Search Results
空の検索で64件の結果が見つかりました。
- 表面的な言葉に騙されない
表面的な言葉に騙されない2025.7.18 表面的には「信仰義認」「恵みによる救い」「聖霊の導き」などの福音的言語を用いながら、実際には決断主義・経験主義・自己吟味主義が混入している典型的な事例を挙げ、その欺瞞構造を明らかにします。 このような話は現代の多くの教会でそれが本当だと思って話されています。目を覚ましていてくだい。 【事例①:ある証しの例】 「私は10年前にイエス様を信じて救われました。そのとき、涙が止まらず、全身が震えて、神さまの臨在を体験しました。それ以来、私は聖霊に導かれて歩んできました。でも最近、自分がどれほど主に喜ばれない生き方をしてきたかに気づかされ、もう一度真剣に神さまを求めたいと思っています。やはり、悔い改め続ける者だけが本物の信仰者ですよね。」 〇表面上のキリスト教用語 • 「イエスを信じて救われた」 • 「神の恵み」「聖霊に導かれて」 • 「悔い改め続ける」「主に喜ばれる」 〇神学的欺瞞の実際の内容 1. 決断主義:救いの根拠が「信じた日」「決断した瞬間」に置かれ、「神の選びと再生による救い」が語られていない。 2. 経験主義:涙や震えといった感覚的体験を、救いの証拠として持ち出しており、聖書的根拠ではなく体験の印象に依存している。 3. 自己吟味主義:「自分は十分に主に喜ばれていないのでは」といった不安が信仰の真偽を測る基準となっており、客観的な義認に根差していない。 【事例②:説教の締めくくりによくある表現】 「今、神の御霊があなたの心に語りかけているなら、それは救いの招きです。神はあなたを愛しておられます。あなたがイエスを信じると決断するなら、その信仰によってあなたは今日、救われます。」 表面上のキリスト教用語 • 「神の御霊」「信仰による救い」「神の愛」 〇神学的欺瞞の内実 1. 決断主義:救いの鍵が「あなたの今の決断」に置かれており、神の主権的再生・召しが語られていない 2. 経験主義:「御霊が語っていると“感じる”」という主観的印象が、救いの確証の根拠になっている。 3.形式的告白主義:信仰を「賛成すること」「告白すること」に矮小化し、キリストとの結合や罪の赦しの神学的実体を欠いている。 【構造的特徴と欺瞞の共通点】 1. 正しい言葉を用いながらも、意味が抜けている • 「信仰」「恵み」「聖霊」「義認」「悔い改め」などの語が用いられていても、それが神の側の主権的業としてではなく、人間の選択・感情・努力に置き換えられている。 2. 神中心ではなく人間中心の枠組み • 誰が主語かを見れば明らかである。改革派では「神が、キリストを通して、聖霊によって救いを施す」だが、これらの欺瞞事例では「私が決断した」「私が感じた」「私が従おうとした」となる。 3. キリストの客観的救済の事実ではなく、個人の内面の状態に焦点がある • 神の怒りからの贖罪、十字架の義認、キリストとの結合といった福音の中心が曖昧にされ、代わりに「自分の感情」や「行動」が強調される。 【改革派的に明確に拒絶すべきポイント】 • 救いの起源は「時空間の中での決断」ではなく、「神の永遠の選びと召し」にある(エペソ1:4、ローマ8:29)。 • 信仰は「人の意志の選択」ではなく、「再生の結果として与えられる賜物」である(ヨハネ3:5–8、ピリピ1:29)。 • 聖霊は「感じる」存在ではなく、「みことばを通してキリストを啓示する神」であり、私たちの感情ではなくキリストを真理によって指し示す方である(ヨハネ16:13–14)。 • 義認の確信は「自分の内面状態や行い」ではなく、「キリストの完成された御業とそれに結合しているという事実」に根差す(ローマ5:1、ガラテヤ2:16)。
- 「霊・魂・体」? ― 三部分説の誤りと、聖書が教える人間理解
「霊・魂・体」? ― 三部分説の誤りと、聖書が教える人間理解 2025年4月13日 おさらいですが 結合について先週、学びました。 「結合」とは、信仰によって、キリストと結合されることです。三位一体の神と結合されることです。 【結合とは】 ・人格をもって結ばれる ・キリストの血による新しい契約によって結ばれる ・有機的な関係に結び合わさる ⇒ そのいのちにあずかり、交わりに生きることを意味します。 夫婦 エペソ5、ぶどうの木と枝 ヨハネ15 結合とは神の御霊が私たちの魂が混ざり、神秘的な融合することではありません。 ― ヘブル4:12とローマ12:1–2を中心に ― 【今日のテーマ】 今日のメッセージのテーマは、神と結合する私たちは霊と魂、そして体という三つの部分でできているのか?」という問いです。 この教えは「三部分説(Trichotomy)」と呼ばれ、多くの霊的書籍やメッセージで取り上げられています。 一見、聖書的に見えるこの教えですが、実は多くの誤解と危険を含んでおり、霊的な高慢、神秘主義、教会の分裂を引き起こす要因となっています。 今日はこれを改革派の聖書理解(Reformed Biblical Anthropology)に基づいて丁寧に見ていきましょう。 【1. 聖書が語る「霊と魂」の関係 ― ヘブル4:12の意味】 ヘブル人への手紙4章12節です。 「神のことばは生きていて、力があり、どんな両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通し…」 この箇所をもとに、「霊と魂は明確に違うものだ」とする解釈がよくなされます。しかし、これは**詩的な強調表現(ヘブル詩のパラレリズム)**であって、教義的区別ではありません。 ●【用語解説】パラレリズム 旧約聖書によく見られる表現技法で、二つの似た要素を並列して、ある真理を強調します。 ここでは「魂と霊」と「関節と骨髄」が並べられ、神の御言葉がどれほど深く人の心を見抜くかを詩的に語っています。 霊と魂が「切り離される」と言っても、それは比喩的に「神のことばは見分けられないものすらも識別できる」という意味であって、 「人間は三つの構成要素から成っている」という教義を教えているわけではありません。 ルカ1:46、47のマリアの賛美はマリアの全人格を霊と、魂のパラレズム技法により表現しています。 ●霊と魂は「不可分(inseparable)」である 聖書は、霊と魂を詩的に霊と表現したり、魂と表現したりすることはあっても、本質的に別個の存在とは教えていません。 【用語解説】不可分(inseparable)とは? 「切り離すことができない」という意味です。 つまり、「霊」と「魂」は異なる機能や面を持っていても、一つの非物質的実体=人格の一部として分けることができないのです。 例えるならば、「知性」と「感情」は人間の中で異なる働きを持ちますが、それぞれが“別の存在”というわけではありません。 同じように、「霊と魂」は**機能的区別(functionally distinct)**はあっても、**本質的には分離不可能(ontologically indivisible)**です。 【神学的理由】 改革派の人間理解は「魂の単純性(simplicity of the soul)」を前提としています。これは、魂(または霊)は物質的に分けることができるパーツではなく、人格の不可分な中心であるという考えです 参考:ウェストミンスター信仰告白4章2節「神は、…不滅の魂を人に与えられ…」魂は“分割可能な構造”としてではなく、“全人格の座”として扱われます。 【2. 三部分説と二部分説の比較】 では、三部分説と改革派が採用する二部分説(Dichotomy)の違いを明確にしましょう。 項目 三部分説(Trichotomy) 二部分説(Dichotomy)=改革派 人間の構造 霊・魂・体 魂(または霊)・体 魂の定義 知性・感情・意志の領域 非物質的な全人格 霊の定義 神と交信する最深部の霊的器官 魂と同じ意味(詩的強調) 主要聖句 ヘブル4:12、1テサロニケ5:23 創世記2:7、マタイ10:28、ルカ1:46–47 問題点 誤解された構造により、階層主義や神秘主義が生まれる 全人格の一体性と単純性(simplicity)を守る 【3. 三部分説が生み出す霊的危険】 ● 危険1:聖書解釈の誤用 三部分説は、詩的・比喩的な聖句を「構造図」として用います。 これは聖書の文学的特徴を無視した乱暴な読み方です。 ● 危険2:霊的エリート主義の温床 三部分説の最大の問題は、「霊的クリスチャン vs 魂的・肉的クリスチャン」という二階層の信仰観(Two-Tier Christianity)を生み出すことです。 