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- キリストとの結合の教義は信仰者を異端から守る
キリストとの結合の教義は信仰者を異端から守る 2025.8.3 ― 異端の教えを「キリストとの結合による反駁はんばく (誤りを論理的に明確に打ち破る)」― 【すべての人は霊的に死んでおり、この世の支配者の下にある】 聖書は、すべての人間が生まれながらにして霊的に死んでおり、サタンの支配下にあると明言しています。 「あなたがたは、自分の罪と背きの中に死んでいた者であり、かつてはこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいました」(エペソ2:1–2) この「空中の権威を持つ支配者」とはサタンです。 すなわち、すべての人はアダムにあって死に、サタンの国に属している(ローマ5:12、1ヨハネ5:19)。 また、サタンの支配は社会・文化・制度、政治、社会全体のシステムにそのものです。 人々は霊的に死んでおり、霊的目が覆われ、福音の栄光が見えません。 「この世の神は、不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光に輝く福音が見えないようにしています」(2コリント4:4) ・すべての人は死んでおり、見えず、逆らっている。 ・だからといって、自分で断ち切ったり、縛ったりして救われることはできない。 ➡ 唯一の救いは、キリストにあって神による選びによる 救いは神の主権とキリストとの結合にある 【1】永遠の選び vs. 人間の決心 ― すでに「キリストのうちに」置かれている者たち (事例) 霊的戦いは、救いは地域を支配する悪霊との戦い「あなたの決断」や「断ち切りの祈り」が呪いや支配を破る鍵だと主張 「神から与えられる信仰を通して恵みによる救い」をすり替え 「人間の宗教軍事的な思想に基づく行為と意志に依存させる決断主義的異端」 しかし、聖書は語る : 「神は世界の基が据えられる前から、キリストにあって私たちを選ばれた」(エペソ1:4) この選びとは、私たちが神を選ぶのではなく、神が私たちを永遠のキリストに結合されており、その永遠の結合に選ばれたという主権的恵み ➡ この私たちの救いの完成はこの全知全能の神の主権の名誉と栄光にあります したがって、守りも断ち切りも、すでにキリストのうちにある私たちに与えられている。 (事例) 霊的戦いにおけるテーマ 「日本の救い」 霊的戦いでは「日本国家、民族の救い」を勝ち取ると言う考えにより、愛国思想と結びつく <事例 霊的戦いの思想 > 神の主権、キリストとの結合は存在しない ① 人々は霊的に死んでいない →③人々が救いを選択できない、なぜ?→ ② サタンや悪霊が日本を支配 → ④人々の霊的な目が塞がれている→ ⑤日本、それぞれの地域を 支配する悪霊をしばり、過去の罪を悔い改め、断ち切り祈る必要 → ⑥“福音” 決断、体験、感情主義フレーム構造の 別の福音 の光が心にとどく→ ⑦戦いの中心は 軍事化された教会の権威、神に地上を統治する権限 を与えられた→ ⑨さあ、この日本(同胞)の救いのために クリスチャンは日本のためにみな立ち上がれ <問題点と検証> 福音が日本に歴史的に届かなかったという現実、 その中で救いを得る者がいたのかという問い、 そしてそれが 「神の選び」や「啓示の歴史」とどのように関係するのか、 最終的には それを日本にどう適用すべきかと 1. 「聞くことができなかった」 日本人は選ばれていなかったのか? はい、選ばれていません なぜなら、ローマ10:14–17がはっきりと告げているからです: 14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。 らが すなわち、 キリストのことば(福音)を聞かなければ信仰は生じない。 そして、信仰がなければ義認も救いもない。 したがって、福音が届かなかった者が救われる道はない。 なぜなら、神はその人々を選ばれていない この事実は、「神がなぜ福音を与えなかったのか?」という問いではなく、「神が福音を与える者として選ばなかった」という主権の問題です。 よって、福音が歴史的に届かなかった日本人の大多数が選ばれていなかった、ということは、神の永遠の選びの観点から明白です。それは今の時代も全く変わりません。 今、聖書は日本中とこでも自由に読むことができます。しかし、神の主権とキリストとの結合は語られることはありません。つまり、この福音を語る者が与えられなければ福音を聞くことはできない。それは実は日本だけではなく、世界中、同じ状態にあります。神の主権とキリストとの結合に固くたった福音を聞くことは極めて稀です。 2. 旧約・新約における「福音以前の救い」の可能性は何を意味するのか? 確かに、旧約のアブラハムやヨブ、またイエス以前に生きた異邦人の中にも「義」とされた者はいます(ヘブル11章など)。 これらはすべて、以下の枠組みにある: 救いは常にキリストを通してであり、信仰による義認に基づく。 旧約においては「キリストを前もって示された啓示(類型・予型)による信仰」。 したがって、啓示が与えられなかった異邦人には救いは適用されない。 つまり、旧約における異邦人の救いも、 特別啓示の一部(預言者・夢・奇跡など)に与った者 神の摂理により福音的啓示に触れた者(例:ナアマン、ラハブ)だけ。 「一般啓示(創造の神の存在への気づき)だけで救われた」者は聖書に一人もいない 3. 日本においては、神が啓示を与えなかった ― その意味 日本には数千年にわたり 聖書的啓示は与えられませんでした。 仏教や神道、自然崇拝などの中には、一般啓示(創造の神の存在への気づき)はわずかに含まれていたかもしれませんが、それは救いをもたらすものではない。 よって、日本の歴史の大部分に生きた人々は、「弁解の余地なく滅びに向かっていた」ことになります。それは今も同様に続いている。 4. それでも神は正義なのか? はい。なぜなら救いはすべて恵みであり、裁きは正義だからです。 神は全人類をアダムにおいて裁く権利を持っておられます。 その中で、何人かを選び出して、福音を与えるのは、恵みであって義務ではない。 ✴️ 神が日本に長い間、主の主権とキリストとの結合に立った福音を与えなかったことは、「神が日本を拒絶した」のではなく、「日本に憐れみを与える時がまだ来ていなかった」と理解すべき。 次の御言葉はユダヤ人に語られていますが、これは原則です。 ローマ11:4-6 4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。6 もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。 5. この現実を日本にどう適用するか? 日本の歴史において「ほとんどすべての人が救いにあずからなかった」という現実を受け入れなければならない。 → 今も、恵みの選びによって残された者がいる。 それは神の主権であり、義である。 しかし、今、福音が語られるなら、今こそ選ばれた者が呼び集められるとき 日本に福音が長く届かなかったのは、人間の責任でも伝道の失敗でもなく、神の主権的摂理による。 救われなかった人々は選ばれておらず、信仰も与えられていない。 私たちはその裁きの正しさと、今与えられている福音の恵みの大きさに戦慄すべき 今語られている福音に応答する者こそ、永遠の選びによってキリストに結ばれる者たちである。 結論:神の永遠の選びの現実に従うことが出来ない人々は神の選びを否定する、 そして聖書の真理に来ることはない 【2】再生と聖霊の内住 vs. (事例)悪霊との戦い ― 神の国にすでに移された者たち 新生とは、死んだ者が神によって生かされる主権的な行為です(ヨハネ3:5、エペソ2:5)。 その瞬間、信仰者はサタンの国から移され、神の国に置かれる。 「神は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子の御国に移してくださいました」(コロサイ1:13) <真理> ・信者はもはやサタンと戦う者ではなく、 ・すでに勝利の中に入れられた者として、堅く立つよう召されている者(エペソ6:10–13) 【3】キリストとの結合によって ―十字架の御業により呪いと罪を断ち切られた 呪いや罪からの解放は、「過去の罪をリストにして、罪を犯してしまった度に、また、先祖の罪、戦争の罪を調べてキリストの御名によって断ち切りの祈り」によってではなく、罪はその人、個人に帰属しており、キリストとの結合によってのみ実現 「キリストと結合され、キリストの死にあずかることによって、古い自分は十字架につけられたのです」(ローマ6:5–6) • あなたが罪に死んだのは、キリストと共に死んだから。 • 呪いから解放されたのは、呪いの下で死なれたキリストと一体とされたから。 • 義とされたのは、義なるキリストに結ばれたから。 「キリストは、私たちのために呪いとなって…律法の呪いから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13) 「神は…私たちを責めていた証書を無効にし、それを十字架に釘づけにされました…支配と権威を武装解除し…凱旋されたのです」(コロサイ2:14–15) ・キリストと結ばれた者は、十字架の上のキリストと霊的に結合されてその御業を自分のものとした。罪は死んだ者を追いかけて捕まえることは出来ません。死んでいる者を裁く律法は存在しません。呪いと罪は完全に十字架の御業により断ち切られた。 ➡霊的戦いや断ち切りは、十字架の御業を否定し、冒涜する邪悪なサタンの騙しごと 【4】キリストの御業 vs. サタンを縛る祈り サタンを縛ったキリスト 霊的戦い神学では、「サタンを縛る祈り」や「悪霊を追い出す宣言」が強調 しかし、主イエスご自身がこう語られました: 「まず強い者を縛らなければ、その家にはいることはできない」(マルコ3:27) この「強い者を縛る」とは、キリストが十字架でサタンを縛られることの預言 それはすでに完全に成就しました: 「神は…支配と権威を武装解除し、見せ物にし、勝利を得て凱旋された」(コロサイ2:15) まとめ:キリストとの結合こそ、信仰者の唯一の守り ❌ 霊的戦いの主張 聖書が語るキリストとの結合にある真理 決断によって呪いが断ち切られる ✝️ 永遠の選びにより、キリストに結合された者は守られている 悪霊と戦って勝利しなければならない ✝️ 再生により神の国に移され、戦うのではなく神の主権とキリストとの結合に“堅く立つ”よう召されている 呪いや罪は断ち切りの祈りで解放される ✝️ キリストとの結合により、十字架の御業が完全に適用されている サタンを縛るには霊的権威を宣言する必要がある ✝️ 主イエスがすでにサタンを縛り、勝利し、見せ物とされた(コロサイ2:15) <まとめ> 神の主権、キリストとの結合を仰ぎ見ない。悪霊との戦い。罪の断ち切り。人間中心の欲望。 <まとめ> キリストととの結合は三位一体の神との結合、神の至聖所への参画。選び、再生、信仰、悔い改め、義認、聖化、栄化 救いの全構造の源泉 <キリストに結合されている者> すでに悪霊の支配から移され(コロサイ1:13) すでに神の国に属し(ピリピ3:20) すでに聖霊が内住しておられ(ローマ8:11) すでに罪も呪いも断ち切られており(ガラテヤ3:13) すでに天の父、子、聖霊の交わり(天)に招き入れられている(エペソ2:6) 神の主権とキリストと結合されている現実は信仰者をあらゆる異端からその信仰者の信仰、平安、希望を守る
- 聖書は誰のために書かれたのか神との結合 ルカ8:43–48における真の救い
