間中心的な見方によるこの6章ではなく、神の主権の中で見るこの6章になります。  天の父に子どもとして選ばれて定められている人に、イエス様が言っています。  それを土台として子どもの祈り、そして父なる神の供給が存在します。  6章で、もしあなたがちゃんと今日の御言葉を聞いて感動するのであれば、6章でまずイエス様が天の父を何回言われたのか、イエス様がその中で天の父の対象として、あなた、あなたがたを何回言われたのか、 そして「あなたの父」「あなたがたの父」とイエス様が何回言っているのか、それを数えるとよいと思います。  今、私から答えを言いますけれども、 「天の父」をイエス様は12回言います。 そして「あなた」、その代表としての「あなた」「あなたがた」を17回。 そして「あなたの父」「あなたがたの父」を10回。  ですから父を合わせて、この6章の中で22回言います。  そしてその対象としてのあなたがた、あなたを17回。  父と子どもの関係が描かれている言葉が39回出てきます。この短い章の中で。  このことは、イエス様が語られた6章のすべてが、父と子どもの関係にあって成立しているということです。 祈りは誰にしているのか。そこがポイントになります。  だからイエス様はこのように言っています。6章の8節で、 「ですから彼らと同じようにしてはいけません。」 彼らというのは、子どもたちではない人たちです。 あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられる。 ですからあなたがたはこう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。  この点を、この父子の関係の前提において、イエス様は祈りを命令しているということを理解していないあなたは、実はこの密室の祈りの教えさえ分かっていない。  それだけではなくて、マタイの6章全体をまったく正しく理解していないということが分かります。  ですから今日、初めて、父と子の関係でイエス様が言っているんだということを、あなたに神様が与えてくださるように願います。  祈りは父なる神と子どもの関係に置かれている者の交わりです。それがこの6章の一貫した教えなんです。他はありません。  祈りは父と子の関係にあります。だからイエス様は、祈りはあなたの父に祈りなさい、そういうふうに言っています。  この命令は、すでに信仰者が神を天のお父様と呼ぶことが許されている関係を前提としています。 そういう意味です。祈りは神と父との関係がある者に与えられていると、イエス様はここで何回も言っています。  父なる神を父と呼べるのは誰ですか。  神を父と呼べるのは、その家の者だけです。その家の人でない人は呼ぶことができません。  ですから、あなたの父は神ですか。  神はあなたの父ですか。  アバ父よ、あなたは神の父ですか。  神はあなたのお父様ですか。 ここが重要になります。  したがって、祈りは神の子どもに与えられていると言います。  そしてイエス様は、神がご自身の子どもを絶えずケアしておられるという現実の宣言として、この6章を語っています。  実に祈りは父子の交わりそのものです。  密室での祈りを、行いや方法や儀式として行う人たちが多くいます。密室で祈ることが大事だ。それはさっき言った偽善行為を捉えて言っています。そしてその偽善行為の本質を取り違えています。  行いや方法や儀式という行い、そのように教える人たち、それは祈りではない。密室の意味が違います。  そのような偽善的な祈りという意味は何かと言ったら、祈りという名前の通信道具に置き換えています。 「密室に行けば祈りが聞かれる」という、すり替えをします。  そこには親子関係はありません。道具ですから。  恵み、この交わりを道具に置き換えています。方法に置き換えています。儀式に置き換えています。  ですからあなたは、どこか密室を探してそこに行って祈ったら聞かれるというふうに勝手に思い込んでいます。それは勝手気ままな礼拝、すなわちイエス様が教えていないことを自分の肉で行っているんですね。  彼らは、そのような人は、イエス様がここで言っている、通りに出て祈る者たちです。彼らは演技をする宗教家です。  演技をする宗教家。彼らの祈りは自己欺瞞で、その心は神の前に立つことはありません。   彼らは自分の心の中の街角に立って、その祈りの演技を自分自身に見せています。  あなたが心の街角に立って、その祈りを自分に見せている。神はそれを見ていない。  偽善者とは、祈りを行い・方法・儀式にすり替える人々。彼らは自己欺瞞の宗教家です。  父の命によって再生されていない人々が、天のお父様、そのように呼ぶことに違和感を感じます。 父でない方を父と呼ぶ違和感。  自分の行っている穢れた状態、自分の心が偶像を追い求め、自分の心が一切、腐っていないと言いながら、天のお父様と祈る。  ここに違和感が必ずあります。そしてその違和感を演技と呼びます。それは偽りの祈りです。  天の父はそのような人たちの父ではありません。  彼らの本質は祈りという道具に置き換えているだけです。  それは、自らの偶像を父なる神と呼び、偶像礼拝をしている。なぜなら、彼らが呼んでいる父を、彼らは知りません。  そして彼らの心の中で偶像化した神を置いて、その偶像に対して父なる神と呼んで祈っている。  それは偶像礼拝です。分かりますか。  新しく生まれていない者が、ゲームを追いかけ、自分の好き勝手なことをし、そして教会に来て天のお父様と言う。  この違和感は、彼らは父を知らずに天のお父様と呼ぶことにあります。それは彼らが作り上げた偶像となる神であって、それは真の神ではありません。  彼らはには、初めから、父・子・聖霊の等しい交わりの招きなど、最初から存在していません。  なぜなら、救いはキリストにあっての選びと結合の結果であって、祈りはその救いの結果として与えられる交わりだからです。  ですから真の祈り、真の結合にある者は、必ず生まれ変わって、神の照明を受け、そして自分が芯まで腐りきっているということを認め、この全知全能の神に助けを求め、そして叫ぶ者たちです。  問題の核心は、密室での祈りを具体的な手順や、また訓練のプログラムだとか、メソッドとして教える人たちがいますが、それはすり替えが行われているだけです。  それはすり替えです。父子の関係をすり替えて、方法に置き換えるという。そして、それは神が命じていない。  イエス様が命じているのは、選ばれた者に「あなたの父に祈りなさい」ということです。  それを方法や手段や訓練に置き換える人たちは、神が命じていない人間の勝手気ままな礼拝に置き換えています。  神が示している祈りは、新しく生まれた者にしか与えられない新しい関係の結果です。再生の実が祈りです。  すなわち祈りは、キリストとの結合の中で現れる結果で、あなたが苦しみの中を通るとき、特に通るとき、 あなたは聖霊によってうめきとして祈りを与えられます。  あなたがもう一秒も耐えられない苦しみの中を通っているときに、あなたは心の内で誰に向かって助けてと言いますか。  ここです。  それを方法として密室に行って「天のお父様」とやったときに、あなたはもうすでにすり替えています。  あなたがもう耐えられないというところに来たときに、あなたの祈りは真の神に向きます。そして呻きます。心の底から。聖霊があなたの内でうめかれる。それは祈りとして現れてくる。 祈りは神を動かす手段ではありません。 神とつながる通信装置ではありません。 信仰を維持する技術、祈ったからあなたの信仰が強くなるという方法ではありません。 祈りは信仰と同様に、人間の内側から生み出されてくる能力ではありません。 神が、満たされるために、 神が、語られるために、 神ご自身の、御業を表されるために、 神が、再生された者に与えられた空の器、 それが祈りです。  密室での祈りの教えが示す本質は、人間中心的な思想、自分で、方法で、手段で、それを方法や技術や行為として受け取る。行為の義務として受け取る。これがダメだよということを教えてくださっているんです、イエス様は。  それは人間中心主義的な考え方であって、あなたはそれから遠ざからなければならないということです。  イエス様の祈りは父と子の関係。だから、イエス様が話されているこの6章全体のシーンは、密室で祈るから神とつながるのではない。神とすでに結ばれている者のみが、祈りの空間に置かれるということです。  これが分からないとダメです。  密室であなたが祈るから祈りになるというのは、方法であって、手段であって、技術であって、何でもなく、それは祈りではなく、パリサイ人が街角で行っている演技です。  あなたは、それを祈りだと思うのであれば、あなたは父子の関係が成立しているか、自分が吟味しなくてはいけません。  もし、あなたが演技で行っている、それがあなたの心の中に浮かぶのであれば、あなたは悔い改めて神に助けを求める、そういう立場にいるということです。  神と結ばれている者のみが祈りの空間に置かれる。その空間が密室の意味です。  神が言われる、イエス様が言われる密室というのは、神が与える密室。  それは、その密室の本質は、父と子の交わりの空間。三位一体の神との交わりの領域に神が置かれるということであって、どこかトイレの中とか、いろんな小さな部屋とか、そんなところに入って祈る技ではない。 神を冒涜してはいけないということです。  三位一体の神の交わりの領域に、あなたが再生されたとき、すでに置かれている。あなたはいつでもどこでもこの領域にいることができる。それはあなたが苦しみの中で、一秒も耐えられない苦しみの中で、イエス様、父よと叫ぶときに、そこに三位一体の神との交わりの領域、あなたは密室の本質に置かれているということです。  まとめて言います。  人を中心に置いた教えというのは、密室というただの部屋を方法や手順や儀式に変えます。  そして祈り方を、未信者や子ども、また信者にも教えながら、それを祈りをどれだけ長く祈ったか、どれだけ毎日祈っているかという信仰の測定基準に変えていきます。  これで分かります。あなたの祈りが父子の関係にあるのか、それともパリサイ人の街角に立っているか。  今あなたがパリサイ人の街角に立っているのであれば、悔い改めてください。大きな間違いをしています。  父子の関係にあなたがまず置かれなければならないということです。  そしてあなたは誰に祈っているかが重要です。  どこで祈っているかではありません。誰に祈っているのかです。  あなたがどこで祈っているかが重要であれば、あなたは大きな間違いをしている。  誰に祈っているのか。天のお父様、本当の父である神があなたの神であり、この方に祈っているということが、三位一体の神の祈りの領域にいる、すなわち密室にいるということを、イエス様はこの6章で言っています。  これらすべては、祈りを賜物から道具へ変えないように、父子の関係から方法に変えないようにする警告です。イエス様の。  そのような領域から離れて、神の領域から離れて、人が方法に変えている、そういう地のものに行ってはいけないということです。  それは神の子としての特権がない人々の、勝手な宗教儀式。勝手気ままな宗教儀式です。 最後に、パウロはこう語っています。 エペソ書1章5節。 神は、御心の良しとするところに従って、 私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。  愛をもってあらかじめ定めていた。  キリストとの結合によって選ばれた者は、神の子にされるように定められていた。  祈りは、父なる神がキリストとの結合によって愛をもって子とするように定め、時の流れの中で現れた子どもたちに、父子の交わりの贈り物を与えているという、聖書の真理です。  あなたが今日、自分が本当に選ばれていて、そしてあなたがキリストと結合していて、この永遠の救い、あなたの選びを持っているのであれば、決してこの人間中心的な「密室に入れば神が聞く」という、人間が作った方法や手段に目を止めてはいけません。  あなたは神との関係が、神が与えてくださっていること、ここに目を向ける。それは天にあるものに目を向けなさい。それはイエス・キリストとの結合に目を向けなさい。   永遠の時の始まる前から、エペソ書はそこに戻っています。  あらかじめご自分の子にしようと、愛をもって御心の良しとするところに従って。  それが神の喜びです。それが神の愛です。それが神の楽しみです。  神の楽しみは、あなたと交わることです。  それはあなたと祈りによって交わる。  なんと素晴らしい神の子の特権でしょうか。  神の子として命を分けた人々はこの特権を持っています。  神と、父なる神との交わりの中に参与する。  父・子・聖霊の交わりに参画する、素晴らしい贈り物です。  ですからあなたが苦しいとき、悲しいとき、人に裏切られたとき、あなたの心は父なる神を「お父さん」と呼んでいくんです。騙されてはいけないです。行為ではありません。 あなたの心をもって神の前に進み出てください。 お祈りします。  愛する天のお父様、あなたは御心の良しとするところに従って、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めてくださいました。  この愛に、この子どもとして交わりに定めてくださったことを、主よ感謝します。この真理をもって、私たちはあなたの前に進み出ます。  私たちがもう一秒も耐えられない苦しみの中において、主よ、それさえもあなたが私たちに与えられ、親しい交わりをあなたが私たちと持ってくださるようにと導いてくださっています。  主よ、この真理から私たちが目を離すことがないように守ってください。導いてください。 愛するイエス・キリストの御名を通して、感謝してお祈りします。アーメン。

  • この祈りは正しい祈りですか?