「霊的になれば、神と直接交信できる」 「魂や体に支配されていると、信仰が浅い」 このような発想は、ローマ8:9の「御霊が宿っていない者はキリストのものではない」という教えに反し、信仰者全体の一致を壊します。 · 三部分説は、ディスペンセーション主義の「霊的/肉的クリスチャン」という教理を正当化する“人間構造の枠組み”を提供し、主観的な霊的体験主義や階層的クリスチャン観を生み出すメカニズムとなりました。 ■ 構造の図解:三部分説 → 二階層クリスチャン → ディスペンセーション神学の応用 1. 【三部分説の前提】 人間の構造 主な特徴 霊(spirit) 神との直接交わりの場、再生される場所 魂(soul) 知・情・意、人格的機能、未熟で訓練が必要 体(body) 物質的、罪の影響を受けやすい → この構造により、「霊は新しくされていても、魂と体はまだ影響を受けている」とされます。 2. 【この考え方からつくられた「2種類のクリスチャンのグループ」】 種類 特徴 神学的応用 霊的クリスチャン 聖霊に従い霊主導で生きる、勝利的 第二の祝福、献身、完全信仰、霊的支配 肉的クリスチャン 救われてはいるが魂や体の支配下、未熟 自我中心、訓練不足、実を結ばない状態 3. 【ディスペンセーション神学における影響】 ■ チャールズ・レイリー(C.I. Scofield)とスコフィールド注解聖書 1コリント3:1–3に見られる「肉的クリスチャン」は、救われているが敗北しているクリスチャンと解釈。 この理解は三部分説を背景にしており、「霊は再生されているが魂が訓練されていない」と解釈される。 ■ ルイス・ペリー・シェイファー(Dallas Theological Seminary創設者) 著書『He That is Spiritual』で「3種類の人間」教理を展開: 未信仰者(natural man) 肉的クリスチャン(carnal man) 霊的クリスチャン(spiritual man) → これは三部分説の「霊(再生済)・魂(未成熟)」の区分がなければ成立しない構造。 4. 【現代のカリスマ・福音派にも残る形】 「聖霊に満たされていないと霊的ではない」 「異言がないなら第二の祝福を受けていない」 「あなたは肉的だから癒されない」などの発言 → これらすべてが、三部分説によって支えられた“段階的祝福論”や“階層的クリスチャン観”に依存。 ■ メカニズムまとめ:三部分説が生んだ霊的階層構造 ステップ 内容 結果 ① 人間を霊・魂・体に分割 霊だけが神と交わり、魂は不安定とされる 魂が「聖化の遅れの原因」とされる ② 「霊的支配」が成熟の基準に 魂や体を制御できる人が“霊的”とされる 経験主義・自己訓練主義へ ③ 霊的 vs 肉的クリスチャンの区別 再生はあるが、従っていない者は「肉的」 救われていても実を結ばない者とされる ④ 第二の祝福論・異言・癒し体験が「霊的」の証明に 特別な経験者が“上級クリスチャン”となる 分裂・自己義・教会内ヒエラルキーの温床 三部分説は、ディスペンセーション主義が「霊的 vs 肉的クリスチャン」という階層構造を正当化するための人間理解の枠組みを与えた。その構造のゆえに、主観的経験主義、第二の祝福思想、神秘主義、エリート主義へと非常に傾きやすい神学的土壌を作り出しています。 【4. 三部分説がつくる神秘主義】 三部分説に基づいた教えは、神との「直接交信」や「啓示・異言」などの主観的体験を強調する傾向があります。 このような神秘主義(Mysticism)は、神との交わりを「霊的感覚の深さ」として評価し、神の言葉に基づく信仰の歩みを破壊する危険があります。 以下、神学的・霊的な流れを体系的に説明します。 1. 三部分説の基本構造が「霊の領域」を特別な場所とする 領域 特徴(三部分説における) 問題点 霊 神と直接交わる場所/内なる聖所とされる 神との合一体験が「魂」や「知性」よりも上とされ、客観的真理より主観的霊的感覚が優先される 魂 感情・知性・意志などの人格的機能 知的理解や信仰告白よりも、「霊的体験」に劣るとされる 体 単なる器/地上的・動物的側面 「霊的なもの」への過度な傾斜が起こる この構造が霊的階層(spiritual hierarchy)を正当化し、 · 「あなたは魂的だからわかっていない」 · 「私の霊では神から啓示を受けた」 など、内的な啓示至上主義(inner light theology)を正当化する根拠になります。 2. 三部分説がつくる神秘主義のパターン 三部分説(人間=霊・魂・体)が神秘主義を発生させる仕組みは、その人間観と霊的成長の構造が、非聖書的な“内なる神体験”や“霊的エリート意識”を正当化する仕掛けになっているためです。以下、段階的に解説します。 部分 主な機能(とされる) 特徴的誤解 体 物質的存在 罪に最も汚染された部分 魂 知性・感情・意志など 自己の人格的活動の領域、しかし不完全 霊 神と交わる内なる最も深い部分 「神の臨在に直接触れる霊的チャネル」とされる ここで霊を「特別な神的領域」であるとしたところが神秘主義的思考の出発点です。 ■【展開】神秘主義を発生させる5ステップ構造 ① 「霊」は魂や体より 高次で純粋な部分とされる →「魂」は地上的、感情的で信仰には不十分 →「霊」こそ、神と直接交信するチャネルだとされる ② 「霊的クリスチャン vs 魂的クリスチャン」の二階層信仰が生まれる “霊的クリスチャン”だけが「本当の神の声」を聞けるとされる 経験的に神とつながる少数の“上級信仰者”が出現 → これが霊的エリート主義と階層的神秘主義へ ③ 「神の声」「啓示」「ビジョン」などの 直接的・個人的霊的体験が強調される 聖書的吟味より「感じた」「啓かれた」が優先される → 聖書の客観的真理より、内的霊的経験が神の語りかけとされる → これが内在神秘主義(inner light theology)やクワイエットリズムへ ④ 「霊の中で神と一体化する」思想へ傾く Watchman NeeやWitness Leeのように「霊と霊の混合」→神人合一 または、瞑想や沈黙により魂を抑え、霊の奥に神を体験しようとする傾向へ → 東洋神秘主義(ヨガ、禅)や中世カトリック神秘主義と酷似 ⑤ 結果: 客観的真理より主観的神体験が基準となる霊的危機 「私は神から直接聞いた」が最上位の霊的権威となる 教会的秩序、聖書の権威、信仰告白的枠組みが排除される → カルト・預言運動・超自然主義的教会分裂へ 以下のような危険な神秘主義が、三部分説の土壌から育ちます: パターン 内容 危険性 内なる霊との交信 自分の霊が神と交わり、「直接語りかけ」や「ビジョン」を受ける 啓示完結性(sola Scriptura)を否定する霊的独立主義 理性軽視・知性排除 「聖霊が語った」として、聖書的吟味を拒否 聖書に反する体験でも「霊的」と誤認される 霊魂の分離的修練 瞑想・沈黙・空っぽになることで「霊の領域」へ達しようとする 中世カトリック神秘主義や東洋神秘思想(仏教、グノーシス主義)と同様 合一主義 (ミスティックユニオン) 「神と私の霊が合わさった(混じり合った)」という異端的感覚 ウィットネス・リーのような混合(mingling)神学への入口 3. 歴史的な影響と異端の事例 教師・運動 どのように三部分説が神秘主義につながったか Watchman Nee(ニョウマン) 『霊・魂・体』で、魂を十字架につけ「霊的生活」へ達する過程を強調。→第二の経験・第二の祝福神学へ ウィットネス・リー 「霊の中の霊(mingled spirit)」という概念を導入し、神の霊と人の霊が混ざると教える カリスマ派の預言・異言運動 「魂では理解できないが、霊が受け取った」とする内的啓示重視の神秘的経験 グノーシス主義的霊性 「外なる魂や体は悪で、霊のみが善」という二元論に接続しやすい 4. 改革神学からの批判と信仰者への守り 改革神学は以下のように三部分説を否定し、神秘主義的傾向から信仰者を守ります: 改革派の主張 内容 人格の単一性 (魂の単純化) 人間は「魂(あるいは霊)と体」で構成され、魂=非物質的全体と理解 聖書のみ 啓示は聖書において完結しており、個人の霊的体験は吟味されるべき (1ヨハ4:1) 御言葉と聖霊の一致 聖霊は決して御言葉から逸脱して個人に啓示を与えることはない 全人格的な信仰 (全人的応答) 信仰とは霊の中の神秘体験ではなく、理性・感情・意志の全体がキリストに従うこと(マルコ12:30) 三部分説は、「霊の領域は特別で、他の部分とは異なる」とする構造を持つため; · 主観的啓示を正当化し、 · 聖書を超える霊的体験を求め、 · 最終的に「神との一体化」「内なる神」「自己の神格化」などの神秘主義・異端的思潮へと傾く危険が非常に高いです。 