聖書は誰のために書かれたのか 神との結合 ルカ8:43–48における真の救い 2025.7.20 1.聖書解釈の鉄則:神の主権の視点から読むこと 聖書解釈の第一の鉄則は、神の主権に立って永遠のご計画の視点から読むことです。救いも「信じる」ということも、すべて神の御意志と御業によって成り立っています。人間の信仰・意志・行いは、神の選びと摂理に基づく結果です(ローマ9:16)。 2. 聖書が語る信仰 聖書が「信じなさい」と命じるすべての箇所は、神が信仰者を先に引き寄せるという福音構造に基づいています。エペソ1章4節では、「この方にあって(en Christō)」という表現が用いられ、選びがキリストとの結合のうちにおいてなされたことが明らかにされています。神が私たちを選ばれたのは、私たちの将来の信仰や応答を予見されたからではなく、神の愛と主権的ご計画に基づいているからです(ローマ9:11–16)。選びは神の意志による一方的な御業であり、それに先立つ人間の意思・思い・感情とは一切関係がありません。聖書を読む際には、常にこの視点を軸に据えるべきです。 3. 救いの順序 救いは神の秩序の中で順序があります、神の主権を証明しています。決してこの順序を無視して読んではいけません。 神の永遠のご計画に基づく救いの順序: • 選び(エペソ1:4、ローマ8:29) • キリストとの結合(エペソ1:3–6) • 再生(ヨハネ3:5、テトス3:5) • 信仰と悔い改め(使徒16:14、ピリピ1:29) • 義認(ローマ5:1) • 聖化(第一テサロニケ4:3) • 栄化(ローマ8:30) 4. キリストにある選び エペソ1章4節の「この方にあって(ἐν αὐτῷ)」という語句は、選びがキリストとの結合のうちにおいてなされたことを明確に示しています。つまり、選びは「永遠におけるキリストとの結合」にあります。神は「永遠のキリストとの結合のうちに」あらかじめ人々を定められました(ローマ8:29)。結合がなければ、選びの実現も救いのあらゆる祝福もあり得ません。「結合こそが私たちの救い、すなわち神の新しい創造のスタート」です。この「結合の教え」は、現代に広まる異端的な別の福音構造(経験主義・決断主義・関係主義・神秘主義)に対する堅固な防壁となります。 ■ 神の主権とキリストとの結合を知らない人 ― その誤りと危険性 神の主権とキリストとの結合を知らない人は、以下のような傾向に陥ります: • 「神の導きが感じられない」 → 神秘主義:自分の感覚や印象で導きを判断し、「確かなみことば」よりも感情的、神秘的なものを信仰の基準とします。すなわち、福音を理解できないので、感覚にしたがいます。 • 「決断することが信仰と考える」 → 決断主義:救いや祝福が自分で決めると起こると考える。行いによって救われると言う誤った教えに傾向。 • 「キリストにもっと近づきたい、関係を深めたい」 → 「結合」という契約的・客観的真理を無視し、心理的努力や宗教儀式、偽りの音楽、感覚によって神との親密さを追求。 • 「聖霊の熱い火が心を燃やす、聖霊に包まれたと感じた」 → 経験主義:「私はそう体験した」という自己体験の主張を救いの基準とする。 人間中心の主観的なものが「神の主権、キリストとの結合中心」に置き換えられ、それが聖書解釈の基準となる。 しかし、神の主権、キリストとの結合に立つ者は: • キリストにある者として選ばれ(エペソ1:4) • キリストと共に死に、共に生かされており(ローマ6:5) • その確信と導きも、神の主権と結合の事実に立っており • キリストの完成された十字架の御業に根ざし、神の主権の福音構造に立つ。 この「神により結合させられた事実」こそが、現代の異端的傾向を見抜き、排除するための真理であり、選ばれた者が確信と平安のうちに立ち続けるための福音の中心なのです。 5. 人間中心的解釈への警告 人間中心の読み方は、聖書の本質を逸脱し、神の主権的意志を歪めます: • 「私は感じた」• 「私は信じると決断した」• 「神が直接に語った」 このような読み方は、聖霊の客観的聖書のみことばによる啓示を感覚にすり替え、経験と自己確証を真実にしてしまいます。人間中心的な解釈は、誤謬・混乱・不信・偽りの確信を生む毒です。 聖霊の神は御言葉を通してイエス・キリストを啓示します。 救いは: • 神によって始まり(神の意志) • キリストにおいて実現され(結合) • 選ばれた者の益のために施され(摂理) • 神の栄光の賛美のために完結します(エペソ1:6,12,14) 実例による読み方:ルカ8:43–48における真の救い 「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ8:48) "そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています」と言った。しかし、イエスは言われた。「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」" 「あなたの信仰があなたを救ったのです」の間違った理解とその枠組み: ① 半ペラギウス主義:「私が信じたから救われた」 → 信仰を自分の努力と考える。 正解:信仰は神からの賜物(エペソ2:8) ② 決断主義:「信じると決めたから救われた」 → 救いを自分の選択と結びつける。 正解:救いは神のあわれみによる(ローマ9:16) ③ カリスマ的誤解:「信仰の力で癒しを引き出した」 → 奇跡の力に焦点。 正解:信仰の目的はキリストにより頼むこと。 ④ 神秘主義:「深く感じたから救われた」 → 感覚や体験が基準。 正解:救いは体験、感覚によらずキリストの御業に基づく確かな真理。 神の主権とキリストに結ばれている人々の理解。 神の主権による救いの全体構造、秩序から目を離しません。 選び、結合、再生、信仰と悔い改め、信仰義認、聖化、栄化は普遍的な救いの全体構造です。 ① この女は病気が治りました。 イエスさまはその女が病気から救われたと言ったでしょうか?この女は結局、その後再び病み、そして死にました。 なぜなら、誰もが必ず死ぬからです。永遠に病気もなく死なずにいる人など一人もいません。 ② 問題は、イエスさまが「あなたの信仰があなたを救った」と言ったとき、 「彼女に一体何が起こったのか?」ということです。 答えは――永遠の救い、すなわち神による結合、再生、信仰と悔い改め、イエスの義が与えられたのです。 ③ 「あなたの信仰があなたを救った」という御言葉は、癒しの結果を語っているのではなく、信仰義認の宣言です。それは一時的な肉体的な回復ではなく、神の御前で義とされたという永遠の決定です。 ④ この女は、完全な絶望の中にいた 彼女は12年間、止まらない出血に苦しみ、医者に全財産を費やしたが癒されなかった(ルカ8:43、マルコ5:26)。律法(レビ記15章)により「汚れた者」とされ、神殿に入ることも、人に触れることもできず、神からも人からも断たれていました。 しかし、ここに神の摂理の御手がありました。神はこの女を選ばれて恵みの摂理によって導いておられた。彼女は、長い苦しみと孤立を通して、 「自分には何の望みもない。何をしても救われない。自分には義も力もない」 という現実に打ち砕かれていました。 ⑤ 自分にまだ救いの可能性があると信じている者は救われていません。 「私にはまだ、良いところがある!」という者は自己義認の世界にいます。そこには信仰も悔い改めも与えられていないからです。だが、「私はなんて汚れいるにか。主よ、あなただけが希望です。助けてください。」と叫ぶ者神によって砕かれた者です。キリストに結ばれて、新たに生まれ、信仰による義を神から受けています。 ⑥ そして重要ない理解は――この絶望は、彼女自身の努力により、内から出たものではないということです。 「父がわたしのもとに引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとに来ることはできない」(ヨハネ6:44) 彼女がイエスにすがったのは、自分の決意によるものではありません。神が摂理によって彼女を取り扱い、結合し、再生し引き寄せたのです。 ⑦ この女は、神の恵みによって「自分に絶望し、神にすがる者」とされました。 これこそ、黄金の鎖(ローマ8:29–30)のうちにある者にのみ現れる、神の主権的救いの真の姿です。 そしてこの女はキリストに近づきました。「この方にすがれば救われる」と確信し、群衆を押し分けて主の衣に触れました。 それは彼女の「勇気ある行動」ではなく、すでに与えられた信仰に応答していたのです。 ⑧ 彼女は「自分」を捨て、「キリスト」にすがりました。 これは象徴的な行為ではなく、再生された者だけに与えられた救いの結果です。神への真の信頼です。 信仰と義認 • 信仰とは、自分を捨ててキリストにすがる「空っぽの手」のようです。 • それは努力でも選択でもなく、神が与えた道具、インストルメント(instrument)です。 • 信仰は「内なる力」や「霊的パワー」ではありません。信仰は力ではありません。 信仰そのものに力があるのではなく、信仰が向けられているお方――キリストに力があり、救いはキリストの御業によって信仰を通して与えられるのです。 信仰は、キリストの義を受け取る単なる手段、空っぽの手です。すなわち、自分には何もなく、ただ神にすがるしかないという砕かれた心そのものです。それは試練を通して神が主権的に与えられる恵みの器であり、キリストに向かう徹底した依存と明け渡しの姿を意味します。 • 「救った(σέσωκεν)」はギリシャ語の完了形であり、永遠に確定された救いを示しています。 イエスの言葉:「あなたの信仰があなたを救った」 「救った(σέσωκεν)」は完了形であり、その時点で永遠に確定された救いを意味します。イエスは「わたしがあなたを救った」とは言わず、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。 <この言葉の意味を人間中心視点で誤解してはならない> この女が癒されたのは、彼女が信仰によって義と認められた者であることを、主が「癒しをしるしとして公に明らかにされたのです。彼女の癒しは彼女の救いを世界に示すサインでした。彼女は社会的に「汚れた者」とされ、律法のもとで追放され、人々に見捨てられた「ゴミのような存在」とされていました。 だが神の選びはこの世の人々に現されました。それは彼らにこびりついた宗教の常識を破壊するためでした。それはパラダイムシフトです。メシアであるイエスさまはそのような者をこそ、恵みにより選び、愛し、救い、「娘よ」と呼ばれました。 この癒しは、単なる肉体の癒しではありません。神は、神の主権の救いをこのように示されたのです。イエスさまは他の聖書の箇所でも奇跡を起こされたときには、必ず、神の主権とキリストとの結合が世に示されたのです。それは旧約の預言の成就であり、神のご計画の目的に従っているのです。 <メシア到来のしるしとしての癒し> 「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳は開かれる。そのとき、足なえは鹿のように躍り上がり、口のきけない者の舌は喜び歌う。」― イザヤ35:5–6 この箇所は、神の贖いの民の回復を預言する文脈の中で、「盲人」「聾者」「足なえ」「口のきけない者」が癒されるという具体的なしるしが挙げられています。イエス・キリストはまさにこの預言の通り、地上での公生涯においてこれらすべてを癒されました(ルカ7:22)。 ゆえに、癒しの奇跡はメシアの権威の証明であり、「神がキリストにあってご自身の救いを啓示された」ことのしるしです。 メシアは今でも選ばれて人々、今も、社会に見捨てられ、人に拒まれ、自分でも自分を見捨てた者を探しています。 恵みにより選び、救い、その恥を覆い、キリストにある栄光を現されます。 癒しの奇跡は神の信仰義認が神の選びであり、キリストとの永遠の結合であることを神に民に知らせるためのしるしです。 イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われましたが、それは彼女の行いではなく、神がプレゼントとして与えた信仰によって義と認められたことを公に示されたのです。その義も神が女に贈り物として与えたのです。 以上のように、聖霊により、神の主権とキリストとの結合の土台に立つとき聖書のみことばの真理は開かれます。 それは人間の信仰の力や行為に応じて引き出されたものではなく、神がご自身の選びの民に対して、キリストにある義を与えたという救いの現実を啓示されることです。すなわち、聖書は目に見える癒しや、奇跡、感情、意志でもなく、神が選んだ人々に与えた神の永遠のご計画に基づく一方的な憐れみと慈しみによる命を聖霊により、御言葉を通して啓示するのです。 そしてそれは、今もなお神が選ばれた民を呼び集め、御子の似姿へと造り変えるための恵みの証なのです。 イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われましたが、それは彼女の行いではなく、神が与えた信仰によって義と認められたことを公に示されたのです。
- 天から新しく生まれる
