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  • 恵みの上にさらに恵み2

    2026.10.11 豊川の家の教会礼拝メッセージ すべての霊的祝福 エペソ1章3節で、パウロは父なる神をほめたたえます。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と語ります。ここでパウロは、信者がいつか十分に努力したなら祝福を受ける、と語っているのではありません。「祝福してくださいました」と、すでに与えられた神の御業として語っています。父なる神は、キリストにある者を、すべての霊的祝福をもって祝福してくださいました。 「すべて」という言葉は重要です。神は救いの一部分だけを与えられたのではありません。罪の赦しだけを与え、後は人間に任せられたのでもありません。救いを始める恵み、罪人をキリストへ召す恵み、義とする恵み、聖める恵み、守る恵み、復活させ、栄光へ入れる恵みまで、救いに必要なすべてを与えてくださいます。そして、そのすべては「キリストにあって」与えられます。父なる神は、キリストを離れて救いの恵みを配られるのではありません。すべての救いは御子のうちにあります。御霊が私たちをキリストに結び、キリストのものを私たちのものとしてくださいます。 「霊的祝福」とは、単に気分が平安になることや、生活が順調になることではありません。それは、父なる神が、御子キリストに結ばれた者に、御霊によって与えてくださる、選びから栄化までの救いの恵みすべてです。 3節が総題です。ここで4節は、「すなわち」という言葉から始まります。この「すなわち」は、3節で語られた「天上にあるすべての霊的祝福」と、4節以下を結びつける非常に重要な言葉です。3節でパウロは、まず救いの全体を一つにまとめて宣言しました。 「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。」 それでは、その「すべての霊的祝福」とは、具体的に何でしょうか。4節の「すなわち」から、その説明が始まるのです。ギリシャ語では「カソース(καθώς)」という言葉が使われています。この言葉は、単なる言い換えではなく、「そのことは、次のことに以下に示されている」という意味を持っています。したがって、3節と4節は、次のようにつながります。「神はキリストにあって、すべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。そのことは、次のことに以下に示されている、それは、神は世界の基が据えられる前から、キリストにあって私たちを選ばれたからです。」 3節が救いの祝福全体を示す総論であり、4節以下は、その祝福の具体的な内容を明らかにする各論です。その第一に挙げられるのが、世界の基が据えられる前の「選び」です。そして、神の子とする予定、御子の血による贖い、罪の赦し、御旨の奥義、御国の相続、聖霊による証印へと説明が続きます。したがって、「すなわち」は、「すべての霊的祝福とは選びだけである」という意味ではありません。そうではなく、4節の選びを出発点として、14節まで、すべての霊的祝福の内容が一つずつ展開されていくのです。しかも重要なのは、3節では「キリストにあって」、4節でも「この方にあって」と繰り返されていることです。永遠の選びから、歴史の中で成し遂げられた贖い、御霊による証印、そして将来の相続に至るまで、すべての祝福はキリストの外にはありません。私たちがキリストから離れて、それぞれの祝福を別々に受け取るのではありません。私たちはキリストに結ばれているので、キリストのうちに備えられたすべての霊的祝福を受けるのです。 ですから、4節の「カソス」は、3節の壮大な宣言を、神の永遠の御旨へと開いていく言葉です。すべての霊的祝福は、世界の基が据えられる前の、キリストにある選びに始まります。そして、その永遠の選びは、贖い、赦し、子とされること、聖霊の証印、相続、そして最終的な栄化に至るまで、一つの救いとして完成されます。 神は、私たちが信じた時に初めて救いを考え始められたのではありません。神は世界の基が据えられる前から、キリストにあって私たちを選び、キリストにあるすべての霊的祝福を与えることを定めておられたのです。そして4節から14節が、その内容です。パウロ自身が、「すべての霊的祝福」とは何かを、具体的に一つずつ示していきます。 時の始まる前からキリストにあって選ばれたこと 神の子と定められ 子とされたこと キリストの血による贖いと罪の赦し 神のみこころを知る恵み そして8節から9節は、神が恵みをあふれるばかりに与え、あらゆる知恵と理解をもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださったことを語ります。神は救いを成し遂げられただけではありません。その救いの御旨を、みことばによって私たちに知らせてくださいました。罪によって心も知性も暗くなった人間は、自分の知恵によって神の救いを見いだすことができません。しかし神は福音を語らせ、御霊によって私たちの心を照らし、キリストにある救いを悟らせてくださいます。 その御旨とは、時が満ちるに及んで、天にあるものも地にあるものも、すべてをキリストにあって一つに集めることです。救いの中心はキリストであり、歴史の中心もキリストです。これは御国の完成、すなわち万物がキリストをかしらとして統括され、キリストの王権が何の妨げもなく完全に現れることです。そして、この御国完成の奥義を知らされたこと自体が、神の民に与えられた「キリストにある霊的祝福」なのです。聖書を読むとき、キリストにある選び、贖い、召し、義認、聖化、堅忍、栄化という救いの全体が見えるようになったことは、自分の知性を誇る理由ではありません。神が御霊によって、みことばを通して、その救いの奥義を知らせてくださったからです。 キリストにあって相続を受けること 11節は、「この方にあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました」と語ります。父が、ご自身のみこころの計画に従って、すべてのことを働かせ、私たちを相続する者として定めてくださいました。神の子とされた者には、父からの相続があります。その相続は、地上の財産ではありません。罪と死から完全に解放され、復活のからだを与えられ、キリストの栄光にあずかり、永遠に神とともに住むことです。 この相続は、私たちが自分で獲得する報酬ではありません。キリストにあって与えられます。御子が相続者であり、御子に結ばれた者が御子とともに相続を受けます。選びは過去だけの恵みではなく、相続へ向かう恵みです。贖いは現在の赦しだけでなく、からだの贖いと栄光へ向かう恵みです。神の救いは、私たちを途中に置き去りにしません。父が定めた相続へ導きます。 約束の聖霊によって証印されたこと 13節は、真理のことば、救いの福音を聞き、キリストを信じた者が、約束の聖霊によって証印されたと語ります。 聖霊の証印は、神が私たちをご自身のものとしてくださったしるしです。父がキリストにあって選び、御子が血によって贖われた者に、御霊が住んでくださいます。御霊は、キリストが成し遂げた救いを私たちに適用されます。死んでいた心を生かし、福音を信じさせ、キリストに結び、父の子として歩ませます。御霊は、罪を悲しませ、悔い改めへ導き、みことばに従う願いを与え、キリストのかたちへと聖めてくださいます。 救いは、永遠において父が定め、歴史において御子が成し遂げ、御霊が一人ひとりに適用される神の御業です。御霊の証印によって、その救いが私たちのうちに現実のものとされます。 やがて栄光の相続を完全に受けること 14節は、聖霊が「私たちが御国を受け継ぐことの保証」であると語ります。保証とは、残りのすべてが必ず与えられることを確かにする、最初の賜物です。私たちはすでにキリストにあって救われ、御霊を受けています。しかし、まだ罪との戦いがあり、苦しみがあり、死があります。救いはすでに与えられていますが、その栄光はまだ完全には現れていません。 御霊は、やがて完全に受ける相続の保証です。キリストが再び来られるとき、死者は復活し、信者は栄光のからだを与えられ、罪から完全に解放されます。キリストの栄光を見、キリストに似る者とされます。エペソ1章のすべての霊的祝福は、創世前の選びから始まり、最後の栄光にまで及びます。3節が総題であり、4節から14節がその具体的内容です。すべての霊的祝福とは、父なる神が、御子キリストに結ばれた者に、御霊によって与えてくださる、選びから栄化までの救いの恵みすべてです。 ローマ8章27節から30節 選びから栄光までの神の御業 ローマ8章27節から30節は、エペソ1章で示された救いの全体が、神ご自身によって確実に完成されることを明らかにします。27節は、御霊が神のみこころに従って、聖徒たちのためにとりなしてくださると語ります。私たちは弱く、何をどう祈るべきか分からないことがあります。しかし御霊は、私たちを放置されません。父のみこころにかなうとりなしをしてくださいます。 救いの途上にある信者は、自分の力だけで栄光へ進むのではありません。御霊が住み、御霊が助け、御霊がとりなしてくださいます。エペソ1章の「約束の聖霊による証印」が、ローマ8章では、弱い聖徒のために働く御霊として現れています。28節は、神を愛する人たち、すなわち神のご計画に従って召された人たちのためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださると語ります。 この「益」は、人が願う地上の成功を意味するのではありません。29節がその内容を示します。神は、ご自身の民を御子のかたちと同じ姿にするために、あらかじめ定められました。神がすべてを働かせて与える益とは、キリストに似る者とされ、最後には栄光に至ることです。 1 あらかじめ知り あらかじめ定められた 29節は、神があらかじめ知っておられた人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたと語ります。 神の「あらかじめ知る」は、人間が将来信じることを遠くから予測した、というだけの意味ではありません。神があらかじめご自身の民を知り、愛し、御子に属する者として定められたことです。そして、その目的は明確です。御子のかたちと同じ姿にされることです。エペソ1章4節では、選ばれた者が御前で聖く、傷のない者とされます。ローマ8章29節では、定められた者が御子のかたちと同じ姿にされます。神の選びには、聖化と栄化という確かな目的があります。 父は、ご自身の民をキリストに結び、キリストの義、いのち、聖さ、復活、栄光にあずからせます。救いの全体は、キリストとの結合のうちにあります。 2 召し 義認 栄光 30節は、「神は、あらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」と語ります。ここでは、すべての動詞の主語が神です。神が定めます。神が召します。神が義とします。神が栄光を与えます。救いの初めから完成まで、神が主体です。 ここでいう召しは、福音のことばが外から聞こえただけで終わる召しではありません。神が御霊によって心を生かし、福音を信じさせ、キリストへ結びつける有効な召しです。なぜなら、ここで召された人々は、続いて義とされているからです。義認とは、キリストの義のゆえに、神が罪人を義と宣言してくださることです。私たちの行いが完全になったから義とされるのではありません。キリストが完全に従い、十字架で罪の刑罰を負い、復活されたからです。信仰によってキリストに結ばれた者は、キリストの義によって神に受け入れられます。 そして、義とされた者には栄光が与えられます。栄光化は将来完全に現れますが、パウロはすでに与えられたことのように語ります。神の御旨において確定しており、キリストの御業において保証され、御霊によって証印されているからです。定められた者と、召された者と、義とされた者と、栄光を与えられる者は、同じ神の民です。途中で神の民が失われるとは書かれていません。父が定め、御子が贖い、御霊が召した者を、神が栄光まで導かれます。 3 黄金の鎖と神による保証 改革派神学は、ローマ8章29節から30節のこの救いの連なりを「黄金の鎖」と呼んできました。黄金の鎖とは、人間が自分の力で握る鎖ではありません。神がご自身の民を、定めから召し、義認から栄光へと確実に導かれる救いの連なりです。 この保証は、罪の中にとどまってもよいという許可ではありません。神が定められた目的は、御子のかたちと同じ姿にされることです。真に召され、義とされた者には御霊が住み、罪との戦いが始まります。 信者はつまずくことがあります。しかし神は、みことばと御霊によって悔い改めへ戻し、キリストへ立ち返らせます。聖徒の堅忍とは、信者が自分の力で救いを維持することではありません。神が信者のうちに信仰と悔い改めを保ち、最後までキリストから離れないように守ってくださる恵みです。 エペソ1章が列挙したすべての霊的祝福は、ローマ8章において、神が始めから終わりまで完成される救いとして示されます。選びから栄化まで、すべてが神の御業です。 ヨハネ1章16節から17節 恵みの上にさらに恵み ヨハネ1章16節は、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」と語ります。 「この方」とは、肉となって私たちの間に住まわれた御子イエス・キリストです。救いの源泉は、私たちの心の中ではありません。私たちの決心、熱心、行い、経験でもありません。キリストの満ち満ちた豊かさです。キリストには、救いのすべてが満ちています。父の選びはキリストにあります。子とされる恵みはキリストにあります。贖いと罪の赦しはキリストの血にあります。神のみこころの奥義はキリストにおいて明らかにされます。相続はキリストにあります。御霊はキリストにある者を証印されます。召し、義認、聖化、堅忍、復活、栄化は、すべてキリストから与えられます。 したがって、「恵みの上にさらに恵み」とは、単に日々小さな助けが次々に与えられるということだけではありません。エペソ1章の「すべての霊的祝福」、ローマ8章の「定めから召し、義認、栄光まで」と一貫する、救いの全体構造です。世界の基が据えられる前の選びも恵みです。神の子とされることも恵みです。御子の血による贖いも恵みです。罪の赦しも恵みです。御霊による有効な召しも恵みです。義認も恵みです。聖化も恵みです。最後まで守られることも恵みです。復活と栄光も恵みです。 救いの始まりに恵みがあり、その後を人間の力が引き継ぐのではありません。初めから終わりまで恵みです。恵みの上に、さらに恵みです。選びから栄化まで、途切れることなく、キリストの満ち満ちた豊かさから受ける救いです。 1 キリストの満ち満ちた豊かさ 神の民は、キリストからすべてを受けます。キリストを離れて、選びの実現はありません。キリストを離れて、贖いも義認もありません。キリストを離れて、御霊の内住も聖化もありません。キリストを離れて、復活と栄光もありません。 反対に、キリストに結ばれた者は、キリストにある救いの全体にあずかります。神は、救いの恵みをキリストから切り離して与えません。御霊によって私たちをキリストに結び、キリストご自身とともに、そのうちにあるすべての霊的祝福を与えてくださいます。 私たちは、自分のうちの豊かさによって生きるのではありません。自分の信仰の強さ、自分の従順の完全さ、自分の感情の安定を源泉にしません。私たちはキリストの満ち満ちた豊かさから受けます。 罪を知るときには、キリストの贖いと義を受けます。弱いときには、御霊の助けを受けます。聖さを求めるときには、キリストのいのちから受けます。死に向かうときにも、復活されたキリストのいのちと栄光を受けます。 キリストの満ち満ちた豊かさは尽きません。神の民の救いに必要なものは、すべてキリストにあります。 2 恵みとまことはイエスキリストによって実現した 17節は、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」と語ります。 律法は神の聖さと義を示し、罪を明らかにし、来るべき救いを指し示しました。しかし、律法が指し示した救いのまこと、現実、実体は、イエス・キリストによって到来しました。キリストには、まことの贖いがあります。まことの罪の赦しがあります。まことの義があります。まことの神の子としての身分があります。まことの御霊のいのちがあります。まことの相続があります。まことの復活と栄光があります。私たちは宗教的な気分を受けたのではありません。生けるキリストに結ばれました。キリストのうちにある現実の救いを受けています。エペソ1章に示されたすべての霊的祝福も、ローマ8章に示された栄光までの救いも、キリストにおいて「まこと」となり、神の民に与えられます。 救いに必要なすべてはキリストのうちにあり、神は御霊によって私たちをキリストに結び、赦しと義と新しいいのちを与え、聖化し、栄光へと導かれます。この恵みを受ける神の民が、キリストのからだである教会です。教会は、かしらであるキリストからいのちと恵みを受け、その豊かさによって満たされます。        「恵みの上にさらに恵み」とは、救いの全体がキリストに満ちており、その全体を神の民がキリストから受けるということです。  そしてパウロはこう言います。「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」エペソ人への手紙 1章23節 一つの救いの全体構造 ここで、三つの聖句が語る一つの救いをまとめます。 エペソ1章3節から14節は、「すべての霊的祝福」の内容を示します。創世の前からキリストにあって選ばれたこと、神の子と定められたこと、キリストの血による贖いと罪の赦し、神のみこころを知る恵み、キリストにある相続、約束の聖霊による証印、そして栄光の相続の完成です。 ローマ8章27節から30節は、この救いが神の御業であることを示します。御霊がとりなし、父がすべてを働かせて御子のかたちへ導き、定めた者を召し、義とし、栄光を与えてくださいます。神が始めた救いを、神が完成されます。ヨハネ1章16節から17節は、この救いの全体を、神の民がキリストの満ち満ちた豊かさから「恵みの上にさらに恵み」として受けることを示します。 永遠において、父はキリストにあってご自身の民を選び、子と定められました。歴史において、御子は十字架と復活によって贖いを成し遂げました。御霊は、みことばを通して罪人を召し、キリストに結び、義とし、聖め、守ります。そして終末において、復活と栄光の相続が完全に現れます。 永遠の選び、歴史における贖い、御霊による適用、終末の栄化は、別々の救いではありません。キリストにある一つの救いです。その初めから終わりまでが、恵みの上にさらに恵みです。 この奥義を御霊によって照明される この救いの全体は、人間の知恵によって発見されたものではありません。神がみことばにおいて語り、御霊が心を照らしてくださるとき、私たちはキリストにある救いを悟ります。前には、救いを罪の赦しだけで考えていたかもしれません。前には、信じた後は自分の努力で救いを維持すると思っていたかもしれません。前には、自分の感情が平安なら神に愛され、心が乱れるなら神から離れたように考えていたかもしれません。 しかし、みことばは、救いの全体を見せます。父が世界の基が据えられる前から選ばれました。御子が血によって贖われました。御霊が召し、キリストに結び、証印してくださいました。神が義とし、聖め、守り、栄光まで導いてくださいます。このことが分かるとき、私たちは自分を誇りません。神に感謝します。救いのどこにも、自分を救い主とする場所がないからです。すべてが父の御心、御子の御業、御霊の働きです。 そして、心に深い平安と喜びが与えられます。その平安の根拠は、感情そのものではありません。父がキリストにあってすべての霊的祝福を与え、御霊によって証印し、栄光まで完成すると約束された、神の客観的な御業です。御霊は、聖書を越えた別の奥義を与えるのではありません。書かれたみことばを通して、キリストにある救いの奥義を明らかにし、それが自分に与えられた恵みであることを悟らせてくださいます。 真の信仰者の幸せ キリストにある者は、天上にあるすべての霊的祝福を受けています。 創世の前からキリストにあって選ばれました。神の子と定められました。キリストの血によって贖われ、罪を赦されました。神のみこころの奥義を知らされました。キリストにあって相続を受ける者とされました。約束の聖霊によって証印されました。そして、栄光の相続を完全に受ける日へ向かっています。 この救いは、神の御業です。御霊は、みことばを通して罪人を召し、キリストに結び、キリストの義にあずからせ、聖め、最後まで守ってくださいます。御霊は弱い私たちのためにとりなし、父はすべてを働かせて、私たちを御子のかたちへ導いてくださいます。そして私たちは、そのすべてをキリストの満ち満ちた豊かさから受けます。選びも恵みです。贖いも恵みです。召しも義認も恵みです。聖化も堅忍も恵みです。復活も栄光も恵みです。初めから終わりまで、恵みの上にさらに恵みです。試練の日には、自分の魂に語りましょう。私は今日の感情によって救われているのではない。父がキリストにあって、すべての霊的祝福を与えてくださった。御子が私を贖い、御霊が私を証印してくださった。神は私を召し、義とし、御子のかたちへ変え、栄光まで導いてくださる。 罪に倒れたときにも、キリストのもとへ帰りましょう。救いの源泉は、自分の完全さではありません。キリストの満ち満ちた豊かさです。そこから、恵みの上にさらに恵みを受けます。 ああ、主よ。私は幸せです。 私が強いからではありません。父がキリストにあって私を選び、御子が贖い、御霊が証印し、栄光まで守ってくださるからです。罪の中で死んでいた時、私には全くこの聖書に意味を理解することはありませんでした。しかし、主よ、あなたはみことばを通して、この奥義を照らしてくださいました。救いのすべてはキリストにあります。神の民は、すべてをキリストから受けます。 主よ、感謝します。救いを私たちにキリストに結び適用し、永遠に守ってくださることを感謝します。 アーメン。