聖書的教義 内容 人格の単一性 (simplicity of the soul) 人間の魂は統合された非物質的実体であり、「霊・魂の分離」は詩的な強調にすぎない 聖書の全的権威 (sola Scriptura) 霊的体験ではなく、御言葉のみが啓示の基準 聖霊の働きと御言葉の一致 聖霊は必ず聖書に一致して働く。主観的啓示は吟味されるべき(1ヨハ4:1) 全人格的な信仰生活 霊だけでなく、魂(知性・感情・意志)と体すべてがキリストに服する(ロマ12:1–2) 三部分説は; · 「霊の領域が神との特別交信のチャネル」という構造を生み、 · 内面的霊的経験を真理の基準とする誤謬を育て、 · 結果的に神秘主義・霊的エリート主義・自己啓示信仰という異端的思潮を正当化する強力な温床となります、 【5. 改革神学が語る「人間の構造と信仰生活」】 改革派は、聖書の人間理解に基づいて、次のように教えます: ● 人間は「魂と体」で構成される(マタイ10:28) 魂は霊を含む非物質的な実体であり、「霊と魂」は本質的に同義的に用いられています(詩篇・ルカ1:46–47)。 「霊だけが神と交信できる」とする理解は、霊的優越意識と分裂を生み出します。 ● 聖化とは「全人格」の変革 ローマ12:1–2はこう命じます: 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖なる生きた供え物としてささげなさい…思いを新たにすることで自分を変えなさい」 ここで重要なのは、「霊だけが神と交わる」とは言っていない点です。 神は私たちの心・意志・思い・行動のすべてを変えてくださるのです。「全人格的聖化(Holistic Sanctification)」です。 【6. 信仰者への警告と励まし】 ● 三部分説のメッセージを聞いたことがある人へ もし「あなたはまだ魂的で、霊的になっていない」と言われたことがあるなら、それは聖書の教えではありません。 すべての信仰者は、信仰によってキリストと結び合わされ、聖霊がすでに内住しておられます(ローマ8:9)。 特別な「霊的ゾーン」に入る必要はありません。 【7. 結論:神が造られた人間は、霊魂体ではなく「人格の統一体」】 三部分説は; 神との交わりを神秘的霊的体験に限定し 信仰者の間に階層を生み 聖化のプロセスを分裂的に理解し 最終的には教会の一致を破壊します。 しかし聖書は語ります: 「私たちは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛する」(マルコ12:30) 私たちの全人格をもって、キリストに従いましょう。 キリストの恵みは、私たちの霊、魂、思い、体のすべてを、ひとつの人格として神にささげるように導きます。 【祈り】 「恵み深い天の父よ、 私たちの存在のすべてをあなたに捧げます。 霊だけではなく、私たちの心、感情、意志、そして体も、 キリストの似姿に変えてください。 真理のみことばによって私たちを守り、 主観的経験ではなく、御言葉の確かさに生きる信仰を与えてください。 主イエスの御名によって祈ります。アーメン。」
- 現代の「表面的福音主義」とは何か?
現代の「表面的福音主義」とは何か? このような偽の福音は福音の本質を語らない別の福音です。 表面的福音主義とは、 以下のような特徴を持つ現代の福音理解を指します: • 罪の深さを語らない: 人間の「芯まで腐っている」罪の本質を曖昧にし、「自己実現」「自己肯定感」といった心理的安心感を優先する。 • 決断主義に基づく救い: 「自分が信じると決めた」「従うと決心した」という人間の意志による信仰が強調され、神の主権的働きが見えなくなっている。 • 安価な恵み(cheap grace): 「信じれば救われる」とだけ言い、悔い改め・聖化・十字架を負う覚悟など、福音の本質的な代償を語らない。 • 「イエスはあなたを愛しています」だけの語り方: それ自体は真実でも、罪・裁き・悔い改め・十字架の必要性を語らず、薄められたメッセージとなっている。
- キリストとの結合と摂理 ― 救いのすべてがそこから始まる ―
キリストとの結合と摂理 ― 救いのすべてがそこから始まる ― 2025.7.6 礼拝メッセージ 「キリストとの結合」 1.キリストとの結合とは キリストとの結合(union with Christ)とは、神が選んだ者をキリストと霊的に結び合わせることです。この結合のうちで、私たちは「キリストにある者」とされ、そこから再生・信仰・義認・聖化・栄化といった救いのすべての恵みを受けるのです。 この結合を、3つの側面で理解します。 全人格的 :真の信仰者の思い・感情・意志・存在すべてがキリストと結びづけられ、その思い・感情・意志・存在すべてはいつもキリストの影響を受けていきます。 契約的 :永遠の約束です。神は永遠の救いを約束として信仰者に与えました。それはキリストと信仰者が約束によって結合しているからです。 有機的 :ぶどうの木と枝のように、キリストに絶えず依存して生かされていると言う霊的事実の結合です。 結合は神のご意思により行われます。救いのすべては神の贈り物です。 感覚的、神秘的に「キリストのいのちが信仰者に流れ込み、混ざり合い、一体となる」という神と被造物の区別を消し去るような神秘主義的考え、教えは異端です。信仰者はキリストによって養子縁組をされて神の子とされると聖書は教えています。(エペソ1:5他) 創造主である神と、被造物が本質的に1つになる言う教えは聖書の教えと反しています。創造主と被造物は区別され、その立場は永遠に変わりません! 創造主である神と被造物である信仰者は全く違う本質であり、その区別にありながら、永遠に神と結合されてます。 2.「キリストにあって」「キリストと共に」「キリストがうちに」―― 新約聖書には300回以上、「キリストにあって(in Christ)」または同義の表現が使われています。救いの中心はキリストとの結合にあります。 <すべてキリストとの結合を表している言葉> in Christ(キリストにあって) キリストのとの結合にあって with Christ(キリストと共に) キリストとの結合と共に through Christ(キリストを通して) キリストとの結合を通して Christ in you(キリストがあなたのうちに) キリストとの結合があなたのうちに これらはすべて、信者がキリストと霊的に結び合わされている状態(union with Christ)を表す表現です。すべての神の御業はキリストとの結合から始まっています。 3.結合のゆえに、キリストとともに死に、ともによみがえった この結合の結果、信者はキリストの死と復活にあずかる者とされます。 エペソ2:5–6はこう語ります。結合によってキリストの十字架の死と復活は信仰者の実際となります。 「…キリストと共によみがえらせ、キリスト・イエスにおいて共に天の所に座らせてくださいました。」 神の御前では霊的にキリストと結ばれているがゆえに、私たちの死と復活、天上での祝福も実現されている。 同様にローマ6:5: 「もし私たちが、キリストの死の様と結ばれているのなら、その復活の様とも結ばれることになるのです。」 4.「キリストがあなたがたのうちにおられる」の意味? 「Christ in you」(キリストがあなたがたのうちにおられる)という表現は、神の本質そのものが信者のうちに直接宿るという意味ではありません。それは、キリストと信者が聖霊によって霊的・契約的に結合されているという霊的現実を意味しています。 【カリスマ・神秘主義的な間違った教え】 [神の本質]+[信仰者の本質]= 混合・融合 つまり、「一体化」して「神になる」。 ⚫︎ 神と被造物の境界が消えている ⚫︎ ヒンズー教・東方神秘主義・ニューエイジ思想・一部カリスマ神学に見られる ⚫︎ RCスプロール、カルヴァン、マレーらはこれを異端とみなす 【誤った理解:火と鉄の融合】 鉄を火に入れて赤くなると、火と鉄が混ざってどちらがどちらかわからなくなるように思える。こういう考えは「本質的同一化」のイメージに近い。 「神の霊が人に流れ込み、一体となる」 「自分が神になる」という神格化・神化の思想に通じる。 ➡ これは異端的な神秘主義。被造物と創造主の区別が崩壊。 