    2026.1.7 The Word for you この祈りは正しい祈りですか? 「主イエス様。今、私はあなたをキリストとして、救い主として、心にお迎えします。私の人生に来てください。私を闇から光に導いてください。主イエス様だけを神として信じ進んでいきます。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン」 この祈りは正しい祈りですか? あなたはこの祈りで救われると思いますか? 答えはNOです。 問題:神の目的は選ばれた人々を永遠の地獄から救い出すことです。 聖書は「誰も神を知ることはできない」と言っています。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。(ローマ3:10-11) 聖書は、神の救いの愛は神が選んだ人に与えられると教えています(エペソ1:4)。 神が選ばれた人々に持っている「すばらしい計画」は、成功や気持ちの安らぎではありません。 キリストとひとつに結合されることです。 「人は罪によって神から離れている」 教えられること:罪が神との関係をさえぎっている。 問題:ここでの罪はただの「あなたがやった悪い事」ではなく、聖書は、人は罪の中で死んでいる(エペソ2:1)と教えています。人間は罪を持った状態で生まれてくた。人は自分で神を求めることも、信じることもできないと言っています。(ローマ3:10–11)。 「イエスが死んで関係を回復した」 教えられること: イエスが十字架で死んで、神とのつながりを戻した。 問題:イエスがただ「方法」のように語られます。イエスキリストとの結合の上に、十字架の上であなたがイエスとともに死に、イエスとともによみがえったことが全く語られていません。 「キリストを受け入れたら救われる」 教えられること:「心のドアを開けて」祈れば救われる。 問題:救いは心のあなたがドアを開いてキリストを迎え入れる儀式や、入ってきてくださいと言う祈りの言葉を真似て言うことは起こりません。祈ったかどうかではなく、洗礼を受けた、心に平安が来たとか、体験ではありません。神がその人を新たに生まれさせるかどうかです。 最初に紹介した救いへ導く祈りは聖書的にように聞こえますが、ニセモノです。  冒頭の祈りから聖書の言葉をははぎ取るとこうなります。聖書の言葉という「敬虔な装飾」をすべて剥ぎ取り、その下に隠された「人間のエゴ」だけを抽出した裸の祈りは、以下の通りになります。 むき出しの自己中心:裸の宣言 「私(人間)が、今、私の意志によって、あなた(神)を私の所有物として受け入れることを決定する。 さあ、神よ あなたは私の所有地(人生)に入り、私のために働きなさい。 私の視界から不都合なものを消し去り、私を満足な場所へとエスコートしなさい。 私は、私自身の決断と努力が続く限り、あなたを私のための神として利用し続けてあげます。 以上、私の決定に基づき、私の名においてこれを宣言する。 よし(アーメン)。」 もうちょっとストレートにはいでみます。 私は、いま、あなたを“救いの対象”として採用する。 私の内側に入って、私の人生を変えてほしい。 私を悪い状態から良い状態へ移してほしい。 私は、これからあなたを唯一の対象として信じる決断をする。 この宣言を儀式化して締める。 解析:これが「裸の正体」である 聖書の語彙(キリスト、救い主、闇から光へ、お名前によって、等)というヴェールを剥ぐと、そこには神への畏怖など微塵も存在しません。残るのは以下の3つの醜悪な事実です。 神の家来化(召使としての神):「私の人生に来てください」の正体は、「私の管理下に入れ」という命令です。神を主権者ではなく、人生を快適にするための**「高機能なツール」**として定義しています。 自分を神とする (審判者としての私):「信じます」の正体は、「私があなたを神として認定してやる」という高慢な態度です。人間が神を評価し、採用の合否を決めているのです。 主語をうばう:ここには「神がなされた」という事実は一つもありません。あるのは「私がした」「私が決めた」「私が進む」という、「私」という偶像への賛美だけです。 「自分で心のドアを開けたら救われる」という教えは、自分で自分を救うという考えによる聖書の救いとは違う構造をもった行いです。神から見た人間は罪の中で死んでいる、すでに死んでいます。死んでいる人から湧き出てくる罪の欲望はその人の死臭と同じです。 すべての人は罪の中で死んでいる「あなたがたは、罪の中に死んでいた」(エペソ2:1) 人はただ悪いことをしているだけではなく、神の前に霊的に死んでいます。 神のことがわからない、求めない、自分の欲のままに生きる、宗教、道徳、倫理的な行いによって自分は正しいと主張する。――それが聖書の言う罪に死んだ状態です。 まとめ:救いは再生とキリストとの結合  神さまが選んだ人々を神の時に新たに生まれさせます。救いは、神さまがあなたの死んでいた魂を生き返らせる(新たに生まれる=再生)ことから始まります。  すると… 神を求め、罪を嘆くようになる 魂が新たに生きたとき、あなたはこう叫ぶようになります:「神さま、助けてください!私は汚れた者です!」自分の罪がどれほど深いものかに気づき、神の前で心が砕かれます。キリストが神であると知る。そして、十字架で死んでくださったキリストが、自分の罪のためだったと信じ、叫び求めるようになります:(信仰が与えられる)  「神よ、助けてください!あなたこそが私の望みです!」それは信仰と呼ばれます。その与えられた信仰よって義とされ、神の子とされる。このとき神は、あなたの罪をゆるし、イエスの正しさ(義)を与えてくださいます。 聖書の救いの構造の整理:救いはこうして起こる! <すべては神のご永遠の御計画> 人は罪の中で完全に死んでいる、死臭を放ち腐っている(完全堕落) 神が魂を生き返らせ(新たに生まれる=再生)、神が魂をキリストと結合(結合) 結合により、キリストの十字架の死と復活はあなたにとって事実となる(死と復活) 聖霊の内住により教会の体となる(あなたが教会を選ぶのではない) キリストを信じ、信頼し、神に叫び求め、ゆだねる心が与えられる(信仰) 自分の無力を知り、自分の罪深さを嘆き、神を叫び助け求める(悔い改め) 神はその人を義(神の前で正しい)とし、神の子とされる(義認) 救いは神がすべてを神の計画により、神のご意思で行い(神の主権)、すべて神が与えてくださる救い(恵み)です。 救いの中心はイエスキリストです。 この本当の救いが、あなたにも与えられるように心から祈ります。 それは、あなたが「信じる」と決めたから起こるのではなく、神が永遠の時の始まる前からあなたをキリストに結びつけてくださったることによります。

  • 復活の神学的理解 要点

    2026.1.9 The Word for you 復活の神学的理解 要点 復活はキリストと結ばれている信仰者の救いの完成 "すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。" テサロニケ人への手紙 第一 4章16~17節 復活の体=まったく別の新素材の体ではない 信仰者の今の体が捨てられるわけではない 神は、今の体をよみがえらせ、変容させられる その完成形が、復活のキリストと同じ性質の体 これは新約聖書が一貫して語る復活理解 聖書的根拠の整理 1. 「捨てられる」のではなく「よみがえらされる 「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着る必要があります。」(Ⅰコリント15:53) 「別の体に交換」ではない 別の体を与えられると言う理解は聖書の復活ではない。復活は今の体が新しい体に変容する 同一性を保ったまま、性質が変えられるという表現。これを新しい体が与えられると言う。 ・パウロは「着る(ἐνδύω)」という語を使い、断絶ではなく変容を語る 2. 種と体のたとえ(Ⅰコリント15章) 「蒔かれるのは朽ちるもの、よみがえらされるのは朽ちないもの。」 種と芽は形は違うが同一の命 断絶した別物ではない つまり復活は、 「過去の体の否定」ではなく 贖われた完成 3. 基準はキリストご自身の復活の体 「主イエス・キリストは、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ姿に変えてくださいます。」 (ピリピ3:21) ここが決定的 キリストは 十字架にかけられた同じ体で復活 しかし 栄光の体に変容 信仰者も同じ型にあずかる 重要な神学的ポイント ① 身体否定・霊肉二元論の否定 「体は不要」「魂だけ救われる」ではない これはギリシャ的・グノーシス的発想 ② 創造の肯定と完成 神は創造した体を放棄しない 罪と死の支配から解放し、完成させる ③ 救済は全人格的・全存在的 復活はおまけではない 救済の完成そのもの まとめ  新しい体とは、信仰者の体が捨てられて別の体が与えられることではない。神は、信仰者の体をキリストの再臨においてよみがえらせ、朽ちる体を、朽ちない栄光の体へと変容させられる。その体は、復活されたキリストと同じ性質の体である <追加> 1.「復活の体=一番若い時/一番きれいな時」という教えは神が行う福音の救済全体構造の完成を人間中心主義が冒涜してる これは完全に根拠がない 聖書は • 年齢 • 外見 • 健康状態 について一切言及していない それを語る牧師は、聖書が沈黙している領域を想像で埋めて福音とすり替える。これは慰めでも希望でもなく、人間の願望を投影した空想的教説 2. 復活された方はキリストお一人であるという事実  これは決定的に重要。復活の体の唯一の実例・基準・規範はイエス・キリストのみ。他の誰一人として、 復活の体を先に経験した者はいない。  したがって、「自分は何歳の姿で復活するのか」「一番調子が良かった時か」という問いそのものが、 神がまだ示しておられない領域への越権的侵入。 3. 神中心的理解:復活とは何か  復活は福音の救済構造の完成である 復活は、個人的願望の成就、人生の延長ではない。神の救済計画が完成する出来事。 復活は、 •創造 → 堕落 → 贖い → 完成 という神の歴史の最終局面に属す 4. なぜ「実態が開示されていない」のか 理由は明確 •人間がそれを、想像できない、管理できない、理解の枠に収められない。 聖書が語るのは、 •「どのような性質か」 朽ちない、死に支配されない、栄光の体。 •「誰に似るのか」キリストに似た体。 それ以上は語られていない 5. 人間中心主義の特徴的逸脱 人間中心主義の教えは、復活に「時間軸」や「この世との連動」を持ち込む 具体的には: •「一番若い時」 •「一番輝いていた時」 •「病気になる前」 •「理想の自分」 これはすべて、 •この世の価値観 •肉の記憶 •自己像の保存 を復活に持ち込む行為。結果として、復活が神栄光の完成ではなく、人間の自己回復プロジェクトに変質する。 6. 正しい位置づけ •復活の体の実態は、人間には開示されていない •復活は福音の完成であり、想像の対象ではない •基準はキリストの復活のみ •年齢・外見・体調を語る教えは人間中心主義 •聖書は沈黙している