  • 御霊によって主に従う

    2026.10.7  The Word for you 全てのキリストを信じる人々、真の信仰者には、霊的な葛藤、全て、生活の中において罪との葛藤があります。これを霊的な戦いと聖書は言います。霊的な戦いとは罪との葛藤のことです。そして、聖書は「御霊によって罪と戦って主に従う」ということを教えます。私たちは、小さなことから、霊的戦いに対して視点を持って戦っていきます。 【ルカの福音書 16章10節】 「最も小さな事に忠実な人は、大きな事にも忠実であり、最も小さな事に不忠実な人は、大きな事にも不忠実です。」 イエス様は、小さなことにも忠実であるように教えています。むしろ、小さなことに忠実であるように教えています。それは、私たちの日々の生活の中にある約束や、託された責任を軽く扱ってはならないと言っています。 私たちの日々の生活の中で、神様が私たちにみことばを通して語ってくださっていることを、軽く扱ってはいけません。ですから、すでに正しいと分かってることに、今日、今従うということが、問われています。先伸ばししたりせずに、今分かってること、明らかに目の前に示されてることに従いなさい。子供たちもそうです。約束を守る、嘘をつかない、自分の責任を果たす、間違えたらその間違いを認めて謝り、行動を改める。 信仰は、ただ礼拝に参加する、集会に行くだけではなく、こうした日々の具体的な行動に現れます。 どちらかというと私たちは、礼拝を重視して日々の行動を軽く扱うきらいがありますが、神様は礼拝を朝も昼も夜も行うように言います。それは、私たちの生活の中で神を礼拝するということです。ですから、ここで今言っていることは、社会常識だけではなくて、社会常識というのはどちらからと言うと1番守らなければいけない当たり前のことですが、イエス様は心の中を言っています。心の中の誠実さ、心の中の責任、そしてそれが実際に聖書にかなうことを実践する。 私たちはともすると、「誠実だとか約束を守ることによって救われる」というような、自分の得点にします。私たちが良いことをしたら、何か救われたような気分になったり、何か、「あ、これで正しいんだ」と思ったりしますが、それは、救われるための方法ではないということをもう1度言います。 神が私たちを救う。救いは絶えず神からです。御霊によって、新しい心を与えてくださる、その救いの実として、忠実な歩みが生まれます。 この「御霊によって」という言葉、「御霊に満たされる」「御霊によって歩く」「御霊によって祈る」、聖書には、多く「御霊によって」「御霊に満たされなさい」と書かれていますし、私も「御霊によって」ということをよく話しますが、この、「御霊によって」が分からない人がものすごく多くいます。多分キリスト教の信者ということを、信仰者ということを自称している人のほとんどが、「御霊によって歩く」「御霊に満たされる」という言葉を、具体的に、自分が自主的にそれを行うことができると理解してる人は少ないと思います。 むしろ「御霊に満たされる」と「満たされなさい」ということについて、いろいろな教えが世の中には出回っています。よくあるのは、集会の中で音楽を聞いて、その詩に感動し、その場で涙が出てきた、または、奇跡を体験したと、そういうことを「御霊によって満たされる」と理解して、それを求めるようになります。しかしそれは、「御霊によって満たされる」「御霊に満たされる」ということでしょうか?そして、それによってその信仰者は罪に打ち勝っていくのでしょうか? 聖書には「御霊によって罪に打ち勝つ」「御霊によって罪を殺す」という教義が、しっかりと言われています。「御霊によって歩くなら肉の行いを殺す」とも書いてあります。 しかし、そのように「御霊に満たされる」ということを理解せずに、先ほど言った違った方法で、「満たされる」ということを実践していくと、どうなってしまうのでしょうか。それを実践してる人たちは、その教えの集会に出ている時は確かに心に高揚を覚えて、確かに心の感動を覚えて、確かに涙が溢れて、確かに喜びが溢れますが、それはその時だけになっていくのではないでしょうか。そして、その結果として、そういうところで教えてもらう人たちは、代わりとして罪の告白を何回もさせられていきます。そして、罪を行ってることに対して「それはあなたの信仰が弱いから、祈り求めたら山も動く。だから、強い信仰をもらうように祈りなさい、断食しなさい。」または、「それは先祖の祟りだ」とか、「あなたが行った罪の呪いだから、それを断ち切らなければならない」という、方法に入っていきます。 しかし、最初に話している「御霊に満たされなさい」はどこかに行ってしまいます。「御霊に満たされなさい」は、集まり、皆で音楽を聞いて賛美し、その後に律法に従う強制、また悪霊と戦うという、違った意味での霊的戦いに招かれていきます。 パウロはこう言います。約束を守り誠実に行動し、責任を果たす。私たちは神によってキリストに結ばれて、御霊によって新しく造られると聖書は言います。キリストとの結びつき、結合が、新しい命と日々の歩みの土台です。神は罪を許すだけでなく罪に支配されていたものを、御霊によって罪と戦って、神に従って生きるものへと造り替えられます。 だから、礼拝に、集会に来た時だけ信仰者らしく振るまって、日常ではこの世の欲に従いながら、「信じているから救われる」と安堵する考えは、福音に反します。 聖書の言葉で罪を覆い隠して、悔い改めを覆い隠して、不要にしてしまう、そのような理解、考えは人をキリストには導きません。滅びに向かっている人に偽りの安心を与えていきます。偽りの救いを与えてしまいます。そしてその人は罪を手放すことを自分でしません。なぜならその人は、自分の力で律法を守ろうとするからです。なぜならその人は自分の罪の呪いでそれが自分に来ていると思ってるので、それを断ち切ろうとするからです。また、自分を正当化しようとします。 礼拝に出席するだけで御霊に満たされることはありません。その行為は御霊を悲しませます。礼拝で信仰者らしく振るまっても、不忠実です。それが消え去ることではありません。礼拝の出席や、礼拝に来て、皆の前で手を組んで、悔い改めの祈りをしたとしても、全くもって忠実な歩みの代わりにはなりません。御霊による神の支配は、そのようなものではなく、神の支配は、真の礼拝だけでなく、家庭にも仕事にも、また人との関係にも及びます。 問われるのは、罪を正当化して、それを、「まあいいや」「これぐらいいいだろう」と、それを正当化してその中に留まり続けているのか、それとも、罪を認めて悲しみ、キリストに頼り御霊によってその罪を殺そうとしてるのかというところにあります。 では、御霊によって罪と戦うとはどういうことですか? これは多くの信仰者が知りたいと思っているところです。「御霊によって罪と戦う」ということは、まず第1に御霊が私たちのうちにいなければなりません。神の御心に、自発的に喜んで従う心を、神は御霊を通して生み出します。そして、その喜んで従う心は、私たち自身が罪に従うことを拒みます。もう嫌だと。そして神に従って歩む選択をするのです。 「御霊によって罪と戦う」というのは、最初に御霊が私たちのうちにおられます。そして神の御心に、自発的に自分のうちから喜んで従う心を、御霊を通して神が生み出します。新しい創造と言われます。その御霊の働きによって私たち自身が罪に従うということをできなくします。罪に抵抗する心が私の内に与えられ、罪に従うということを拒み出します。今までは10円玉を拾ったら、あなたのポケットに入れていたのかもしれませんが、あなたの心はその10円玉をポケットに入れて持ち去ることができなくなっていきます。今までは平気でキセル乗車をしていたのに、キセル乗車をすることができなくなっていきます。そして、誠実に、神に従って悪いことをしないという道を選んでいきます。神は私たちのうちに働きます。そして、従う願いを起こし、実際に行うことができるようにしてくださいます。だから疑わずに従いなさいとパウロは言います。 【ピリピ人への手紙 2章13節】 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて、志を立てさせ、事を行わせてくださる方なのです。」 その働きによって信徒自身が従うことを願います。罪を拒ばんで、神の心を実践していく。自然にそれが起こるのではなく、あなたには、罪を拒む、憎むという心が与えられ、戦うという意思があります。そこに決して罪に従わない、神に従うという、「従う」という実践があなたの心の中に与えられ、あなたはそれに、体に鞭を打って従わせる。そのようにパウロは言います。 「御霊に頼る」とは、何もせずに、心が変わるのを待つということではありません。これは全く違います。勝手に変わっていくのではありません。あなたの生活の中で試練、苦しみがある。そこから、逃げずに留まり、あなたの罪と無力さを、神があなたに見せ、あなたがそれを認める時、その時にキリストに助けを求めます。その助けは絶えずあります。そしてその中において、すでに正しいと分かってる判断を、実践するというところにあなたは置かれていきます。 「従う心が与えられていないから、仕方がない」という言葉を言う人がいますが、罪を続ける言い訳をしてはいけません。それは罪を続ける言い訳です。自分の罪を認め、キリストに頼り、今自分が取らなければいけない正しい具体的な行動を神が示されているので、それを行わなければなりません。この構造をよく理解してください。自分の罪と無力さを認め、キリストに助けを求め、すでに神が与えた志を実践する。ここに、「御霊に満たされる」という教義の本質が、実はもうあります。 もう1度言いますが、「御霊に満たされる」ということを、集会に行って気持ちが高まること、良い出来事が起こること、夢が叶うこと、自分の生活が豊かになることと取り違えてはいけません。それは、全くの嘘です。聖書にはそんなこと1つも書いてありません。 神は、キリストに結ばれたものを、試練の中に導きます。荒野に必ず導きます。そしてその荒野を通して、御霊にあって、あなたの力を頼むこと、自分自身を神とする心を砕かれます。いいですか?何事も自分の願い通りになることを求めていたあなたが、自分の罪と無力さを認める、キリストだけを希望とする、神の御心に従うものへと造り替えられる。 御霊によって、自分が壊されていき、自分が神であったのに、御霊によって神のご支配があなたの心に広がります。これが御霊による聖化です。 神によって心が砕かれたかどうかというのは、あなたの感覚では判断できません。 「私は心が砕かれた」と言ったとしても、あなたの心が砕かれたかどうかは、あなたの判断、感覚ではありません。それはまた間違いです。ある人はこう言います、「私はこれほど砕かれたのにまだ罪をしてしまう。」はっきり言いますが、あなたは砕かれていません。だから罪をします。 御霊の働きは、自分を正当化することをやめます。罪を認めて、本当に悲しみます。キリストに絶えず頼り、実際に罪を拒ばみ、主に従います。その歩みが現れる時に、あなたの心が砕かれているということが証明されていきます。 試練を通して、自分の思い通りにしようとするその甘えた心が砕かれて、御霊によってキリストに頼るようにされる。御霊は、みことばによってキリストを見上げさせます。キリストの許しと恵みによって砕かれた心を、慰め癒して、神への信頼と平安を与えます。そして主に従う歩みを支えられます。聖徒はこの御霊の働きによって、自分を神とする思いを、自分を主とする思いを喜んで捨てます。そして日々自分の十字架を背負い、キリストに従います。 神はすべてのことを通して、この聖化の働きを、神ご自身が進めていきます。あなたではありません。「御霊に満たされて歩む」ということは、心にこのように現れる、悔い改めや、忠実な歩みから切り離すことはできません。 悔改めを子供に言うと、「ごめんなさい」と言うことで済ませることが多いです。子供の理解の悔い改めは、「ごめんなさい」です。しかし、それは悔い改めではありません。すいませんも、悔い改めでもありません。どうか私の罪を許してくださいも、悔改めでもありません。それは悔い改めではありません。聖書の言う悔い改めではありません。 自分が神に背く罪人であるということを認めていることです。犯かした罪を嘆き悲しみ、自己正当、自分が正しいという言い訳をやめ、ただキリストの許しと恵みだけを希望として罪から離れ、神に従うことです。いいですか?これが「御霊に満たされる」ということです。 御霊の支配の中、神のご支配の中に入っています。罪はその人の主人ではありません。罪の支配から神が主人となられる御霊の支配に入ります。罪の支配の下にはおらず、神の支配の下にいます。これが「御霊に満たされる」という神聖な教義です。 だから、あなたは、神があなたのうちに置いたその悔い改めの心をしっかりと見つめて、「神のみがあなたの救いである」ということを、あなたは見、仰いで、朝も昼も夜も絶えず、ずっとあなたの心は神を見続けていきます。自分が罪人でありながら、自分がこんなに汚いものでありながらあなたは神を見つづけていく。なぜなら、御霊の中にあなたがいて、御霊があなたと共に結ばれて、キリストを結んでるからです。これが「御霊によって満たされる」、「御霊によって歩く」なんです。 ですからこのような中において、約束を破ったらその事実を認めて謝ること、相手と相談して改めて約束を交わしてそれを守る。嘘をついたら、本当のことを話して、嘘を訂正する。果たすべき責任から逃げていたなら、その責任を引き受けて行動に移す。この部分だけ捉えてはいけないのです。これをここだけを捉えたら、単なる道徳になります。倫理行為だけです。良い人だけになってしまいます。そうではなく、これは結果です。御霊に満たされることの結果なのです。 だから、あなたたちが、なぜポルノを見て従ってしまうのか、その罪を悲しまないのか、悪い気持ちで教会に来るのか。なぜなら、それは「御霊によって満たされている」ということを理解してない。つまり神の御思いを、いまだにあなたは、自分は罪人であるということを、しっかりと見つめていないのです。もしあなたが御霊を持っていたら必ずあなたは見つめます。このように、「御霊によって罪を殺し」ます。御霊の実を結ぶ歩みが問われています。 【ローマ人への手紙 8章13節】 「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」 【ガラテヤ人への手紙 5章16節】 「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満たすことはありません。」 その実行は、人が罪に留まりたくない、キリストにのみ希望を置くという心、「御霊に満たされる」からスタートします。 真の信仰者はキリストの御霊を与えられているのです。 【ローマ人への手紙 8章9節】 「しかし、神の御霊があなたがたのうちに住んでいられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」 しかし御霊を持たないものはキリストのものではない。信仰者も御霊を悲しませます。肉の欲に負けて従うことがあります。しかしそれは常日頃ではありません。だからこそ信仰者に「御霊に満たされなさい」とパウロは命じています。御霊が与えられていることと、いつも御霊の支配に従って歩んでることは同じではありません。 真の信仰者、パウロ、ペテロにも御霊に逆らい不忠実になる時があります。神はその者を、みことばと試練によってくだいて悔い改め、キリストにより頼んで従うように導かれます。パウロはこう言いました。使徒の働きの中で、「私はもう自分の命が終わってしまうのか。そのような時にあいました。それは、神が私を、キリストのみに従って生きるものとするためでした」と言っています。ですから一時的な不忠実さだけで、あなたが新たに生まれていないということは誰にも断定することはできません。 しかし見るべきなのは、罪を全く犯さないという完全な状態ではありません。見るべきなのは、「罪を悲しみ、キリストに頼り、罪に従うことを拒んで、神に従う実」です。砕かれたかどうかは、あなたに判断できません。あなたに対し、神が最後に問うのは実です。 ですから、イエス様は時が来ると刈り取ります。多く実を持ったもの、実をつけたものは刈り取られて倉に入れられ、実をつけないものは刈り取られて火の中に放り投げられます。 ですから、私たちはそのように神の御霊を受けているのであれば、罪を悲しみ、キリストに頼り、罪に従うことを拒んで、神に従っていきましょう。その砕かれた心は、あなたのその砕かれた心あなたには分かりません。私はいつも砕かれてますと言う人がいますが、本当に砕かれた心は実を持ちます。そしてその心はいつも神の御前に出ています。朝も昼も夜もあなたの砕かれた心は神の御前に出て、そして立ち上り、神への素晴らしい生贄として神は受け取っています。 「御霊に満たされる」、「御霊によって歩く」、「御霊によって祈る」、これは、神が天から御霊を信仰者に注がれることを意味していません。あなたが御霊をください。御霊を注いでくださいと祈っても神はあなたには注ぎません。なぜならそのように構造はできてないからです。 最初に言いましたが、あなたがキリストの霊を持っていればあなたはキリストものです。あなたがキリストの御霊を持っていなければ、あなたはキリストのものではありません。それによって決まります。それだけです。人は新しく生まれなければ神の御国に入ることはできません。イエス様はそう言っています。 【ヨハネの福音書 3章3節】 「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」」 神の国とは、神の国に入るとは、それは神の国のご支配の中のことです。すなわち、神の御霊の支配の中にあります。 新たに生まれて、御霊を持つ者の結果として、御霊に満たされていく。そして、良い行いがついていく。キリストの十字架に共につけられて死に、キリストと共によみがえった者に与えられる栄光、キリストとの結びつき、結合にすべてがあります。そこが源泉です。それは神の御業です。あなたは何も貢献していません。 「御霊に満たされる」というのは、神の支配を喜び受け入れ、従うものです。 「御霊に満たされる」というのは、あなたは神に忠実であるか? あなたはポルノに忠実なのか?あなたは神に忠実なのか?神の支配を喜び受けるのか? あなたはゲームに忠実なのか?あなたは神の支配に忠実なのか? ですから、イエス様はこう言われました「悔い改めなさい」。 自分が罪人であるということを神が示してる時に抗がわないで、罪を悲しみなさいと言っています。キリストだけを希望としなさいと言っています。 そして御霊が与えてくださる願いは、あなたの力です。 志、今従えと言っています。小さなことに従いなさい、日々小さなことに従いなさい。 従いたいという気持ちがあなたのうちに湧いてきます。 無いというのは、御霊があなたのうちにないということですか?よく考えてください。 そして、やがて大きなことにも忠実になります。からしだねの話です。小さなからしだね、目にも見えないような。しかし大きな木になります。信仰はそのようなものです。 ですから皆さん、「御霊によって満たされる」「御霊によって歩く」「御霊によって祈る」「御霊によって賛美する」御霊によって、神の御国に入っています。

  • 恵みの上にさらに恵み1

    2026.10.4 豊川の家の教会礼拝メッセージ 父なる神は、御子キリストにあって、ご自身の民に救いの恵みのすべてを与えてくださいました。その救いは、世界の基が据えられる前の選びに始まり、キリストの血による贖い、罪の赦し、神の子とされること、御霊の証印、召し、義認を経て、最後の栄光にまで至ります。 父なる神がキリストにあって定め、御子が成し遂げ、御霊が適用し、栄光において完成される、一つの救いの全体を語っています。 救いの主語は神です。救いのすべてはキリストにあります。そして神の民は、御霊によってキリストに結ばれ、キリストのうちに満ちている救いの恵みをすべて受けます。これが本日のみことばの中心です。 すべての霊的祝福 エペソ1章3節で、パウロは父なる神をほめたたえます。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と語ります。 ここでパウロは、信者がいつか十分に努力したなら祝福を受ける、と語っているのではありません。「祝福してくださいました」と、すでに与えられた神の御業として語っています。父なる神は、キリストにある者を、すべての霊的祝福をもって祝福してくださいました。 「すべて」という言葉は重要です。神は救いの一部分だけを与えられたのではありません。罪の赦しだけを与え、後は人間に任せられたのでもありません。救いを始める恵み、罪人をキリストへ召す恵み、義とする恵み、聖める恵み、守る恵み、復活させ、栄光へ入れる恵みまで、救いに必要なすべてを与えてくださいます。 そして、そのすべては「キリストにあって」与えられます。父なる神は、キリストを離れて救いの恵みを配られるのではありません。すべての救いは御子のうちにあります。御霊が私たちをキリストに結び、キリストのものを私たちのものとしてくださいます。 「霊的祝福」とは、単に気分が平安になることや、生活が順調になることではありません。それは、父なる神が、御子キリストに結ばれた者に、御霊によって与えてくださる、選びから栄化までの救いの恵みすべてです。 ここで、3節の『キリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福』と、4節以下との関係が重要です。4節はギリシャ語で καθώς(カソース)から始まります。日本語では文脈に応じて『ちょうど〜のように』『〜したように』『実際』『というのも』などと訳されますが、ここでは単なる例示ではありません。3節で総括された『すべての霊的祝福』が、どのような神の御業として与えられているのかを、4節以下が具体的に展開していきます。つまり、4節の選びは3節とは別の話題ではなく、3節で宣言された祝福の具体的内容の第一歩です。NETの注解も、4節の καθώς が、父なる神がほめたたえられる理由を説明する働きをしていると指摘します。したがって、日本語で『すなわち』とだけ置くと、原文の関係を簡潔に示せる反面、καθώς が持つ『3節の宣言を4節以下で具体的に展開する』という流れを十分に表せません。より正確には、『神は私たちをあらゆる霊的祝福で祝福された。その具体的な現れとして、世界の基が据えられる前からキリストにあって私たちを選ばれた』という関係です。 しかも、エペソ1章3節から14節はギリシャ語では一続きの長い文です。3節が表題のように『すべての霊的祝福』を宣言し、4–6節では父の選びと子とされること、7–12節では御子による贖いと御心の奥義、13–14節では御霊の証印と相続の保証が展開されます。ですから、『すべての霊的祝福』を4節から14節の内容と結びつけるのは、後から神学的に並べたのではなく、文章そのものの構造に基づいています。4節の καθώς が3節と4節以下を接続し、さらに『キリストにあって』『この方にあって』という反復が全体を一つに束ねています。選び、贖い、赦し、相続、証印は別々の救いではありません。すべては父が主権的に定め、御子において与え、御霊によって確実に私たちのものとされる、一つの『キリストにある霊的祝福』なのです。 1 創世の前からキリストにあって選ばれたこと 4節は、「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び」と語ります。 救いの始まりは、人間が神を選んだことではありません。世界が造られる前に、父なる神がキリストにあってご自身の民を選ばれたことです。私たちが存在する前、私たちが何か善いことをする前、父はご自身の恵みの御心によって選ばれました。 この選びはキリストにある選びです。父は、御子から切り離して私たちを選ばれたのではありません。初めから、御子に結ばれる者として選び、御子のうちに救いのすべてを備えられました。 選びの目的も4節に示されています。「御前で聖く、傷のない者にしようとされた」のです。父は選んだ者を罪の中に放置されません。キリストの聖さにあずからせ、最後には御前で聖く、傷のない者として立たせてくださいます。 ですから選びは、救いの始まりだけではなく、救いの完成を含んでいます。父がキリストにあって選ばれた者を、御霊によって聖め、栄光へ導かれます。選びから栄化までが、一つの神の御業です。 2 神の子と定められ 子とされたこと 5節は、父なる神が、愛をもって、イエス・キリストによって私たちを神の子にするために、あらかじめ定めておられたと語ります。 救いとは、罪の刑罰を免れることだけではありません。神の子とされ、父の家に迎え入れられることです。御子イエス・キリストに結ばれる者は、御子にあって父の子とされます。 私たちは生まれながらに神の子であったのではありません。恵みによって子とされました。父がそう定め、御子が贖い、御霊が私たちのうちに住んで、父に向かって祈る者としてくださいます。 子とされた者は、神を遠い裁判官としてだけ知るのではありません。聖く義なる神を、キリストにあって父と呼びます。父の愛を受け、父の訓練を受け、父に祈り、父の相続を受ける者とされます。 これも、すべての霊的祝福の一つです。父なる神は、私たちを赦すだけでなく、ご自身の子として迎え入れてくださいました。 3 キリストの血による贖いと罪の赦し 7節は、「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています」と語ります。 永遠における父の選びは、歴史の中で御子の十字架によって成就しました。御子はまことの人となり、私たちの罪を負い、十字架で血を流してくださいました。その血によって、私たちは罪の支配と刑罰から贖い出されました。 罪の赦しは、神が罪を見なかったことにされたという意味ではありません。私たちが受けるべき刑罰を、キリストが代わって負われました。神の義は十字架において満たされました。そのため、キリストにある者は、本当に赦されています。 私たちは罪を軽く扱いません。御子の血が必要であったほど罪は深刻です。同時に、キリストの血を小さく扱いません。罪が深いからといって、キリストの贖いが足りないかのように絶望しません。 信者は罪を認め、悔い改め、キリストのもとへ帰ります。贖いと赦しは、自分の悔い改めの深さによって作り出すものではありません。神の豊かな恵みによって、キリストの血のゆえに与えられています。 4 神のみこころを知る恵み 8節から9節は、神が恵みをあふれるばかりに与え、あらゆる知恵と理解をもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださったことを語ります。 神は救いを成し遂げられただけではありません。その救いの御旨を、みことばによって私たちに知らせてくださいました。罪によって心も知性も暗くなった人間は、自分の知恵によって神の救いを見いだすことができません。しかし神は福音を語らせ、御霊によって私たちの心を照らし、キリストにある救いを悟らせてくださいます。 その御旨とは、時が満ちるに及んで、天にあるものも地にあるものも、すべてをキリストにあって一つに集めることです。救いの中心はキリストであり、歴史の中心もキリストです。これは御国の完成、すなわち万物がキリストをかしらとして統括され、キリストの王権が何の妨げもなく完全に現れることです。 そして、この御国完成の奥義を知らされたこと自体が、神の民に与えられた「キリストにある霊的祝福」なのです。聖書を読むとき、キリストにある選び、贖い、召し、義認、聖化、堅忍、栄化という救いの全体が見えるようになったことは、自分の知性を誇る理由ではありません。神が御霊によって、みことばを通して、その救いの奥義を知らせてくださったからです。 5 キリストにあって相続を受けること 11節は、「この方にあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました」と語ります。父が、ご自身のみこころの計画に従って、すべてのことを働かせ、私たちを相続する者として定めてくださいました。 神の子とされた者には、父からの相続があります。その相続は、地上の財産ではありません。罪と死から完全に解放され、復活のからだを与えられ、キリストの栄光にあずかり、永遠に神とともに住むことです。 この相続は、私たちが自分で獲得する報酬ではありません。キリストにあって与えられます。御子が相続者であり、御子に結ばれた者が御子とともに相続を受けます。 選びは過去だけの恵みではなく、相続へ向かう恵みです。贖いは現在の赦しだけでなく、からだの贖いと栄光へ向かう恵みです。神の救いは、私たちを途中に置き去りにしません。父が定めた相続へ導きます。 6 約束の聖霊によって証印されたこと 13節は、真理のことば、救いの福音を聞き、キリストを信じた者が、約束の聖霊によって証印されたと語ります。 聖霊の証印は、神が私たちをご自身のものとしてくださったしるしです。父がキリストにあって選び、御子が血によって贖われた者に、御霊が住んでくださいます。 御霊は、キリストが成し遂げた救いを私たちに適用されます。死んでいた心を生かし、福音を信じさせ、キリストに結び、父の子として歩ませます。御霊は、罪を悲しませ、悔い改めへ導き、みことばに従う願いを与え、キリストのかたちへと聖めてくださいます。 救いは、永遠において父が定め、歴史において御子が成し遂げ、御霊が一人ひとりに適用される神の御業です。御霊の証印によって、その救いが私たちのうちに現実のものとされます。 7 やがて栄光の相続を完全に受けること 14節は、聖霊が「私たちが御国を受け継ぐことの保証」であると語ります。保証とは、残りのすべてが必ず与えられることを確かにする、最初の賜物です。 私たちはすでにキリストにあって救われ、御霊を受けています。しかし、まだ罪との戦いがあり、苦しみがあり、死があります。救いはすでに与えられていますが、その栄光はまだ完全には現れていません。 御霊は、やがて完全に受ける相続の保証です。キリストが再び来られるとき、死者は復活し、信者は栄光のからだを与えられ、罪から完全に解放されます。キリストの栄光を見、キリストに似る者とされます。 エペソ1章のすべての霊的祝福は、創世前の選びから始まり、最後の栄光にまで及びます。3節が総題であり、4節から14節がその具体的内容です。 すべての霊的祝福とは、父なる神が、御子キリストに結ばれた者に、御霊によって与えてくださる、選びから栄化までの救いの恵みすべてです。

