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- 死のとげは罪
第1コリント15:56 2026.2.4 The Word for you アダムの罪、死(神との分離)、死の支配(連帯)、原罪(罪の性質)、そして個々の罪の構造的なつながり 「順序」 1.アダムの罪 2.死(神との分離) 3.死の支配(連帯) 4.原罪(罪の性質) 5.個々の罪 6.律法による暴露 <説明> 1.アダムの罪 人類の代表 2.死(神との分離) 死が侵入した → 死は自然現象ではなく、神の裁きとしての「霊的、肉体的な関係的断絶」 3.死の支配(連帯) 死の支配が全人類に及んだ(エペソ:罪の下で死んでいると呼ばれる状態) → アダムの代表性によって、人類は死の支配の下に数えられた。 このロジックは反転して、同じように、一人のキリストの代表性によって、信仰による義を受けることになる。 ローマ人への手紙 4章22–24節 「それで、それが彼の義と認められた(ロギゾマイ)のです。 しかし、『彼の義と認められた』と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを 死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです」 ロギゾマイ(数える、帰属される、転嫁)は、代表性と数え見なされる、転嫁、帰属と言う会計的、法的用語です。 それゆえにキリストと共に死に、復活するという結合は全人格的、契約的なのです。 キリストの勝利は選ばれた人々の勝利です。 4.原罪(罪の性質) その死の支配に属する人間の存在のあり方を呼ぶ → 死の状態が、人間の存在構造として内面化されたもの。 5.個々の罪(思い・言葉・行為) 原罪の下で、個々の罪(罪行為)が生じる - 個々の罪は、原罪(罪の性質)の「実り」 - 原罪が原因であり、罪行為は結果 - したがって、人は罪を犯すから罪人なのではなく、 罪人であるがゆえに罪を犯す 6.律法はこの原罪、心の動機を暴露する イエス様は言われた、律法は行う前、心にある罪の性質を暴露する。 原罪はこの律法により、ますます罪とされる。
- 弟子たちの終末に対する2つの質問
2026.2.1 豊川の家の教会 礼拝メッセージ マタイの福音書 24章1~3節 "イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。 すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」" マタイ24章・マルコ13章・ルカ21章 弟子は終末にたいして2つの質問をイエス様にしています。 1. 弟子たちのこの質問について 三福音書はすべて、イエス様の神殿崩壊の予告から始まります。 マタイ24:2「ここでは、石が崩されずに積まれたまま残ることは決してありません。」 マルコ13:2「石が崩されずに、積まれたまま残ることは決してありません。」 ルカ21:6「石が崩されずに、積まれたまま残ることは決してありません。」 この直後、弟子たちは「いつ起こるのか」「そのしるしは何か」と尋ねます。 マルコ13:4「いつそれが起こるのですか。すべてが起ころうとするそのしるしは何ですか。」 ルカ21:7「それはいつ起こるのですか。そのしるしは何ですか。」 この質問は2つの質問から成り立っています。 マタイ24:3 ① これらのことはいつ起こるのですか。②あなたの来臨と世の終わりには、どんな徴があるのですか。 これは弟子たち質問が2つの出来事を1つとしてとらえていることがわかります。 神殿崩壊と、メシアの来臨と世界の終わりを一つの出来事として考えて質問しています。 この弟子たちの2つの質問とイエス様の回答を解き明かします。 イエス様は「神殿の崩壊は終わりではない」と説明します。イエス様はさらに、偽キリスト、戦争、飢饉、地震が起こること語りながら、しかしイエス様はまず、それが終末ではないと否定します。 マタイ24:6 「…これらは起こらなければなりません。しかし、終わりではありません。」 マルコ13:7 「終わりはまだ来ません。」 ルカ21:9 「終わりはすぐには来ません。」 これは非常に重要です。イエス様は最初に、 神殿が破壊されること、偽キリスト、戦争、飢饉、地震が起こることは「すぐに世界が終わることではないと明確に正しています。 2. イエス様はさらに迫害と混乱は続くが終末ではないと語ります 続いてイエス様は、迫害と偽りが増えることを語ります。 マタイ24:9–11 「あなたがたは苦しみに引き渡され…多くの偽預言者が起こり…」 マルコ13:9 「人々はあなたがたを議会に引き渡し…」 ルカ21:12 「人々はあなたがたに手を下し…」 弟子の感覚では、そのような状態は「もう終わりだ」と思わざるを得ない状態を聞いてもなお、 イエス様は終末ではない立場は変えません。そのように激しくなっても、再臨の時ではないと教えています。 3.弟子の問いの前半部分に対応する答え そしてイエス様は、非常に具体的な出来事を語り始めます。 これは「いつ神殿が破壊されるのか」という弟子の質問に対する答えです。 ルカは象徴を使わず、直接こう言います。 ルカ21:20「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その荒廃が近いことを悟りなさい。」 ルカ21:21「そのとき、ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。」 ルカ21:24「…剣の刃に倒れ、捕虜としてあらゆる国に連れて行かれ、エルサレムは異邦人に踏みにじられます。」これは完全に歴史的戦争の描写であり、弟子の質問のうち「これらのことはいつ起こるのですか」に対する答えです。 マタイとマルコでは同じ事態が、ダニエル書9、11、12章の預言語法で表現されます。 マタイ24:15–16「『荒らす忌まわしいもの』…を見たなら…山へ逃げなさい。」 マルコ13:14「『荒らす忌まわしいもの』…を見たなら…山へ逃げなさい。」 しかし、ルカがこれを「軍隊包囲」と説明している以上、三福音書が語っている出来事は同一です。 しかも逃げ方は非常に現実的です。 マタイ24:17–20 「屋上にいる者は…下りてはならない。」「妊娠している人…」 「冬や安息日に重ならないように祈れ。」 これは重要な理解をもたらします。 「逃げなさい」と言う表現は「再臨」には全く合致しません。再臨から誰一人も逃げることはできません。 それは復活と裁きと栄化の成就の出来事だからです。誰一人、逃げることも、隠れることも出来ません。 したがって、ここで語られているのは、弟子の質問の前半に対する答えであり、すなわちエルサレムの滅亡がどのよう起こるかと言うことです。 4. 「この世代」発言も、同じくエルサレム裁きを指している この部分に対して、時間枠が明確にわかる言葉が与えられています。 それは「この世代」と言う表現です。この世代とはその時に生きていた人々のことを指します。 イエス様がこのことを語ったときにそれを直接、聞いた人々の世代。 その時代の人々が地上から死んで消える前におこることを預言されています。 マタイ24:34「これらのことがすべて起こるまでは、この世代は過ぎ去りません。」 マルコ13:30「これらのことがすべて起こるまでは、この世代は決して過ぎ去りません。」 ルカ21:32「これらのことがすべて起こるまでは、この世代は決して過ぎ去りません。」 「これらのこと」とは、直前に語られた軍隊がエルサレムを包囲し、軍隊は神殿を立ち踏みにじる。 神殿は徹底的に破壊されて、多くの人々は虐殺され、逃げ・捕虜にされる出来事です。 したがって、この時はエルサレムの裁きを指しています。 裁きの「世代」について聖書は次のように言っています。 1) 荒野の放浪:裁きの世代=40年 民数記 14:29–34 「あなたがたの死体は、この荒野に倒れる。 …あなたがたの子どもたちは四十年の間、荒野で羊飼いとなり、 あなたがたの不信仰のゆえに苦しむ。」ここで明確に、 反逆した「この世代」は約40年の間にすべて死に絶え、次の世代に移行するという裁きの単位としての40年=一世代が設定されています。 2)「あなたがたの父祖の世代」=40年 詩篇 95:10 「四十年の間、わたしはその世代を忌み嫌って言った。 『彼らは心の迷った民、わたしの道を知らない。』」ここでも、「その世代」を神の怒りを受けた期間、すなわち、世代と40年が対応づけられています。 3)人の生の長さと世代感覚 詩篇 90:10 「私たちの齢の年月は七十年。健康であれば八十年。」 これは「世代」の定義ではありませんが、一世代が数十年単位で理解されている文化的前提を示しています。 4)新約における「この世代」という用語 ギリシア語 Genea(γενεά)は、血縁的世代、同時代に生きる人々を意味し、「種族」や「将来の時代」を指す語ではありません。 5)よって、マタイ 24:34 「これらのことがすべて起こるまで、この世代は決して過ぎ去らない。」 ここで使われている hautē hē genea(この世代)は、直前まで語られているイエス様の預言を聞き、神殿崩壊、都市の裁き、逃亡命令、包囲と苦難に対応する時代に生きた人々を指します。 したがって文法的にも文脈的にも、「この世代」は「「将来の遠い世代」や「民族イスラエル一般」、もちろん「異邦人が勝手に思う、世代」ではありません。 5. マタイ24:36 「しかし、その日、その時は」の意味 ここからイエス様は、弟子の質問の後半、すなわち「あなたの来臨と世の終わり」について語り始めます。 マタイ24:36「しかし、その日、その時は、だれも知りません…父だけが知っておられます。」 マルコ13:32「その日、その時は、だれも知りません…父だけが知っておられます。」 ここで接続詞「しかし(περὶ δὲ)」が使われ、話題が切り替わっていることが文法的にも示されています。 それまでの部分では、 ・見たら悟れ ・逃げよ ・この世代内 という読み取り可能な出来事が語られていました。 しかしここからは、 ・兆しでは読めない ・時は不明 ・常に目を覚ませ という性質の出来事、すなわち最終再臨が語られます。 マタイ24:42 「ですから、目を覚ましていなさい。 あなたがたの主がいつ来られるか分からないからです。」 ルカ21:34–36 「…思いがけないときに臨むことがないように、目を覚ましていなさい。」 マタイ24:36 「しかし、その日、その時は」以降は主の再臨と終末のことが語られています。 これは弟子たちが誤った神学認識に立って尋ねた2つの質問に対する回答でした。 6. なぜイエス様は弟子たちの質問に対してこのように語られたのか 弟子たちは、神殿の崩壊について聞いたとき、こう質問しました。 (マタイ24:3) 「それはいつ起こるのですか。あなたの来られる時と、世の終わりには、どんな前兆があるのですか。」 この質問の中で弟子たちは、神殿の崩壊・メシアの来臨・世の終わりを、すでに一つの終末出来事として結びつけています。 この質問には深い意味があります。 ディスペンセーション神学を例に説明します。 ディスペンセーションではまず完成像の設計ゴールとして、「イスラエル国家の回復、神殿再建、祭司制度と動物犠牲」の復活が設定されます。その完成にゴール到達するために、教会とイスラエルの分離が置かれ、携挙によって教会が地上から取り除かれ、その後にイスラエル中心の患難期が再開する、という神学的な工程が設計されています。 この枠組みが先に固定された上で、「教会時代」「患難期」「再臨」「千年王国」といった時代区分を設定して、 救いの全体構造を無視して、聖書を字義的にどの区分に属する出来事かと言う作業を行い配置しています。 この弟子たちの質問は、ディスペンセーションの思考構造とよく似ています。 神殿破壊、偽キリスト、戦争、飢饉、地震といった出来事を、歴史の中の裁きとしてではなく、終末完成へ直結する兆しとしてすでにゴールに設定しています。 ひとつの出来事としてとらえています。 そこにイエス様の言葉を当てはめてこのゴールを完成させようとして質問しています。しかしイエス様は救いの全体構造について語り、すべてが同時に起こるとは語られませんでした。 主はまず、福音の構造にあって、弟子たちの世代に臨むエルサレムへの裁きを語られます。それは単に都市の破壊ではなく、旧約的神殿体制、祭司制度と動物犠牲による礼拝が破壊され、キリストによる新しい契約の現実へと歴史が公然と移行する決定的な神の裁きと宣言です。 つまり、福音における神殿崩壊とは、「ここから先、神に近づく道はキリスト以外にない」という神の歴史的宣告である。 救済の構造そのものが不可逆的に1本にさらに展開したという福音構造の一貫性を宣言しています。 同時にこの裁きは、歴史の中で繰り返し起こる神の裁きの代表例として、最終的な完成、すべてのものが裁かれ、新しくされる時を指し示す「型」としても与えられています。 イエス様は、神殿の破壊と再臨とを一つの語りの中で重ねながらも、「しかし、その日その時はだれも知らない」と語りを切り替え、完成そのものは兆しによって読めない出来事として、明確に区別されました。 それは二つの出来事を年表で整理するためではなく、神殿の破壊が、完成へ至る救済史の流れの中に位置づけられていることを示すための語り方です。 7. この神殿の破壊と終末の再臨 これを一つの出来事としてしまうと、エルサレムの裁きも、再臨も、世界の完成も、単なる出来事の配列の管理へと変質します。 その結果、AD70神殿崩壊は神の裁きではなく、将来の患難期に属する出来事として再配置され、神殿再建と犠牲制度復活の余地が残されることになります。これがディスペンセーション、また、弟子たちの理解です。 すなわち、イスラエル国家の再建です。 しかし、イエス様、これを完全に否定しました。(使徒1:6、7) 「主よ、今こそイスラエルのために国を再興してくださるのですか」と尋ねています。 "イエスは彼らに言われた。 「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。 それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。" 主イエスはここで、弟子たちの問いの前提そのものを退けておられます。 直前の弟子たちの問いはこうです。 「主よ、今こそイスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(使徒1:6) つまり弟子たちはマタイ24章から昇天の直前まで、メシア=民族国家イスラエルの回復という旧来の王国理解の枠組みで救いを考えていました。 それに対して主は、 •時刻表は与えられない •王国再建スケジュールも示されない •そのすべては父の主権の中にある とはっきり切り離されます。 8. そしてすぐ次に、主は焦点を完全に別のところへ移されます 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8) ここで示されているのは、 •国家の回復ではなく •地理的拡張としての王国でもなく •結合の民が、歴史のただ中で証人として守り続けられ、広げられていく救いの構造です。 これは完全に、「イスラエル国家中心の終末スケジュール」から「キリストにある選びの民の召命と保持」へ 視点が転換されている場面です。 ですから使徒1:7は、 •終末の出来事を読むな、という意味ではなく •終末を出来事探しの対象として扱う読みそのものを拒否している と言うべき御言葉です。 ヘブル書もまたこう言います。 キリストは、ただ一度のささげ物によって贖いを完成され、旧約の犠牲制度は影であり、実体はキリストであり、罪のためのささげ物は、もはや必要ないと宣言されています。 つまり、神殿体制は一時停止されたのではなく、十字架によって救済史的役割を完全に終えたのです。 だからAD70の神殿崩壊は、偶然の戦争被害ではなく、十字架によって完成した救いを、歴史の中で確定させる神の裁きであり、二度と巻き戻らない転換点です。 そして、将来の神殿再建、祭司制度復活、動物犠牲再開という構想は、聖書的に成立しません。そのためディスペンセーションは、神殿崩壊の救済史的意味を消し、出来事を将来へ送り、教会を携挙させ、年表を成立させるために聖書の出来事を再配置しているのです。 10. ここで重要なのは、イエス様が区別して語られた二つの出来事 エルサレムへの裁きと、最終完成としての再臨を、 ディスペンセーションは再び一つの終末出来事としてまとめ直している、という点です。しかしこれは、弟子たちが最初に持っていた理解と同じ構造です。 弟子たちは、神殿が壊れるなら、それはすぐにメシアの来臨と世の終わりが来る時だ、という前提で質問していました。 だからこそ、 「それはいつ起こるのですか。あなたの来られる時と世の終わりのしるしは何ですか」 という一つの質問の中に、すべてをまとめて尋ねているのです。 しかし、イエス様は、理解を正して、歴史の中の裁きと、救いの完成とを区別して語られました。 ところがディスペンセーションは、主が区別して語られたこの二つを、再び一つの終末年表の中に押し込み、神殿裁きと再臨とを、同一の終末局面にまとめ直します。 つまりディスペンセーションは、イエス様が修正された弟子たちの終末理解と、同じ構造の読み方へと、イエス様の昇天前の弟子たちと同じようにもう一度戻っているのです。それは、弟子たちと同じ前提です。 すなわち、メシアとはイスラエル国家を回復するために来られる王である、 という国家回復メシア期待です。 弟子たちは、神殿の崩壊も、戦争も、終末のしるしも、最終的にはイスラエル国家の回復と王国の樹立へ至る道筋として理解しており、その国家的回復と再臨と完成とを、同じ終末局面の中で考えていました。 ディスペンセーションもまた、最終完成像としてイスラエル国家の回復、神殿再建、王国の地上実現を据え、そこへ至る過程として患難期と再臨を配置します。 その結果、神殿の破壊と再臨と王国回復は、一つの終末的工程の中にまとめられ、救済史的にすでに終わったはずの神殿体制が、将来の計画として再び中心に戻ります。つまりディスペンセーションは、イエスが十字架と復活を通して超えさせようとされた「国家回復メシア期待」という枠組みの中に、終末をもう一度押し戻しているのです。 だからこれは、単なる終末スケジュールの違いではなく、メシアとは何のために来られたのか、神の国とは何として実現するのか、という福音理解そのものに関わる問題なのです。なぜなら、聖書が語る救いの全体構造は、イスラエル民族や国家の回復ではないからです。 11. 主は弟子たちにいわれました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで、わたしの証人となります。」 弟子たちが自ら立ち上がる構図ではありません。神が臨み、神が力を与え、神が証人として立たせる。これは、再生・照明・聖化における神の主権的働きと同一の構造です。次に、「地理的拡大」が語られていますが、これは国家拡張ではありません。 •エルサレム •ユダヤとサマリア •地の果て これは使徒の働き全体の構成そのものになっていますが、重要なのは、王国が民族単位で再建されるのではなく、選びの民が諸国民の中から召し出されていくという救済史構造が示されている点です。 ここで成立しているのは、 •民族イスラエル中心 → 教会中心 •土地約束 → 全被造世界への召命 •政治的王国 → キリストにある霊的支配 という転換ではなく、より正確には、旧約の約束が、キリストにおいて成就し、教会において展開されていく構造です。 そして「わたしの証人となります」という語は、「あなたがたが証しする」ではなく、「証人として立たされる」という受動的構造を含んでいます。 これは、教会の本質が、 •世界を変革する主体ではなく •世界のただ中で、キリストの支配と救いを告白する存在 であることを示しています。 したがって使徒1:8は、終末論的に言えば、 •携挙による退避でもなく •王国回復の政治的完成でもなく •歴史からの離脱でもなく 歴史の中に置かれ続ける結合の民の召命を宣言する御言葉です。主は、弟子たちを歴史から取り去るとは言われませんでした。むしろ、地の果てまで、証人として立たせ続けると言われました。 これは、ヨハネ17章の祈りと完全に一致しています。 (ヨハネ17:15) 「わたしは、あなたが彼らを世から取り去ることを願うのではなく、悪い者から守ってくださることを願います。」 終末まで、教会は歴史のただ中に置かれ、神の主権によって保持され、完成へ導かれます。 救いの全体構造は、すでに永遠の過去において •キリストにあって選ばれ •キリストに結合され •十字架において贖いが獲得され •歴史の中で再生・照明・信仰・義認・聖化へと適用され •最後まで守り続けられ、栄化へ導かれる この一本の線の中で、父の主権によって運ばれています。 したがって黙示録、終末論は、未来の政治的出来事を配置するための体系ではなく、いま地上に置かれている結合の民が、どのように守り続けられ、完成へ導かれるかを告白する教理です。 そのすべての源泉は、キリストとの永遠の結合にあり、その完成は、新しい天と新しい地における被造物全体の更新です。 そこにおいて中心にあるのは、民族でも国家でも地上王国でもなく、キリストに結ばれた一つの民としての教会であり、神がご自分の民を最後まで守り通し、完成へ導かれるという神の主権の働きです。