今日は、ヨハネの福音書の14章20節をもう一度読みます。 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなた方にわかります。 「あなたがたがわたしのうちに」いることのスタートポイントは、再生です。「新しく生まれた」、ここからスタートします。プリントの中心が一番重要です。それは、「天から新しく生まれ永遠に結合する。」であり、天から新しく生まれ永遠に結合することは、100%神の主権の業です。人はここに一切関与できません。私たちの願いや思いではなんともなりません。これが聖書が言っていることです。 人が天から新しく生まれることは、ヨハネの福音書第3章からの引用です。ニコデモとイエスキリストの会話の中で、ニコデモがイエス・キリストから言われたことです。ここに、ニコデモの葛藤がありました。ニコデモは秀才で、宗教観、儀式、知識においてはユダヤ人の中でもエリートであり、そして律法の実践においても、やはりトップのユダヤ人だったのに対して、イエス・キリストはそれを全て否定しました。つまり、人間の業や行いでは誰一人として義と認められないということです。 そして十字架の死まで、この一体性というのは関連します。十字架の死も、この一体性からスタートするということです。キリストと結合しているこの結合を基本として、それが元となり、十字架の死と復活が私たちの死と復活になっているということです。十字架の死というのは、私たちがイエス・キリストと結合しているので、十字架の死に結合しています。そして、十字架の復活に結合しています。 この十字架の死と復活をさらに詳しく語ります。 私たちの罪を、イエス・キリストが身代わりとなり罰を受けてくださり、対処してくださいました。イエス・キリストの33年間の人としての人生、この神の人が、33年間イスラエルで、ユダヤで、エルサレムで生きた、完全なその人生が、神によって義と認められています。この義が、私たちに渡されました。私たちはその、十字架のイエス・キリストと結合しているので、そこで私たちの義をキリストから頂きました。それは、キリストの義です。私たちの義ではありません。イエス・キリストの義なので私たちには自分が誇るものが何もありません。 私たちの罪の身代わりとして、キリストが死んでくださったいました。そしてその時に、私たちはイエス・キリストとともに十字架で死にました。 これが信仰義人という教義です。 そしてまた同時に、この十字架の上で行われたのは、私たちが死んで蘇ったということです。 この死が、現在生きている私たちにどう適応されるかというと、イエス・キリストの死を私たちはずっと帯びています。 すなわち、私たちは、罪に対して死んでいるという人生を送ります。罪は私たちを支配することができません。これが聖化の教義です。 私たちは、今生きていますが、それは私たちが生きているのではなく、イエス・キリストが生きています。このガラテア人への手紙2章20節の信仰告白は聖化の話しをしています。 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。 パウロは、私はイエス・キリストを信じて、キリストともに十字架につけられ、今生きているのは、イエス・キリストが信仰により私のうちにいると言っています。その信仰は神が与えてくださったものです。 そしてそれが聖化だということです。 神との一体性は、選びからスタートします。用紙の中央にある、「天から新しく生まれる」という今現在のアクションを神が行ってくださったことから、私たちがイエス・キリストと一体であるということがスタートします。そして、その完成は、信仰を受けた時なので、パウロは、「私たちの内にイエス・キリストが信仰によって住まわれますように」と表現します。私たちは、何も分からない時に、罪にまみれて完全に死んでいる時に、キリストと一体とされました。そして、この十字架の御業による信仰義人が来て、聖化が起こります。これは御言葉を受けた時にきます。 私たちの内に始まった、神との一体は、神との結合は、良い土地です。良い土地を神が準備してくださっているというみことばに行きます。私たちが良い土地に、私たちの努力、思い、願いによって変わることはありません。神が変えてくださいます。 用紙の中央にある、「天から新しく生まれる」は永遠の結合です。神が行ったことは、誰もキャンセルできません。神は約束を守る神ですから、選ばれた者を決して捨てません。これが神の約束です。 この永遠の約束の象徴は聖霊です。一体となっている人に、「聖霊によって証印を押された」という言葉がエペソ人への手紙にありますが、私たちは約束の聖霊によって証印を押されました。再生と信仰義人によって、キリストとの結合がスタートして完成したということが聖霊の証印です。証印が押された時です。 再生された時に、結合が開始されました。そして、みことばが来て、信仰が来た時に、その時にキリストとの結合が成立します。そのことを、パウロは、聖霊によって証印を押されたと言っています。 ホーリーネス運動では第2のバプテスマとして、第2の感覚やそういったことで、聖霊のバプテスマを受けたと言いますが、そうではありません。 聖霊のバプテスマを受けるということは、再生されてから信仰をいただいた間において、神の力とみことばが私たちの心を変えて行きます。そして、最終的に私たちは信仰を受けます。この信仰を受けるまでの中で約束の証印を押されます。これは、先ほど言いましたが、新しく生まれ永遠に結合する、その永遠の保証です。これが永遠の保証です。 そして、その中において、私たちは信仰を受ける際に何もしなくていいわけではないです。ここで間違えてはいけないのは、最初の再生の時には、全く何もありません。私たちが関与するものはありません。ただし、私たちは信仰を受けることと、悔い改める時にそれはみことばとしてくるので、私たちはそこで反応します。ここで初めて、私たちは応答という言葉を使うことが出来ます。神の言葉に、私たちが「アーメン」と言って、従うことができるようになるんです。 それは聖霊によって変容された私たちの、良い土地である心が、みことばに従うことを選びます。それは私たちの反応です。私たちの応答と言っていいです。 なので、最初から応答ではありません。信じて救われるのではなく、救われたから信じるのです。信じて救われるのは、違います。救われた結果、私たちは信じるものに変えられたのです。神の力によって。 【祈り】 愛する天のお父様感謝します。私たちは天から新しく生まれて、そして、永遠に結合されました。 それは聖霊による証印でした。 私たちは、第2のバフテスマを求める必要がなく、信仰いただいた時に永遠まで約束されました。 素晴らしいこの、御霊の贈り物を感謝します。そして、いつもみことばによってあなたが私たちを導くこと、 あなたが私たちに語ることに対して、そこに私たちは従うという、その心さえ与えてくださっています。 私たちがそのようなものに変えられていくことは、強くなっていくという聖化の過程であるということも、感謝します。 すべてのことはあなたの恵みによって行われています。愛するイエス・キリストの御名を通して、感謝してお祈りします。アーメン
- キリストの死を身に帯びる
キリストの死を身に帯びる ― 苦しみと命が共にあるということ 聖書箇所 第二コリント 4:8–10 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。 途方に暮れますが、行き詰まることはありません。 迫害されますが、見捨てられることはありません。 倒されますが、滅びません。 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。 それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。 1. 苦しみの現実と信仰の希望 パウロは、自分が福音のために受けた様々な苦しみについて語っています。 しかし、そこに絶望はありません。 「苦しめられても、窮しない」「倒されても、滅びない」と、確信をもって語っています。 私たちの人生にも、病や人間関係の悩み、将来の不安などがあります。 けれどもパウロと同じように、信仰者にはたとえ苦しみの中でも保たれる希望があるのです。 2. 「キリストの死を身に帯びる」とは? パウロは「イエスの死を身に帯びている」と言います。 これは、ただイエスのように苦しむという意味ではありません。 死に向かう過程においても、私たちはキリストと結びついて生きているということです。 「死」は聖書で、「魂と体の分離」や「神との断絶」を意味します。 しかしイエス・キリストは十字架でその死に勝利されました。 今、私たちはキリストに結びつけられているがゆえに、苦しみの中にも命が現れてくるのです。 3. 苦しみを通して現れる「いのち」 パウロは、苦しみの中で「キリストのいのちが現れる」と言いました。 どういうことでしょうか? それは、自分の力が尽きる時にこそ、神の力が働くということです。 実際、重い病気や困難の中でも、なお賛美し続ける信仰者がいます。 その姿を見て、周囲の人は「なぜこの人は希望を失わないのか」と驚きます。 そこに表されているのが、「キリストのいのち」なのです。 4. 死と復活の約束 聖書は、「死は終わりではない」とはっきり語ります。 第一コリント15章ではこう書かれています。 死者の復活もこれと同じです。朽ちるものとして蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされます。 この世のからだは、弱く、やがて朽ちます。 しかし信仰者には、復活の栄光のからだが約束されているのです。 5. キリストの十字架に現れた栄光 イエス様が十字架で死なれる時、 そばにいたローマの兵士は「まことにこの人は神の子だった」と言いました。 また、十字架にかけられた犯罪人の一人も、死にゆくイエスの姿の中に 「この方こそ真の救い主である」と信じて告白しました。 死に向かうキリストの姿の中に、神の栄光が現れていたのです。 6. 私たちも、死に向かう中でキリストの命を現す 信仰者の歩みは、毎日の中で、 ときに苦しみや死に向かうような出来事を通ります。 しかしそれは、イエスの死と結び合わされる歩みです。 そして、その中で神は、イエスの命と栄光を現されるのです。 自分の力ではなく、神の力によって生きていく。 これが、福音の力です。 7. それは私たちの努力ではなく、神の選びと恵み パウロは自分の人生を振り返って、こう言いました。 「以前の私は、教会を迫害していた者だった。でも、神が私を選び、救ってくださった。」 これは、すべての信仰者に共通する真理です。 私たちは、自分でがんばって変わったのではありません。 神が選び、再生させ、信仰を与えてくださったのです(エペソ1:4–5)。 8. 信仰義認と聖化の歩み 私たちは、信仰によって義と認められています(ローマ5:1)。 これは一度きりで完全な神の恵みです。 もう二度と失われることはありません。 そしてこの義とされた者は、生涯をかけてキリストに似た者へと造り変えられていくのです。 これが「聖化」と呼ばれるプロセスです。 苦しみも、失敗も、すべてが神の御手の中にあり、 私たちがキリストを映し出す器となるために用いられます。 まとめ • 苦しみの中にあっても、神は働いておられる • キリストの死を身に帯びることは、命が現れるため • 死は終わりではなく、復活と栄光の入口 • 私たちの信仰は努力ではなく、神の選びと恵み • 義とされた者は、苦しみの中でキリストの栄光を現す者へと造り変えられていく お祈り 天の父なる神様、 あなたが私たちの弱さと苦しみの中に働いてくださっていることを感謝します。 キリストの死を身に帯びる歩みの中に、 あなたの命と栄光が現れますように。 私たちが苦しみの時にも、 あなたの恵みに支えられて歩むことができますように。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。 2025.5.7
- 「ゆるすって、どういうこと?」――イエスさまとつながる者としての歩み
【はじめに】 みなさん、「ゆるす」って難しいと思ったことはありますか? 友だちにひどいことをされたとき、「ぜったいにゆるせない!」と思ったことがあるかもしれません。でも、聖書はこう言っています。 「神さまがあなたをゆるしてくださったように、あなたも人をゆるしなさい」(エペソ4:32) 今日は、「ゆるすこと」について、イエスさまを信じるわたしたちにとってどれだけ大切かをいっしょに学んでみましょう。 【1. 神さまが先にわたしたちをゆるしてくださった】 いちばん大切なのは、神さまが、何の資格もないわたしたちを、イエスさまの十字架によって先にゆるしてくださったということです。 わたしたちは神さまの言うことを聞かず、うそをついたり、人をにくんだり、自分勝手に生きてきました。でも、神さまはそんなわたしたちを、イエスさまの十字架の死と復活によってゆるしてくださったのです。 これが「福音」です。 福音とは、「わたしがよい人だったからではなく、神さまが一方的に愛してくださった」という知らせです。 【2. ゆるすことは、福音を信じているあかし】 RCスプロール先生はこう言いました。 「神さまの赦しをほんとうに知っている人は、ゆるす人に変えられていく。」 イエスさまのゆるしを信じているなら、その人の心も少しずつ変えられて、ゆるす心があらわれていきます。これは、「よい人になろう」とがんばることではなく、聖霊がくださる力によって起こることです。 【3. ゆるせないままでいるときの危険】 でも、「あの人だけはゆるせない!」と何年も思い続けていたらどうでしょうか? イエスさまはこう言いました。 「人の罪をゆるさないなら、天の父もあなたをゆるしてくださらない」(マタイ6:15) これはとても大事な警告です。 「ゆるさない心」は、神さまのゆるしをほんとうにはわかっていないことのあらわれかもしれないよ、と教えてくれているのです。 【4. ゆるせない人との出会いも、神さまのご計画】 「どうしてもあの人だけはゆるせない」と思うことがあるかもしれません。