  • 御霊による祈り

    2026.10.2 The Word for you 祈るとは、砕かれた心そのものを神の前に差し出すことである。 「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51:17) 祈りとは、自分を飾って神の前に立つことではない。 言い訳をしない。自分をよく見せようとしない。自分の義に逃げない。 自分が何者でもなく、本当に弱く、醜く、惨めな罪人であることを覚えながら、その心をそのまま神の前に持っていく。 「私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。」(詩篇51:3) 祈りとは、自分の中に神の前に差し出せる何かを探すことではない。 自分には何の義もない。自分自身の中には、神の前に立つ資格も、救いを生み出す力もない。 だから、自分の正しさではなく、ただ神の憐れみにすがる。 「私たちが願いを御前にささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。」(ダニエル9:18) 神は人を試練の中に置き、自分への信頼を砕かれる。 自分を信じることをやめる。自分の善を頼ることをやめる。自分の努力によって神の前に立とうとすることをやめる。 自分の中をどれだけ探しても、神の前に差し出すことのできる義はない。 そこで、人は自分に絶望する。 しかし、その絶望で終わるのではない。 自分への絶望の中で、キリストへの望みが現れる。 自分には義がない。しかし、キリストが私の義である。 自分には望みがない。しかし、キリストが私の望みである。 自分には何もない。しかし、キリストにはすべてがある。 自分への望みは死んでいく。その中で、キリストへの望みが明らかになる。 自分への信頼は砕かれていく。その中で、キリストへの信頼が立ち上がる。 「私はできる」という希望が失われ、「キリストがすべてである」という希望だけが残っていく。 これが、砕かれるということである。 砕かれた心とは、ただ自分の惨めさを見つめ続ける心ではない。自分の惨めさを知らされ、そのためにますますキリストを必要とし、キリストを見上げる心である。 私は惨めだ。だから絶望だ。 ではない。 私は惨めだ。だから、キリストしかいない。 私は罪深い。だから、神の憐れみなしには生きられない。 私は何者でもない。だから、キリストが私のすべてである。 ここに福音がある。 だから、祈りの底に流れている言葉は、結局これである。 「天のお父さま、どうか私を憐れんでください。」 これは三十秒で言葉を述べて終わることではない。 朝も、昼も、夜も、自分の罪深さと弱さを覚えながら、何度でも神の前に帰っていく。 自分を整えてから神の前に行くことを、神は求めておられない。 むしろ、自分を整え、それを自分の義として神の前に持って行こうとすることを、神は嫌われ、そのような義を受け入れることはない。 砕かれたまま、弱いまま、汚れたまま、何も持たないまま神の前に出る。 そして、自分ではなく、ただキリストを見る。 自分の義を捨て、自分への信頼を捨て、ただキリストだけを見上げ、神の憐れみを求め続ける。 祈りとは、自分の惨めさから逃げることではない。 自分の惨めさを知りながら、その惨めな自分を抱えたまま、キリストへ行くことである。 そして、キリストにあって神の御顔を求める。 「あなたは言われました。『わたしの顔を慕い求めよ』と。主よ、あなたの御顔を私は慕い求めます。」(詩篇27:8) 祈りとは、神から何かを得ることだけではない。 祈りとは、キリストにあって神の御顔を求め、その御顔を仰ぎ続けることである。 自分に絶望し、ただキリストを見上げ、神の御顔を求め、その御顔を仰ぎながら生きる。 これが、御霊による祈りである。 この祈りの心を、自分自身の心として知っている者。 自分の義に絶望し、ただキリストに逃れ、神の憐れみを求めずにはいられない者。 そこには、生まれながらの人にはない、新しい心、新しい創造の働きが現れている。 新生とは、「私は大丈夫だ」と思えるようになることではない。 むしろ、自分には何もないことを知らされ、自分の義も、自分の力も、自分への信頼も砕かれ、その中でキリストがすべてとなることである。 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Ⅱコリント5:17) ここで大切なのは、「自分に絶望する」ことで終わらないことである。 自分への絶望だけで終わるなら、それは福音ではない。 自分への絶望は、キリストへの望みへと向かう。 「私は惨めだ。だから、もう望みはない。」 ではない。 「私は惨めだ。だから、キリストしかいない。」 「私には義がない。だから、キリストが私の義である。」 「私には望みがない。だから、キリストが私の望みである。」 「私には何もない。だから、キリストが私のすべてである。」 これが福音である。 自分への望みが砕かれるほど、キリストへの望みが明らかになる。 自分への信頼が失われるほど、キリストだけを頼るようになる。 自分の惨めさを深く知らされながら、それでも絶望の中に沈み込むのではなく、その惨めな自分を抱えたまま、ただキリストへ行く。 砕かれた心とは、自分の罪を見つめ続ける心ではない。 自分の罪を知らされ、そのためにますますキリストを必要とし、キリストを見上げる心である。 私は惨めだ。 しかし、キリストがいる。 私は何者でもない。 しかし、キリストが私のすべてである。 ここに、新しく生まれた者の心がある。

  • 黙示録8章から11章 七つのラッパと裁きの警告

    2026.9.27 豊川の家の教会礼拝メッセージ 黙示録8章から11章 七つのラッパと裁きの警告 神は永遠の御心によって、万物をキリストにあって一つに集める御国の完成を定められました。その御心が、キリストの初臨によって歴史の中で実行に移され、再臨と審判を経て永遠の御国の完成に至ります。これを行っておられるのは、御座におられる神と小羊です。そして、この歴史のただ中で神はご自身の民を御霊によってキリストに結び、キリストの証人として立たせ続けられます。黙示録8章から11章は、世への警告的裁きだけでなく、その裁きと苦難のただ中で最後まで証しする神の民を描いています。 同じ歴史をもう一度見る 4章でヨハネがまず見たのは天の御座です。 5章では屠られた小羊が御座におられる方から巻物を受け取ります。十字架で勝利し、復活された小羊が、その封印を解くにふさわしい方です。 6章では封印が解かれ、地上に戦争、飢饉、死、迫害が現れます。その歴史を開いておられるのは小羊です。 7章には神の民が御座と小羊の前に立ち、涙をぬぐわれる姿が示されます。神が永遠に定められた御国の完成へ、歴史は進んでいます。 4章から7章と8章から11章は、御座から支配される同じ歴史を、封印とラッパという二つの巡回によって示します。どちらも六つの裁きの後に神の民を扱う挿入部があり、終末へ進みます。封印では小羊が歴史を開き、教会は迫害や災いを通ります(6章)。ラッパでは、教会を迫害する世に神が下される応報と、悔い改めを求める警告が示されます(8章から9章)。第六の封印は御怒りの大いなる日に至り(6章12節から17節)、第七のラッパは死者の審判と神のしもべへの報いに至ります(11章15節から18節)。天で起こる封印と地上のラッパは別々の出来事ではありません。御座におられる神と小羊は、キリストの初臨から再臨と審判に至る歴史を治め、永遠の御国を完成されます。 8章1節から5節 静けさ、祈り、祭壇の火 「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」(黙示録8章4節) 第七の封印が解かれると天が静まり、七人の御使いがラッパを与えられます(8章1節から2節)。静けさには神の臨在と裁きを前にする畏れが響きます(ハバクク2章20節、ゼパニヤ1章7節)。聖徒の祈りが香とともに神の前に上った後、祭壇の火が地へ投げられます(8章3節から5節)。これは、神が迫害される民の訴えを聞き、地上に裁きを下されることを示します。私たちの祈りが神を動かす独立の力なのではありません。屠られた小羊に結ばれ、キリストの執り成しに支えられた祈りを、御座の神が受けてくださるのです(ローマ8章34節)。 6章9節から11節では殺された聖徒が「いつまで」と叫びます。8章ではその祈りが御座の前に上り、祭壇からの火が地に下ります。このつながりによって、七つのラッパは迫害する世への神の応報であると分かります。9章20節から21節が人々の悔い改めない姿を示すので、裁きには悔い改めを求める警告も含まれます。 聖徒の祈りは香とともに御座の前に上ります。十字架で贖いを成し遂げ、今も執り成しておられるキリストに結ばれた者として、教会は神に祈ります。その祈りを聞かれる主が、地上の歴史も治めておられます。 8章6節から13節 四つのラッパと出エジプトの災い 第一のラッパ。雹と火が血を交えて地に投げられ、木と草が焼かれます(8章7節)。出エジプト9章23節から25節では雹と火がエジプトの地を打ちました。この幻の「地」は人間が生き、食物を得る陸地です。「地に投げられた」という向きも、裁きが御座の神の支配の下で地に及ぶことを示します。したがって第一のラッパは、キリストの初臨から再臨・審判に至るまで陸地に生じる破壊や生活の損失を、神が迫害する世に与える限定的な裁きと警告として描きます。草木そのものを「ある国」や「ある思想」と特定する必要はありません。 第二のラッパ。燃える大きな山の「ようなもの」が海に投げられ、海の生き物と船が損なわれます(8章8節から9節)。「ようなもの」とあるため、実際の山の幻ではありません。山が海へ移る姿は大きな動揺を思わせます(詩篇46篇2節)。ここで損なわれるのは海と船です。第一のラッパが陸であったのに対し、第二は航海、船、人命を含む海上の損失を表します。海も神の支配を離れた安全な場所ではなく、神が世に警告を与える領域となります。 第三のラッパ。松明(たいまつ)のような星が川と水源に落ち、水が苦よもぎとなって多くの人が死にます(8章10節から11節)。星が「天から落ちる」姿は、ここでも地上の水が神の裁きの下に置かれることを示します。苦よもぎは苦しみを表す旧約の言葉です(哀歌3章19節)。第一が陸、第二が海であるのに対し、第三は飲み水を含む内陸の水を打ちます。命を支える水が苦しみと死をもたらすものに変わる幻によって、キリストの初臨から再臨・審判に至るまで水にかかわる災厄さえ世への警告として用いられることを示します。 第四のラッパ。太陽、月、星の三分の一が打たれ、昼も夜も光が失われます(8章12節)。出エジプト10章21節から23節にはエジプトへの暗闇の災いが記されています。第四の幻は、地、海、飲み水の次に、人の生活を照らす天の光にまで裁きが及ぶことを示します。この幻は、天体の働きが異常になって地上の生活に害が及ぶ事柄まで含めて、神の警告を示します。四つの幻を合わせれば、神に逆らう世が陸にも海にも水にも空にも宇宙にも、御座から離れた逃れ場を持たないことが見えてきます。 これら四つのラッパは、人々の地上の生活に及ぶ裁きを示します。木々の三分の一、海と水の三分の一、天の光の三分の一という表現は、被害が最終審判の全面的なものにはまだ至っていないことを示します(8章7節から12節、16章1節から9節参照)。エジプトの災いが神の民を圧迫する権力への裁きであったように、ここにも教会を迫害する世への応報があります。9章20節から21節によれば、災いを生き残った人々は悔い改めません。この記述から、ラッパには世に立ち返りを求める警告の意味もあると分かります。 神の民も災害によって傷つき、命を失うことがあります。7章で神のしもべに印が押され、9章4節では印のない人々がいなごの害を受けると区別されます。一方、6章9節から11節には殺された聖徒が現れ、11章7節でも証人が殺されます。この二つを併せて読むと、印による守りは地上での無傷ではなく、小羊に属する者が神の裁きによって最終的に滅ぼされないことを指します。 「悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということをせず」(黙示録9章20節) 9章 底知れぬ所のいなごと解き放たれる騎兵 第五のラッパ。天から落ちた星に底知れぬ所の鍵が与えられ、煙といなごが上ります(9章1節から3節)。星をサタンと読む根拠は、サタンが天から落ちると語られたルカ10章18節との対応です。底知れぬ所を悪霊が恐れたルカ8章31節も背景です。煙が日と空を暗くする幻は、悪の欺きと霊的な暗闇が人を覆う姿を表します。 いなごは出エジプト10章やヨエル2章の災いを思わせますが、草木を食べず、神の印のない人々を苦しめます(9章4節から5節)。この本文上の違いにより、いなごを通常の虫害でなく、悪の勢力が不信仰な人々の心と生活にもたらす恐怖と苦悩として読みます。王の名が「滅ぼす者」であることも、この意味を確かめます(9章11節)。 ある人々はこのいなごを旧約聖書のヨエル書を誤って解釈し、自らをヨエルの軍隊と呼びます。彼らは聖霊が注がれた信仰者たちが終末において福音を伝えて世界規模のリバイバルを起こす。それが自分たちであると主張します。しかし、神がヨエル書を通して語ることは全く違います。いなごの軍隊は神の裁きです。神はいなごを裁きとして用います。そしてイスラエルに悔い改めを求めます。神に立ち返ることを求めるのです。この構造は9章でも同じように語られます。 第一から第四は地上の生活を打ちました。第五では世の内側にある霊的苦悩が示されます。しかし鍵は「与えられ」、期間は五か月に限られます。サタンも御座の神から独立して働けません。 第六のラッパ。金の祭壇の角から声が出て、ユーフラテスにつながれた四人の御使いが解かれ、巨大な騎兵が現れます(9章13節から16節)。祭壇の声は8章3節から5節でささげられた聖徒の祈りへの神の応答とつながります。ユーフラテスは、神の民を脅かしたアッシリアやバビロンの方角を思わせます(イザヤ8章7節から8節、エレミヤ46章10節)。馬の口から火、煙、硫黄が出る戦場の幻は、個別の国や兵器を当てるためではなく、人を殺す戦争の力を描くものです(9章17節から18節)。「二億」という数も軍勢の途方もない規模を示します。ここにはキリストの初臨から再臨・審判に至るまで繰り返される戦争、とりわけ終わりに向けて激しくなる戦争が描かれています。封印では、神の民も世とともに通る苦難として戦争が現れます。ラッパでは、戦争は迫害する世に対する裁きと悔い改めを求める警告として示されます。四人が神の定めた時刻までつながれていたことは(9章15節)、その恐るべき出来事も御座の支配の外にはないことを示します。 「神の奥義は、神がご自分のしもべである預言者たちに告げたとおりに実現する。」(黙示録10章7節) 9章20節から21節では、災いを生き残った人々が偶像礼拝と罪を悔い改めません。ここが第五、第六のラッパの意味を確かめる結びです。悪の力に苦しめられ、戦争で多くの人が殺されても、世はなお神に立ち返らない。しかし、そこで神の証しが終わるのではありません。10章ではヨハネが御言葉を受けて「もう一度預言しなければならない」と命じられ、11章では二人の証人が粗布を着て証しします。裁きの歴史のただ中で、神は御霊によってご自身の民を立たせ、キリストを証しさせ続けられるのです。 「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。」(黙示録11章15節) 10章 巻物を食べて、再び語る 第六と第七のラッパの間に、ヨハネは小さな巻物を受け取り、食べます。力強い御使いの姿にはダニエル10章5節から6節、巻物を食べてから神の言葉を語る使命にはエゼキエル2章から3章が響きます。巻物は口には蜜のように甘く、腹には苦くなります(10章9節から10節)。神の御言葉は救いの喜びであると同時に、罪を告発し、迫害する世に向かって語らなければならない証言でもあります。証人の務めは、人間的な成功や楽な人生を意味しません。御言葉を受け、その御言葉に生かされ、その御言葉ゆえに苦しみながらも語り続ける務めです。七つの雷の言葉は封じられます(10章4節)。知らされていないことが残る一方、第七のラッパの時に神の奥義が完成することは告げられます(10章7節)。そしてヨハネは「多くの民族、国民、言語、王たちについて、もう一度預言しなければならない」と命じられます(10章11節)。10章は、11章の二人の証人へ向かう備えです。神は裁きの歴史のただ中で、御言葉を受けた者を証人として立たせ続けられます。 11章1節から6節 測られた神殿と、主を待ち望む二人の証人 ヨハネは神殿、祭壇、礼拝する人々を測るよう命じられ、外庭は測らずに残します(11章1節から2節)。エゼキエル40章から41章の測量には神がご自分の場所を知り定める姿が示されます。ここでは建物とともに「礼拝する人々」も測られ、新約は神の民を神の宮と呼びます(第一コリント3章16節、エペソ2章21節)。この対応から、神殿と礼拝者の測量を、神がご自分の民を知り守られるしるしと読みます。7章の神の印とのつながりもあります。外庭と都は踏みにじられます。神の守りは迫害を受けない約束ではなく、迫害の中でも神に属する民が失われないという約束です。 主の民が一つのからだであるのは、キリストに結ばれているからです。迫害によって地上の集まりが傷つけられ、信仰者が弱さや恐れを覚える時にも、神はご自身の民を知り、失われるままにはされません。神の守りとは、苦難を一切経験しないことではなく、苦難の中でもキリストに属する者を最後まで保たれることです。 二人の証人は粗布を着て1260日間、預言します(11章3節)。彼らは「二本のオリーブの木」と「二つの燭台」と呼ばれます(11章4節)。ゼカリヤ4章では、神の働きが「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」成し遂げられることが示されます(ゼカリヤ4章6節)。また黙示録1章20節は燭台を教会と明示します。したがって、この二人の証人は、人間的な強さによって世に立ち向かう特別な二人ではなく、御霊によって支えられ、キリストを証しする神の民を象徴していると読みます。「二人」であることには、証言を二人以上で確かめる律法の背景もあります(申命記19章15節)。ここで中心なのは人数そのものではなく、神ご自身が世の前に確かな証言を立てておられることです。 この二人の証人の姿は、私たちが「主を待ち望むキリストの証人」として見てきた信仰者の姿と重なります。証人は痛みを感じない人でも、恐れを知らない人でも、疲れない人でもありません。粗布を着ていること自体が、彼らの証言が苦難の中でなされることを示します。それでも神は御霊によって彼らを支え、キリストを最後の望みとして証しさせ続けられます。証人の力の源泉は、人間の能力や精神力ではなく、キリストとの結合から流れ出るいのちを御霊が働かせてくださることにあります。だから黙示録11章の証人は、「勝ち続ける強い人」の象徴ではなく、試練の中で神に支えられ、最後までキリストを証しする神の民の姿なのです。 11章2節の42か月と3節の1260日は、一か月を30日と数えれば同じ三年半です。この数の旧約背景は、聖徒が圧迫される「一時と二時と半時」(ダニエル7章25節)です。完全を表す七年の半分という形から、神の民の苦難には神の定めた限界があると読みます。 11章2節の42か月と3節の1260日の期間はキリストの初臨から再臨・審判までを示します。12章からそれを理解できます。男の子(イエスキリスト)が御座に引き上げられた後、女は1260日間、神に養われ、竜はイエスの証しを持つ者たちと戦います(12章5節から6節、14節、17節)。獣が聖徒と戦う期間も42か月です(13章5節から7節)。これらの対応から、三年半は、キリストの初臨・十字架・復活・昇天によって決定的な勝利が現されてから、再臨・審判に至るまでの、神の民の証しと苦難の期間を象徴すると読みます。証人の歩みには終わりがあり、その終わりを決めるのは獣ではなく神です。 2人の証人の口から火が出る姿には、神の言葉を火と呼ぶエレミヤ5章14節が響きます。 11章5節が「口」から火が出ると記すことも、証言とのつながりを示します。雨を閉ざす姿はエリヤ(列王記第一17章1節)、水を血に変える姿はモーセ(出エジプト7章20節)を思わせます。これは証人たち自身が超自然的な力を誇示する姿ではありません。モーセやエリヤと同じように、神の御言葉を携えて世の前に立つ証人の姿です。証人たちの口からでる火はイエスの証です。そして彼らの証言を退ける世に対して、神ご自身が裁きの権威を持って裁かれるのです。 11章7節から14節 証人は殺される。しかし証しは滅びない 証人が「証しを終えると」、底知れぬ所から上る獣が彼らと戦って殺します(11章7節)。ダニエル7章では獣のような王国が聖徒を攻撃し、黙示録13章7節でも獣に聖徒と戦うことが「許され」ます。重要なのは「証しを終えると」という言葉です。獣が証人の使命を途中で奪ったのではありません。神が定められた証しを終えた後に、獣が彼らの肉体を殺すことを許されるのです。これは、神の民が迫害や殉教から免れるという約束ではありません。むしろ、殺されるところまで追い詰められても、神が定められた証しは失敗しないことを示します。証人たちの強さは、死を避けることではなく、死に至るまでキリストを証しつづけるところにあります。 遺体が横たわる「大きな都」は、「霊的に」ソドム、エジプトと呼ばれ、「彼らの主も十字架につけられたところ」と記されます(11章8節)。最後の句は歴史上のエルサレムを思わせます。しかしソドム、エジプトという異なる名を重ね、「霊的に」と記すことは、一つの地名を越えた象徴的な意味を示します。ソドムの罪、エジプトの圧迫、キリストの拒絶を受け継ぐ、神に逆らう世の都です。世は証人の死を見て喜び、贈り物を交わします(11章9節から10節)。人間の目には、キリストの証が完全に消されたように見えます。完全に福音が地上から消えたように見えます。 しかし三日半の後、神から命の息が証人に入り、彼らは立ち上がります(11章11節)。神の教会は決して消えません。神の息で骨が立つエゼキエル37章5節から10節が背景にあります。続いて証人は天からの声に招かれ、敵の見ている前で上ります(11章12節)。ここで主語は最後まで神です。証人が自分で復活するのではありません。神が命の息を与え、神が立たせ、神が彼らの証言を公に正しいと示されます。二人の証人は一時的に敗北したように見えても、キリストに結ばれた神の民の証は獣によって無にされません。神が最後まで保ち、ご自身の証人として完成へ導かれるからです。 11章15節から19節 第七のラッパと完成した御国 第七のラッパで、世界の王権が主とそのキリストのものとなったと宣言されます(11章15節)。11章18節には死者の審判、神のしもべへの報い、地を滅ぼす者への裁きが並びます。これらが再臨の時の最後の審判と永遠の御国の完成を示す根拠です。封印が6章12節から17節で御怒りの日に至るのと同じく、ラッパの巡回もここで再臨の結末に至ります。天の神殿が開かれ契約の箱が見えるのは(11章19節)、神の臨在と契約の旧約の背景に照らし(出エジプト25章21節から22節)、御座の神が約束を成し遂げられる姿として読みます。 4章から7章では、小羊が封印を解き、最後に神の民は御座と小羊の前に立ちます。8章から11章では、御座から警告が下り、御言葉を受けた神の民が証しし、第七のラッパで最後の審判と御国の完成が告げられます。したがって8章から11章の中心は、恐ろしい裁きの一覧ではありません。御座の神が裁きの歴史を支配し、そのただ中でご自身の民を御霊によって支え、キリストの証人として最後まで歩ませ、ついには御国を完成されることです。 御座と小羊を仰ぐ 神の民も戦争や災害に遭い、迫害され、命を落とすことがあります。7章の印も、11章の測量も、地上で無傷でいられるという約束ではありません。御座の神が小羊に属する民を知り、苦難の中でも最後まで守られるという約束です。二人の証人は、その守りがどのように現れるかを示します。彼らは苦しみ、殺されさえします。しかし、神が定められた証を終えるまで立たされ、死の後にも神によって立たされます。神のみことばは決して消えることはありません。 神は永遠の御心によって御国の完成を定められました。 御座におられる神と屠られた小羊が、キリストの初臨によって御心を歴史の中で実行に移され、再臨と審判を経て永遠の御国を完成されます。地ではラッパが警告を告げます。そのただ中で神は、ご自身の民を御霊によって支え、主を待ち望むキリストの証人として歩ませます。証人は人間的に強いから立つのではありません。試練の中で自分への望みを失い、キリストだけを最後の望みとし、キリストとの結合から流れるいのちによって最後まで支えられるのです。世が彼らを弱いと見なし、証しを封じ、ついには殺したように見えても、神の御心は止まりません。神は証人を立たせ、第七のラッパで審判と御国の完成を現されます。だから私たちは、地上の災いだけを見るのでも、自分の力を見つめるのでもありません。御座におられる神と屠られた小羊を仰ぎ、御霊によって、最後までキリストの証人として歩むのです。 救いは御座に着いておられる私たちの神と子羊にある。(黙示録7章10節)

