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- アダムにおける分離とキリストにおける結合
なぜ神は堕落を止めなかったのか 2026.2.25 The Word for you 今日も、アダムにおける**「分離」と、キリストにおける「結合」**について少し深く話をします。おそらく皆さんは、アダムの堕落について「なぜアダムは堕落したのか」「なぜそれが全人類に広がったのか」ということについて、これまで十分には理解できていなかったのではないかと思います。今日はその部分に焦点を当ててお話しします。 1. 罪の定義:行為ではなく「状態(分離)」 多くのクリスチャンは「罪を犯したから罪人になった」と考えています。それは「原罪」という言葉の響きが、アダムが遠い昔に犯した「原始的な古い罪」というイメージを与えているからかもしれません。しかし、改革派神学における原罪の定義は全く違います。 聖書における罪の定義とは、アダムの罪によって全人類が神から切り離された**「分離の状態」**そのものを指します。 • 分離(死): アダムが罪を犯し、神との関係において死んだ状態。 • 全人類への波及: 人は生まれながらに神から切り離されており、神を信じない、信頼しない、求めないという性質を持っています。 つまり、「罪を犯すから罪人」なのではなく、**「神から分離された罪人として生まれてくるから、罪を犯す」**のです。これが聖書の教える順序です。 2. なぜ神はアダムを止めなかったのか ここで大きな疑問が浮かびます。「なぜ神はアダムが罪を犯すのを止めなかったのか?」「神は無力だったのか?」 答えは否です。神はすべてを決定される主権者です。アダムの堕落は、神の統治の外で起きたことではありません。 神が望まれれば、禁令を与えないことも、知恵の木を置かないことも、サタンの侵入を拒むことも、あるいは物理的にアダムを止めることもできました。しかし、神はそうされませんでした。神は罪の作者ではありませんが、神の主権的御計画の中で、堕落が起こることを「許容(許可)」されたのです。 3. 救いの計画は「堕落」に先立つ なぜ神は堕落を許されたのでしょうか。それは、人間中心主義的な考え方では決して理解できません。 「アダムが失敗したから、後追いでキリストによる救済策(プランB)を立てた」のではないのです。聖書(エペソ1:4)には、**「世界の基が据えられる前から、神はキリストにあって私たちを選ばれていた」**とあります。 • 正しい順序: 救いの計画が先にあり、そのために堕落が許可された。 アダムは全人類の代表者でした。彼一人の不従順によって罪が世に入りましたが、それは**「第二のアダム」であるキリストの従順**を際立たせるための背景でもありました。 4. すべては「御子キリストの栄光」のため 神がアダムを止めなかった究極の理由は、**「神の栄光のご計画」**の中にあります。 堕落がなければ、「贖い」も「恵み」も「憐れみ」も、十字架における神の愛も、忍耐も、その豊かさが現れることはありませんでした。 • 万物は御子のために: 創造、堕落、贖い、歴史のすべては、御子イエス・キリストに向かって収束します。 • 長子としての御子: 救済の目的は、単に人間が助かることではなく、御子が多くの兄弟の中で「長子」となり、その栄光を現すことにあります。 私たちは、世界の基が据えられる前から「キリストとの結合(イン・クライスト)」の中に選ばれていました。アダムの堕落という悲劇さえも、キリストにある者たちが御子と共にその栄光を受けるための、壮大な神のシナリオの一部だったのです。 結論 アダムの堕落を人間中心に考えると「なぜ止めなかったのか」という不満になりますが、神中心(主権的)に捉えるとき、そこには計り知れない恵みの計画が見えてきます。すべてはキリストのためであり、そのキリストに結ばれている皆さんのためなのです。 お祈り 愛する天の父なる神様。 なぜあなたがアダムを力ずくで止めなかったのか、なぜエデンの園に知恵の木を置かれたのか。人間中心主義的な問いに対し、あなたの永遠のご計画という真実の回答をくださったことを感謝します。 私たちは自分勝手な存在ですが、永遠の昔からの選びにより、今キリストに結ばれ、御子の義を受けて共に栄光を現す者とされていることを心から感謝いたします。 この素晴らしい啓示を握りしめて歩むことができますように。 主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン。
- アダムにおける分離とキリストにおける結合
2026.2.22 豊川の家の教会 礼拝メッセージ 1章 アダムの罪、死、律法(神様の与えたルール) 聖書は、すべての人は罪人であると宣言しています。 なぜ、すべての人は罪人なのかを学びます。聖書は人が神様の与えたルールを破ったから罪人であると説明しないこと知っていますか? 聖書は創世記のアダムから、話を始めます。 そこには、はっきりした順序があります。 1.アダムの罪 2.アダムは死んだ 3. アダムの罪が世に入り、 4.死の状態がすべての人に広がった 5.原罪(罪の性質) 死が人のうちにある状態 6.個々の罪(思い・言葉・行い) 7.律法による暴 1.アダムの罪 最初の人アダムの罪によって、アダムは神から切り離されることになりました。人と神との関係が壊れました。この出来事は、アダム一人だけの問題ではなく、人類全体に影響する出来事でした。 なぜなのか? 2.それは死です アダムの罪によって、アダムは死にました。 この死とは2つの意味があります。1つは霊的に神様から分離されること。2つ目は肉体的に神様と分離されることです。 アダムは罪を犯してすぐ、霊的に神から分離されて死にました。そしてそのあと930歳まで生きて、死にました。この「死」は、霊的、肉体的な死です。 それは霊的にすぐ神様から分離され死に、肉体的に930歳まで生きて死んだ。アダムは死の裁きを受けたのでした。 その裁きである死とは 神のいのちから切り離された状態 を指します。 そしてアダムの罪は世に入りました。それはアダムはすべての人類ははじめであり、代表であり、すべての人類は神がアダムと結んだ契約、裁きもアダムを通して受けているからです。 3.死の状態がすべての人に広がった ローマ人への手紙 5章12–19節 特に 5:19 「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた」 すべての人は神から離れた状態に置かれているということです。 神を求めない 神を信頼しない 自分中心で生きようとする 死とは: 神との分離 裁きの状態 神の怒りの下にあること 4.原罪(罪の性質) 神から離れた状態は、完全にくさっていて、ひどい腐った臭いがただよっている状態。死が人の内にある状態のことを原罪、罪の性質と呼びます。原罪とは、神と分離した状態が人のうちにあることを現わす表現です。 神を求めない 神を信頼しない 自分中心で生きようとする このような状態が人の内にあることを原罪、罪の性質と呼びます。すべての人間は原罪をうちに宿し、生きており、これは誘惑と結びついて様々な罪を生みます。 5.個々の罪 この原罪から実際の個々の罪が生まれます。 <ガラテヤ人への手紙 5章18~21節> すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。 原罪をもつ罪人であるから、罪を犯してしまうのです 6.神が与えたルールの役割 神様は人間にルールを与えました。それは律法と呼ばれます。罪はルールがあるまえからありました。それは神様から切り離されていることが罪だからです。 ルールは人を良くするためのルールはではありません。 律法の役割は、 罪をはっきりと罪であると見せるためです。 実際に犯す罪だけではありません。実際には犯さないけれど、心の中で想像して犯す罪でさえ明らかに見せます。 聖書は、心の中で想像する罪も、実際に犯す罪も同じであると指摘されています。 <申命記 5章21節> "あなたの隣人の妻を欲してはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲しがってはならない。」" こうして神様のルールは、人がどんな状態にあるのかを明らかにします。そして、すべての人を罪の中に閉じ込めました。 <ガラテヤ 3章22節> 「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは、イエス・キリストを信じる信仰による約束が、信じる人々に与えられるためでした。」 聖書が教えるすべての人は完全に堕落していると言われる教え、原則です。それは赤ん坊、小学生、中学、高校、大人、老人、どこの国の人でも一切、例外はありません。すべての人は罪人です。ここから救いは始まるのです。 選ばれた者も、生まれながらは罪の下にあるしかし永遠の結合においては神の計画の中にあります。 第2章 キリストとの永遠の結合 ― 神の分離に対する神の御計画 前章では、アダムの罪によって人類すべてが神から切り離され、死の状態に置かれたことを見ました。 しかし聖書は、分離で終わりません。 神は、分離に対して、永遠の結合というご自身の御業を備えておられました。それは人間が回復する道ではなく、神が永遠の昔から備えておられた救いの計画です。 1.永遠の昔における選び ― 「キリストにあって」 <エペソ人への手紙 1章4節> 「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選びました。」 ここで重要なのは、神が人を「キリストにあって」選ばれたと言うことです。つまり、神の選びは最初から個人の能力によってではなく、行いによってでもなく、信仰を将来持つからによってでもなく、キリストとの結合の中でなされました。 「アダムにおいて人類が滅びに結びつけられたのと同様に、選ばれた者はキリストにおいて救いに結びつけられています。」 2.分離の原因 ― 罪の中にある人間の状態 エペソ書2章は、アダムの堕落の結果としての人間の状態を明確に示します。 <エペソ人への手紙 2章1–3節> 「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者でした。」 ここで再び「死」という言葉が用いられています。これは前章で見たアダムの死と同じ性質のものです。 この死の状態とは: 神のいのちからの分離 神の支配からの分離 神の支配の下ではなく、自己中心の支配下 この世と悪の力の支配下、神の怒りの下、 さらに聖書は言います。 「私たちもみな…生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(2:3) つまり、人は罪を犯したから罪人になったのではなく、罪人として生まれるために罪を犯すのです。 これはローマ5章で語られた、「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた」という事実です。 3.神の御業 ― 「しかし神は」エペソ2章はここで大きく転換します。 <エペソ人への手紙 2章4–5節> 「しかし、あわれみ豊かな神は…私たちをキリストとともに生かしてくださいました。」 救いの主語は常に神です。人が神に近づいたのではありません。神が死んでいる者を生かされたのです。 ここで起こっていることは: 分離 → 結合へ 神の一方的な御業です。 4.キリストとの結合 ― 「ともに」 この箇所には「ともに」という言葉が繰り返されます。 <エペソ人への手紙 2章5–6節> キリストとともに生かし キリストとともによみがえらせ キリストとともに天の所に座らせた これは単なる比喩ではありません。 キリストの出来事が、そのまま信仰者の人生の出来事として適用されているということです。「アダムにおいて人類が罪と死に結びつけられたように、アダムと共に神から分離されたように」「キリストにおいて選ばれた者はキリストに結ばれており、キリストと共に聖霊によって父なる神に結ばれています。」 キリストのいのち、キリストの義、キリストの御座に-天の身分そして、三位一体の神に結びつけられています。 5.救いの秩序 ― 結合から流れ出る恵み 聖書が示す救いは、人間が段階的に登る過程ではありません。すべては キリストとの結合から流れ出る 神の恵みです。それは神の置かれた救いの秩序です。 永遠の結合(神の選びにおいて)、 効果的召し 再生(霊的に生かされる)、 悔い改めと信仰(再生の結果) 義認、聖化、栄化 これらは別々の救いではなく、神の救いの秩序であり、キリストとの永遠の結合にあります。 6.結合は修復ではなく新しい創造 救いとは単に「元に戻る」ことではありません。 エペソ2章10節は言います。 「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」 ここで用いられている言葉は「創造」を意味します。 つまり救いは: 元に戻るではない、修復ではない、改善ではない、教育でもない、 ➡ 救いとは完全に新しい創造です。 7.分離と結合 ― 二つの人類 聖書は最終的に、人類を二つに分けます。 ■ アダムにある人 罪の下、死の支配下、神からの分離、神の怒りの下、裁きの下 ■ キリストにある人 神のいのちの中、義の支配下、神のゆるし、神との和解、恵みの下 中間はありません。 8.恵みによる救い このすべては、人間の努力によるものではありません。 <エペソ人への手紙 2章8–9節> 「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」 信仰さえも、人間の能力ではなく、神の働きの結果として与えられるものです。この信仰は救いはイエスキリストを信じる信仰であり、これによって神の御前で正しい者とされるとされます。信仰義認は神からの贈り物です。 9.まとめ アダムにおいて人類は神から分離されました。しかし、キリストにおいて、選ばれた人々がいます。その人々は永遠にキリストと結合させられています。分離が人間の行為によって起こったのではなく、代表者アダムにおいて起こったように。永遠の結合は、代表者キリストにおいて起こっています。 したがって救いとは: 人が神に到達することではなく、神がキリストにおいて人を取り戻している永遠のご計画ことです。 これらの人々はその永遠の結合がその人の人生にある時において、聖霊によって現実に現れます。 神の恐ろしい怒りの下から、ゆるしと恵みに下に移されるのです。 神は選ばれた者を、永遠の昔からキリストに結びつけ、再生させて信仰と悔い改めを与えます。そしてそのキリストを信じる信仰を通して義とされます。神は永遠の昔から、その人をキリストと結びつけると決めておられます。 そして神が決めた時に、その人を聖霊によって生かし、キリストとの結びつきが実際の人生の中で現れます。それは永遠の結合は新しい創造として現れます。 ■ 古い創造 アダムにある性質(罪の性質) 1.神を求めない 2.神を信頼しない 3.自分中心で生きようとする ■ 新しい創造 キリストにある性質(神の性質) 1.神を求める心が与えられる 2.神を信頼するようになる 3.神を中心として生きるようになる ここに、もっとも素晴らしい知らせ、福音の中心があります。 神は、永遠の昔からキリストと一つに結びつけると決めておられた人々のために、そのご計画の通りにキリストを十字架につけられました。 十字架の上で、神は彼らのすべての罪をキリストに背負わせ、身代わりとして完全に裁き切ることで、救いを成し遂げられました。さらに神は、死の力に完全に打ち勝った証明として、キリストを死者の中から復活させました。 そしてすべての選ばれている人々はこのキリストと結びつかられています。 神が主導されたこの十字架と復活によって、救いが揺るぎないものとなりました。 これが福音です。次回は、この十字架についてお話しします。
- 死と律法