【聖書に基づく教え】 RCスプロールはこう説明します― R.C. Sproul, "Union with Christ": “When the Bible says, ‘Christ in you, the hope of glory,’ it is not saying that the divine essence is distributed spatially into each Christian. Rather, it teaches that believers are united to Christ by the Holy Spirit. That union is real, vital, and spiritual.” <訳>神は確かに私たちの内におられますが、それは「神と一体になる」という意味ではなく、聖霊によってキリストと結ばれているという意味です。神と私たちは永遠に創造主と被造物の関係を保ったまま、真に、命と霊によって結合しています。 [神(三位一体の創造主)] ↓(聖霊によって) 【キリストとの結合(キリストの霊的な臨在】 ↓聖霊を通して信者のうちに ↓キリストご自身が臨在 [信仰者(被造物)] ⚫︎ 神と人の区別は保たれる ⚫︎ 信仰者はキリストに霊的・契約的に結ばれている(ヨハネ14:23) ⚫︎ 三位一体の神は信仰者の内に臨在し、住まわれる(1コリント6:19) 【正統的理解:ろうそくの光の臨在】 ろうそくを部屋に灯すと、部屋は光に満たされるけれど、壁や空気が「光そのもの」になるわけではありません。 神の臨在とは、その栄光と交わりが信者のうちに本当に届いている状態です。でも信者は「神の一部」になったわけではなく、神と交わっている被造物のままです。➡ これが「臨在」「霊的結合」「人格的交わり」 旧約と新約における「神の臨在」の連続性 旧約:幕屋に宿られた神の臨在 ― シャカイナ・グローリー 「それから、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(出エジプト記40:34) 幕屋(タバナクル)はイスラエルのただ中に置かれ、神がご自身の民の間に臨在されるしるしでした。 神の臨在は目に見えるかたち(雲と火)で現され、それが後に「シャカイナ・グローリー(栄光の臨在)」と呼ばれるようになります。 新約:信仰者のからだが神の宮(temple)とされる 「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる聖霊の宮であり、神から受けたものであり、自分自身のものではないことを知らないのですか。」(1コリント6:19) 神の民(教会)だけでなく、信仰者一人ひとりが「神の宮」とされています。神は、聖霊を通して信者のうちにキリストご自身の霊的な臨在を実現させます。 比較:幕屋と信者のうちなる神の臨在 旧約:幕屋 新約:信者の内なる臨在 神が幕屋に栄光の雲として臨在された(出40:34) 神が信仰者の内に聖霊として住む(1コリ6:19) 民のただ中に神が住む象徴的中心 信仰者一人ひとりの内に神が住まう霊的実在 目に見えるシャカイナ・グローリー 霊的で見えないが、真にリアルな結合と臨在 年に一度だけ大祭司が神の前に出られた 常にキリストによって神の御前に大胆に近づける 旧約時代、神は幕屋に臨在し、ご自身の栄光を雲と火で表されました。それがシャカイナ・グローリー(神の臨在の栄光)です。 しかし今、イエス・キリストによって贖われた信仰者には、聖霊を通して三位一体の神ご自身が住まわれています。あなたは神の宮です。 そのうちにおられるのは、シャカイナ・グローリーではなく、それを超える本物の臨在=聖霊を通して実現されるキリストの臨在なのです。 キリストがうちにおられることを理解する まとめ 旧約において、神の臨在は幕屋を満たしたシャカイナ・グローリーとして現れた。新約においては、神の臨在は信者のうちに霊的かつ契約的に宿られ、キリストとの結合を通して真に実現されている。 この恵みは、贖われた者にのみ与えられた、永遠に変わらない住まいである(ヨハネ14:23)。 5.結合の中にすべての救いがある このように、キリストとの結合の中にこそ、 再生(新しく生まれる) 信仰(キリストを信じる力) 義認(義とされる) 聖化(主に似せられる) 栄化(最終的に栄光に変えられる) という、救いのすべての段階が与えられているのです。 6. 聖書全体が結合の真理を土台とする 福音は、「キリストにある」者たちに与えられた神の恵みの宣言です。 「キリストにあって」「キリストと共に」「キリストがうちにおられる」という表現のすべてが、 信者とキリストが、創造主と被造物の区別を保ったまま、霊的に結ばれているという事実に立脚しています。 この結合があるからこそ、私たちは死に、よみがえり、天に座しているのです。 (エペソ2:6) 結合は私たちの信仰生活に大きな変化をもたらす 結合と神の摂理― そして私たちの人生におけるその慰め 私たちは時に、神がなさることに戸惑いを覚えます。なぜこうなったのか、なぜ今なのか、なぜこの人なのか――そうした問いに明確な答えが与えられないまま、ただ神により頼むしかない時があります。 使徒パウロはローマ11:33でこう語りました。 「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。そのさばきは究めがたく、その道はきわめがたい。」 神のなさることが理解できない時。悲劇に見舞われる時、思いがけぬ喜びに驚かされる時、悲しみに押しつぶされそうな時、答えが見つからない時、そして不安に悩み、ただ信仰に踏みとどまるしかない時。そんなときこそ、私たちはキリストにより頼み、神の摂理に信頼します。 「摂理」 1.摂理とは何か? 神の摂理とは、神がその主権によって、万物を支配し、出来事・意志・状況をすべて用いて、御心どおりに計画を成し遂げられる支配の知恵です。これは一時的な奇跡以上に深く、持続的に歴史を通して今も日々、私たちの生活のなかで続く驚異的な神の働きです。 ローマ8:28にはこうあります。 「神を愛する人たち、すなわちご計画に従って召された人たちには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 この「益」とは、29節に明確にされます。 「神はあらかじめ知っておられた人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」 すなわち、神の摂理の目的は、選ばれた者がキリストに似た者とされることにあります。 2.キリストの埋葬における摂理の成就 この摂理の真理は、キリストの死と埋葬という人間的には最も暗い出来事の中にさえ、驚くほど明瞭に現れています。 ローマ兵士たちの無意識の行動 ヨハネ19章では、兵士たちがイエスの脚を折らず、槍で脇腹を突き刺したことが記録されています。彼らは預言など知りません。ただ命令に従って動いていたのです。 しかしそれによって、 •「彼の骨は一本も砕かれない」(出エジプト12:46、詩篇34:20) •「彼らは突き刺した方を見る」(ゼカリヤ12:10) という預言が正確に成就したのです。 これはまさに、神が人間の意志さえ用いて御心を成し遂げられる摂理の証です。 アリマタヤのヨセフとニコデモ ― 信者の行動にも摂理が働く マタイ27章。アリマタヤのヨセフは、ユダヤ議会の議員でありながら、密かにイエスの弟子でした。イエスが死なれたとき、彼は勇気を出してピラトに願い出て、遺体を自分の墓に葬ります。同時に、ヨハネ3章のニコデモも現れ、香料を持ち寄って主の遺体を丁寧に包みます。 これにより、 •イザヤ53:9「彼の墓は富む者と共に設けられた」 •マタイ12:40「三日目によみがえる」 という預言が正確に成就する時間と方法が備えられました。 信仰者はこの世における名誉、地位の破滅を覚悟して行う勇気ある行動をしましたが、それもまた神の摂理によって整えられ、預言の成就に正確に用いられていたのです。 敵対者たちの策略さえ神の手の中に マタイ27章。祭司長たちは「弟子たちが遺体を盗んだと主張するかもしれない」と言って、墓に封印をし、番兵を置きました。 これは不信仰から出た行為でした。 しかしそれが結果として、イエスの復活の証拠を明確にするために用いられました。敵意さえも、神の計画からは一歩もはみ出すことはできません。 3.そして、私たちの人生においても キリストの死と埋葬において摂理が完全に働いていたように、今、私たちの人生のすべてにも、同じ摂理が絶え間なく働いています。 