でも、その人があなたの人生に現れたのは、偶然ではありません。 聖書は、神さまがすべてを支配しておられると教えています。つまり、あなたの人生に起こるすべてのことは、神さまのご計画(摂理)の中にあるのです。だから、「ゆるせない」と感じるその人との出会いも、神さまがあなたに与えた試練なのです。この試練を通して、神さまはあなたの信仰を成長させ、御霊の実を結ばせようとしておられます。これは、神さまがあなたを愛しておられるからこそ与えられた、特別な訓練なのです。 【5. わたしたちはキリストの枝 ヨハネ15章】 イエスさまは、ヨハネ15章でこう言いました。 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です。」 イエスさまは木の幹(みき)、わたしたちはそこにつながる枝。 枝は幹から栄養をもらって、**実(=ゆるしや愛)を結びます。 「イエスさまとつながっている」と言いながら、全く実を結ばない枝は、おかしいのです。 本当の枝は、かならず少しずつ実をつけていくからです。 【6. 「キリストとつながってる」と言いながら、ゆるせない?】 「わたしはイエスさまとつながっている」と言っている人が、何年もゆるせないでいるなら―それは、まるでぶどうの枝が枯れて、実を結ばないままになっているようなものです。 RCスプロール先生も言いました。 「キリストと結びついているなら、赦しは実を結ぶはずだ。」 だから、ゆるさないままでいるとき、それは「ほんとうにイエスさまとつながっているのか」がためされているのです。 【7. ゆるすって、どうやるの?】 ゆるすことは、自分の力だけではできません。だから、まずこう祈ってください。 「神さま、ゆるせないわたしの心を変えてください」 そして、神さまの助けを求めながら、一歩をふみ出してみましょう。電話でも、LINEでも、手紙でも、あるいは静かに「ごめんね」と言うだけでもいいんです。
- 神との結合 2025-3-30
2025.3.30 神との結合 礼拝メッセージ 【祈り】 愛する天のお父様、あなたの御霊、私たちと共におられる主よ。あなたと私たちが、神様によって結合していることを感謝します。 私たちの救いが永遠にあり、永遠の始まりから永遠の過去まで保証されていたことを、心から感謝します。 愛するイエス・キリストの御名をとおして感謝してお祈りします。 みことばを朗読を朗読します。 ローマ人への手紙 6章1節から11節 それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。 決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。 死んだ者は、罪から解放されているのです。 私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。 私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。 エペソ人への手紙 2章4節から9節 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 ガラテア人への手紙 2章19節から21節 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。 今から、「神の主権とは何か」、それから「キリストとの結合とは何か」を皆さんがはっきりと理解できるように話したいと思います。 プリントを見てください。プリントの一番上に、ヨハネの福音書14章20節が書いてあります。 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。 これは、イエス様が弟子たちに言った言葉です。そしてこの言葉は非常に深くて、神の主権と神の内在を表しています。 これは、聖書には、「キリストにあって」という言葉がたくさんありますが、この「キリストにあって」というのは、「あなたがたがわたしの(内)におり」ということと同じです。in Christ キリストにあって。 そして、「わたしが父におり(I am in Father.)」の意味は、図で見ると、父なる神とあり、この父なる神には、支配を行っている領域があります。父なる神には、支配、権威、権力、主権があると聖書には書いてあります。ここの支配、権威、権力、主権というのは、神様がこの領域を100%支配しているということを言っています。ですから、何もこの神に逆らうものはありません。そして、全てのことは、神様が行っていると言っています。これが聖書の基本的な教えです。 この父なる神が支配している、この領域は、この宇宙であり、この地球であり、そして霊的な世界も含んでいます。 霊的な世界も含んでいます。ですから、天上にあるという言葉がよく使われます。エペソ人への手紙1章3節 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 3 Blessed be the God and Father of our Lord Jesus Christ, who hath blessed us with all spiritual blessings in heavenly places in Christ: この聖句でも、天上にあるすべての祝福と言うときに in heavenly places in Christと言っています。この、in christ キリストにあってなので、この範囲のことをいいますが、霊的な祝福と言っているので、ここでは霊的な世界のことも言っています。すべての霊的祝福をもってと言っていますが、そこはheavenly placesと言っています。この、heavenly places天上というのは、天国という発想は間違いではありません。しかし、私たちはここで、この言葉の意味をもっと深くするために、神の主権、権威、権力、支配がある世界ということに目を向けます。なので、単純に天国と言ってしまうと、 死んだら行くところかなとなってしまい、そうすると自分の生活に、結びつかなくなってしまいます。私は天国に行って、そこの祝福をもらうというようになってしまいます。 このみことばは、天上にあるすべての霊的祝福というみことばは、自分の生活に結びついています。パウロは、生きているエペソの聖徒たちに語っています。そうすると、天国の話をしてるのでは無いことが分かります。彼は、神の主権の中だと言っています。 神が統べ治める中にある、全ての霊的祝福と言っています。ですから、今のこの時点でもそのように当てはまります。それは、今の、この生きている、この現在において、キリストは霊的祝福を、神の支配するところにおいて、霊的祝福をすべて私たちにくださっていると言っています。 そうすると、次に分かるのは、エペソ人への手紙第1章3節では、「すなわち」と書いてあります。 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。 ここで、神の主権は、時の始まる前から始まっているということを言っています。神の領域は時を超えます。霊的祝福は、「すなわち世界の基が据えられる前から、この方にあって」この方というのはイン・クライストです。神の主権の中、キリストの中にあります。 そして、そこで私たちを選び、御前に聖なる傷のないものにされようとしたのです。 この主権の範囲を、イエス様は何とおっしゃっているかというと、マタイ福音書28章18節 (プリントの下の方) わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。 このように言われています。つまり、永遠の過去からそして永遠の未来まで、そして領域としては宇宙の果ての果てまで、すべて神が創造されたものは神の世界です。また、そこにおいてイエス・キリストには、一切の権威が与えられています。 ですから、その素晴らしい神の力は、キリストの中にあります。領域も全てキリストの中にあります。なので、神は、キリストを通して万物を創造されました。 その下の、詩篇の135の6でこう言います。 主は望むところをことごとく行われる。天と地で 海とすべての深淵で この聖句は、すべて、神が思われ、望むことを、どこにおいても行うということを言っています。神がすべてを行います。どの場所においても、どの時代においても、どの人たちにおいても、万物に対して、すべて神がコントロールされています。すべて神が行っています。 そして、このプリントにはありませんが、この全体、永遠の過去から永遠の未来まで、そして宇宙の果てまで神が行いますが、この行い方、神が意思を行う方法の中には、摂理といって、神が全ての物事を調和させながら動いているということが分かります。摂理は、神がすべての物事を調和させることを言います。良いことも、人間の目から見たら、良いこと、悪いこと、大惨事などいろいろなことがあります。皆さんの生活の中には、勉強もあり仕事もあり、そしてその中には、良い人、悪い人、良い出来事、悪い出来事いろいろとあります。 ですが、その中において、それらのものが全て組み合わさり、自分の意思とは全く関係なしに起こります。それは、選ばれた人が御子の形に変えられていくという目的があるからです。 なので、この構造の中で一番の中心となるのは、御子の形に変えられていくという目的です。 そして、この図を見ていただくと、黄色いエリアは神の主権、キリストの主権があるエリアでその中に信仰者がいるということがわかります。ですから、みことばで、「あなたがたがわたしにおり」と言っています。 それは、霊的にも、物理的にもその通りです。この言葉はそのままです。そして、その中において、これはまた不思議ですが、私キリストが、「わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」すなわち、私たちの魂のところに神様がいるということです。 それが、キリストと結合している信仰者の、意志、感情、思い、体の中に入っています。 ここの、信仰者の意志、感情、思い、肉体、これは信仰者自身だと思ってください。このブルーの部分は人の形を表しています、四角ですが。そして、その下のところにピンクで書いた 父・キリスト・聖霊と書いて魂と書いてあります。この魂は、人の魂のことを言っていますそして父 ・キリスト・聖霊は 私たちがあなたの内にいることが分かりますと言った、その神です。このことを Christ in you.と言いますキリストがあなたの内にいます。 そして、魂が、上半分が黒くなっていて、半分がピンクになっています。これには意味があり、黒いところは原罪が宿っています。そして死ぬまで原罪は宿っています。 皆さんはこの黒い部分が変えられて全部ピンクになると思うでしょ?ならないですから。ピンクにこれ全部なるなと思って、これを見ても、ならないです。黒いものです。ずっとそうです。 ですが、注目すべきは、ここに矢印が入っていて、キリスト、聖霊から、この魂に栄養分が行きます。これを、ブドウの木と枝という形で見てもらうと分かりやすいと思います。 そして、ここの下のところに「天から新しく生まれ永遠に結合する」とあります。 天から新しく生まれること、結合は自分で結合できません。できるわけがありません。 神とどうやって結合するんですか?信じたら結合するんですか?しないです。それは、神が天からあなたの内を変えられることによって、この結合が起こります。そして、キリストが私たち信じる信仰者の内にいて、このピンクの部分の新しい結合は、外側すなわち肉体の方に向かって、影響を始めます。外側とは、ここでは信仰者の意志、感 情、思いのことです。神の支配、権威、権力、主権がその人のうちに広がっていきます。ですから、真の信仰者は、必ず神の主権に行きます。神の主権を認めない、神の権力に服従しない、神の主権に服従しない信仰者はいません。それは病気です。間違った教えの影響を受けています。 そして、放射線のように、神の優れた力がその人の内側から流れ出てきます。それは、命で、流れ出て、その人の意思、感情、思いに影響を与えて、良い行いをすることに導きます。この良い行いは、エペソ人への手紙で、実に私たちは神の作品であって、良い行いをするために作られた、創造されたと書かれています。 この今説明した、ブルーのとピンクの部分、この部分を新しい創造というように、聖書は パウロは言っています。 このブルーのところの立て付けを、新しい創造と言います。 そしてこの、父、キリスト、聖霊(ピンク)の中に三位一体の神がいますが、それは、 ローマ人への手紙から分かります。 ローマ人への手紙第8章9節ー10節 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。 キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。 あなた方は、聖霊の中にいます。御霊の中にいます。 