2026.2.18 The Word for you 今日は「アダムの死」、すなわち「罪と死」について話をしたいと思います。アダムの罪、そして死と、神様が与えたルールである「律法」について話します。 聖書は「全ての人は罪人である」と宣言しています。なぜ全ての人は罪人なのか、その理由を学びたいと思います。 聖書は、人が神様の与えたルール(律法)を破ったから罪人になった、とは説明していません。律法という神様が与えたルールを破ったことが、罪人である原因ではないことを知っていますか?聖書は創世記のアダムから話を始めています。そこにははっきりとした順序があります。 * アダムの罪 * アダムの死 * アダムの罪が世に入った * 死の状態が全ての人に広がった * 原罪(罪の性質)が人々のうちに現れた * 個々の罪 * 律法によって全ての罪が暴かれる このような順番で、罪と死の関係を説明できます。 まず最初の人、アダムの罪について話しますが、アダムの罪によって、アダムは神から切り離されることになってしまいました。人と神との関係が壊れたのです。 この出来事は、アダム一人だけの問題ではなく、全人類に影響する出来事でした。それはなぜでしょうか? それは「死」です。アダムの罪によって、アダムは死にました。 この死には二つの意味があります。 一つは、霊的に神様から分離されたこと。これは罪を犯してすぐに起こりました。 二つ目は、**肉体が神様と分離されたこと(肉体の死)**です。 アダムは罪を犯してすぐ霊的に神様から分離されて、霊的に死んだ者となりました。聖書はアダムは130歳まで生きて死んだと言っています(※創世記5:5)。この130歳まで生きて死んだアダムの死は、肉体的な死です。ですから、霊的な死(神からの分離)がすぐにアダムにあり、その後、肉体的な死がアダムを襲いました。霊的に死んだ状態に加えて、さらに肉体的にも死んだということです。これはアダムが死の裁きを受けたということです。 この裁きである「死」とは、神の命から切り離された状態を示します。 そして、アダムの罪は世に入りました。アダムはすべての人類の初めであり、代表(連邦代表)であり、すべての人類は神がアダムと結んだ契約の裁きも、アダムを通して受けているからです。死の状態がすべての人に広がりました。ローマ人への手紙5章19節はこのように言います。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた」。 すべての人は神から離れた状態に置かれているということです。「死」とは、神の命からの分離であり、裁きの状態にあるということであり、神の怒りの下にあるということです。 そして「原罪」です。この原罪を私たちは「罪の性質」とも呼びます。 神から離れた状態というのは人の在り方ですが、この状態は人の内面に潜り込みます。そしてそこに死ぬまで、そのまま宿ります。人が生きている間、この神から離れた状態はその人の内にあって、その状態のことを「原罪」「罪の性質」と言います。 原罪がその人の内にあるという表現ですが、その原罪とは、「神を求めない」「神に信頼しない」「自分中心で生きようとする」状態のことです。この状態が人の内に性質として座っていることを「原罪」「罪の性質」と呼びます。すべての人間は原罪を内に宿して生きています。 そしてこの原罪は誘惑と結びついて、色々な罪を生み出していきます。それが「個々の罪」です。実際の生活の中で人間が犯していく罪です。 ガラテヤ人への手紙5章19節から21節にはこう書いてあります。 「すなわち、みだらな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、妬み、泥酔、遊興、そういった類のものです。」 これらは個々の罪です。これらは私たちの内に住んでいる「神を求めない、神を信頼しない、自己中心で生きようとする」原罪(罪の性質)から出てきています。それが誘惑と結びついて、このような罪が生まれると言っています。 神はルールを与えました。それは聖いルールであり、「神の律法」と呼ばれます。 罪はルール(律法)がある前からありました。律法というのは、モーセという人に神が示したものです。しかし、罪はそれ以前からありました。なぜなら、神様から人が切り離されること自体が「罪そのもの」だからです。 ルールは人を良くするためのものではありません。このルールを私たちが持っても、私たちは良い人になることはできません。このルールの役割を、私たちははっきりと理解しなければなりません。このルールは「罪をはっきりと罪であると見せるため」です。 実際に犯す罪だけでなく、実際には犯さないけれど心の中で想像して犯す罪でさえ、明らかに罪として見せます。聖書は、心の中で想像する罪も、実際に犯す罪も変わらない、同じ罪であると指摘しています。 旧約聖書の申命記5章21節で、聖書はこのように言います。 「あなたの隣人の妻を欲してはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ロバ、すべてあなたの隣人のものを欲しがってはならない。」 隣人のものを欲しがってはならない、欲しがるだけでそれは罪だと言っています。実際に行っていなくても、欲しがったら罪であると。 こうして神様のルール(律法)は、人がどんな状態にあるかをはっきりと明らかにします。それは全ての人を罪の中に閉じ込めるためでした。 ガラテヤ人への手紙3章22節はこう言います。 「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それはイエス・キリストを信じる信仰による約束が、信じる人々に与えられるためでした。」 ですから、全ての人は罪の下にあると宣言しています。聖書が教える「全ての人は完全に堕落している」と言われる教え、原則です。それは赤ん坊、小学生、中学生、高校生、大人、老人、またどこの国の人でも一切例外はなく、全ての人は罪人です。 ここから福音の救いは始まります。よって、選ばれた者も、生まれながらは罪の下にあると言っています。しかし、選ばれた者には、「永遠の結合」において神の計画の中にあるということを、聖書は初めから言っています。では終わります。 祈り 愛する天のお父様、 私たちがどのように私たちの罪に向き合って、この事実を理解するのか、今日教えてくださったことを感謝します。 私たちが罪の下に閉じ込められていたこと、このこともあなたが教えてくださり感謝します。また私たちは選ばれた者、イエス・キリストにある者として、罪に定められることはありません。しかし、この「罪の残骸(罪の性質)」にいつも悩まされ、戦っている者であります。 私たちはその戦いを「聖化」の過程として、いつも戦い、そして私たち自身に頼らず生きていく者に変えられるために、試練の中を進んでいきます。私たちの試練、また苦しみ、全てあなたから与えられていることも感謝します。 愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。 アーメン
- 「聖化とは何か―結合に基づく神の主権と全存在(体を含む)の聖別」
2026.2.15 豊川の家の教会 礼拝メッセージ 「聖化とは何か――結合に基づく神の主権と全存在(体を含む)の聖別」 「信仰は新しく生まれた結果であって、決して信仰によって新しく生まれるのではない」という真理は、福音の中心を貫く極めて純粋な福音の理解です。 この真理にたち、神の御業と信仰者の生き方との関係について「聖化(主の似姿に変えられる)」を講解します。 1.「主の似姿へ変えられる」 創世記において人間が神に似せて造られたという「神の似姿」には、実は2つの層があります。アダムの堕落によって「残ったもの」と「失われたもの」があります。 1) 残った似姿:人としての「器」 これは人間が人間であるための「機能的」な能力です。 内容: 理性、意志、人格、責任能力など。 状態: 堕落後も、人間は動物とは異なり、理性や意志を持ち続けています(ただし、罪によって死んでいます)。 意味: 私たちは堕落しても、依然として「人間」です。 2) 失われた似姿:神の「性質」 これはその器に入っていた「聖さ、義、愛」 神の御性質、輝きです。 内容: 聖さ、真の義、愛、神を知る真理(エペソ4:24)。 状態: 堕落によって完全に失われました。 意味: アダム以降、人間は生まれながらにして、神の聖なる性質を一切持っていません。 聖化とは、人間が自力で改良することではなく、神が失われた「失われた似姿」を再び創造されることです。 3) 「罪の性質」の残骸とその支配権の喪失 罪の性質はすでに支配権を失い、残骸となっています。 再生(新しく生まれること)において、罪の支配的な力は打ち砕かれます。 信仰者はもはや罪の奴隷ではありません。 しかし、罪の『残骸』は、栄化(復活の体が与えられる)まで信仰者に留まり続けます。 聖化とは「人間が自分を磨くこと」ではなく、 「聖霊が、信仰者の内にある罪の残骸に対して日々、神の支配が現れ、キリストの義を具体化させていく過程」です。 4) 「主語は神」である聖化の構造 スプロールは聖化について、しばしば「協働(synergism)」という言葉を使いますが、それは人間が神と対等に協力するという意味ではありません。 「私たちが働くのは、神が私たちの内に働き、志を立てさせ、事を行わせてくださるからである。 (ピリピ2:12-13) "こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。" 私たちの働きは、神の先行的かつ能動的な働きの『結果』であり、 神の恵みに対する応答です。 つまり、「神が成しておられる(主語:神)」からこそ、 その結果として「人が歩む(述語:人の行為)」 という順序で起こります。 これは聖書の原則は「人の行為は結果であり源泉ではない」 聖霊の宮としての「体の贖い」は重要な教理です。この「似姿への変えられる」ことは精神的な領域に留まらず、「体の復活」において完成します。「キリストの救済は、魂だけの救済ではありません。それは全人格、すなわち肉体をも含めた救済です。聖霊が私たちの内に住まわれるということは、神が私たちの肉体を将来の復活のために『聖霊の証印』をおされたことを意味します。 三部分説は「肉体が結合の重要な対象である」ことを話さない、しかし、聖書では「体はすでに聖霊によって占有された聖域」と強調しています。 5) まとめ: 信仰者が主の似姿に変えられることを以下のようにまとめる。 根拠: 聖霊の内住 主体: 聖霊(神) 内容: 堕落で失われた「真の義と聖」の回復 範囲: 霊的感覚だけでなく、肉体を含む存在の全領域 この変貌は、「神が、その主権によって、選ばれた者の全存在をキリストに適合するように再創造している現実」そのものであると言えます。 2.神が行われる再創造について 1) 再生における「一方的な主の働き(Monergism)」 永遠の結合の顕現である「再生(新しく生まれること)」は神によって行われます。ここでは神のよる一方的な働き(Monergism)のみが真理です。「再生は神の業です。それは、神お一人の力によってなされる。そこには、神の恵みに対する人間の事前の協力も、意志の働きも存在しない。人が自らの誕生に協力できないのと同様です」 ここで「主語は神」であり、人間は「死体」として描かれます。再生におけるいかなる人間の貢献についていかなる考えも、「福音の破壊」として退けられなければなりません。 2) 聖化における「協働(Synergism)」の定義 一方で、救われた後のプロセスである「聖化(キリストの似姿に変えられること)」について、スプロールは「協働」という言葉を用います。しかし、その中身は「神の主権に支えられた依存的協働」です。「聖化は協働的(Synergistic)である。つまり、それは神の業であると同時に、私たちの業でもある。しかし、私たちが働くのは、神が私たちの内に働いておられるからに他ならない。」 —— R.C. Sproul, "Essential Truths of the Christian Faith" (Tyndale House, 1992) スプロールによる協働の3つの核心(出典: Faith Alone ) 能動的な服従:信仰者はロボットではなく、実際に考え、決断し、歩む。しかし、その 「歩み」のは、内住される聖霊にある。 非対等性:神と人間が対等なパートナーとして働くのではない。神が「主」であり、人 間は「従」である。 恵み:人間のいかなる善き業も、神の恵みに対する「結果」であり「応答」である。 3. 祈りに見える命令 ― 三部分説が生む人間中心主義の構造 「私の霊に住む聖霊が私の思い、感情、意思へと浸透し、広がってください」という祈りをする人たちがいます。無意識のうちに三部分説(人間の心の中をいくつも部屋に例える、コンパートメント化する考え方)に基づいています。 この祈りは、まるで聖霊を「特定の部屋(霊)に閉じ込められた力」のように扱い、人間が許可を与えたり祈ったりすることで他の部屋(意志や感情)へ「流れ込む」かのような、人間中心的かつ操作的な構造を持っています。 この祈りは一見、内住と聖化を求める祈りに聞こえますが、以下の祈りと全く同じ構造です。 <これは神への祈りではなく捻じれた命令である> 「主イエス様。今、私はあなたをキリストとして、救い主として、心にお迎えします。私の人生に来てください。私を闇から光に導いてください。主イエス様だけを神として信じ進んでいきます。主イエス様・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン」 <宗教的な装飾、一見、敬虔に見える言葉をはぎ取るとこの祈りの本質が見える>神よ、 私は人間である。 私があなたを救い主として認めるから入れ。主と言うが、主語は私である。 私の人生を、私が望む方向に変えよ。私は決心し、努力していく。 これは、 神中心ではなく キリスト中心でもなく 完全に人間中心 しかも、「神学的自覚を持たない自己崇拝」です。 「私の霊に住む聖霊が私の思い、感情、意思へと浸透し、広がってください」という祈りはこれと全く同じ原理です。無意識のうちに三部分説(人間の心の中をいくつも部屋に例える、コンパートメント化する考え方)に基づいています。 4.主語は神 ― 全人格的再生に立つ祈り 三部分説的な祈りは、人間を意志・感情・思考という区画に分け、聖霊の支配がまだ及んでいない領域があるかのように扱います。しかし、聖書が語る「心」は分割された部分ではありません。聖書において「心」とは、思い・意志・感情を含む全人格の中心です。それは人間存在の中枢であり、一部ではありません。 むしろ、祈りは次のようになります。 主よ、あなたはすでにキリストとの結合と再生によって、私の全存在を御支配の下に置いておられます。あなたの御旨に逆らう肉の思いを日々砕き、あなたの御心に絶えず感謝し、喜びをもって聞き従う者として保ち、立たせてください。 祈りは神の支配を成立させる行為ではありません。神がすでに確立しておられる主権が、歩みの中で具体的に現されることを神に求めるものです。 主語は常に神です。 再生は全人格に及ぶ神の働きです。 神の支配は既に確立されています。 5. 祈りは「降伏」である スプロールは祈りにおいて人間が神を動かそうとする、あるいは聖霊を自分で移動させよう依頼する愚かな態度を厳しく戒めます。 「祈りの目的は、神の意志を私の意志に合わせることではない。私の意志を神の意志に服従させることである。神は、私たちが祈る前から、私たちに何が必要か、そして私たちの全存在が神のものであることをご存じである。」 砕かれる意味の照明を受けた者の祈りはこうなります。 「主よ、あなたは私の感情も意志も、十字架の血によって買い取られました。主よ、あなたの所有権の事実が、私の感情においても現れるようにしてください。」 6. 再生(新しく生まれる) 神の一方的な働きの再確認 「神が人の意志を再生させるとき、神はその意志を単に『励ます』のではありません。神は、死んでいた意志を『生かされる』。新しくされた意志は、神の恵みによって、必然的に神を追い求めるようになります。」 三部分説的な「私の内に広がってください」を求める祈りは、この結合の現実に立っていません。真の信仰者は祈ります。 「私の内にある罪の残骸が、すでに完成している御霊の統治を拒もうとする時、私のその思いを砕いてください。どうぞ主の主権を私の意識に現してください」と祈ります。 7.祈りの言葉の検証 三部分説的・体験中心的な祈りと神の主権」に基づく祈りの対照表 誤った祈り(三部分説・人間中心) 神の主権・結合にある祈り 「聖霊様、私の感情の領域にまで入ってきてください」 「主よ、あなたは私の感情の所有者です。私の不信仰を砕き、あなたの支配を認めさせてください」 「私の霊と魂が一つになりますように」 「キリストと結合された私は、すでに全存在において一つです。この現実が、私の生活の細部にまで現れますように」 「御霊の力で私の意志を変えて(操作して)ください」 「主よ、あなたが与えられた従順として、今日はこの命令に歩ませてください」 「Coram Deo(神の御前)」の祈り クリスチャンは「Coram Deo(神の御前で、神の主権の下で、神の栄光のために)」生きることです。 祈りにおいて「聖霊を内面で操作しようとする」試みは、神を「利用可能なエネルギー」と見なす冒涜的な態度です。聖霊の内住とは、神の全人格が、あなたの全人格(体を含む)を「原罪の不法占拠から解放し、ご自身の宮とされた」という救済史的な事件です。 信仰者は、イエス様さまが、王がすでに到着し、玉座に座っておられます。 それまで自分と言う人間が主権を持ちその王座に座っていました。この「主権の交代」という客観的な事実に立つ時、祈りは「自分の心理的な作業」から、「偉大な神への礼拝と服従」へと変貌します。 8.真理は行いとして必ず現れる マルコ14:8-9 "彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」" 1) 「自分にできることをした」という神が起こされた従順 イエス様はマリアの行為を「彼女は、自分にできることをした」と評されました。ギリシャ語のニュアンスは「彼女が持っていたものを、彼女はなした」という事実の確認です。これは、多くの教会で教えられるような「頑張って捧げた」という人間中心的な功績の話ではありません。 三部分説的・律法的な誤解: 「祈りや捧げ物をすることで、神を動かし、聖められようとする」(祈り=手段) マリアの姿(聖化の結果): 彼女はすでにキリストと深く結ばれており(結合)、その結果として、内から溢れ出る愛と啓示に押し出されて行動しました。 香油を注ぐという行為(祈り)が彼女を聖くしたのではなく、彼女がすでに神によって聖別(聖化)されていたからこそ、この決定的な瞬間に、神の御心(埋葬の準備)がマリアの行動を通して現れました。これは「再生した者の必然的な応答」です。彼女の意志は、聖霊によってすでにキリストの死という神の計画に準備されていました。 2) マリアの「全存在」による祈り マリアの「祈り」は、言葉による内面的なものではなく、 • 高価な香油(物質・経済) • 壺を割る音(物理現象) • 彼女の髪と涙、イエス様の足(肉体と肉体の接触) によって表現されました。 もし三部分説が正しければ、彼女は静かに霊の中で祈るべきでした。しかし彼女は「壺を割り」ました。これは「心の殻(全人格の保身)」を砕き、その中身をすべて主の肉体に注ぎ出すという、全存在をかけた礼拝です。 「神は魂だけでなく、身体も、物質も創造された。したがって、真の霊性は肉体を通して表現される」。マリアの行為は、内住する聖霊が、彼女の「体」と「持ち物」を使って、キリストへの愛を具体化した「御霊の実」なのです。 3) 神の主権的計画としての「埋葬の準備」 弟子たち(特にユダ)は「無駄使いだ」と怒りました。彼らの目は「人間的な有用性(貧しい人への施し)」に向いていました。 しかしイエス様は「埋葬に備えて……前もって」と言われました。 当時、弟子たちは誰もイエス様が本当に死ぬとは思っていませんでした。しかしマリアだけが、聖霊の導きによって(あるいは主の言葉を真に聞いていた結果として)、「イエス様の死」という神の救済計画の核心をイエス様の言葉によって照明を受け、それに従いました。 • 祈りとは: 自分の願いを神にねじ込むことではありません。 • マリアの祈りとは: 神がなそうとしていること(十字架と埋葬)に、 聖霊によって自分の存在を巻き込んでいただくことでした。 つまり、この香油注ぎは、神が彼女を用いて、御子の埋葬の準備をさせたという、神の主権的働きだったのです。彼女の行為は、神の意志が彼女を通して地上に現れた「結果」に他なりません。 4) 祈りは「香りが溢れる」こと: この出来事の後、「家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12:3)とあります。 4-1)結合が源泉、祈りは結果: 聖霊が内住し、人の心を支配(聖化)して初めて、人に神の御心にかなう祈り(行為)が現れる。マリアの行為は、彼女の内にあった「キリストとの結合」が外に溢れ出たものである。 4-2) 祈りは「同意」である: 祈りとは、神の主権的な計画(ここでは埋葬)に対し、自分の最も大切なもの(香油=命)を差し出して「アーメン(その通りになりますように)」と体で同意することです。 4-3) 無駄に見える献身: 人間中心主義(ユダの視点)からは「無駄」に見える行為こそが、神中心主義(イエス様の視点)では「永遠に残る記念」(14:9)それはすべての選ばれた者への神からのメッセージでした。 「彼女は自分にできることをした」 この言葉は、聖霊に満たされた者が、無理に背伸びをするのでもなく、神秘的な体験を誇るのでもなく、「ただ、神に捕らえられた全存在を、あるがままに、神のタイミングで注ぎ出す」という、真の「聖化の結果としての祈り」を表しています。 私たちは、「私たちは祈って聖くなるのではありません。 祈りを神に近づく『手段』に変えてはいけません。 もし祈りが「聖くなるための手段」なら、祈りの量が足りない日は「汚れた日」になり、たくさん祈った日は「聖い日」になります。 それはキリストの十字架ではなく、「自分の行為(祈りのパフォーマンス)」に依存する別の宗教です。 それは「恵み」ではなく「取引」です。 4-4) 真理(源泉と結果の逆転) 「私たちが祈るのは、神がすでに私たちをキリストにあって聖なるもの(聖徒)とされたからです。」死人は呼吸しません。生きているから呼吸をするのです。 同じように、聖くない人は真に祈りません。 「聖くされるために祈る」のではなく、「聖くされた(結合した)から、その命の現れとして祈りが溢れる」のです。 祈りは「聖さを獲得する苦行」ではなく、「与えられた聖さの呼吸」です。 4-5) 適用(結合の現実) 「祈りとは、遠くにいる神に近づくハシゴではありません。すでに内に住んでおられる神との、圧倒的な『近さ』の確認です。」 神は、あなたの祈りの熱心さにほだされて近づくのではありません。 神は、一方的な契約と愛によって、すでにあなたを捕らえ、あなたの内に住んでおられます。 だから祈りとは、「頑張って神を呼ぶこと」ではなく、「すでに共におられる神に、全存在で応答すること」です。 もし「祈って聖くなる」と教えれば、祈りは「功績」になります。 しかし、祈りは功績ではなく「恵みの手段」です。 神が私たちを聖化のプロセスの中に置くために、神が私たちの内に祈りを起こさせているのです。 9. 肉体は「神の私有地」である 三部分説では、肉体は「いつか脱ぎ捨てるテント」のように扱われがちですが、1コリント6章19–20節はこれを真っ向から否定します。「あなたがたの体は、神から受けた聖霊の宮です。……あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」 救いは「主権の移転」です。 信仰者の肉体は、サタンや「自己」という不法占拠者から、キリストの血という正当な代価によって「神の私有地」として買い戻されました。したがって、健康管理や生活習慣の主体は「私」ではなく「所有者である神」にあります。 10.管理は「結果」であり「源泉」ではない ●人間中心主義的な健康観: 「私が」体を整えることで、神に喜ばれ、霊性を高める(=自己努力が源泉)。 ●聖書的な所有権の理解: 「神が」私の体を買い取られた。ゆえに、この体において神の栄光が現れるのは当然の結果である(=神の所有が源泉、管理は結果)。 クリスチャンの節制(セルフコントロール)は、自分の力で自分を縛ることではなく、「自分の内にある神の所有権を認めること」です。信仰者の肉体は神の聖なる宮であり、神が住んでおられるのです。 11. 「体の救済」という広大な福音 スプロールは、キリストの受肉と復活を重視します。 もし霊だけが大切なら、キリストが肉体を持って復活する必要はありませんでした。 神は物質の創造主であり、その贖い主でもある。神が肉体を軽蔑されることはない。 むしろ、肉体は将来、栄光の姿へと変えられるための『種』です。 この視点に立つと、日々の食事、睡眠、運動といった「肉体的な営み」は、単なる世俗的な事柄ではなく、「神が所有された宮を、神が整えておられる過程」へと神の所有の現れとして位置づけられます。 聖書ははっきりと言います。あなたがたは神の宮です。 「あなたの体は、あなたの意志でどうこうしていい『自分のもの』ではありません。 キリストが最高値で買い取られた『神の所有物』です。 神はご自身の所有物を決して見捨てず、御霊によって管理されます。 今、あなたの内に働く罪の残骸ではなく、真の持ち主である主の主権の下に歩みなさい。主がそのように歩ませておられるからです。 <結合の現れとしての肉体> 聖霊の内住とは、神が私たちの肉体と結合し、所有されているという聖霊による証印ことです。 「健康にならなければならない」という律法主義的な重荷ではなく、 神が与える「私の全存在は神の宝物として管理されている」という確信と安息です。 その中にこそ、真の節制、自己管理、セルフコントロールが御霊の実として現れるのです。
- 第2テサロニケ第2章 講解
2026.2.11 The Word for you まず、ここの終末の話を聖書で読むときに皆さんが一番注意しなければいけないのは、「騙される」ということです。 この終末を考えるときに、ディスペンセーション的な終末論と、そうではない終末論があります。 ディスペンセーション的な終末論の特徴というのは何かと言ったら、あれですよね、必ず**「携挙(けいきょ)」**が起こり、大患難がある、そしてキリストの再臨がある、というものです。 そして、この大患難の時に神殿に「不法の人」が立つ、こういう配置になります。そうすると終末論の解釈って、「いつか分からない将来に第三神殿が立ちます、そこに未来に強力な一人の人物が出現する」という出現を必須としていて、イスラエル国家の回復が全体にあって、だから神殿再建、祭祀制度、動物犠牲の再開、という体系があるのだと皆さんにずっと説明されます。しかし、この体系の中で聖書を読んでいくと、必ず分からなくなります。間違った方向に行きます。 今日は話をしていきますけど、この部分に気をつけて終末論を読み進めなければいけないということです。 それでは第2章の3節からいきます。 「どんな手段によっても、誰にも騙されてはいけません。まず**背教(はいきょう)**が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。」 この3節は、終末の出来事を順番に示すための言葉ではありません。この3節は「騙されるな」ということを言っています。騙されることが最大の危険だということです。パウロが最初に命じているのは「騙されるな」です。 そして、ここで警告されているということは、この「騙し」が教会の中に入り込む「教え」による騙しだということです。決して、騙すということが単純な人間的な騙しなどではないということです。教えとして入ってきます。そして、この騙しの結果何が起こるか。これが次にくる**「背教」**です。 背教というのは、信仰を失うとか、クリスチャンをやめるとか、そういうことではありません。 この背教というのは、イエス・キリストと使徒たちが教えた「福音」から離れることを言っています。それは、見た目は宗教的、そして見た目は信仰的なことを言います。外側は聖書の言葉を散りばめながら、「イエスは主です」と言いながら、そして「信じなさい」と言いながら、実は「別の福音」を話すことです。 聖書はこう言います。「不法の秘密はすでに動いている(2章7節)」。そして、「彼らは真理を愛さなかった(2章10節)」と言っています。さらに、神は彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送られる。 この背教というのは、真理を退けて偽りを受け入れることを言います。 ですから背教というのは、クリスチャンであることをやめることではありません。福音の中心が「すり替わる」こと、そのままです。 背教とは、次のような構造になります: 神の主権が中心から外されること。 キリストとの結合が語られないこと。 十字架のみわざとその完成が実体化しない、あるいは弱められること。 信者がキリストと共に死んで復活したという、その現実(リアリティ)から離れること。 そして、救いが人の「理解(私は分かった)」、「選択(私は信じた)」、そして「体験(私は感じた、震えた、涙が出た)」といったものに置き換えられます。 つまり、神が救いの源泉であることを告白する立場から離されていくということ。これが救いから離れていく背教、そういうものです。 ですから、ここで背教というのを、単にクリスチャンであることをやめることではなく、キリストとの結合から騙されて離れていくことだと理解してください。見なくなることです。神と自分が一つである、結ばれているということを知らされずに騙されていくことが背教です。 「すべて神の主権である」と言いながら、実質的にはその主権から離されていく。それは背教です。キリストの十字架において、自分がキリストと結合して死に、よみがえったということから離されていくこと、これを背教と言います。最初からこれを知らない場合は、背教というよりも滅んでいます。 そして救いが、「私は分かった」という人の理解や、「私は選んだ」「私は感じた」「涙が出た」という感覚によって置き換えられ、それを教えて信じていくことを背教と言います。これが聖書で言っている背教です。 不法との関係を今から説明します。次、不法がありますね。「不法の者は、すべて神と呼ばれる者、礼拝される者に対抗して自分を高く上げる」。この不法というのは、背教と切り離すことはできません。不法とは「神の支配そのものを不要とする」構造です。 背教は神の主権を形式的に認めます。外側では認めたふりをします。しかし実質的には、自分を最終基準に据えています。 それは、無神論的な外側からの攻撃や、例えば仏教といった世界からの攻撃ではありません。背教というのは、嘘をつきます。外側ではさも信じているように「神の主権に従います」「試練を受けます」と言いながら、実はそれに従わない教えを受けることです。「神はあなたに素晴らしいものを約束している」「あなたの人生の計画は素晴らしい」「あなたは富んで病気から解放されます」……。このように、神の主権において与えられる試練や苦しみを、聖書と違うように解釈して教えていくこと。それに従うことが背教です。 ですから、背教の意味をここでもう一度しっかり理解する必要があります。たぶん、皆さんの今までの背教のイメージは「クリスチャンだった人がクリスチャンを辞める」程度のレベルだったと思います。でもそうではないです。そんなレベルじゃない。 「クリスチャンのふりをして生きていくこと」 が背教です。そして最初からクリスチャンではない人が、クリスチャンのふりをしている。それは偽のクリスチャンです。礼拝の中で聖書を語り、キリストを告白します。しかし、それは人間の救いの中心が「神から人へ」移っていきます。背教というのは単なる道徳的な堕落でも、単なる失敗でもありません。それは「福音の中心を神から人へ移す」という教理的な入れ替えを指しているのです。もっと言えば、真理を愛さず、偽りを受け入れて喜ぶこと。これが背教の姿です。 多くの反キリストの霊が世に出て、偽りの福音が語られ続け、多くの背教が歴史を通して起こります。これをパウロは言っています。 次に「不法」の理解、不法って何ですかという話に戻ります。第2テサロニケ2章が言っている不法は、神の主権を否定する思想構造が、人々に集中して現れていることを言います。人に現れます。思想は不法の根源ですが、不法の者は「人」です。なぜなら、あらゆる神に逆らう思想は人を通して現れるからです。不法は神の支配そのものを不要とする思想構造として働きますが、それは絶対に人を通して、人を中心に、人に集中してそこから現れてきます。それは歴史を貫きながらそうやって現れてきます。だから単なる思考ではありません、不法は。 この「不法の者」という「人」と言っているからには、人なのです。しかしそれは、多くの反キリストの霊が、多くの偽教師を送り出していく姿です。 ですから、この不法の者たちは、神の主権を形式的に認めます、外側で。導入は「神の主権、神は素晴らしい、私たちは神に頼って」というストーリーを展開しますが、後半から「人」に、「感情」に、「奇跡」に、「預言」に、そういったものですり替えていきます。そして実際には「人の決定」を最終基準とする、そういう構造です。 「キリストが成してくださる」と告白しながら、「私たちは頑張らねばならない、リバイバルを!」という風に行きます。礼拝を行いながら、神のご臨在を実質的に不要とするものです。そして、不法の秘密はすでに使徒の時代から働いていると2章7節で言っています。 そしてパウロはこう言っています。 4節「不法の者は、すべて神と呼ばれる者、礼拝される者に対して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。」 ここで、それらの者が「神の宮に座る」と言っています。この神の宮に座る、という終末の構造をディスペンセーションや歴史的前千年王国説に持っていくとどうなるか。結局、彼らは「イスラエル国家の回復」が主眼になってくるので、必ず物理的な神殿を持ってきます。そうすると、大患難の後半3年半で、神の宮に不法な者が立つ姿を描きます。そうすると、神の宮というのは「第三神殿」しかなくなります。 ですが、それは間違った聖書理解です。ここのテサロニケ書で「神の宮に座る」というのは、旧約的な石の神殿の再建を前提にしていません。この「神の宮」というのは、神の民の共同体です。旧約から新約に一貫して通底する、この神の民の集まり、それは教会というふうに示されます。イエス・キリストの体です。 この体の中に、この礼拝領域の内部に侵入するということを意味します。「神の宮に座る」というのは、2章4節にあるように、礼拝の領域の中に入り込んできて、そして**権(けん)**を奪う位置に座る、そういう侵入の仕方をすると語っています。 これは外部からの攻撃ではありません。内部においてそういったものが現れて、愛する神の宮の中に座を設ける。そこを支配するということです。このように私たちは、不法は歴史の中で広がっていくのだと理解します。 この第2テサロニケの3〜7節の構造は、全体の福音の構造を見ると、決して「携挙があって、大患難があって、そこに神殿が建てられて祭祀が行われ、動物の犠牲が捧げられる中で、そこに人が立つ」という解釈ではありません。どこにもそんなこと書いてありません。 「神の宮」とは、あなた方が神の宮であることを知らないのですか。神の宮はすべての選ばれた民のことを言っています。そして、不法はパウロの時代からすでに動いています。終末は、この不法が「質的に激化」するということです。 そして再臨は一回です。イエス様が来られて、8節で「御口(みくち)の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされる」と言っています。 もう一度言いますが、聖書の終末を読む時に決して忘れてはならないのは、多くの人はすでに騙されて、こう読みます。「イスラエル国家の回復が前提となっている。そして神殿が建つ、祭祀制度がある、動物犠牲の再開が組み込まれた」、そのスキーム(枠組み)の中に置かれています。なので、このように(聖書的に)話を聞くと違和感を持ちます。なぜなら、騙されているからです。 そういう枠組みを先に作った人たちは、その枠組みにこのテサロニケの本文を配置するために、神学的に曲げて入れていきます。ですから解釈が全く変わっていきます。 最後にパウロは、「それらが起こらなければ主の日は来ない」と言っています。3節「滅びの子が現れなければ主の日は来ないのです」。これは「印が揃ったら来る」という意味ではありません。これも先ほどの「携挙・大患難」というスキームの中で見るからそうなってしまうのです。 これは何かと言ったら、神は「毒麦と麦を分ける」と言っています。それは「騙しが完成するまで」です。騙しが完成するまで裁きは行われない、という神の支配の秩序を言っています。 「滅びの子が現れる」というのは、毒麦がはっきりと現れるということを言っています。しかし、これは歴史の中ですでに起こっています。そして最終末になると、それが激化してもっとはっきりと、多くの毒麦が見えてきます。 神はご計画をされています。神は選びの民を決して見捨てない。神は、偽りがはっきり見えるまで待つのです。だから「誰も抜いてはいけない」と言います。神は偽り者が、滅びの子たちがはっきりと現れるまで待ちます。それが終末になると激化します。 キリストとの結合にある者は、騙されない。 パウロはこの手紙の流れの中で、2章13節でこう言います。 「しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなた方のことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による**聖別(せいべつ)と真理に対する信仰によって、あなた方を初穂(はつほ)**として救いに選ばれたからです。」 ここで「選び」が出てきます。パウロは、神が選ばれ、そして真理によって聖別され、神の主権によって守られている、と言っています。つまり、騙されない理由は「人の判断」や「知識レベル」ではありません。神と結ばれていることによる「守り」です。 教会に騙しが入ってくる。選ばれた民のところにも入ってくる。人間中心の考えを権現する人たちが動いてきます。しかし、神はそのすべてを理解しています。キリストに選ばれた者は最後まで守られる。 恐るべきものは終末そのものではない。何も恐れるものはありません。「私は決してあなたを見捨てない」という言葉はそのままです。一番いけないのは、福音が別のものに置き換えられること。そこに「騙されるな、注意しろ」と言っています。 それはどうやってですか? 私たちに学問的な知識があるわけではありません。聖書の知識もほとんどない、赤ちゃんです。自分を守る術など持ち合わせていない、床のゴミを拾って食べるバカな子供です。しかし神は「騙されるな、神により頼め」と言っている。 歩く道で、いつも神により頼むことです。自分自身のうちにあるイエス・キリストとの結合をいつも感謝して、たとえ試練や苦しみがあっても、それは神から来て、神が私たちをキリストに導いてくださる摂理であると理解して感謝すること。それが「騙されるな」に対する抵抗なんです。 私たちには知識などない、聖書の知識などほぼゼロに等しいです。そこに寄り頼むのではなく、神により頼む生活において、私たちの人生において「安価なもの」を選んではいけません。楽な道を選んではいけないです。たとえ辛かろうが悲しかろうが、神が私たちを導いておられるという認識を絶えず持ってその道を進んでいく。そして神により頼む者に変えられていく。私たちの人生には辛く悲しい出来事がいっぱいありますが、そこで逃げずに、たとえ心がしおれても神により頼む時に、私たちは「神により頼む者」という位置に置かれます。それが「騙されるな」ということです。 お祈りします。 愛する天のお父様、感謝します。私たちの周りにある多くの背教、騙しによる背教が、なんと多くあることでしょうか。キリストが中心から外される、キリストと結ばれていることを忘れ去らされる、十字架のみわざと一つであることを思い出させない。自分の理解、わかったつもり、自分の選択、体験、そんなものに置き換えられます。主よ、どうかこの世の不法の者による騙し、背教が起こることのないよう、どうか導いてください。守ってください。愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。 アーメン。