- 結合、再生と内住の違い
2026.1.28 The Word for you 結合、再生と内住の違い 1. 結合は源泉であって、あらわされるもの 結合(union with Christ)は、時間の中で始まる出来事ではなく、永遠において神の側で確立された救済の源泉です。 したがって、再生、内住、信仰も、悔い改めも、義認、聖化、栄化すべては、結合そのものではなく、結合の実・あらわれです。結合は「起こる」のではなく、あらわれるのです。 2. 同じ結合の、あらわれ方の違い 同じ結合の、あらわれ方の違いを救済の秩序と呼びます。救済の秩序とは、徹底的に神が主語となります。 神が、永遠の中に選ばれた(選び) 神が、福音によって召された(召命) 神が、死んだ心を生き返らせた(再生) 神が、信仰を与え、悔い改めへと導かれた(回心) 神が、キリストのゆえに義と宣言された(義認) これらは同じ結合の、あらわれ方の違いです。 なぜ「秩序」というニュアンスが重要かあなたが「主語は常に神(人の行為は結果であり原因ではない)」と定めている以上、この順序は「時間的なプロセスの羅列」ではなく、「神の知恵による論理的な秩序」であると強調されるからです。 「原因」は神にあり、人は「結果」である:人が信じたから救われる(人=原因)のではなく、神が救いの秩序の中にその人を置かれたから、結果として信仰が現れる。 永遠のキリストとの結合: この順序がバラバラにあるのではなく、「キリストとの結合」という一つの源泉から、これらの恩恵が神の秩序に従って流れ出てくるのです。永遠の結合が源泉であり、そこから再生と内住が同時にあらわれ、再生は生命の開始として、内住はその生命を完成へ導く臨在として働かれます。 よって結合は常に「一つ」で「完全」です。 しかしその結合は、生命として 再生、臨在として 内住、変容として 聖化、完成へ導く力として 栄化異なる働き方で顕れます。これが救済の秩序と呼ばれ、それはあらわれ方の違いです。 3. 再生=結合が生命としてあらわれる瞬間 再生とは、永遠の結合が、死んでいた魂の中で生命として働きし始める出来事です。これは、一回的、創造的、神の単独行為で、再生とは、感情や思考の改善ではなく、存在の支配が死から命へ移される出来事です。 4. 内住は結合が臨在として持続的にあらわれるあり方 一方、内住とは、結合にある者のうちに、キリストの御霊がとどまり続け、聖化と完成へ導く臨在の在り方です。 ここでの焦点は、生命の開始ではなく、生命の成長と守り続けることにあります。内住とは、結合が、関係、また臨在として継続的に働かれている状態です。これは感覚の問題でも、体験の強さの問題でもなく、 神がご自分の民を最後まで守り続けられるという契約の現実です。 5. だから「再生も内住のどちらも結合の顕われ」で正しい 違いはここだけです。 救済の秩序 結合の顕われの形 再生 生命の開始(死 → 命) 内住 臨在の持続(命が保たれ導かれる) 永遠の結合という一つの源泉から、再生が現れ、内住が現れます。その内住の働きの中で聖化が進められ、最終的に栄化へと完成させられる。すなわち、永遠の結合から始まり、再生と内住によって進められてきた御霊の働きは、再臨において栄化として完成します。 再生と内住は時間的に分離した二段階ではなく、再生の瞬間から御霊はすでに内住しておられ、再生は生命付与という一回的行為、内住はその生命を完成へ導く継続的臨在として区別される。 6. 「結合を語らない教え」は必ず人間中心の教え そして結合が源泉であることを否定する、すなわち、それは 再生は人の決断になり 内住は体験レベルになり 聖化は努力目標になり 教会は組織になる こうして救済の主語は、人にあります。これは偶然ではなく、構造的必然です。 7. まとめ 結合は永遠の源泉 再生は結合の生命的顕れ 内住は結合の臨在的顕れ 両者は分離された恵みではなく、同一の結合の異なる顕れ、救済の秩序なのです。 再生と内住は、信仰者の「肉体」を含む全存在の救いです。最後に、決定的に重要な点を明言します。 再生も内住も、心や意識の奥底だけの変化ではありません。信仰者の肉体を含む、存在全体への再生であり、内住です。 聖書はこう語ります。「あなたがたのからだは、御霊の宮である」 つまり、内住とは、魂や思考の領域に限定された臨在ではなく、信仰者の肉体を含む全存在が、キリストの臨在の場とされているという現実です。 再生も同様に、精神の向きが変わるという話ではなく、全人格と全存在の支配が、死から命へ移される出来事です。さらに、この救いは個人で終わることはありません。 また、再生と内住は、契約の現実であり、教会を形成し、歴史を貫き、最終的に信仰者の肉体の復活と新天新地へ至る、全救永遠の時の始まる前から現在、そして永遠の未来にわたる救いの全体構造の現実です。 したがって、再生も内住もキリストとの結合が、魂だけでなく肉体を含む存在全体と、救済史全体に及んでいるという現実の顕れです。救済にの秩序です。 栄光は神にのみあります。
- マタイ24章 選びの民は誰か 黙示録3
2026.1.25 豊川の家の教会礼拝メッセージ マタイの24章の選びの民は誰か、また反キリストと獣の刻印、そして終末的迫害をどう位置づけるべきか。ここのところを整理していくと、終末論は「これから何が起こってくるのか」「どういう出来事が起こるのか」という出来事探しから、神の召しに生きることへ変わっていきます。 マタイの24章の「選びの者」とは、選ばれた、時の始まる前に選ばれた者たちということです。マタイの福音書24:22にこうあります。「その日数が少なくされなかったなら、だれも救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのためにその日数は少なくされます。」 また24:31にこうあります。「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方から、その選びの者たちを集めます。」 このマタイの24:22と24:31は、一つの裁きの後に語られます。イエス様はイスラエルの神殿が破壊されることを予言しています。AD70年のことです。この後に、選ばれた者たちを集めると言っています。そしてその集め方は「天の果てから果てまで、四方から」です。 すなわち、神殿制度が神によって破壊されて、旧約の祭司による、また動物の犠牲による、また神殿による礼拝を神は否定しました。そして神は、聖霊によって新たに生まれた人たちを四方から集めると言っています。 選びは民族イスラエルではありません。これは聖書が一貫して言っていることです。キリストの中に置かれている人たちです。エペソ1:4はこう言います。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選ばれました。」 ここでとても重要なのは、「キリストにあって(in Christ)」、そして「世界の基が据えられる前」です。この中において選ばれたと言っています。 ですから、聖書は初めからイスラエルという国家民族を選んだのではなく、時の始まる前からキリストにあって、キリストに結ばれた中において、御子の中で人々を選んだとはっきりと言っています。これはローマ書11章でもパウロが「選びの恵みによる残りの者」がいると言っており、そのことを言っています。 したがって「最初はイスラエルが選ばれていた。そして次に教会が現れたのでそれを教会に置き換える」という考え方は、ディスペンセーションが「置換神学」と呼んで批判するものです。ディスペンセーションを信奉している人たちは「最初はイスラエル、後で教会に置き換えた」ということが、これが聖書的に間違っていると言います。しかし、この枠組み自体が聖書の御言葉をねじ曲げています。もともと選びは民族ではありません。 神はイスラエル民族全体を救うという根底が、もともと存在していないのです。この考え方は聖書の御言葉をねじ曲げて作られています。それが分かります。その構図、「置換神学」と言っている構図自体が、エペソ1章と全く違います。 またローマ書も、またその他の箇所も、聖書が一貫して言っている選びは、神の主権によって時の始まる前に行われているということです。ディスペンセーション神学はそれをねじ曲げています。これが真実です。 最初から選びはイスラエル民族ではなく、神の主権によって、キリストとの結合に置かれている、in Christであり、一貫しています。そして贖いも、子としての身分も、すべてキリストの中で与えられていると聖書は言っています。すべてがキリストにあって、すべてがキリストにあってです。 「キリストにあって」という一点に集中します。救済史の中心は常にキリストです。アブラハムの民族でも、モーセの契約でもないです。神殿でもないです。祭司制度でもありません。生贄でもありません。御子に結び合わされているという一点です。 一つの選び、一つの救済史であり、分断されません。そして一つのキリストと結ばれている民がいます。 マタイの24章の選びの者は、すべての選ばれた人々、すなわちキリストの体です。それを聖書はエクレシアと呼びます。 だから、民族イスラエルは選びの者ではありません。ディスペンセーションの教えの問題の核心はここです。なぜ私はディスペンセーションを批判しているのか。批判ではなく、これは事実です。そして、このディスペンセーション主義が日本の多くの教会の終末論の根底を今形成しています。どこに行っても、ほとんどの教会はディスペンセーション主義の終末論が入ってきています。それは大きな問題です。 この選びをディスペンセーション主義的に民族イスラエルと呼ぶためには、どのようにしなければならないのか。なぜ日本の教会はそのようにディスペンセーション主義を取るところが多いのか。 それは、新約聖書において、すべての選ばれた人々に与えられている言葉があるからです。それは「選び」「聖なる民」「神の所有」という言葉です。新約において、パウロもペテロも、選びの民としてそれを語っています。選び、聖なる民、神の所有です。 もしこれを将来の民族イスラエル、国家イスラエル、そして教会とは別というふうに分けるのであれば、その「選び」「聖なる民」「神の所有」という選ばれた人々に与えられた言葉を、教会から奪う必要があります。騙して奪って、国家イスラエル民族のものであると認めさせる必要があります。 ですから彼らの教えの中に何があるか、例えば「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉を、これはイスラエル民族に語られたものだからクリスチャンは関係ないと言います。「あなたがたはこれをイスラエルから取ってはいけない。あなたがたにはあなたがたに向けた言葉がある」と言います。 そのように騙して、そして選ばれた民から、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉を取り上げます。それは「あなたは選びの民ではない、聖なる民ではない、神の所有ではない」と言っているのと同じです。そのようにして、選びの民から「選び」「聖なる民」「神の所有」を奪います。 しかし聖書は一貫して言います。神は、時の始まる前から、あなたに言うのです。in Christ、あなたは選ばれている、選びの民です。あなたはキリストの体です。キリストによる新しい契約の民です。そしてあなたが生きるその行いは選びの結果です。宗教的な偽善ではないと聖書は語り続けています。 従って、マタイの福音書の「選びの者」、また聖書全体に書いてある選び、エペソの選び、ローマの選び、パウロ、ペテロたちが語るこの選び、時の始まる前、そして「聖なるもの」、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉は、国家イスラエル、民族イスラエルではありません。 もしこれを民族イスラエルだとする論理を持ち出したら、聖書の全体の構造と正面衝突します。聖書の全体の構造とは、永遠の時の始まる前から、神が私たちを選んで、そして召して、再生して、そして信仰、義認、聖化、栄化、永遠の未来までを保障しているという全体です。これと全面的に衝突しています。 従って、マタイ24章で守られて集められる選びの者というのは、時の始まる前から選ばれている者たちであり、それはイスラエルの中から神が時の始まる前から選んだ人々がいます。また、すべての異邦人から、時の始まる前から選ばれた人たちがいます。そして彼らは召し出されてきます。 それらの人を、すべての民と言います。そこには老若男女の違い、子ども、老人もありません。すべて選ばれた人たちです。彼らはキリストの体と呼ばれます。ギリシャ語ではエクレシアと言います。そのエクレシアとは、召し出された、選ばれた、集められた者たちの集まりと聖書は正確に呼んでいます。なのに「民族イスラエル」と呼んでいるこの人間中心的な宗教は、なんと人々を苦しめるのでしょうか。 終末的迫害は、教会の不在の時期かどうかということについて話します。 ディスペンセーションの傾向思想は、「教会は地上から除去される」「大患難はイスラエルと未信者の時代である」という考え方です。これはディスペンセーションから来ている思想ですが、多くの福音派教会に広がっています。 この「ディスペンセーション」という言葉を知らない人たちはとても多いです。ディスペンセーション主義という考え方を理解していない人たちは多いです。言葉は知っていても内容を理解していません。だから「ディスペンセーション主義って何ですか」と言っても、その目的と結論を言える人はほとんどいません。 ディスペンセーション主義の目的は、ユダヤ主義、神殿主義、祭祀主義、動物の生贄に戻ることを目的としています。 話を戻しますが、ディスペンセーション主義は「教会は迫害から除去されて逃げられる」「大患難は通らなくてよい」「私たちは空の上から迫害と大患難を見るが私たちは大丈夫」という精神に人々を向かわせます。自分たちには関係ないという方向へ行きます。しかし黙示録13:7はこう言います。 「彼は聖徒たちに戦いを挑み、これに勝つことが許された。また彼はあらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」 ここで私たちははっきりと見ます。聖徒たちは迫害されています。選ばれた者たちは迫害されているのです。さらに黙示録全体で繰り返される言葉があります。それは「ここに聖徒たちの忍耐がある」です。また黙示録13:10でこう言います。「捕らわれの身となるべき者は捕らわれの身となり、剣で殺す者は剣で殺されなければならない。ここに聖徒たちの忍耐と信仰がある。」 忍耐と信仰が必要であるのです。さらに14:12。「ここに神の戒めを守り、イエスへの信仰を保っている聖徒たちの忍耐がある。」忍耐があるのです。そして患難の中にいるのです。どこに「私たちは空の上から迫害と大患難を見ていればよい」という発想があるのですか。聖書の黙示録の中にはありません。それは全く間違っています。 「男が二人いて畑にいると、一人は取られ、一人は残される」についても同じです。ノアの箱舟の文脈で固定されていて、取られる者たちは滅ぶ者たちです。いつの間にか携挙思想は、「自分たちは苦しみを避けたい」という人間の欲に従って「逃げること」を選ばせています。しかしイエス様は、その者たちは滅ぶと言っています。 なぜディスペンセーションが携挙を挟んでくるのか。それはイスラエルが終末期において救いの中心になるというロジックを立てるからです。最初に言った通り、彼らは「イスラエルは神殿が再度再建され、祭祀制度が戻り、動物の生贄が始まる」とします。それを彼らは記念としてだと言いますが、これはヘブル書が言っていることと全く違います。生贄はもうありません。イエス・キリストが神殿です。 そして彼らのロジックは、終末においてそれをイスラエル国家が、イスラエル民族が回復する、それが神の救いのご計画の第一義だという形で来ます。 そうすると彼らの考え方で一番困ることがあります。それは「選ばれた者たちはイスラエルでなければならない」ということです。異邦人はおこぼれをもらうという考え方です。 さらに、教会が大患難期を通って存在していくと困るのです。なぜなら教会がキリストの体であり主役だからです。この主役である教会が大患難期を通って存在していくと、主役がイスラエルに行かないのです。 だから彼らは教会を取り除くのです。「携挙」という言葉は聖書にはありません。しかし第一コリント15章を携挙だと言って使い、教会を一回外に出して、残りの患難期7年のそこからイスラエルが主役で出てくるとします。そして神殿を作らせて、祭祀制度を始め、動物の犠牲を始める。これは聖書が非難している律法主義に戻ることです。 だから彼らは旧約を全うしたいのです。なぜなら旧約の中にキリストを見つけることができなかったからです。旧約の中に神の主権とキリストとの結合を見つけられず、旧約を読んでもキリストを見つけられなかったのです。だからそこに行きます。それは滅びの道です。 患難はこのように選ばれた者たちが必ず通る道です。聖書に患難を通らないクリスチャンなど一つも書いていません。聖書の中で患難を通らないクリスチャンは書いていません。どうしたらそうやって読めるのですか。読めるのです。それは聖書の御言葉をねじ曲げるのです。 ですから大患難の時代は、イエス様が話している通り、イエス様が昇天してから神殿がローマ軍に囲まれて破壊されたところからもう始まっています。何百万というユダヤ人たちが迫害を受け、殺されていきました。今まで見たこともないような悲惨な状態です。イエス様はそう予言しています。すでにそこで予言が成就しています。そしてこの患難は、イエス様が再臨されるまで必ず続いていきます。 三つ目に反キリストについて話します。反キリストは一人の超人物か。反キリストをどのように考えるのか。人々は反キリストを探そうとします。反キリストは額に666と書いてあるから、お前の頭の中に666があるか、などと冗談で言っていた時があります。しかし第一ヨハネ2:18はこう言っています。 「子どもたち。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストが来ると聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることが分かります。」 ここでヨハネは「今や多くの反キリストが現れています」と複数形で語っています。反キリストは歴史の中で現れ続けるということです。そして「それによって今が終わりの時であることが分かります」と言っています。終わりの時は始まっているのです。 しかしディスペンセーションは「終わりの時はまだ来ていない」と言います。けれどもヨハネは「今が終わりの時であることが分かります」と言っています。なぜなら反キリストが多く現れているからです。