最初に言ったとおり、神の主権の中にいる、キリストの中にいるその人は、霊的にまたは 物理的にも主権の中にいますと。ここで、はっきりと、キリストがあなた方の内にいると言ってます。そして、キリストと、神の御霊と結合しているがゆえに、霊がそれは魂ですが、義のゆえに生きています。 キリストの義のゆえに、あなた方は義とされます。だから生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊と 言っていますが、それが誰かというと、イエスを死者の中から蘇らせた方は、父なる神しかいません。そして、あなた方のうちに住んでいると言っています。すなわち、父子精霊があなたと結合してあなたのうちに住んでおられるということをはっきりと言っています。 ですから、私たちの、この創造の素晴らしさというか、ものすごく私たちの通常の理解を超えるのは何かといったら、父・子の中に私たちがいて、私たちのうちに父・子・御霊がいることです。すなわち、父・キリスト・御霊の中に私たちは存在していて、そして守られていて、私たちの魂と父・子・御霊が、父・キリスト・御霊が結合しているという、このブドウの木と枝のような一体性があります。 この神の御業の凄さを、何と表現したか分かリマせんが、宝です。これがわかること、これを知っていること、この素晴らしさ、このことを何十億人という人たちが知りたがりました。しかし、知ることができた人たちはごくわずかです。旧約の信仰をもって、ヘブル書で信仰の模範とされた人たちもこれが知りたかったのです。ですが、彼らはキリストの影を見て、希望を置きました、キリストに。 これが、聖書で言われている、「奥義」です。ずっとこのことが隠されていました。 いいですか、これを私たちが知るということは、本当に素晴らしいことです。これに価値を見出さない人たちは、滅んでいく人たちです。 次に、永遠の過去から永遠の未来について、どのように影響するかですが、天から新しく生まれた人は、永遠に結合しています。結合した人は、決して神と離れることがありません。これを回復と言います。 神と人間は、アダムの堕落によって分離されました。それは、人間の世界に死を持ち込んだからだと言われてます。それによってすべての人は死にました。 神はキリストを2000年前の十字架の上で死につけて、そして3日後に復活させ、このキリストを信じる信仰を選ばれた人々に与えて、誰でもその信仰によってキリストを信じる者は神との和解を得ます。 この結合は2000年前までさかのぼると言っています。 この結合の適応は、どこで行われているかと言ったら、2000年前のゴルゴダの丘で、イエス・キリストが十字架につけられている、そこにあなたもいた、ということになります。霊的にそれは、キリストと結合しているからです。でなかったら、あなたの十字架論は意味のない、ただの物語になってしまいます。私はキリストと共に死にましたと言っても、もしあなたが天から新しく生まれてなければ、あなたはそう思っているだけで、あなたはただそういう物語をクリスチャン物語を夢見ているだけです。 救いの三要素という教えがあります。それはクリスチャン物語です。絵に描いた餅で、何もそこに実体がありません。絵に描いた餅、「十字架の上でイエス様が死にました。墓に入りました。三日後によみがえりました。あなたはそれを信じますか?」、 「はい、信じます。」 「はい、あなたは救われました。」 実体がありません。それは、あなたがキリストと一体でなければ実体がないのです。ですから、神は、そういった人たちも含めて、哀れんで、選んだ人には全て、実体を伴わせるために、新しくその人の心を生まれさせました。 そして、その人がキリストと一体である、結合しているということを教えています。それは、天から来ている贈り物です。そして、その信仰によって、その人は2000年前の十字架に、自分がいたということを理解します。 キリストは、ビアドロローサ、十字架のゴルゴダの丘への道を歩いていく時に、父からあなた方のことをすべて知らされています。 苦しみの道を歩いていく時に、キリストの心の目がどこを見ていたかと言うと、あなたを見ていました。十字架についたキリストは、あなたを心の目で見ていました。分かりますか? キリストは、自分の命を懸けて死んでいく、その自分に与えられた、羊たちの名前を知っています。その羊たちのことを、彼は十字架の上で、心の目で、遠い遠い未来に対して見ていました。 そして、キリストが十字架の上で死にゆくものとなった時に、この現代を生きている私たちもそこでそのように、同時に死にました。 そして3日間墓に入り、よみがえた時に、キリストの内には、あなたがいました。一緒に。 そして今、時を超えながら、あなたは2000年後の現代に生きていても、キリストの十字架と共に死んで生きているということです。これが、永遠に結合している意味です。そして、決して離れないキリストの結合は、永遠の未来に行きます。 やがてあなたの体が死んでいくとき、あなたは一人ではありません。あなたは、この結合が、そのままずっと続きます。死んでもあなたは、永遠に生きると言われたのはそれによります。復活があります。霊的な復活と、肉体的な復活があります。 霊的な復活は、キリストを信じた時に、すでに起こっています。ですが、意思、感情、思い、肉体は罪の中にあります。ですから、これに対して私たちは、キリストからの供給、すなわちみことばの力を受け、従うことによって、これらの罪の性質を打ち叩きながら勝利をしていきます。失敗もします。しかし、全体的に勝利していくようになります。これを聖化と言います。 そして、あるポイントがきて、私たちはキリストの再臨を見ますが、見ない人たちはそのまま死にます。その人たちは、キリストの再臨を霊の状態でパラダイスで待ちます。 しかし、三位一体の神はあなたと、あなたの霊から絶対に離れません。いつも共にいます。それは永遠に変わらない神の約束です。神の約束は、「決して私はあなたを捨てない」と、そこに来ています。だから、神は決してあなたを捨てません。決して見放しません。決してあなたを一人にしません。あなたは、神と永遠にいます。 そして、キリストが空中再臨する時栄光の体が与えられます。この栄光の体は、キリストと同じ体です。そして、この地球の終わりの時が来ます、その時には、神の新しいエルサレムがあなたと共にあります。 私たちの救いは、永遠の過去から永遠の未来まで、また、全宇宙霊的な領域すべて含めて、神の支配、権威、権力、主権の中にある私たちの内にも、神の支配、権威、権力、主権が今輝いています。そして父、キリスト、御霊、この三位一体の神と、私たちの魂が結合している、この新しい創造の中に私たちがいるということです。 最初に、最初に朗読した御言葉が、皆さんの中で、よりクリアにな理、皆さんの生活の中で、この御言葉が生きて、そして皆さんと共にあることを期待します。 【祈り】 愛する天のお父様、私たちの心に、私たちの魂とあなたが結合しているこの事実を感謝します。 時の始まる前から、天まであなたが私たちと共にいてくださっていること、あなたが決して私たちを見捨てないこと、どんなことがあってもあなたが私たちの信仰を守ってくださること、あなたが私たちを導いてくださることを感謝します。 しずさんも、あなたの子供ですから、どうかあなたが守理、永遠の御国まで導いて下さいますように。 愛するキリストの御名を通して、感謝してお祈りします。アーメン。
- 黄金の鎖
今日は、以全話した黄金の鎖 について、もう一度ゆっくりと話したいと思います。 今週は、二回に分けて話したいと思います。 【ローマ8章:29〜30】 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子の形と同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人 たちにはさらに栄光をお与えになりました。 この教えは、神の救いの計画です。 途切れなく完全に成し遂げられるということを表しています。 この教えはとても重要です。 これが救いのほぼ全体像になります。 以前、皆さんに説明した救いの全体マップを見て頂けると分かりやすいのですが、神の計画というのは、永遠の過去、そして現在、そして永遠の未来に続きます。 そして、この永遠の過去から、現在、未来に渡って、神のご計画はそこにあります。 永遠の過去は選びというのがあります。 そして、新たに生まれる、信仰、悔い改め 、聖化、栄化、というのが軸になっています。 永遠の過去から永遠の未来まで、100%神の働きです。選びから始まり、新しく生まれ、そして、信仰が与えられ、悔い改めがおこります。 ここは、神の領域で、人は一切関わることができません。実はこの救いという部分について、人が何かできることは全くありません。すべて神様が行われています。 信仰を受けて悔い改めるというところぐらいから始まって、聖化の中に入っていきます。ここは、神様だけの働きではなく、救われた人にも責任があります。 それは、人間側の責任です。神の御言葉に従うということです。 パウロは、「私は自分の体を打ちたたいて従わせます。」と言ってます 。この従うというのは、御言葉によって、私たちの心が変容していきます。 そして、神の素晴らしさ、キリストの素晴らしさを理解していく中において、私たちはこの世のものを、「ちりあくた」というふうに理解していきます。価値観がこの世の価値観から、聖書世界の価値観に変わっていきます。 それは、神の御霊の働きです。その価値観が変わっていく中において聖化されていきますが、罪の性質がまだ私たちのうちにいつもあるということを知っています。 本当のクリスチャンの人は、いつも聖書の教えの中において、自分のうちに罪の性質が宿っていることを理解しています。 そして、その罪の性質は絶えず私たちにおられる聖霊と相対時します。この罪の性質はものすごい力を持っています。 そして、人間的な方法や手段、宗教的な行い、哲学、いろんな教え、また行いによって、この肉の性質を打ちまかすことはできません。 私たちはどうやってこれを対処する事ができるのでしょうか。 神の恵みによってです。 それは、私たちは絶えず御霊に満たされるイエス・キリストの真理の啓示を私たちの内に置くことによって、私たちが絶えず神の御言葉をしたい求め 、私たちの内に神の言葉が浸透していきます。私たちは、御言葉を理解する土台をもらっているので、その御言葉の真理を理解することができます。それを事実として捉えて、 そこに信頼を置くということが信仰です。 だから、信仰に立つということは御言葉を理解することです。 以前私たちは、「信仰に立ちなさい」というのはどういうことなのか理解していませんでした。 感情なのか、「イエスは主です」と告白するだけで救われるのか。しかしそれは信仰に立ってはいません。 なぜなら、御言葉を理解していません。御言葉を正しく理解していないので、御言葉に立てるわけがありません。 「イエスは主です」とは誰でも言えます。 しかし、その言葉の意味は、神の救いの全用の中にあります。 そして、聖霊の働きによって、少しずつ御言葉を理解していく中で、その深さ、広さ、高さを理解していきます。それが、聖化です。 そして、私たちの心が変容されていき、神の素晴らしさに圧倒されていきます。そうなると、この世のものを欲しがらなくなります。 そういうものに変えられていきます。 救われていない時にはこの世のものしか求める事ができませんでした。皆さんは、救われていなかった時のことを思えば、いかに聖書を誤って理解していたか分かるでしょう。 そこには、御言葉 、聖化というところの仮定があります。 そして、聖化の仮定というのは、霊的戦いです。この聖化の仮定はキリストを着ることです。真の信仰者だけが行う事ができ、経験する事ができます。なぜならキリストに似たものになるとあらかじめ定められているからです。 偽のクリスチャンや 、未信者、求道者と言われる人たちは、霊的戦いの土台にも立つ事はできません。なぜなら、霊的戦いというのは神の国に入らなければ戦えないからです。 神の国に入っている者だけが 、霊的戦いがそこにあります。神の国に入っていない人たちは 、霊的戦いには入ってもいません。すでに、罪の中にいて、その人たちは幻想を見せられています。サタンに騙されていて、そこで戦っているかのように思い込んでいます。 そして、戦っているかのように悪霊を追い出したり、奇跡を行います。その奇跡を見て、ますますその幻想に取り込まれていきます。その人たちは、神を知らないのです。 聖書にはこう書いてあります。 【マタイ7章22〜23】 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」 これが霊的戦いを騙されていく偽の聖化です。それは聖化とは全く関係ない世界です。なぜなら、救われた者たちだけが聖化に入ります。 選ばれ、新しく生まれて、信仰と悔い改めを与えられた人たちは、その信仰によって義と認められます。信仰は神からきます。 そして、その信仰を受けた者が信じる信仰を持って、福音を聞いた時に義とされます。心が変容されていきます。 それは、キリストの十字架の御業を信じた時にキリストの義がその信仰者に転化されます。 そして、その義は完全なキリストの義であり、私たちの義では全くありません。だから私たちは、私たちを変えていい人になろうとか、私たちの義を積み上げようとか、そんなものは全くありません。完全なキリストの義です。 そして、私たちは、大きな神の御計画の中に置かれて聖化されていき、キリストが帰られる時に主の顔を仰ぎ見る事ができます。 そして、キリストは私たちを引き上げて、栄光の体を与えてくださると聖書は言っています。そして、その栄光の体を私たちが受ける時に完全に罪の性質に打ち勝ちます。 そこには完全な罪に対する勝利があります。 それはイエス・キリストの十字架の御業です。 【祈り】 愛する天のお父様。私たちの救いが断片的なものでなく、全てが一貫しており時の始まる前から選び永遠の御国まで一貫して恵みのみであること。私たちが全ての栄光を返す時に、私たちは全てがあなたの恵みのみで、あなたの憐れみのみで 、あなたの優しさのみで 、私たちがそのように救われたことを感謝します。他に何もないことを感謝します。ただ あなたの喜び 、あなたの愛で、私たちを選んでくださったことを心から感謝してお祈りします。アーメン