- 不法な者とは誰か
2026.2.7 豊川の家の教会 礼拝メッセージ 今日のメッセージのテーマは「不法な者とは誰か」というテーマで話をしたいと思います。 第二テサロニケの2章の1から2節、そして第二テサロニケの2章の3から7節。 「どんな手段によっても、誰にも騙されてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。 不法の者は、すべて神と呼ばれる者、礼拝される者に対抗して、自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話していたのを覚えていませんか。 不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているものがあると、あなたがたは知っています。 不法の秘密はすでに働いています。ただし秘密であるのは、今引き止めているものが取り除かれる時までのことです。」 この御言葉は、人間中心主義と神の主権の両側面で解釈すると全く違ったものになります。人間が考える考え方で解釈すると全く変わります。 私たちがこの御言葉をどのように理解しているのか。 まず第二テサロニケは、終末の出来事を説明する手紙ではありません。ここをしっかりと理解する必要があります。終末の出来事を説明する手紙ではないです。 この手紙が語っているのははっきりしています。 神がすべてを支配していること。神が選んだ者をキリストと結びつけて救うこと。神が歴史を導いて最後まで守ってくださるということ。そしてイエス・キリストの再臨の時、神が正しく人を分けられること。毒麦と麦を分けます。 そして、そのためにパウロは、間違った終末の考え方をやめさせるためにこの手紙を書きました。これが第二テサロニケの目的でした。 止めたことというのは何かを説明します。 2章の1節から2節でこのように言っています。 「さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの再臨と、私たちが神のもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。」 再臨の時に集められるということに関してのパウロのお願いです。 2節。 「霊によってであれ、言葉によってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」 この御言葉の言っているイメージ、わかりますよね。主の再臨が来る、また来た、というような話が出てくる。霊によったかであれ、これは偽預言者が出てきて言うということです。 また、偽預言者が御言葉を持って説明したりとか、私たちから出たかのような、教会の中からそういう話が出てくると言っています。 ですが、それを聞いて、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。 パウロはイエス・キリストが来られるということを否定していません。むしろ肯定しています。来るよって。来るけど、パウロが止めているのは、主の日は来た、またはもうすぐ来るとか、今どこまで進んでいる、こういうことが印だ、これをパウロは止めています。 こういうことを言う者が出てくるから、その言葉を聞いて落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。 こういう教えが広がると、心が不安になります。教会が混乱しだします。そして実際この現実の社会においてやるべきことを放り出して、訳の分からない世界に入ってきます。 これは、事例で言えば、ある人が間違ったそういう教えに入ってきます。そうするとその教えは、だいたいイスラエル国家と結びつけて、この地上の出来事に結びつけていきます。 または偽のキリストが現れて、自分こそキリストだと言います。そして再臨がもう起こっているという話をします。このような考え方、偽の教えが出てくると、イスラエルで何か事件が起こるたびに、その人の心は騒ぎます。落ち着きを失います。 また、偽のキリストが出てくるというと、その人の心は騒ぎます。落ち着きを失います。 そして結果的には、偽のキリストが出てきている、それがキリストだとすると、私たちはもう大丈夫だと思って、やることはないって、この現実の社会においてやらなきゃいけないこと、責任を放り出します。 イスラエルに何かが起こって、それが印だと見ると、そちらの方に目が行って、現実にやるべき責務、クリスチャンとして与えられている責務、または社会の一員としてやらなきゃいけない、本当にやらなきゃいけない責任を放り出します。そしてそちらに入っていってしまいます。 だからパウロははっきり「騙されるな」と言いました。 現実の社会から目を背けて、実際の日常生活の困難から目を避けて逃げるんです。 それがこのパウロが止めていることです。このテサロニケの手紙の目的です。 そして終末という教えに必ず、人間中心主義的な人が読み取ろうとする。この人間中心主義というのは、自分で終末がどういうふうに起こってくるのかを、聖書を紐解いて読み取ろうとします。 このことがまた間違いです。年表作りと言います。 再臨における年表作り。いつ何が起こって、こういうことが起こって、こういうことが起こって、こういうことが起こって、順番こうなって、流れがこういう風になっている。これを年表作りと言います。年表作りの考え方というのは非常に問題です。 これは聖書を未来を当てる本として読む。だから聖書は命の書ではありません。彼らにとって未来を読み解くための、未来を当てるための本になってしまいます。 そして何を今度その人はするかというと、情報を集め出します。その聖書の中に書いてあることが、情報になってしまいます。 そこには命も実体もなく、ただ情報になって、こういう順番でこれが起こる、あれが起こる。そして神が決めている時を、人の理解で管理しようとする。管理したがる。それは間違った終末の考え方。 年表作りも、出来事探しも、これを止めるために、この第二テサロニケは書かれています。 なぜなら、聖書の中心は神の主権です。 聖書はこう語ります。使徒の働き1章7節でこのように言います。 「それは、父がご自分の権威によって定めておられる時や時期です。」 ここに立てつきます。 この御言葉に、神が決めていて、神の時、あなたの救いも神の時だけど、あなたは自分の救いをいつ起こるのか分かってなかった。 だけど自分は神に救われておいて、そしてそれに対して再臨の時を当てよう、調べる、そのような行為になります。 パウロはこれを厳しく止めています。 神が定めている時は人のものではない。神のものです。神が定めている時を人のものに変えようとする。すなわちそれは、人間が自分が主語になって、自分がそれを解釈して自分が管理する。 しかし聖書は、父がご自分の権威によって定めておられる時や時期、これが終わりの時だと言っています。 パウロが教えている本当の前提、これを説明します。 パウロは第二テサロニケの2章の3から7で、不法の者について話しました。最初に読んだ御言葉は、不法の者が現れると言っています。 この不法の者というのはどういう意味なのか。 まずこの不法というのは、不法の者は乱暴をする、または反キリスト的な悪い人という意味ではないです。 この不法というのは、神が決めた時、神が隠されていること、神の主権、再臨の時、これを人の理解で動かそうとすることです。不法というのは、神が決めて、神が隠されて、神が神の時に行おうとしていることを、人の理解で変えて動かそうとする人たちです。 年表作りや出来事探しは、何を意味しているか。 それは神が隠していることを、人が分かる情報に変えて、そしてそれをもってまだ大丈夫だと安心したり、または他より優位に立とうとする考え方です。 年表作りや出来事探しの真意は、神が隠していることを自分が分かる情報に置き換えて、安心したい、優位に立ちたい、そういう考え方、これが不法です。 すなわち、それが人間中心の自分勝手な考え。これを行う者が不法を行う者です。 つまり、不法の者の正体。 2章の4節に不法の者の正体が書いてあります。 彼はすべて神と呼ばれる者、また拝まれる者に反抗して、自分を神の座に据え、自分こそ神であると宣言します。 自分こそ神で宣言する。すなわち、自分を神の位置に置く。神が決めるべきことを人が決める。神の主権を自分の理解と判断で置き換える。こういう構造です。 すなわち、「私が、私のために、私によって、私による宗教。」人間中心の宗教です。 教会の中に現れるという警告があります。私たちの側から出てくる。パウロが問題にしているのは、外の世界の悪人ではない。 そしてパウロは言います。 「誰にも、どのような方法によっても騙されないようにしなさい。」 思いっきり騙されてる人いますけど、誰にも、どのような方法によっても騙されないようにしなさい。 これは、教会の中に、キリスト教と言われている教会の中に、信仰の言葉を使って聖書を引用しながら、実際には人間中心で考える人々が現れるという警告です。 私のために、私が、私によって、すべて私。神ではない。 頑張ればなんとかなる。聖書を毎日読んで訓練すれば私は変わる。これすべて人間中心です。 私には強い信仰がある。私は心まで腐ってない。すべて自分中心です。 このような人たちは教会の中にいて信仰の言葉を使います。信仰の言葉、聖書の言葉を引用します。しかし何も分かっていない。実際には自分中心で考えている人々です。 そういう人たちが現れるという警告です。 この主題と絡めて言えば、不法の思想とは、例えば次のようなもの。 今は、どの段階にありますか。主の再臨は近いですか。 この出来事が印だ。 赤い雌牛が現れた。 赤い雌牛が印だと判断できる。 正しく地理的に神の計画を読まなきゃいけない。 今のような考え方はすべて、「父がご自分の権威によって定めておられる」というイエス・キリストの御言葉に反しています。 それは反キリストです。それは反キリストです。 なぜなら、神が隠していること、隠されていること、人が人間の力で読解できないことを、さも読解したように情報に置き換えるんです。 そしてそこには、安心と興奮と優越性がある。自分たちは知っている、自分は知っているというような愚かな優越性を持たせる。そして愚かな安心を持たせる。疑わない。 パウロは第二テサロニケ2章10節でこのように言っています。 「これらの人は、真理を愛することを受け入れなかった。」 パウロは、そのような考えを持ってキリスト教の中から現れてくる人々が、いかに不法な者であり、そして彼らは神の権威を否定して、神が隠されていることを自分の理解で折り曲げて、そして安心や興奮や優越性を持ち、「自分は知っている」という愚かな考えに導いていく。 そしてパウロはそれらの人のことをこう言ったんです。「真理を愛することを受け入れなかった。」 ですから第二テサロニケが言っていることは、不法の者とは、人間中心に神に逆らって立つ者が現れると言っています。 そしてそのような思想を持つ人々が、教会の中に現れてくると言っています。 彼らは神の主権と時を、自分の理解で管理しようとします。それは反キリスト的な構造です。これを第二テサロニケでパウロは批判して止めています。 これが真意です。第二テサロニケの。 ですからパウロは2章15節でこう言います。 「ですから兄弟たち。しっかり立っていなさい。」 この「立つ」という意味は、見抜くことでも、裁くことでも、そういうことは言っていません。ここでは。見抜くことも裁くことも言っていない。 言っていることは、神が主である、すべては神の主権の中の秩序にある、この秩序、支配の中に留まりなさいと言っている。 そしてパウロは2章6〜7節でこう言います。 「今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。不法の者がその定められた時に現れるようにです。不法の秘密はすでに働いています。ただし、それが秘密であるのは、今引き止めているものが取り除かれる時までのことです。」 ここで語られているのは、神の主権による抑制があります。神の主権の抑制、つまり神の支配によって押し留められているものがあるということです。 この箇所(6と7)の前提は、終わりの印を当てるということではなくて、「主の日はすでに来た」という誤った教えの反論です。 「主の日はすでに来た」という誤った教えの反論であって、不法の者が勝手に出現するということではなく、不法の者は、神が定めた秩序と時の中でのみ現れるという宣言をしています。 不法の者が勝手に現れてきたのではない。不法の者が、神の定めた秩序と時の中で現れるという、そういう宣言をしています。 では、ここの不法の者を引き止めているものとは何でしょうか。この不法の者と言われている反キリストを引き止めているもの。「今はその者を引き止めているものがある」「今引き止めているものが取り除かれる時まで」。 ここで重要なのは、何者かを特定することではないんです。 ここで重要なのは、その不法の者は、神が支配の中で抑制しているということです。 もう一つ言えば、この抑制というのは神の支配の下にあって、人間や悪魔ではない。 パウロはこう言っています。 不法の秘密はすでに働いている。全面的には現れていない。なぜなら神が止めているから。こういうことです。 この不法の秘密はすでに働いている。全面的には現れていない。神が止めているから。 この「秘密」という意味。 不法の秘密はすでに働いています。この「秘密」というのは、陰謀論みたいな隠された陰謀ではないです。裏の組織じゃないんですよ。見えない霊的な悪霊のネットワークじゃないです。 この「秘密」というのは、神が今は制限された形で働かせていて、定めの時にのみ全面的に明らかにする御計画、そういう意味です。 神が今は制限された形で働かせていますけど、定めの時に全面的に明らかにする。 つまり、不法は存在しています。先ほど不法の定義を言いましたね。不法は存在しています。しかし、支配権は与えられていない。時が来るまで拘束されている。 では、「取り除かれる」とは何を意味するか。 ここも重要です。 「取り除かれる」とは、神が敗北する?違います。善が消える?違います。世界が悪に明け渡される?全く違います。 それは神が、神の裁きの計画を次の段階に進めるということです。 抑制を押しとどめていますね、神が。それを解くということは何を意味するか。それは神がご自分で次の裁きに移行させるために行う、神の主権的な行為です。 これはローマ書の「引き渡す」裁きと同じ構造です。 ローマ書では偶像礼拝を行い、そして人は神のものを神以外の形に変えると言っています。そこで「放置の裁き」というのがあります。それは「引き渡される」という裁きです。 偶像礼拝を行う者たち、この偶像礼拝を行う者というのは、偶像という作り物を拝む者だけではないです。それは、その人が一番大事なものを神の代わりに、自分の大事なものにすり替えるという行為をする人たちのことです。 その人たちに神は、みだらな思いを与えます。そして、みだらな思いは、究極、神の裁きに行きます。そのような裁きを「放置の裁き」と言います。引き渡される。しかしそれは裁きの一つの形態です。 この箇所が語っていることを整理すると、この不法の者を止めているものが抑制している。そしてそれを解く。すなわち、不法の者が現れる。それは、不法は神の許可なしに一歩も進めない。サタンも反キリストの存在も、神の主権の中でのみ動かされている。 なので、教会は不法が広がっているから終わりだと怯える必要はない。なぜなら、不法の出現から、その時からすら神が支配しているから。 神はこの不法の者を罰せるということです。裁きの中に置かれていくということです。 神は今も世界を制御しておられ、不法の者ですら神の秩序の中でしか存在できない。そしてその不法の者は教会の中に現れてくる。 それは自分を神に置き換え、自分が神のように神の御座に座るという者たちです。 