  • 黙示録4~7章講解― 御座におられる神と、屠られた子羊が歴史と救いを完成される ―

    2026.9.19 豊川の家の教会礼拝メッセージ 黙示録4~7章講解 ― 御座におられる神と、屠られた子羊が歴史と救いを完成される ― 黙示録は、単に「終末に何が起こるのか」を説明する書ではありません。その中心にあるのは、「歴史を支配しているのは誰か」という問いです。答えは一貫しています。御座におられる神と、屠られた小羊です。 父なる神は永遠にキリストにあってご自身の民を選び、御子は十字架と復活によって贖いと勝利を成し遂げ、御霊は時の中でその民をキリストに結びます。そして神は、竜・獣・偽預言者・バビロン・死が激しく抵抗する歴史の中でもご自身の民を守り、最後には御顔を永遠に仰ぎ見る民として完成してくださいます。黙示録は、1章から22章までを単純な時系列として読むよりも、キリストの初臨から再臨・最後の審判までの同じ救済史を、異なる角度から繰り返し示す「巡回啓示」として読むと、その構造がよく見えてきます。 大きく分けると、 1.1~3章 キリストと七つの教会 2.4~7章 御座・小羊・七つの封印 3.8~11章 七つのラッパ 4.12~14章 女・竜・二匹の獣・小羊 5.15~16章 七つの鉢 6.17~19章 バビロンの滅亡とキリストの勝利 7.20~22章 サタンの敗北・最後の審判・新天新地 となります。 つまり、「キリストの初臨から再臨まで → 終末的完成」というように、同じ歴史を何度も巡回しながら描いているのです。これは「ディスペンセーションが言う教会時代」を意味しているのではありません。十字架・復活・昇天によってすでに開始された終末の時代を、天上・地上、教会・世界、迫害・審判、キリスト・サタンという異なる角度から繰り返し見せているのです。そして巡回するたびに視点は深まり、終末的対立はいっそう鮮明になり、最後には獣、偽預言者、竜、死、よみまでもが完全に滅ぼされ、神の民が新天新地における完成へ導かれます。したがって、黙示録の基本的な動きは単純な「1章 → 2章 → 3章……→22章」という一本道の未来年表ではなく、「初臨 → 現在 → 再臨・審判」という同じ救済史を何度も巡りながら、その意味を次第に深く啓示していく構造なのです。 1~3章――栄光のキリストと教会: 黙示録は獣から始まりません。キリストから始まります。ヨハネが見るのは、死んで復活し、「死とよみの鍵」を持つ栄光のキリストです。したがって黙示録が始まった時点で、すでに勝敗は決定しています。 2~3章の七つの教会には、迫害、偽り、妥協、霊的死があります。しかしキリストは燭台の間を歩いておられます。教会は自力で生き残る共同体ではなく、復活されたキリストに属し、キリストによって知られ、守られ、完成へ導かれる民です。だから繰り返し「勝利を得る者」と呼ばれます。その勝利は自分で作り出すものではありません。すでに勝利されたキリストに属するゆえの勝利です。 4~7章――御座、小羊、封印 : 4章では天の御座が示されます。5章では、神の御手にある巻物を誰も開くことができず、ヨハネは泣きます。しかし「ユダ族から出た獅子が勝利した」と告げられます。ところがヨハネが見ると、そこには屠られた小羊が立っています。ここが黙示録の福音の中心です。6章では戦争、飢饉、死、迫害が現れます。しかし、封印を解いているのは小羊です。7章では最後にはあらゆる国民・部族・民族・言語からなる大群衆が小羊の前に立ちます。神の民は苦難を免れるのではなく、苦難の中で神に属する者として守られ、最後まで導かれるのです。 黙示録4章から7章に入ると、ヨハネの目の前に天が開かれます。ここから黙示録は、地上で起こっている出来事を、天の御座から見せていきます。 4章 天にある御座――すべての中心におられる神: 3章まででは、地上にある七つの教会が描かれていました。教会には弱さがあります。迫害があります。偽りの教えがあります。霊的な眠りがあります。しかし4章になると、ヨハネの視線は地上から天へ移されます。「その後、私は見た。すると見よ。開かれた門が天にあった。」そして御霊に捕らえられたヨハネが最初に見るものは、御座です。「見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。」黙示録を理解するためには、この順序が重要です。ヨハネは最初に獣を見たのではありません。竜でもありません。戦争でもありません。迫害でもありません。最初に御座を見たのです。地上では獣が支配しているように見えますが違います。しかし、神の御座です。これが黙示録全体を見る視点になります。 御座に着いておられる方: ヨハネは神ご自身の姿を直接描写しません。碧玉や赤めのうのような輝きとして描きます。これは神を人間の形に閉じ込めるのではなく、その栄光、聖さ、威光を象徴的に表しています。さらに御座の周りには、エメラルドのような虹があります。虹は創世記9章のノア契約を思い起こさせます。裁きを行われる神は、同時にご自身の契約を覚えておられる神です。 二十四の御座と二十四人の長老: 御座の周りには二十四の御座があり、二十四人の長老が白い衣を着て、金の冠をかぶっています。二十四という数字についてはいくつかの理解がありますが、黙示録全体、とりわけ21章の十二部族と十二使徒との対応を考えるなら、完成された神の民を代表する天上の長老たちとして理解することができます。彼らは冠を持っています。しかしその冠を自分の栄光として保持しません。神の御前に投げ出します。つまり、神の民が受ける栄光さえ、その源泉は神にあるということです。 稲妻、声、雷鳴: 御座から稲妻、声、雷鳴が出ています。これは出エジプト記19章のシナイ山を思い起こさせます。神はただ優しく慰める方として描かれているのではありません。聖なる、恐るべき、全能の神として御座におられます。この稲妻・声・雷鳴は、その後8章、11章、16章にも現れ、神の裁きが進んでいく重要な表現になります。 七つの火のともしび――神の七つの御霊: 御座の前には七つの火のともしびがあります。ヨハネはこれを、「神の七つの御霊」と説明します。七は完全を表す数です。七人の聖霊がいるという意味ではありません。完全な働きをなさる聖霊を象徴的に表しています。したがって御座の場面には、父なる神だけでなく、御霊の働きもあります。そして5章では子羊が現れます。4~5章には三位一体的な構造を見ることができます。 ガラスの海: 御座の前には水晶に似たガラスの海があります。聖書において海はしばしば混沌や脅威と結びつきます。しかし神の御座の前では、それは荒れ狂っていません。水晶のように静まっています。混沌さえ神の御座の前では支配されています。 四つの生き物: 御座の周りには四つの生き物がいます。獅子、雄牛、人間、鷲のような姿をしています。これはエゼキエル1章、10章、そしてイザヤ6章の幻を背景にしています。彼らは昼も夜も絶え間なく、「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者」と神を礼拝します。神の聖さは三重に強調されています。そして二十四人の長老もひれ伏します。4章の礼拝の中心は、創造です。「あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」世界は偶然存在しているのではありません。神のみこころによって存在しています。したがって4章の中心は、創造者である神が御座におられ、すべての被造物がその神を礼拝しているということです。 5章 巻物と屠られた子羊: 5章では、御座に着いておられる方の右手に巻物があります。その巻物は内側にも外側にも文字が書かれ、七つの封印で封じられています。この巻物は、これから歴史の中で実現していく、神の裁きと救いを含む神のご計画を表していると理解できます。力ある御使いが叫びます。「巻物を開き、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」しかし、天にも、地にも、地の下にも、巻物を開くことのできる者はいません。そこでヨハネは激しく泣きます。 なぜなら、もし巻物が開かれなければ、神のご計画が歴史の中で完成しないからです。しかし長老の一人が言います。「泣いてはいけない。」「見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利した。」これは創世記49章のユダの獅子、そしてイザヤ11章のエッサイの根というメシア預言につながっています。ヨハネは、獅子について聞きました。しかし見ると、屠られた姿の子羊が立っています。ここが黙示録全体の中心の一つです。キリストは獅子として勝利されました。しかし、その勝利は、子羊として屠られることによって成し遂げられました。十字架こそキリストの勝利です。 七つの角と七つの目: 子羊には七つの角と七つの目があります。角は力を象徴します。七つですから、完全な力。七つの目は、「全地に遣わされた神の七つの御霊」です。つまり子羊は完全な力を持ち、御霊によってすべてをご存じです。 子羊が巻物を受け取る: 子羊は御座に着いておられる方の右手から巻物を受け取ります。すると天全体の礼拝が始まります。四つの生き物と二十四人の長老は子羊の前にひれ伏します。彼らは琴と香の満ちた金の鉢を持っています。その香は、「聖徒たちの祈り」です。つまり地上で苦しみながら祈っている神の民の祈りは、天では神の御前に届いています。これは6章の殉教者たちの「いつまでですか」という祈りにもつながります。 新しい歌: 彼らは歌います。「あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い……」救いの根拠が明確です。子羊の血です。そして贖われる民は一つの民族に限定されません。すべての部族、言語、民族、国民から神の民が集められます。これは7章の数えきれない大群衆につながります。さらに無数の御使いたちが、「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」と叫びます。最後には、天、地、地の下、海にいるすべての被造物が、御座に着いておられる方と子羊を礼拝します。4章では創造者なる神への礼拝。5章では贖い主なる子羊への礼拝。ここで神と子羊が礼拝の中心に並んでいます。 6章 子羊が歴史の封印を解かれる: ここから子羊が封印を解き始めます。重要なのは、封印を解いている主語が子羊であることです。 第一の封印――白い馬: 白い馬に乗る者が現れ、弓を持ち、冠を与えられ、「勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った」とあります。この騎手についてはキリスト、福音、征服者など複数の解釈があります。しかし第二から第四の騎手との連続性を考えるなら、ここでは人間世界における征服・支配・戦争へ向かう力と理解する方が自然です。重要なのは、冠が「与えられた」ということです。その力は絶対的ではありません。許された範囲でしか働けません。 第二の封印――赤い馬: 赤い馬の騎手には、地上から平和を奪うことが「許され」ます。ここでも神の主権があります。戦争は恐ろしい現実です。しかし戦争さえ神の主権の外にある独立した力ではありません。 第三の封印――黒い馬: 黒い馬の騎手は秤を持っています。小麦、大麦が非常に高価になります。これは飢饉、物価高騰、経済的困窮を表しています。しかし、「オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない」と言われます。裁きには限界があります。完全に無制限ではありません。 第四の封印――青ざめた馬: 第四の騎手の名は、「死」です。よみが後についてきます。剣、飢饉、死病、野獣によって人々が死にます。しかしここでも、「地上の四分の一を支配する権威が与えられた」とあります。四分の一です。つまり死の力にも限界があります。神が定められた範囲を越えることはできません。第一から第四の封印を通して繰り返されるのは、「与えられた」「許された」**という構造です。悪は存在します。戦争もあります。飢饉もあります。死もあります。しかし、それらが主権者なのではありません。封印を解いているのは子羊です。 第五の封印――祭壇の下の殉教者: ヨハネは、「神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たち」を見ます。彼らのたましいは祭壇の下にいます。旧約では犠牲の血が祭壇の土台に注がれました。したがって、彼らの命が神へのささげ物のように描かれています。しかし彼らの死が贖罪を成し遂げるのではありません。贖罪を成し遂げたのは子羊だけです。彼らは、子羊に属し、神のことばを証ししたために殺された者です。彼らは叫びます。「聖なるまことの主よ。いつまでですか。」これは不信仰の叫びではありません。神が必ず裁かれることを信じているからこそ、「いつまで」と祈ります。そして彼らは自分で復讐しません。裁きを神に委ねています。彼らには白い衣が与えられ、「もうしばらくの間、休んでいるように」と言われます。神の答えは、「裁かない」ではありません。「まだその時ではない」です。 第六の封印――大いなる裁きの日: 大地震が起こります。太陽は黒くなります。月は血のようになります。星は落ちます。天は巻物のように消えます。山と島が動かされます。これはイザヤ13章、34章、ヨエル書などに見られる、「主の日」の裁きの言語です。単に天文学的現象を説明することが中心ではありません。神の最終的な裁きが来ることを示しています。王、高官、千人隊長、金持ち、力ある者、奴隷、自由人。すべての階層の人間が神の御前で同じになります。彼らは、「御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ」と叫びます。創世記3章で、罪を犯した人間は神の御顔から隠れました。ここでも罪人は神の御顔から逃れようとします。そして6章は、「神と子羊の御怒りの大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」という問いで終わります。 7章 「だれが耐えられよう」への答え: 7章は6章から切り離してはいけません。6:17の、「だれが耐えられよう」という問いへの答えが7章です。 四人の御使いと四方の風: 四人の御使いが地の四隅に立ち、四方の風を押さえています。つまり裁きが直ちに始まるのではありません。別の御使いが、「私たちの神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木々にも害を与えてはいけない」と言います。ここでも裁きを支配しているのは神です。裁きより先に、神がご自身の民に印を押されます。 神の印: この印は、神の所有と守りを表します。しかしこれは、「苦難に遭わない」という意味ではありません。なぜなら7:14で、この人々は、「大きな患難を経てきた者たち」だからです。神の守りとは、患難を一切経験させないことではなく、患難を通しても、ご自身の民を最終的に失わず、救いの完成まで守り抜くことです。 144,000人: ヨハネは、「印を押された者たちの数を耳にした」と言います。144,000人。12×12×1000です。また、この部族表は通常の旧約の部族表とは異なります。ユダが最初です。ダンがありません。レビが入っています。ヨセフとマナセが入り、エフライムという名前はありません。したがって、単純な民族的イスラエルの人口統計として読むより、メシアであるユダ族の獅子キリストを中心として完成された神の民を象徴していると理解することができます。 「聞いた」と「見た」 ここは非常に重要です。5章でヨハネは、「ユダ族から出た獅子」について聞きました。しかし実際に見ると、屠られた子羊でした。獅子と子羊は別々のキリストではありません。同じキリストを異なる角度から示しています。同じように7章では、144,000人のイスラエルについて聞きます。しかし、その後、「私は見た」と言います。するとそこには、「すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆」がいます。したがって、144,000人と大群衆を二つの別々の救済集団とするより、神から見れば完全に数えられた神の民を、ヨハネが見ると、世界中から贖われた数えきれない大群衆だったという構造として読むことができます。 御座の前に「立つ」大群衆: 6:17では、「だれが耐えられよう」と問われました。ところが7:9では、大群衆が、「御座の前と子羊の前に立って」います。誰が立つことができるのでしょうか。彼らは叫びます。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」答えは彼ら自身の中にはありません。救いは、神と子羊にあります。 白い衣 長老がヨハネに尋ねます。「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。」そして答えます。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」彼らが御座の前に立つことのできる根拠は、患難に耐えた自分の功績ではありません。殉教したことでもありません。信仰の強さでもありません。子羊の血です。血で洗って白くなるという逆説によって、キリストの贖罪の完全性が示されています。 「それゆえ」15節は、: 「それゆえ」と続きます。子羊の血によって白くされた。それゆえ、神の御座の前にいる。ここに神の御前に立つ根拠があります。 神が幕屋を張られる: 「御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。」これは聖書全体を貫くテーマです。エデン、幕屋、神殿、キリスト、そして新しいエルサレム。神の救いの目的は、単に罪を赦して終わることではありません。神がご自身の民とともに住まわれることです。この約束は21:3で完成します。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。」 もはや飢えず、渇かない 16節はイザヤ49:10を背景にしています。神は荒野を通るご自身の民を養い、水の泉へ導かれます。ここには新しい出エジプトのイメージがあります。神がご自身の民を、苦難から永遠の安息へ導かれるのです。 子羊が羊飼いになる: そして17節。「御座の中央におられる子羊が彼らを牧し」とあります。これは驚くべき表現です。子羊が羊飼いになる。詩篇23篇の「主は私の羊飼い。」ヨハネ10章の「わたしは良い牧者です。」これらがここで完成へ向かいます。屠られて私たちを贖われた子羊が、今度はご自身の民を牧してくださいます。そして、「いのちの水の泉に導かれる。」救いとは単に裁きを免れることではありません。神がキリストによってご自身の民をご自身のところまで導くことです。 神が涙をぬぐわれる: そして、「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」彼らは涙を流さなかった人々ではありません。患難を通りました。迫害されました。飢えました。渇きました。ある者は殺されました。しかし、最後には神ご自身がその涙をぬぐわれます。これは21:4で完全に成就します。 4章から7章を一本につなぐ: ここまでを見ると、4~7章には非常に明確な流れがあります。4章―御座。すべての中心には、創造者であり全能者である神がおられる。5章―子羊。神の永遠のご計画を実現するのは、屠られて復活されたキリストである。子羊はご自身の血によって神の民を贖われた。6章―封印。子羊が歴史を開いていかれる。征服、戦争、飢饉、死、迫害がある。しかし、それらの力にも限界があり、歴史は一瞬たりとも子羊の御手から離れない。殉教者の「いつまで」という祈りも神の御前に届いている。そして最後には神の裁きが来る。7章―印を押された神の民。「だれが耐えられよう」という問いに対して、神はご自身の民を完全に知り、ご自身のものとして印を押し、子羊の血によって白くし、患難の中でも守り、最後には御座の前に立たせてくださる。したがって4~7章の中心は、「終末に何が起こるのか」ではなく、「そのすべてを支配しているのは誰なのか」です。答えは、御座におられる神と、屠られた子羊です。神の民は患難を経験します。しかし患難が神の民を支配するのではありません。戦争も支配者ではありません。飢饉も支配者ではありません。死も支配者ではありません。迫害者も支配者ではありません。竜も獣も支配者ではありません。御座におられる神と、屠られた子羊が支配しておられます。そして神は、ご自身の民を苦難から常に取り除かれるとは約束されません。むしろ患難の中を通されることがあります。しかし、神はご自身の民を一人も失われません。印を押し、子羊の血によって贖い、白い衣を着せ、患難の中でも守り、子羊によって牧し、いのちの水の泉へ導き、すべての涙をぬぐい、最後には御座の前に立たせてくださいます。 そしてこの流れは黙示録22章へ向かいます。創世記3章では、罪を犯した人間は、神の御顔から隠れました。黙示録6章でも、神に敵対する者たちは、「御座に着いておられる方の御顔から私たちを隠してくれ」と叫びます。しかし、子羊の血によって贖われた神の民について、最後にはこう書かれています。「彼らは御顔を仰ぎ見る。」(黙示録22:4)ここに聖書全体の救いの歴史があります。神の御顔から逃げた罪人を、神が子羊の血によって贖い、ご自身のものとして印を押し、患難の中でも守り、子羊によって牧し、すべての涙をぬぐい、最後にはご自身の御顔を永遠に仰ぎ見る民として完成してくださる。黙示録4章から7章は神と子羊の救いの御業を私たちに見せているのです。