- 信仰はプロセス
1. 信仰は「みことばを聞く」ことから始まる • ローマ人への手紙 10:17 「したがって、信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのことばによるのです。」 → 信仰はまず「聞く(みことばを受け取る)」ところから始まる、と明確に述べられています。 2. 理解し、知識を持つことが伴う • マタイの福音書 13:23(種蒔きのたとえ) 「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことです。」 → 「悟る(ギリシャ語で suniémi = 理解する)」という表現が出てきており、単なる聞くだけでなく「理解すること」が伴う信仰を示しています。 3. 事実として受け取る、認める • ヨハネの福音書 17:8 「わたしが父から受けたことばを彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、まことにわたしがあなたから出たことを知り、またあなたがわたしを遣わされたと信じました。」 → 弟子たちは「受け入れ」「知り」「信じた」と三段階で記され、事実としての受容が含まれています。 4. 信頼する(委ねる) • ヘブル人への手紙 11:1 「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」 → 信仰は「確信させるもの」、つまり神の約束に対する信頼の態度です。 また、ヨハネ3:16も有名です。 • ヨハネ 3:16 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 ここでは「信じる」とは単なる同意ではなく、心から御子に信頼する行為を指します。 まとめ これらの箇所から、「信仰」とは: 1. 神のことば(福音)を聞き、 2. それを理解し(悟り)、 3. 真実として受け入れ(知り)、 4. 神に信頼する(依り頼む) という聖書的なプロセスで成り立っていることが読み取れます。
- 「イエスが教えた本物の信仰のしるし」— マタイ5章から学ぶ
<全体の概要> 「山上の説教」と「幸いの教え」は密接に関係していますが、範囲と焦点が異なります。以下に明確 な違いを示します。 【1】山上の説教(マタイ5–7章) • 範囲:マタイの福音書 第5章〜第7章全体 • 内容:キリストが山の上で弟子たちと群衆に語った、最も長く体系的な説教 • 主題:神の国に属する者の「義」「生活」「心の在り方」 • 構成: o 幸いの教え(5:1–12) o 塩と光の譬え(5:13–16) o 律法の成就(5:17–48) o 隠れた義の実践(6章) o 金銭・心配・信頼(6章後半) o 批判と祈り(7章) o 二つの道と家の譬え(7:13–27) → 山上の説教は、キリストの弟子にふさわしい生き方全体を語る包括的な教えです。 【2】幸いの教え(マタイ5:3–12) • 範囲:山上の説教の「導入部分(序文)」にあたる • 内容:「再生された者の聖化の祝福を宣言」つまり 「神の国に属する者の祝福の宣言」であり、律法ではない。 「これを守れば祝福される」のではなく「このような者はすでに救われており祝福されている」 という福音的な宣言 ➡ この宣言は、神の恵みによって再生され、御霊によって歩んでいる者の姿を描いている。 • 構成: o 心の貧しい者 o 悲しむ者 o 柔和な者 o 義に飢え渇く者 o あわれみ深い者 o 心のきよい者 o 平和をつくる者 o 義のために迫害される者 → これらは「真の信仰者の救いの成長」であり、単なる道徳、倫理の教えではなく、再生された者 に人生を通して現れる祝福の実態を示しています。 ① 単なる道徳的教訓ではない • 幸いの教えは「こうすれば祝福される」という行動リストではなく、再生され、信仰義認され た者に神が造り出す「内なる性質と実」である。 • これは律法ではなく、福音に根ざす(ローマ8:29、ガラテヤ5:22)。 ② 順序性を持った聖化の歩み • 「心の貧しさ」→「悲しみ」→「柔和」→「義への渇き」→「あわれみ」→「きよさ」→「平和」→ 「迫害」の流れは、救いの成長過程として読むべき。 • 幸いは「性格的傾向」ではなく、「神が造り変えてくださる証拠」。 ③ 神中心の救いの実としての理解 • 幸いとは「自分の努力で到達する」ものではなく、神の恵みによる再創造の実(エペソ 2:10)。 • すべては「神の栄光と御国の拡がり」を表す。 観点 山上の説教 幸いの教え 範囲 マタイ5–7章 マタイ5:3–12 内容 神の国の義・生活の全体像 神の国に属する者の霊的特徴 位置づけ キリストの教え全体の包括的説教 の説教の冒頭、導入 目的 律法の成就・真の義の示し 御国に属する人の祝福の状態を宣言 対象 キリストの弟子(真の信仰者) 同上(弟子の姿勢と状態) はじめに マタイの福音書5章3〜12節にある「幸いの教え」は、イエスが本物の信仰を持つ人にどんな特 徴があるかをはっきりと教えてくださった箇所です。これは、「こうすれば天国に入れる」という条件 ではなく、すでに神に救われた人に見られる特徴(しるし)なのです(R.C.スプロール)。 1. まず、「心の貧しい者」とは? イエスは最初にこう言いました。 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3) これは、「神の前で自分は何も持っていない」と心から思っている人のことです。 ジョン・マッカーサーはこう言います: 「心の貧しさ」とは、神の前に自分が霊的に破産していると認めることです。 つまり、自分ではどうしても神に受け入れられないと知っている人です。だからこそ、救いをただ神 のあわれみにすがって受け取るのです。 2. その心には、罪を悲しむ思いがある イエスは続けてこう言いました。 「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」(5:4) これは、自分の罪に対して本当に悲しむ心を意味します。 悔い改めとは、「自分はもう十分にやった」と思うことではなく、神の前で砕かれていることなので す。 3. その人は柔らかい心になります 「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」(5:5) 神の前にへりくだり、人と争わず、自分の正しさを主張しない心。これも、救われた人に自然にあら われる性質です。 4. 義に飢え渇く人へ 「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(5:6) この「義」は、神に喜ばれる正しさのことです。 ジョン・オーウェンはこう言いました: 義に飢え渇くのは、再生された人のしるし。聖霊の働きがその人の中にある証拠です。 神をもっと愛したい、罪からもっと離れたい…そういう思いは、信仰が本物であることのサインで す。 5. 主がしてくださる変化 このような心を持つ人に、神はこうしてくださいます: • あわれみ深くなる(5:7) • 心が清くなる(5:8) • 平和をつくる者にされる(5:9) これは自分の努力ではなく、神の恵みによる変化です。 6. そして、最後には迫害される 「義のために迫害されている者は幸いです…」(5:10) 本物の信仰を持っている人は、この世ではときに誤解され、拒まれることがあります。 でも、天の御国がその人たちのものとイエスは約束しておられます。 7. 外側だけの信仰ではない 最後に、マタイ5:20ではイエスはこう言われました: 「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人 の義にまさっていなければ…」 これは、外側の行動だけでは足りないという意味です。 R.C.スプロールも言います: 神が見ておられるのは、私たちの「心」です。内側からの変化こそが、神の御国にふさわしいもの です。 8.神の前にへりくだることから始まる道 へりくだると言う意味は、「神さまの求めている基準には、自分の力ではとても届かない」と心の底 から悟るということ ――それは、イエスさまが語られた「本当の祝福された道」の入り口に立ったと いうことです。 イエスさまはこう言われました。 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3) 「心の貧しい」とは、自分には神さまの前に立てるような正しさがないとわかっている、そんな人の ことです。「自分にはどうにもできない」「神さまの前にふさわしくない」――そう心から思えること。 そこから、本当の信仰の道が始まるのです。 そして、このようにへりくだって歩み始めた人は、だんだん神さまのことばに従うようになります。そ れは自分で頑張ってやるのではなく、神さまがその人の心に信仰を与えてくださるからです。だか ら、神の国に属する人たちには、必ずこのような心の変化が現れてきます。 9.子どものような信仰って? ある日、イエスさまは弟子たちに、大切なことを教えるために、小さな子どもをそばに呼んで言わ れました。 「本当に言います。あなたがたも悔い改めて子どものようにならなければ、決 して天の御国に入れません」(マタイ18:3) ここで言われているのは、子どもが持っている「素直さ」や「正直さ」です。子どもは、「自分の力で なんとかしよう」とは考えません。信頼する人にすなおに頼ります。そんな姿こそ、神さまが喜ばれ る信仰の姿なのです。 10.本物の信仰には、従う心がある - イエスさまは、ご自分を信じる人のことを「わたしの羊」と呼んで、こう言われました。 「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。わたしは彼らを知っています。彼 らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼ら は決して滅びることがありません」(ヨハネ10:27–28) イエスさまの「羊」とは、イエスさまのことばに耳を傾けて、従っていく人のことです。信じる心は、神 さまが与えてくださるもの。そして、ほんとうに信じている人には、神さまに従いたいという心が与え られていくのです。 だから、「イエスさまを信じている」と言っていながら、神さまのことばにまったく従う気がない人は、 自分の信仰が本物かどうか、もう一度よく考えてみる必要があります。 11.まとめ • イエスさまの「幸いのことば」は、救われた人に見られる特徴です。 • 「自分にはどうすることもできない」と気づいて、神さまにすがるところから信仰が始まりま す。 • そこから、罪に対する悲しみ、優しさ、正しさを求める心へと導かれていきます。 • 神さまは、そういう人を変えてくださり、やがて人を愛し、平和をつくる者へと成長させてくだ さいます。 • この道を歩む人には、たとえ苦しみや迫害があっても、天の御国の祝福が約束されていま す。 12.聖書が教える信仰 「御子(イエス)を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者 はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ3:36) 信仰は「心の内側の変化」から始まります イエスさまを信じるとき、神さまはその人に「新しい心」を与えてくださいます。 「わたしは彼らのうちにわたしの律法を置き、彼らの心にこれを書き記す」 (エレミヤ31:33) 13. 神さまは「従わせようとする心」を与えてくださる • 信じたからといって、すぐに楽に従えるようになるわけではありません。 • ときには苦しみ、ときには葛藤し、自分のわがままを捨てる痛みもあります。 • でも、それでも「神さまに従いたい」と自分を叩いてでも従わせようとする思いが生まれる それは、神さまが与えてくださる信仰の働きです。 「私は、自分の思いを行うために、あなたがたのうちに働いて、願いを起こさ せ、実行させてくださる神なのです」 (ピリピ2:13) 14. 従順とは、楽なことではなく「戦い」です • イエスさまご自身も「ゲッセマネの祈り」で、御心に従うことに苦しみ、汗が血のように流れ るほど祈られました(ルカ22:44)。 • 私たちも、神の子として従おうとするとき、苦しみが伴います。 • でもその戦いこそ、神さまに属する者のしるしです。 あなたはこの1度しかないこの地上での人生をイエスキリストに最後の望みをおいて 生きたいですか? 心から従順に御言葉に従いたいですか? あなたがそのように望むことは神がすでに幸いの教え、神の主権の中に招きいれてくださ っているのです。 主は幸いの教えを通して従順に神に従う真の信仰者の聖化の祝福を教えています。