だからイエス様が昇天してから再臨される間、反キリストは多数現れるということです。 そして反キリストというのは、キリストの人性であるキリストと、神であるキリストを否定する者たちです。キリストの受肉を否定するということは、キリストが人であることを否定し、そして神であることを否定します。すなわち十字架と結合を否定しているのです。十字架は、人として来られたキリストと共に死んだことです。それは代表です。これを破壊します。福音を破壊します。彼らは教会の真の教会の内外から現れてきます。偽教師です。そして現れ続けます。彼らは人間中心主義の思想です。 ヨハネは「目を覚ましていなさい」と語ります。この「目を覚ましていなさい」とは、自分がキリストの子どもであること、キリストと共によみがえったこと、この位置にしっかりと自分がいること、その生き方を続けなさいということです。 パウロもテサロニケで、この人間中心主義の思想、教えに対して真っ向から戦っています。そのように私たちにパウロは語っています。ヨハネも同じように、獣の支配、偽りの礼拝を描いています。「すべての者が彼を拝んだ」と書いてあります。この「すべての者が彼を拝んだ」とは、刻印を押されているということです。反キリストによって獣の刻印を押されています。 終末において、権力と宗教が結合した反キリスト体制が政治としても生まれてくる可能性はあります。しかし聖書は、反キリストは一人の人物ではないと言っています。反キリストの霊は福音に対する敵対構造です。それは人間中心主義です。それは外面的な宗教、また啓蒙主義的な人間中心主義の中に潜んでいる霊そのものです。 支配神学や霊的戦い神学、決心主義、神秘主義、あらゆる人間中心の「私が私によって、私による信仰」「私は強い信仰を持っている」「私はまだ腐っていない」という態度が反キリストです。そこに反キリストの霊があります。 では獣の刻印とは何を意味するのか。黙示録13章で刻印のことを言っていますが、最近オカルトや漫画などで、反キリストの刻印をマイクロチップだとか国家管理だとか生体認証だとかワクチンだとか電子通貨だとか言う人たちがいます。これは幼稚です。黙示録を理解していない人たちです。照明がないから分からないのかもしれませんが、それにしても聖書を読んでいないのだと思います。 ここで刻印の対比構造を見ればすぐ分かります。黙示録7:3を見てください。「私たちの神のしもべたちの額に印を押すまでは、地にも海にも木にも害を与えてはならない。」ここには、「神のしもべの額に印を押す」と書いてあります。その後十四万四千の話が出てきて、その後すべての国民の話が出てきます。こういう文脈です。 そして「印を押す」ということは、エペソ1章が言っている通り、聖霊によって印を押されることです。選ばれた者たちに聖霊が内住するということです。エペソ書に書かれている、選ばれた人々の救いの証印です。 また、「四方から集める」とありますが、それはどのように集めるかというと、一か所に物理的に集めることではありません。宇宙的な教会のことです。すべての信じている人たちはキリストにあって御霊によって一つになるということです。 続けて、黙示録13:16-17に来ます。「また、彼は、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者に、その右の手か額に刻印を受けさせた。この刻印を持たない者は、だれも買うことも売ることもできなかった。」これを「生体認証だ」「電子マネーだ」と漫画で言うのは違います。この刻印は象徴です。対比構造を見てください。先ほど「聖霊による印」を言いました。そして、今ここで「獣の刻印」が対比で出てくるわけです。 この刻印は、あなたが聖霊の証印を押されているか、すなわち聖霊の内住を受けているか、獣の刻印を押されているかということです。獣の刻印とは、人間中心主義的な、啓蒙主義的な人間中心主義の思想、思い、感情、それに支配されているかどうかです。そしてその現実は今起こっています。 あなたが聖霊によって新たに生まれるまでは、獣の刻印を押されているのです。死んでいたのです。そしてあなたが、どこに属しているかの問題は、誰を礼拝しているか、どの支配に従っているかです。あなたが神のものであるか、サタンのものであるか、そのどちらかに忠誠があるかです。それの象徴です。 刻印とは、あなたが真の神を礼拝し忠誠を保つか、サタンに礼拝し忠誠を保つかという話です。「刻印がないと売ることも買うこともできない」とは、社会で生きる中で必ずそういう時が来るということです。信仰をしていなければ、社会生活で困るという状況が生まれてきます。経済的損失や社会的迫害を受けるということを象徴しています。それは心に押されている刻印です。 聖霊を受けている人、真のクリスチャンは、どんな時にも神に礼拝し、神に忠誠を保ちます。それが刻印です。聖霊による刻印です。逆に獣の刻印は人間中心主義です。「私は腐っていない」という態度です。表面的なクリスチャンです。ローマ帝国時代にも皇帝礼拝を拒否した者は社会的に生きにくくなりました。中世においても、ある宗教的な同調を受けなければ社会で生きることが困難でした。日本でも日常の中にそのような状況があるでしょう。友達との付き合いもあります。ゲームもあります。iPadもあります。音楽もあります。異端の宗教もあります。 その中において、あなたが神の主権とキリストとの結合の福音、パウロが伝える福音を聞いた時に、あなたはどちらに従うかと問われます。表面的、人間中心主義のキリスト教に従う場合、彼らはあなたを仲間とします。「教会に行っているから救われている」「信じているから大丈夫」「私は信仰がある」という外面的な言葉でまとまります。しかしそれらを拒絶する者は批判されます。攻撃を受けます。罵声を受けます。損失や迫害を受けます。それは教会の中で、地域コミュニティの中で、家庭の中で起こってきます。 適当に嘘をついて逃げる人がいます。口先で逃げる人がいます。「今日は法事」の後の食事だけなどと言って妥協する人がいます。しかし問われるのは「あなたは神を礼拝していて、神に忠誠を保っていますか」ということです。 もし心が嘘をついて逃げるのであれば、それは獣に従っているのと本質的には変わりません。ビンタをされようが、嘲られようが、私はこの神に忠誠を尽くすという姿勢を保つ場合、損失を受け、迫害を受けます。しかし、信仰は聖霊によって証印を受けているのです。 嘘を言って逃げる人、偽りの外面的な信仰で神に近づく人は、真の神に礼拝と忠誠を捧げていません。そういう人たちは行動で出てきます。外面的には礼拝に来て祈りますが、実態は偽りです。 それは、聖霊の印を受けていないということです。逆に獣の刻印をまだ持っているのです。だからその人は新たに生まれなければならないのです。死んでいるからです。 刻印はすぐには剥がれないのです。死なない限り剥がれません。だから「自分はまだ腐っている」と認めることは重要です。それによって神はあなたをキリストと共に死んだところに置いてくださいます。十字架の強盗も主税人も、死んでいるのです。キリストと一緒に死んでいるのです。 ですから刻印というのは、目に見える印だとかチップではありません。そういう幼稚な考え方は捨てなければならないのです。第三神殿と同じくらい愚かです。真の神に礼拝と忠誠を捧げず、獣の偽りの礼拝に従い、その中で生きる者が獣の刻印を持つ者です。偽りが刻印を表します。これが刻印の意味です。 五番目に結局、終末論の中心は「誰が残るか」ではありません。「誰に属するか」です。いつもそうです。聖書はいつも「誰に属するか」です。 終末論が歪められると、「いつ起こるか」「誰が敵か」「どんな事件が生じているのか」そちらに関心が行きます。それは終末論が歪められている状態です。すなわち福音ではありません。しかし聖書が一貫して問うのは、あなたは誰に属していますか、誰を王として礼拝していますか、迫害の中で誰に従い続けますか、です。 黙示録の核心は獣の正体ではありません。「子羊に従う者たちの忍耐」にあります。子羊に従う忍耐です。しかし忍耐は自分が頑張って作るものではありません。 ここまでを一本でまとめるとこういうことです。旧約の神殿、神殿制度、動物の犠牲は、AD70年のローマ軍の攻撃によって完全に消滅しました。神殿制度もありません。神殿もありません。動物犠牲もありません。それは神が行ったのです。裁きがイエス様によって行われたのです。イエス様がAD70年に破壊したのです。 それは、選ばれた民が神の民として教会として出現することにつながっています。キリストの初臨から再臨までが、完全な欠けのない期間として象徴的に描かれています。教会は患難と証しの中に置かれ続けます。反キリスト的勢力は歴史の中を通して現れ続けます。再臨は完成であり、復活、裁き、新天新地が同時に起こります。教会は途中で地上から取り去られません。 終末の中心の舞台はイスラエル国家ではなく、選ばれた民です。イスラエルの中の選ばれた民と異邦人の選ばれた民で構成されている「十二×十二=十四万四千」が中心です。 したがって終末論は未来予測のための年表解析ではありません。黙示録は、苦難の中で信仰を保ちながら、また保たれながら生きていく選ばれた者たちを支える啓示です。 最後に徹底的に重要な点があります。携挙思想や年表終末論は、あなたたちの目を出来事に向けさせ続けたのです。イスラエルに何か起こるとそちらに目が行き、アメリカで何か起こるとそちらに目が行き、起こってくる現象に目が行きます。決して王であるキリストに目が行きません。 しかし聖書は、信仰者の目を、選ばれている者の目を、常に、すでに王であるキリストに向けさせ続けます。は永遠の時の始まる前の結合から、永遠の未来に目を向けさせます。 偽りの教えは恐怖による備えになります。必ず携挙思想や年表終末論の中には恐怖に対する備えがあります。そして「自分が救われていなかったらどうしよう」という思いが絶えずあります。 しかし真の救いは結合にある命です。その命は平安です。新約の終末論の中心です。その中心の中で私たちは忍耐について学びます。黙示録13:10に「ここに聖徒たちの忍耐と信仰がある」とあります。ここで言われている忍耐は、逃げ出さない決意や気合や精神力ではありません。 文脈上、獣の支配が全地に及び、抵抗すれば殺され、礼拝すれば妥協になるという逃げ場のない状態に、神が民を置いておられることを前提にしています。 例えば会社で偶像礼拝への同調を迫られ、断れば立場を失い、従えば妥協になるというような状況が来ます。辞めれば生活が損害を受ける。逃げ場がない。これが「忍耐がある」ということです。 忍耐とは、自分で選び直す余地のない場所、逃げられない場所に神があなたを置いているという現実そのものです。 黙示録14:12に「ここに神の戒めを守り、イエスへの信仰を保っている聖徒たちの忍耐がある」とあります。 信仰は神からの賜物です。誰も自分の内から神を信じる信仰を生み出すことはできません。私たちは罪の中で死んでいたからです。私たちのうちに良いものは一つもありません。 忍耐も神からの賜物です。神が信仰から離れない位置に置いておられるという事実です。 教会が苦しみを避けて一時的に取り去られる。これは楽です。未信者や不信仰な者は飛びつきます。「楽だ」と言います。しかしそれは「キリストがある」ではなく「自分の都合がある」という態度です。 ディスペンセーションの教えは、黙示録が語る忍耐と信仰の歩みを破壊しています。黙示録が示すのは、苦難の中にあってもキリストとの結合に立ち続ける者たち、最後まで忠実に歩む信仰の姿です。だからこそ黙示録は、携挙で逃げるのではなく、現実の苦難の中で主に結びついて終わりの日の栄光を待ち望む信仰を強調しています。 永遠の時の始まる前から、キリストとの結合に選ばれたという源泉から始まって、再生、そして信仰、悔い改め、義認、聖化、そして栄化と続く福音の一貫した全体構造の流れの中で、私たちはどんな試練の中でも、私たちが頑張るのではなく、キリストが私たちと一体であるがゆえに、その立場の中で生かされます。その全体構造を踏まえてこそ、黙示録も単なる未来の出来事探しではなくなります。 この全体構造を理解してください。キリストとの結合に選ばれたという源泉から始まり、再生、信仰、義認、聖化、栄化と続く一貫した福音の流れを踏まえて黙示録を理解するのです。もはや単なる未来の出来事探しではなく、神の主権の中で結合された者が忍耐の中に置かれ、最終的に栄光の完成へ至る希望の書であることが理解できます。 結局、すべては神から始まり、神によってなり、神に至ります。その永遠の結合からすべてが展開していっていることを理解してください。 黙示録14:13にこうあります。「また、私は天からの声がこう言うのを聞いた。『書き記せ。今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。』御霊も言われる。『しかり、彼らはその労苦から解放される。彼らの行いは彼らについて行く。』」 ここで天の声と御霊が強調しているのは、迫害の時代にあってなお、結合にある者の行き先が破滅ではなく完成であることです。忍耐の焦点は状況を変えることではありません。迫害に勝利することでもありません。 まして信仰の努力が報われるという人間中心主義でもありません。 忍耐の焦点は、生きるにしても死ぬにしても、結合の中に留められるということです。生きても死んでも、結合の中に留められ、そのまま完成に導かれるということです。 「主にあって死ぬ」とは単に肉体が死ぬ出来事ではありません。死が訪れる時でさえ、あなたはキリストとの結合の中にいて、神はあなたを守り続け、必ずあなたを完成へ導きます。殉教であっても、そうでなくても、生と死のすべてが結合に貫かれるという意味です。 「労苦から解放される」とは、途中で苦しみが軽くなることではありません。結合の完成によって労苦そのものが終わるという終末的な解放です。「彼らの行いは彼らについて行く」とは、行いが救いの条件になるのではなく、神がキリストにあって私たちを造られたときに備えられていた良い働きが、時間の中で顕現し、神の前に喜ばれるということです。 したがって黙示録は苦難からの脱出を約束していません。苦難のただ中に置かれたまま、結合から引き離されることなく、生を通しても死を通しても導かれるという救いの在り方を語っています。 忍耐とは、この地上で状況が改善されるまで踏ん張ることではありません。生きるにしても死ぬにしても、結合の支配のもとに守られ続け、最終的な栄化、キリストの再臨に至るまで導かれていく過程そのものです。 「忍耐がある」とは「忍耐を持ちなさい」と言っているのではありません。「忍耐がある」と言っています。その忍耐とは、結合の支配のもとにあなたが守られ続け、最終的な栄光に至るまで導かれている過程のことです。 忍耐の最終点は生き残ることではありません。忍耐の最終点は、最後まで永遠の結合の中に留め続けられ、 栄化の完成へ至ることです。 最後に、黙示録は選ばれた人々がどこに導かれるのかを示しています。 黙示録21:3-4にこうあります。「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をぬぐい去ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」 「見よ、神の幕屋が人とともにある。」これが完成です。神は人々の涙をその手で拭われます。この「神の幕屋が人とともにある」とは、神との結合が現実のものとなっているということです。永遠と実体が一致することです。 そして「神が涙を拭う」とありますが、神の手があなたの頬に触れるということです。あなたが栄化されていなければ、朽ちる者のままでは神の栄光に耐えられません。神があなたに触れるということは、あなたも栄光化されているという証です。 選ばれた者の結合の完成とは、神が信者を永遠の過去においてキリストと結合し、時の流れの中でその結合が顕現し、そして完成するということです。これは福音の一貫した救済構造です。 神は時の始まる前から永遠の未来に至るまで、ずっと結合の中でご自分の民とともにおられ、見失わず、奪われず、引き離されることなく守り続けています。 ヨハネ10:28に「だれも彼らをわたしの手から奪い去ることはできない」とあります。 選ばれた人々には罪の性質の残骸があります。死の体があります。この世の苦難があります。時の中において、なお罪の性質と戦い、死の体をまとい、この世の苦難の中に置かれています。 しかし完成時において、これらはすべて取り除かれます。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされます。罪の性質は消え、死は勝利に飲み込まれ、この世は過ぎ去り、新しい天と地が到来します。 第一コリント15章に「死は勝利に飲み込まれた」とあります。黙示録21:1に「最初の天と最初の地は過ぎ去った」とあります。21:5に「見よ、わたしはすべてを新しくする」とあります。 最後です。黙示録は、苦難から逃げ切った者の勝利ではありません。黙示録は、最後までキリストとの永遠の結合の中に置かれ、患難の中を通過してきた選ばれた十四万四千、キリストの民、イスラエルの中の選ばれた民と異邦人の選ばれた民が、ともに到達する完成です。 終末とは患難からの逃避でも携挙の時でもありません。終末とは永遠の結合が完全に顕現し、現れ、完成する時です。ハレルヤ。アーメン。ではお祈りします。 愛する天のお父さま。感謝します。私たちの黙示録に対する考えが今日一変したことを感謝します。私たちの理解をはるかに超えた恵みの素晴らしさ、終末論がこれからどうなるのかという出来事探しから、神の召しに生きるというその意味を、今日あなたが語ってくださったことを感謝します。 愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。
- 黙示録1