  • 主の祈り 神の子どもとして

    2026.9.15 The Word for you 今日は、ウェストミンスター大教理問答の第187問、「主の祈りはどのように用いられなければならないか」について解説したいと思います。この187問の回答は、『「主の祈り」は、わたしたちがそれに従って他の祈りをなす型として指針であるだけでなく、一つの祈りとしても用いられる。それゆえ、これは、理解、信仰、敬けんな心、また祈りの義務を正しく果たすために必要な他の美徳をもって、祈られなければならない。』という内容です。 この、「主の祈りはどのように用いられなければならないのか」という問いに対しての回答は、「主の祈りとは何ですか」という質問に対する回答ではなく、文字通り「主の祈りをどのように用いるのか」に対しての回答でした。この回答は非常に実務的で、2つの点に絞られています。1つは「他の祈りを組み立てるための型であり、指針である」ということです。そしてもう1つは「そのまま1つの祈りとして用いてよい」ということです。それは、機械的に唱える為ではなく、理解して、与えられた信仰を用いて、与えられた敬虔な心を持って祈る、そういう答えでした。 これはとても分かりにくいと思います。 しかし、今日私が話したいことは、そもそも「なぜ真の信仰者たちはこの祈りを祈ることができるのか」ということです。どうしたらそのように祈りを祈ることができるのでしょうか。私たちはウェストミンスターの回答にある「理解、信仰、敬虔な心」が与えられますが、ここのところを深掘りしないと、結局このウェストミンスターの187問の「主の祈りはどのように用いられなければならないか」ということを本当に理解することはできません。そうしないと、結果的には単なる便利な道具として、あるいはただ繰り返して唱えるだけの祈りとして、人間的な目線でしかこの祈りを捉えられなくなってしまうからです。聖霊の照明を受けて初めて、理解と信仰と敬虔さをいただいた中で、ウェストミンスターの説明が単なる技術だとか精神論、または宗教的な祈り言葉ではなくなっていきます。 では、その真意のところをお話ししたいと思います。主イエスは弟子たちに「だから、あなた方はこう祈りなさい」と言われました。最初に「天にいます私たちの父よ」と呼びかけるように教えられています。主の祈りは、単に神に願い事を伝えるための祈りではありません。「日々の食べ物をください」「私の必要な糧をください」「悪霊から私を守ってください」、そういう祈り、願い事を伝えるための祈りではないです。「神の国を来らせてください」という願い事を伝えるための祈りではありません。ここがスタートです。それは父・子・聖霊なる三位一体の神の交わりの中に招き入れられた神の子どもたちに、御子イエスご自身が直接教えられた祈りです。これは選ばれ、再生され、信仰、悔い改め、義を与えられ、神の子どもとされた人たちに、主イエスが直接「祈り方」として教えられました。 永遠から父は御子を愛しておられます。御子も父を愛しておられます。そして聖霊はその三位一体の交わりにおいて働かれます。私たちはこの神の交わりの外側に立って、神に向かって声を投げかけているのではないです。私たちが救われる前、この命によって生まれていない時に、私たちはこの祈りの外に立って主の祈りを用いて祈っていたのかもしれません。しかし御子に本当に結ばれ、御子と結合された者、御子にある者とされて、私たちは御霊によって神を「アバ、父よ」と呼ぶ者にされています。そのような子どもたちに対して主イエスは、「こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ」とそのように教えてくださったのです。本来、父を完全に知り、父を完全に愛し、父の御心を完全に行われる方は永遠の御子です。父は御子を愛し、御子は父に完全に服従、信頼し、十字架の御業まで従われました。この御子が、ご自分に結ばれた者たちを父の御前へと導いて、この方を「私たちの父」と呼ぶように教えられました。 ですから主の祈りは、御子が父に向かっておられるその父、子の交わりに、御霊によって参与された神の子どもたちの祈りであると言うことができます。「御名が聖とされますように」「御国が来ますように」「御心が天で行われるように地でも行われますように」。この3つの願いは、まず神の永遠の御旨に根差しています。神の側では、御名の栄光も、御国の完成も、御心の成就も、不確定なものでは全くありません。神の永遠の御旨において、すべては御子にあって定められています。永遠において神の側では、「御名が聖とされる」「御国が来る」「御心が天で行われているように地でも行われますように」、これは永遠においては神の側では完成した事実として私たちは見ます。これを聖書では「すでに」と言っています。 しかし未だ、その時間の、私たちの時間の中においてすべてがすでに起こり、終わったという意味ではないです。神様の永遠の御旨において初めから終わりまでが完全に定められ、その完成が確定している。そしてその永遠の「すでに完成されている永遠の御旨」は、歴史の中に現されてきます。御子は人となられました。父に完全に従い、十字架にかかりました。死んで復活し、天に上げられました。キリストの受肉、完全な従順、十字架、復活、昇天によって、神の永遠の御旨は時の中で決定的に成就しました。特に「御心が天で行われるように地でも行われますように」という祈りは、御子ご自身がご自身の完全な従順において、その中心的な成就をご自分で実行され、ご自分でみました。御子は父の御心を完全に行われました。私たちは今なお時の中に生きています。すでに父が、永遠の御旨の中において完成されているこの定めにむかって、私たちは日々、主の再臨に向かって進んでいます。私たちは今なお時間の中に生きていますが、だからこそ主は私たちに「御国が来ますように」と祈りなさいと言いました。 御国が全く来ていないからではないです。御国はすでにキリストの初臨において来ています。しかし御国は未だ全面的には現れていません。全面的に表れるのは主の再臨の時です。これが聖書の言っていることです。 神の御名は、まだ全世界のすべてにおいて完全に崇められているわけではないです。神の御心も、地上のすべてにおいて完全に行われているわけではありません。罪も試みも悪も死も苦しみも、なお存在しています。ですから私たちは、すでに神がキリストにおいて成就を確定しているもの、永遠の御旨の中で完成されているものが、時中で完全に現されることを祈るのです。 後半の祈りも同じです。「私達の日ごとの糧を今日もお与えください」「私達の負い目をお許しください」「私達を試みにあわせないで悪からお救いください」。私たちの救いは御子において永遠に確定しています。しかし私たちは、なおこの時の中、歴史の中を御子の再臨に向かって歩んでいます。日々私たちはこの時の中で必要を与えられます。ですから私たちは「日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ります。日々赦しの恵みに生かされます。ですから「私たちの負い目をお許しください」と祈ります。日々、罪と試みと悪との戦いの中で守られます。「私たちを試みにあわせないで悪からお救いください」と祈るのです。それらはキリストとの結合によって私達にそのまま適用されます。なぜなら御子の祈りは私たちの祈りだからです。御子の祈りが私たちの祈りの本質にあります。ですから救いと主の祈りの関係はこのように整理することができます。 ・永遠において完成している ・時中、歴史において成就していく ・御霊によって適用される、キリストとの結合によって適用される。 ・終末、主の再臨の時にすべて現れる 永遠においては、神の御心の中ですべては完成しています。そして歴史の中においては、キリストにおいてこの御心は成就しました。しかし現在においては、御霊によって私達一人ひとりがキリストと結びついているから、すべての恵みがそこから流れていきます。そして終末において、この完成が完全に全面的に現わされる。 再臨の時に、「御国が来ますように」という祈りはその意味ではもはや必要ではありません。なぜならその時には御国が完全に現れ、神の御名は完全に崇められ、神の御心は新しい天と新しい地において完全に行われるからです。神の義は完全にこの地を覆うからです。罪も悪も試みも死も取り除かれると黙示録にあります。 その時、永遠の御旨において完成されたもの、キリストにおいてこの歴史の中、時中で成就したもの、御霊によってキリストと私達が結ばれて適用されたものが、最終的に完全な姿で現れます。私たちのあがなわれた復活の体も現れます。しかし永遠の結合は永遠に私達と共にあります。そして私たちは神の御前に立ち、神は私たちの神として、私たちは神の栄光を仰ぎ見ます。 したがって主の祈りというのは、永遠の御旨においてすでに完成している神の救いや御国の現実を、この時間の中に生きている私達神の子どもたちがイエス・キリストに結ばれて、御霊によって結ばれて、御霊によって父なる神様に対して、この時中の現実と、そして終末的な完成を願い求める祈りです。そして、私達真の信仰者、神の子どもたちにこの祈りを教えてくださっているのは、他ならぬ御子イエスご自身です。長子です。私たちの神です。「あなた方はこう祈りなさい」。これは単なる祈りの形式の命令ではないです。これは三位一体の神の交わりの中に招き入れられた子どもたちに対して、主イエスが「あなた方もわたしと同じように父に向かって祈りなさい。この方をあなた方の父として呼びなさい」と教えてくださった言葉です。 ですから主の祈りは、父に向かい、御子にあって、御霊によって祈る、神が私達にくださった宝物です。祈りは単なる宗教的なリピートではありません。この理解をしっかりとして、そして敬虔に、結合をもって御霊によって私たちは、未確定の未来を変えるために神に「何々してください、パンをください、何かしてください」と祈って説得することではないです。それは神の子どもではないです。神の子どもは「永遠において完成している」、この理解が最初に来ます。「神の御旨はすでにイエス様にあって完成している」、ここに立ちます。 そして、時の中に私たちはいますが、この私たちのいる中において、私たちはまだ、すべてが神の足元にひれ伏す姿を見ていません。ですが、すべてが神様の御前にひれ伏す、またすべてが神を褒めたたえる、また私たちが神の復活の力によって、私たちの命がキリストと共に新たに現れること、このことを祈るのです。時中で。しかし私たちはそれが完成している、確定しているものであるということを神様に感謝して祈ります。 ですから、私たちは決して未完成だから祈るのではありません。すべて完成している、御旨においてすべて神が確定している、この確信を持って祈りなさい、父なる神様に感謝して、ということです。 主の祈りとは、永遠において完成している父の御旨、それを御子に結ばれた、結合している子どもたちが、御霊によって、時の中、歴史の中において、御霊によって試練の中、苦しみの中において「この方が私の最後の望みです」と祈ります。この御霊に満たされる、これは、あなた方がイエス・キリストを最後の望みとして置いていなかった時の祈りとは根底が違います。あなた方は「イエス様助けてください」と祈ったかもしれません。しかしその時を考えてみてください。その時あなたは「必要な時だけ祈って、必要じゃなければポイ、私はもう自分一人でやれる。困ったらまた祈ってみる」、自分の都合のいい時だけだったのではないでしょうか。それは真の信仰者に与えられている祈りではないです。 真の信仰者に与えられる祈りは、いつも私達の中には「神を慕い、神が私たちの最後の望みである」という思いが絶えず与えられています。それが「御霊によって」です。それが苦しい時にはさらに増し、それが辛い時には増すかもしれませんが、基本は神の子どもたちには神を求める、その呻きが聖霊によって与えられています。ですからパウロは、「私たちはどのように祈っていいか分かりませんが、聖霊が呻きを持ってとりなしてくださる」と言いました。その呻きは私達の一番底にある、心にある「神よ!」という心です。そしてそれを持って、時の中、私たちの人生の歴史の中において、神の再臨、その完成を待ち望みながら切に神に祈る祈りです。 そして主イエスは私達にこう言います。「あなた方もこのように祈りなさい。天にいます私たちの父よ」と。

  • キリストはすべてのすべて
― 選びから栄化まで、すべての救いはキリストにあって ―

    キリストはすべてのすべて
 ― 選びから栄化まで、すべての救いはキリストにあって ―エペソ人への手紙一章四節から見るキリストとの結合 「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」エペソ人への手紙 1章4節  小さな言葉に置かれた救いの中心 今日、私たちが心を留めたいのは、「選び」という言葉だけではありません。「世界の基が据えられる前」という永遠にも、もちろん目を向けます。しかし、聖霊がこの一節の中に置かれた、さらに小さな言葉を見落としてはなりません。それは「この方にあって」です。 神は、私たちをキリストから離れた者として選び、それから後でキリストと関係を結ばせようとされたのではありません。聖書は、神が私たちを「この方にあって」選ばれたと言います。選びの初めから、私たちはキリストを離れて考えられていません。神の永遠のご計画は、キリストを中心として立てられました。 そして、この「あって」はエペソ一章四節だけの言葉ではありません。私たちはキリストにあって贖われ、義とされ、新しく造られ、生き、聖くされ、守られます。キリストにあって死に、キリストにあって復活し、キリストにあって栄光を受けます。 ここに十個の別々の教理が並んでいるのではありません。選びから栄化まで、すべての救いを一本で貫く現実があります。それがキリストとの結合です。今日の結論を初めに言います。 「キリストにあって」は、すべての救いの「あって」です。 救いの恵みは、キリストから切り離して一つ一つ数えるものではありません。恵みを数えることは出来ないのです。恵みはキリストから切り離して配られるのではありません。神はキリストご自身を私たちに与え、私たちをキリストに結びつけ、そのキリストのうちにあるすべての恵みにあずからせてくださいます。 ウェストミンスター大教理問答が語る「キリストとの結合」 この「キリストとの結合」とは、いったい何でしょうか。ここで、ウェストミンスター大教理問答第66問の定義を土台にして確認しておきましょう。 「選ばれた者がキリストと持つ結合とは、神の恵みの御業であり、それによって彼らは、霊的に、神秘的に、しかも真実に、また離されることのないように、彼らのかしらまた夫であるキリストに結び合わされることである。この結合は、彼らの有効召命においてなされる。」 ここで大切なのは、結合が私たちの決心によって作られる関係ではなく、「神の恵みの御業」だということです。そして、それは単なる比喩でも、頭の中の理解でもありません。「霊的に、神秘的に、しかも真実に、離されることなく」キリストに結ばれるのです。キリストは私たちの外におられる救いの提供者であるだけではなく、私たちのかしらであり、私たちはそのキリストに属する者とされます。 さらに、大教理問答は、この結合が「有効召命において」現実のものとされると語ります。父が永遠にキリストにあって選び、御子が歴史の中で贖いを成し遂げ、聖霊が福音によって私たちを召し、生かし、信仰を与え、キリストに結びつけられます。ですから、「キリストにあって」は単なる言葉の飾りではありません。救いのすべてが起こる場所、関係、現実を指しているのです。 「キリストにあって」とは何か ここで皆さんにお尋ねします。聖書は、ローマ八章一節で「キリスト・イエスにある者」、第二コリント五章十七節で「キリストのうちにあるなら」、第一コリント一章三十節で「キリスト・イエスのうちにあります」と語ります。では、この繰り返される「あって」「うちにある」とは、何を意味しているのでしょうか。 ある人は答えるかもしれません。「キリストに代表される、という意味ではないでしょうか。」別の人は、「キリストに属する、という意味ではないでしょうか。」また、「キリストから恵みを受ける」「キリストのいのちにあずかる」という意味だ、と答えるかもしれません。どれも、そこから生じる恵みとしては聖書的です。 では、もう一度尋ねます。「代表される」「属する」「恵みを受ける」が、そのまま「あって」の意味なのでしょうか。――いいえ。もしそう置き換えてしまえば、「キリストにあって」という言葉そのものが消えてしまいます。代表されることも、恵みを受けることも、いのちにあずかることも、その前にある一つの現実から生じます。それが、キリストとの結合です。 では、「キリストにあって」とは「御霊によって」という意味でしょうか。――これも同じではありません。聖霊は、私たちをキリストに結びつけられる方です。「御霊によって」は、その結合を現実のものとされる方とその働きを示します。一方、「キリストにあって」は、御霊によってキリストに結ばれた者が、いまどこにあり、どなたに属し、どなたのうちに救いを持つのか、その現実を表します。 では、エペソ一章四節についてはどうでしょう。「神のご計画の中で、キリストにあって選ばれた」と言えば十分でしょうか。ここでも御言葉の順序に注意しなければなりません。神のご計画がまずあって、その計画の中へ後からキリストが置かれたのではありません。御言葉は、「この方にあって私たちを選び」と言います。第一にキリストがおられます。神は、キリストから離れた私たちを先に選び、後でキリストに入れようとされたのではありません。キリストを救いのかしらとして定め、そのキリストにあって私たちを選ばれたのです。 ですから、皆さん。「キリストにあって」を別の言葉一つに置き換えようとしてはいけません。「あって」は、代表、義認、新生、聖化、堅忍、復活、栄化のどれか一つを意味するのではありません。それらすべてを生み出し、すべてを貫いているキリストとの結合を示しています。 ここで答えは一つに集約されます。 「あって」は、すべての救いの「あって」である。 この小さな一語が、私たちの目を自分自身からキリストへ戻します。救いの中心は、私が何を持っているかではありません。私は、誰にあるのか。私はキリストにある。その結合から、救いのすべての恵みが流れ出るのです。 マレーが示した救いの中心 ジョン・マレーは『Redemption Accomplished and Applied』第二部第九章で、次のように述べています。 “Union with Christ is the central truth of the whole doctrine of salvation.” キリストとの結合は、救いの教理全体の中心的真理である、という意味です。マレーは結合を、救いの適用における一つの段階として扱いません。結合は、新生、信仰、義認、子とされること、聖化、堅忍という各段階の横に置かれる一項目ではありません。それらすべての下にあり、すべてを包み、すべてをキリストに結びつける現実です。 カルヴァンもまた、キリストが私たちの外にとどまり、私たちがキリストから離れているなら、キリストが救いのために成し遂げられたことは私たちの益にならない、と教えました。私たちはキリストの功績を遠くから受け取るのではありません。聖霊によってキリストご自身に結ばれ、結ばれたキリストのうちに、義といのちと聖さを受けます。 霊的で神秘的で有機的で現実的な結合 この結合は霊的です。「霊的」とは、観念的、象徴的という意味ではありません。聖霊が私たちをキリストに結びつけておられるという意味です。「キリストにあって」は結合した者の現実を表し、「御霊によって」はその結合を私たちのうちに実現される方とその働きを示します。二つを同じ言葉に置き換えることはできませんが、切り離すこともできません。 この結合は神秘的です。曖昧な感情や神秘体験ではありません。聖書によって明らかにされていながら、人間の理解では説明し尽くせない、生けるキリストとの結合です。天におられるキリストと、地上にいる私たちが、聖霊によって真実に結ばれています。 この結合は有機的です。聖書は、かしらとからだ、ぶどうの木と枝という姿で語ります。枝は木から生命という品物を一度受け取り、独立して生きるのではありません。木につながっているので、木のいのちが枝に働き、実を結びます。私たちも、キリストから離れて恵みを所有するのではありません。キリストにあり続けるので、キリストのいのちに生かされます。 そして、この結合は現実的です。法的な比喩でも、頭の中の理解でもありません。私たちはキリストの神性に吸収されず、キリストと同一人物にもなりません。創造主と被造物の区別は永遠に保たれます。それでも結合は現実です。区別は保たれますが、キリストとその民を何ものも引き離すことはできません。 三位一体の神が成し遂げる一つの救い キリストとの結合を中心に置くと、福音の全体構造が見えてきます。救いは、人間が神を探し、信仰を作り、最後まで維持する物語ではありません。父なる神が計画し、御子が成し遂げ、聖霊が現実に適用される、三位一体の神の御業です。 父なる神はキリストにあって選ばれた 世界の基が据えられる前、父なる神は御子を救いのかしら、仲保者として定められました。そして私たちを、そのキリストにあって選ばれました。私たちはまだ存在していませんでしたから、永遠の昔に御霊による経験的な結合を感じていたのではありません。しかし、神の永遠の愛と選びの中で、救われる者は一度もキリストから切り離された個人として考えられていません。 順序を守らなければなりません。「この人々を選び、後でキリストに結びつけよう」ではありません。「キリストにあって、この人々を選ぶ」です。選びの根は私たちの中にありません。私たちの決心、行い、将来の信仰を見込んだ選びでもありません。選びはキリストにあります。 御子はご自分の民を贖われた 時が満ちて、御子は人となられました。完全に律法に従い、十字架で私たちの罪を負い、神の怒りを受け、死者の中から復活されました。キリストは救いを可能にしただけではありません。ご自分にあって選ばれた民のために、贖いを成し遂げられました。キリストの死と復活は、救いの確実な土台です。 聖霊は私たちをキリストに結ばれる 私たちは生まれながらにアダムにあり、罪と死の支配の下にいました。御霊は福音の御言葉を通して私たちを召し、新しく生まれさせ、悔い改めと信仰を与え、キリストへ結びつけられます。ここで、永遠の選びと十字架で成し遂げられた贖いが、私たちの歴史の中で現実のものとなります。 父がキリストにあって選び、御子が贖い、御霊がキリストに結びつける。この三つは別々の救いではありません。父と御子と聖霊が、一人の罪人を、初めから終わりまでキリストにあって救われるのです。 一つのあってから流れる十の恵み ここで、初めに挙げた十の恵みへ戻りましょう。ここではエペソ書だけでなく、新約聖書の各所に現れる「キリストにあって」「キリストのうちに」「主にあって」という表現を見ていきます。大切なのは、「あって」を文脈ごとに別の言葉へ置き換えないことです。一つのキリストとの結合があり、その結合が救いの各局面で異なる実を結びます。 一 キリストにあって選ばれた 「この恵みは、キリスト・イエスにあって、永遠の昔に私たちに与えられ」ました。第二テモテ 1章9節 キリストにある者として選ばれたから、キリストが私たちの契約のかしら、代表者となられます。「代表される」が「あって」の意味なのではありません。キリストにあって選ばれたから、キリストに代表されるのです。 二 キリストにあって贖われた 「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」コロサイ 1章14節 キリストは、ご自分と無関係な人々のために働き、その成果だけを後から配られたのではありません。ご自分の民のかしらとして死に、復活されました。私たちはキリストにあるから、その血による贖いと罪の赦しを受けます。 三 キリストにあって義とされた 「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」ローマ 8章1節 義認は、キリストから切り離された義を受け取ることではありません。キリストに結ばれた者に、キリストの完全な義が認められます。私たちの行いや聖化の程度が、無罪判決の根拠になるのではありません。私たちはキリストにあるので、キリストの義によって義とされ、もはや罪に定められません。 四 キリストにあって新しく造られた 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」第二コリント 5章17節 新生は、古い人間に独立した力を注入することではありません。御霊が私たちを復活のキリストに結びつけ、そのいのちによって生かされます。キリストにある者は新しく造られた者です。新しい創造はキリストの外には存在しません。 五 キリストにあって生きる 「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ガラテヤ 2章20節 信仰生活は、キリストから一度力をもらい、その後は自分で歩く生活ではありません。私たちは毎日、キリストをいのちの源として生きます。御言葉に聞き、祈り、悔い改め、信仰によってキリストを仰ぎます。私が強いから生きるのではありません。キリストにあるから生きるのです。 ここまでの五つは、永遠の選びから地上の生活までを結んでいます。しかし、「キリストにあって」はここで終わりません。私たちが弱り、倒れ、やがて死を迎えても、この「あって」は続きます。 死を越えて続くキリストにあって 六 キリストにあって聖くされる 「あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって、神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」第一コリント 1章30節 聖化は、キリストから独立した自己改善ではありません。聖なるキリストに結ばれている者を、御霊がキリストの御姿に似た者へ造り変えられます。義認ではキリストの義が私たちに認められ、聖化ではキリストのいのちが私たちの歩みに実を結びます。どちらも同じキリストとの結合から与えられます。 七 キリストにあって守られる 「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ローマ 8章39節 堅忍は、私たちの信仰心が強く、最後まで自分で救いを保持できるという教えではありません。キリストが、ご自分に結ばれた者を離されないという約束です。私たちの手が弱るときも、キリストの御手は弱りません。倒れることがあっても、キリストとの結合は神によって保たれます。 八 キリストにあって死ぬ 「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」ヨハネの黙示録 14章13節 信者はキリストとの結合を失い、一人で死へ入るのではありません。キリストに結ばれたまま死にます。身体と魂は一時的に分かれますが、どちらもキリストに属しています。魂は主とともにあり、墓に置かれた身体もキリストの所有です。死でさえ、この結合を切ることはできません。 九 キリストにあって復活する 「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。」第一コリント 15章22節 私たちはキリストとは別に、同じような奇跡を受けて復活するのではありません。復活されたかしらに結ばれているので、そのからだとして復活します。かしらが復活した以上、そのからだも必ず復活します。キリストの復活は、私たちの復活の初穂であり保証です。 十 キリストにあって栄光を受ける 「あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」コロサイ 3章4節 栄化は、キリストから独立して完全な者になることではありません。栄光のキリストに永遠に結ばれ、その御姿に完全に似た者とされることです。私たちは神の本質に吸収されません。創造主と被造物の区別は永遠に保たれます。しかし、キリストとの結合は永遠に失われることはありません。しかし、罪から完全に解放され、復活の身体を与えられ、キリストとともに栄光のうちに現れます。 選びから栄化まで、十種類の「あって」があるのではありません。一つの「あって」が、永遠から永遠まで私たちをキリストのうちに保ちます。 福音の全体を一つにするあって いま、救いの全体をもう一度見渡しましょう。世界の基が据えられる前、父は私たちをキリストにあって選ばれました。歴史の中で、御子は私たちのかしらとして十字架にかかり、贖いを成し遂げられました。聖霊は死んでいた私たちを生かし、キリストに霊的、神秘的、有機的、現実的に結びつけられました。 キリストにあるから、その義が私たちの義と認められます。キリストにあるから、その復活のいのちに生かされます。キリストにあるから、聖くされ、守られます。キリストにあるから、死の中でも主から離れません。キリストにあるから、身体も復活し、キリストの栄光にあずかります。 この順序を逆にしてはいけません。私たちが信じ抜いたから、キリストにあるのではありません。私たちが聖くなったから、キリストにあるのでもありません。父がキリストにあって選び、御子が贖い、御霊がキリストへ結びつけてくださったから、私たちは信じ、悔い改め、聖くされ、最後まで守られます。 それでは、救いの確かさをどこに求めるのでしょうか。自分の決心の強さでしょうか。今日の信仰の調子でしょうか。どれだけ変わることができたかという自己評価でしょうか。それらを見つめ続ければ、私たちは高ぶるか、失望するかのどちらかです。 御言葉は、私たちの目を自分自身からキリストへ向けます。大切なのは、私がどれほど強くキリストを握っているかではありません。キリストが私を捕らえ、ご自分に結びつけ、決して離されないことです。私は何を持っているかという問いよりも深い問いがあります。私は、誰にあるのか。 私はキリストにあります。だから、罪に定められません。私はキリストにあります。だから、罪との戦いの中でも捨てられません。私はキリストにあります。だから、死も私を主から引き離せません。私はキリストにあります。だから、キリストが現れるとき、私も主とともに栄光のうちに現れます。 ここに福音のクライマックスがあります。福音とは、神からから何か数えられるものを1つ1つ受け取って、自分のものとして蓄えることではありません。神がキリストご自身を与え、私たちをキリストに結びつけ、キリストのうちにあるすべてを私たちのものとしてくださることです。 救いの恵みが並ぶ前に、キリストがおられます。神は私たちをキリストにあって選び、キリストにあって贖い、キリストにあって義とし、生かし、聖くし、守り、復活させ、栄光へ導かれます。初めから終わりまで、神が主語です。そして初めから終わりまで、私たちはキリストにあります。 ですから、兄弟姉妹。神は、私たち自身の内には救いの根拠が何もないことを示されます。また、この世のどこを探しても、本当の救いはないことを示されます。 ですから、もう自分の内にも、この世にも、救いを探すことをやめましょう。 人生の旅路を歩むとき、楽しいときも、辛いときも、悲しいときも、キリストを仰ぎましょう。 自分の弱さを思い知らされるときも、罪との葛藤の中にあるときも、そして死を前にするときでさえ、キリストを仰ぎましょう。自分ではなく、世でもなく、ただキリストを。そして、この御言葉に立ち続けましょう。 「キリストにあって」とは、すべての救いがキリストにあるということです。 神がキリストにあって始められた救いを、キリストから離れて完成されることはありません。 キリストにあって選ばれ、キリストにあって贖われ、キリストにあって生かされた者は、最後までキリストにあって守られます。 そして、キリストにある者は、キリストとともに死に、キリストとともに復活し、必ずキリストとともに栄光へと導かれるのです。 救いの初めから終わりまで、すべては「キリストにあって」なのです。