私たちは、自分の置かれている状況が理解できないとき、苦しみの意味が見えないときも、そうでない時も、ただ信仰にとどまり、主を仰ぎ見て(みことばを豊かに自分の内に住まわせ)歩むように命令されています。 しかしその試練、すべての出来事が、キリストにある者にとても深い意味を持ちます。神は、キリストとの結合のうちにある者に対して、あらゆることを益に変えてくださるのです。 4.キリストとの結合 ― 摂理の慰めの根源 旧約時代、大祭司だけが年に一度、幕を越えて至聖所に入ることが許されていました。しかし今や、キリストご自身がその幕を裂き、ご自身の死と復活によって神の御前への道を開かれました。そして今、キリストにある者は、その結合によってすでに霊的に神の御前にあり、永遠のいのちと確かな将来に結びつけられてます。 「この希望は、私たちのたましいのための、安全で確かな錨(いかり)のようなものであり、それは天にある神の臨在の奥深くにまで届いているのです。」(ヘブル6:19) この魂の錨(いかり)――それはキリストとの結合という霊的現実(臨在)にあります。 それゆえ、どんな嵐の中でも、このキリストとの結合は断ち切られることがなく、 神の摂理はキリストとの結合(臨在)を通して確かな慰めと希望と変わります。 「結びに」 イザヤ46:10はこう語ります。「わたしのはかりごとは成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる。」 この主が、キリストの死と埋葬を支配された方です。同じ主が、あなたの人生をも、今も変わらず御手の中で支配しておられます。 たとえ今は先が見えなくても――ヤコブがかつてこう叫んだように: 「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」(創世記28:16) この叫びも、信仰者の心からの叫びです。 摂理の中にあっても、私たちはしばしば見失い、泣き、疑い、それでも主にとどまろうとします。 だからこそ―― キリストと結合している者は、神の摂理にすがり、見えなくても、知らなくても神に信頼して、歩むのです。
- 自由ってなに?-罪人と神
2025.6.24 The Word for you 自由ってなに?-罪人と神 「人権が保証された自由な国に住んでいる人間でも自由なのに自由じゃない」 3:12) みなさんこんばんは? 今日は「自由意志」ってなんだろう?ということを、聖書から一緒に考えてみましょう。 私たちがよく言う「自由」とは、「自分で選べること」、自分で決めることだと思っていませんか? たとえば、今日のお昼ご飯を選んだとき、「カレーにしようか、ラーメンにしようか」と考えて、自分で決めたとします。 普通、「私は自由に選んだ」と思います。ラーメンやカレーは自分の体の欲求によって選ばれています。 でも、聖書が教える人間の自由はもっと深く、重要な問題があると教えています。それは、私たちが「自由に選んだ」と思っているその選択は、実は心の中の「欲望」よって決まっているからです。 1. 選択、決定には必ず理由がある 人がある事を選ぶとき、その選択には何かしらの理由や動機があります。 「なんとなく」というのも、実はその人の性格や気分、過去の経験などが関係しています。 つまり、まったく理由も動機もない「純粋な自由な選択」なんてものは、現実には存在しません。 2. 問題は、心が神を望んでいないこと 聖書は「人はみな罪を犯した」と教えます。人の心は、本当の神に従いたいという思いをもたない状態にあると聖書は言います。 だから、人は「自由意思に」まことの神を拒み、「自由意思で」罪を犯しているのです。神を信じない人は、神を信じる能力がありません。それはすべての人を指しています。 3. 人は一番強い欲望に従って選ぶ ジョナサン・エドワーズと言う牧師は、「人は常に、ある瞬間に最も強い欲望に従って選ぶ」と言いました。 これはとてもシンプルですが、とても真実な仕組みです。 たとえば、ある人が罪を犯したとき、その瞬間に「罪を犯したい」という気持ちが、他のどんな気持ちよりも強かったということです。 4. 神を選びたくなるには「新しい心」が必要 罪人がキリストを信じ、従うには、「神を信じたい」という願いが心の中に生まれる必要があります。 しかし、人は自分ではその願いを生み出せません。能力がもともとないのです。だからこそ、神の恵みによって、心そのものが新しくされなければならないのです。 5. 自由とは、「神を選べること」 人は自分の心に従って自由に選んでいます。問題は、その心が神を望む能力がないということです。聖書でこの状態を死んでいると表現します。 人間は自由意志を持っていますが、その意志は堕落しており、神を選ぶことは決してしません。すべて人は罪の中で死んでいると聖書は言います。 6. 神からの贈り物 神の方から私たちの心を変えてくださるとき、初めて私たちは「自分の意思で」神を選ぶようになります。 罪の中で死んでいる人の側から神に近づくことはできません。 これは人間の選択や意思によるのではなく、神の憐れみによるによる働きです。私たちが自分が本当に心から罪深いものであり。真の神に助けを求める原因は100%神から始まるのです。 終わりに 人間の自由意志は、自分の心の欲望、罪の性質に従って動いています。その罪の性質は、アダム以来、すべての人間にあります。だからこそ、神の救いは「新しい心」を与えることから始まります。 神を選べるようになるのは、神が私たちの心に働いてくださるからです。良いことしたからではありません。イエスキリストからの贈り物です。真の神、イエスキリストです。
- 思い煩わず、恐れずに生きるには?
〜神さまがすべてを養ってくださる〜 1. はじめに:なぜそんなに心配するの? みんなは「将来が不安だな」と思ったことある? たとえば… • 「テスト大丈夫かな」 • 「友だちとうまくやれるかな」 • 「病気になったらどうしよう」 って思ったことない? 実は、イエス様は聖書で何度もこう言っています。 「思い煩うな(心配しなくていい)、恐れるな」 でも、心配や不安って勝手に心の中で大きくなる。 それはまるで「心を締めつけるロープ」みたいなんだ。 2. 心配ってどこから来るの? • 心配や恐れって、たいてい「未来」にあるんだ。 • たとえば、「明日どうなるんだろう?」って考えすぎて眠れないこともある。 • でも、過ぎた昨日のことをずっと心配する人はいないよね? つまり、「まだ起こってないこと」を勝手に大きく不安に思っている。 3. 鳥のこと、考えたことある? イエス様はこう言ったんだ: 「空の鳥を見なさい。種まきもせず、倉にしまいもせず、でも神が養ってくださる。」 鳥は毎日、朝から晩までえさを探してがんばってる。 でも、自分で畑を耕したり、パンを作ったりはしないよね。 でもね、神さまがちゃんと鳥たちに食べ物を与えているんだよ。 じゃあ、神さまにとって大切な存在である私たちに、 神が必要なものを与えてくださらないはずがある? 4. 神さまがあなたを支えている • 聖書は言っている:「神は、あなたの必要を知っておられる。」 つまり、食べ物、服、住むところ、将来…すべて神さまが備えてくださるんだ。 もちろん、私たちもちゃんと努力して生活することは大切。 でも、それで足りないとき、私たちの天の父が助けてくださる。 5. なぜ私たちは生きているのか? 私たちは「ただ生き延びるため」だけに生まれてきたんじゃない。 神さまは、わたしたちを神の栄光のために造り、計画を持って生かしてくださっている。 だからこう考えてみよう: • 神が命を与え、 • 神が目的を持ち、 • 神が支え、 • 神が天国に導いてくださる。 それなら、「将来どうなるんだろう…」と心配しなくても、 「神さまがちゃんと見ていて、守ってくれる」 って信じていいんだよ。 6. まとめ:神に信頼する生活 • 思い煩いは、私たちの心を縛り、力を奪う。 • でも、神を信頼することで平安が与えられる。 • 聖書はこう約束してる: 「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5:7) 最後に… 神さまは、テレビ見ながら寝ている鳥じゃなくて、一生懸命生きる鳥をちゃんと養ってくださってる。 あなたも、神さまの目的の中で大切な存在。だから、心配しすぎないで、信頼して生きよう。 神さまがちゃんと、必要なものを備えてくださるから!
- 人間ってどういうふうに出来てるの?