2026.1.18 豊川の家の教会礼拝メッセージ 黙示録シリーズ1 今週から終末論について話を進めていきます。 この終末論は、教会が「結合の民」であり、選ばれている民が最後まで地上に置かれ、完成に導かれるという視点で話をしていきます。 イントロダクション 黙示録をどこまで話していくかにもよるのですが、ローマ書の11章、それからマタイの24章、黙示録の7章と14章を合わせて、一本の救済史の全体構造として話していきます。今週から何週間かに分けて講解していきたいと思います。 黙示録は黙示書・預言書ですので、ゆっくりと味わいながら講解していきたいと思います。 黙示録の主題は一つです。 神の民は誰か 教会は終わりまでどこに置かれるのか そして現代の多くのクリスチャンは、むしろ終末論の議論になると、出来事の順番、またイスラエルがどのようになるか、そのような話になりがちです。 しかし聖書が語っている中心、黙示録が語っている中心は、出来事の順番やイスラエルがどうなるかではありません。そこに中心はありません。 聖書が語る中心、すなわち創世記から黙示録までのすべてに対して聖書が語っている中心は、神がどのように永遠の過去においてキリストにあって選び、召し、再生させ、義とし、聖化し、栄化へ導くのかという福音の全体構造です。 この福音の全体構造なくして黙示録は理解できません。 イントロダクションとして、現代の教会にある終末論理解の全体像を、今から簡単に説明します。どのように教会が終末論を理解しているのか、どのように語られているのかを整理します。 それは、聖書全体の読み方、福音の捉え方の違いを反映しています。 まず黙示録の理解は、大きく二つに分けられます。黙示録という本の全体像についてです。 それを「循環的解釈」と「直線的解釈」として整理できます。 黙示録の二つの読み方 1)循環的解釈 循環的解釈とは、黙示録が同じ救済史の構造を、角度を変えながら何回も描写しているという理解です。これが重要です。 黙示録は、イエス・キリストの初臨、すなわち受肉されたイエスが来られてから、イエスが再臨するまでを描きます。これが一周です。 イエスが来られ、十字架の死があり、復活があり、そして再臨するまで。これが一つの区間です。黙示録は、この同じ区間を何度も、角度を変えて繰り返し語ります。 このように理解していく読み方を循環的解釈と言います。 循環的解釈は、宗教改革においても前提とされてきた読み方です。20世紀に至っても、聖書の書き方そのものがそのようであるため、そのように読むという立場が続いています。 2)直線的解釈 もう一つが「直線的解釈」です。直線的解釈は、ディスペンセーション神学に代表される読み方として広く知られています。 この立場は、出来事が時間順に一度ずつ進行していくという捉え方を取ります。 この違いがそのまま終末論に影響します。神殿、第三神殿、イスラエル観、王国、再臨の理解など、すべてに影響します。 一つは循環的な解釈、すなわち神の救いの全体構造をいろんな角度で繰り返し語る読み方です。 もう一つは直線的解釈、すなわち時間軸に従って出来事が順に進行する読み方です。 それでは、この二つを順に見ていきます。まず循環的解釈の基本構造から話します。 1)循環的解釈の基本構造 この理解では、主イエスが来られてから御霊の働きが始まります。選ばれた者たちが地上に現れます。ペンテコステ以降、教会が歴史の中に成立します。 イエスの初臨から再臨までを、黙示録の中でどのように描いているかというと、黙示録は七つの循環に分かれています。 ここで「七つ」と言っても、A、B、C、Dと順番に進んで、七つ目で終わるという意味ではありません。同じストーリーを、違う表現、違う強調点で見せています。しかし語っている内容は同じです。 それは、イエスが来られ、十字架につかれ、復活し、そして終末が来るという流れです。これを違う角度で見せています。しかし同じことを語っています。これが黙示録です。 ですから、救いの全体構造、裁き、迫害、勝利という構造を繰り返し、象徴を用いて語っています。 つまり黙示録は、全体構造を七つに分割したのではなく、七つの表現で反復して示しています。 七という数字は創造の完成です。契約の完成、御業の完成を示します。聖書において七は完全を表します。 黙示録は最初から最後まで七によって構成されています。七つの教会、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢など、七つの構造で世界を描写しています。 黙示録が七つの循環ブロックに分かれていることは意図的です。偶然では起こりません。 七つの循環ブロック(概観) 七つの教会(黙示録1–3章) 七つの封印(4–7章) 七つのラッパ(8–11章) 女と竜と獣(12–14章) 七つの鉢(15–16章) バビロンの滅亡と白馬の勝利(17–19章) 千年王国と最終完成(20–22章) これらは別々の時代を順番に描いているのではありません。初臨から再臨までの王国時代、すなわち教会時代全体における地上の選ばれた者の歩みを、視点と強調点を変えて描写しています。 そして各循環ブロックの終わりには、必ず最終の裁きと完成が描かれます。 循環構造の前提:結合と「すでに/いまだ」 この循環構造の前提は、福音の中心がキリストとの結合にあるということです。 王国はすでに始まっています。イエスは「神の国はあなたがたのただ中にある」と語られました。王国はすでに存在しています。 そしてすべての選ばれた者は御国に属しています。 同時に、私たちの人生には苦難と勝利が同時進行します。そこには「すでに/いまだ」という構造があります。 この「すでに/いまだ」の構造が終末論にもそのまま適用されます。 将来的に何が起こるか、いつ出来事が来るか、神殿がどうなるか、という話ではなく、今も「すでに/いまだ」の構造の中で進行している霊的現実の描写が黙示録です。 私はすでに永遠の結合の中に生きています。しかし罪の残存の中も歩みます。これは個人の「すでに/いまだ」です。これが救いの全体構造へ広がっているだけです。 この理解では、次の結論になります。 第三神殿は不要です(キリストが真の神殿です) イスラエル国家が特別なのではなく、イスラエルの中で選ばれた者、異邦人の中で選ばれた者が、教会として一つに集められ、神のイスラエルとなります 千年王国とは、初臨から再臨までの王国時代全体を指します 救済史は一本の契約の下で進みます。二本の計画ではありません。救いは恵みによる信仰のみです 2)直線的解釈(ディスペンセーション)の基本構造 次に、直線的解釈としてディスペンセーションの基本構造について話します。 ディスペンセーション神学は、歴史的には19世紀後半にダービーによって体系化が進み、その後スコフィールドなどによって広く整理されていきました。 この立場では、出来事が時間順に一度ずつ進行していくという前提を置きます。 そのため黙示録は、封印、ラッパ、鉢、大患難、再臨、千年王国、最終審判といった順番に進む年表として理解されやすい傾向があります。 またこの枠組みでは、イスラエルと教会を明確に区別することが多く、教会時代を「挿入」として捉える説明がなされる場合があります。 その結果、終末では再びイスラエル中心の歴史が前面に出る必要があるという構造が組み込まれます。 そしてこの体系では、神殿と祭祀と国家・王国の回復が重要要素として位置づけられやすく、第三神殿や祭儀の回復が語られることがあります。 千年王国も、霊的支配というより地上の政治的王国として説明されることが多いです。 しかしこの点で私たちは、ヘブル書の教えと注意深く照らし合わせる必要があります。 ヘブル書10章18節はこう言います。 「もし罪の赦しがあるなら、もはや罪のためのささげ物は不要である。」 ここで語られているのは、罪のための犠牲が再び必要になるという方向ではなく、キリストの贖いが完結的であるという論理です。 同じヘブル書10章は、同じささげ物の反復が罪を除き得ないことを示すとも語ります。 このヘブル書の筋道に照らすと、終末において動物犠牲が何らかの形で再開されるという説明は、少なくとも非常に慎重に扱わなければなりません。 なぜなら、キリストの十字架の十分性とどう整合するのかという問題が必ず出てくるからです。 したがって私たちが問うべき点は、単に読み方の好みではありません。 どちらの枠組みが福音の全体構造、すなわちキリストの贖いの完結性と、結合に基づく救済史と一致しているのか。ここが決定点になります。 循環構造の聖書的根拠(預言の語り方) 循環的理解に着目すると、旧約の預言でも、バビロンの裁き、終末の裁き、メシア王国が混在して語られます。そこでは時間軸が整備されていません。 イエスの説教も、神殿の崩壊の話、再臨の話、世界の終わりの話が重なって語られます。代表例がマタイ24章です。マタイ24章には二つの終わりが含まれます。しかし注意して読まなければ読み取れません。 一つの終わりは神殿制度の崩壊、すなわちユダヤ教体制の終わりです。その後に宇宙的な終わり、すなわち最終末の終わりが語られます。 これを理解するためには、御霊による照明なしに理解できません。 聖書の語り方そのものが、裁きと救いを同時進行として語ります。人間の年表整理に従って語られていません。 したがって、聖書自体の語り方を尊重し、循環構造の理解を採用するというのが私の立場です。 決定点:どちらが福音の全体構造と一致するか 循環構造の解釈では、中心はキリストとの結合です。王国はすでに存在しています。救済史の全体構造は一つの契約によって成り立っています。恵みによる信仰のみです。 他方、直線的解釈は、関心が将来の政治的王国や出来事の配列へ強く向かいやすい傾向があります。 その結果として、出来事を追い、出来事によって終末を測ろうとする方向へ流れやすい場合があります。 しかし聖書は一貫して、救いの中心を人間中心、制度中心、民族中心に置きません。中心は神の主権と、キリストの贖いの完結性と、結合に基づく救済史です。 まとめ 循環的解釈は、教会時代全体を終末的現実として、象徴を用いて反復描写します。キリスト中心、結合中心、契約は一つです。 直線的解釈は、終末を未来の段階的イベントの列として読みやすく、イスラエル中心、神殿、祭祀、動物犠牲の回復が重要要素として語られやすい傾向があります。 したがってこれは単なる解釈技法の違いではありません。福音の全体構造の理解の違いがここに表れます。終末論の違いではなく、福音構造の理解の違いが、二つの違いを生みます。 循環構造の再確認(黙示録1–3章) もう一度整理します。黙示録は教会時代全体を七つのサイクルで反復描写しています。同じ初臨から再臨までを、象徴を変えて何度も語っています。視点と強調点を変えます。そして各循環ブロックの終わりには必ず最終の裁きと完成が来ます。 第一の循環ブロックは七つの教会で、黙示録1章から3章です。この範囲は、キリストの昇天から再臨直前までの教会の実態を表しています。迫害、偽教師、妥協、忠実な残れる者、そして終わりが書かれています。 臨在の約束と裁きの警告が各教会に与えられています。当時実在した教会も含みますが、「すべての諸教会」として、教会時代全体の教会に向けた言葉でもあります。 私たちはすでに終末的緊張の中に教会が置かれていることを理解すべきです。 千年王国の始まりは、イエスが来られ「御国があなたがたのただ中にある」と語られた時からすでに存在します。神の王国であり、霊的現実です。 第二の循環ブロック(黙示録4–7章:封印) 第二は七つの封印で、黙示録4章から7章です。 これは初臨から再臨までの時代の中で起こる歴史的苦難です。戦争、飢饉、疫病、迫害、殉教、そして終わりが描かれます。天地震動の中で、王も奴隷も裁きの前に立ちます。 その終わりには、明らかに最終審判の姿も描かれます。 7章では地上の視点で十四万四千人が出てきます。ここは多くの人が関心を持つので、少しだけ触れます。 黙示録7章:印と十四万四千 黙示録7章で「印」と「十四万四千人」という言葉があります。 「生ける神の印を押すまでは、地も海も木も害してはならない」(7章3節)。 この箇所を読む鍵は、黙示録21章12節から14節です。 城には十二の門があり、門にはイスラエルの子らの十二部族の名が記されています。 城壁には十二の土台石があり、そこには子羊の十二使徒の名が記されています。 ここで門は旧約の十二部族、土台は新約の十二使徒です。旧約の約束の民と、新約の完成された民が、一つの神の都に組み込まれていることが示されています。 神の民は、全てのユダヤ人ではありません。ユダヤ人の中で選ばれた者であり、異邦人の中で選ばれた者です。旧約も新約も同じく、選びによって形成される民です。 十二は約束の民の完全形を表す象徴です。 そこに千が掛けられます。千は数量の上限ではなく、神の完全性・十分性・永続性を示す象徴数です。 12 × 12 × 1000 が十四万四千です。 「千の山の獣はわたしのものだ」という表現は、神が全てを所有することを示します。 「千代まで契約を守る」も、千代で終わるという意味ではなく、永遠の契約の確かさを示します。 第二ペテロが「一日は千年のよう、千年は一日のよう」と語るのも、時間計算を拒否する文脈であり、神の支配の超越性を示します。 したがって十四万四千は、完全で欠けのない全体の象徴です。十二が二重になるのは、神の民が救済史の中で完全に成立していることを示します。選ばれた者が漏れなく救いの中にあることを示します。 なぜこの極限表現が必要か。 それは、大患難のただ中にある教会に対して、「神の民は途中で崩壊しない」という保証を与えるためです。 神の計画に賭けはありません。見える現実に左右されず、神の民は完全に守られます。 ここは人数ではなく身分の宣言です。人数として読むと、救いの限定や霊的階級化へ流れやすくなります。それは福音と一致しません。 象徴として読むなら、「神の民は誰一人漏れない」という宣言になります。結合は絶たれません。これはローマ書8章と一致します。 「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができるでしょうか。」 黙示録はこの神学を、象徴と言語構造で語っています。 そして黙示録7章9節では、天上に「すべての国民、部族、民族、国語からなる数えきれない大群衆」が描かれます。これは別集団ではありません。十四万四千と同一の教会です。地上の視点と天上の視点の違いに過ぎません。 したがってローマ書11章の「残りの者」、マタイ福音書の弟子共同体、黙示録7章の十四万四千は、すべて同一の神の民を指しています。キリストに結ばれている、時の始まる前に選ばれた民です。 今日はイントロダクションが長くなりましたが、概ねこのような全体像です。あと2、3週ほどかけて、ゆっくり話していきます。よろしくお願いいたします。 最後に祈ります。 祈り 愛する天の父なる神様。 この黙示録へ私たちを導いてくださったことを感謝します。 十四万四千、それは選ばれた民が完全に守られるという身分の宣言です。 私たちが時の始まる前からキリストにあって選ばれ、地上において象徴として示され、あなたが最後まで守り続けられることを感謝します。 天上において、すべての部族、すべての国、すべてのところから集められる大群衆として、同一の民が示されることを感謝します。 私たちは永遠の中で生かされ、現在において試練と困難を通りますが、御霊によって導かれ、あなたが守り抜かれることを感謝します。 初臨からすでに患難は始まり、再臨によりすべてが完成することを感謝します。 その完成の時、私たちの体が栄光の体へ変えられ、永遠の御国へ導かれることを感謝します。 愛する主イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン。
- 結合の民は最後まで地上に置かれて完成に導かれる 黙示録2
黙示録シリーズ2 2026.1.21 The Word for you ヨハネの福音書の17章、ローマ書の11章、黙示録の7章、そしてまた14章を、一本の救済史の線で読むというメッセージです。 これは先週、ローマ書の11、7、黙示録の7、14、マタイの24をテーマに話していきますと言い、前回はイントロダクションで終わりましたが、今日はそこの部分に少し入っていきます。 時間は30分ぐらいで終わればいいと思いますが、終わらければ、また次回という形でしたいと思っています。 テーマは、「結合の民は最後まで地上に置かれ、完成に導かれる」です。神はご自分の選ばれた民をこの世の外に避難させるということはしません。 この世の中で守り続け、完成へ導かれます。 これが聖書全体に一貫している救済の全体構造です。 この真理を主イエスご自身は祈りにおいて明確に語られています。 ヨハネの福音書の17章15節から読んでいきます。 「私がお願いすることは、あなたが彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」 彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。 20節。 「私は、ただこの人々のためだけではなく、彼らのことばによって私を信じる人々のためにもお願いします。」 この祈りは弟子たちだけではなく、すべての時代の教会に向けられています。そして、ヨハネの福音書の17章21節から23節、ここで私たちは驚く言葉を聞きます。 「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちのうちにいるようにしてください。あなたが私を遣わされたことを、世が信じるようになるためです。また私は、あなたがくださった栄光を彼らに与えました。私たちが一つであるようになるためです。私は彼らのうちにいて、あなたは私のうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。」 イエス様の祈りは大祭司の祈りです。そしてイエス様がはっきりと言っています。 取り去ることではなく、悪い者から守ってください。そしてイエス様は、「私は彼らのうちにいて、あなたは私のうちにおられます。」 教会は世から取り去られるのではなく、三位一体の神と結合し、この世のただ中で守られ続け、完成へ導かれるという、救いの源泉から流れる終末構造を、永遠の時が始まる前から真理として確定されています。 驚きますね。そして、ローマ書の11章は、取り去られず継ぎ木された一本の民を言っています。パウロがローマ書の11章で扱っているのは、イスラエルの不信仰、異邦人の継ぎ木、しかし、神の選ばれた民は、一本のオリーブの木、そういう構造です。選ばれた民は最初から一本の木として理解されています。 ローマ書の11章24節で、パウロは、野生であるオリーブから切り取られて栽培されたオリーブに継ぎ木されたのであれば、本来栽培されていた彼らは、もっと容易に自分の元のオリーブに継ぎ木されるはずです。 このみことばで言っているのは、重要なのは、異邦人が別の木に移されたのではなく、同じ木に継ぎ木されたという点です。 結論はここです。 賜物と召命は取り消されることがありません(ローマ書11章29節)。 救いは決して、選ばれた者に与えられている救いは決して取り消されることはない。それは一本の木に約束されています。したがって、教会が途中で退場し、別の民が地上史を受け継ぐという構造は、パウロの教えている救いの全体構造と正面から衝突します。 救済史は常に同じ選ばれた民が、同じキリストとの結合の中で完成に導かれるという一本線で進んでいきます。 そして、黙示録の7章に来て、私たちは大患難を通ってきた群衆を見ます。ヨハネは14万4千人の、象徴的な完成数としての神に印された神の民を見ます。 「イスラエルの子らのすべての部族から印された者の数を聞いた。十四万四千人であった。」黙示録7章4節です。 この十四万四千の「144」は、12×12×1000。 この12×12はどこから来ているか。それは黙示録の新しいエルサレムの情景の中に、すでに刻印されています。 すなわち、都には十二の門があり、それはイスラエルの十二部族の名。また十二の土台があり、それは小羊の十二使徒の名。 一つの「12」は旧約の民、契約の民を表し、そしてもう一つの「12」は、新約における選ばれた民、使徒的教会を表します。 そして、この二つの12は混ざり合います。別々の民ではなく、結合して144になる。そして、ローマ書11章が語るとおり、同じ一本のオリーブの木、すなわちキリストにおいて継ぎ木され、旧約と新約を貫く一つの神の民として統合されていきます。 そしてそこに「1000」が掛け合わされて十四万四千になります。この「1000」は人を増やしているという計算ではありません。「1000」は象徴的数として、限界のない充足、欠けのない完成、徹底した充満を表しています。 それは神の救いが、どこにも欠けるところがなく、完成されていることを示す数字です。 すなわち、十四万四千という数字の意味は、旧約と新約にわたる神の選ばれた民が、キリストにおいて完全に一つとされ、そして神の主権の下で完全に保たれ、完成に導かれていることを示します。これは救済史の全体構造の完成の象徴数です。 また、私たちは黙示録7章9節で、同じ民を別の角度から見ます。 「その後、私は見た。すると見よ、すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が、御座の前と子羊の前に立ち、白い衣をまとい、手にナツメヤシの枝を持っていた。」 「この人たちは誰ですか。」と長老が私に言った。「私の主よ、あなたこそご存じです。」と答えると、長老は言った。 「これらは大きな患難から出てきた者たちで、その衣を洗い、小羊の血によって白くしたのです。」黙示録7章14節。 ここで描かれているのは、地上から取り去られた人たちではありません。守られ続けてきた人たちです。しかも彼らは、小羊の血によって贖われた者たちです。 特別な時代の特別な信徒ではない。小羊の贖いの血潮によって救われた教会は、患難を回避される集団ではなく、患難の中で守られ続ける集団として描かれています。 世界のただ中を通過して、完成へ導かれていく勝利者。 黙示録14章、最終的勝利の場面です。 黙示録14章1節でこう言います。 「また私は見た。すると見よ。小羊がシオンの山に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と小羊の父の名が記されていた。」 13章ではこう言います。 