- 「キリストと教会」 本当の結合の奥義について
「キリストと教会」 本当の結合の奥義について キリストと教会の奥義とすり替わる「夫婦についての非聖書的」な誤解と、福音による秩序の回復― エペソ5:31–32 31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」 32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。 1. こんな教え、聞いたことありますか?(実際にある誤った考え) 今の教会の中には、こんなふうに言われることがあります: 「夫婦の愛こそが神さまの愛を映すもので、霊的な本質である」 「夫婦が仲良くなるほど、霊的にも成長していく」 「理想的な夫婦になることこそ、信仰者のゴールだ」 「夫婦の愛を通してキリストと教会の関係を表すのがクリスチャン」 一見「いいことを言っている」ように思えるかもしれません。でも実はこれらの考えは、聖書が教える秩序や、私たちの信仰の中心をすり替えてしまう誤った危険な考えです。 2. どこが間違っているのか?―改革神学に基づく聖書理解から見た問題点 【間違いその1】 夫婦の関係が先で、キリストとの関係はそのたとえと言う考え →これは順番が逆です! エペソ5:31–32では、パウロが創世記の「夫婦の結びつき」を引用しながら、「実はこれはキリストと教会の結びつきのこと」と教えています。 つまり、霊的な原型(本体)は、キリストと信仰者たちの結合であり、夫婦の結びつきはその地上的な型(モデル)にすぎません。 そしてこの「キリストとの結びつき」は、ただの象徴的関係ではありません。 それは全人格的、契約的、有機的な結合です。 人格的結合:私たちの思い・意志・感情がキリストに向けられ、人格全体がキリストに応答し、交わる関係です(ヨハネ17章)。 契約的結合:キリストの十字架によって成し遂げられた新しい契約に基づく、取り消されることのない救いの関係です(ヘブル9:15)。 有機的結合:ぶどうの木と枝のように、「聖霊」によってキリストに結び合わされ、そのいのちに生かされて実を結ぶ実質的なつながりです(ヨハネ15:5、ローマ6:5)。 だから、夫婦関係を原型とし、それを土台に聖書の霊的真理を理解しようとするのは、神の啓示の順序を転倒させることになるのです。 【間違いその2】 夫婦関係がうまくいけば、信仰も成長する、また、夫婦の愛を通してキリストと教会の関係がこの世に示されるという考え; →これは、人の努力で霊的に成長できるという、ペラギウス主義、霊的体験主義的な間違いです。 たとえば「良い夫婦になること」が神との結びつきや霊的な成長につながるというのは、神の恵みによる救いという聖書の真理に反しています。 エペソ2:8–10「救いは、あなたがたの努力ではなく、神の賜物です」 ヨハネ15:5「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」 霊的な成長は、個々の信仰者がまずキリストとの人格的・契約的・有機的な結合にあずかるところから始まります。それは天から新たに生まれることであり、すべて神の御業です。 夫婦関係の成熟や調和も、個々の救いの結果です。その結果として現れてくる実であり、決して霊的成長の出発点ではありません。 【間違いその3】 結婚を通して霊的な結びつきを体験できるという考え →これは「結婚を神秘的な体験」と考える、スピリチュアリズムやニューエイジ思想に近い考え方です。 結婚は、救いを与えるものでも、霊的体験の場でもありません。 結婚は、すでにキリストとの結合にあずかっている者たちが、神の創造秩序に従って歩む中で、福音の型として神の栄光を表すものです。 ローマ12:1–2では「自分のからだ全体を神にささげなさい」と教えています。 霊的な礼拝とは、夫婦で一体的に体験する神秘ではありません。それは一人ひとりが神に与えられた信仰によってキリストに結ばれ、その恵みに生きることです。信仰者が受ける神の恵みは神がそのそれぞれの信仰者に与えた信仰によって義と認められます。 3. 本当に大切なのは何か?―エペソ5章が語る「奥義」 この箇所では、夫婦の話をしているように見えて、実はキリストと教会(信者)との人格的・契約的・有機的な結合の奥義を語っているのです。 だから、地上の夫婦に完全な一致や愛を求めすぎることは、偶像化につながります。私たちのうちに真の一致と愛を生み出すのは、キリストとの生ける結合に生きることによってです。パウロはこの文脈で「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と[「キリストのことばをあなたたがたのうちに豊かにすまわせ」と命じています。 18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。19 詩と賛美と霊の歌をもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。 (コロサイ3:16) 16 キリストのことばをあなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。 私たちはキリストに結ばれ、そのいのちに生きる者として、御霊によってみことばに生かされるとき、あらゆる関係がゆっくりとですが確かに整えられていきます。 4. 先輩たちの証言 ― 改革派の偉大な神学者たちの言葉 ジャン・カルヴァン(『キリスト教綱要』III-1-1) →「キリストとの結合は、私たちが救いのすべての祝福にあずかる入り口である」 ジョン・マレー(『Redemption: Accomplished and Applied』) →「キリストと教会の関係は、創造の前から神に定められたものであり、結婚はその型である」 ヘルマン・バヴィンク(『改革派教義学』) →「結婚は霊的成長の手段ではなく、創造秩序にある制度。福音の象徴である」 これらの証言は一貫して、「キリストと信者との結合が救済論の中心であり、結婚はそれを反映する型にすぎない」と教えています。 5. まとめ ― 本当の「結合」とは? - 本当の結合は、信じる者とキリストとの間にある、全人格的・契約的・有機的な永遠の結合です。 それは: 〇全人格的結合 私たちの思い・意志・感情がキリストに向けられ、人格全体がキリストに応答し、交わる関係です(ヨハネ17章)。 〇契約的結合: キリストの十字架によって成し遂げられた新しい契約に基づく、取り消されることのない救いの関係です(ヘブル9:15)。 〇有機的結合: ぶどうの木と枝のように、聖霊によってキリストに結び合わされ、そのいのちに生かされて実を結ぶ実質的なつながりです(ヨハネ15:5、ローマ6:5)。 夫婦の結びつきは、その霊的原型を地上に映し出す型であり、救いの手段ではありません。 結婚は、福音によって新しくされた者が、神の秩序の中で整えられていく過程の中で与えられる祝福です。 それは共同体としての結合、真のイスラエルすなわち神の花嫁 キリストと神が時の始まるまえより、選ばれたすべての民との結合 「子羊の婚宴」は本質的結合の完成、契約の完成であり、終末論的完成です。 この日こそ、私たちが待ち望む結婚の完成です。それは地上の結婚制度を超えた、贖われた信仰者たちとキリストの永遠の契約の完成です。そしてこの約束に預かっているものは「幸いな者」と呼ばれています。 黙示録19:7-9 7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。 8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」 9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、とかきなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。 【最後に】 結婚や家庭は神が与えられた尊い祝福であり、制度です。しかし、それを信仰の中心や霊的成長の源泉ではありません。 すべてはキリストとの結合という福音の本質にあります。すべてはそこから始まり、そこに帰って行きます。私たちは、まずキリストとの結合に生きることを第一とし、そこからすべての関係が整えられていくという秩序を理解し、大切にしましょう。 キリストこそが私たちのいのちであり、すべての結合の中心です。 この恵みの真理を、感謝と信仰のうちに受け取り、歩んでいきましょう。
- 「私は絶えず罪人であり、義人である」
「私は絶えず罪人であり、義人である」2025.6.3 ―― 私はいつも芯の芯まで腐っている。けれども、神は御前において私を完全に義と宣言される。この確信を与えてくださる神に栄光を捧げます。この逆説の恵みに、私はただ畏れ慄くばかりである。―― ❖ 主の前に叫ぶ者の言葉 私は絶えず、「私は最も惨めな罪人である」とうめきます。 けれども、同時に「それでも私は神に受け入れられている!」と心から喜ぶのです。 これこそが、イエス・キリストを信じる者の、真実な心の姿です。 福音を知れば知るほど、この叫びと喜びが私たちのうちに深く湧き上がってくるのです。 ❖1. 聖書が示す「人間の本当の姿」 •エレミヤ17:9 「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」 → 私たちの心の奥には、自分自身ではどうすることもできない汚れが潜んでいます。 •ローマ3:10–12 「正しい人は人はいない。ひとりもいない。」 → 神の前に、自力で義とされる者は誰一人いません。 •詩篇51:5 「私は罪ある者として生まれました。」 → 私たちは、生まれながらにして神に背を向ける存在なのです。 ❖2. なぜそんな私が、神に受け入れられるのか? 答え:キリストが私の代わりに完全な義を生き、十字架で私の罪の裁きを受けたから。 •ローマ5:1 「信仰によって義と認められた私たちは、…神との平和を持っている。」 •ローマ8:1 「今や、キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」 → それは私たちの努力や感情ではなく、イエス・キリストの義が私たちに着せられるという神の恵みのわざです。 ❖3. クリスチャンとは「罪人、でも義とされた者」 •ローマ7:18(パウロ) 「良いことをしたいと思っても、それを行う力が私にはない。」 → クリスチャンもなお罪と戦い続けています。 しかしその中でこそ、「すでに義とされた」という福音の恵みを、ますます深く味わうのです。 •ローマ5:5 「神の愛が、私たちの心に聖霊によって注がれている。」 → 神の愛は「できるようになった者」に注がれるのではありません。 「自分にはできない」と気づいた者に、聖霊を通して注がれるのです。 ❖4. 偽りの教えは、この福音を否定する 今日、多くの教会で語られている教えの中には、本物の福音を否定し、罪人としての自己認識を奪おうとする偽りの福音が混入しています。 以下のような教えは、すべて「罪人であり続ける現実」から目をそらさせようとする敵の策略です。 ❌ 表面的な福音主義 「神さまはあなたを愛しています。あなたはそんなに悪くありません。もっと前向きに自分を肯定しましょう。」 ❌ 支配神学 「私たちはこの地を支配する勝利の民。現実を変える力があなたにあります。勝利を宣言しましょう!」 ❌ 霊的戦い神学 「悪霊のせいでうまくいかないのです。先祖の罪の影響を断ち切り、解放を受けましょう。」 ❌ カリスマ神学 「もっと油注ぎを受けましょう。賛美の力で神の臨在を引き下ろしましょう。」 ❌ ペンテコステ的自己肯定神学 「私はキリストのうちにあるから、もはや罪人ではありません。」 → この最後の教えは特に危険です。 キリストのうちにあるからといって、私たちのうちの罪が消えたのではありません。 それは、神の御前で「義と見なされている」のであって、私たち自身が完全に義になったわけではないのです。 このような教えは、ルターが命をかけて回復した福音の真理―― 「Simul Justus et Peccator(義とされつつ、なお罪人である)」 を否定し、聖化の過程と日々の悔い改めを捨て去ります。 「罪人であることを否定する教え」は、十字架の必要を否定する教えです。 芯の芯まで腐っていると悟った者だけが、キリストの義の素晴らしさを真に感謝できるのです。この悟りか神からの贈り物です。 ❖5. 終わり ― 本物の礼拝、本物の福音 真に神を礼拝する者は、いつでも、どこでも 「私は最も惨めな罪人である」と心の中でうめききつつ、まさにその瞬間にこう叫ぶのです。 「それでも私は神に受け入れられている!」 神は、そのように呻く者にこそ、御子イエス・キリストによる義と平安の確信を与えてくださいます。 そして、その者は罪人でありながら、 心からこの神の恵みを喜び、感謝し、平安にとどまるのです。 真の礼拝者は、霊とまことをもって神を礼拝します。 これが、「罪人、しかし義とされた者」として生きる者の、心の叫びであり、喜びの源なのです。