2025年4月15日 みことばをあなたに 【はじめに】 みんなは、自分のことを考えるとき、どんなふうに分けて考えるかな? 「わたしの体」「わたしの気もち」「わたしの考え」…そういうのあるよね。 ある人たちは、「人間は、3つの部分でできている!」って言うんだ。 それは、 • 「霊(れい)」=神さまとつながるところ • 「魂(たましい)」=気もちや考え • 「体(からだ)」=目や手や足のような物の部分 でも、ほんとうに聖書はそう言ってるのかな? きょうは、そのことを、いっしょに見ていこう! 【1. 聖書が言う“人のつくり”は?】 ある人は、こう言います。 「霊はすごく大事。魂や体より上なんだよ」 「霊で神さまと話せるけど、魂はまちがえるからダメなんだ」 でも、聖書はそう言ってないよ。 聖書に出てくる「霊」と「魂」は、ときどきちがう言い方だけど、同じように大事なんだ。 たとえば「心をつくして神さまを愛しなさい」って言うとき、 • 心=気もち • 思い=考え • 力=体の力 ぜんぶいっしょにして「人まるごとで愛しなさい」ってことなんだ。 【2. ヘブル4:12 ― 霊と魂って、切りはなせる?】 ヘブル4:12っていう聖書のことばにはこう書いてあるよ: 「神のことばは生きていて力があり、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでにさし通し…」 これは、「霊と魂をほんとうに分ける」って意味じゃないよ。 たとえば… • 「関節と骨髄(こつずい)」…これは体の中でとっても近くて、見分けにくい部分。 • 「霊と魂」…これも、ものすごく近くて、ふつうには見分けられないもの。 神さまのことばは、それくらい深くて、心の中までわかってしまうっていう、たとえ話なんだ。 だから、「霊と魂はまったくちがうものです!」って教えるのは、聖書のつかい方のまちがいなんだ。 【3. 「3つの部分」はどんな危険があるの?】 この「人間は霊・魂・体の3つです!」っていう考えは、いろんなこわいまちがいを生むことがあるよ。 (1) まちがったグループ分け • 「あの人は“霊的”だからすごい!」 • 「この人は“魂的”だからまだまだ」 こんなふうに、人をくらべて上下をつけちゃう。 でも神さまは、すべてのクリスチャンに同じように聖霊(せいれい)をあたえてくださるんだよ!(ローマ8:9) (2) 「神さまは霊で話すから、感じるのが大事」? こういう人もいる: 「神さまがわたしの霊に話しかけてくれた!聖書は関係ない!」 でもこれはキケン! 神さまは、聖書のことばで、はっきりと語ってくださるんだよ。 「なんとなく感じた」だけでは、ほんとうのことはわからないよね? (3) 「体や魂はダメで、霊だけがすごい」? これは、**グノーシス主義(ぐのーしすしゅぎ)**っていうむかしのまちがいと似てるよ。 「体は悪い。霊こそすべて」 でも、神さまは、体も魂もぜんぶ大切にしておられる! 【4. ほんとうの聖書の教え】 聖書はこう教えてるよ: • 人間は、「魂と体」からできている。 • 魂には、気もちも考えも心もある。 • 神さまは、人まるごとを愛してくださって、まるごと救ってくださる。 ローマ12:1–2ではこう言ってるよ: 「自分の体をささげなさい。それがほんとうの礼拝です。心を新しく変えていただきなさい。」 つまり、**体も心もぜんぶ使って神さまに従おう!**ってことなんだ。 【5. まとめ】 まとめるとね―― • 聖書は、人を「霊・魂・体」にわけて教えていないよ。 • 神さまは、人の心も体もぜんぶ大切にして、救ってくださるんだ。 • 「わたしの霊だけが神さまとつながってる!」というのは、あぶない考え方。 • 神さまは、あなたのすべてといっしょに歩んでくださる。 【最後にひとこと】 むずかしい教えにまどわされないでね。 イエスさまを信じているあなたは、心も、体も、まるごと神さまのものです!
- ゆるすって、どういうこと?
「ゆるすって、どういうこと?」――イエスさまとつながる者としての歩み 【はじめに】 みなさん、「ゆるす」って難しいと思ったことはありますか? 友だちにひどいことをされたとき、「ぜったいにゆるせない!」と思ったことがあるかもしれません。でも、聖書はこう言っています。 「神さまがあなたをゆるしてくださったように、あなたも人をゆるしなさい」(エペソ4:32) 今日は、「ゆるすこと」について、イエスさまを信じるわたしたちにとってどれだけ大切かをいっしょに学んでみましょう。 【1. 神さまが先にわたしたちをゆるしてくださった】 いちばん大切なのは、神さまが、何の資格もないわたしたちを、イエスさまの十字架によって先にゆるしてくださったということです。 わたしたちは神さまの言うことを聞かず、うそをついたり、人をにくんだり、自分勝手に生きてきました。でも、神さまはそんなわたしたちを、イエスさまの十字架の死と復活によってゆるしてくださったのです。 これが「福音」です。 福音とは、「わたしがよい人だったからではなく、神さまが一方的に愛してくださった」という知らせです。 【2. ゆるすことは、福音を信じているあかし】 RCスプロール先生はこう言いました。 「神さまの赦しをほんとうに知っている人は、ゆるす人に変えられていく。」 イエスさまのゆるしを信じているなら、その人の心も少しずつ変えられて、ゆるす心があらわれていきます。これは、「よい人になろう」とがんばることではなく、聖霊がくださる力によって起こることです。 【3. ゆるせないままでいるときの危険】 でも、「あの人だけはゆるせない!」と何年も思い続けていたらどうでしょうか? イエスさまはこう言いました。 「人の罪をゆるさないなら、天の父もあなたをゆるしてくださらない」(マタイ6:15) これはとても大事な警告です。 「ゆるさない心」は、神さまのゆるしをほんとうにはわかっていないことのあらわれかもしれないよ、と教えてくれているのです。 【4. ゆるせない人との出会いも、神さまのご計画】 「どうしてもあの人だけはゆるせない」と思うことがあるかもしれません。でも、その人があなたの人生に現れたのは、偶然ではありません。 聖書は、神さまがすべてを支配しておられると教えています。つまり、あなたの人生に起こるすべてのことは、神さまのご計画(摂理)の中にあるのです。だから、「ゆるせない」と感じるその人との出会いも、神さまがあなたに与えた試練なのです。この試練を通して、神さまはあなたの信仰を成長させ、御霊の実を結ばせようとしておられます。これは、神さまがあなたを愛しておられるからこそ与えられた、特別な訓練なのです。 【5. わたしたちはキリストの枝 ヨハネ15章】 イエスさまは、ヨハネ15章でこう言いました。 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です。」 イエスさまは木の幹(みき)、わたしたちはそこにつながる枝。 枝は幹から栄養をもらって、**実(=ゆるしや愛)を結びます。 「イエスさまとつながっている」と言いながら、全く実を結ばない枝は、おかしいのです。 本当の枝は、かならず少しずつ実をつけていくからです。 【6. 「キリストとつながってる」と言いながら、ゆるせない?】 「わたしはイエスさまとつながっている」と言っている人が、何年もゆるせないでいるなら―それは、まるでぶどうの枝が枯れて、実を結ばないままになっているようなものです。 RCスプロール先生も言いました。 「キリストと結びついているなら、赦しは実を結ぶはずだ。」 だから、ゆるさないままでいるとき、それは「ほんとうにイエスさまとつながっているのか」がためされているのです。 【7. ゆるすって、どうやるの?】 ゆるすことは、自分の力だけではできません。だから、まずこう祈ってください。 「神さま、ゆるせないわたしの心を変えてください」 そして、神さまの助けを求めながら、一歩をふみ出してみましょう。電話でも、LINEでも、手紙でも、あるいは静かに「ごめんね」と言うだけでもいいんです。
- 迷子の羊と神さまの愛 ― 本当に私たちを見つけ出してくれるのはだれ?