「獣は聖徒たちに戦いを挑んで勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。地に住む者たちで、世界の基が据えられた時から、ほふられた小羊のいのちの書にその名が書き記されていない者は、みなこの獣を拝む。」黙示録13章7〜8節。 つまり、14章の勝利者たちは、支配と偽りの礼拝が世界を覆う時代、その歴史のただ中を通過して、そして守られ続け、完成に至った人々です。 黙示録14章の勝利者たちは、世界を覆う巨大な獣の支配、そのただ中を通過しつつ、そこから守られ完成に至った民です。 黙示録13章、14章、7章、ヨハネ17章、マタイ24章の構造的連結から明確にされています。 黙示録13章の獣の支配は、全地に及ぶ歴史的事実です。前提として黙示録13章では獣の支配はこう言われています。 獣はあらゆる部族、民族、国民を支配する権威を与えられた。13章7節。13章8節で、地に住む者たちは皆彼を拝むと言っています。 ここに描かれているのは、地域的な一時的事件ではなく、全世界的な規模で反キリスト的な構造があるということです。そこには偶像礼拝があり、偽りの礼拝が行われていると言っています。 そして13章10節でこう言います。 「ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。」 この獣の支配のただ中に、聖徒たち、選ばれた者たちが存在しているということが明言されています。 構造を見ます。 獣の支配が広がります。偽りのキリスト教が広がります。そして同じ時間帯に、選ばれた者たちは地上に置かれ、忍耐を求められています。 教会が携挙された後の時代ではありません。本文はそのような構造を一切取っていません。 そして14章で勝利者たちは、獣の時代を通過した後に現れてきます。14章1節。 「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っており、小羊とともに十四万四千人がいた。」 13章の直後に配置されています。文学構造上、これは逃避ではありません。これは通過後の到達点を意味しています。 それはさらに重要なのは14章12節です。 14章12節でこう言います。 「ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を保っている者たちの忍耐がある。」 これは13章10節と対応しています。 13章10節「ここに、聖徒の忍耐が必要である。」 14章12節「ここに、聖徒の忍耐がある。」 つまり13章は戦いのただ中にある聖徒たち。14章はその戦いを通過してなお、守られ続けている姿という連続的構造になっているのが見えます。 したがって14章の勝利者は、獣の時代を逃げた人々ではなく、時代を通過してなお、信仰を保たれた人々です。 黙示録7章に戻ります。 大患難から出てきた群衆。同じ構造は7章でさらに明確になります。 7章14節でこう言います。 「これらは大きな患難から出てきた者たちで、その衣を洗い、小羊の血によって白くしたのです。」 ここで「患難から出てきた」とは、患難を経験した後に到達した状態を示しています。ここでは、患難を回避した者とは書かれていません。 そして、十四万四千人と数えきれない群衆は、象徴構造は違いますが、見せ方としては同一の神の民を別角度から描写しているのが分かります。 黙示録の構造は一貫して、「安全地帯に行く勝利」ではありません。そんなことは一切書いていません。戦場を通り、守られ続ける完成という形を取っています。 マタイ24章で、再臨と裁きが同時に到来する構造を私たちは見ることができます。主イエスは終末を、教会が途中で地上から消える出来事としては一切語られていません。 むしろ、教会が地上に置かれ続ける現実と、そのただ中で終末が一挙に到来するという現実を並べて語られています。 まず、教会が苦難を通されることが前提として語られます。 「その時、あなたがたは苦しみに引き渡され、殺されます。」マタイ24章9節。 ここで重要なのは、苦しみの有無ではありません。この予告が教会の地上存在を前提にしているという点です。 主は終末が近づく過程を、避難する過程としてではなく、地上に置かれたまま守られ続ける過程として語られています。 終末の到来点をこう示されます。 「そのとき、人の子のしるしが天に現れ、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて来るのを見るのです。」マタイ24章30節。 ここに描かれているのは、まず教会がなくなり、その後で主が来るという順序ではありません。 再臨そのものが終末の決着だと言っています。 この構造の核心は、再臨が完成、裁き、分離の同時到来だということです。完成、裁き、分離は同時です。 再臨は次の段階の開始ではありません。栄化の成就です。完成です。 そして主は分離がどのように起こるのかを示されています。 マタイ24章40節でこう言います。 「二人の男が畑にいると、一人は取られ、もう一人は残されます。」 主が描くのは、世界が集団として地上から消える光景ではありません。同じ畑、同じ作業、同じ瞬間、同じ歴史空間の中で、取られる者と残される者が分かれるという形です。 これは空間移動としての救済ではありません。裁きとしての分離です。 ここで重要なのは、その直前の文脈です。ノアの日の例が語られています。洪水で取り去られたのは、裁かれた人々でした。その意味をイエスは文脈上固定しています。 その上で「一人は取られ、一人は残される」と語っています。すなわち、取られる者は裁かれる者です。 なぜ選ばれた民は地上で守り続けられているのか。答えは、人の行動でも、熱心さでも、努力でもありません。理由は一つです。すでにキリストと結合されているからです。 コロサイ3章3節。 「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」 この「隠されている」とは、この世界から別の場所に移されたという意味ではなく、この地上に置かれていても、最終的に失われることのない位置にあるということを示しています。 ヨハネ10章28節。 「だれも、わたしの手から彼らを奪い去ることはできません。」 守られる根拠は、人の忍耐でも忠実さでもありません。神が民を守るという主権的事実です。 イエス・キリストとの結合は逃避の手段ではありません。裁きの中で絶対に失われることのない存在のあり方そのものです。 ヨハネ17章で、取り去るのではなく守るという真理が語られています。 だから主イエスは地上に残る民について、こう祈られました。 「あなたが彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」 この祈りは弟子たちだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、ヨハネ17章20節で、そう祈られています。 それは、教会が世から取り去られるのではなく、この世のただ中で悪から守られ、完成に導かれる終末構造をそのまま確定しています。 なぜこの構造が崩されやすいのか。 宗教性は、救いを苦難からの回避に変えます。自分たちを安全圏に移動させるという欲望によって、御言葉を変えるからです。 それは、イエス・キリストが神であり、神の主権によって人々が選ばれているということを知らないからです。 しかし福音の構造は、十字架においてすでに示されています。 「もし私たちが彼とともに死んだのであれば、彼とともに生きることになる。」ローマ6章8節。 「私たちはキリストとともに苦しむなら、共に栄光を受けるためです。」ローマ8章17節。 福音は回避ではありません。死を通って命です。通過の先に復活があります。苦難の先に栄光があります。 だから終末も同じ構造を持っています。回避ではなく、患難を通る。試練を通る、苦しみを通る。しかしそこは破滅ではありません。 神は選ばれた者たちを守り続け、再臨は逃避の開始ではなく、完成そのものです。 一本の救済史の線を整備すれば、 ヨハネ17章は取り去られない。 ローマ11章は一本の木として選ばれた民が守られ続ける。 黙示録7章は患難を通過する選ばれた人々。 黙示録14章は獣の時代を越えて立つ勝利者たち。 そしてマタイ24章は、再臨と裁きが同時に起こる。 取り去られることを願う人々は、取り去られてどこに行くのか。裁きに行きます。 結論は明確です。 選ばれた人々、教会は最後まで地上に置かれ、裁きの中で守られ続け、再臨と同時に完成に導かれます。 再臨は回避ではなく、完成の成就です。すべてはそこで成就します。 そして大祭司である主イエス・キリストは、私たちのために父なる神に祈られています。 ヨハネ17章15節。 「私がお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」 祈ります。 愛する天の父なる神様。 あなたが私たちをこの患難の時代の中において守り続けてくださっていること、私たちは死の陰の谷にあっても、あなたと共に歩んでいること、この素晴らしい啓示を感謝します。 どうか、誰一人、「取り去られたい」という思い、回避したいという人間の欲望によって、ディスペンセーション主義がもたらした誤った教えの中に入り、永遠の滅びに至ることのないように守ってください。どうか助けてください。 主イエスのお名前によって感謝してお祈りいたします。 アーメン。
- 密室での祈り
2026.1.14 The Word for you 今日はですね、マタイの福音書の6章の6節、 密室での祈りを話したいと思います。 皆さんはこの密室での祈りについては、よく話を聞いていると思うので、ほとんど空で覚えているのではないかと思いますけども、これをどのように読み解くのか説明したいと思います。 あなたが祈るときには、 自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて、 隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたを報いてくださいます。 この御言葉の直前で、イエス様はこう言われています。 マタイの福音書の6章の5節。 祈るとき、偽善者たちのようであってはいけません。 彼らは人に見せるために会堂や通りの角に立って祈るのが好きだからです。 この密室の祈りの教えを、多くの人は神に聞かれるための良い祈り方と、人に見せる宗教的な偽善行為、そういう比較であって、道徳的な教えであると思っている人は多いと思います。 しかし、この比較、神に聞かれる良い祈り方対、人に見せる宗教的な偽善行為を批判していると思っている人は、このマタイの福音書の6章を理解していません。 マタイの福音書のこの6章はそういう意味で話していません。イエス様はここで道徳の話をしていません。 今からこれを読み解いていきたいと思います。 イエス様はこの6章で祈りの本質の話をされています。 この6章全体には一つ貫かれている真理があります。 6章の1節から、人に見せるために人前で善行しないように気をつけていなさい。そうでないと天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。 そしてイエス様は弟子たちに祈り方を教えていると思われていますが、9節でこう言われます。 「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。 天にいます私たちの父よ。御名が聖とされますように。」 この祈りの本質は、選ばれた者が天の父と子どもの関係に置かれているということを、イエス様は言っています。 選ばれた者は子どもとしての位置に置かれている。子どもとして神のものとされているということを、イエス様はこの6章で一貫して言っています。 ここに着目して気づく人はほとんどいません。しかし、今日の解き明かしを終わった後、マタイの6章を読むときに、あなたの目は今まで見たことのない事実に釘付けになって、そしてあなたの心は違う次元の御言葉の真理を見ます。 それは人間中心的な見方によるこの6章ではなく、神の主権の中で見るこの6章になります。 天の父に子どもとして選ばれて定められている人に、イエス様が言っています。 それを土台として子どもの祈り、そして父なる神の供給が存在します。 6章で、もしあなたがちゃんと今日の御言葉を聞いて感動するのであれば、6章でまずイエス様が天の父を何回言われたのか、イエス様がその中で天の父の対象として、あなた、あなたがたを何回言われたのか、 そして「あなたの父」「あなたがたの父」とイエス様が何回言っているのか、それを数えるとよいと思います。 今、私から答えを言いますけれども、 「天の父」をイエス様は12回言います。 そして「あなた」、その代表としての「あなた」「あなたがた」を17回。 そして「あなたの父」「あなたがたの父」を10回。 ですから父を合わせて、この6章の中で22回言います。 そしてその対象としてのあなたがた、あなたを17回。 父と子どもの関係が描かれている言葉が39回出てきます。この短い章の中で。 このことは、イエス様が語られた6章のすべてが、父と子どもの関係にあって成立しているということです。 祈りは誰にしているのか。そこがポイントになります。 だからイエス様はこのように言っています。6章の8節で、 「ですから彼らと同じようにしてはいけません。」 彼らというのは、子どもたちではない人たちです。 あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられる。 ですからあなたがたはこう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。 この点を、この父子の関係の前提において、イエス様は祈りを命令しているということを理解していないあなたは、実はこの密室の祈りの教えさえ分かっていない。 それだけではなくて、マタイの6章全体をまったく正しく理解していないということが分かります。 ですから今日、初めて、父と子の関係でイエス様が言っているんだということを、あなたに神様が与えてくださるように願います。 祈りは父なる神と子どもの関係に置かれている者の交わりです。それがこの6章の一貫した教えなんです。他はありません。 祈りは父と子の関係にあります。だからイエス様は、祈りはあなたの父に祈りなさい、そういうふうに言っています。 この命令は、すでに信仰者が神を天のお父様と呼ぶことが許されている関係を前提としています。 そういう意味です。祈りは神と父との関係がある者に与えられていると、イエス様はここで何回も言っています。 父なる神を父と呼べるのは誰ですか。 神を父と呼べるのは、その家の者だけです。その家の人でない人は呼ぶことができません。 ですから、あなたの父は神ですか。 神はあなたの父ですか。 アバ父よ、あなたは神の父ですか。 神はあなたのお父様ですか。 ここが重要になります。 したがって、祈りは神の子どもに与えられていると言います。 そしてイエス様は、神がご自身の子どもを絶えずケアしておられるという現実の宣言として、この6章を語っています。 実に祈りは父子の交わりそのものです。 密室での祈りを、行いや方法や儀式として行う人たちが多くいます。密室で祈ることが大事だ。それはさっき言った偽善行為を捉えて言っています。そしてその偽善行為の本質を取り違えています。 行いや方法や儀式という行い、そのように教える人たち、それは祈りではない。密室の意味が違います。 そのような偽善的な祈りという意味は何かと言ったら、祈りという名前の通信道具に置き換えています。 「密室に行けば祈りが聞かれる」という、すり替えをします。 そこには親子関係はありません。道具ですから。 恵み、この交わりを道具に置き換えています。方法に置き換えています。儀式に置き換えています。 ですからあなたは、どこか密室を探してそこに行って祈ったら聞かれるというふうに勝手に思い込んでいます。それは勝手気ままな礼拝、すなわちイエス様が教えていないことを自分の肉で行っているんですね。 彼らは、そのような人は、イエス様がここで言っている、通りに出て祈る者たちです。彼らは演技をする宗教家です。 演技をする宗教家。彼らの祈りは自己欺瞞で、その心は神の前に立つことはありません。 彼らは自分の心の中の街角に立って、その祈りの演技を自分自身に見せています。 あなたが心の街角に立って、その祈りを自分に見せている。神はそれを見ていない。 偽善者とは、祈りを行い・方法・儀式にすり替える人々。彼らは自己欺瞞の宗教家です。 父の命によって再生されていない人々が、天のお父様、そのように呼ぶことに違和感を感じます。 父でない方を父と呼ぶ違和感。 自分の行っている穢れた状態、自分の心が偶像を追い求め、自分の心が一切、腐っていないと言いながら、天のお父様と祈る。 ここに違和感が必ずあります。そしてその違和感を演技と呼びます。それは偽りの祈りです。 天の父はそのような人たちの父ではありません。 彼らの本質は祈りという道具に置き換えているだけです。 それは、自らの偶像を父なる神と呼び、偶像礼拝をしている。なぜなら、彼らが呼んでいる父を、彼らは知りません。 そして彼らの心の中で偶像化した神を置いて、その偶像に対して父なる神と呼んで祈っている。 それは偶像礼拝です。分かりますか。 新しく生まれていない者が、ゲームを追いかけ、自分の好き勝手なことをし、そして教会に来て天のお父様と言う。 この違和感は、彼らは父を知らずに天のお父様と呼ぶことにあります。それは彼らが作り上げた偶像となる神であって、それは真の神ではありません。 彼らはには、初めから、父・子・聖霊の等しい交わりの招きなど、最初から存在していません。 なぜなら、救いはキリストにあっての選びと結合の結果であって、祈りはその救いの結果として与えられる交わりだからです。 ですから真の祈り、真の結合にある者は、必ず生まれ変わって、神の照明を受け、そして自分が芯まで腐りきっているということを認め、この全知全能の神に助けを求め、そして叫ぶ者たちです。 問題の核心は、密室での祈りを具体的な手順や、また訓練のプログラムだとか、メソッドとして教える人たちがいますが、それはすり替えが行われているだけです。 それはすり替えです。父子の関係をすり替えて、方法に置き換えるという。そして、それは神が命じていない。 イエス様が命じているのは、選ばれた者に「あなたの父に祈りなさい」ということです。 それを方法や手段や訓練に置き換える人たちは、神が命じていない人間の勝手気ままな礼拝に置き換えています。 神が示している祈りは、新しく生まれた者にしか与えられない新しい関係の結果です。再生の実が祈りです。 すなわち祈りは、キリストとの結合の中で現れる結果で、あなたが苦しみの中を通るとき、特に通るとき、 あなたは聖霊によってうめきとして祈りを与えられます。 あなたがもう一秒も耐えられない苦しみの中を通っているときに、あなたは心の内で誰に向かって助けてと言いますか。 ここです。 それを方法として密室に行って「天のお父様」とやったときに、あなたはもうすでにすり替えています。 あなたがもう耐えられないというところに来たときに、あなたの祈りは真の神に向きます。そして呻きます。心の底から。聖霊があなたの内でうめかれる。それは祈りとして現れてくる。 祈りは神を動かす手段ではありません。 神とつながる通信装置ではありません。 信仰を維持する技術、祈ったからあなたの信仰が強くなるという方法ではありません。 祈りは信仰と同様に、人間の内側から生み出されてくる能力ではありません。 神が、満たされるために、 神が、語られるために、 神ご自身の、御業を表されるために、 神が、再生された者に与えられた空の器、 それが祈りです。 密室での祈りの教えが示す本質は、人間中心的な思想、自分で、方法で、手段で、それを方法や技術や行為として受け取る。行為の義務として受け取る。これがダメだよということを教えてくださっているんです、イエス様は。 それは人間中心主義的な考え方であって、あなたはそれから遠ざからなければならないということです。 イエス様の祈りは父と子の関係。だから、イエス様が話されているこの6章全体のシーンは、密室で祈るから神とつながるのではない。