  • マタイ24章 選びの民は誰か 黙示録3

    2026.1.25 豊川の家の教会礼拝メッセージ   マタイの24章の選びの民は誰か、また反キリストと獣の刻印、そして終末的迫害をどう位置づけるべきか。ここのところを整理していくと、終末論は「これから何が起こってくるのか」「どういう出来事が起こるのか」という出来事探しから、神の召しに生きることへ変わっていきます。  マタイの24章の「選びの者」とは、選ばれた、時の始まる前に選ばれた者たちということです。マタイの福音書24:22にこうあります。「その日数が少なくされなかったなら、だれも救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのためにその日数は少なくされます。」  また24:31にこうあります。「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方から、その選びの者たちを集めます。」  このマタイの24:22と24:31は、一つの裁きの後に語られます。イエス様はイスラエルの神殿が破壊されることを予言しています。AD70年のことです。この後に、選ばれた者たちを集めると言っています。そしてその集め方は「天の果てから果てまで、四方から」です。  すなわち、神殿制度が神によって破壊されて、旧約の祭司による、また動物の犠牲による、また神殿による礼拝を神は否定しました。そして神は、聖霊によって新たに生まれた人たちを四方から集めると言っています。  選びは民族イスラエルではありません。これは聖書が一貫して言っていることです。キリストの中に置かれている人たちです。エペソ1:4はこう言います。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選ばれました。」  ここでとても重要なのは、「キリストにあって(in Christ)」、そして「世界の基が据えられる前」です。この中において選ばれたと言っています。  ですから、聖書は初めからイスラエルという国家民族を選んだのではなく、時の始まる前からキリストにあって、キリストに結ばれた中において、御子の中で人々を選んだとはっきりと言っています。これはローマ書11章でもパウロが「選びの恵みによる残りの者」がいると言っており、そのことを言っています。  したがって「最初はイスラエルが選ばれていた。そして次に教会が現れたのでそれを教会に置き換える」という考え方は、ディスペンセーションが「置換神学」と呼んで批判するものです。ディスペンセーションを信奉している人たちは「最初はイスラエル、後で教会に置き換えた」ということが、これが聖書的に間違っていると言います。しかし、この枠組み自体が聖書の御言葉をねじ曲げています。もともと選びは民族ではありません。  神はイスラエル民族全体を救うという根底が、もともと存在していないのです。この考え方は聖書の御言葉をねじ曲げて作られています。それが分かります。その構図、「置換神学」と言っている構図自体が、エペソ1章と全く違います。  またローマ書も、またその他の箇所も、聖書が一貫して言っている選びは、神の主権によって時の始まる前に行われているということです。ディスペンセーション神学はそれをねじ曲げています。これが真実です。  最初から選びはイスラエル民族ではなく、神の主権によって、キリストとの結合に置かれている、in Christであり、一貫しています。そして贖いも、子としての身分も、すべてキリストの中で与えられていると聖書は言っています。すべてがキリストにあって、すべてがキリストにあってです。  「キリストにあって」という一点に集中します。救済史の中心は常にキリストです。アブラハムの民族でも、モーセの契約でもないです。神殿でもないです。祭司制度でもありません。生贄でもありません。御子に結び合わされているという一点です。  一つの選び、一つの救済史であり、分断されません。そして一つのキリストと結ばれている民がいます。  マタイの24章の選びの者は、すべての選ばれた人々、すなわちキリストの体です。それを聖書はエクレシアと呼びます。  だから、民族イスラエルは選びの者ではありません。ディスペンセーションの教えの問題の核心はここです。なぜ私はディスペンセーションを批判しているのか。批判ではなく、これは事実です。そして、このディスペンセーション主義が日本の多くの教会の終末論の根底を今形成しています。どこに行っても、ほとんどの教会はディスペンセーション主義の終末論が入ってきています。それは大きな問題です。  この選びをディスペンセーション主義的に民族イスラエルと呼ぶためには、どのようにしなければならないのか。なぜ日本の教会はそのようにディスペンセーション主義を取るところが多いのか。  それは、新約聖書において、すべての選ばれた人々に与えられている言葉があるからです。それは「選び」「聖なる民」「神の所有」という言葉です。新約において、パウロもペテロも、選びの民としてそれを語っています。選び、聖なる民、神の所有です。  もしこれを将来の民族イスラエル、国家イスラエル、そして教会とは別というふうに分けるのであれば、その「選び」「聖なる民」「神の所有」という選ばれた人々に与えられた言葉を、教会から奪う必要があります。騙して奪って、国家イスラエル民族のものであると認めさせる必要があります。  ですから彼らの教えの中に何があるか、例えば「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉を、これはイスラエル民族に語られたものだからクリスチャンは関係ないと言います。「あなたがたはこれをイスラエルから取ってはいけない。あなたがたにはあなたがたに向けた言葉がある」と言います。  そのように騙して、そして選ばれた民から、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉を取り上げます。それは「あなたは選びの民ではない、聖なる民ではない、神の所有ではない」と言っているのと同じです。そのようにして、選びの民から「選び」「聖なる民」「神の所有」を奪います。  しかし聖書は一貫して言います。神は、時の始まる前から、あなたに言うのです。in Christ、あなたは選ばれている、選びの民です。あなたはキリストの体です。キリストによる新しい契約の民です。そしてあなたが生きるその行いは選びの結果です。宗教的な偽善ではないと聖書は語り続けています。  従って、マタイの福音書の「選びの者」、また聖書全体に書いてある選び、エペソの選び、ローマの選び、パウロ、ペテロたちが語るこの選び、時の始まる前、そして「聖なるもの」、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉は、国家イスラエル、民族イスラエルではありません。  もしこれを民族イスラエルだとする論理を持ち出したら、聖書の全体の構造と正面衝突します。聖書の全体の構造とは、永遠の時の始まる前から、神が私たちを選んで、そして召して、再生して、そして信仰、義認、聖化、栄化、永遠の未来までを保障しているという全体です。これと全面的に衝突しています。  従って、マタイ24章で守られて集められる選びの者というのは、時の始まる前から選ばれている者たちであり、それはイスラエルの中から神が時の始まる前から選んだ人々がいます。また、すべての異邦人から、時の始まる前から選ばれた人たちがいます。そして彼らは召し出されてきます。  それらの人を、すべての民と言います。そこには老若男女の違い、子ども、老人もありません。すべて選ばれた人たちです。彼らはキリストの体と呼ばれます。ギリシャ語ではエクレシアと言います。そのエクレシアとは、召し出された、選ばれた、集められた者たちの集まりと聖書は正確に呼んでいます。なのに「民族イスラエル」と呼んでいるこの人間中心的な宗教は、なんと人々を苦しめるのでしょうか。  終末的迫害は、教会の不在の時期かどうかということについて話します。  ディスペンセーションの傾向思想は、「教会は地上から除去される」「大患難はイスラエルと未信者の時代である」という考え方です。これはディスペンセーションから来ている思想ですが、多くの福音派教会に広がっています。  この「ディスペンセーション」という言葉を知らない人たちはとても多いです。ディスペンセーション主義という考え方を理解していない人たちは多いです。言葉は知っていても内容を理解していません。だから「ディスペンセーション主義って何ですか」と言っても、その目的と結論を言える人はほとんどいません。  ディスペンセーション主義の目的は、ユダヤ主義、神殿主義、祭祀主義、動物の生贄に戻ることを目的としています。  話を戻しますが、ディスペンセーション主義は「教会は迫害から除去されて逃げられる」「大患難は通らなくてよい」「私たちは空の上から迫害と大患難を見るが私たちは大丈夫」という精神に人々を向かわせます。自分たちには関係ないという方向へ行きます。しかし黙示録13:7はこう言います。 「彼は聖徒たちに戦いを挑み、これに勝つことが許された。また彼はあらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」  ここで私たちははっきりと見ます。聖徒たちは迫害されています。選ばれた者たちは迫害されているのです。さらに黙示録全体で繰り返される言葉があります。それは「ここに聖徒たちの忍耐がある」です。また黙示録13:10でこう言います。「捕らわれの身となるべき者は捕らわれの身となり、剣で殺す者は剣で殺されなければならない。ここに聖徒たちの忍耐と信仰がある。」  忍耐と信仰が必要であるのです。さらに14:12。「ここに神の戒めを守り、イエスへの信仰を保っている聖徒たちの忍耐がある。」忍耐があるのです。そして患難の中にいるのです。どこに「私たちは空の上から迫害と大患難を見ていればよい」という発想があるのですか。聖書の黙示録の中にはありません。それは全く間違っています。  「男が二人いて畑にいると、一人は取られ、一人は残される」についても同じです。ノアの箱舟の文脈で固定されていて、取られる者たちは滅ぶ者たちです。いつの間にか携挙思想は、「自分たちは苦しみを避けたい」という人間の欲に従って「逃げること」を選ばせています。しかしイエス様は、その者たちは滅ぶと言っています。  なぜディスペンセーションが携挙を挟んでくるのか。それはイスラエルが終末期において救いの中心になるというロジックを立てるからです。最初に言った通り、彼らは「イスラエルは神殿が再度再建され、祭祀制度が戻り、動物の生贄が始まる」とします。それを彼らは記念としてだと言いますが、これはヘブル書が言っていることと全く違います。生贄はもうありません。イエス・キリストが神殿です。  そして彼らのロジックは、終末においてそれをイスラエル国家が、イスラエル民族が回復する、それが神の救いのご計画の第一義だという形で来ます。  そうすると彼らの考え方で一番困ることがあります。それは「選ばれた者たちはイスラエルでなければならない」ということです。異邦人はおこぼれをもらうという考え方です。  さらに、教会が大患難期を通って存在していくと困るのです。なぜなら教会がキリストの体であり主役だからです。この主役である教会が大患難期を通って存在していくと、主役がイスラエルに行かないのです。  だから彼らは教会を取り除くのです。「携挙」という言葉は聖書にはありません。しかし第一コリント15章を携挙だと言って使い、教会を一回外に出して、残りの患難期7年のそこからイスラエルが主役で出てくるとします。そして神殿を作らせて、祭祀制度を始め、動物の犠牲を始める。これは聖書が非難している律法主義に戻ることです。  だから彼らは旧約を全うしたいのです。なぜなら旧約の中にキリストを見つけることができなかったからです。旧約の中に神の主権とキリストとの結合を見つけられず、旧約を読んでもキリストを見つけられなかったのです。だからそこに行きます。それは滅びの道です。  患難はこのように選ばれた者たちが必ず通る道です。聖書に患難を通らないクリスチャンなど一つも書いていません。聖書の中で患難を通らないクリスチャンは書いていません。どうしたらそうやって読めるのですか。読めるのです。それは聖書の御言葉をねじ曲げるのです。  ですから大患難の時代は、イエス様が話している通り、イエス様が昇天してから神殿がローマ軍に囲まれて破壊されたところからもう始まっています。何百万というユダヤ人たちが迫害を受け、殺されていきました。今まで見たこともないような悲惨な状態です。イエス様はそう予言しています。すでにそこで予言が成就しています。そしてこの患難は、イエス様が再臨されるまで必ず続いていきます。  三つ目に反キリストについて話します。反キリストは一人の超人物か。反キリストをどのように考えるのか。人々は反キリストを探そうとします。反キリストは額に666と書いてあるから、お前の頭の中に666があるか、などと冗談で言っていた時があります。しかし第一ヨハネ2:18はこう言っています。 「子どもたち。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストが来ると聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることが分かります。」   ここでヨハネは「今や多くの反キリストが現れています」と複数形で語っています。反キリストは歴史の中で現れ続けるということです。そして「それによって今が終わりの時であることが分かります」と言っています。終わりの時は始まっているのです。  しかしディスペンセーションは「終わりの時はまだ来ていない」と言います。けれどもヨハネは「今が終わりの時であることが分かります」と言っています。なぜなら反キリストが多く現れているからです。だからイエス様が昇天してから再臨される間、反キリストは多数現れるということです。  そして反キリストというのは、キリストの人性であるキリストと、神であるキリストを否定する者たちです。キリストの受肉を否定するということは、キリストが人であることを否定し、そして神であることを否定します。すなわち十字架と結合を否定しているのです。十字架は、人として来られたキリストと共に死んだことです。それは代表です。これを破壊します。福音を破壊します。彼らは教会の真の教会の内外から現れてきます。偽教師です。そして現れ続けます。彼らは人間中心主義の思想です。  ヨハネは「目を覚ましていなさい」と語ります。この「目を覚ましていなさい」とは、自分がキリストの子どもであること、キリストと共によみがえったこと、この位置にしっかりと自分がいること、その生き方を続けなさいということです。  パウロもテサロニケで、この人間中心主義の思想、教えに対して真っ向から戦っています。そのように私たちにパウロは語っています。ヨハネも同じように、獣の支配、偽りの礼拝を描いています。「すべての者が彼を拝んだ」と書いてあります。この「すべての者が彼を拝んだ」とは、刻印を押されているということです。反キリストによって獣の刻印を押されています。  終末において、権力と宗教が結合した反キリスト体制が政治としても生まれてくる可能性はあります。しかし聖書は、反キリストは一人の人物ではないと言っています。反キリストの霊は福音に対する敵対構造です。それは人間中心主義です。それは外面的な宗教、また啓蒙主義的な人間中心主義の中に潜んでいる霊そのものです。   支配神学や霊的戦い神学、決心主義、神秘主義、あらゆる人間中心の「私が私によって、私による信仰」「私は強い信仰を持っている」「私はまだ腐っていない」という態度が反キリストです。そこに反キリストの霊があります。  では獣の刻印とは何を意味するのか。黙示録13章で刻印のことを言っていますが、最近オカルトや漫画などで、反キリストの刻印をマイクロチップだとか国家管理だとか生体認証だとかワクチンだとか電子通貨だとか言う人たちがいます。これは幼稚です。黙示録を理解していない人たちです。照明がないから分からないのかもしれませんが、それにしても聖書を読んでいないのだと思います。  ここで刻印の対比構造を見ればすぐ分かります。黙示録7:3を見てください。「私たちの神のしもべたちの額に印を押すまでは、地にも海にも木にも害を与えてはならない。」ここには、「神のしもべの額に印を押す」と書いてあります。その後十四万四千の話が出てきて、その後すべての国民の話が出てきます。こういう文脈です。  そして「印を押す」ということは、エペソ1章が言っている通り、聖霊によって印を押されることです。選ばれた者たちに聖霊が内住するということです。エペソ書に書かれている、選ばれた人々の救いの証印です。 また、「四方から集める」とありますが、それはどのように集めるかというと、一か所に物理的に集めることではありません。宇宙的な教会のことです。すべての信じている人たちはキリストにあって御霊によって一つになるということです。  続けて、黙示録13:16-17に来ます。「また、彼は、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者に、その右の手か額に刻印を受けさせた。この刻印を持たない者は、だれも買うことも売ることもできなかった。」これを「生体認証だ」「電子マネーだ」と漫画で言うのは違います。この刻印は象徴です。対比構造を見てください。先ほど「聖霊による印」を言いました。そして、今ここで「獣の刻印」が対比で出てくるわけです。  この刻印は、あなたが聖霊の証印を押されているか、すなわち聖霊の内住を受けているか、獣の刻印を押されているかということです。獣の刻印とは、人間中心主義的な、啓蒙主義的な人間中心主義の思想、思い、感情、それに支配されているかどうかです。そしてその現実は今起こっています。  あなたが聖霊によって新たに生まれるまでは、獣の刻印を押されているのです。死んでいたのです。そしてあなたが、どこに属しているかの問題は、誰を礼拝しているか、どの支配に従っているかです。あなたが神のものであるか、サタンのものであるか、そのどちらかに忠誠があるかです。それの象徴です。  刻印とは、あなたが真の神を礼拝し忠誠を保つか、サタンに礼拝し忠誠を保つかという話です。「刻印がないと売ることも買うこともできない」とは、社会で生きる中で必ずそういう時が来るということです。信仰をしていなければ、社会生活で困るという状況が生まれてきます。経済的損失や社会的迫害を受けるということを象徴しています。それは心に押されている刻印です。  聖霊を受けている人、真のクリスチャンは、どんな時にも神に礼拝し、神に忠誠を保ちます。それが刻印です。聖霊による刻印です。逆に獣の刻印は人間中心主義です。「私は腐っていない」という態度です。表面的なクリスチャンです。ローマ帝国時代にも皇帝礼拝を拒否した者は社会的に生きにくくなりました。中世においても、ある宗教的な同調を受けなければ社会で生きることが困難でした。日本でも日常の中にそのような状況があるでしょう。友達との付き合いもあります。ゲームもあります。iPadもあります。音楽もあります。異端の宗教もあります。  その中において、あなたが神の主権とキリストとの結合の福音、パウロが伝える福音を聞いた時に、あなたはどちらに従うかと問われます。表面的、人間中心主義のキリスト教に従う場合、彼らはあなたを仲間とします。「教会に行っているから救われている」「信じているから大丈夫」「私は信仰がある」という外面的な言葉でまとまります。しかしそれらを拒絶する者は批判されます。攻撃を受けます。罵声を受けます。損失や迫害を受けます。それは教会の中で、地域コミュニティの中で、家庭の中で起こってきます。  適当に嘘をついて逃げる人がいます。口先で逃げる人がいます。「今日は法事」の後の食事だけなどと言って妥協する人がいます。しかし問われるのは「あなたは神を礼拝していて、神に忠誠を保っていますか」ということです。  もし心が嘘をついて逃げるのであれば、それは獣に従っているのと本質的には変わりません。ビンタをされようが、嘲られようが、私はこの神に忠誠を尽くすという姿勢を保つ場合、損失を受け、迫害を受けます。しかし、信仰は聖霊によって証印を受けているのです。  嘘を言って逃げる人、偽りの外面的な信仰で神に近づく人は、真の神に礼拝と忠誠を捧げていません。そういう人たちは行動で出てきます。外面的には礼拝に来て祈りますが、実態は偽りです。  それは、聖霊の印を受けていないということです。逆に獣の刻印をまだ持っているのです。だからその人は新たに生まれなければならないのです。死んでいるからです。  刻印はすぐには剥がれないのです。死なない限り剥がれません。だから「自分はまだ腐っている」と認めることは重要です。それによって神はあなたをキリストと共に死んだところに置いてくださいます。十字架の強盗も主税人も、死んでいるのです。キリストと一緒に死んでいるのです。  ですから刻印というのは、目に見える印だとかチップではありません。そういう幼稚な考え方は捨てなければならないのです。第三神殿と同じくらい愚かです。真の神に礼拝と忠誠を捧げず、獣の偽りの礼拝に従い、その中で生きる者が獣の刻印を持つ者です。偽りが刻印を表します。これが刻印の意味です。  五番目に結局、終末論の中心は「誰が残るか」ではありません。「誰に属するか」です。いつもそうです。聖書はいつも「誰に属するか」です。  終末論が歪められると、「いつ起こるか」「誰が敵か」「どんな事件が生じているのか」そちらに関心が行きます。それは終末論が歪められている状態です。すなわち福音ではありません。しかし聖書が一貫して問うのは、あなたは誰に属していますか、誰を王として礼拝していますか、迫害の中で誰に従い続けますか、です。  黙示録の核心は獣の正体ではありません。「子羊に従う者たちの忍耐」にあります。子羊に従う忍耐です。しかし忍耐は自分が頑張って作るものではありません。  ここまでを一本でまとめるとこういうことです。旧約の神殿、神殿制度、動物の犠牲は、AD70年のローマ軍の攻撃によって完全に消滅しました。神殿制度もありません。神殿もありません。動物犠牲もありません。それは神が行ったのです。裁きがイエス様によって行われたのです。イエス様がAD70年に破壊したのです。  それは、選ばれた民が神の民として教会として出現することにつながっています。キリストの初臨から再臨までが、完全な欠けのない期間として象徴的に描かれています。教会は患難と証しの中に置かれ続けます。反キリスト的勢力は歴史の中を通して現れ続けます。再臨は完成であり、復活、裁き、新天新地が同時に起こります。教会は途中で地上から取り去られません。  終末の中心の舞台はイスラエル国家ではなく、選ばれた民です。イスラエルの中の選ばれた民と異邦人の選ばれた民で構成されている「十二×十二=十四万四千」が中心です。  したがって終末論は未来予測のための年表解析ではありません。黙示録は、苦難の中で信仰を保ちながら、また保たれながら生きていく選ばれた者たちを支える啓示です。  最後に徹底的に重要な点があります。携挙思想や年表終末論は、あなたたちの目を出来事に向けさせ続けたのです。イスラエルに何か起こるとそちらに目が行き、アメリカで何か起こるとそちらに目が行き、起こってくる現象に目が行きます。決して王であるキリストに目が行きません。  しかし聖書は、信仰者の目を、選ばれている者の目を、常に、すでに王であるキリストに向けさせ続けます。は永遠の時の始まる前の結合から、永遠の未来に目を向けさせます。  偽りの教えは恐怖による備えになります。必ず携挙思想や年表終末論の中には恐怖に対する備えがあります。そして「自分が救われていなかったらどうしよう」という思いが絶えずあります。  しかし真の救いは結合にある命です。その命は平安です。新約の終末論の中心です。その中心の中で私たちは忍耐について学びます。黙示録13:10に「ここに聖徒たちの忍耐と信仰がある」とあります。ここで言われている忍耐は、逃げ出さない決意や気合や精神力ではありません。  文脈上、獣の支配が全地に及び、抵抗すれば殺され、礼拝すれば妥協になるという逃げ場のない状態に、神が民を置いておられることを前提にしています。  例えば会社で偶像礼拝への同調を迫られ、断れば立場を失い、従えば妥協になるというような状況が来ます。辞めれば生活が損害を受ける。逃げ場がない。これが「忍耐がある」ということです。  忍耐とは、自分で選び直す余地のない場所、逃げられない場所に神があなたを置いているという現実そのものです。  黙示録14:12に「ここに神の戒めを守り、イエスへの信仰を保っている聖徒たちの忍耐がある」とあります。  信仰は神からの賜物です。誰も自分の内から神を信じる信仰を生み出すことはできません。私たちは罪の中で死んでいたからです。私たちのうちに良いものは一つもありません。  忍耐も神からの賜物です。神が信仰から離れない位置に置いておられるという事実です。  教会が苦しみを避けて一時的に取り去られる。これは楽です。未信者や不信仰な者は飛びつきます。「楽だ」と言います。しかしそれは「キリストがある」ではなく「自分の都合がある」という態度です。  ディスペンセーションの教えは、黙示録が語る忍耐と信仰の歩みを破壊しています。黙示録が示すのは、苦難の中にあってもキリストとの結合に立ち続ける者たち、最後まで忠実に歩む信仰の姿です。だからこそ黙示録は、携挙で逃げるのではなく、現実の苦難の中で主に結びついて終わりの日の栄光を待ち望む信仰を強調しています。  永遠の時の始まる前から、キリストとの結合に選ばれたという源泉から始まって、再生、そして信仰、悔い改め、義認、聖化、そして栄化と続く福音の一貫した全体構造の流れの中で、私たちはどんな試練の中でも、私たちが頑張るのではなく、キリストが私たちと一体であるがゆえに、その立場の中で生かされます。その全体構造を踏まえてこそ、黙示録も単なる未来の出来事探しではなくなります。  この全体構造を理解してください。キリストとの結合に選ばれたという源泉から始まり、再生、信仰、義認、聖化、栄化と続く一貫した福音の流れを踏まえて黙示録を理解するのです。もはや単なる未来の出来事探しではなく、神の主権の中で結合された者が忍耐の中に置かれ、最終的に栄光の完成へ至る希望の書であることが理解できます。  結局、すべては神から始まり、神によってなり、神に至ります。その永遠の結合からすべてが展開していっていることを理解してください。  黙示録14:13にこうあります。「また、私は天からの声がこう言うのを聞いた。『書き記せ。今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。』御霊も言われる。『しかり、彼らはその労苦から解放される。彼らの行いは彼らについて行く。』」  ここで天の声と御霊が強調しているのは、迫害の時代にあってなお、結合にある者の行き先が破滅ではなく完成であることです。忍耐の焦点は状況を変えることではありません。迫害に勝利することでもありません。 まして信仰の努力が報われるという人間中心主義でもありません。  忍耐の焦点は、生きるにしても死ぬにしても、結合の中に留められるということです。生きても死んでも、結合の中に留められ、そのまま完成に導かれるということです。  「主にあって死ぬ」とは単に肉体が死ぬ出来事ではありません。死が訪れる時でさえ、あなたはキリストとの結合の中にいて、神はあなたを守り続け、必ずあなたを完成へ導きます。殉教であっても、そうでなくても、生と死のすべてが結合に貫かれるという意味です。  「労苦から解放される」とは、途中で苦しみが軽くなることではありません。結合の完成によって労苦そのものが終わるという終末的な解放です。「彼らの行いは彼らについて行く」とは、行いが救いの条件になるのではなく、神がキリストにあって私たちを造られたときに備えられていた良い働きが、時間の中で顕現し、神の前に喜ばれるということです。  したがって黙示録は苦難からの脱出を約束していません。苦難のただ中に置かれたまま、結合から引き離されることなく、生を通しても死を通しても導かれるという救いの在り方を語っています。  忍耐とは、この地上で状況が改善されるまで踏ん張ることではありません。生きるにしても死ぬにしても、結合の支配のもとに守られ続け、最終的な栄化、キリストの再臨に至るまで導かれていく過程そのものです。 「忍耐がある」とは「忍耐を持ちなさい」と言っているのではありません。「忍耐がある」と言っています。その忍耐とは、結合の支配のもとにあなたが守られ続け、最終的な栄光に至るまで導かれている過程のことです。  忍耐の最終点は生き残ることではありません。忍耐の最終点は、最後まで永遠の結合の中に留め続けられ、 栄化の完成へ至ることです。  最後に、黙示録は選ばれた人々がどこに導かれるのかを示しています。 黙示録21:3-4にこうあります。「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をぬぐい去ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」  「見よ、神の幕屋が人とともにある。」これが完成です。神は人々の涙をその手で拭われます。この「神の幕屋が人とともにある」とは、神との結合が現実のものとなっているということです。永遠と実体が一致することです。  そして「神が涙を拭う」とありますが、神の手があなたの頬に触れるということです。あなたが栄化されていなければ、朽ちる者のままでは神の栄光に耐えられません。神があなたに触れるということは、あなたも栄光化されているという証です。  選ばれた者の結合の完成とは、神が信者を永遠の過去においてキリストと結合し、時の流れの中でその結合が顕現し、そして完成するということです。これは福音の一貫した救済構造です。  神は時の始まる前から永遠の未来に至るまで、ずっと結合の中でご自分の民とともにおられ、見失わず、奪われず、引き離されることなく守り続けています。  ヨハネ10:28に「だれも彼らをわたしの手から奪い去ることはできない」とあります。  選ばれた人々には罪の性質の残骸があります。死の体があります。この世の苦難があります。時の中において、なお罪の性質と戦い、死の体をまとい、この世の苦難の中に置かれています。  しかし完成時において、これらはすべて取り除かれます。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされます。罪の性質は消え、死は勝利に飲み込まれ、この世は過ぎ去り、新しい天と地が到来します。  第一コリント15章に「死は勝利に飲み込まれた」とあります。黙示録21:1に「最初の天と最初の地は過ぎ去った」とあります。21:5に「見よ、わたしはすべてを新しくする」とあります。  最後です。黙示録は、苦難から逃げ切った者の勝利ではありません。黙示録は、最後までキリストとの永遠の結合の中に置かれ、患難の中を通過してきた選ばれた十四万四千、キリストの民、イスラエルの中の選ばれた民と異邦人の選ばれた民が、ともに到達する完成です。  終末とは患難からの逃避でも携挙の時でもありません。終末とは永遠の結合が完全に顕現し、現れ、完成する時です。ハレルヤ。アーメン。ではお祈りします。  愛する天のお父さま。感謝します。私たちの黙示録に対する考えが今日一変したことを感謝します。私たちの理解をはるかに超えた恵みの素晴らしさ、終末論がこれからどうなるのかという出来事探しから、神の召しに生きるというその意味を、今日あなたが語ってくださったことを感謝します。  愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。