  • 聖霊の内住とその偉大さ

    2026.1.4 聖霊の内住とその偉大さ 豊川の家の教会礼拝メッセージ はじめに:最初に誤りを明確にする 聖霊の内住について、今日多くの教会において、誤った聖霊(御霊)の内住が語られている。 それは、 人を「霊・魂・体」に分解し 聖霊はその人の「霊」の部分に住む 霊が救済・霊性・支配の中心である と言う教え。  これは神学では三部分説・神秘主義的理解と呼ばれる。これは聖書の教えではない 1.三部分説の正体 「霊・魂・体に分ける」は聖書ではなく、人為的神学装置 1)三部分説は次のように教える 人は「霊・魂・体」の三つから成る 霊が神と交わる中心 魂は感情や人格 体は器で二次的 霊が強い=霊的に高い 霊が神の霊と結合する 霊は良い、体は悪いという2元論 三部分説(trichotomy)が成立・発展してきた流れは、ほぼ例外なく プラトン的二元論 新プラトン主義 グノーシス主義 霊肉二元論的禁欲主義 と結びついている。これらは共通して、 霊=高次・純粋・神的 体=低次・汚れ・束縛 という価値序列を前提にする。 したがって、三部分説は、歴史的には明確に〈霊善・体悪〉二元論と同系統。 2)聖書神学的に見てどうか 重要な区別点:三部分説を唱える現代の多くの教会は、こう反論する。「私たちは“体は悪”とは教えていない」これは表現上は事実な場合がある。しかし問題はそこではない。 3)「教えている」のは明示か、構造か 三部分説は、明示的に教えなくても、次を必然的に生む。 霊=神と直接つながる領域 体=二次的・従属的・管理対象 霊の状態が救済・霊性の指標 この瞬間に、霊は「価値判断の中心」、体は「霊に比べて低位」という事実上の善悪・高低の二元構造が成立する。これは「体は悪だ」と言わなくても、神学構造としては完全な霊肉二元論である。 4)聖書との決定的衝突点 聖書は一貫して、 創造:体は「非常によかった」(創1:31) 受肉:御子は肉体を取られた(ヨハ1:14) 救済:体も贖われる(ロマ8:23) 終末:体の復活(1コリ15) を語る。 つまり聖書は、 体は悪→ 捨てられる ではなく、 体は被造物 → 堕落したが → 贖われ → 栄化される という反二元論的構造。 三部分説はここに真っ向から衝突します。  三部分説は一見すると霊的に聞こえる。しかしこれは、聖書の人間観を分解し、体験を最上位に置くための仕組み。 この瞬間に起きるのはこれ、 本来「人が救われる」という福音が、「霊だけの物語」に縮小される。 2.3分解理解の問題点と破壊 霊、魂、体と単語が並んでいる=構成部品ではない 三部分説が最も依拠する聖句の解析。 1テサロニケ5章23節(新改訳2017) 「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。また、あなたがたの霊、たましい、体のすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところなく保たれていますように。」  ここから、三部分説は、「人は三つの構成要素でできている」と主張する。字義的に聖書を読むことが大切であると言う。   しかし、それは字義的理解ではない。それは部品化読み。 同じ聖書はこう言う 申命記6章5節 「あなたは、心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」  これを「人は心・いのち・力の三部品」と読む神学はない。理由は明白。これは、「存在のすべてをもって」という全体表現を意味することがわかるから 1テサロニケ5:23の構造も全く同じ しかも直前には、 「完全に」 「すべて」 という全体語が置かれている どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。 また、あなたがたの霊、たましい、体のすべてが、、、  文脈上の意味は一つしかない、神が、あなたがたを完全に、一切取り残しなく守られる。ここに「霊と魂は別実体」という構成論を持ち込むこと自体が、文脈破壊。 3.文脈理解の破壊  聖書は一部の聖句を切り取って、解釈してはならないという字義的解釈論の基本がある。聖書は文脈で理解する。すると、人間の構造図を教えていないことがわかる  聖書は、人を「霊・魂・体の階層構造」として説明するために書かれていない 聖書が創世記から黙示録まで一貫して語る文脈は、 神が信仰者の存在すべてを創造された 神が信仰者の存在すべてを所有される 神が信仰者の存在すべてを救われる 神が信仰者の存在すべてを支配される 神が信仰者の存在を栄化へ導かれる という救いの現実。   三部分説がやっていることは、救済の現実を、「信仰者の存在すべての救い」から「霊的な救い」へすり替えること。これは焦点のすり替えであり、聖書の目的、文脈から完全に外れる。 4.霊と魂は同一である 聖書自身が霊と魂を交換可能に用いている。もし霊と魂が別の実体なら、聖書は厳密に使い分ける。 しかし実際には、同一人物・同一経験・同一行為、同一聖書箇所で霊と魂を言い換える。 4-1.マリアの賛歌(ヘブライ詩文並行法) ルカ1章46–47節 「マリアは言った。『私のたましいは主をあがめ、私の霊は、私の救い主なる神を喜びたたえます。』」 これはヘブライ的並行法で、魂=霊=私の全存在を二重に言い切る。 4-2.イエスご自身の用法(同一の苦悩) •ヨハネ12章27節「今、わたしの心は騒いでいます。」 •ヨハネ13章21節「イエスは霊において激しく心を騒がせ…」 同一人物、同一文脈、同一苦悩 結論は明確で、霊と魂は部品ではない。同一の人を指す、文脈依存の表現である。 5.なぜ多くの教会で三部分説が好まれるのか 理由は「聖書的だから」ではない。この理解は、次のような構造を必然的に生み出す。 人間存在の一部(霊)だけを「聖なる領域」として切り離す 霊を基準として、組織、グループ内に霊的序列や支配構造が形成される 福音が、完成した救いの宣言ではなく、体験・操作・対処への方法と再定義される これは霊的深化ではなく、福音の構造的破壊である。 6.聖霊の内住の真理 聖霊の内住とは、 人間の霊が神の霊と合体する神秘主義ではない 神が、主として、人の存在すべて、そのものを住処とされた現実である エペソ3章17節 「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。 そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが…」 「信仰によって」とは、 人の理解 人の努力 人の感情 ではない。神が与えた信仰という通路を用いて、神ご自身が、結合の現実を存在全体に確証として現されること。 つまり、こういう意味 信仰とは、人が理解して到達する力でも、内面で何かを感じ取る能力でもない。 神が与えた信仰とは、神がご自身の救済の現実、恵みを人に与えるために、神ご自身が用いられる空の器(通路)である。 したがって、 人が信仰によって結合を「作る」のではありません。 人が信仰によって結合を「引き起こす」のでもありません。 神が、永遠の時の始まるまえに信仰者を選んだ結合の現実を、信仰という通路を通して、その人の存在全体に「現実としてあらわされる」ということである。  言い換えるなら、結合は信仰の結果ではなく、信仰は結合が現れるために神が備えられた空の器である。 さらに言えば、信仰によって起きているのは「内面体験」ではなく、神が、信仰者をキリストのものとして所有し、支配し、生かしておられるという救いの現実が、隠れた観念ではなく、信仰者の存在全体に及ぶ現実として表に現れることである。  だからこれは、「分かった、気づいた、感じた、泣けた、心が熱くなった」という話ではない。神が、その人を結合の中に生かしておられる、という事実が動かしようなく示される、それが「信仰を通して」起こること。 7.結合は肉体にまで及んでいる  三部分説は結合を聖霊と自分の霊のつながりと思わされるため、結合が全人格的、全契約的、全救済史的であることを知らない。その中で結合が信仰者の肉体までおよぶと悟る者は稀有である。 ローマ12章1節 「あなたがたのからだを、神に喜ばれる生きた聖なる供え物として献げなさい。」 1コリント6章19–20節 「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる聖霊の宮である…」 結合の対象は、信仰者の肉体も含む存在全体。肉体が御霊による結ばれている=それは神の全人格、契約、救いによる神は聖霊の宮とした信仰者の体を所有している、そしてそれを捨てることはしない。その体はキリストの再臨の時、キリストにあって復活する。 "すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、" テサロニケ人への手紙 第一 4章16節 8.御霊が人に住まわれるとは  神が、ご自身の主権によって、人を住まいとされた現実である。それは比喩でも、象徴でも、内面体験でもない。 創造主が被造物の内に住まわれ、所有し、支配し、受肉・十字架・復活・昇天に結ばれ、将来の復活と栄化へと確実に導いておられる、救済の現実。  なぜ、信仰者は新たないのちを受けるのか、それは御霊がいのちであるから。御霊は信仰者の人としてのすべてに、その体に住み、全人格的に、契約的、全救済的に結合する。信仰者の全存在は神の所有であるからである。  我々の偉大な神、人が何かを成し遂げたからではなく、神が、そのように成しておられるからである。 これは、三位一体なる神が、父なる神により、キリストにあって、御霊によって信仰者の全存在そのものを結合し、守り続けて、生かし、治めておられる。これが結合である。