第二テサロニケの中に現れてくる不法の者とは、教会の中に信仰の言葉を使い、聖書を引用しながら、神の再臨の時を当てるために、いろんな技術、方法を使いながら、そして今がどの段階にあって、この出来事の印が何なのか、正しく使う、正しく理解する。 そしてその心は、神が隠していることを暴き出したり、人が解読できる情報に変えたり、そしてそういうことをしながら、安心と興奮と優越性を得ようとしていく。 これは「真理を愛することを受け入れなかった」という言葉のとおりです。 第二テサロニケが言っていることは、不法の者とは人間中心主義に従う者、そのような思想を持つ者たちが、神が抑制している時の中で教会の中に出現してくるということです。 彼らは神の主権と時を自分の理解で管理している。そしてそれ自体が反キリストです。 聖書の告白はこうです。 救いの始まりは、永遠のキリストとの結合。すべての救いの構造、歴史は、神の計画によって進む。終末について知れるのは、私たちの神が示したことだけです。救われている者、選ばれている者は、判断せず、目を覚まして待つ。この人間中心主義をしっかり見ながら、しっかり見極めながら、そして御霊の中を歩いていく。 永遠のキリストとの結合、そして永遠の救い。天に目を向けながら、この現実の中をしっかりと、誠実に逃げずに、苦難の中を歩いていく。 年表作り、時の出来事を見極める、これは全く逆です。これは意見の違いではない。主語が違う。 神が支配する歴史か、神が支配する救いの全体構造か。人が管理しようとする再臨の時か、歴史か。 第二テサロニケは、神によって、神が神の時に、終末の時も定められ実行すると言ってあります。 第二テサロニケで語っていることはこれだけです。 主ご自身が、第二テサロニケ3章16節でこう言います。 「主ご自身が、あなたがたに、いつでも、どのような場合にも、平安を与えてくださいます。」 神はキリストに結ばれた者を、その救いの始めから永遠まで、その歴史の中で、時の流れの中でも確実に守り、そして混乱から遠ざける。 そして再臨の時に、義人と不義人は正しく分けられます。そしてその選ばれた者たちを最後まで守り通し、神がその栄光の中に導かれていく。この救いの秩序は、すべて神の支配と主権によるもので、決して、決して揺らがない。 これが第二テサロニケの教えている教義の中心です。 では終わります。 祈り 愛する天のお父様、感謝します。今日のこのメッセージを、あなたが与えてくださったことに感謝します。 私たちが今日、「不法の者はどういうものであって、反キリストの構造とはどういうものであるか」ということを、あなたがしっかりと示してくださったことを心から感謝します。 この中において、以前は不法の者の中にいた者がいますが、心から悔い改めてあなたの御前に来ています。どうかその者をお赦しください。 騙されて、知らずに行っていたことです。どうか憐れんでください。 本来そのような者たちは滅び行くものでしたが、あなたが憐れみによって、時の中において、キリストと結んでくださったことを感謝します。 私たちの人生が確実にあなたによって守られ、そして混乱から遠ざけられること、そして再臨の時に私たちが迎え取られる、この保証を心から感謝します。 それはあなたの主権です。あなたの支配です。あなたのご支配によって行われるものです。私たちはそのことを今日学びました。 決してあなたのご支配は揺らぐことがない。あなたの御言葉は永遠になくならない。あなたの救いは永遠に、とこしえまである。 感謝して、御子イエスの御名を通してお願いいたします。アーメン。
- 死のとげは罪
第1コリント15:56 2026.2.4 The Word for you アダムの罪、死(神との分離)、死の支配(連帯)、原罪(罪の性質)、そして個々の罪の構造的なつながり 「順序」 1.アダムの罪 2.死(神との分離) 3.死の支配(連帯) 4.原罪(罪の性質) 5.個々の罪 6.律法による暴露 <説明> 1.アダムの罪 人類の代表 2.死(神との分離) 死が侵入した → 死は自然現象ではなく、神の裁きとしての「霊的、肉体的な関係的断絶」 3.死の支配(連帯) 死の支配が全人類に及んだ(エペソ:罪の下で死んでいると呼ばれる状態) → アダムの代表性によって、人類は死の支配の下に数えられた。 このロジックは反転して、同じように、一人のキリストの代表性によって、信仰による義を受けることになる。 ローマ人への手紙 4章22–24節 「それで、それが彼の義と認められた(ロギゾマイ)のです。 しかし、『彼の義と認められた』と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを 死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです」 ロギゾマイ(数える、帰属される、転嫁)は、代表性と数え見なされる、転嫁、帰属と言う会計的、法的用語です。 それゆえにキリストと共に死に、復活するという結合は全人格的、契約的なのです。 キリストの勝利は選ばれた人々の勝利です。 4.原罪(罪の性質) その死の支配に属する人間の存在のあり方を呼ぶ → 死の状態が、人間の存在構造として内面化されたもの。 5.個々の罪(思い・言葉・行為) 原罪の下で、個々の罪(罪行為)が生じる - 個々の罪は、原罪(罪の性質)の「実り」 - 原罪が原因であり、罪行為は結果 - したがって、人は罪を犯すから罪人なのではなく、 罪人であるがゆえに罪を犯す 6.律法はこの原罪、心の動機を暴露する イエス様は言われた、律法は行う前、心にある罪の性質を暴露する。 原罪はこの律法により、ますます罪とされる。
- 弟子たちの終末に対する2つの質問
2026.2.1 豊川の家の教会 礼拝メッセージ マタイの福音書 24章1~3節 "イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。 すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」" マタイ24章・マルコ13章・ルカ21章 弟子は終末にたいして2つの質問をイエス様にしています。 1. 弟子たちのこの質問について 三福音書はすべて、イエス様の神殿崩壊の予告から始まります。 マタイ24:2「ここでは、石が崩されずに積まれたまま残ることは決してありません。」 マルコ13:2「石が崩されずに、積まれたまま残ることは決してありません。」 ルカ21:6「石が崩されずに、積まれたまま残ることは決してありません。」 この直後、弟子たちは「いつ起こるのか」「そのしるしは何か」と尋ねます。 マルコ13:4「いつそれが起こるのですか。すべてが起ころうとするそのしるしは何ですか。」 ルカ21:7「それはいつ起こるのですか。そのしるしは何ですか。」 この質問は2つの質問から成り立っています。 マタイ24:3 ① これらのことはいつ起こるのですか。②あなたの来臨と世の終わりには、どんな徴があるのですか。 これは弟子たち質問が2つの出来事を1つとしてとらえていることがわかります。 神殿崩壊と、メシアの来臨と世界の終わりを一つの出来事として考えて質問しています。 この弟子たちの2つの質問とイエス様の回答を解き明かします。 イエス様は「神殿の崩壊は終わりではない」と説明します。イエス様はさらに、偽キリスト、戦争、飢饉、地震が起こること語りながら、しかしイエス様はまず、それが終末ではないと否定します。 マタイ24:6 「…これらは起こらなければなりません。しかし、終わりではありません。」 マルコ13:7 「終わりはまだ来ません。」 ルカ21:9 「終わりはすぐには来ません。」 これは非常に重要です。イエス様は最初に、 神殿が破壊されること、偽キリスト、戦争、飢饉、地震が起こることは「すぐに世界が終わることではないと明確に正しています。 2. イエス様はさらに迫害と混乱は続くが終末ではないと語ります 続いてイエス様は、迫害と偽りが増えることを語ります。 マタイ24:9–11 「あなたがたは苦しみに引き渡され…多くの偽預言者が起こり…」 マルコ13:9 「人々はあなたがたを議会に引き渡し…」 ルカ21:12 「人々はあなたがたに手を下し…」 弟子の感覚では、そのような状態は「もう終わりだ」と思わざるを得ない状態を聞いてもなお、 イエス様は終末ではない立場は変えません。そのように激しくなっても、再臨の時ではないと教えています。 3.弟子の問いの前半部分に対応する答え そしてイエス様は、非常に具体的な出来事を語り始めます。 これは「いつ神殿が破壊されるのか」という弟子の質問に対する答えです。 ルカは象徴を使わず、直接こう言います。 ルカ21:20「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その荒廃が近いことを悟りなさい。」 ルカ21:21「そのとき、ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。」 ルカ21:24「…剣の刃に倒れ、捕虜としてあらゆる国に連れて行かれ、エルサレムは異邦人に踏みにじられます。」これは完全に歴史的戦争の描写であり、弟子の質問のうち「これらのことはいつ起こるのですか」に対する答えです。 マタイとマルコでは同じ事態が、ダニエル書9、11、12章の預言語法で表現されます。 マタイ24:15–16「『荒らす忌まわしいもの』…を見たなら…山へ逃げなさい。」 マルコ13:14「『荒らす忌まわしいもの』…を見たなら…山へ逃げなさい。」 しかし、ルカがこれを「軍隊包囲」と説明している以上、三福音書が語っている出来事は同一です。 しかも逃げ方は非常に現実的です。 マタイ24:17–20 「屋上にいる者は…下りてはならない。」「妊娠している人…」 「冬や安息日に重ならないように祈れ。」 これは重要な理解をもたらします。 「逃げなさい」と言う表現は「再臨」には全く合致しません。再臨から誰一人も逃げることはできません。 それは復活と裁きと栄化の成就の出来事だからです。誰一人、逃げることも、隠れることも出来ません。 したがって、ここで語られているのは、弟子の質問の前半に対する答えであり、すなわちエルサレムの滅亡がどのよう起こるかと言うことです。 4. 「この世代」発言も、同じくエルサレム裁きを指している この部分に対して、時間枠が明確にわかる言葉が与えられています。 それは「この世代」と言う表現です。この世代とはその時に生きていた人々のことを指します。 イエス様がこのことを語ったときにそれを直接、聞いた人々の世代。 その時代の人々が地上から死んで消える前におこることを預言されています。 マタイ24:34「これらのことがすべて起こるまでは、この世代は過ぎ去りません。」 マルコ13:30「これらのことがすべて起こるまでは、この世代は決して過ぎ去りません。」 ルカ21:32「これらのことがすべて起こるまでは、この世代は決して過ぎ去りません。」 「これらのこと」とは、直前に語られた軍隊がエルサレムを包囲し、軍隊は神殿を立ち踏みにじる。 神殿は徹底的に破壊されて、多くの人々は虐殺され、逃げ・捕虜にされる出来事です。 したがって、この時はエルサレムの裁きを指しています。 裁きの「世代」について聖書は次のように言っています。 1) 荒野の放浪:裁きの世代=40年 民数記 14:29–34 「あなたがたの死体は、この荒野に倒れる。 …あなたがたの子どもたちは四十年の間、荒野で羊飼いとなり、 あなたがたの不信仰のゆえに苦しむ。」ここで明確に、 反逆した「この世代」は約40年の間にすべて死に絶え、次の世代に移行するという裁きの単位としての40年=一世代が設定されています。 2)「あなたがたの父祖の世代」=40年 詩篇 95:10 「四十年の間、わたしはその世代を忌み嫌って言った。 『彼らは心の迷った民、わたしの道を知らない。』」ここでも、「その世代」を神の怒りを受けた期間、すなわち、世代と40年が対応づけられています。 3)人の生の長さと世代感覚 詩篇 90:10 「私たちの齢の年月は七十年。健康であれば八十年。」 これは「世代」の定義ではありませんが、一世代が数十年単位で理解されている文化的前提を示しています。 4)新約における「この世代」という用語 ギリシア語 Genea(γενεά)は、血縁的世代、同時代に生きる人々を意味し、「種族」や「将来の時代」を指す語ではありません。 5)よって、マタイ 24:34 「これらのことがすべて起こるまで、この世代は決して過ぎ去らない。」 ここで使われている hautē hē genea(この世代)は、直前まで語られているイエス様の預言を聞き、神殿崩壊、都市の裁き、逃亡命令、包囲と苦難に対応する時代に生きた人々を指します。 したがって文法的にも文脈的にも、「この世代」は「「将来の遠い世代」や「民族イスラエル一般」、もちろん「異邦人が勝手に思う、世代」ではありません。 5. マタイ24:36 「しかし、その日、その時は」の意味 ここからイエス様は、弟子の質問の後半、すなわち「あなたの来臨と世の終わり」について語り始めます。 マタイ24:36「しかし、その日、その時は、だれも知りません…父だけが知っておられます。」 マルコ13:32「その日、その時は、だれも知りません…父だけが知っておられます。」 ここで接続詞「しかし(περὶ δὲ)」が使われ、話題が切り替わっていることが文法的にも示されています。 それまでの部分では、 ・見たら悟れ ・逃げよ ・この世代内 という読み取り可能な出来事が語られていました。 しかしここからは、 ・兆しでは読めない ・時は不明 ・常に目を覚ませ という性質の出来事、すなわち最終再臨が語られます。 マタイ24:42 「ですから、目を覚ましていなさい。 あなたがたの主がいつ来られるか分からないからです。」 ルカ21:34–36 「…思いがけないときに臨むことがないように、目を覚ましていなさい。」 マタイ24:36 「しかし、その日、その時は」以降は主の再臨と終末のことが語られています。 これは弟子たちが誤った神学認識に立って尋ねた2つの質問に対する回答でした。 6. なぜイエス様は弟子たちの質問に対してこのように語られたのか 弟子たちは、神殿の崩壊について聞いたとき、こう質問しました。 (マタイ24:3) 「それはいつ起こるのですか。あなたの来られる時と、世の終わりには、どんな前兆があるのですか。」 この質問の中で弟子たちは、神殿の崩壊・メシアの来臨・世の終わりを、すでに一つの終末出来事として結びつけています。 この質問には深い意味があります。 ディスペンセーション神学を例に説明します。 ディスペンセーションではまず完成像の設計ゴールとして、「イスラエル国家の回復、神殿再建、祭司制度と動物犠牲」の復活が設定されます。その完成にゴール到達するために、教会とイスラエルの分離が置かれ、携挙によって教会が地上から取り除かれ、その後にイスラエル中心の患難期が再開する、という神学的な工程が設計されています。 この枠組みが先に固定された上で、「教会時代」「患難期」「再臨」「千年王国」といった時代区分を設定して、 救いの全体構造を無視して、聖書を字義的にどの区分に属する出来事かと言う作業を行い配置しています。 この弟子たちの質問は、ディスペンセーションの思考構造とよく似ています。 神殿破壊、偽キリスト、戦争、飢饉、地震といった出来事を、歴史の中の裁きとしてではなく、終末完成へ直結する兆しとしてすでにゴールに設定しています。 ひとつの出来事としてとらえています。 そこにイエス様の言葉を当てはめてこのゴールを完成させようとして質問しています。しかしイエス様は救いの全体構造について語り、すべてが同時に起こるとは語られませんでした。 主はまず、福音の構造にあって、弟子たちの世代に臨むエルサレムへの裁きを語られます。それは単に都市の破壊ではなく、旧約的神殿体制、祭司制度と動物犠牲による礼拝が破壊され、キリストによる新しい契約の現実へと歴史が公然と移行する決定的な神の裁きと宣言です。 つまり、福音における神殿崩壊とは、「ここから先、神に近づく道はキリスト以外にない」という神の歴史的宣告である。 救済の構造そのものが不可逆的に1本にさらに展開したという福音構造の一貫性を宣言しています。 同時にこの裁きは、歴史の中で繰り返し起こる神の裁きの代表例として、最終的な完成、すべてのものが裁かれ、新しくされる時を指し示す「型」としても与えられています。 イエス様は、神殿の破壊と再臨とを一つの語りの中で重ねながらも、「しかし、その日その時はだれも知らない」と語りを切り替え、完成そのものは兆しによって読めない出来事として、明確に区別されました。 それは二つの出来事を年表で整理するためではなく、神殿の破壊が、完成へ至る救済史の流れの中に位置づけられていることを示すための語り方です。 7. この神殿の破壊と終末の再臨 これを一つの出来事としてしまうと、エルサレムの裁きも、再臨も、世界の完成も、単なる出来事の配列の管理へと変質します。 その結果、AD70神殿崩壊は神の裁きではなく、将来の患難期に属する出来事として再配置され、神殿再建と犠牲制度復活の余地が残されることになります。これがディスペンセーション、また、弟子たちの理解です。 すなわち、イスラエル国家の再建です。 しかし、イエス様、これを完全に否定しました。(使徒1:6、7) 「主よ、今こそイスラエルのために国を再興してくださるのですか」と尋ねています。 "イエスは彼らに言われた。 「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。 それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。" 主イエスはここで、弟子たちの問いの前提そのものを退けておられます。 直前の弟子たちの問いはこうです。 「主よ、今こそイスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(使徒1:6) つまり弟子たちはマタイ24章から昇天の直前まで、メシア=民族国家イスラエルの回復という旧来の王国理解の枠組みで救いを考えていました。 