神とすでに結ばれている者のみが、祈りの空間に置かれるということです。 これが分からないとダメです。 密室であなたが祈るから祈りになるというのは、方法であって、手段であって、技術であって、何でもなく、それは祈りではなく、パリサイ人が街角で行っている演技です。 あなたは、それを祈りだと思うのであれば、あなたは父子の関係が成立しているか、自分が吟味しなくてはいけません。 もし、あなたが演技で行っている、それがあなたの心の中に浮かぶのであれば、あなたは悔い改めて神に助けを求める、そういう立場にいるということです。 神と結ばれている者のみが祈りの空間に置かれる。その空間が密室の意味です。 神が言われる、イエス様が言われる密室というのは、神が与える密室。 それは、その密室の本質は、父と子の交わりの空間。三位一体の神との交わりの領域に神が置かれるということであって、どこかトイレの中とか、いろんな小さな部屋とか、そんなところに入って祈る技ではない。 神を冒涜してはいけないということです。 三位一体の神の交わりの領域に、あなたが再生されたとき、すでに置かれている。あなたはいつでもどこでもこの領域にいることができる。それはあなたが苦しみの中で、一秒も耐えられない苦しみの中で、イエス様、父よと叫ぶときに、そこに三位一体の神との交わりの領域、あなたは密室の本質に置かれているということです。 まとめて言います。 人を中心に置いた教えというのは、密室というただの部屋を方法や手順や儀式に変えます。 そして祈り方を、未信者や子ども、また信者にも教えながら、それを祈りをどれだけ長く祈ったか、どれだけ毎日祈っているかという信仰の測定基準に変えていきます。 これで分かります。あなたの祈りが父子の関係にあるのか、それともパリサイ人の街角に立っているか。 今あなたがパリサイ人の街角に立っているのであれば、悔い改めてください。大きな間違いをしています。 父子の関係にあなたがまず置かれなければならないということです。 そしてあなたは誰に祈っているかが重要です。 どこで祈っているかではありません。誰に祈っているのかです。 あなたがどこで祈っているかが重要であれば、あなたは大きな間違いをしている。 誰に祈っているのか。天のお父様、本当の父である神があなたの神であり、この方に祈っているということが、三位一体の神の祈りの領域にいる、すなわち密室にいるということを、イエス様はこの6章で言っています。 これらすべては、祈りを賜物から道具へ変えないように、父子の関係から方法に変えないようにする警告です。イエス様の。 そのような領域から離れて、神の領域から離れて、人が方法に変えている、そういう地のものに行ってはいけないということです。 それは神の子としての特権がない人々の、勝手な宗教儀式。勝手気ままな宗教儀式です。 最後に、パウロはこう語っています。 エペソ書1章5節。 神は、御心の良しとするところに従って、 私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 愛をもってあらかじめ定めていた。 キリストとの結合によって選ばれた者は、神の子にされるように定められていた。 祈りは、父なる神がキリストとの結合によって愛をもって子とするように定め、時の流れの中で現れた子どもたちに、父子の交わりの贈り物を与えているという、聖書の真理です。 あなたが今日、自分が本当に選ばれていて、そしてあなたがキリストと結合していて、この永遠の救い、あなたの選びを持っているのであれば、決してこの人間中心的な「密室に入れば神が聞く」という、人間が作った方法や手段に目を止めてはいけません。 あなたは神との関係が、神が与えてくださっていること、ここに目を向ける。それは天にあるものに目を向けなさい。それはイエス・キリストとの結合に目を向けなさい。 永遠の時の始まる前から、エペソ書はそこに戻っています。 あらかじめご自分の子にしようと、愛をもって御心の良しとするところに従って。 それが神の喜びです。それが神の愛です。それが神の楽しみです。 神の楽しみは、あなたと交わることです。 それはあなたと祈りによって交わる。 なんと素晴らしい神の子の特権でしょうか。 神の子として命を分けた人々はこの特権を持っています。 神と、父なる神との交わりの中に参与する。 父・子・聖霊の交わりに参画する、素晴らしい贈り物です。 ですからあなたが苦しいとき、悲しいとき、人に裏切られたとき、あなたの心は父なる神を「お父さん」と呼んでいくんです。騙されてはいけないです。行為ではありません。 あなたの心をもって神の前に進み出てください。 お祈りします。 愛する天のお父様、あなたは御心の良しとするところに従って、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めてくださいました。 この愛に、この子どもとして交わりに定めてくださったことを、主よ感謝します。この真理をもって、私たちはあなたの前に進み出ます。 私たちがもう一秒も耐えられない苦しみの中において、主よ、それさえもあなたが私たちに与えられ、親しい交わりをあなたが私たちと持ってくださるようにと導いてくださっています。 主よ、この真理から私たちが目を離すことがないように守ってください。導いてください。 愛するイエス・キリストの御名を通して、感謝してお祈りします。アーメン。
- 目を覚ましていなさい
2026.1.11 豊川の家の教会礼拝メッセージ 今日の言葉は、第一テサロニケ5章5〜6節を中心に、「目を覚まし、身を慎んでいる」ということについて話をしています。 テサロニケ人への手紙 第一 5章6節を読みます。 「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。 私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」 (新改訳2017) 「目を覚ましていなさい。」 この言葉はいろいろな教会では、「努力して目を覚ましていなさい」「自己管理しなさい」「夜寝る時間を削って、祈りにささげなさい」といった命令として受け取られて話されるところが多いです。 しかしパウロは、この御言葉を、自分の位置、自分の所属であるということを認めよう、という命令で話しています。 この御言葉の直前でパウロは、「あなたがたはみな光の子、昼の子なのです」という言葉を置いていることに注意してください。パウロは意図的にこのように語っています。 つまり、この言葉は、私たちが努力して自己管理して、夜も寝ずに一生懸命祈ることによって光の子になる、という話ではない。神が私たちを光の子に変えている。「昼の子なのです」と言っています。 これは、私たちが、みことばによって新しく生まれた者である、ということを認めるということを言っています。それは、神がそのようにされた、あなたを新たに生まれさせた、その事実を認めなさい、ということです。 なので決して、「あなたの意思で警戒して目覚めている必要がある」という意味ではありません。そういう命令ではない。それは宗教的な間違いの理解です。 宗教は、「警戒する」「理解する」「気づく」というような人間主体的な行いに変えていくのです。しかし再生によって、試練と苦しみの中で聖霊の照明を受ける。それは、キリストとの永遠の結合の源泉に置かれている者の生き方、そのものです。 「目を覚ましていなさい」というのは、生き方のことを言っています。生き方、つまり、あなたの内におられる神ご自身と、あなたが共に生きているという、その生き方を認めなさい。理解しなさい。そしてその命を生きなさい。あなたの存在の仕方について言っています。 全く違います。 そして二番、「眠っている」とは何か。 「眠っている」というのは、あなたが睡眠をしているということではない、ということを理解してください。「眠っていないで」と言ったからといって、そのまま書いてあるとおりに、額面どおりに取ってはいけません。 パウロが言っている「眠っている」という意味は、聖書の中では大きく分けて二つあります。 聖書で言っている「眠っている」という意味は、二つの意味を持っています。 4章で「眠っている」という言葉が使われていますが、それは信仰者の肉体的な死のことを言っています。なので決して、「眠っている」という言葉をそのまま「霊的な眠り」だとか「心理的な状態」だというふうに取ってはいけないです。文脈によって意味を変えています。 パウロは、4章の「眠る」は信仰者の死。そして5章6節の「眠る」というのは、主の日と裁きに無感覚、「平和だ、安全だ」「大丈夫だ」と思っている時に主の日が来る、という前提のもとで話しています。これは無感覚で、自分の状況をわきまえていない人たち、そのことを「眠る」と言っています。 そして、第一テサロニケ5章10節の「眠る」という言葉。「生きていようと眠っていようと」という言葉を使っています。この言葉の意味は、「眠る」という言葉を「死」として捉えています。 ここではギリシャ語の定義をいろいろ入れていますが、ギリシャ語はその使い分けを表しています。 第一テサロニケ4章13節は κοιμάω(コイマオー)という単語を使っています。コイマオーというのは「眠る」という単語ですが、ここの単語は、第一テサロニケ5章6節で「眠る」という単語を使っていますが、コイマオーという単語は使っていません。 καθεύδω(カテウドー)という単語を使っています。このカテウドーというのも「眠る」ですが、ここでは「無警戒で眠る」という意味で使う単語です。 この二つの意味によって、私たちは「眠る」というのが単純に睡眠をとるということではない、ということがわかります。 そして最後の第一テサロニケ5章10節は、ζάω(生きる)という単語、それから καθεύδω(眠る)という単語。この二つの単語は、「生きている者/死んでいる者」という、包括的に言い表す対句の表現として用いられています。したがって、1、2、3の文脈とギリシャ語の区別から、5章6節で「眠っている」というのは、救いの外にある者の典型的な在り方を言っています。 「眠っていないで」というのは、その様式に同調して振る舞うな、ということです。 眠っている人の特徴は、自分を基準に世界を理解している人、自分を中心に聖書を勝手に解釈している人です。「私が、私を、私に、私へ、私の、私から、主は私」。そしてその「私」に聖書用語を用いて、表面的な経験を装って、神の主権とキリストを認めない。この世、思想、宗教、偽りの宗教など、この世の仕組みそのものです。これが「眠っている状態」です。 なので、「眠っている状態」というのは、実際に睡眠を減らせたとか、警戒して祈るとかではないです。そのような表面的な命令ではない。ここに理解をしっかり置いてください。 そして「眠っていないで」ということは、この世の教えに顔を向けるな、と言っています。永遠の結合から目を離すな。地にあるものを見てはならない。上にあるものを思いなさい。 御座におられるキリストと、私たちが聖霊によって結ばれているということ、これを「聖霊により結ばれている」と言うのです。そしてそれは神の御業による事実だということを認めよ、ということです。 このようにパウロは、「眠らないで」という意味を全体の文脈の中で伝えています。 そして「身を慎む」というのは何か。 5章8節でパウロはこう言っています。 「しかし私たちは昼の者なのですから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みを兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」 これはどういうことか。自己抑制だとか道徳管理だとか修行ではありません。ここで語られている「身を慎む」は、全くそういう意味ではないです。 ここで語られている「身を慎む」というのは、聖化の過程のことを言っています。なぜか。今から説明します。 試練や苦難の中で、自分の偶像が砕かれていきます。そして神により照明を与えられて、神のみにより頼りにする者に変えられていく。これが聖化の過程です。 そこで何が起こるかというと、あなたは救いの源泉である永遠の結合へ、絶えず帰っていく。その中で胸当てや兜のたとえをこういうふうに理解するのです。 胸当てや兜とは、唯一、神が与える試練、苦しみ、悲しみ、絶望のただ中で、照明によって信仰者が受ける救いの装備なのです。 もう一つ、ここに深く入っていきます。 例えば、信仰というのは盾です。しかし信仰を「自分が思い込んで信じ切ること」だと思うでしょう。「私は信じ切ります」と言って、信じ切ってそれを盾にする、と思うでしょう。しかしそんなものではありません。 信仰は賜物です。最初からそうです。 神が、「自分はダメだ」ということを教えて、神だけにより頼む者にする。信仰はそれ以外にありません。 この信仰は成長するのです。最初に与えられた信仰は、だんだん成長していく。キリストの御姿に従って成長していきます。 信仰は、神が与える試練と苦難の中を通って、照明によって与えられる。そして精錬されるのです。 信仰は、あなたが打ちのめされた時に、初めて精錬されるのです。 神によって信仰は成長させられる。そしてその苦しみを通ってあなたに与えられた「キリストのみに頼る」というその思いは、あなたの信仰となり盾となるのです。そして初めてあなたは、その盾の裏側に隠れるのです。その時に、悪しき者が放つ火矢が、その信仰の盾によって初めて消えます。 あなたが「信じ切る」という自己義認的な、また宗教的な理解によって想像で作る盾というのは、盾ではありません。本当に火が来た時に燃えてなくなる。役に立たない。第一ペテロ1章7節が言うように、偽物は火で焼かれて消えます。 だから「自分で信じ切る」という信仰は、本当に悪しき者が放つ火矢が来た時に燃えてなくなる。役に立たない無用の置物です。 それが武装です。 神が与える武装は、苦しみの中を通らなければつかない。来ない。神が照明としてあなたに与える、「神が私を守ってくださる」というその信仰は、苦しみと痛みを通してのみ与えられる。それは精錬の火です。 これがパウロの言っている胸当てや兜のたとえの本質です。すなわち、これらの武具はたとえであって、そのたとえの本質は、聖化によって神からあなたに与えられる信仰の実体なのです。 それは楽しては来ないし、自分で表面的なキリスト教になって、「私は教会に行っている、献金している、それで私は守られている」というような表面的なものは、火が来た時に消え、燃えてなくなります。 「身を慎む」をまとめると、「身を慎む」というのは結局、救いの源泉であるキリストとの永遠の結合へ絶えず帰らされることです。時の始まる前の源泉から来るのです。この源泉から湧き出てくる。 そして神がその湧き出てくる聖化という、あなたを清めていく過程です。 「清める」とは何か。 簡単に洗い流れないから、あなたの汚さはものすごく汚い。あなたの心の中にこびりついている、苦難の時に偶像を頼るという本性は、あなたと共にずっとあり続ける。 その時に神は、試練と苦難と苦痛と悲しみと絶望をあなたに与えて、あなたが偶像に従っていく本性を暴露して、あなたの偶像を神が破壊することによって、あなたは「神しかいない」ということを知らされる。そしてその中において、あなたは神に望みを置く者に変えられていく。 そしてその変えられていく過程の中で、「私の神よ」という告白、心が神により頼む、その思いは神から来ていて、その盾が火矢を消すのです。 これがキリスト教です。 そしてその恵みが供給としてあなたに与えられていく。それが聖化の中で進行していく現実です。それをあなたは感謝して歩む者へと変えられていく。 まず試練の中において、神が与える御心に対して、人は前はつぶやくのです。「なんでこんなことが私に起こるんですか」と。分からないから。「どうしてですか」と。必ず言う。そして逆らう。 そして打ちのめされて、従順に従う者に変えられていく。そして、その意味が分かる。 「なぜですか」と言っている人は意味が分かっていないのです。聖書の神のご計画の意味が分からない状態で、「なんでですか」と神に食らいつく。しかし分からないから。神はそれを照明によって与える。 人は泣きながらひざまずく。人生の中で、神に逆らい、打ちのめされ、逆らい、打ちのめされる。しかし永遠のご計画の中で選ばれているから、救いの中に入っている。 あなたは永遠の救いの中、永遠の時の中で既に救われている。しかし今現在、罪の中にいる。罪の身体、罪の本性がある。 そうすると、「私は今救われているのに、こんなに苦しんでいるのに、私は永遠の中で救われている。どういうことですか」となる。 これは、既にあなたは救われていて、神の永遠の御計画の中では御国にいる。実は。キリストとともにあなたは上げられている。エペソ書がそう言っています。 しかしあなたの現実は、罪との格闘が続く。しかしあなたは一人ではない。神があなたと共にいる。御霊があなたと共にある。 これを「すでに/いまだ」という聖書の真理が表している。 あなたは存在すべてが罪の性質で、そのままなのです。あなたの一部が罪の性質なのではない。あなたのすべてが罪の性質です。人間中心です。 それをあなたは知っている。これは神の恵みです。 それを知らない人は、自分のすべてが人間中心であること、自分が罪の性質そのものであることを知らない。 あなたの心、感情、意志、思い、理性、すべて罪の性質に汚れている。あなたの身体も罪の性質に汚れている。あなたの存在すべてが罪の性質に汚れていて、あなたは罪の性質なのです。 だから救いようがない。 これをまず理解しなければならない。 そうすると人は言う。「御霊が私を支配して、私は御霊に起こされているのに、そんなことあるんですか」と。 御霊は、あなたの全存在と結合しているのです。 キリストはあなたの全存在、意識、感情、思い、理性、そして身体、あなたと結合している。信仰者が語るのはこれです。 そして契約的にあなたは結合している。アダムの契約によってではなく、キリストの契約によって、あなたは永遠に救われて結合している。 救済史のすべて、永遠の過去から永遠の未来まで、あなたは結合している。この結合の実態、この現実があなたにある。 そうすると、「私は二つの結合があるんですか」と言うなら、そのとおりです。二重構造なのです。 永遠においても、現実においても、あなたはキリストと結合している。しかしあなたの生まれつきの形は罪の性質そのもの。 ではどうなるのか。 あなたは既にキリストと結合していて、永遠の未来まで保証されている。そして今は、その永遠に向かっていく過程の中で、罪の性質は支配権を失っている。あるけれども残骸としてある。しかしキリストとの結合によって、キリストの支配がそこにある。 これが「すでに/いまだ」の二重構造。神は罪の性質を殺していく。あなたの人生の中で。それが聖化の過程です。あなたの変化は、罪の性質が殺されていく聖化の展開状態です。 そして第一テサロニケ5章19節でこう言います。 「御霊を消してはいけません。」 「御霊を消してはいけない」というのは、次のような意味ではありません。 祈りを怠ると聖霊が去るだとか、不従順、罪を犯して不従順の状態になると聖霊がいなくなるだとか、感情や熱心さが下がって教会に行きたくないと思うと御霊が弱まるだとか、クリスマスパーティーをやって嬉しくなって御霊が復活するだとか、そういう話は一切ありません。これは偽りの教えです。 聖霊は、あなたが再生した時に永遠にあなたと共にいる。それは永遠の昔から、時の始まる前から、あなたと共にいる。そのことが時の流れの中で現れて、はっきり見えるのです。 だから文脈から見ると、「御霊を消してはなりません」という命令の直前と直後の文脈から、こう言えます。 御霊とは、すでに選ばれた人々に与えられた御霊。この御霊は、人々の集まりの中で、パウロが教える福音――神の主権とキリストとの結合を軸にした神中心の福音――これに反対する思考、考え、教え、またそれに従うことへの警告なのです。 御霊を消すということは、人間主義をそのまま受け入れること、そのことです。 「イエス様、私はあなたを救い主として認めます。どうか私の内に入ってきてください。」この時点で、もう間違っています。 