  • 「私は変わりたい、変えてください」から先に進んでいるか

    2026.9.6 豊川の家の教会礼拝メッセージ 「私は変わりたい、変えてください」から先に進んでいるか 前回、「罪との葛藤」について考えました。 そこで確認したことは、ただ「変わりたい」と思うだけでは足りないということでした。 「神さま、変えてください」と祈ることは大切です。しかし、その祈りのあとに、「だから今、従います。」が続かなければなりません。分かっただけでは終わらない。反省しただけでは終わらない。祈っただけでは終わらない。実際に従う。では、前回から今日まで、その従順は生活の中に現れているでしょうか。 前回から、何が変わったのか 「変わりたい」と言った。「自分から動けるようになりたい」と言った。「責任を持ちたい」と言った。「逃げたくない」と言った。 その言葉が本物なら、少しずつでも行動に変化が現れます。 以前より自分から動く。言われる前に考える。自分から確認する。失敗したら自分で修正する。人のせいにせず、自分の責任を認める。完璧である必要はありません。しかし、何も変わらないまま「変わりたい」という言葉だけを繰り返すことはできません。 問われているのは、気持ちではありません。**実際に従っているか。**そこです。 「神さま、変えてください」と本当に叫んでいるのか 「神さま、変えてください。」 この祈りは大切です。しかし、本当に自分の罪を前にして、奈落の底から叫ぶように、「主よ、助けてください。」と神を求めているでしょうか。 まさか、30秒ほど一度祈って、「祈ったから終わり。」になってはいないでしょうか。 問題は、30秒か30分かではありません。問題は、本当に神を求めているのかということです。 詩篇42篇の詩人は言います。 「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは神を 生ける神を求めて渇いています。」詩篇42篇1~2節 鹿が水を求めるのは、飾りではありません。水がなければ生きられないからです。 同じように、新しくされた魂は、「神がいなくても何とかなる。」とは思いません。 「私はキリストなしでは立てない。」「私はキリストなしでは罪と戦えない。」「私はキリストを必要としている。」 だから求めます。だからすがります。 本当に自分では立てないと知った人は、自分の力に戻るのではなく、助けてくださる方により頼みます。 それなのに、「神さま、変えてください。」と祈ったあと、すぐ元の生き方に戻る。 逃げる。人に任せる。責任を取らない。分かっているのに動かない。 それなら、「変えてください」という祈りが口先だけになっていないか、真剣に考えなければなりません。 新しく創造された心は、絶えずキリストを求める 詩篇42篇の言葉は、一度だけ神を求めた人の言葉ではありません。 「私のたましいは神を 生ける神を求めて渇いています。」 魂そのものが神を求めています。 ただ、「問題を解決してください。」ではありません。 ただ、「この状況を変えてください。」でもありません。 「神よ、私はあなたご自身を必要としています。」という渇きです。 これが、新しく創造された心の方向です。 キリストにすがることは、一時的な感情ではありません。 苦しいときだけ求める。失敗したときだけ祈る。問題が起きたときだけ助けを求める。 それだけではありません。 新しく創造された心は、絶えずキリストを求めます。 それは、御霊によって新しくされた心が、もはや自分自身を最後の支えとはしないからです。 「自分では立てない。」「自分では罪に勝てない。」「自分にはキリストが必要だ。」 この根本的な依存が、真の信仰者のうちにあります。 それは、いつも同じ強さの感情があるという意味ではありません。 祈りがいつも熱いという意味でもありません。 信仰者にも、うなだれるときがあります。思い乱れるときがあります。涙の中にいることもあります。 詩篇42篇の詩人自身がそうでした。 しかし、その中で自分の魂に語ります。 「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」詩篇42篇5節 ここに、生きた信仰があります。 うなだれない信仰ではありません。苦しまない信仰でもありません。 うなだれても、神を待ち望む信仰です。 倒れても、神を求める。罪に負けても、神から離れて平気ではいられない。またキリストへ戻る。またキリストにすがる。また御顔を求める。 新しい心は、「もういい。」と神から離れて平気ではありません。 御霊によって、また神へ向けられます。 鹿が水を求めるように、またキリストを求めるのです。 すがることと、すぐ従うことは表裏一体 そして、神を求めることは、従うことから切り離されません。 キリストにすがることと、すぐ従うことは表裏一体です。 鹿が水を求めながら、水から逃げることはありません。本当に渇いているなら、水へ向かいます。 同じように、「主よ、助けてください。」とキリストを求めながら、キリストが示された道から逃げ続けることはできません。自分では立てないと知っているから、キリストにすがる。キリストにすがるから、与えられた力によって従う。また弱さを知る。またキリストにすがる。そして、また従う。 これが信仰者の歩みです。 「キリストにすがっています。」と言いながら、従わない。 「神さま、助けてください。」と言いながら、示されたことを先延ばしにする。 「変えてください。」と言いながら、自分から動かない。 それでは、すがることと従うことが切り離されています。 真の信仰は、「いつか従います。」ではありません。 「今、従います。」です。 祈る。そして従う。助けを求める。そして動く。 すがる。そして、すぐ従う。 従順は必ず行動に現れるヤコブは言います。 「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」ヤコブ1章22節 御言葉を聞いた。注意された。自分の問題も分かった。 それでも同じ生き方を続けるなら、「分かっています」という言葉だけでは足りません。 神を求める心は、生活の方向を変えます。 完全になるという意味ではありません。二度と失敗しないという意味でもありません。 しかし、方向が変わります。 以前なら逃げていたところで、逃げずに向き合う。以前なら誰かを待っていたところで、自分から動く。以前なら言い訳していたところで、自分の責任を認める。以前なら放置していたところで、最後まで確認する。 なぜなら、その人が求めているのは、自分の楽な道ではなく、神だからです。 「生ける神を求めて渇いています。」 その渇きは、必ず神に従う方向へ人を動かします。 罪との葛藤には、実際の戦いがある 詩篇42篇の詩人は、自分の魂に語りかけました。 「神を待ち望め。」 自分の心がうなだれているからこそ、自分の心を神へ向け直したのです。 罪との戦いも同じです。 逃げたい。しかし、神を待ち望んで、逃げない。 人に任せたい。しかし、神にすがって、自分から動く。 言い訳したい。しかし、神の御前で責任を認める。 責任を避けたい。しかし、神に助けを求めて責任を取る。 これが罪との戦いです。 戦って負けることはあります。しかし、負けることと、最初から戦わないことは違います。 倒れたとき、生きた信仰は自分の内側だけを見続けません。 「わがたましいよ、なぜうなだれているのか。」 そして自分を神へ向けます。 「神を待ち望め。」 倒れても、キリストに戻る。罪を正当化しない。そして、もう一度従う。 そこに罪との戦いがあります。 また、「できない」という言葉の中に、「したくない。」「面倒だ。」「誰かに任せたい。」「責任を負いたくない。」という心が隠れていることもあります。 もちろん、本当にできないことはあります。しかし、できることまでしないなら、それは単なる弱さではありません。 従順の問題です。 悔い改めは、神へ向きを変えること 本当の悔い改めとは、「ごめんなさい。」と言うだけではありません。 向きを変えることです。 そして、その向きはただ「悪いことから良いことへ」ではありません。 自分から神へ向き直ることです。 自己依存から、キリストへの依存へ。逃げる方向から、神に従う方向へ。 人に任せていたなら、自分から動く。待っていたなら、自分から確認する。逃げていたなら、向き合う。失敗したなら、自分から修正する。言い訳していたなら、自分の責任を認める。 なぜそうするのか。 ただ立派な人間になるためではありません。 神を求めているからです。神の御前を歩みたいからです。 詩篇42篇の詩人が、「いつになれば私は行って 神の御前に出られるのでしょうか。」と願ったように、新しくされた心は神の御前を求めます。 だから、生活の中でも神に従うのです。 考える。行動する。確認する。修正する。責任を取る。 こうした具体的な生活の中に、神へ向き直った心が現れます。 自分の力で変わるのではない。しかし、何もしなくてよいのでもない これは、「もっと自分で頑張れ。」という話ではありません。 しかし同時に、「神さまが変えてくださるのだから、自分は何もしなくてよい。」という話でもありません。 この二つは、どちらも間違いです。 イエスさまは言われました。 「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。」ヨハネ15章5節 鹿が水なしでは生きられないように、私たちはキリストを離れて生きることはできません。 だから、キリストを求めます。キリストにすがります。御霊の助けを求めます。 しかし、そこで何もしないのではありません。 パウロは言います。 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」 ピリピ2章13節 神が働いてくださる。だからこそ、従うのです。 神が力を与えてくださる。だからこそ、与えられた力によって動くのです。 「自分の力ではできない。」だから、キリストにすがる。 「キリストが助けてくださる。」だから、すぐ従う。 自分の力だけで頑張るのでもない。何もしないで待つのでもない。 キリストを求め、キリストにすがり、御霊によって、自分が従う。 これが聖書の歩みです。 だから、「神さまが変えてくださるまで待ちます。」ではありません。 「主よ、私はあなたを求めます。助けてください。だから今、従います。」です。 最後に ― 鹿が水を求めるように 最後に、もう一度、詩篇42篇に戻ります。 「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」 これが、生きている信仰の姿です。 生きている信仰は、人間が自分の中から作り出すものではありません。 生きている信仰は、キリストとの結合の結果として現れます。 御霊によってキリストに結ばれ、キリストのいのちにあずかった者の中に、新しい渇きが生まれます。 神を求める。生ける神を求める。キリストを必要とする。キリストにすがる。そして、キリストに従う。 これが、生きた信仰です。 反対に、死んでいる信仰とは、口では「信じています」と言えても、この神への渇きがなく、キリストにより頼むこともなく、罪との戦いもなく、従順の実も現れない信仰です。 ヤコブは言います。「行いのない信仰は死んでいるのです。」ヤコブ2章26節 行いが信仰を生かすのではありません。従順が私たちを救うのでもありません。ヤコブは言います。 「行いのない信仰は死んでいるのです。」ヤコブ2章26節 しかし、行いが信仰を生かすのではありません。従順によって私たちが救われるのでもありません。聖書は、信仰が強められることや、信仰の強い者・弱い者について語っています。しかし、「強い信仰」とは、自分の内側に強い信じる力を持つことではありません。信仰の強さは、自分を信じる強さではなく、自分から目を離し、約束してくださった神により頼むところにあります。私たちを支えるのは、私たちの信仰の強さではありません。信仰がより頼むお方、キリストが私たちを支えてくださるのです。 強い方は、キリストだけです。 信仰とは、試練を通して神によって砕かれ、もはや自分の力、自分の方法、自分の知識、この世のものに頼ることをやめ、ただ神により頼む心です。それは、自分には何もないことを知って差し出す、空の手のようなものです。空の器と言ってもよいでしょう。私たちは、自分の中から義や聖さや力を生み出すのではありません。御霊によってキリストに結ばれ、キリストからすべてを受け取ります。 強い方はキリストだけです。 キリストこそ、私たちの義であり、いのちであり、力です。そして、キリストに結ばれた者のうちには、そのキリストのいのちが、真の強さ、義、聖さ、優しさ、思いやり、善、希望、愛、そして従順という実となって現れていきます。ですから、行いは信仰に命を与えるものではありません。生きた信仰だからこそ、行いという実が現れるのです。 私たちを救うのは行いではなく、キリストだけです。 そして神は、試練を通して私たちの自己依存を砕き、私たちの手を空にし、ただキリストにより頼む者へと造り変えてくださいます。だから、本当にキリストに結ばれた信仰は、実を結ばないままでは終わりません。 ですから順序は逆です。 キリストに結ばれている。だから、生きた信仰が現れる。生きた信仰がある。だから、神を求める。神を求めるから、キリストにすがる。キリストにすがるから、御霊によって従う。そして、従順の実が現れる。 木が実を結ぶから生きるのではありません。木が生きているから実を結びます。 同じように、生きている魂には渇きがあります。 「私のたましいは神を 生ける神を求めて渇いています。」 そして、その渇きは、生活の中に現れます。 神を求めるから、逃げたままでいたくない。神を求めるから、人のせいにしたままでいたくない。神を求めるから、罪を正当化したままでいたくない。神を求めるから、神が示されたことに従いたい。 もちろん、生きた信仰も倒れます。うなだれます。思い乱れます。涙を流します。 しかし、そこで終わりません。 詩篇42篇は言います。 「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。」 これが、生きた信仰です。 倒れても、「神を待ち望め。」 罪に負けても、「神を待ち望め。」 逃げたくなっても、「神を待ち望め。」 自分ではできないと思っても、「神を待ち望め。」 そして、神を待ち望むとは、何もしないで座っていることではありません。 神にすがり、神の力によって、今与えられていることに従うことです。 だから、この説教の最後の問いは一つです。 あなたの魂は、今、何を求めていますか。 自分の楽さでしょうか。自分を守ることでしょうか。誰かに任せて責任から逃れることでしょうか。 それとも、鹿が水を求めるように、生ける神を求めているでしょうか。 もし神を求めているなら、キリストにすがってください。そして、すぐ従ってください。うなだれても、神を待ち望む。倒れても、キリストに戻る。罪に負けても、また立ち上がる。そして、御霊によって従う。 今日、神を求める。今日、キリストにすがる。今日、悔い改める。今日、従う。 「私のたましいは神を 生ける神を求めて渇いています。」 この渇きから、すがる。 そして、すぐ従う。 主はいわれます。 「イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」 そこに、キリストとの結合から現れる、生きた信仰があります。