それに対して主は、 •時刻表は与えられない •王国再建スケジュールも示されない •そのすべては父の主権の中にある とはっきり切り離されます。 8. そしてすぐ次に、主は焦点を完全に別のところへ移されます 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8) ここで示されているのは、 •国家の回復ではなく •地理的拡張としての王国でもなく •結合の民が、歴史のただ中で証人として守り続けられ、広げられていく救いの構造です。 これは完全に、「イスラエル国家中心の終末スケジュール」から「キリストにある選びの民の召命と保持」へ 視点が転換されている場面です。 ですから使徒1:7は、 •終末の出来事を読むな、という意味ではなく •終末を出来事探しの対象として扱う読みそのものを拒否している と言うべき御言葉です。 ヘブル書もまたこう言います。 キリストは、ただ一度のささげ物によって贖いを完成され、旧約の犠牲制度は影であり、実体はキリストであり、罪のためのささげ物は、もはや必要ないと宣言されています。 つまり、神殿体制は一時停止されたのではなく、十字架によって救済史的役割を完全に終えたのです。 だからAD70の神殿崩壊は、偶然の戦争被害ではなく、十字架によって完成した救いを、歴史の中で確定させる神の裁きであり、二度と巻き戻らない転換点です。 そして、将来の神殿再建、祭司制度復活、動物犠牲再開という構想は、聖書的に成立しません。そのためディスペンセーションは、神殿崩壊の救済史的意味を消し、出来事を将来へ送り、教会を携挙させ、年表を成立させるために聖書の出来事を再配置しているのです。 10. ここで重要なのは、イエス様が区別して語られた二つの出来事 エルサレムへの裁きと、最終完成としての再臨を、 ディスペンセーションは再び一つの終末出来事としてまとめ直している、という点です。しかしこれは、弟子たちが最初に持っていた理解と同じ構造です。 弟子たちは、神殿が壊れるなら、それはすぐにメシアの来臨と世の終わりが来る時だ、という前提で質問していました。 だからこそ、 「それはいつ起こるのですか。あなたの来られる時と世の終わりのしるしは何ですか」 という一つの質問の中に、すべてをまとめて尋ねているのです。 しかし、イエス様は、理解を正して、歴史の中の裁きと、救いの完成とを区別して語られました。 ところがディスペンセーションは、主が区別して語られたこの二つを、再び一つの終末年表の中に押し込み、神殿裁きと再臨とを、同一の終末局面にまとめ直します。 つまりディスペンセーションは、イエス様が修正された弟子たちの終末理解と、同じ構造の読み方へと、イエス様の昇天前の弟子たちと同じようにもう一度戻っているのです。それは、弟子たちと同じ前提です。 すなわち、メシアとはイスラエル国家を回復するために来られる王である、 という国家回復メシア期待です。 弟子たちは、神殿の崩壊も、戦争も、終末のしるしも、最終的にはイスラエル国家の回復と王国の樹立へ至る道筋として理解しており、その国家的回復と再臨と完成とを、同じ終末局面の中で考えていました。 ディスペンセーションもまた、最終完成像としてイスラエル国家の回復、神殿再建、王国の地上実現を据え、そこへ至る過程として患難期と再臨を配置します。 その結果、神殿の破壊と再臨と王国回復は、一つの終末的工程の中にまとめられ、救済史的にすでに終わったはずの神殿体制が、将来の計画として再び中心に戻ります。つまりディスペンセーションは、イエスが十字架と復活を通して超えさせようとされた「国家回復メシア期待」という枠組みの中に、終末をもう一度押し戻しているのです。 だからこれは、単なる終末スケジュールの違いではなく、メシアとは何のために来られたのか、神の国とは何として実現するのか、という福音理解そのものに関わる問題なのです。なぜなら、聖書が語る救いの全体構造は、イスラエル民族や国家の回復ではないからです。 11. 主は弟子たちにいわれました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで、わたしの証人となります。」 弟子たちが自ら立ち上がる構図ではありません。神が臨み、神が力を与え、神が証人として立たせる。これは、再生・照明・聖化における神の主権的働きと同一の構造です。次に、「地理的拡大」が語られていますが、これは国家拡張ではありません。 •エルサレム •ユダヤとサマリア •地の果て これは使徒の働き全体の構成そのものになっていますが、重要なのは、王国が民族単位で再建されるのではなく、選びの民が諸国民の中から召し出されていくという救済史構造が示されている点です。 ここで成立しているのは、 •民族イスラエル中心 → 教会中心 •土地約束 → 全被造世界への召命 •政治的王国 → キリストにある霊的支配 という転換ではなく、より正確には、旧約の約束が、キリストにおいて成就し、教会において展開されていく構造です。 そして「わたしの証人となります」という語は、「あなたがたが証しする」ではなく、「証人として立たされる」という受動的構造を含んでいます。 これは、教会の本質が、 •世界を変革する主体ではなく •世界のただ中で、キリストの支配と救いを告白する存在 であることを示しています。 したがって使徒1:8は、終末論的に言えば、 •携挙による退避でもなく •王国回復の政治的完成でもなく •歴史からの離脱でもなく 歴史の中に置かれ続ける結合の民の召命を宣言する御言葉です。主は、弟子たちを歴史から取り去るとは言われませんでした。むしろ、地の果てまで、証人として立たせ続けると言われました。 これは、ヨハネ17章の祈りと完全に一致しています。 (ヨハネ17:15) 「わたしは、あなたが彼らを世から取り去ることを願うのではなく、悪い者から守ってくださることを願います。」 終末まで、教会は歴史のただ中に置かれ、神の主権によって保持され、完成へ導かれます。 救いの全体構造は、すでに永遠の過去において •キリストにあって選ばれ •キリストに結合され •十字架において贖いが獲得され •歴史の中で再生・照明・信仰・義認・聖化へと適用され •最後まで守り続けられ、栄化へ導かれる この一本の線の中で、父の主権によって運ばれています。 したがって黙示録、終末論は、未来の政治的出来事を配置するための体系ではなく、いま地上に置かれている結合の民が、どのように守り続けられ、完成へ導かれるかを告白する教理です。 そのすべての源泉は、キリストとの永遠の結合にあり、その完成は、新しい天と新しい地における被造物全体の更新です。 そこにおいて中心にあるのは、民族でも国家でも地上王国でもなく、キリストに結ばれた一つの民としての教会であり、神がご自分の民を最後まで守り通し、完成へ導かれるという神の主権の働きです。
- 結合、再生と内住の違い
2026.1.28 The Word for you 結合、再生と内住の違い 1. 結合は源泉であって、あらわされるもの 結合(union with Christ)は、時間の中で始まる出来事ではなく、永遠において神の側で確立された救済の源泉です。 したがって、再生、内住、信仰も、悔い改めも、義認、聖化、栄化すべては、結合そのものではなく、結合の実・あらわれです。結合は「起こる」のではなく、あらわれるのです。 2. 同じ結合の、あらわれ方の違い 同じ結合の、あらわれ方の違いを救済の秩序と呼びます。救済の秩序とは、徹底的に神が主語となります。 神が、永遠の中に選ばれた(選び) 神が、福音によって召された(召命) 神が、死んだ心を生き返らせた(再生) 神が、信仰を与え、悔い改めへと導かれた(回心) 神が、キリストのゆえに義と宣言された(義認) これらは同じ結合の、あらわれ方の違いです。 なぜ「秩序」というニュアンスが重要かあなたが「主語は常に神(人の行為は結果であり原因ではない)」と定めている以上、この順序は「時間的なプロセスの羅列」ではなく、「神の知恵による論理的な秩序」であると強調されるからです。 「原因」は神にあり、人は「結果」である:人が信じたから救われる(人=原因)のではなく、神が救いの秩序の中にその人を置かれたから、結果として信仰が現れる。 永遠のキリストとの結合: この順序がバラバラにあるのではなく、「キリストとの結合」という一つの源泉から、これらの恩恵が神の秩序に従って流れ出てくるのです。永遠の結合が源泉であり、そこから再生と内住が同時にあらわれ、再生は生命の開始として、内住はその生命を完成へ導く臨在として働かれます。 よって結合は常に「一つ」で「完全」です。 しかしその結合は、生命として 再生、臨在として 内住、変容として 聖化、完成へ導く力として 栄化異なる働き方で顕れます。これが救済の秩序と呼ばれ、それはあらわれ方の違いです。 3. 再生=結合が生命としてあらわれる瞬間 再生とは、永遠の結合が、死んでいた魂の中で生命として働きし始める出来事です。これは、一回的、創造的、神の単独行為で、再生とは、感情や思考の改善ではなく、存在の支配が死から命へ移される出来事です。 4. 内住は結合が臨在として持続的にあらわれるあり方 一方、内住とは、結合にある者のうちに、キリストの御霊がとどまり続け、聖化と完成へ導く臨在の在り方です。 ここでの焦点は、生命の開始ではなく、生命の成長と守り続けることにあります。内住とは、結合が、関係、また臨在として継続的に働かれている状態です。これは感覚の問題でも、体験の強さの問題でもなく、 神がご自分の民を最後まで守り続けられるという契約の現実です。 5. だから「再生も内住のどちらも結合の顕われ」で正しい 違いはここだけです。 救済の秩序 結合の顕われの形 再生 生命の開始(死 → 命) 内住 臨在の持続(命が保たれ導かれる) 永遠の結合という一つの源泉から、再生が現れ、内住が現れます。その内住の働きの中で聖化が進められ、最終的に栄化へと完成させられる。すなわち、永遠の結合から始まり、再生と内住によって進められてきた御霊の働きは、再臨において栄化として完成します。 再生と内住は時間的に分離した二段階ではなく、再生の瞬間から御霊はすでに内住しておられ、再生は生命付与という一回的行為、内住はその生命を完成へ導く継続的臨在として区別される。 6. 「結合を語らない教え」は必ず人間中心の教え そして結合が源泉であることを否定する、すなわち、それは 再生は人の決断になり 内住は体験レベルになり 聖化は努力目標になり 教会は組織になる こうして救済の主語は、人にあります。これは偶然ではなく、構造的必然です。 7. まとめ 結合は永遠の源泉 再生は結合の生命的顕れ 内住は結合の臨在的顕れ 両者は分離された恵みではなく、同一の結合の異なる顕れ、救済の秩序なのです。 再生と内住は、信仰者の「肉体」を含む全存在の救いです。最後に、決定的に重要な点を明言します。 再生も内住も、心や意識の奥底だけの変化ではありません。信仰者の肉体を含む、存在全体への再生であり、内住です。 聖書はこう語ります。「あなたがたのからだは、御霊の宮である」 つまり、内住とは、魂や思考の領域に限定された臨在ではなく、信仰者の肉体を含む全存在が、キリストの臨在の場とされているという現実です。 再生も同様に、精神の向きが変わるという話ではなく、全人格と全存在の支配が、死から命へ移される出来事です。さらに、この救いは個人で終わることはありません。 また、再生と内住は、契約の現実であり、教会を形成し、歴史を貫き、最終的に信仰者の肉体の復活と新天新地へ至る、全救永遠の時の始まる前から現在、そして永遠の未来にわたる救いの全体構造の現実です。 したがって、再生も内住もキリストとの結合が、魂だけでなく肉体を含む存在全体と、救済史全体に及んでいるという現実の顕れです。救済にの秩序です。 栄光は神にのみあります。
- マタイ24章 選びの民は誰か 黙示録3
2026.1.25 豊川の家の教会礼拝メッセージ マタイの24章の選びの民は誰か、また反キリストと獣の刻印、そして終末的迫害をどう位置づけるべきか。ここのところを整理していくと、終末論は「これから何が起こってくるのか」「どういう出来事が起こるのか」という出来事探しから、神の召しに生きることへ変わっていきます。 マタイの24章の「選びの者」とは、選ばれた、時の始まる前に選ばれた者たちということです。マタイの福音書24:22にこうあります。「その日数が少なくされなかったなら、だれも救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのためにその日数は少なくされます。」 また24:31にこうあります。「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方から、その選びの者たちを集めます。」 このマタイの24:22と24:31は、一つの裁きの後に語られます。イエス様はイスラエルの神殿が破壊されることを予言しています。AD70年のことです。この後に、選ばれた者たちを集めると言っています。そしてその集め方は「天の果てから果てまで、四方から」です。 すなわち、神殿制度が神によって破壊されて、旧約の祭司による、また動物の犠牲による、また神殿による礼拝を神は否定しました。そして神は、聖霊によって新たに生まれた人たちを四方から集めると言っています。 選びは民族イスラエルではありません。これは聖書が一貫して言っていることです。キリストの中に置かれている人たちです。エペソ1:4はこう言います。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選ばれました。」 ここでとても重要なのは、「キリストにあって(in Christ)」、そして「世界の基が据えられる前」です。この中において選ばれたと言っています。 ですから、聖書は初めからイスラエルという国家民族を選んだのではなく、時の始まる前からキリストにあって、キリストに結ばれた中において、御子の中で人々を選んだとはっきりと言っています。これはローマ書11章でもパウロが「選びの恵みによる残りの者」がいると言っており、そのことを言っています。 したがって「最初はイスラエルが選ばれていた。そして次に教会が現れたのでそれを教会に置き換える」という考え方は、ディスペンセーションが「置換神学」と呼んで批判するものです。ディスペンセーションを信奉している人たちは「最初はイスラエル、後で教会に置き換えた」ということが、これが聖書的に間違っていると言います。しかし、この枠組み自体が聖書の御言葉をねじ曲げています。もともと選びは民族ではありません。 神はイスラエル民族全体を救うという根底が、もともと存在していないのです。この考え方は聖書の御言葉をねじ曲げて作られています。それが分かります。その構図、「置換神学」と言っている構図自体が、エペソ1章と全く違います。 またローマ書も、またその他の箇所も、聖書が一貫して言っている選びは、神の主権によって時の始まる前に行われているということです。ディスペンセーション神学はそれをねじ曲げています。これが真実です。 最初から選びはイスラエル民族ではなく、神の主権によって、キリストとの結合に置かれている、in Christであり、一貫しています。そして贖いも、子としての身分も、すべてキリストの中で与えられていると聖書は言っています。すべてがキリストにあって、すべてがキリストにあってです。 「キリストにあって」という一点に集中します。救済史の中心は常にキリストです。アブラハムの民族でも、モーセの契約でもないです。神殿でもないです。祭司制度でもありません。生贄でもありません。御子に結び合わされているという一点です。 一つの選び、一つの救済史であり、分断されません。そして一つのキリストと結ばれている民がいます。 マタイの24章の選びの者は、すべての選ばれた人々、すなわちキリストの体です。それを聖書はエクレシアと呼びます。 だから、民族イスラエルは選びの者ではありません。ディスペンセーションの教えの問題の核心はここです。なぜ私はディスペンセーションを批判しているのか。批判ではなく、これは事実です。そして、このディスペンセーション主義が日本の多くの教会の終末論の根底を今形成しています。どこに行っても、ほとんどの教会はディスペンセーション主義の終末論が入ってきています。それは大きな問題です。 この選びをディスペンセーション主義的に民族イスラエルと呼ぶためには、どのようにしなければならないのか。なぜ日本の教会はそのようにディスペンセーション主義を取るところが多いのか。 それは、新約聖書において、すべての選ばれた人々に与えられている言葉があるからです。それは「選び」「聖なる民」「神の所有」という言葉です。新約において、パウロもペテロも、選びの民としてそれを語っています。選び、聖なる民、神の所有です。 もしこれを将来の民族イスラエル、国家イスラエル、そして教会とは別というふうに分けるのであれば、その「選び」「聖なる民」「神の所有」という選ばれた人々に与えられた言葉を、教会から奪う必要があります。騙して奪って、国家イスラエル民族のものであると認めさせる必要があります。 ですから彼らの教えの中に何があるか、例えば「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉を、これはイスラエル民族に語られたものだからクリスチャンは関係ないと言います。「あなたがたはこれをイスラエルから取ってはいけない。あなたがたにはあなたがたに向けた言葉がある」と言います。 そのように騙して、そして選ばれた民から、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉を取り上げます。それは「あなたは選びの民ではない、聖なる民ではない、神の所有ではない」と言っているのと同じです。そのようにして、選びの民から「選び」「聖なる民」「神の所有」を奪います。 しかし聖書は一貫して言います。神は、時の始まる前から、あなたに言うのです。in Christ、あなたは選ばれている、選びの民です。あなたはキリストの体です。キリストによる新しい契約の民です。