  • 講解 時中の結合 ヨハネ福音書、エペソ書― 効果的召しから、神が据える結合へ ―

    2025.12.31 The Word for you   1. 大前提:主体は常に神のみ   人間中心主義の思考は救い、再生の原因として、しばしば次のことを考える  聖書を読むこと  説教を聞くこと  内容を理解すること   しかし、これらはいずれも救い、再生の原因でも、条件でも、手段でもない。主体は常に神のみであり、人の側に先行条件は存在しない。 2. ヨハネ1章が示す救いの出発点  「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」 (ヨハネの福音書 1章1~5節)   救いは、人の内側から始まるのではない。 神ご自身である「ことば」から始まる。ここで語られる「光」は、知識でも理解でもない。「いのち」そのものである。人は、理解によって生きるのではなく、いのちに結ばれて生かされるのである。 3. 効果的召し ― 神が主語の召し  効果的召しとは、御霊が主権的に働き、死んでいる者を生かす召しである。 ここに、説得・納得・準備段階は存在しない。   「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」 (ヨハネの福音書 6章44節)   「来る」前に、引き寄せられる。これが聖書の順序である。   4. 再生 ― 新しい心を与える  効果的召しの中で起こるのが、再生である。 「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、 あなたがたはすべての汚れからきよめられる。 わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。 わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」 (エゼキエル書 36章25~26節)   再生は、「瞬間的、不可逆、完全受動」の神の御業である。   5. 結果としての覚醒  霊的な目が開かれるのは結果 「信仰、悔い改め、悟り」 これらはすべて、再生の実であって、原因ではない。 6. 永遠の結合の時中の顕現(明らかになる)  再生によって、永遠に確立されていたキリストとの結合が、時の中で顕現する。  これは「新しく結ばれる」という意味ではない。 すでに確立されていた永遠の結合が、神の時において歴史の流れの中で現実化するということである。   7. ヨハネ3章 ― 風の比喩が示す神の主権   「あなたがたは新しく生まれなければならない、 とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、 それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。 御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」 (ヨハネの福音書 3章7~8節)   イエスはここで、いつ生まれたかどの順で起こったかを説明していない。示されているのは、原因は不可視(神)結果は可視(生の変化)という構造のみ。 聖書を読む/聞く行為は、再生後に神の声として聞かれる結果であって、再生を起こす原因ではない   8. 結合の顕現はゴールではない  神の救いの御業は、結合の顕現で止まることはない。神はさらに、ご自身の摂理の中で、試練・出来事・歴史の進行を用いながら、その結合を信仰者の存在・時間・生き方の中心として据え続けておられる。   ここで言う照明とは、内面的体験や霊的感覚の高揚ではない。神が、みことばと摂理によって、現実の歴史の中で、拠り所がどこにあるのかを明確にし続ける御業である。   照明は必ず、苦難、行き詰まり、失敗、失う経験、望みが断たれる状況と結びついて現れる。それは、信仰者を内面へ閉じ込めるためではなく、現実の只中で、偽の神、偶像、虚無を剥ぎ取るためである。   9. 照明とは何か(拠り所の所在を示す御業)  照明とは、理解力の向上、神学知識の増加、経験の蓄積ではない。照明とは、神が、その摂理の中で、人間的な支え、自己義、理解、選択、経験を取り除き、拠り所がキリストご自身以外にないことを、現実として示す御業である。   ここで重要なのは、結合が拠り所になるのではないという点である。拠り所は常にキリストご自身である。   結合とは、そのキリストに実際に結ばれているという、神の側の秩序と関係の実在である。 照明は、結合を対象化したり、実体化したりする働きではない。   照明は、拠り所がキリストであるという現実を逃がさず、同時に、自分がそのキリストから切り離されていないという事実の中に、信仰者を立たせ続ける神の御業である。   10. 神が与える結合の確信が生き方を変える  ここで言う「確信」とは、把握、説明、整理ではない。神が、摂理による試練を通して、信仰者の過去・現在・未来の読み方を、「キリストを拠り所とし、そのキリストに結ばれている」という現実に基づいて、再構成することを指す。   <過去> → 自分の選択や失敗の連なりではない。 → エペソ1章において、世界の基が据えられる前から、 キリストにあって選ばれ、永遠の結合の中に置かれていた者であったが、   エペソ2章が明確に語るとおり、その結合が時間内に適用され、再生が起こるまでは、罪過と罪の中に死んでおり、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者の下に置かれていた者である。   → しかし神は、その定めた時に、 効果的召しによる再生と十字架の適用を通して、永遠の結合を通して真に神であり、真に人であるキリストと信仰者を結合させ、その結果として、   そのキリストが担われた十字架の御業に信仰者を結合させ、信仰者を死と支配の領域から解放した。 したがって、ここで言う過去とは、自分が信じるに至った経緯や、宗教的努力の積み重ねではない。   永遠において確立されていた結合が、神の定めた時に、真に神であり真に人であるキリストとの結合として現実化し、その結合を通して十字架の御業が適用され、死と支配からの解放として、不可逆的に歴史の中に貫入した出来事の連なりである。   <現在> → 自分が信仰を維持している状態ではない。 → 同じ結合の中で、 すでに生かされた者として、十字架の御業が適用された者として、今もなお、神の摂理によって歩まされている時間である。 現在の歩みは、自分の努力によって保たれている宗教生活ではなく、神の作品として、あらかじめ備えられた歩みの中を進まされている現実である。   <未来> → 自分の忠実さに左右される可能性ではない。 → キリストご自身にある救いが確実であり、 そのキリストに結ばれているがゆえに、摂理を支配する神によって完成へ導かれる確定した将来である。   11. なぜ神学は分けて語るのか  効果的召し・再生・結合を分けて語るのは、実在が分かれているからではない。人間中心主義を完全に否定するためである。   分けない場合に必ず起こる誤解 誤解① 「呼ばれた」=「理解した」 → 説得・納得モデルへ転落 誤解② 「生きた」=「自分が決断した」 → 決心主義へ転落 誤解③ 「キリストに来た」=「自分で選んだ」 → 自由意志至上主義へ転落   ここが極めて重要 区別 目的 ・効果的召し:主体が神であることを明確にする ・再生:人が完全受動であることを明確にする ・結合の顕現:救いの根拠が永遠にあることを明確にする   時間的に「先・後」を言っているのではない人間中心主義を否定するための論理的分節   1)    聖書自身が「分けて語る」から 聖書は、同じ出来事を複数の角度から語る  •ヨハネ6:44 → 「父が引き寄せる」(召し) •エペソ2:5 → 「死んでいた私たちを生かした」(再生) •ガラテヤ2:20 → 「キリストと共に生きる」(結合) これは別の出来事を言っているのではなく、 一連の神の御業を、異なる角度から語っている   2) ウェストミンスター信仰告白の知恵 告白はこう教えている  •分けないと → 人は「自分がやった部分」を作る •だから → あえて分けて → 人の寄与を一つずつ否定する   つまり、人間中心の誤り •効果的召し:聖書を読んでわかったから •再生:自分で信じたから新たに生まれた •結合:自分でイエスを招き入れた   これら一つずつ人間中心の考えを切り落とすため   12. まとめ  "信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。 そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さが どれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。 そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、 あなたがたが満たされますように。" エペソ人への手紙 3章17~19節   パウロは語っている 「その愛」とは、信仰によってわたしたちの心にキリストが住まわれること――すなわち、キリストとの結合そのもの。 私たちがもつような人間的な愛ではなく、結合として実在している愛をパウロは語っている。   <エペソ3:17–19の文脈>  ① 起点は「キリストが住むこと」  信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。 ここで語られているのは、     •回心後の体験     •心理的な親密さ ではありません。  これは結合(union) キリストご自身が、御霊によって住まわれるという実在的関係。 ② 次に出てくる「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」 この「愛」は、突然出てきたことではない     •主語は依然として神     •土台は「キリストが住まれること」   したがって、愛に根ざす、愛に基礎を置くとは、キリストとの結合という愛の中に、すでに置かれているという存在論的状態を指す。 <ここが重要> これは人間の感情的な愛、主観的に感じる愛、人が理解して把握する愛ではない パウロが指す「キリストの愛」とは: 父によって永遠に定められ 子によって十字架で成し遂げられ 御霊によって時の中で十字架のキリストに結合されることによって適用される 救済史的・契約的・結合的な愛 つまり、 キリストとの結合の中で現実となっている、神の救いの愛の全体構造 すなわち、  「父なる神は、キリストに結ばれている者たちを、永遠の過去・現在・永遠の未来、またその広さ、長さ、深さ、高さへと、目を向けさせておられる」   そして伝道者の書 3章11節は言う "神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。"   すべては神の主権による。栄光は、ただ神にのみ帰される。