2025.4.18 みことばをあなたに みなさん、こんにちは。 今日はイエスさまが語られた有名なお話、「迷子の羊のたとえ」を見てみましょう。 ある羊飼いがいました。羊が100匹いました。でもそのうちの1匹がいなくなってしまいました。 どうしたと思いますか? 羊飼いは、そのたった1匹の羊を探しに出かけたんです!見つけたときには、大喜びして肩にかついで家に戻ったと書かれています。 イエスさまはこう言われました。 「たった1人の罪人が神さまに立ち返るとき、天では大きな喜びがある」と。 【神さまは私たちを大切にしておられる】 このお話の中の羊飼いはイエスさまを表しています。 そして、迷子の羊は私たちです。 私たちも、神さまからはなれて、自分勝手な道を歩くことがあります。 でも、イエスさまはそんな私たちを探しに来てくださるんです。 【神さまの愛はどんな人にも向けられている?】 ここで、2つの考え方を紹介します。でも、むずかしくないように説明するね。 【聖書に忠実でなく自分の力に頼る人々】 このような人々は次のように考えます: • 神さまはみんなを探しておられる。 • でも、見つかった羊が神さまに「ついていきます!」って自分で決めなきゃいけない。 • だから、信じるかどうかは自分次第なんです。 • そして、一度信じた人でも、神さまから離れてしまうことがあると考えます。 わかりやすく言うと… 神さまの愛はあるけど、それを受け取るかどうかは自分の心しだい!ってこと。 【聖書に忠実な理解】 • 神さまは自分の羊を最初から知っていて、選んでくださっている。 • 神さまは、羊がどこに行ってもかならず見つけ出してくださる。 • その羊は、もう神さまから離れることはない! • なぜなら、救いは神さまの力で始まり、神さまの力で最後まで守られるから。 つまり… 神さまが絶対に見捨てないし、ちゃんと連れ戻してくれる! 【じゃあ、わたしたちはどうしたらいいの】 一番大事なことはこれです。 イエスさまは、私たちの罪のためにご自分のいのちを捧げてくださいました。 それは、迷子になった羊を命がけで助けたと言うことです。あなたが迷っても、神さまはあなたを決して見捨てません。 あなたのことを知っていて、選んでくださり、必ず見つけてくださるんです。だから、「わたし、神さまのもとに帰りたい」と思ったら、 それは神さまがあなたをすでに見つけてくださっているということです! イエスさまの愛は本当に力強くて、確実な愛です。「わたしの羊は、決して滅びない」と言ってくださるこの約束は、 私たちに本当の安心を与えてくれます。神さまが私たちを探し、見つけ、救ってくださることを感謝します。このような祈りが自分のうちに現れます。どんなに迷っても神の愛が私たちを守ってくださいます。
- 信仰義認―わかっただけじゃ救われない―救いの中心とは?
みなさん、こんにちは。 今日、とても大事なことを一緒に学びます。それは、「イエスさまのことを知っているだけでは救われない」「救いの中心は、自分が芯まで腐っていることを神に悟らされること」ということです。 聖書にはこう書かれています。 「あなたは神は唯一だと信じています。それは結構なことです。しかし、悪霊どもも信じて震え上がっています。」(ヤコブ2:19) 悪霊も、神さまがいることを知っています。でも、悪霊は救われていません。 なぜでしょう?今日、その本当の理由と、救いの本当の始まりを学びます。 聖書では、「信じる」という言葉はギリシャ語でピステウオーといいます。でも、この言葉には使い方に2つの意味があります。一つは事実として知っているだけ(知識レベル)、もう一つは心から信頼して、すべてをゆだねる(信頼レベル)という意味です。単語は同じでも、意味は天と地ほど違うのです。 ヤコブ2:19で語られている悪霊たちは、神がいることを知っていて、イエスさまが神であることを事実として認めています。でも、愛していない、従っていない、信頼していない。だから震え上がるだけで、救われないのです。 一方、聖書はこう言います。「人は律法の行いによってではなく、信仰によって義と認められる。」(ローマ3:28)ここでの信仰は、イエスさまに心からより頼み、自分ではなくイエスさまに全てを委ねる信仰です。これが救われる信仰です。 そして、救われる信仰さえ、自分では作り出せません。私たちは、外側だけでなく、心の奥の奥まで、芯まで腐りきっています。「心は何よりも陰険で、それは治らない。誰がそれを知り尽くすことができようか。」(エレミヤ17:9)だから、自分が腐っていることを認める心さえ、神に与えてもらわなければならないのです。 たとえば、大けがをして倒れている人が、「自分は大丈夫だ」と言い張ったら、救急車に乗ることも、治療を受けることもできません。でも、自分が助けが必要だと認めた人だけが、救急車に乗せられ、救われるのです。 救いも同じです。「自分は大丈夫」「ちょっと頑張ればいい」と思っている間は救われません。「私は芯まで腐っている」「自分ではどうにもできない」――これを認めさせるのは、神の働きです。 まとめます。悪霊も神を知っているが、救われない。知っているだけではだめ。心から信頼してゆだねることが必要。でもそれも、自分の力ではできない。神が心を砕き、自分の腐敗を悟らせてくださる。 だから私たちがするべきことは、こう祈ることです。 神さま、私がどれほど腐っているかを悟らせてください。私に砕かれた心を与えてください。 この祈りこそ、神に引き寄せられているしるしです。救いは、あなたのがんばりではなく、神のあわれみで始まります。 主よ、私に「自分が芯まで腐っている」ことを悟らせてください。あなたのあわれみにすがります。私を救ってください。アーメン。
- 良いサマリア人のたとえ(ルカ 10:25-37)
* たとえ話の概要 • 背景:ある律法学者がイエスに「永遠の命を得るにはどうすればよいか?」と質問しました。 • イエスの問い:「律法には何と書いてあるか?」 • 彼は「神を愛し、隣人を愛せよ」と答えました。 • 律法学者の次の質問:「では、私の隣人とは誰ですか?」 *イエスのたとえ話: • あるユダヤ人が強盗に襲われ、道端に倒れていた。 • 祭司とレビ人(宗教指導者)は彼を見ても助けなかった。 • サマリア人(ユダヤ人と敵対していた民族)が彼を助け、宿屋に連れて行き、治療費を支払った。 • イエスは「この三人のうち、誰が隣人となったか?」と尋ねた。 • 律法学者は「憐れみを示した者です」と答え、イエスは「あなたも同じようにしなさい」と言われた。 *解説 良いサマリア人のたとえ(ルカ 10:25-37)を、アルミニウス主義と聖書の視点で解釈し、愛の行いと 救いの関係を比較してみましょう。 1. アルミニウス主義の視点は 行いは信仰の証 アルミニウス主義は、人間の自由意志と責任を強調し、神の恵みが万人に提供され、それを受け取るかどうかは人間の選択に委ねられていると考えます。この立場からすると、良いサマリア人のたとえは次のように理解できます。 アルミニウス主義にとって自由意志、自分でがんばって信じる信仰の証が行いです。 • 「隣人を愛する」ことは、神の命令に対する自分の信じると決めて信じた信仰による応答である • イエスは律法の専門家に「何をすれば永遠のいのちを得られますか?」と問われ、「律法を守ること」を強調されました(ルカ 10:27-28)。 • アルミニウス主義では、人間には神の呼びかけに応答する責任があるため、隣人愛の実践は重要な証しとなります。 • ただし、行い自体が救いを獲得する手段ではなく、がんばって信仰を持つ者は愛の行いを実践するよう導かれると考えます(ヤコブ 2:17)。行いは信仰の証 • 「普遍的恩恵(Prevenient Grace)」と愛の行い • アルミニウス主義では、神の恵みは万人に提供され、信じるかどうかは個々の選択に委ねられています。 • サマリア人は、律法に縛られた祭司やレビ人とは異なり、慈愛の心を持って行動しました。 • これは、神の恵みがユダヤ人だけでなく異邦人にも及んでいることを示唆し、誰もが神の愛に応える可能性を持っていることを象徴しています。 • アルミニウス主義では、「愛の行い」は救いを得る手段ではなく、すでに神の恵みに応答した者が示す「信仰の証」となります。 この信仰とは神が信仰者に与えてくださる信仰のではなく、人間の自由意志によって選択して信じると言う定義です。アルミニウス主義者はこう言います。選びではなく、人間の自由意志による選択です。 2. 聖書は(恵みによる救い)は憐れみの愛は救いの結果と言います。 聖書では、人間の行いではなく、神の一方的な恵みによって救われます(エペソ 2:8-9)。 • 「隣人を愛する」ことは救いの条件ではなく、救われた結果 • イエスのたとえは、「完全に隣人を愛すること」が律法の要求であり、それは人間には達成できないことを示します (ローマ 3:10-12) "次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。 悟る者はいない。神を求める者はいない。" それは人間は全的に堕落しており、神の恵みが与えられなければ、信仰を持つことも、愛の行いをすることもできないからです。隣人を愛しなさいと言う律法を含めすべての律法の役割は人間の罪を示すためのものであり、人間は自分でこれらの律法を守ることはできません。そしてそれは救いの手段ではありません。(ガラテヤ 3:24)。律法は罪を示し、絶望を与えますが、福音はキリストの救いを宣言し、希望を与えます。 • 祭司やレビ人が傷ついた人を助けなかったことは、律法や宗教的義務が人を救えないこと を示しています。 • それに対して、サマリア人が示した「憐れみ」は、律法を成就するキリストの愛です。 • したがって、このたとえは「律法は罪を示す鏡であり、律法は人を救う力はありません」。また、「誰が隣人か」を問い直し、神の恵みによって変えられた者が示す愛、憐れみのあり方を示しています。律法は人をキリストに導きます。 • 傷ついた人は、罪によって打ちのめされた人類の象徴。 • 祭司やレビ人は律法や宗教的義務を象徴し、それらが人を救えないことを示す。 • サマリア人(当時のユダヤ人にとって軽蔑される存在)は、あえて見捨てられた者を助けた。これはイエス自身が罪人を救うために来られたことを指し示しています(ルカ 19:10)。 "人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」" • 「サマリア人」はキリストの姿を象徴しますが律法が果たせない憐れみと救いをキリストが実現したことを表しています。 • つまり、人間は隣人を愛する律法を行うことはできません。律法は罪をします鏡であり、人を救う力はありません。律法は、私たちをキリストのもとへと導き、信仰によって義とされる道を示す役割を持っています。神によって選ばれ、聖霊によって新しく生まれた人のみが救われます。隣人を愛する良い行いは救いを得た結果、その人の心が聖霊により変容されてみことばを理解し、事実として捉え、信頼を置く者となり、みことばに従う生きる者と変えられた結果です。この変化はその人に生き方として日々の生活の中で実践されます。それは救いの証拠です。 "わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。この命令は、救われた者に与えられる新しい性質(キリストの似姿)によってのみ成就される」されます。「人間の努力によってではなく、聖霊の力によってのみ実現可能」であることを理解する必要があります。つまり 「聖霊によって新しくされた者だけが、主の命令に従い、真の愛を示すことができるのです。神はあなたが御子の似姿になるよる生き方が自然に実践します。選ばれている者はは自力で隣人を愛することはできないが、聖霊による新生と変容によって、キリストの愛が自然に行いとなっ て現れます。時の始まる前からわたしたちを選び、そのように定めらられました。神に選ばれた者は、聖霊の守りによって信仰から離れることはありません。ヨハネの福音書 13 章 34 節
- 信仰のことば運動の牧師がよく使うキーフレーズ 50
信仰のことば運動の牧師がよく使うキーフレーズ 50 1. 「あなたの言葉には力がある」 2. 「ポジティブに宣言すれば、それが実現する」 3. 「神はあなたに繁栄を約束している」 4. 「神は病を与えない、癒しはあなたのもの」 5. 「あなたの信仰のレベルがあなたの人生を決める」 6. 「信仰は現実を変える力がある」 7. 「あなたの人生には神の祝福が待っている」 8. 「恐れではなく、信仰によって歩もう」 9. 「私は勝利者であり、敗者ではない」 10. 「神はあなたに最良のものを与えようとしている」 11. 「あなたの思考をポジティブに変えれば、人生も変わる」 12. 「イエスの御名によって、すべての悪しきものを追い出せる」 13. 「成功は神の御心」 14. 「貧しさは呪いであり、神はあなたを祝福したい」 15. 「種を蒔けば、刈り取ることができる」 16. 「あなたの与えたものが、神からの報いとなる」 17. 「十分の一献金は繁栄の鍵」 18. 「神はあなたを信仰の勇士として召している」 19. 「試練はあなたの信仰を強めるためのもの」 20. 「私たちは王の子どもであり、豊かに生きるべき」21. 「今、奇跡を受け取る準備はできていますか?」 22. 「神の御国はすでにあなたの中にある」 23. 「聖霊の力を信じれば、何でも可能」 24. 「あなたの口から否定的な言葉を取り除こう」 25. 「神はあなたの願いをかなえようとしている」 26. 「信仰の目で見れば、不可能はない」 27. 「病を拒み、健康を受け取ろう」 28. 「神はあなたを豊かにし、成功させる」 29. 「今日があなたの奇跡の日かもしれない」 30. 「あなたが祝福を求めれば、神は応えてくださる」 31. 「信仰は見えないものを現実にする」 32. 「主を試みることなく、信仰によって捧げよう」 33. 「あなたの信仰は、山をも動かす」 34. 「神の御心はあなたの成功」 35. 「あなたの夢は神の計画の一部」 36. 「イエスの贖いによって、あなたは呪いから解放された」 37. 「あなたの人生に神の祝福を宣言しよう」 38. 「経済的繁栄は霊的祝福の一部」 39. 「神の恵みはあなたに十分にある」 40. 「あなたの運命を決めるのは、あなたの信仰」 41. 「あなたはすでに勝利を手にしている」42. 「不信仰を捨て、信じることで祝福を受けよう」 43. 「神のタイミングを信じよう」 44. 「あなたの祈りには力がある」 45. 「自分を神の視点で見ることで成長する」 46. 「霊的戦いにおいて、信仰が武器となる」 47. 「私は弱い時にこそ強い」 48. 「主の約束は決して変わらない」 49. 「奇跡を期待するなら、それを信じよう」 50. 「神の栄光のために、あなたは成功する」 信仰のことば運動による改革派神学(カルヴィニズム)への批判 「信仰のことば」運動の牧師たちは、カルヴィニズム(改革派神学)を以下のような点で批判することが多いです。 1. 宿命論的である • 「信仰のことば」運動の牧師は、「すべてはあらかじめ定められている」という考え方に反対し、「信仰によって未来を変えられる」と教えます。カルヴィニズムの予定説は、神の主権を強調しすぎて人間の責任を軽視していると見られます。半ペラギウス、アルミニウス主義が根底にあります。 2. 信仰の積極的な役割を軽視している • 改革派神学は「信仰は神の賜物」とし、救いのための行動ではなく結果として生じるものと教えます。一方で「信仰のことば」運動は、信仰を現実を変える力とし、人間の積極的な信仰表現を重視します。 3. 繁栄と祝福を制限する教え • 「信仰のことば」運動は、神が信者に物質的・経済的祝福を与えることを強調しますが、カルヴィニズムでは地上での繁栄は必ずしも神の祝福の証とはされません。「神が必要なものを与えてくださる」という考えは共有されますが、「信仰があれば繁栄する」とは教えません。 4. 奇跡の否定または制限 • 改革派の多くは「奇跡は神の主権のもとにあり、人間の信仰によって操作できるものではない」としますが、「信仰のことば」運動は「信じることで奇跡が起こる」と教えます。 5. 「罪」や「苦しみ」に対する考え方の違い • カルヴィニズムでは、罪の堕落による苦しみや試練は神の計画の一部であり、信者を成長させるためのものと考えます。一方、「信仰のことば」運動は、貧しさや病は悪魔からのものであり、信仰によって勝利できると教えます。 6. 「成功」や「勝利」の定義の違い • 「信仰のことば」運動では、成功や勝利が「目に見える祝福(健康、富、影響力)」であることが多いですが、改革派神学では「成功」は霊的な成長や神の御心に従うこととされます。 まとめ 「信仰のことば」運動は、信仰の積極的な力や神の祝福を強調し、物質的・霊的繁栄を約束するメッセージを多くの人に提供します。一方、カルヴィニズムは神の主権と人間の無力を強調し、地上の成功や健康よりも、神との関係や最終的な救いを重視します。信仰の実践や神の御心の解釈において大きな違いがあります