そしてあなたが生きるその行いは選びの結果です。宗教的な偽善ではないと聖書は語り続けています。 従って、マタイの福音書の「選びの者」、また聖書全体に書いてある選び、エペソの選び、ローマの選び、パウロ、ペテロたちが語るこの選び、時の始まる前、そして「聖なるもの」、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉は、国家イスラエル、民族イスラエルではありません。 もしこれを民族イスラエルだとする論理を持ち出したら、聖書の全体の構造と正面衝突します。聖書の全体の構造とは、永遠の時の始まる前から、神が私たちを選んで、そして召して、再生して、そして信仰、義認、聖化、栄化、永遠の未来までを保障しているという全体です。これと全面的に衝突しています。 従って、マタイ24章で守られて集められる選びの者というのは、時の始まる前から選ばれている者たちであり、それはイスラエルの中から神が時の始まる前から選んだ人々がいます。また、すべての異邦人から、時の始まる前から選ばれた人たちがいます。そして彼らは召し出されてきます。 それらの人を、すべての民と言います。そこには老若男女の違い、子ども、老人もありません。すべて選ばれた人たちです。彼らはキリストの体と呼ばれます。ギリシャ語ではエクレシアと言います。そのエクレシアとは、召し出された、選ばれた、集められた者たちの集まりと聖書は正確に呼んでいます。なのに「民族イスラエル」と呼んでいるこの人間中心的な宗教は、なんと人々を苦しめるのでしょうか。 終末的迫害は、教会の不在の時期かどうかということについて話します。 ディスペンセーションの傾向思想は、「教会は地上から除去される」「大患難はイスラエルと未信者の時代である」という考え方です。これはディスペンセーションから来ている思想ですが、多くの福音派教会に広がっています。 この「ディスペンセーション」という言葉を知らない人たちはとても多いです。ディスペンセーション主義という考え方を理解していない人たちは多いです。言葉は知っていても内容を理解していません。だから「ディスペンセーション主義って何ですか」と言っても、その目的と結論を言える人はほとんどいません。 ディスペンセーション主義の目的は、ユダヤ主義、神殿主義、祭祀主義、動物の生贄に戻ることを目的としています。 話を戻しますが、ディスペンセーション主義は「教会は迫害から除去されて逃げられる」「大患難は通らなくてよい」「私たちは空の上から迫害と大患難を見るが私たちは大丈夫」という精神に人々を向かわせます。自分たちには関係ないという方向へ行きます。しかし黙示録13:7はこう言います。 「彼は聖徒たちに戦いを挑み、これに勝つことが許された。また彼はあらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」 ここで私たちははっきりと見ます。聖徒たちは迫害されています。選ばれた者たちは迫害されているのです。さらに黙示録全体で繰り返される言葉があります。それは「ここに聖徒たちの忍耐がある」です。また黙示録13:10でこう言います。「捕らわれの身となるべき者は捕らわれの身となり、剣で殺す者は剣で殺されなければならない。ここに聖徒たちの忍耐と信仰がある。」 忍耐と信仰が必要であるのです。さらに14:12。「ここに神の戒めを守り、イエスへの信仰を保っている聖徒たちの忍耐がある。」忍耐があるのです。そして患難の中にいるのです。どこに「私たちは空の上から迫害と大患難を見ていればよい」という発想があるのですか。聖書の黙示録の中にはありません。それは全く間違っています。 「男が二人いて畑にいると、一人は取られ、一人は残される」についても同じです。ノアの箱舟の文脈で固定されていて、取られる者たちは滅ぶ者たちです。いつの間にか携挙思想は、「自分たちは苦しみを避けたい」という人間の欲に従って「逃げること」を選ばせています。しかしイエス様は、その者たちは滅ぶと言っています。 なぜディスペンセーションが携挙を挟んでくるのか。それはイスラエルが終末期において救いの中心になるというロジックを立てるからです。最初に言った通り、彼らは「イスラエルは神殿が再度再建され、祭祀制度が戻り、動物の生贄が始まる」とします。それを彼らは記念としてだと言いますが、これはヘブル書が言っていることと全く違います。生贄はもうありません。イエス・キリストが神殿です。 そして彼らのロジックは、終末においてそれをイスラエル国家が、イスラエル民族が回復する、それが神の救いのご計画の第一義だという形で来ます。 そうすると彼らの考え方で一番困ることがあります。それは「選ばれた者たちはイスラエルでなければならない」ということです。異邦人はおこぼれをもらうという考え方です。 さらに、教会が大患難期を通って存在していくと困るのです。なぜなら教会がキリストの体であり主役だからです。この主役である教会が大患難期を通って存在していくと、主役がイスラエルに行かないのです。 だから彼らは教会を取り除くのです。「携挙」という言葉は聖書にはありません。しかし第一コリント15章を携挙だと言って使い、教会を一回外に出して、残りの患難期7年のそこからイスラエルが主役で出てくるとします。そして神殿を作らせて、祭祀制度を始め、動物の犠牲を始める。これは聖書が非難している律法主義に戻ることです。 だから彼らは旧約を全うしたいのです。なぜなら旧約の中にキリストを見つけることができなかったからです。旧約の中に神の主権とキリストとの結合を見つけられず、旧約を読んでもキリストを見つけられなかったのです。だからそこに行きます。それは滅びの道です。 患難はこのように選ばれた者たちが必ず通る道です。聖書に患難を通らないクリスチャンなど一つも書いていません。聖書の中で患難を通らないクリスチャンは書いていません。どうしたらそうやって読めるのですか。読めるのです。それは聖書の御言葉をねじ曲げるのです。 ですから大患難の時代は、イエス様が話している通り、イエス様が昇天してから神殿がローマ軍に囲まれて破壊されたところからもう始まっています。何百万というユダヤ人たちが迫害を受け、殺されていきました。今まで見たこともないような悲惨な状態です。イエス様はそう予言しています。すでにそこで予言が成就しています。そしてこの患難は、イエス様が再臨されるまで必ず続いていきます。 三つ目に反キリストについて話します。反キリストは一人の超人物か。反キリストをどのように考えるのか。人々は反キリストを探そうとします。反キリストは額に666と書いてあるから、お前の頭の中に666があるか、などと冗談で言っていた時があります。しかし第一ヨハネ2:18はこう言っています。 「子どもたち。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストが来ると聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることが分かります。」 ここでヨハネは「今や多くの反キリストが現れています」と複数形で語っています。反キリストは歴史の中で現れ続けるということです。そして「それによって今が終わりの時であることが分かります」と言っています。終わりの時は始まっているのです。 しかしディスペンセーションは「終わりの時はまだ来ていない」と言います。けれどもヨハネは「今が終わりの時であることが分かります」と言っています。なぜなら反キリストが多く現れているからです。だからイエス様が昇天してから再臨される間、反キリストは多数現れるということです。 そして反キリストというのは、キリストの人性であるキリストと、神であるキリストを否定する者たちです。キリストの受肉を否定するということは、キリストが人であることを否定し、そして神であることを否定します。すなわち十字架と結合を否定しているのです。十字架は、人として来られたキリストと共に死んだことです。それは代表です。これを破壊します。福音を破壊します。彼らは教会の真の教会の内外から現れてきます。偽教師です。そして現れ続けます。彼らは人間中心主義の思想です。 ヨハネは「目を覚ましていなさい」と語ります。この「目を覚ましていなさい」とは、自分がキリストの子どもであること、キリストと共によみがえったこと、この位置にしっかりと自分がいること、その生き方を続けなさいということです。 パウロもテサロニケで、この人間中心主義の思想、教えに対して真っ向から戦っています。そのように私たちにパウロは語っています。ヨハネも同じように、獣の支配、偽りの礼拝を描いています。「すべての者が彼を拝んだ」と書いてあります。この「すべての者が彼を拝んだ」とは、刻印を押されているということです。反キリストによって獣の刻印を押されています。 終末において、権力と宗教が結合した反キリスト体制が政治としても生まれてくる可能性はあります。しかし聖書は、反キリストは一人の人物ではないと言っています。反キリストの霊は福音に対する敵対構造です。それは人間中心主義です。それは外面的な宗教、また啓蒙主義的な人間中心主義の中に潜んでいる霊そのものです。 支配神学や霊的戦い神学、決心主義、神秘主義、あらゆる人間中心の「私が私によって、私による信仰」「私は強い信仰を持っている」「私はまだ腐っていない」という態度が反キリストです。そこに反キリストの霊があります。 では獣の刻印とは何を意味するのか。黙示録13章で刻印のことを言っていますが、最近オカルトや漫画などで、反キリストの刻印をマイクロチップだとか国家管理だとか生体認証だとかワクチンだとか電子通貨だとか言う人たちがいます。これは幼稚です。黙示録を理解していない人たちです。照明がないから分からないのかもしれませんが、それにしても聖書を読んでいないのだと思います。 ここで刻印の対比構造を見ればすぐ分かります。黙示録7:3を見てください。「私たちの神のしもべたちの額に印を押すまでは、地にも海にも木にも害を与えてはならない。」ここには、「神のしもべの額に印を押す」と書いてあります。その後十四万四千の話が出てきて、その後すべての国民の話が出てきます。こういう文脈です。 そして「印を押す」ということは、エペソ1章が言っている通り、聖霊によって印を押されることです。選ばれた者たちに聖霊が内住するということです。エペソ書に書かれている、選ばれた人々の救いの証印です。 また、「四方から集める」とありますが、それはどのように集めるかというと、一か所に物理的に集めることではありません。宇宙的な教会のことです。すべての信じている人たちはキリストにあって御霊によって一つになるということです。 続けて、黙示録13:16-17に来ます。「また、彼は、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者に、その右の手か額に刻印を受けさせた。この刻印を持たない者は、だれも買うことも売ることもできなかった。」これを「生体認証だ」「電子マネーだ」と漫画で言うのは違います。この刻印は象徴です。対比構造を見てください。先ほど「聖霊による印」を言いました。そして、今ここで「獣の刻印」が対比で出てくるわけです。 この刻印は、あなたが聖霊の証印を押されているか、すなわち聖霊の内住を受けているか、獣の刻印を押されているかということです。獣の刻印とは、人間中心主義的な、啓蒙主義的な人間中心主義の思想、思い、感情、それに支配されているかどうかです。そしてその現実は今起こっています。 あなたが聖霊によって新たに生まれるまでは、獣の刻印を押されているのです。死んでいたのです。そしてあなたが、どこに属しているかの問題は、誰を礼拝しているか、どの支配に従っているかです。あなたが神のものであるか、サタンのものであるか、そのどちらかに忠誠があるかです。それの象徴です。 刻印とは、あなたが真の神を礼拝し忠誠を保つか、サタンに礼拝し忠誠を保つかという話です。「刻印がないと売ることも買うこともできない」とは、社会で生きる中で必ずそういう時が来るということです。信仰をしていなければ、社会生活で困るという状況が生まれてきます。経済的損失や社会的迫害を受けるということを象徴しています。それは心に押されている刻印です。 聖霊を受けている人、真のクリスチャンは、どんな時にも神に礼拝し、神に忠誠を保ちます。それが刻印です。聖霊による刻印です。逆に獣の刻印は人間中心主義です。「私は腐っていない」という態度です。表面的なクリスチャンです。ローマ帝国時代にも皇帝礼拝を拒否した者は社会的に生きにくくなりました。中世においても、ある宗教的な同調を受けなければ社会で生きることが困難でした。日本でも日常の中にそのような状況があるでしょう。友達との付き合いもあります。ゲームもあります。iPadもあります。音楽もあります。異端の宗教もあります。 その中において、あなたが神の主権とキリストとの結合の福音、パウロが伝える福音を聞いた時に、あなたはどちらに従うかと問われます。表面的、人間中心主義のキリスト教に従う場合、彼らはあなたを仲間とします。「教会に行っているから救われている」「信じているから大丈夫」「私は信仰がある」という外面的な言葉でまとまります。しかしそれらを拒絶する者は批判されます。攻撃を受けます。罵声を受けます。損失や迫害を受けます。それは教会の中で、地域コミュニティの中で、家庭の中で起こってきます。 適当に嘘をついて逃げる人がいます。口先で逃げる人がいます。「今日は法事」の後の食事だけなどと言って妥協する人がいます。しかし問われるのは「あなたは神を礼拝していて、神に忠誠を保っていますか」ということです。 もし心が嘘をついて逃げるのであれば、それは獣に従っているのと本質的には変わりません。ビンタをされようが、嘲られようが、私はこの神に忠誠を尽くすという姿勢を保つ場合、損失を受け、迫害を受けます。しかし、信仰は聖霊によって証印を受けているのです。 嘘を言って逃げる人、偽りの外面的な信仰で神に近づく人は、真の神に礼拝と忠誠を捧げていません。そういう人たちは行動で出てきます。外面的には礼拝に来て祈りますが、実態は偽りです。 それは、聖霊の印を受けていないということです。逆に獣の刻印をまだ持っているのです。だからその人は新たに生まれなければならないのです。死んでいるからです。 刻印はすぐには剥がれないのです。死なない限り剥がれません。だから「自分はまだ腐っている」と認めることは重要です。それによって神はあなたをキリストと共に死んだところに置いてくださいます。十字架の強盗も主税人も、死んでいるのです。キリストと一緒に死んでいるのです。 ですから刻印というのは、目に見える印だとかチップではありません。そういう幼稚な考え方は捨てなければならないのです。第三神殿と同じくらい愚かです。真の神に礼拝と忠誠を捧げず、獣の偽りの礼拝に従い、その中で生きる者が獣の刻印を持つ者です。偽りが刻印を表します。これが刻印の意味です。 五番目に結局、終末論の中心は「誰が残るか」ではありません。「誰に属するか」です。いつもそうです。聖書はいつも「誰に属するか」です。 終末論が歪められると、「いつ起こるか」「誰が敵か」「どんな事件が生じているのか」そちらに関心が行きます。それは終末論が歪められている状態です。すなわち福音ではありません。しかし聖書が一貫して問うのは、あなたは誰に属していますか、誰を王として礼拝していますか、迫害の中で誰に従い続けますか、です。 黙示録の核心は獣の正体ではありません。「子羊に従う者たちの忍耐」にあります。子羊に従う忍耐です。しかし忍耐は自分が頑張って作るものではありません。 ここまでを一本でまとめるとこういうことです。旧約の神殿、神殿制度、動物の犠牲は、AD70年のローマ軍の攻撃によって完全に消滅しました。神殿制度もありません。神殿もありません。動物犠牲もありません。それは神が行ったのです。裁きがイエス様によって行われたのです。イエス様がAD70年に破壊したのです。 それは、選ばれた民が神の民として教会として出現することにつながっています。キリストの初臨から再臨までが、完全な欠けのない期間として象徴的に描かれています。教会は患難と証しの中に置かれ続けます。反キリスト的勢力は歴史の中を通して現れ続けます。再臨は完成であり、復活、裁き、新天新地が同時に起こります。教会は途中で地上から取り去られません。 終末の中心の舞台はイスラエル国家ではなく、選ばれた民です。イスラエルの中の選ばれた民と異邦人の選ばれた民で構成されている「十二×十二=十四万四千」が中心です。 したがって終末論は未来予測のための年表解析ではありません。黙示録は、苦難の中で信仰を保ちながら、また保たれながら生きていく選ばれた者たちを支える啓示です。 最後に徹底的に重要な点があります。携挙思想や年表終末論は、あなたたちの目を出来事に向けさせ続けたのです。イスラエルに何か起こるとそちらに目が行き、アメリカで何か起こるとそちらに目が行き、起こってくる現象に目が行きます。決して王であるキリストに目が行きません。 しかし聖書は、信仰者の目を、選ばれている者の目を、常に、すでに王であるキリストに向けさせ続けます。は永遠の時の始まる前の結合から、永遠の未来に目を向けさせます。 偽りの教えは恐怖による備えになります。必ず携挙思想や年表終末論の中には恐怖に対する備えがあります。そして「自分が救われていなかったらどうしよう」という思いが絶えずあります。 しかし真の救いは結合にある命です。その命は平安です。新約の終末論の中心です。その中心の中で私たちは忍耐について学びます。黙示録13:10に「ここに聖徒たちの忍耐と信仰がある」とあります。ここで言われている忍耐は、逃げ出さない決意や気合や精神力ではありません。 文脈上、獣の支配が全地に及び、抵抗すれば殺され、礼拝すれば妥協になるという逃げ場のない状態に、神が民を置いておられることを前提にしています。 例えば会社で偶像礼拝への同調を迫られ、断れば立場を失い、従えば妥協になるというような状況が来ます。辞めれば生活が損害を受ける。逃げ場がない。これが「忍耐がある」ということです。 忍耐とは、自分で選び直す余地のない場所、逃げられない場所に神があなたを置いているという現実そのものです。 