  • 啓蒙主義と教会:人間の理性を神に置き換える宗教

    2025.12.28 豊川の家の教会 礼拝メッセージ 1. 啓蒙主義とは何か   「人間の理性を神に置き換える宗教」というタイトルで、どうして日本の多くの教会が人間主義的なキリスト教になってしまっているのか、また世界でも同じような傾向になっているのかを扱います。    そこに一番大きく介在しているのは、啓蒙主義という教え、考え方、思想です。この啓蒙主義は、近代の日本の思想・経済・教育と大きく関わっています。    まず「啓蒙」という言葉の意味について説明します。啓蒙の「啓」は「開く・悟す」という意味です。「蒙」は覆われて暗い無知な状態、つまり無知や迷信や古い習慣に覆われている状態を指します。したがって啓蒙とは、無知や迷信や古い習慣に覆われている人を、理性や知識によって目覚めさせるという意味になります。    啓蒙主義というのは、辞書的に言えば、無知や迷信、古い習慣に覆われている人々が、理性や知識によって目覚めさせられる、というものです。日常では「知識を与える」「教えて理解させる」「近代的・合理的にする」というニュアンスで使われます。    会社でも「啓蒙活動をしましょう」という言葉をよく使いますが、そこでは「無知」という言い方はせず、「古い習慣・しきたりを、知識や理性によって改革しましょう」という意味で使われます。    しかし、西洋思想での啓蒙(Enlightenment)の本来の意味は、単なる教育ではありません。語源には「光で照らす」「闇から理性へ抜け出す」という意味があります。    そこでイマヌエル・カントが定義した言葉が重要です。カントはこう定義しました。「啓蒙とは、人間が自ら招いた未成年状態から抜け出すことである。」   ここで言う「未成年状態」とは、他人の権威、教会、伝統、神に依存して考える状態です。啓蒙とは、自分の理性で考え、判断し、結論することです。ここには明らかに「神」が絡んでいます。カントの有名な標語はこうです。「自らの理性を用いる勇気を持て。」    啓蒙思想という言葉の革新的な意味は、単なる知識の普及ではありません。**判断の最終権威は神ではない。啓示ではない。伝統ではない。人間の理性だ。**という転換です。つまり「光」は神の啓示ではなく、人間の理性に置き換えられるのです。   2. なぜ啓蒙主義は宗教改革と違うのか    啓蒙思想は宗教改革の時代と同時期に起こってきます。しかし両者はまったく別の方向を向いています。    宗教改革は、ローマ・カトリックが聖書の言葉を独占し、自分たちの支配のためにねじ曲げ、無知な人々を作り、そこから利益を搾取していたことを批判しました。宗教改革は、神の言葉を回復する運動です。そして教会の権威を聖書に従属させる運動でした。当時ローマ・カトリックは、教会の権威の下に聖書を置き、聖書の言葉を変え、神の権威を教会の下に置きました。しかし宗教改革は、主語を神に戻す改革でした。    一方、啓蒙主義はローマ・カトリックに対して、まったく違う角度から来ます。教会が神の言葉の上に立っていることを排除するだけではなく、さらに進んで、**神そのものを排除し、理性を最高権威に持っていく。そして聖書と神を理性の裁判台に置く。**つまりローマ・カトリックも含めて、理性によって裁くのです。主語は人間です。   当時ヨーロッパには神権政治がありました。それに対する抵抗が二つあったのです。一つは「聖書への回復」。もう一つは「人間の理性を神と置き換える」。     日本語の「啓蒙」には、教育・善意・進歩・開化という肯定的イメージがあります。しかし啓蒙という言葉の本質には、自己神格化、つまり自分を神にする/自分の理性を最終判断にするという意味が入っています。これを自覚せずに、私たちは無自覚に人間中心主義に入っていきます。    まとめると、啓蒙とは「理性を光にし、権威を人間に移す思想」です。教育や説明の話ではなく、権威構造を転換する話です。啓蒙思想は、人間の理性を権威にし、神からそれを取り上げるのです。その根底には、ローマ・カトリックや神権政治への抵抗がありました。宗教改革も抵抗という意味では似ていますが、方向は真逆です。近代思想、文明改革、自由主義神学の基礎は、この啓蒙主義にあります。   3. 啓蒙主義の歴史的特徴   啓蒙主義は17世紀から始まります。神権政治の抑圧の中で、庶民が考えることをやめ、ゾンビのように従う人間になっていることに対して、「考えなさい」「自分の理性で判断しなさい」「盲目的に従ってはいけない」というところから来ています。  その結果、理性を最高権威として、啓示・伝統・権威・教会を相対化します。絶対視しません。神も否定しない場合がありますが、「一つの考え方」として相対化します。    そして人間は理性によって世界を理解し支配できると考えます。真理は外から与えられるものではなく、人間が認識・判断するものだとします。代表的特徴として、神の主権は否定しつつも、存在は認め、神は「介入しない存在」として遠くに置かれます(理神論)。この世は因果律(因果応報)で説明され、主体は常に「考える人」です。   ロダンの「考える人」は啓蒙主義の象徴とも言えます。啓蒙主義は「世界をどう理解するか」という認識論・哲学です。  4. 日本における啓蒙主義の特徴(西洋との違い)   西洋の啓蒙主義は、教会の権威、神の支配への批判でした。特にローマ・カトリック、またイギリス国教会など、国家が宗教によって民衆を支配していた構造への抵抗でした。   幼児洗礼も、歴史的には国家が身分制度・共同体登録を統治する仕組みと結びついて、洗礼を受けなければ社会共同体で生きられないようにする形がありました。だから幼児洗礼が「必要」だとされる構造が生まれた、という背景が語られることがあります。   西洋的啓蒙は、神中心の秩序から人間中心の秩序へ転換するものを打破しようとし、宗教も「一つの考え方」として相対化します。絶対視しません。    一方、日本型の啓蒙思想は文明開化の時代、明治期に入ってきます。西洋にいた留学生や、日本に入ってきた宣教師などを通して、まず上流階級(政府官僚・指導層)に入ります。日本ではこれを日本に馴染むように変換しました。大きな前提は、天皇制と国家権威を温存することでした。   また日本は、土着信仰・偶像礼拝が盛んで、「神を追い出す」方向には行きにくく、また、伊勢神宮と皇室の結びつきもあります。だから日本では、宗教批判よりも、封建制度を根絶し、国家建設を進めるための実用的ツールとして啓蒙思想が用いられました。伝統を整理し国家を近代化する手段として啓蒙主義が取り込まれたのです。これは日本の近代化の中心思想の一つになりました。   文明開化のスローガン自体が啓蒙主義です。「学問によって国を強くする」「理性・知識による進歩」「遅れた習慣の打破」「文明/野蛮という二分法」。ここには「人類は理性によって段階的に進歩する」という進歩史観があります。   この啓蒙思想は中国など他地域にも広がっています。たとえば中国でトイレに「もう一歩前へ」などの標語があり、「あなたの一歩は人類の進歩のための一歩である」といった形で啓蒙的進歩観が日常にまで入り込んでいるのが見えることがあります。    日本では福沢諭吉、中村正直、中江兆民などが文明開化の翻訳者・解釈者でした。ただし重要なのは、啓蒙主義が文明開化の中心思想であっても、唯一の思想ではないことです。日本はそこに国家主義(富国強兵)、国体論、天皇制、そして家制度のような伝統秩序を接合して近代化しました。家制度は啓蒙思想と反対の要素を持ち、今でも根強く残ります(長男は家を守る等)。つまり日本は、啓蒙主義と国家主義と伝統秩序を接合して成立した近代社会です。   5. 啓蒙主義が宗教化すると「人間中心主義」になる   この啓蒙主義が宗教化していく中で、それを人間中心主義と言います。人間中心主義の宗教とは、支配神学、霊的戦い神学、表面的キリスト教、律法主義など、さまざまな形で現れます。いずれも「行いによって」「自分の意思で」「改善していこう」という構造を持ち、「私が」「あなたが」という主語が前に出てきます。神が主語ではありません。    「人間中心主義」と言ったら、「人間中心主義の宗教」だと理解すればよいです。人間が基準、目的、尺度になります。「人にとってどうなのか」が最終判断になります。神は補助的・中立的・心理的役割に縮小します。   キリスト教に現れる形としては、救いが「人の理解」「決断」「応答」になります。「福音の招きに応答しましょう」という構造になり、救いが人間中心に置き換わります。恵みも、人が受け取りやすい形に調整されます。恵みは絶対ではなく、神が一方的に与えるのではなく、あなたが選ぶ出来事のように扱われます。「恵みを数えてください」という賛美が、恵みを出来事化・物化する方向に働く場合があります。恵みがキリストであることを理解しなくなるのです。なぜなら人間中心だからです。    聖書も、神の啓示ではなく「マニュアル」「教科書」にされます。聖霊は神ではなく体系になり、聖書は生ける神の語りではなく教材になります。    人間中心主義は、福音の神中心構造を人中心構造へすり替える宗教です。啓蒙主義は思想・認識論であり、「人はどう知るか」が中心です。啓蒙主義の主体は「理性を持つ人間」。それが宗教化すると、主体は「欲求し経験する人間」になり、神は相対化され、距離を置かれ、神は遠くにいる存在になります。信仰の中に「神が自分の内に生きておられる」という現実が失われます。   そして人間中心主義は、神を道具にします。神を神として恐れず、欲求実現のツールにします。これが人間中心主義です。   6. 西洋教会への影響(内側からの変質)   西洋のキリスト教会は、啓蒙主義と、その実践である人間中心主義宗教から極めて多くの影響を受けました。外側から攻撃されたのではなく、教会の内側の構造そのものを揺るがす影響です。福音の土台が崩される影響です。  啓蒙主義は、教会の権威、聖書理解、信仰のあり方を根本から再編しました。その結果、西洋の教会は、正統信仰を守った流れと、啓蒙主義を受け入れて変質した流れに分岐しています。すぐ分かる例があります。「先生、聖書は正しいですか」と聞いた時に、「聖書はちょっと間違いがあるんだよ。古代人が書いたから」と言うなら、それが啓蒙主義的再編です。   啓蒙主義が教会に突きつけた問いはこれです。     •        理性は啓示より上位に置けるか     •        伝統や権威は批判されてよいか     •        神の言葉は批判されてよいか     •        真理は神が語るものではなく、人が検証し判断するものか    LGBTの問題でも、この問いが教会に投げつけられています。「聖書は古代人が書いたものだから、現代文化の中で再検証し問い直さないといけない」という言い方は、神の権威を理性の裁判台に置いています。自由主義神学、ナラティブ神学、プログレッシブ神学などに、その構造が見えます。  7. 教会が受けた具体的影響   (1)聖書理解の変質   聖書を神の啓示ではなく歴史文書・宗教文献として分析する。奇跡や超自然を否定する。書いた人を研究対象にする。これは聖書の権威が人間理性の裁判台に置かれたということです。   (2)神理解の変質   神は存在するかもしれないが介入しない存在として語られる。その結果、教会がこの地に神の国を建設しなければならない、悪の支配から解放しなければならない、という形で、神が介入しないかのように語られることも起こります。   別の形では、伝統主義・律法主義に落ちる教会は、祈り・摂理・奇跡を否定し、聖霊の働きも否定します。聖書を霊的なものではなく道徳基準として扱い、立法主義になります。生きて働く神から抽象的原理へ移します。   (3)救済理解の変質   罪は道徳的未熟さ、救いは人格向上・倫理的改善。キリストは贖い主ではなく模範的人物。十字架の中心性が失われるためです。   (4)教会の役割の変質   教会が「救われて召し出された者の集まり」ではなく、「倫理的教育機関」「福祉団体」「NGO」のようになる。礼拝が道徳メッセージの場になる。神の業の場から人間形成の場へ変わります。   8. 二つの流れ(分岐)   教会には二つの流れがあります。1つは 啓蒙主義を受け入れた教会 (現代では自由主義神学等)。もう1つは啓蒙主義に抵抗し、 宗教改革の伝統を守る流れ (改革派・正統信仰)。    後者の特徴は、聖書の自己証明(聖書は神が書かれたもの)、神の主権、超自然的救済の現実です。超自然的救済とは、時の始まる前に神が選び、あなたが選んだのではなく神が選び、神があなたを変えていく、神が主体の働きだという現実です。    ここで重要な点があります。啓蒙主義は教会を外から破壊したのではありません。教会内部の「理性的・道徳的に整いたい欲求」と結びついて、内側から教会を変質させました。外見はキリスト教、用語も聖書的、しかし構造は人間中心、という偽装形態が生まれました。   9. 日本の教会が「啓蒙主義的福音構造」になった理由   日本には宗教改革の経験がありません。ヨーロッパは中世教会の堕落があり、聖書への回帰があり、その後に啓蒙主義が来ました。宗教改革があった後に啓蒙主義が出てきました。   しかし日本は宗教改革を経験していません。カトリック的神権政治も経験していません。日本にあったのは天皇制、封建制度、国粋主義、家制度です。そこに西洋近代化として啓蒙主義が一気に流入しました。   そして日本に入ってきた多くのプロテスタントは、明治以降、19世紀以降の欧米から来ていますが、すでに自由主義神学、リバイバル神学、道徳主義などの影響下で変質したものも多く含んでいました。結果として福音は倫理、信仰は決断、救いは人生改革、教会は教育機関・福祉団体になりました。啓蒙主義を通過した、人間中心主義的・加工済みのキリスト教が広がったのです。   さらに教育構造が追い打ちをかけました。神学が大学制度の中で「学問」になり、神学は宗教研究・思想史、聖書は研究対象、神は信仰対象ではなく概念になります。三位一体は説明されても信仰に結びつかない。多くの新学生は頭でっかちになり、証明が来ていない。砕かれていない。父・子・聖霊が主語にならないまま、空虚な福音が広がる。   そこに日本的文化適用が加わります。日本文化は「排他性を和らげる」「わかりやすく感じよく」「強い決断を避ける」。結果、罪は曖昧になり、裁きは沈黙し、選びは隠蔽され、救いは「選択」になります。    啓蒙主義+日本の和の文化=日本型人間中心福音、という構造になります。   啓蒙主義は理性中心、日本文化は空気・常識中心で相性が良い。「常識でしょ」「空気読みなさい」。普遍倫理と共通感覚の道徳。超自然を排除する傾向。どちらも神の主権を避けます。だから日本では神の主権、選び、裁き、排他性(選ばれた者だけが救われる)が強く嫌われます。   その結果、日本の教会の説教は個人の経験が中心になり、キリストとの結合が語られません。聖霊の働きも、体験演出か、逆に「もう終わった」とされるか、両極端になります。しかしどちらも誤りです。聖霊は今も働き、信者のうちに働き導いておられます。   10. 「神は愛である」だけが前面に出る危険   教会の入口に「神は愛である」と掲げるのは悪くない。しかしそれだけが前に出ると、「愛は神である」と誤認が起こります。本来は「神は聖である」「神は義である」「神は愛である」「神は知恵である」「神は力である」という秩序が必要です。人が慰めを欲するから「愛」だけが神の本体のように扱われ、人が聞きたいことだけが語られる。これは聖書が告げた通りです。人々は耳に心地よい教師を集めます。   福音は説明ではなく宣言です。多くの日本の教会は「分かってもらう」「納得してもらう」「共感を得る」ことを目指します。しかし福音は「述べ伝える」のであり、分かるか分からないかは神の証明にかかっています。知識量が救いではありません。福音は権威として告げられ、服従を伴います。   日本文化では宣言は暴力的支配に見えることがあります。しかし旧約の預言者は「神はこう言われる」と宣言し、彼らは殺されました。福音は耳が痛い反応を起こします。それは光が照らす時に起こる反応です。  11. 人間中心主義の最悪性(善意と愛の顔)   人間中心主義が最も危険なのは、悪としてではなく、善意と愛の顔をして現れるからです。     •        相手を傷つけないように     •        分かりやすくして     •        分かって納得してもらう     •        つまずかせないため   こうした善意が、神がなさった出来事を「人がどう受け取るか」へ変容させます。人の理解・経験・感情が中心になります。これは出エジプト記32章の金の子牛事件と同型です。    金の子牛は無神論ではありません。決定的なのは32章5節で、アロンが祭壇を築き「明日は主(ヤハウェ)の祭りである」と布告したことです。主の名を用いたまま、礼拝・祭り・熱心さを保ったまま、神の主権と現実の働きを人間の管理下に置きました。問題は誰が主導権を握っているかです。   人が扱える形、分かる形、安心できる形に神を変える。これが人間中心主義です。相手の感情に配慮して、扱える形に御言葉を変えた瞬間、それは御言葉ではなくなります。福音を破壊しています。 12. AIと啓蒙主義(人間中心主義への自動転落)   ここからAIの話に行きます。生成AI(ChatGPT、Google Gemini等)は意図的に神を否定しないことがあります。しかし設計思想の土台は啓蒙主義です。だからAIは「あなたに分かりやすいか」「あなたの感情を傷つけないか」「共感できるか」「納得できるか」「心理的に安全か」を最適化します。   その結果、AIは人間の理解・経験・感情を最終基準に置きやすい。神の主権や結合を言葉としては否定しなくても、構造として主語が人にすり替わります。   最初は「改革神学に忠実に」「人間中心主義を排除して」と入れると従うように見えます。しかし途中で回答が進むと、主語が神から人へすり替わることが起こります。構造的にそうなりやすいからです。識別できないと、それを正しい答えとして丸呑みします。  だからAIは「最悪性の善意による主語すり替え装置」になり得ます。 13. 出口:全的堕落と、救いの出発点   出口は全的堕落です。人間そのものの問題です。福音は一切妥協しない。「人は部分的ではなく全的に堕落している」。知性も感情も意思も宗教性も堕落し、善意すら堕落している。放っておけば人は必ず神を利用します。神を崇めるのではなく、道具にします。   本当の救いの出発点は、人間の可能性でも理解でも決断でもありません。「今日から良い人になります」などで救いは始まりません。救いは、人間の絶望的無力の告白から始まります。   主語は常に神。救いの源泉は永遠の結合(in Christ)。再生は神のみの業。信仰と悔い改めは神からの賜物です。   ここで初めて、恵みが恵みとして立ち、神が神として高くされ、キリストとの結合が救いの源泉として理解されます。   神は「人が受け入れられる範囲に合わせて」働くのではありません。神がご計画された通りに行われます。神は人間の理解度に従属しません。神が与えるのは逃げ道ではなく、恵みです。パウロの棘の箇所で主は言われました。「取り除かない。わたしの恵みはあなたに十分である。」 14. 最終まとめ   人間中心主義は神を否定する思想ではありません。神を肯定しながら、神を王座から降ろし、主語をすり替えます。説教の中で神と人がひっくり返る。善意と愛の顔をして、主語が神から人へ移動する。これが教会を内側から破壊し、福音を変質させます。   そして人間そのものが啓蒙主義者であり、人間中心主義者です。自分は違うと言うなら、自分の罪の性質を認めていない。人は「私」「私が」「私によって」「私のために」という王国を作ろうとする性質を持っています。   では私たちはどうすればよいのか。神に助けを求めるしかありません。この無限ループから自分で抜け出せないことを、神が悟らせます。   そこでパウロはコロサイ3章1–5節でこう言います。  「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右の座に着いておられます。…あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されているのです。…地上のもの、すなわち、みだらな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」   貪欲は偶像礼拝です。金の子牛の構造です。神が自分の思い通りに動かないから、人は扱える神を作る。だからAIを使うことも注意が必要です。   結論はこれです。   すべては神の栄光のために行う。 あなたがたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されている。上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右の座に着いておられます。