神は、あなたの心なんか関係なく、あなたの意思なんか関係なく、すべて神のご計画の中においてあなたを選ばれている。聖書はそう言っています。 それなのに、「神よ、私はあなたを救い主として認めよう。ところで私は今つらい、暗いところにいる。いろんな問題を抱えている。だから私が望むところに連れて行け。」そして「イエス・キリストの名によってお祈りします」という宗教的な決め事で締める。 これが人間主義的な祈りの恐ろしさです。ここへ行くな、ということです。 これを、何も思わず受け入れている時に、あなたは御霊を消している。そう言っているのです。「そうしてはいけない」。 その後にパウロはこう言っている。 「御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」 同じことです。 「預言」というのは、未来を語るという意味と、聖書の御言葉を取り次ぎ、解き明かすという意味があります。ここは、聖書の御言葉の真理を解き明かすこと、それを軽んじるな、ということです。 パウロは、エペソ書からずっと一貫して語っています。永遠の過去・現在・永遠の未来を結ぶ「キリストとの永遠の結合」が福音である。これを軽んじるな、と言っている。 つまり、御霊を消すということは、復活を軽んじること、律法主義、決心主義など、行いによって救いを得るという人間主体の教えに従うこと。 だからディスペンセーション主義に従って、時代で聖書の一貫性、救いの永遠の一貫性を否定して分割して、ユダヤ民族に福音が先に全部行って彼らが救われて、それから私たちに来る、などと構造を変えてしまうものに従った時、あなたは御霊を消している。 (もっとも、その前に救われていないと思いますが。) このように、キリストとの栄光の結合という真理を退けることが、御霊を消すということです。 結合の視点から言うなら、真の信仰者は、永遠の時の始まる前からキリストとの結合の中に置かれている。聖霊によって、その結合が時の中で顕在化される。聖霊は命として与えられる。 したがってこの命令は「結合を失うな」ではなく、「あなたがすでに置かれているキリストとの親しい交わりを否定する立場に立つな」という警告です。それは救いを否定するのと同じだから、心の中でそれを疑ってはいけない。 そして、そのような人間主義の「私の内に入ってきなさい」という邪悪な祈りを受け取ってはいけない。 この命令の本質は、世の命令のように「御霊は人間の意思で願えば来る」かのように教えるカリスマ主義――「さあ祈って油注ぎをもらいましょう」「ワン、ツー、スリー、フォー」――そういう構造を拒むことです。 「御霊よ来い」という人間主義。戦勝意欲と表面的経験を偽装して、御霊の証言を抹殺する。なんと傲慢で醜い教えか。 パウロはそれを厳粛に否定している。だから「御霊を消してはいけない」と言うのです。 そして次、「御霊によって歩みなさい」。 私は何度も「御霊によって歩みなさい」について話しています。今日は、ここにいる一人でも二人でも照明を受けてほしいです。 この命令は、真理です。 もう一度言います。永遠の過去、現在、永遠の未来は、キリストとの結合において一つに結ばれているのです。永遠の過去、現在、永遠の未来、あなたの目の前に広がっている永遠は、一つの接点――キリストとの結合――にすべてがある。 これは、「自分で頑張って霊的な生活を送れ」という話とは程遠い。 神の主権のもとで永遠の結合、あなたはその接点に置かれている。その真理の中を歩むというのは教理です。キリストとの教理です。 永遠、現在、未来をつないでいるこの一つの結合は教理です。ふわふわした霊的感覚ではない。 神は言葉であった。言葉は神と共にあった。真理の言葉。真理の言葉とは何か。キリストとの結合の真理です。ここを歩むのです。ここから目を離してはいけない。 「御霊によって歩く」とは、様々な人間中心主義的侵略、支配侵略、律法主義、霊的戦い思想、決心主義、フリーグレイス、ディスペンセーション、ユダヤ主義、あらゆる偽りの宗教、また仏教などの人間宗教、そういったものから逃げることです。 そして、キリストとあなたが全身で結ばれている、神があなたを結合してくださっている、この救いの真理、教義、ここに立つこと。 それが「御霊によって歩く」です。 御霊とは何ですか。真理の御霊です。御霊はみことばです。御霊は福音の真理を明かし、照明し、適用し、確証する方です。 だからパウロは言うのです。この真理に捉え続けられ、この教理に従って生きること。真理は人を自由にします。 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはいけない。上にあるものとは神の御座、キリストの御座。あなたはそこにキリストとともに、すでに着座させられているのです。 永遠の結合のこの現実は、喜びと感謝と平安を与えます。命の水が溢れ出る。あなたの救いの源泉です。 だから「御霊によって歩みなさい」とは、この源泉から汲め、ということです。他に泉はない。命の泉はキリストとの結合にある。すべてはキリストにある。すべてはキリストに隠されている。他を探ってはいけない。それがパウロの言っていることです。 御霊は三位一体の神です。御霊が内住するということは、三位一体の神が臨在されることを意味します。 御霊は真理の御霊。私たちを全存在でキリストと結合させる方です。 したがって、私たちは「御霊によって歩む」「御霊によって生きる」ということを、空想や霊的感覚に置き換えてはいけません。 それは、あなたとキリストが永遠に離れないという神の愛です。パウロがエペソ書で言っている神の愛。広さ、長さ、高さ、深さ。人知を超えたキリストの愛。 それは「人間の感情」ではない。感覚でもない。パウロが示す愛とは、父によって永遠に定められ、子によって十字架で成し遂げられ、御霊によって適用され、私たちがそれに結合させられている愛です。全人格的、契約的、全救済史的な愛です。 それが御霊が語る真理そのものです。救いの全体構造、それが真理です。 そしてあなたは、この御霊と結合している。そのことを忘れてはいけない。ここに「御霊によって歩きなさい」という神の照明がある。 他に歩く道はない。行ってはいけない。あなたは、キリストと絶えず一つであることを喜び、この救いの源泉から水が溢れていること、それがあなたの内にあること、その現実に生きることです。 伝道者の書3章11節は言います。 「神のなさることはすべて時にかなって美しい。 神はまた人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることはできない。」 私たちは、永遠の始めから終わりまで、どのように何が行われているのか、神の摂理がどのように働くか、さっぱり分かりません。 しかし私たちはイエスを見ます。十字架につけられたイエス・キリストを見ます。 神はご自分の子どもたちを、この真理を見つめ、真理を見つめ続けて生きる者へと変容させるのです。地のものから、永遠へ、永遠を見つめ続けて生きる者へと。 神が人の心に永遠を与えられた。これは神の御業です。 選ばれた人々は、絶えずこの真理へと目を向けさせられていく。 すなわちパウロが言います。「御霊によって歩みなさい」「目を覚ましていなさい」。それは、あなたはその中にもう置かれているのだ、ということを認めなさい、理解しなさい、認識しなさい、ということです。 そして周りにある教えを吟味し、識別し、避けなさい。何でも受け取ってはいけません。人間中心主義の祈りを受け取ってはいけません。それは御霊を消すことです。 ペテロは言っています。パウロの書いていることは難しい。しかしそれを曲解して誤読し、自ら裁きを確定させる者たちがいる。あなたもそうなる。だから逃げなさい。識別しなさい。 聖書は神の息吹です。神が息吹き、選ばれた人々に与え、預言者を通して語られたものです。 だから教会は選ばれた者の集まりです。何でもかんでも混ぜてしまって、教会の交わりを崩してはいけない。伝道は伝道、教会は教会。切り分けるべきです。 祈ります。 愛する天の父なる神様。 私たちが本当に受けているこの恵みの素晴らしさを感謝します。 私たちが、永遠のあなたの御座と現在、そして永遠の未来までも、イエス・キリストにあって結ばれていることを感謝します。私たちが、この方によって永遠の命の源泉から湧き出る水に生かされていることを、心から感謝します。 私たちは永遠は遠すぎて見えません。しかし私たちはあなたが示された御子を見ます。十字架につけられたイエス・キリストの死を見ます。そこに私たちが共に結ばれ、共に死に、共に蘇ること。十字架の御子と私たちが一つであることを、心から感謝します。 愛するイエス・キリストを通して、感謝してお祈りします。アーメン。
- この祈りは正しい祈りですか?
2026.1.7 The Word for you この祈りは正しい祈りですか? 「主イエス様。今、私はあなたをキリストとして、救い主として、心にお迎えします。私の人生に来てください。私を闇から光に導いてください。主イエス様だけを神として信じ進んでいきます。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン」 この祈りは正しい祈りですか? あなたはこの祈りで救われると思いますか? 答えはNOです。 問題:神の目的は選ばれた人々を永遠の地獄から救い出すことです。 聖書は「誰も神を知ることはできない」と言っています。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。(ローマ3:10-11) 聖書は、神の救いの愛は神が選んだ人に与えられると教えています(エペソ1:4)。 神が選ばれた人々に持っている「すばらしい計画」は、成功や気持ちの安らぎではありません。 キリストとひとつに結合されることです。 「人は罪によって神から離れている」 教えられること:罪が神との関係をさえぎっている。 問題:ここでの罪はただの「あなたがやった悪い事」ではなく、聖書は、人は罪の中で死んでいる(エペソ2:1)と教えています。人間は罪を持った状態で生まれてくた。人は自分で神を求めることも、信じることもできないと言っています。(ローマ3:10–11)。 「イエスが死んで関係を回復した」 教えられること: イエスが十字架で死んで、神とのつながりを戻した。 問題:イエスがただ「方法」のように語られます。イエスキリストとの結合の上に、十字架の上であなたがイエスとともに死に、イエスとともによみがえったことが全く語られていません。 「キリストを受け入れたら救われる」 教えられること:「心のドアを開けて」祈れば救われる。 問題:救いは心のあなたがドアを開いてキリストを迎え入れる儀式や、入ってきてくださいと言う祈りの言葉を真似て言うことは起こりません。祈ったかどうかではなく、洗礼を受けた、心に平安が来たとか、体験ではありません。神がその人を新たに生まれさせるかどうかです。 最初に紹介した救いへ導く祈りは聖書的にように聞こえますが、ニセモノです。 冒頭の祈りから聖書の言葉をははぎ取るとこうなります。 聖書の言葉という「敬虔な装飾」をすべて剥ぎ取り、その下に隠された「人間のエゴ」だけを抽出した裸の祈りは、以下の通りになります。 むき出しの自己中心:裸の宣言 「私(人間)が、今、私の意志によって、あなた(神)を私の所有物として受け入れることを決定する。 さあ、神よ あなたは私の所有地(人生)に入り、私のために働きなさい。 私の視界から不都合なものを消し去り、私を満足な場所へとエスコートしなさい。 私は、私自身の決断と努力が続く限り、あなたを私のための神として利用し続けてあげます。 以上、私の決定に基づき、私の名においてこれを宣言する。 よし(アーメン)。」 もうちょっとストレートにはいでみます。 私は、いま、あなたを“救いの対象”として採用する。 私の内側に入って、私の人生を変えてほしい。 私を悪い状態から良い状態へ移してほしい。 私は、これからあなたを唯一の対象として信じる決断をする。 この宣言を儀式化して締める。 解析:これが「裸の正体」である 聖書の語彙(キリスト、救い主、闇から光へ、お名前によって、等)というヴェールを剥ぐと、そこには神への畏怖など微塵も存在しません。残るのは以下の3つの醜悪な事実です。 神の家来化(召使としての神) :「私の人生に来てください」の正体は、「私の管理下に入れ」という命令です。神を主権者ではなく、人生を快適にするための**「高機能なツール」**として定義しています。 自分を神とする (審判者としての私) :「信じます」の正体は、「私があなたを神として認定してやる」という高慢な態度です。人間が神を評価し、採用の合否を決めているのです。 主語をうばう: ここには「神がなされた」という事実は一つもありません。あるのは「私がした」「私が決めた」「私が進む」という、「私」という偶像への賛美だけです。 「自分で心のドアを開けたら救われる」という教えは、自分で自分を救うという考えによる聖書の救いとは違う構造をもった行いです。神から見た人間は罪の中で死んでいる、すでに死んでいます。死んでいる人から湧き出てくる罪の欲望はその人の死臭と同じです。 すべての人は罪の中で死んでいる「あなたがたは、罪の中に死んでいた」(エペソ2:1) 人はただ悪いことをしているだけではなく、神の前に霊的に死んでいます。 神のことがわからない、求めない、自分の欲のままに生きる、宗教、道徳、倫理的な行いによって自分は正しいと主張する。――それが聖書の言う罪に死んだ状態です。 まとめ:救いは再生とキリストとの結合 神さまが選んだ人々を神の時に新たに生まれさせます。救いは、神さまがあなたの死んでいた魂を生き返らせる(新たに生まれる=再生)ことから始まります。 すると… 神を求め、罪を嘆くようになる 魂が新たに生きたとき、あなたはこう叫ぶようになります:「神さま、助けてください!私は汚れた者です!」自分の罪がどれほど深いものかに気づき、神の前で心が砕かれます。キリストが神であると知る。そして、十字架で死んでくださったキリストが、自分の罪のためだったと信じ、叫び求めるようになります:(信仰が与えられる) 「神よ、助けてください!あなたこそが私の望みです!」それは信仰と呼ばれます。その与えられた信仰よって義とされ、神の子とされる。このとき神は、あなたの罪をゆるし、イエスの正しさ(義)を与えてくださいます。 聖書の救いの構造の整理:救いはこうして起こる! <すべては神のご永遠の御計画> 人は罪の中で完全に死んでいる、死臭を放ち腐っている(完全堕落) 神が魂を生き返らせ(新たに生まれる=再生)、神が魂をキリストと結合(結合) 結合により、キリストの十字架の死と復活はあなたにとって事実となる(死と復活) 聖霊の内住により教会の体となる(あなたが教会を選ぶのではない) キリストを信じ、信頼し、神に叫び求め、ゆだねる心が与えられる(信仰) 自分の無力を知り、自分の罪深さを嘆き、神を叫び助け求める(悔い改め) 神はその人を義(神の前で正しい)とし、神の子とされる(義認) 救いは神がすべてを神の計画により、神のご意思で行い(神の主権)、すべて神が与えてくださる救い(恵み)です。 救いの中心はイエスキリストです。 この本当の救いが、あなたにも与えられるように心から祈ります。 それは、あなたが「信じる」と決めたから起こるのではなく、神が永遠の時の始まる前からあなたをキリストに結びつけてくださったることによります。
- 復活の神学的理解 要点
2026.1.9 The Word for you 復活の神学的理解 要点 復活はキリストと結ばれている信仰者の救いの完成 "すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。" テサロニケ人への手紙 第一 4章16~17節 復活の体=まったく別の新素材の体ではない 信仰者の今の体が捨てられるわけではない 神は、今の体をよみがえらせ、変容させられる その完成形が、復活のキリストと同じ性質の体 これは新約聖書が一貫して語る復活理解 聖書的根拠の整理 1. 「捨てられる」のではなく「よみがえらされる 「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着る必要があります。」(Ⅰコリント15:53) 「別の体に交換」ではない 別の体を与えられると言う理解は聖書の復活ではない。復活は今の体が新しい体に変容する 同一性を保ったまま、性質が変えられるという表現。これを新しい体が与えられると言う。 ・パウロは「着る(ἐνδύω)」という語を使い、断絶ではなく変容を語る 2. 種と体のたとえ(Ⅰコリント15章) 「蒔かれるのは朽ちるもの、よみがえらされるのは朽ちないもの。」 種と芽は形は違うが同一の命 断絶した別物ではない つまり復活は、 「過去の体の否定」ではなく 贖われた完成 3. 基準はキリストご自身の復活の体 「主イエス・キリストは、私たちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ姿に変えてくださいます。」 (ピリピ3:21) ここが決定的 キリストは 十字架にかけられた同じ体で復活 しかし 栄光の体に変容 信仰者も同じ型にあずかる 重要な神学的ポイント ① 身体否定・霊肉二元論の否定 「体は不要」「魂だけ救われる」ではない これはギリシャ的・グノーシス的発想 ② 創造の肯定と完成 神は創造した体を放棄しない 罪と死の支配から解放し、完成させる ③ 救済は全人格的・全存在的 復活はおまけではない 救済の完成そのもの まとめ 新しい体とは、信仰者の体が捨てられて別の体が与えられることではない。神は、信仰者の体をキリストの再臨においてよみがえらせ、朽ちる体を、朽ちない栄光の体へと変容させられる。その体は、復活されたキリストと同じ性質の体である <追加> 1.「復活の体=一番若い時/一番きれいな時」という教えは神が行う福音の救済全体構造の完成を人間中心主義が冒涜してる これは完全に根拠がない 聖書は • 年齢 • 外見 • 健康状態 について一切言及していない それを語る牧師は、聖書が沈黙している領域を想像で埋めて福音とすり替える。これは慰めでも希望でもなく、人間の願望を投影した空想的教説 2. 復活された方はキリストお一人であるという事実 これは決定的に重要。復活の体の唯一の実例・基準・規範はイエス・キリストのみ。他の誰一人として、 復活の体を先に経験した者はいない。 したがって、「自分は何歳の姿で復活するのか」「一番調子が良かった時か」という問いそのものが、 神がまだ示しておられない領域への越権的侵入。 3. 神中心的理解:復活とは何か 復活は福音の救済構造の完成である 復活は、個人的願望の成就、人生の延長ではない。神の救済計画が完成する出来事。 復活は、 •創造 → 堕落 → 贖い → 完成 という神の歴史の最終局面に属す 4. なぜ「実態が開示されていない」のか 理由は明確 •人間がそれを、想像できない、管理できない、理解の枠に収められない。 聖書が語るのは、 •「どのような性質か」 朽ちない、死に支配されない、栄光の体。 •「誰に似るのか」キリストに似た体。 それ以上は語られていない 5. 人間中心主義の特徴的逸脱 人間中心主義の教えは、復活に「時間軸」や「この世との連動」を持ち込む 具体的には: •「一番若い時」 •「一番輝いていた時」 •「病気になる前」 •「理想の自分」 これはすべて、 •この世の価値観 •肉の記憶 •自己像の保存 を復活に持ち込む行為。結果として、復活が神栄光の完成ではなく、人間の自己回復プロジェクトに変質する。 6. 正しい位置づけ •復活の体の実態は、人間には開示されていない •復活は福音の完成であり、想像の対象ではない •基準はキリストの復活のみ •年齢・外見・体調を語る教えは人間中心主義 •聖書は沈黙している
- 聖霊の内住とその偉大さ