- 「救いと教会 ― 教会との結合」
「救いと教会 ― 教会との結合」 2025.6.8 礼拝メッセージ 「教会に属していないと救われないのですか?」「救われたあと、自分に合った教会を選べばいいのでは?」この問いは、現代の教会、信仰者、すべての人々にとって非常に重要な問題です。 【第1:救いは信仰のみ、教会は救いの“結果”として与えられる】 まず、断言できます。 救いの条件に「教会所属」はありません。 「人は律法の行いとは関係なく、信仰によって義とされる」(ローマ3:28) 「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われた」(エペソ2:8) 人は、神の恵みによって、キリストへの信仰により義とされる。これがSola Fide(信仰のみ)の福音です。 スプロールも言います:“We are saved by grace alone, through faith alone, in Christ alone.” 【第2:神の選びから結合・内住まで ― 信仰者の教会への召命】 神の救いは、以下のような一つの鎖のように結ばれています: ・予知(前もって知る)―ローマ8:29 ・予定(あらかじめ定める)―ローマ8:29 ・召命(召す)―ローマ8:30 ・再生(新しく生まれる)―ヨハネ3:5「御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできない」 ・信仰―ピリピ1:29(信仰は与えられる) ・悔い改め―使徒11:18(悔い改めは神からの賜物) ・義認(義と認める)―ローマ5:1 ・聖化(聖い者に変えられる)ローマ6:22 ・栄化(栄光を与える)―ローマ8:30 1)救いの御業の目的は個人の救いを通して、神の栄光がこの地上に現れること私たちは、神との選びにおいて、キリストのからだなる教会に計画され、召され、結合されているのです。「私たちは、神の御心により、御子にあって前もって定められ…」(エペソ1:11)「教会はキリストのからだであり、すべてをすべてで満たす方が満ちておられるところです」(エペソ1:23) 2)信仰者は、キリストと結合し(1コリント6:17) 霊によって新しく生まれ(ヨハネ3:5)、 信仰と悔い改めを神から与えられ(ピリピ1:29, 使徒11:18) その結果として教会という共同体に結合される(1コリント12:13) 「ひとつの御霊によって、私たちは皆、ひとつのからだにバプテスマされ…」(1コリント12:13) 3)さらに、父・子・聖霊の三位一体の神が、信仰者のうちに永遠に住まわれます。 ・「わたしたちは、御父と御子が、その人のところに来て、住まう」(ヨハネ14:23) ・「キリストがあなたがたのうちにおられる」(コロサイ1:27) ・「あなたがたのうちに住まわれる聖霊」(ローマ8:11) 4)真の信仰者たちは神の神殿とされる 「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊が宿っておられる」(1コリント3:16) 結合(Union)は、一度きり、全人格的、契約的に、有機的にキリストに結ばれたこと。 内住(Indwelling)は、神が信仰者のうちに臨在され続けること。ペンテコステの聖霊降臨の重要性はここにあります。 ➡ この結合、内住は教会が生まれることの土台となる。 <結合と内住の違い> 区分 結合(Union with Christ) 内住(Indwelling of God) 定義 全人格・契約・有機的な結合。再生と同時に成立 結合に基づく神との霊的交わり 時期 再生と同時、一度限り 継続的に続く 主体 キリストとの関係(位置) 三位一体の神の臨在(経験) 聖句 1コリント6:17、ローマ6:5 ヨハネ14:23、ローマ8:10、2コリント13:5 【第3:キリストの内住 ― 教会と信者における現実】 「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」(コロサイ3:11) この御言葉は、単なる象徴ではない。再生された者には、実際にキリストご自身が聖霊を通して内住している。 ・信者の心の中に、キリストが住まわれる ・教会全体に満ち、満ちるキリスト ・その結果、私たちは内から造り変えられていく(これが「聖化」) 【第4:なぜ「あとから教会を選ぶ」ではいけないのか?】 「救われたあと、自分に合った教会を探せばいいのではないか」「教会に行かなくても、個人的に礼拝して信仰があれば十分」一時的な迷いや偽りの教会で傷を負った場合を除き、 ・長期にわたって教会を拒絶し、悔い改めず、交わりを避けるなら、 ➡ 聖書の基準から見て、その信仰は偽である可能性が極めて高い。 ➡ その人は「名ばかりの信者(ノミナル・クリスチャン)」か、あるいは ➡ まだ再生に達していない「自然の人」である ➡現代の自己中心的な個人主義の影響 スプロールはこう警告:“The church is not a spiritual shopping mall. It is the body of Christ, ordained by God.”教会は「霊的なショッピングセンター」ではありません教会は神により定められているキリストのからだです。 【第5:結論 ― 教会は「選ぶ場所」ではなく「結合された命」】 ・組織教会に属さないと救われない? → ❌ それは異端的 ・教会は信仰に関係ない? → ❌ それも聖書に反する ✅ 救いとは、キリストに結ばれること。そしてキリストに結合されるとは、キリストのからだである教会に結合されたということです。 ➡ あなたは、信仰を与えられた、その瞬間から、神の永遠のご計画の中で「教会に召された者」 【終わりに ―教会とは何か?】 あなたが本当に救われているなら――キリストは、あなたのうちに住んでおられます。そして、あなたはキリストのからだである教会に結合されています。それはあなたの聖書の教義の理解が浅くとも深くと全く関係ありません、結合されています。これはまさに、あなたがキリストの十字架の御業に結合されていること、復活に結合されていることと同じです。 ➡ それは 「私は芯の芯まで腐っています。助けて、イエス様、どうかわたしを憐れんでください!!」 と言う心からの叫び 神から与えられた憐みと恵みより与えられた信仰より神に義(神の御前で正しい)とされることから来ています。最後の望み、イエスキリスト、それ以外になにもありません。 ➡ この福音の現実を信じてください。 ✨ 「教会は、キリストのいのちが満ちあふれる真の信仰者たちの集まり」 ✨ 「真の信仰者とは、キリストの内住によって造り変えられる者」 「だから、教会を信じた後で選ぶとか、行くとか、行かなくても信仰生活はできるとか言うような次元の話は聖書的に間違っています。」 真の信仰者たちは神により、教会に計画され、選ばれ、新たに生まれ、信仰によって生きるのです。 そして神の栄光を信仰者たちが集まり、ともにほめたたえ、イエスの福音をこの地上で延べ伝えます。 それが神の教会です。 <神に栄光をほめたたえる教会> エペソ 1:6 「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」 エペソ 1:12 「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」 エペソ 1:14 「聖霊は、私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」 パウロの祈り ― 教会がキリストを知るために エペソ 1:18–19 パウロは、教会が 神の召しによる望み、 聖徒が受け継ぐ栄光、 信じる者に働く偉大な神の力を「知る」ように祈っています。 R.C.スプロール/ジョン・マッカーサーの要約的解説 キリストを知るとは 「キリストをかしらとする神の主権と結合によって、単なる聖書知識の習得ではなく、選びから栄化に及ぶ救い全体において ・霊的再生の現実、 ・神の力の体験、 ・キリストの愛の深い理解、 そして キリストをかしらとし、そのからだである教会との結合 によって、信仰者が“神の満ち満ちた豊かさ”に満たされることを意味する。」 キリストと教会 エペソ 1:22 「神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会にお与えになりました。」 宇宙、時間、霊的な世界、すべての被造物の主権はキリストにあり、キリストは教会のかしらである。 エペソ 1:23 「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」 キリストと教会 ― 宇宙の主権と教会の栄光の器 (エペソ1章・コロサイ3章より) エペソ書とコロサイ書は、キリストの宇宙的主権と教会との関係を壮大なスケールで描いています。 エペソ1:22–23では、神がキリストを「すべてのものの上に立つかしらとして教会にお与えになった」と語られています。 宇宙、時間、霊的世界、すべての被造物は、キリストの御足の下に従えられています。 そしてこの万物の主権者であるキリストが、教会においてかしらとして与えられているのです。 「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」(エペソ1:23) この御言葉が語る通り、教会はキリストの満ち満ちた臨在の現場であり、ただの集会や組織ではなく、神の救済のご計画が現実に働いている契約共同体です。 これは神の臨在が教会において具現化されている証しと理解されます。 コロサイ書はこの主題をさらに具体的に描き出します。 「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」(コロサイ3:11) ここで語られているのは、キリストの臨在があらゆる違いを超えて、教会を一つのからだとして統合するという現実です。人種や文化、地位を越えたキリストにある新しい人(再創造)の共同体としての教会こそ、神の栄光を表す場所なのです。 さらに続く3:16では、次のように命じられます。 「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」 これは「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と同義であり、キリストの臨在は御言葉と聖霊によって教会のうちに住まわれていることを示しています。ジョン・マッカーサーは、「満たしとは感情的高揚ではなく、神のことばに支配された状態である」と語っています。 RCスプロールも、「教会における“満たし”とは神の真理によって構造的に統治される臨在であり、それは再生された民が共有する契約の現実である」と述べています。 🔚 結論 キリストは全宇宙の主であり、その主権をご自身のからだなる教会に注いでおられます。教会は、みことばによって建てられ、聖霊によって満たされ、キリストの栄光をこの地に表すために召された神の民です。 ➡ 文化や身分の差異は意味持たず、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」という現実が、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」と言う命令とお互いに響きあいながら、愛と赦し、感謝と賛美によって変えられて教会に生きられていきます。 これこそが、「すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところ」(エペソ1:23)の意味であり、私たちが属するキリストのからだとしての教会の真の本質なのです。 Soli Deo Gloria ― ただ神にのみ栄光を。