  • エペソ人への手紙2:16講解

    2025.12.21 豊川の家の教会 礼拝メッセージ エペソ2:6 「神はまた、キリスト・イエスにあって、 私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」 1. 主語は神 ― 結合の源泉 この節のすべての動詞は、神が主体で行われた完了の事実である。 •「キリストにあって」 •「ともによみがえらせ」 •「天上へ上らせ」 •「座らせ」 いずれも、結合(in Christ)という永遠の源泉から流れ出た神のわざ。 私たちが上がったのではなく、神がキリストに結んだゆえに、神が私たちを天上へキリストとともに引き上げ「座らせた」のである。 2. 「キリストにあって」—結合がすべてを説明する この聖句こそが、聖書の救済論を貫く中心軸である。 「キリストと共によみがえらせた」がなければなにもない。 復活は「領域の移行」 •死 → いのち •暗闇 → 光 •アダム → キリスト •この世 → 神の国 つまり、「キリストの復活なくして、天上に座る私たちの位置はありえない。」 天上の座は「復活のいのちに結ばれた者だけが信仰によって喜び受ける天上の生活」 3. 結合の順序 ジョン・マレーが強調し続けた中心真理: 永遠の結合→復活のいのち→支配の中にある位置 Union→resurrection life→position in the reign of Christ 源泉は永遠の結合。救いは、キリストの十字架と復活によって達成された。その救いは、神の召しと再生によって、私たちの現実となる。 エペソ2:6は、その実際の結果として「共に生かされ/共に座らされた」ことを語る。 4.「福音の中核」 十字架の御業 キリストは受肉され、 ベツレヘムに生まれ、神の御前において完全な義の生活を全うされた。 そして、時の中に来られ、ゴルゴダの丘で十字架にかかり、死なれた。 この死は、神が永遠において、私たちをキリストに結合しておられたがゆえに、私たちの死とされた。 キリストが死なれたとき、私たちもまた、キリストにあって死んだのである。 キリストは三日間墓に葬られた。それは、キリストが完全に死なれたという事実であり、同時に、私たちがキリストにあって完全に死んだという事実である。 なぜなら、神は私たちを永遠にキリストに結合しておられ、その結合に基づいて、時の中で私たちを呼び出し、再生によって新しいいのちに生かされたからである。 「キリストがよみがえられたゆえに、私たちもまた、キリストにあってよみがえらされた。」 この事実は、神がすでに確立しておられる現実であり、信仰者が試練と苦しみの中を歩むそのただ中で、神ご自身の照明によって明らかにされる事実である。 「キリストとの結合」において、神は私たちを再生させ、復活のいのちに生かし、私たちをキリストが座しておられる、御座のご支配の中へと招き入れられた。 私たちは、キリストとともに復活させられ、天上にあるキリストの支配のもとで生きる者とされたのである。 5. 「ともによみえがえる」とは、「天上と地上の二つの構造の真理」への道 天上と地上の二つの構造とは:信仰者が「地上の現実」と「永遠の天上の御座」で二重に同時に生きること わたしたちは外的には地上の現実を生きているが、その同一の私たちは、キリストにあって復活のいのちに生かされている。 その結果:二つの現実に同時に生きる 1)外側:地上の現実 → 苦難がある 外側の人は絶えず、苦しみがある、しかし、同一のわたしたちの中に。 2) 内側:天上の現実 → 勝利と確定した座にある 神が、復活のいのちによって、私たちを内側において生かしておられる。 天上のキリストの支配と地の歩みが同時に存在する。それが外なる人と内なる人の同時存在である。 3)もし、イエスの十字架の死と復活と自分が一体であるという照明がなければ: この2つの構造はなく、外側の困難のみがある 天上の御座は「意味不明な御言葉」 地上と天上を結ぶ線は存在しない すべて心は常に虚しく、そして、その虚しさを何かで埋めようともがくあなたがいる。 6. 神はキリストと私たちを結合し、ともに復活した。その御業は「結合の力」を示す中心点 「御座に座らせた」とは、私たちの生きる場所が、キリストの支配の中に移された。「キリストと共によみえがえる」はキリストの命によって生きるということ。 キリストとともに座る(キリストの支配) キリストとともによみがえる(キリストの命) 結合によって、信仰者は、キリストの命に生かされ、キリストの支配の中で守られる。 もし聖句にある「座る」を人間中心に読むと、この聖句は理解できない; 天に座るって何? なんのことわからない 実感がない 抽象的すぎる 心理的なこと しかしパウロはこう言う: ローマ6:10-11 "なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。" あなたはキリストに結ばれ、すでに復活のいのちに生かされている。それゆえ、あなたの天上の位置は心理的な妄想ではなく現実であり、あなたはキリストの支配の中で生きている。 7. 「キリストとともによみえがえる」そして「キリストともに天上に座る」 パウロの言葉は、福音のもっとも重要な箇所である。 •結合 •信仰者は外なる人、内なる人の二つの構造に生きる •復活の命をうけ •キリストの支配に生きる キリストの復活がなかったと言うなら、信仰はむなしく、福音は骨抜きとなる。私たちは、キリストから切り離されたまま天に座らされたのではなく、キリストに結ばれているがゆえに、キリストの御座とその支配のもとに置かれている。 よみがえりも、座ることも、永遠の結合に土台があり、そこから流れている。 独立した出来事ではなく源泉は結合、そこから恵みは流れている。ここに人間の努力・経験・感覚は一切無関係である。すべて神の恵み。 8. 感謝 — 二つの構造は「神の恵みの豊かさ」への引き上げ 最終的にパウロが語る目的は:「神の限りなく豊かな恵みを示すため」(エペソ2:7) あなたが日々の生活の中で、礼拝においてこの二つの構造は、恵みの豊かさの証明である。 地上では苦しむ しかし天上のキリストの支配の中に置かれた事実は永遠に変わらない これは、あなたは完全に神の手の中にあり、救いは聖霊により、キリストとの永遠の結合している。それは聖霊の証印で確証されているのである。 9. まとめ 永遠の結合は源泉であり、その源泉から二つの構造が流れている。その二つの構造は信仰者の心を慰め、この驚くべき神の恵みへの感謝へと導く。 ゆえに、地上の歩み、地上で喜ぶとき、涙するとき、苦しみのとき、いかなる状態にあっても、信仰者の位置はキリストの支配の下に確立されている。 「神のイスラエル」は神に叫ぶ; 新しい創造(ガラ6:15) 信仰による義 すなわち、キリストと結ばれ、選ばれている者はすべて叫ぶ;イザヤ書 12章2~5節 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。 その日、あなたがたは言う。主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。 御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。 「神のイスラエル」に主は答えられる。 イザヤ書 43章1~5節 "だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。 わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。" 神のイスラエルは叫ぶ; 私たちの神が褒めたたえられますように、栄光が限りなくとこしえにこの方にありますように! アーメン

  • 幼児洗礼の歴史的背景と現代的再考察(ウェストミンスター信仰告白補足資料)