  • 誰が隣人となるのか?

    2026.9.2 The Word for you ルカの福音書10章25節から37節より、隣人についてイエス様が教えておられることを学びたいと思います。ここで語られているのは「誰を愛するのか」ではなく、「目の前の人にどう向き合うか」についてです。 ルカの福音書10章25節~ さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば命を得ます。」 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは誰ですか。」 イエスは答えられた……。 この箇所で語られているのが、有名な「良きサマリア人」の例え話です。律法の専門家がイエス様に「どうしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」と尋ねました。これはニコデモが言っていた「どうしたら神の国に入ることができるでしょうか?」と同じ問いです。 イエス様から「律法には何と書いてあるか?」と尋ねられた専門家は、「心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい。」と答えました。イエス様は「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。」と言われました。 ところが、この専門家は「では、私の隣人とは誰ですか?」とさらに質問しました。聖書は彼がこの質問をした理由を明確に書いています。「自分が正しいことを示そうとして」とあります。ここが、この例え話を理解する上で非常に大切なポイントです。 彼は律法を知らなかったわけではありません。「隣人を自分自身のように愛しなさい」ということは知っていました。問題は、「どうやって、自分はその律法を守れていることにするか。」ということです。もし隣人が「自分の家族」や「仲間のユダヤ人」、「自分に好意を持ってくれる人」だけであれば、「私はその人たちを愛しています。だから律法を守っています。」と言えます。だから彼は「隣人とは誰ですか?」と尋ねたのです。はっきり言えば、「具体的に誰までが隣人ですか?」と範囲を決めたかったのです。 しかし、イエス様はその線引きを壊されました。イエス様は誰が隣人なのかを、一つの例え話を通して語られます。 ある人(ユダヤ人)が強盗に襲われ、服を奪われ、殴られて半殺しの状態で道に投げ捨てられました。そこへ祭司が通りかかりました。祭司はその人を見ましたが、避けて道の反対側を通り過ぎていきました。次にレビ人が来ました。レビ人もその人を見ましたが、やはり反対側を通り過ぎました。この二人(祭司とレビ人)は、神様について何も知らない人たちではありません。律法を熟知し、宗教に深く関わってきた人たちです。しかし、困っている人を見ながら通り過ぎていきました。 そこへ一人のサマリア人が通りかかりました。当時、ユダヤ人とサマリア人の間には深い隔たりがありました。しかし、このサマリア人は倒れている人を見ると「かわいそうに」と思いました。それだけでは終わりませんでした。近づいて傷を手当てし、自分の家畜に乗せて宿屋まで運び、介抱し、費用を払いました。さらに「もし不足があれば、帰りに自分が払います。」とまで言ったのです。 ここでイエス様は、最初の質問とは違う問いを投げかけられます。律法の専門家は「私の隣人とは誰ですか」と、隣人の範囲を狭めようとしました。しかしイエス様の問いは違いました。 「この三人の中で、誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」 問いが変わっているのです。「誰が、私の隣人か」ではなく、「あなたが、誰かの隣人になっているか」ということです。 律法の専門家は「哀れみ深い行いをした人です。」と答えました。するとイエス様は「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われました。ここがこの例え話の結論です。 つまり、「隣人を選ぶ」のではないのです。私たちはともすると、愛する相手を選びたくなります。この人は好きだから助ける、仲間だから助ける、教会の人だから、お世話になったから助ける。しかし、この人は自分と違う、関係がない、この人の分まで責任は持てないと、線を引きたくなります。イエス様は、その線を打ち壊されました。 神の民はユダヤ人だけではありません。サマリア人も異邦人も、神様のご計画の中に選ばれています。そして、私たちには「誰が神様に選ばれているのか」は分かりません。だから「この人は関係ない」と自分側で決めて、愛する対象から外すことはできないのです。 目の前に困っている人がいる、助けを必要としている人がいる。その人に対して「この人は私の隣人だろうか?」と考えるのではありません。イエス様が言われたのは、「あなたがその人の隣人になるのだ。」ということです。 ここで分かる重要なことは、「隣人愛とは気持ちだけではない」ということです。サマリア人は「かわいそうだな」と思っただけではありませんでした。実際に動いたのです。近づき、手当てをし、運び、お金を出しました。愛は行動に現れます。 これは私たちの実生活に繋がっていきます。家庭の中で、教会で、職場や道端で困っている人がいるとき、「誰かがやるだろう」「自分の担当ではない」「自分には関係ない」と言って通り過ぎることがあります。祭司やレビ人も見なかったわけではありません。見ましたが、通り過ぎました。サマリア人も同じものを見ました。しかし、彼は近づきました。違いは「見えたかどうか」ではなく、「見た後にどうしたか」です。 「愛している」と言うことと、「責任を引き受ける」こと。ここで隣人愛と責任が繋がります。自分の前に置かれている問題から「関係ない」と言って逃げないこと。サマリア人は「なぜ私がここまでしなければならないのか」とは言わず、自分にできることを果たしました。 実生活における隣人愛は、困っている人に声をかけること、自分から手伝うこと、家の中で気づいたことを誰かに言われる前にすること、職場で自分の目の前にある問題を放置せず確認し、人のせいにせず責任を持つことかもしれません。隣人を愛することと、責任から逃げないことは同じなのです。 キリストと結ばれている者たちは、その結合ゆえに溢れてくる、喜びと希望と神を愛する心から、困っている人を見たら近づき、動きます。自分にできることを引き受けます。これが「良きサマリア人」の姿です。そしてこれはすべて、キリストを仰ぎ見る中で進む「聖化」の歩みです。 ここで大切なのは、隣人愛を単なる宗教的な道徳や、外面的な優しさに変質させないことです。聖書が語る隣人愛は、人間の中から作り出されるものではありません。神に選ばれた者は、御霊によってキリストに結ばれ、その結合の中で聖化されていきます。 聖化とは、ただ自分が少しずつ「良い人」になることではありません。神様は選ばれた者を様々な試練の中に通されます。その中で、自分の力では立てないこと、自分の知恵では解決できないこと、人間も自分自身も最後の望みにはならないことを知らされます。その中で、「キリストこそが最後の望みである」ことを深く知らされていくのです。 信仰者は試練の中で、絶えず主を見上げます。自分を見るのでも、状況だけを見るのでも、人を見るのでもなく、ただ主イエス・キリストを最後の望みとして仰ぎます。御霊はみことばを通じて私たちの心を照らし、神様が今何を求めておられるかを示されます。それは時に、私たちが本来見たくないものや、厄介なことかもしれません。しかし、そこで逃げるのではなく、神様が置かれた場所を歩んでいくのです。 イエス様は言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」 近づきなさい、手当てをしなさい、運びなさい、実際に動きなさい、と主は語られています。「かわいそうだな」と思うだけでは足りません。実際に動くのです。 それは、私達を試練や自分との戦いの中に連れていくかもしれません。「自分にはできない。」と思うこともあります。しかしその中で神様は思いを立たせ、「今、従いなさい」と語りかけておられます。私たちのうちに働く御霊の力によって、私たちは神様のみこころを行っていくことができるのです。 お祈りします 愛する天のお父様、隣人を愛することは責任から逃げないことと、まったく同じであること、そしてそれは単に「かわいそうだな」と思う気持ちだけでなく、実際に近づき、手当てし、運ぶという行動を伴って、私たちの生活に繋がっていることを教えてくださり感謝します。 私たちが御霊によって歩むとは、どれほど深いことでしょうか。心から今日の御言葉を感謝いたします。 イエス・キリストのお名前を通してお祈りいたします。アーメン。

  • レッテルによる欺きの危険性― 人物・教会・思想を見る「6本の物差し」―

    2026.8.30 豊川の家の教会礼拝メッセージ レッテルによる欺きの危険性― 人物・教会・思想を見る「6本の物差し」― 人物や教会、思想を評価するとき、私たちは異なる問題を一つの物差しで判断してしまうことがあります。たとえば、「右翼だから聖書的だ」「左翼だから福音的ではない」「キリスト教を名乗っているから福音を信じている」といった判断です。しかし、これは違う物差しを混ぜています。 「神は存在するのか」という問いと、「どの宗教を信じるのか」という問いは同じではありません。また、「どのような社会が望ましいか」という考えと、その人が現在の政治状況の中で左派・右派のどこに位置するかも同じではありません。さらに、キリスト教を名乗っていることと、その人の教えが福音の構造によって支配されていることも別問題です。 人物や教会、思想を見るときには、次の6本の物差しを分けて考える必要があります。 物差し 何を見るのか 代表例とその意味 A 世界観 神・世界・人間・歴史・存在をどう理解するか 有神論=神の存在を認める。 無神論=神の存在を認めない。 唯物論=物質を現実の基本と見る。 自然主義=自然界の中だけで現実を説明する B 宗教観 何を究極的な真理として信じ、どの宗教・思想体系に立つか キリスト教=聖書と三位一体の神を信じる。 仏教=仏教の教えに基づいて世界と人間を理解する。 神道=神々・祭祀・伝統を中心とする宗教観に立つ。 包括的思想体系=宗教でなくても人間・歴史・社会全体を説明する思想に立つ C 社会・政治観 国家・社会・権力・自由・平等・伝統をどう考えるか 保守主義=伝統・秩序・共同体の継続を重視する。自由主義=個人の自由と権利を重視する。 社会主義=平等や社会的統制・再分配を重視する。共産主義=私有財産や階級社会の克服を目指す D 経済観 財産・企業・市場・生産・分配をどう考えるか 市場経済=価格・生産・取引を市場の働きに委ねる。 社会主義経済=国家や社会による統制・再分配を重視する。 計画経済=生産や資源配分を国家が計画する E 政治的立場の分布 その国・時代の政治的な立場の分布の中で、どこに位置するか 左派=その国・時代で、平等・改革・社会的再分配などを比較的重視する側。 中道=左右どちらかに大きく偏らず、政策ごとに折衷的立場を取る側。 右派=その国・時代で、伝統・秩序・国家・市場などを比較的重視する側 F 福音構造 教え全体が福音の構造によって支配されているか 時の始まる前、キリストにあって選び → 再生 → 信仰 → 悔い改め → 義認 → 聖化 → 栄化 これは6段階ではありません。6本の別々の物差しです。 同じ人物を六つの異なる方向から見ています。A〜Eは、その人物の世界観・宗教・社会思想・経済思想・政治的立場を理解するための物差しです。F福音構造は、その人物が提示している教えが福音構造によって支配されているかを見る物差しです。したがって、A〜EからF福音構造を推論してはいけません。 たとえば、キリスト教徒であっても、社会・政治観では保守にも左派にもなり得ます。 したがって、キリスト教=右翼ではなく、左翼=無神論でもありません。 教会・牧師・神学者を見る中心は「福音構造」 教会・牧師・神学者の教えが福音的であるかを判定するとき、A〜EをF福音構造の判定根拠にしてはいけません。その人物が有神論者であること、キリスト教を名乗っていること、社会的に保守であること、右派であることは、その教えが福音的であることの証明にはなりません。 反対に、左派であることも、その教えが福音的ではないことの証明にはなりません。 見るべきなのは、 その人物が実際に何を教え、その教えがどのような構造になっているかです。 F福音構造で見る福音の大きな流れは、 時の始まる前、 キリストにあって選び → 再生 → 信仰 → 悔い改め → 義認 → 聖化 → 栄化です。 救いの始まりは人間ではなく神です。人間が自分の決心や行為によって救いを始めるのではありません。また、F福音構造が判定するのは、その人物が最終的に救われているかどうかではありません。その人物が提示している教えの構造を判定します。 「キリスト」「十字架」「聖霊」「聖書」という言葉を使っているだけでは、福音構造が正しいとは限りません。 聖書解釈もF福音構造で見る 聖書解釈についても、旧約から現在へ直接線を引くのではなく、キリストにおける成就を見る必要があります。大きな流れは、 「旧約 → キリスト → キリストにおける成就 → 新しい契約 → 現在の私たち」です。 したがって、旧約イスラエル → 現代国家 / 旧約の土地 → 現代の土地・国家 / 旧約の戦争 → 現代の霊的戦争 / 旧約の敵 → 現代の悪霊・地域霊 / 旧約の預言者の行動 → 現代人の預言的行動と直接結びつける場合には、「それはキリストにおいて、どのように成就したのか」を問う必要があります。この原則は新約の福音書、書簡についても全く同じです。問題はキリストという言葉を使っているかではありません。キリストとその成就が、聖書解釈そのものを支配しているかです。 F 福音構造の評価 評価 内容 ◎ 福音構造が明確 神を主語とする福音構造が教え全体を一貫して支配している ○ 福音構造を基本的に保持 福音の基本構造を保持しているが、一部に検討すべき問題がある △ 福音構造が混在 福音構造と、人間の決断・行為・特殊体験・旧約直接適用などが混在している × 福音構造から逸脱 人間の行為、特殊体験、旧約直接適用、別の霊的原理などが入り、福音構造を変質させている 「×」は、その人物が救われていないという最終判定ではありません。 提示されている教えの構造に対する判定です。 【事例】人物を見る 4人を「6本の物差し」で見る 人物 A 世界観 B 宗教観 C 社会・政治観 D 経済観 E 政治的立場の分布 F 福音構造 R.C.スプロール 有神論・聖書的創造論 改革派神学 保守的 特定困難 右派 ◎ 福音構造が明確 ジョン・マッカーサー 有神論・聖書的創造論 保守的福音主義・カルヴァン主義的/ディスペンセーション主義 社会的保守 特定困難 右派 ◎ 福音構造が明確 A牧師 有神論・聖書的創造論 ディスペンセーション主義・フリーグレース系 イスラエル支持・保守的 特定困難 右派 × 福音構造から逸脱 B牧師 有神論・霊的世界を強く強調 福音派・聖霊派・霊的戦い神学 戦争責任・歴史認識などを重視 特定困難 左派 × 福音構造から逸脱 Dについては、他の物差しから推測してはいけません。右派だから市場経済、左派だから社会主義とは限りません。明確な材料がなければ、D=特定困難とします。これも、物差しを混ぜないということです。 「事実 → 構造分析 → F福音構造判定」で見る F福音構造は、人物への好き嫌い、政治的位置、神学体系の名称だけで判定しません。 事実 → 構造分析 → 福音構造判定という同じ手順をすべての人物に当てます。 R.C.スプロール神の主権、選び、新生、信仰、義認、聖化、堅忍、栄化を、キリストを中心とする一つの救いとして教える。したがって、F福音構造=◎。 ジョン・マッカーサー神の主権、選び、新生、信仰、悔い改め、義認、聖化、堅忍を明確に教える。ディスペンセーション主義という名称やスプロールとの終末論上の違いを理由にF福音構造を下げることはしない。福音構造そのものを見れば、F福音構造=◎。 A牧師問題は「ディスペンセーション主義」という名称ではない。旧約の土地・契約・預言を民族的イスラエルへ直接的に継続させ、さらに救いと悔い改め・従順・聖化との関係を弱く扱う。その教えの構造そのものを見て、F福音構造=×と判定する。 B牧師問題は「聖霊派」「霊的戦い神学」という名称ではない。旧約の戦争・土地・敵・預言的行動から、現代の霊的戦い・地域・国家・預言的行動へ直接線を引き、キリストにおける成就を十分に通していない。その教えの構造そのものを見て、F福音構造=×と判定する。 したがって、A牧師が右派だから×なのではなく、B牧師が左派だから×なのでもありません。 また、A牧師がディスペンセーション主義だから×なのでも、B牧師が聖霊派だから×なのでもありません。レッテルを外して、実際の教えの構造に福音構造を当てます。 ●レッテルによる欺きはどこで起こるのか ・政治的に保守である → 自分と社会観が近い → 聖書的に見える → だから福音的である これは、E政治的な立場をF福音構造にすり替える欺きです。 反対に、 ・政治的に左派である → 自分と政治思想が違う → リベラルに見える → だから非福音的である これも、E政治的立場をF福音構造にすり替える欺きです。 さらに、 ・改革派だから福音的 / ディスペンセーションだから非福音的 / 聖霊派だから非福音的 と、神学体系の名称だけで判定するなら、これも同じレッテルによる誤りです。 ・右でも左でも、改革派でも福音派でも、ディスペンセーションでも聖霊派でも、福音は福音構造そのもので判定します。 ウエストミンスター大教理問答から この福音理解は、ウエストミンスター大教理問答が示している救いの構造とも一致します。 第65問は、見えない教会の会員がキリストによって受ける特別な恵みを、「恵みと栄光における、キリストとの結合と交わり」として示します。 第66問は、その結合について、選ばれた者がキリストに、「霊的かつ神秘的に、しかも現実に、分離することのできない仕方で」結ばれる神の恵みの働きであると教えます。 第67問では、有効召命を、神が選ばれた者を罪と死の状態から、イエス・キリストによる恵みと救いへ召し入れる、神の全能の力と恵みの働きとして教えます。 そして第75問は、聖化される者について、「世界の基が置かれる前に、聖なる者となるよう神によって選ばれた者」であることから始めます。 さらに第79問では、真に信じる者が最後まで守られる根拠の一つとして、「キリストとの分離することのできない結合」を挙げています。 つまり、大教理問答が描いているのも、人間が自分から神へ向かって救いを作り上げる構造ではありません。 時の始まる前、                                          キリストにあって選び → 再生 → 信仰 → 悔い改め → 義認 → 聖化 → 栄化という、 神から始まり、キリストにあって与えられ、最後まで神によって完成される救いです。 まとめ だから、人物や教会を見るときに問うべきことは、「右か、左か」ではありません。「改革派か、ディスペンセーションか、聖霊派か」という名称だけでもありません。 「世界観、宗教、社会・思想、経済、政治的な立場」のようなレッテルから福音構造を推論してはいけません。 その人が何を語っているのか。その聖書解釈はどこを中心としているのか。救いの主語は神なのか、人間なのか。キリストとその御業が本当に教え全体を支配しているのか。                            そこを見ます。 事実 → 構造分析 → 福音構造判定 そして最後に残るのは、この二つです。 ① レッテルではなく、実際の教えの構造を見る。              ② 左か右かではなく、福音を見る。 このメッセージでいう「危険性」とは、レッテルによって本当の福音判定を誤る危険性です。 具体的には、右派・左派、改革派・ディスペンセーション、聖霊派などの名称に引っ張られて、実際の教えの構造を見なくなることです。 その結果、 本当は福音構造から逸脱している教えを「自分と政治的に近いから聖書的だ」と受け入れてしまう。偽りの福音を受け入れる危険性です。 逆に、 福音構造が明確な教えを「自分と政治的・神学的立場が違うから」と退けてしまう。本当の福音に背を向ける結果となる。 つまり、危険性の本質は、 レッテルが福音構造を見る目を曇らせ、偽りを福音と思い、福音を偽りと思わせることです。  「世界観、宗教、社会・思想、経済、政治的な立場」のようなレッテルからその人物、教会、その思想が教える福音構造を推論してはいけません。

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