2026.1.4 聖霊の内住とその偉大さ 豊川の家の教会礼拝メッセージ はじめに:最初に誤りを明確にする 聖霊の内住について、今日多くの教会において、誤った聖霊(御霊)の内住が語られている。 それは、 人を「霊・魂・体」に分解し 聖霊はその人の「霊」の部分に住む 霊が救済・霊性・支配の中心である と言う教え。 これは神学では三部分説・神秘主義的理解と呼ばれる。これは聖書の教えではない 1.三部分説の正体 「霊・魂・体に分ける」は聖書ではなく、人為的神学装置 1)三部分説は次のように教える 人は「霊・魂・体」の三つから成る 霊が神と交わる中心 魂は感情や人格 体は器で二次的 霊が強い=霊的に高い 霊が神の霊と結合する 霊は良い、体は悪いという2元論 三部分説(trichotomy)が成立・発展してきた流れは、ほぼ例外なく プラトン的二元論 新プラトン主義 グノーシス主義 霊肉二元論的禁欲主義 と結びついている。これらは共通して、 霊=高次・純粋・神的 体=低次・汚れ・束縛 という価値序列を前提にする。 したがって、三部分説は、歴史的には明確に〈霊善・体悪〉二元論と同系統。 2)聖書神学的に見てどうか 重要な区別点:三部分説を唱える現代の多くの教会は、こう反論する。「私たちは“体は悪”とは教えていない」これは表現上は事実な場合がある。しかし問題はそこではない。 3)「教えている」のは明示か、構造か 三部分説は、明示的に教えなくても、次を必然的に生む。 霊=神と直接つながる領域 体=二次的・従属的・管理対象 霊の状態が救済・霊性の指標 この瞬間に、霊は「価値判断の中心」、体は「霊に比べて低位」という事実上の善悪・高低の二元構造が成立する。これは「体は悪だ」と言わなくても、神学構造としては完全な霊肉二元論である。 4)聖書との決定的衝突点 聖書は一貫して、 創造:体は「非常によかった」(創1:31) 受肉:御子は肉体を取られた(ヨハ1:14) 救済:体も贖われる(ロマ8:23) 終末:体の復活(1コリ15) を語る。 つまり聖書は、 体は悪→ 捨てられる ではなく、 体は被造物 → 堕落したが → 贖われ → 栄化される という反二元論的構造。 三部分説はここに真っ向から衝突します。 三部分説は一見すると霊的に聞こえる。しかしこれは、聖書の人間観を分解し、体験を最上位に置くための仕組み。 この瞬間に起きるのはこれ、 本来「人が救われる」という福音が、「霊だけの物語」に縮小される。 2.3分解理解の問題点と破壊 霊、魂、体と単語が並んでいる=構成部品ではない 三部分説が最も依拠する聖句の解析。 1テサロニケ5章23節(新改訳2017) 「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。また、あなたがたの霊、たましい、体のすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところなく保たれていますように。」 ここから、三部分説は、「人は三つの構成要素でできている」と主張する。字義的に聖書を読むことが大切であると言う。 しかし、それは字義的理解ではない。それは部品化読み。 同じ聖書はこう言う 申命記6章5節 「あなたは、心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」 これを「人は心・いのち・力の三部品」と読む神学はない。理由は明白。これは、 「存在のすべてをもって」という 全体表現を意味することがわかるから 1テサロニケ5:23の構造も全く同じ しかも直前には、 「完全に」 「すべて」 という全体語が置かれている どうか、平和の神ご自身が、 あなたがたを完全に 聖なるものとしてくださいますように。 また、 あなたがたの霊、たましい、体のすべて が、、、 文脈上の意味は一つしかない、神が、あなたがたを完全に、一切取り残しなく守られる。ここに「霊と魂は別実体」という構成論を持ち込むこと自体が、文脈破壊。 3.文脈理解の破壊 聖書は一部の聖句を切り取って、解釈してはならないという字義的解釈論の基本がある。聖書は文脈で理解する。すると、人間の構造図を教えていないことがわかる 聖書は、人を「霊・魂・体の階層構造」として説明するために書かれていない 聖書が創世記から黙示録まで一貫して語る文脈は、 神が信仰者の存在すべてを創造された 神が信仰者の存在すべてを所有される 神が信仰者の存在すべてを救われる 神が信仰者の存在すべてを支配される 神が信仰者の存在を栄化へ導かれる という救いの現実。 三部分説がやっていることは、救済の現実を、「信仰者の存在すべての救い」から「霊的な救い」へすり替えること。これは焦点のすり替えであり、聖書の目的、文脈から完全に外れる。 4.霊と魂は同一である 聖書自身が 霊と魂を 交換可能に用いている。もし霊と魂が別の実体なら、聖書は厳密に使い分ける。 しかし実際には、同一人物・同一経験・同一行為、同一聖書箇所で 霊と魂を 言い換える。 4-1.マリアの賛歌(ヘブライ詩文並行法) ルカ1章46–47節 「マリアは言った。『私のたましいは主をあがめ、私の霊は、私の救い主なる神を喜びたたえます。』」 これはヘブライ的並行法で、魂=霊=私の全存在を二重に言い切る。 4-2.イエスご自身の用法(同一の苦悩) • ヨハネ12章27節「今、わたしの心は騒いでいます。」 • ヨハネ13章21節「イエスは霊において激しく心を騒がせ…」 同一人物、同一文脈、同一苦悩 結論は明確で、霊と魂は部品ではない。同一の人を指す、文脈依存の表現である。 5.なぜ多くの教会で三部分説が好まれるのか 理由は「聖書的だから」ではない。 この理解は、次のような構造を必然的に生み出す。 人間存在の一部(霊)だけを「聖なる領域」として切り離す 霊を基準として、組織、グループ内に霊的序列や支配構造が形成される 福音が、完成した救いの宣言ではなく、体験・操作・対処への方法と再定義される これは霊的深化ではなく、福音の構造的破壊である。 6.聖霊の内住の真理 聖霊の内住とは、 人間の霊が神の霊と合体する神秘主義ではない 神が、主として、人の存在すべて、そのものを住処とされた現実である エペソ3章17節 「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。 そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが…」 「信仰によって」とは、 人の理解 人の努力 人の感情 ではない。神が与えた信仰という通路を用いて、神ご自身が、結合の現実を存在全体に確証として現されること。 つまり、こういう意味 信仰とは、人が理解して到達する力でも、内面で何かを感じ取る能力でもない。 神が与えた信仰とは、神がご自身の救済の現実、恵みを人に与えるために、神ご自身が用いられる空の器(通路)である。 したがって、 人が信仰によって結合を「作る」のではありません。 人が信仰によって結合を「引き起こす」のでもありません。 神が、永遠の時の始まるまえに信仰者を選んだ結合の現実を、信仰という通路を通して、その人の存在全体に「現実としてあらわされる」ということである。 言い換えるなら、結合は信仰の結果ではなく、信仰は結合が現れるために神が備えられた空の器である。 さらに言えば、信仰によって起きているのは「内面体験」ではなく、 神が、信仰者をキリストのものとして所有し、支配し、生かしておられるという救いの現実が、隠れた観念ではなく、信仰者の存在全体に及ぶ現実として表に現れること である。 だからこれは、「分かった、気づいた、感じた、泣けた、心が熱くなった」という話ではない。 神が、その人を結合の中に生かしておられる、という事実が動かしようなく示される、それが「信仰を通して」起こること。 7.結合は肉体にまで及んでいる 三部分説は結合を聖霊と自分の霊のつながりと思わされるため、結合が全人格的、全契約的、全救済史的であることを知らない。その中で結合が信仰者の肉体までおよぶと悟る者は稀有である。 ローマ12章1節 「あなたがたのからだを、神に喜ばれる生きた聖なる供え物として献げなさい。」 1コリント6章19–20節 「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる聖霊の宮である…」 結合の対象は、信仰者の肉体も含む存在全体。肉体が御霊による結ばれている=それは神の全人格、契約、救いによる神は聖霊の宮とした信仰者の体を所有している、そしてそれを捨てることはしない。その体はキリストの再臨の時、キリストにあって復活する。 "すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、 キリストにある死者がよみがえり 、" テサロニケ人への手紙 第一 4章16節 8.御霊が人に住まわれるとは 神が、ご自身の主権によって、人を住まいとされた現実である。それは比喩でも、象徴でも、内面体験でもない。 創造主が被造物の内に住まわれ、所有し、支配し、受肉・十字架・復活・昇天に結ばれ、将来の復活と栄化へと確実に導いておられる、救済の現実。 なぜ、信仰者は新たないのちを受けるのか、それは御霊がいのちであるから。御霊は信仰者の人としてのすべてに、その体に住み、全人格的に、契約的、全救済的に結合する。信仰者の全存在は神の所有であるからである。 我々の偉大な神、人が何かを成し遂げたからではなく、神が、そのように成しておられるからである。 これは、 三位一体なる神が、父なる神により、キリストにあって、御霊によって信仰者の全存在そのものを結合し、守り続けて、生かし、治めておられる。これが結合である。
- 講解 時中の結合 ヨハネ福音書、エペソ書― 効果的召しから、神が据える結合へ ―
2025.12.31 The Word for you 1. 大前提:主体は常に神のみ 人間中心主義の思考は救い、再生の原因として、しばしば次のことを考える 聖書を読むこと 説教を聞くこと 内容を理解すること しかし、これらはいずれも救い、再生の原因でも、条件でも、手段でもない。主体は常に神のみであり、人の側に先行条件は存在しない。 2. ヨハネ1章が示す救いの出発点 「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」 (ヨハネの福音書 1章1~5節) 救いは、人の内側から始まるのではない。 神ご自身である「ことば」から始まる。ここで語られる「光」は、知識でも理解でもない。「いのち」そのものである。人は、理解によって生きるのではなく、いのちに結ばれて生かされるのである。 3. 効果的召し ― 神が主語の召し 効果的召しとは、御霊が主権的に働き、死んでいる者を生かす召しである。 ここに、説得・納得・準備段階は存在しない。 「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」 (ヨハネの福音書 6章44節) 「来る」前に、引き寄せられる。これが聖書の順序である。 4. 再生 ― 新しい心を与える 効果的召しの中で起こるのが、再生である。 「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、 あなたがたはすべての汚れからきよめられる。 わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。 わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」 (エゼキエル書 36章25~26節) 再生は、「瞬間的、不可逆、完全受動」の神の御業である。 5. 結果としての覚醒 霊的な目が開かれるのは結果 「信仰、悔い改め、悟り」 これらはすべて、再生の実であって、原因ではない。 6. 永遠の結合の時中の顕現(明らかになる) 再生によって、永遠に確立されていたキリストとの結合が、時の中で顕現する。 これは「新しく結ばれる」という意味ではない。 すでに確立されていた永遠の結合が、神の時において歴史の流れの中で現実化するということである。 7. ヨハネ3章 ― 風の比喩が示す神の主権 「あなたがたは新しく生まれなければならない、 とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、 それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。 御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」 (ヨハネの福音書 3章7~8節) イエスはここで、いつ生まれたかどの順で起こったかを説明していない。示されているのは、原因は不可視(神)結果は可視(生の変化)という構造のみ。 聖書を読む/聞く行為は、再生後に神の声として聞かれる結果であって、再生を起こす原因ではない 8. 結合の顕現はゴールではない 神の救いの御業は、結合の顕現で止まることはない。神はさらに、ご自身の摂理の中で、試練・出来事・歴史の進行を用いながら、その結合を信仰者の存在・時間・生き方の中心として据え続けておられる。 ここで言う照明とは、内面的体験や霊的感覚の高揚ではない。神が、みことばと摂理によって、現実の歴史の中で、拠り所がどこにあるのかを明確にし続ける御業である。 照明は必ず、苦難、行き詰まり、失敗、失う経験、望みが断たれる状況と結びついて現れる。それは、信仰者を内面へ閉じ込めるためではなく、現実の只中で、偽の神、偶像、虚無を剥ぎ取るためである。 9. 照明とは何か(拠り所の所在を示す御業) 照明とは、理解力の向上、神学知識の増加、経験の蓄積ではない。照明とは、神が、その摂理の中で、人間的な支え、自己義、理解、選択、経験を取り除き、拠り所がキリストご自身以外にないことを、現実として示す御業である。 ここで重要なのは、結合が拠り所になるのではないという点である。拠り所は常にキリストご自身である。 結合とは、そのキリストに実際に結ばれているという、神の側の秩序と関係の実在である。 照明は、結合を対象化したり、実体化したりする働きではない。 照明は、拠り所がキリストであるという現実を逃がさず、同時に、自分がそのキリストから切り離されていないという事実の中に、信仰者を立たせ続ける神の御業である。 10. 神が与える結合の確信が生き方を変える ここで言う「確信」とは、把握、説明、整理ではない。神が、摂理による試練を通して、信仰者の過去・現在・未来の読み方を、「キリストを拠り所とし、そのキリストに結ばれている」という現実に基づいて、再構成することを指す。 <過去> → 自分の選択や失敗の連なりではない。 → エペソ1章において、世界の基が据えられる前から、 キリストにあって選ばれ、永遠の結合の中に置かれていた者であったが、 エペソ2章が明確に語るとおり、その結合が時間内に適用され、再生が起こるまでは、罪過と罪の中に死んでおり、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者の下に置かれていた者である。 → しかし神は、その定めた時に、 効果的召しによる再生と十字架の適用を通して、永遠の結合を通して真に神であり、真に人であるキリストと信仰者を結合させ、その結果として、 そのキリストが担われた十字架の御業に信仰者を結合させ、信仰者を死と支配の領域から解放した。 したがって、ここで言う過去とは、自分が信じるに至った経緯や、宗教的努力の積み重ねではない。 永遠において確立されていた結合が、神の定めた時に、真に神であり真に人であるキリストとの結合として現実化し、その結合を通して十字架の御業が適用され、死と支配からの解放として、不可逆的に歴史の中に貫入した出来事の連なりである。 <現在> → 自分が信仰を維持している状態ではない。 → 同じ結合の中で、 すでに生かされた者として、十字架の御業が適用された者として、今もなお、神の摂理によって歩まされている時間である。 現在の歩みは、自分の努力によって保たれている宗教生活ではなく、神の作品として、あらかじめ備えられた歩みの中を進まされている現実である。 <未来> → 自分の忠実さに左右される可能性ではない。 → キリストご自身にある救いが確実であり、 そのキリストに結ばれているがゆえに、摂理を支配する神によって完成へ導かれる確定した将来である。 11. なぜ神学は分けて語るのか 効果的召し・再生・結合を分けて語るのは、実在が分かれているからではない。人間中心主義を完全に否定するためである。 分けない場合に必ず起こる誤解 誤解① 「呼ばれた」=「理解した」 → 説得・納得モデルへ転落 誤解② 「生きた」=「自分が決断した」 → 決心主義へ転落 誤解③ 「キリストに来た」=「自分で選んだ」 → 自由意志至上主義へ転落 ここが極めて重要 区別 目的 ・効果的召し:主体が神であることを明確にする ・再生:人が完全受動であることを明確にする ・結合の顕現:救いの根拠が永遠にあることを明確にする 時間的に「先・後」を言っているのではない人間中心主義を否定するための論理的分節 1) 聖書自身が「分けて語る」から 聖書は、同じ出来事を複数の角度から語る •ヨハネ6:44 → 「父が引き寄せる」(召し) •エペソ2:5 → 「死んでいた私たちを生かした」(再生) •ガラテヤ2:20 → 「キリストと共に生きる」(結合) これは別の出来事を言っているのではなく、 一連の神の御業を、異なる角度から語っている 2) ウェストミンスター信仰告白の知恵 告白はこう教えている •分けないと → 人は「自分がやった部分」を作る •だから → あえて分けて → 人の寄与を一つずつ否定する つまり、人間中心の誤り •効果的召し:聖書を読んでわかったから •再生:自分で信じたから新たに生まれた •結合:自分でイエスを招き入れた これら一つずつ人間中心の考えを切り落とすため 12. まとめ "信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。 そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さが どれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。 そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、 あなたがたが満たされますように。" エペソ人への手紙 3章17~19節 パウロは語っている 「その愛」とは、信仰によってわたしたちの心にキリストが住まわれること――すなわち、キリストとの結合そのもの。 私たちがもつような人間的な愛ではなく、結合として実在している愛をパウロは語っている。 <エペソ3:17–19の文脈> ① 起点は「キリストが住むこと」 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。 ここで語られているのは、 •回心後の体験 •心理的な親密さ ではありません。 これは結合(union) キリストご自身が、御霊によって住まわれるという実在的関係。 ② 次に出てくる「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」 この「愛」は、突然出てきたことではない •主語は依然として神 •土台は「キリストが住まれること」 したがって、愛に根ざす、愛に基礎を置くとは、キリストとの結合という愛の中に、すでに置かれているという存在論的状態を指す。 <ここが重要> これは人間の感情的な愛、主観的に感じる愛、人が理解して把握する愛ではない パウロが指す「キリストの愛」とは: 父によって永遠に定められ 子によって十字架で成し遂げられ 御霊によって時の中で十字架のキリストに結合されることによって適用される 救済史的・契約的・結合的な愛 つまり、 キリストとの結合の中で現実となっている、神の救いの愛の全体構造 すなわち、 「父なる神は、キリストに結ばれている者たちを、永遠の過去・現在・永遠の未来、またその広さ、長さ、深さ、高さへと、目を向けさせておられる」 そして伝道者の書 3章11節は言う "神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。" すべては神の主権による。栄光は、ただ神にのみ帰される。