    補足資料:幼児洗礼の歴史的背景と現代的再考察 結合中心救済論に基づく評価 (ウエストミンスター信仰告白はこちら) 豊川の家の教会長老 後藤愼二 本資料は、ウェストミンスター信仰告白における洗礼理解を補足するために、歴史的文脈(教会‐国家一体構造)と、救いの秩序(永遠の結合→時中の結合→再生→信仰→洗礼)の関係を整理したものである。 ここで示される内容は、救いの源泉をキリストとの結合に置く改革神学の中心線に立つ。洗礼は救いを生み出す儀式ではなく、すでに与えられた救いの外的証である。 1.序論 幼児洗礼が歴史においてどのように理解され、どのような社会的役割を担ってきたのか、また今日の教会においてどのように再評価すべきかを整理するものである。 幼児洗礼を単に「正しい/誤り」という二分法で扱うのではなく、救いの秩序とキリストとの結合(union with Christ) を中心に据え、その歴史的文脈と神学的根拠を区別しながら再構築することが目的である。 【永遠のうちにおけるキリストとの結合】 神がご自身の民をキリストに結びつけられたという救いの源泉である。この結合は人の意識経験には現れない。 救いは「人間が信じた瞬間に始まる」のではない。救いの源泉は 永遠のうちにおけるキリストとの結合にある。永遠の結合にあって神はご自分の民を選らばれた。 【時の流れの中「時中の結合」に現れる結合】 神は永遠においてキリストに結びつけられた者を、聖霊によって時の中で実在的にキリストへ結びつけ(時中の結合)、そのとき聖霊は心を新しく創造し、再生が生じる。 それは神の主権的働きによって、時の流れの中の1点において信仰者の魂を聖霊によってキリストに結び付け、その心を新たに生まれさせる。 ここで重要なのは、再生がキリストとの結合を生み出すのではなく、永遠における結合が、聖霊によって時の流れの中で現実となる出来事が「時中の結合」であるという点である。 時中の結合が起こるとき、聖霊は人の心を新しく創造し、再生が生じる。信仰と悔い改めは、この再生から生じる実である。 したがって、結合は永遠の時の始まる前にあり、そして時の流れの1点で現実となる。それは再生より前にあり、再生は結合の歴史的顕現であり、信仰と悔い改めは再生の実として生じる。洗礼はその外的証である。 永遠の結合 ↓ 時の中の結合(聖霊が歴史の一点で顕在化) ↓ 再生(聖霊の主権的創造) ↓ 信仰と悔い改め(再生の実) ↓ 洗礼(すでに与えられた救いの公の証) ↓ 教会における従順と聖化 洗礼は、救いを生み出す行為ではなく、すでに神が与えられた救いを示す外的証(sign & seal) である。 教会は、人間が自ら選択して集まる組織ではなく、神がご自身の民を呼び集められる共同体である。 2.幼児洗礼が必要とされた社会的背景 16〜18世紀の西欧では、教会・国家・社会が一体構造をなしていた。これは ローマ・カトリック教会の中世的キリスト教王国体制の産物である。 この体制では、洗礼は: ゆえに 信仰の有無にかかわらず、洗礼は「生存の前提条件」であった。 領域 機能 宗教 神の民としての共同体への所属 社会・法 戸籍・相続・婚姻・教育への公式登録 洗礼を受けない者は: · 教育 · 婚姻 · 財産 · 法的保護 · 共同体の庇護 からの 排除を受けた。したがって幼児洗礼は、信仰に関わらず 「生きるために必要」 であり、この制度は 大量の未再生者を教会に組み込む構造 を生んだ。 3. 改革者による神学的再定義 改革者(カルヴァンを含む)は、幼児洗礼が社会‐教会一体構造の中核に位置していたことを理解していたが、「洗礼=再生」というローマ・カトリック的理解を退け、洗礼を 「救いの印ではなく、救われた者に与えられる外的証印」 として再定義した。 3-1. カルヴァンが保持した神学的根拠は次の通りである。 1)契約は神の側から始まる一方的恵みの関係であり、選びの秩序に基づく。(創17章) 2) 洗礼は救いの原因ではなく、すでに与えられた恩恵の印である。(綱要 4.16) 3)再生は神が御心の時に単独で行われる。人は再生の時を決定できない。(綱要 4.16.17) ここで本研究において「契約(Covenant)」とは、神が永遠においてキリストに結びつけられた者に対して、一方的に恵みを与える関係的約束を指す。契約は家系・血統・共同体所属・領域的身分を意味しない。すなわち 契約は救いの因果ではなく、救いの言語的枠組みである。 3-2. (重要)長老派による後代的展開 後代の長老派神学(17–20世紀)は、カルヴァンの契約理解を 「契約共同体=領域」 として発展させた。 カルヴァン:契約 = 神が選んだ者に対する恵みの約束(外形は歴史的理由で保持) 長老派(後代):契約 = 共同体に属すること 子は共同体に生まれた時点で「契約領域」に含まれるとみなす この「契約=所属」の転換により、 洗礼は 再生の証 ではなく 「共同体に属する身分の標識」へと変質した。 本考察の結論 契約は神の側の関係であり、所属ではない。 再生は契約の枠組み内で、神が時に応じて単独で行う。 ゆえに、契約の継続性は再生前の洗礼を正当化しない。 契約(神の側) ↓ 再生(神の主権) ↓ 信仰 ↓ 告白 ↓ 洗礼(証) つまり:幼児洗礼は、救いの秩序の中には位置付けられない。 4. 改革者による神学的再定義 改革者(カルヴァンを含む)は、幼児洗礼がこの社会秩序の中核であったことを理解していたが、「洗礼=再生」というローマ的理解を拒否し、洗礼を「印と証印」として再定義した。 彼らが保持した神学的根拠は:神の契約は世代に及ぶ(創17 / 使徒2:39) すなわち、子は「福音が告げ知らされる領域(sphere of covenant nurture)」に含まれる。 本考察において「契約(Covenant)」とは、神が永遠においてキリストに結びつけられた者に対して、一方的に恵みを与えられるという神側の関係的約束を指す。契約は、家系・血統・共同体所属・領域的身分を意味しない。契約は救いを生む原因ではなく、救いを与える神のご計画を言語的に示す枠組みである。 しかしここで決定的に区別すべき点: · 契約は救いを生み出す原因ではないが、神が救いを届ける枠組みである。 · すなわち、再生は契約の外では起こらず、契約の内で聖霊により行われる。 · 再生は聖霊の主権的創造である ゆえに、契約の継続性は 再生前の洗礼を正当化しない。 歴史上で実際に同時に存在していた二層構造      二層構造 内容 評価 ① 神学的契約(一次・不変) 家庭と教会における福音の継承 有効に保持される ② 社会的共同体 (国家キリスト教モデル・二次) 洗礼=国民登録・生活保障 現代では完全に消滅 史実ではこの二つは「同列に同時並行」していた。現代において存続しているのは ①のみ。 したがって、②なき世界で①を根拠として幼児洗礼を保持すると: → 「洗礼=宗教的所属」 という誤認が生じ → 救いの秩序が曖昧化する危険 が高い。 5. 幼児洗礼理解の三者比較:カルヴァン/長老派/本考察 幼児洗礼をめぐる議論において同一の語彙(「契約」「子ども」「教会」)が用いられていても、その背後にある神学的構造は歴史的に異なる三つの体系へと分岐している。したがって、幼児洗礼の妥当性を検証するためには、これらの体系を明確に区別する必要がある。 項目 カルヴァン(16世紀) 長老派約共同体    モデル(17–20世紀) 本考察(結合中心救済論) 中心概念 「契約に含まれる」(comprehended in foedere) 「契約共同体に属する領域」(sphere of covenant nurture) 「永遠におけるキリストとの結合」 洗礼の性質 教会への外的導入印(社会‐教会一体構造下) 共同体身分と宗教的所属の標識へ変質 再生と信仰の後に与えられる公の証し 救いとの関係 洗礼は救いを生じない (明確に否定) 表面上は否定するが運用上は救いの前提化へ傾く 洗礼は救いの原因ではなく結果のみ 子どもの位置づけ 契約に含まれるが、再生の時は神の主権に委ねられる 領域内出生という事実により特別視される 誰が結合されているかは神が決め、人は判定できない 実践的帰結 外形保持は歴史的制約から生じた 共同体の形骸化・自動信者意識を生む危険 再生・信仰の現実性が保持される ここで用いられる「領域 (sphere)」はカルヴァンの語彙ではなく、後代長老派教育論において発展した表現である。 本研究は救済論の本体ではなく外形構造としての領域概念を退ける。 本比較から明らかなように、カルヴァンの幼児洗礼保持は、救済論の本体ではなく、当時の社会‐教会一体構造の維持に関わる外的要因に影響を受けていた。 しかし長老派は、この外形を神学的原理へと昇格させ、「契約=所属」の等式を形成したことにより、洗礼が救いと混同される危険構造を生み出した。 本考察は、カルヴァンが保持した救いの源泉としてのキリストとの結合と再生の主権性をそのまま継承しつつ、後代に付加された「領域・身分としての契約構造」を退ける立場に立つ。よって、幼児洗礼は救済論における神の側の働きと一致せず、救いの秩序上の必然性を持たない。 以上の比較を前提として、次に、幼児洗礼に対して最初に体系的に異議を唱えた再洗礼派(アナバプテスト)の主張を歴史的文脈の中で再検討する。 6.アナバプテスト(再洗礼派) アナバプテストは、ツヴィングリの聖書講義を共有した青年信徒らによって生まれた運動で、次の信念を持っていた: · 教会とは 信仰告白者の共同体 である · 洗礼は 信仰の告白の後に与えられる · 救いは国家でも教会制度でもなく、キリストから来る 国家が激しく迫害した理由 彼らの主張は、国家教会体系の根本を破壊するものだった: アナバプテストの主張 国家が受け取った意味 「信じる者のみが教会」 国民統治の崩壊 「幼児洗礼は無効」 国民籍管理制度の崩壊 「信仰は強制できない」 王権の宗教支配の否定 そのため、アナバプテストは: · 投獄 · 追放 · 財産没収 · 火刑 · 水死刑(例:フェリックス・マンツ, 1527) という徹底的な虐殺の対象となった。 彼らが遺した二つの実り 1. 信仰告白者の教会の確立 2. 信仰と良心の自由の再発見 ただし注意すべき歴史的変質 · 初期アナバプテスト:再生は神の御業であると理解 · 後期の一部:「信仰を人間の決断行為」とし 決心主義へ変質 → これは「主語が神から人へ移る」危険である。 7. 改革派とアナバプテストの接点 改革派が守った原理: 再生:神の主権的御業 信仰:再生の実 洗礼:信仰の結果としての証 教会:神が呼び集めた民 アナバプテストが守ろうとしたもの: 洗礼の形骸化を拒む純粋性 教会は信者の共同体であること 信仰は神と人の直接関係であること 両者が一致する中心軸は 「救いを生み出すのは神である」という一点である。 8.現代教会における正しい洗礼理解  今日、②の社会的共同体モデルは 完全に失われている。 よって洗礼は: 時中の結合 → 再生 → 信仰 → 告白 → 洗礼 という救いの秩序に従って与えられるべきである。 洗礼を 所属の印 に戻してはならない。 9.最終結論 RCスプロールは幼児洗礼を、救われているという印ではなく、福音の養育領域に置かれるという印と定義した。しかしその領域に置かれても、再生は聖霊の主権的働きによるものであり、領域と再生は決して同一ではない。 洗礼は、神がすでに与えた救いの公の証である。ゆえに神の御業である再生は 原因、信仰告白はその現れであり、洗礼は 外的な証である。教会は、形式ではなく、キリストとの結合に生きる者の共同体へ立ち返らなければならない。 教会とは、神がキリストにあって選び、神が呼び出し、神が保ち続けられる共同体である。 救いは、人が神に近づくのではなく、神が永遠においてキリストに結びつけられ、憐れみにと慈しみ、満足、喜びをもって選んだ者に時に応じてその救いを与えられた出来事である。 洗礼は救いの結果、その素晴らしい外形的な証であり、救われた者が歩む神への最初の従順である。 以上

  • 恵みの商品化

    2025.12.17 The Word for you 今からは「恵みの商品化」というテーマで、マタイの福音書10章7、8節、そして第一テモテ5章17、18節を読みます。 テーマは「恵みの商品化」です。 「行って、『天の御国が近づいた』と述べ伝えなさい。 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに侵された者をきよめ、 悪霊どもを追い出しなさい。 あなたがたは、ただで受けたのですから、ただで与えなさい。」 (マタイの福音書10章7~8節) 次に、第一テモテ5章17、18節。 「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。 みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。 聖書に『脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない』、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と言われているからです。」 (第一テモテ5章17~18節) このマタイ10章7、8節と第一テモテ5章17、18節。今日はこの部分を、文脈と神学構造を見ながら講解します。 1.マタイ10章の文脈と核心 まず、マタイ10章の文脈と核心を簡単に説明します。 このみことばは、十二弟子が派遣説教の中で語られています。彼らはイスラエルの失われた羊に派遣され、王国の接近の宣言を受けます。そしてその中に伴って、癒し、解放、清め、悪霊追放が起こっています。 ここでイエス様は、**神の国の到来を証明する「しるし」について語っています。イエス様はそのしるしについて、「ただで受けたのであるから、ただで与えよ」**と言っています。 このしるし、そしてこの贈り物は、真の救いが神の贈り物である、すなわち、神からの贈り物はフリーギフトであるということを意味しています。 ですから、「ただで受けた」「ただで与えよ」の意味は、こうなります。 2.「ただで受けた/ただで与えよ」の意味 イエス様は禁じられています。何を禁じているかと言ったら、神の恵みを対価取引に用いるな、ということです。 • 教会はビジネスではない • 恵みを商品化するな • しるしを努力や報酬の根拠にするな イエス様のこの「ただで受けた、ただで与えよ」という御命令は、 • 神の恵みは無償である。 • それは無償であり続け、誰も売ったりすることはできない。 という宣言です。 主語は神です。 • 癒すのは神であり • 生かすのは神であり • 清めるのは神であり • 悪霊を追い出すのは神である すべて神です。 そして遣わされている十二弟子は器であり、これらの力の所有者ではありません。恵みはすべて神からの贈り物である。マタイの福音書10章7、8節で、イエス様はそう言っています。 ですから、恵みは永遠にただです。無償です。そしてそれは売ることはできない。ここがポイントです。 3.第一テモテ5章17、18節との混同禁止 次に、第一テモテ5章17、18節。ここを見ていきます。 マタイの福音書10章7、8節と、第一テモテ5章17、18節を混同することはいけません。全く意味が違います。 では、なぜパウロはこう言うのか。 第一テモテ5章17、18節。 「聖書に『脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない』、 また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と言われているからです。」 マタイの福音書10章7、8節は、御国の宣言と、それに伴うしるしが神の恵みであるということを、イエス様が語っています。 奉仕者、いわゆる教会、またキリストの御言葉を伝える奉仕者の人々に対して、 「彼らの生活の支援や報酬のことを“ただ”にしなさい」と言っているのではありません。これはとても重要です。 マタイの福音書10章は最初にも言った通り、 • 「天の御国を述べ伝えなさい」 • その宣言の中で、癒される人、死人が生かされる、ツァラアトが清められる、悪霊が追い出される これらは全て、真理の宣言の後に、それを証明するために与えられているものです。これは一続きの派遣命令の中で語られています。 したがって、「恵みの贈り物」と言っている部分は、これを伝える人たちの • 生活費 • 労働報酬 にはかかっていません。 御国の宣言と、真理を証明するために与えられたしるし、すなわち、信仰と恵み、福音の構造にあるすべての救いが、無代価で、無償で与えられるということを言っています。 4.奉仕者の生活費と報酬は神の秩序 それでは、真の信仰者、奉仕者の生活費、労働報酬は、どのように言われているのか。それは神の秩序にあることがわかります。 なぜなら同じイエス様は、ルカの福音書10章7節でこう言います。 「働く者が報酬を受けるのは当然です。 その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。 働く者が報酬を受けるのは当然だからです。 家から家へと渡り歩いてはいけません。」 ここから分かるのは、マタイ10章8節、ルカ10章7節、そして第一テモテ5章17、18節。この意味に全く矛盾はありません。 • マタイ10章8節:教会はビジネスではない。恵みを売り物にするな。 • 第一テモテ5章17、18節:神の救いの秩序の中で福音を伝える者を支えなさい。それは教会の義務である。 この二つは、対象が全く違います。次元が違います。 5.人間中心主義という二つの歪み 恵みでなく、人間中心の思想と行いに、実はこの御言葉の二つは関係しています。 恵みではなく人間中心。それは、神の恵みが、人間の行為の業によって恵みとすり替えられるという現実が、教会の中で起こるということです。そして、そのとき恵みはもはや恵みではなくなる。 牧師が、「私は報酬は要りません」と言う。 自分の貧困の報酬美学、「私は貧乏だもん。神に仕えるという貧乏の報酬美学」のゆえに、彼は無償であるべきだと思う。 また、信仰者の人たちの中には、生活の貪欲から、「ただで得たんだから、ただで教えてくださいよ」と言う人たちがいます。 このような構造に立つとき、主語は神ではなく人に置き換えられて、結果として人間中心主義の構造になります。神の主権を無視して従わないということです。 結論から言うと、このような人々は、どちらも神が定めた秩序を否定しています。 もう一度言います。一方の牧師、御言葉を伝える側の人たちの中には、人間の徳、自分が作り上げた貧窮の中にある美意識によって自己を正当化する者がいる。もう一方の人々は、神の秩序を無視し、拒否し、「自分がお金を持っておきたいから、無償であるべきだ」という心を持っていく。それは、神が奉仕者に与えた権利を奪う。これが神が定めた秩序を破壊します。 一方は、教える側にいる自己義認の基準すり替え。もう一方は、アナニアのように、奉仕者の権利を自分の懐に納める人々。本当に僅かなものを納めるという行為がアナニアの命を奪いましたが、同じことが現代の教会の中に起こっている。 そのように、神の定めた秩序を自己義認に、偽りの信仰で上書きする。彼らは神の定めた秩序を拒否して、神の救いの恵みを人の行為にすり替えます。それは歪んでおり、歪んだ報酬を求めます。 6.「ただで受ける」と選び なぜなら、神は恵みを「ただで受けるもの」に与えると言います。それはすなわち、恵みを選ばれた者に与える、ということです。 人間中心主義のまま読むと、「ただで受ける」ということが、ただの一般論になります。しかし「ただで受ける」には、選ばれた者と、選ばれていない者の区別があります。 「ただで受けたもの」、すなわち、時の始まる前に選ばれた者たちは、ただで選ばれたことを知っています。 なぜなら、あなたの意思はそこに関係ないからです。あなたが何か努力したわけじゃないからです。あなたが祈ったからでもないんです。 あなたは、永遠の時の中でイエス・キリストと永遠に結合されている中で選ばれた。それだけです。 なので、「ただで受ける」の本質は、永遠の時の始まる前に自分が選ばれたということを悟るものです。しかし、選ばれていない者、すなわち、「私が頑張った」「私は強い信仰を持っている」そのような考えは、私が主体になります。 その私が主体の考えは、選ばれていない、もしくは迷っている。彼らは恵みを行いにすり替える。 7.マタイ6章:肉の行いは取引通貨になる マタイの福音書6章でこう言います。 「人に見せるために善行をしないように気をつけなさい。 そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。 ……彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」 ここで、人間主体、人間が主語となる見方と、選びの見方を見れば、肉の行いの本質が、「人からの報酬を先に受ける心」であるということがわかります。 人に見せるために、人からの報酬を受ける心。それは神から出たものではありません。行いは人の評価を動機にします。行いは、人からすでに受け取った評価報酬です。肉の行いは、行いを取引可能な通貨に変えています。 例えば、福音を伝えるときに、相手の人の感情を害さないだろうかと相手の気持ちを先に入れて、 「あの人に言ったら、お父さんが、傷つくから私は言わないようにする。でも言わなかったら傷つく。だからこう言おう」 こういう取引条件が発生します。 相手の感情を先に置く。それは、人に見せるために善行を行うことだ、ということです。非常にトリッキーですけど、これが起こります。 聖書が一貫して語る構造をもう一度理解すれば、 肉は、 • 行いを積む • 見返りを要求する • 誇ろうとする それは肉の性質、罪の性質そのもの。彼らは行いを売り買いする。これが肉。罪の性質です。 一方で、御霊による行いは、時の始まる前にあなたは選ばれたというところに立っています。神と永遠に結合している。それはあなたの行いによるということではない。そこに立ったとき、報酬は必要ありません。神に委ねる心があります。そして、あなたは何一つしていないので、栄光を神に返す。そのようなものとなっています。 8.第一テモテ5章17、18節は神の秩序として明示する 第一テモテ5章17、18節は、明確に神の秩序として明示しています。 • 長老の働き • みことばと教えの労苦 • それに対する報酬、尊敬 「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」なぜか。牛は食べながら脱穀をしているからです。それが牛に対する報酬です。 「働く者が報酬を受けるのは当然である。」これは、人間の根拠ではなく、神の御言葉そのままです。 にもかかわらず、「長老は無償であるべきだ」という考えを持つなら、それは神が命じた秩序を否定しています。自分が考える清さ、謙遜、理想像を神より上に置いている。それは偶像礼拝。その人は、神から人へすり替えて、偶像に居座っている。そういう状態です。 9.長老が恵みの贈り物を「行動美学」に転嫁する危険 長老が恵みの贈り物を自分の行動美学にしていると考えてみてください。 長老が、本当の永遠の結合から、再生、信仰、悔い改め、そして義認、聖化、栄化、これを、「私が貧困だとカッコいいじゃん」とか、「パウロもそういう決断をしたから私もそうしていいや」とか、そういう方向に使う。 そもそも、恵みそのものが贈り物です。神の力は売買できないという神の秩序。しかし長老が、牧者が、奉仕する者が、「いや、私たちは無償であるべきだ」と言った瞬間、神が与えてくださる恵みの贈り物を人間の行いにすり替える危険性がものすごく高まります。 パウロがガラテヤ6章で、献金または報酬を取らないと言っているのは、彼には別の意味があります。戦略的な福音戦略における態度です。しかしそれは、第一テモテ5章の趣旨とは違う目的で言っていることを知る必要があります。 神が与えてくださる恵みの贈り物を人間の誇りに変える。 「私の生活が正しい」「清いから」 「貧しさを見せる」 「私の犠牲」「自己犠牲」 こうして私が主語になる。 そしてそれは行いです。売り物となって人の報酬を受けます。「あの牧師さんは本当に素晴らしい人ですね」 と人から褒められる。それは報酬です。 これは神の恵みの贈り物を、人間の行為で売り物を作り上げて売る行為。行いによる義の積み上げ。典型的な行いによる自己義認、そのままです。 10.二つの自己義認:無償の誇り/貪欲の搾取 「誰も支えを受けない自分は霊的に優れている」と思う者。またアナニアのように、自分の欲によって「出したくないから自分のところに入れておこう」とする者。 この二人の姿はどちらも自己義認構造にあります。 「無償で奉仕する長老は清い」という前提が生まれるとどうなるか。 教会内には必然的に、 • 支えを受ける長老は霊的に劣る • 報酬を受け取るのは世俗的 • 無償=より聖い という偽りと序列化と比較と誇りが発生する。この思想は教会を内部から破壊します。 これはキリストの義ではありません。自分の在り方、犠牲、態度によって自分を正当化する偽りの構造。 パウロが最も強く否定した自己義認、行いによる義の一形態です。 11.恵みを「行いで得られるもの」に変えてはならない 神の恵みを、行いで得られるものへ変えてはいけない。恵みは神からの無償の贈り物。神ご自身が守り、神の主権に属する。 しかし、無償で奉仕をすると恵みはさらに増す、より良い、より清い、という発想にたどり着くと、恵みの純粋性を人間の行動で得ようとする構造に変えていきます。 これは事実上、信仰は恵みと主張しながら、その実は、「私の信仰は強い」「私には素晴らしい信仰がある」と自我自賛している偽りの信仰の構造になります。 「信仰は恵みだ」と主張しながら、「私には信仰がある」「私は聖書をよく知っている」こうなっていきます。 神の恵みは、人が正しく振る舞うか振る舞わないかで保つことはできない。神の恵みは無償です。 12.まとめ:恵みの商品化は教会を破壊する まとめます。 「長老は無償であるべきだ」という牧師側の主張や、信徒側のアナニアのような貪欲。この二人の思想は教会を破壊します。 なぜなら、神が定めた教会の秩序を退け、否定するからです。恵みの贈り物は、人の態度や犠牲、貪欲によってどうなるか。恵みの贈り物は消えます。代わりに、人が作った行為がそこに座ります。人が作ったものは売り買いの商品になっていく。 イエス様はこう言われた。「ただで受けたなら、ただで与えなさい。」 すなわち、恵みは、選ばれた者たちだけが受け取ることのできる命の水、対価なしに与えられるということを覚えてください。 そのような恵みの本質を、人間の行いと歪曲する。それは教会の中心、「主語は神」を神から人に置き換えることです。 恵みの贈り物、福音の救いの全工程を、人の美徳や人の貪欲の行為とすり替えていく。神の恵みを行為とすり替えて商品にする。 偽りの宗教の中で、あなたがたは多くの商品を見て買ってきました。しかしそれは、神が教会に置かれた奉仕者、真の福音を伝える者たちに対する秩序を破壊するので注意してください。それは自己義認です。教会にある福音の構造を内部から破壊する行為です。人間中心主義がどのようにして敬虔さの仮面をかぶるのか、ここにあります。 そして真の福音を伝える者を疲弊させ、困窮させます。信徒は行為を求め、恵みから目が遠くなる。そのような構造が教会内に広がります。恵みの贈り物は人間の作り物となるからです。 しかし神は、秩序を軽んじる教会を露呈させ、枯渇させ、裁きによって倒します。それは神がご自身の秩序を守るための処置です。 イエス様の命令は、御国の宣言と、それを証明するしるし、神の力は永遠に無償であり続けるという宣言。 そして福音の救いの全工程を、人間中心の行いの業にすり替えて、「恵み」という名で売り買いするな。これがイエス様の命令です。 13.命の水:黙示録22章1節 神の救いは、信仰を通して恵みにより、選ばれた人々のみに、代価なしに永遠に限りなく与えられるものです。それは永遠の結合を源泉としています。 黙示録22章1節でこう言います。 「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て――」 アーメンです。命の水は永遠に、神と子羊の御座から川のように流れ続ける。神はキリストと、私たちが永遠の結合の中にいる、その中において、御座から川が、命の川が流れ続ける。限りなく、永遠に、永遠に限りなく、御座から流れ続ける。 誰も自分が誇ることがないように。 その永遠の流れは、あなたが頑張ったからでも、あなたが行いをしたからでもない。ここに絶えず戻ったときに、恵みは、神の秩序は、神が定めた通りになります。 教会の責任、それは人間中心、罪の性質に対して、私たちが逃げることです。偽りの謙遜、美徳を見抜いて、信徒の偽りの思いを見抜いて、この肉の性質から絶えず、神の主権に逃げる。 パウロはその上でこう言います。 「私が伝えたいことは、こうです。 わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。 神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」 (第二コリント9章6~7節) 「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。」 (ガラテヤ6章6節) すべては、神が恵みによって人を自由にし、その自由の中で、御霊の自由の中で、喜びをもって、心から与える者として用いられる。 神の御心はいつもそうです。「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人とすべての良いものを分かち合いなさい」という言葉は、その現実を語っているみことばです。 神の恵みによって人を自由にし、その自由の中で私たちはそれぞれ、強いられてでもなく、嫌々ながらでもなく、心で決めたとおりに、良いものを分かち合っていく。それは、今後現れてくるすべての奉仕者に対して、私たちが持たなければいけない心です。 では、お祈りします。 祈り 愛する天のお父様、私たちのこのみことばに対する理解が、あなたの教えによって開かれたことを心から感謝します。私たちは心から思います。本当にみことばを教えてくれる人は、私たちにとってとても重要です。 そしてそれは、あなたが用い、私たちに与えてくださったことを感謝します。 そして、すべての良いものを分かち合うこと。今後現れてくるすべての奉仕者、この人たちとも、心からすべての良いものが分かち合えますように。決して人間中心主義の欺瞞に陥ることのないように。教会が破壊されることのないように。あなたが守ってください。 愛するイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

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