黙示録14:12に「ここに神の戒めを守り、イエスへの信仰を保っている聖徒たちの忍耐がある」とあります。 信仰は神からの賜物です。誰も自分の内から神を信じる信仰を生み出すことはできません。私たちは罪の中で死んでいたからです。私たちのうちに良いものは一つもありません。 忍耐も神からの賜物です。神が信仰から離れない位置に置いておられるという事実です。 教会が苦しみを避けて一時的に取り去られる。これは楽です。未信者や不信仰な者は飛びつきます。「楽だ」と言います。しかしそれは「キリストがある」ではなく「自分の都合がある」という態度です。 ディスペンセーションの教えは、黙示録が語る忍耐と信仰の歩みを破壊しています。黙示録が示すのは、苦難の中にあってもキリストとの結合に立ち続ける者たち、最後まで忠実に歩む信仰の姿です。だからこそ黙示録は、携挙で逃げるのではなく、現実の苦難の中で主に結びついて終わりの日の栄光を待ち望む信仰を強調しています。 永遠の時の始まる前から、キリストとの結合に選ばれたという源泉から始まって、再生、そして信仰、悔い改め、義認、聖化、そして栄化と続く福音の一貫した全体構造の流れの中で、私たちはどんな試練の中でも、私たちが頑張るのではなく、キリストが私たちと一体であるがゆえに、その立場の中で生かされます。その全体構造を踏まえてこそ、黙示録も単なる未来の出来事探しではなくなります。 この全体構造を理解してください。キリストとの結合に選ばれたという源泉から始まり、再生、信仰、義認、聖化、栄化と続く一貫した福音の流れを踏まえて黙示録を理解するのです。もはや単なる未来の出来事探しではなく、神の主権の中で結合された者が忍耐の中に置かれ、最終的に栄光の完成へ至る希望の書であることが理解できます。 結局、すべては神から始まり、神によってなり、神に至ります。その永遠の結合からすべてが展開していっていることを理解してください。 黙示録14:13にこうあります。「また、私は天からの声がこう言うのを聞いた。『書き記せ。今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。』御霊も言われる。『しかり、彼らはその労苦から解放される。彼らの行いは彼らについて行く。』」 ここで天の声と御霊が強調しているのは、迫害の時代にあってなお、結合にある者の行き先が破滅ではなく完成であることです。忍耐の焦点は状況を変えることではありません。迫害に勝利することでもありません。 まして信仰の努力が報われるという人間中心主義でもありません。 忍耐の焦点は、生きるにしても死ぬにしても、結合の中に留められるということです。生きても死んでも、結合の中に留められ、そのまま完成に導かれるということです。 「主にあって死ぬ」とは単に肉体が死ぬ出来事ではありません。死が訪れる時でさえ、あなたはキリストとの結合の中にいて、神はあなたを守り続け、必ずあなたを完成へ導きます。殉教であっても、そうでなくても、生と死のすべてが結合に貫かれるという意味です。 「労苦から解放される」とは、途中で苦しみが軽くなることではありません。結合の完成によって労苦そのものが終わるという終末的な解放です。「彼らの行いは彼らについて行く」とは、行いが救いの条件になるのではなく、神がキリストにあって私たちを造られたときに備えられていた良い働きが、時間の中で顕現し、神の前に喜ばれるということです。 したがって黙示録は苦難からの脱出を約束していません。苦難のただ中に置かれたまま、結合から引き離されることなく、生を通しても死を通しても導かれるという救いの在り方を語っています。 忍耐とは、この地上で状況が改善されるまで踏ん張ることではありません。生きるにしても死ぬにしても、結合の支配のもとに守られ続け、最終的な栄化、キリストの再臨に至るまで導かれていく過程そのものです。 「忍耐がある」とは「忍耐を持ちなさい」と言っているのではありません。「忍耐がある」と言っています。その忍耐とは、結合の支配のもとにあなたが守られ続け、最終的な栄光に至るまで導かれている過程のことです。 忍耐の最終点は生き残ることではありません。忍耐の最終点は、最後まで永遠の結合の中に留め続けられ、 栄化の完成へ至ることです。 最後に、黙示録は選ばれた人々がどこに導かれるのかを示しています。 黙示録21:3-4にこうあります。「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をぬぐい去ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」 「見よ、神の幕屋が人とともにある。」これが完成です。神は人々の涙をその手で拭われます。この「神の幕屋が人とともにある」とは、神との結合が現実のものとなっているということです。永遠と実体が一致することです。 そして「神が涙を拭う」とありますが、神の手があなたの頬に触れるということです。あなたが栄化されていなければ、朽ちる者のままでは神の栄光に耐えられません。神があなたに触れるということは、あなたも栄光化されているという証です。 選ばれた者の結合の完成とは、神が信者を永遠の過去においてキリストと結合し、時の流れの中でその結合が顕現し、そして完成するということです。これは福音の一貫した救済構造です。 神は時の始まる前から永遠の未来に至るまで、ずっと結合の中でご自分の民とともにおられ、見失わず、奪われず、引き離されることなく守り続けています。 ヨハネ10:28に「だれも彼らをわたしの手から奪い去ることはできない」とあります。 選ばれた人々には罪の性質の残骸があります。死の体があります。この世の苦難があります。時の中において、なお罪の性質と戦い、死の体をまとい、この世の苦難の中に置かれています。 しかし完成時において、これらはすべて取り除かれます。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされます。罪の性質は消え、死は勝利に飲み込まれ、この世は過ぎ去り、新しい天と地が到来します。 第一コリント15章に「死は勝利に飲み込まれた」とあります。黙示録21:1に「最初の天と最初の地は過ぎ去った」とあります。21:5に「見よ、わたしはすべてを新しくする」とあります。 最後です。黙示録は、苦難から逃げ切った者の勝利ではありません。黙示録は、最後までキリストとの永遠の結合の中に置かれ、患難の中を通過してきた選ばれた十四万四千、キリストの民、イスラエルの中の選ばれた民と異邦人の選ばれた民が、ともに到達する完成です。 終末とは患難からの逃避でも携挙の時でもありません。終末とは永遠の結合が完全に顕現し、現れ、完成する時です。ハレルヤ。アーメン。ではお祈りします。 愛する天のお父さま。感謝します。私たちの黙示録に対する考えが今日一変したことを感謝します。私たちの理解をはるかに超えた恵みの素晴らしさ、終末論がこれからどうなるのかという出来事探しから、神の召しに生きるというその意味を、今日あなたが語ってくださったことを感謝します。 愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。
- 黙示録1
2026.1.18 豊川の家の教会礼拝メッセージ 黙示録シリーズ1 今週から終末論について話を進めていきます。 この終末論は、教会が「結合の民」であり、選ばれている民が最後まで地上に置かれ、完成に導かれるという視点で話をしていきます。 イントロダクション 黙示録をどこまで話していくかにもよるのですが、ローマ書の11章、それからマタイの24章、黙示録の7章と14章を合わせて、一本の救済史の全体構造として話していきます。今週から何週間かに分けて講解していきたいと思います。 黙示録は黙示書・預言書ですので、ゆっくりと味わいながら講解していきたいと思います。 黙示録の主題は一つです。 神の民は誰か 教会は終わりまでどこに置かれるのか そして現代の多くのクリスチャンは、むしろ終末論の議論になると、出来事の順番、またイスラエルがどのようになるか、そのような話になりがちです。 しかし聖書が語っている中心、黙示録が語っている中心は、出来事の順番やイスラエルがどうなるかではありません。そこに中心はありません。 聖書が語る中心、すなわち創世記から黙示録までのすべてに対して聖書が語っている中心は、神がどのように永遠の過去においてキリストにあって選び、召し、再生させ、義とし、聖化し、栄化へ導くのかという福音の全体構造です。 この福音の全体構造なくして黙示録は理解できません。 イントロダクションとして、現代の教会にある終末論理解の全体像を、今から簡単に説明します。どのように教会が終末論を理解しているのか、どのように語られているのかを整理します。 それは、聖書全体の読み方、福音の捉え方の違いを反映しています。 まず黙示録の理解は、大きく二つに分けられます。黙示録という本の全体像についてです。 それを「循環的解釈」と「直線的解釈」として整理できます。 黙示録の二つの読み方 1)循環的解釈 循環的解釈とは、黙示録が同じ救済史の構造を、角度を変えながら何回も描写しているという理解です。これが重要です。 黙示録は、イエス・キリストの初臨、すなわち受肉されたイエスが来られてから、イエスが再臨するまでを描きます。これが一周です。 イエスが来られ、十字架の死があり、復活があり、そして再臨するまで。これが一つの区間です。黙示録は、この同じ区間を何度も、角度を変えて繰り返し語ります。 このように理解していく読み方を循環的解釈と言います。 循環的解釈は、宗教改革においても前提とされてきた読み方です。20世紀に至っても、聖書の書き方そのものがそのようであるため、そのように読むという立場が続いています。 2)直線的解釈 もう一つが「直線的解釈」です。直線的解釈は、ディスペンセーション神学に代表される読み方として広く知られています。 この立場は、出来事が時間順に一度ずつ進行していくという捉え方を取ります。 この違いがそのまま終末論に影響します。神殿、第三神殿、イスラエル観、王国、再臨の理解など、すべてに影響します。 一つは循環的な解釈、すなわち神の救いの全体構造をいろんな角度で繰り返し語る読み方です。 もう一つは直線的解釈、すなわち時間軸に従って出来事が順に進行する読み方です。 それでは、この二つを順に見ていきます。まず循環的解釈の基本構造から話します。 1)循環的解釈の基本構造 この理解では、主イエスが来られてから御霊の働きが始まります。選ばれた者たちが地上に現れます。ペンテコステ以降、教会が歴史の中に成立します。 イエスの初臨から再臨までを、黙示録の中でどのように描いているかというと、黙示録は七つの循環に分かれています。 ここで「七つ」と言っても、A、B、C、Dと順番に進んで、七つ目で終わるという意味ではありません。同じストーリーを、違う表現、違う強調点で見せています。しかし語っている内容は同じです。 それは、イエスが来られ、十字架につかれ、復活し、そして終末が来るという流れです。これを違う角度で見せています。しかし同じことを語っています。これが黙示録です。 ですから、救いの全体構造、裁き、迫害、勝利という構造を繰り返し、象徴を用いて語っています。 つまり黙示録は、全体構造を七つに分割したのではなく、七つの表現で反復して示しています。 七という数字は創造の完成です。契約の完成、御業の完成を示します。聖書において七は完全を表します。 黙示録は最初から最後まで七によって構成されています。七つの教会、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢など、七つの構造で世界を描写しています。 黙示録が七つの循環ブロックに分かれていることは意図的です。偶然では起こりません。 七つの循環ブロック(概観) 七つの教会(黙示録1–3章) 七つの封印(4–7章) 七つのラッパ(8–11章) 女と竜と獣(12–14章) 七つの鉢(15–16章) バビロンの滅亡と白馬の勝利(17–19章) 千年王国と最終完成(20–22章) これらは別々の時代を順番に描いているのではありません。初臨から再臨までの王国時代、すなわち教会時代全体における地上の選ばれた者の歩みを、視点と強調点を変えて描写しています。 そして各循環ブロックの終わりには、必ず最終の裁きと完成が描かれます。 循環構造の前提:結合と「すでに/いまだ」 この循環構造の前提は、福音の中心がキリストとの結合にあるということです。 王国はすでに始まっています。イエスは「神の国はあなたがたのただ中にある」と語られました。王国はすでに存在しています。 そしてすべての選ばれた者は御国に属しています。 同時に、私たちの人生には苦難と勝利が同時進行します。そこには「すでに/いまだ」という構造があります。 この「すでに/いまだ」の構造が終末論にもそのまま適用されます。 将来的に何が起こるか、いつ出来事が来るか、神殿がどうなるか、という話ではなく、今も「すでに/いまだ」の構造の中で進行している霊的現実の描写が黙示録です。 私はすでに永遠の結合の中に生きています。しかし罪の残存の中も歩みます。これは個人の「すでに/いまだ」です。これが救いの全体構造へ広がっているだけです。 この理解では、次の結論になります。 第三神殿は不要です(キリストが真の神殿です) イスラエル国家が特別なのではなく、イスラエルの中で選ばれた者、異邦人の中で選ばれた者が、教会として一つに集められ、神のイスラエルとなります 千年王国とは、初臨から再臨までの王国時代全体を指します 救済史は一本の契約の下で進みます。二本の計画ではありません。救いは恵みによる信仰のみです 2)直線的解釈(ディスペンセーション)の基本構造 次に、直線的解釈としてディスペンセーションの基本構造について話します。 ディスペンセーション神学は、歴史的には19世紀後半にダービーによって体系化が進み、その後スコフィールドなどによって広く整理されていきました。 この立場では、出来事が時間順に一度ずつ進行していくという前提を置きます。 そのため黙示録は、封印、ラッパ、鉢、大患難、再臨、千年王国、最終審判といった順番に進む年表として理解されやすい傾向があります。 またこの枠組みでは、イスラエルと教会を明確に区別することが多く、教会時代を「挿入」として捉える説明がなされる場合があります。 その結果、終末では再びイスラエル中心の歴史が前面に出る必要があるという構造が組み込まれます。 そしてこの体系では、神殿と祭祀と国家・王国の回復が重要要素として位置づけられやすく、第三神殿や祭儀の回復が語られることがあります。 千年王国も、霊的支配というより地上の政治的王国として説明されることが多いです。 しかしこの点で私たちは、ヘブル書の教えと注意深く照らし合わせる必要があります。 ヘブル書10章18節はこう言います。 「もし罪の赦しがあるなら、もはや罪のためのささげ物は不要である。」 ここで語られているのは、罪のための犠牲が再び必要になるという方向ではなく、キリストの贖いが完結的であるという論理です。 同じヘブル書10章は、同じささげ物の反復が罪を除き得ないことを示すとも語ります。 このヘブル書の筋道に照らすと、終末において動物犠牲が何らかの形で再開されるという説明は、少なくとも非常に慎重に扱わなければなりません。 なぜなら、キリストの十字架の十分性とどう整合するのかという問題が必ず出てくるからです。 したがって私たちが問うべき点は、単に読み方の好みではありません。 どちらの枠組みが福音の全体構造、すなわちキリストの贖いの完結性と、結合に基づく救済史と一致しているのか。ここが決定点になります。 循環構造の聖書的根拠(預言の語り方) 循環的理解に着目すると、旧約の預言でも、バビロンの裁き、終末の裁き、メシア王国が混在して語られます。そこでは時間軸が整備されていません。 イエスの説教も、神殿の崩壊の話、再臨の話、世界の終わりの話が重なって語られます。代表例がマタイ24章です。マタイ24章には二つの終わりが含まれます。しかし注意して読まなければ読み取れません。 一つの終わりは神殿制度の崩壊、すなわちユダヤ教体制の終わりです。その後に宇宙的な終わり、すなわち最終末の終わりが語られます。 これを理解するためには、御霊による照明なしに理解できません。 聖書の語り方そのものが、裁きと救いを同時進行として語ります。人間の年表整理に従って語られていません。 したがって、聖書自体の語り方を尊重し、循環構造の理解を採用するというのが私の立場です。 決定点:どちらが福音の全体構造と一致するか 循環構造の解釈では、中心はキリストとの結合です。王国はすでに存在しています。救済史の全体構造は一つの契約によって成り立っています。恵みによる信仰のみです。 他方、直線的解釈は、関心が将来の政治的王国や出来事の配列へ強く向かいやすい傾向があります。 その結果として、出来事を追い、出来事によって終末を測ろうとする方向へ流れやすい場合があります。 しかし聖書は一貫して、救いの中心を人間中心、制度中心、民族中心に置きません。中心は神の主権と、キリストの贖いの完結性と、結合に基づく救済史です。 まとめ 循環的解釈は、教会時代全体を終末的現実として、象徴を用いて反復描写します。キリスト中心、結合中心、契約は一つです。 直線的解釈は、終末を未来の段階的イベントの列として読みやすく、イスラエル中心、神殿、祭祀、動物犠牲の回復が重要要素として語られやすい傾向があります。 したがってこれは単なる解釈技法の違いではありません。福音の全体構造の理解の違いがここに表れます。終末論の違いではなく、福音構造の理解の違いが、二つの違いを生みます。 循環構造の再確認(黙示録1–3章) もう一度整理します。黙示録は教会時代全体を七つのサイクルで反復描写しています。同じ初臨から再臨までを、象徴を変えて何度も語っています。視点と強調点を変えます。そして各循環ブロックの終わりには必ず最終の裁きと完成が来ます。 第一の循環ブロックは七つの教会で、黙示録1章から3章です。この範囲は、キリストの昇天から再臨直前までの教会の実態を表しています。迫害、偽教師、妥協、忠実な残れる者、そして終わりが書かれています。 臨在の約束と裁きの警告が各教会に与えられています。当時実在した教会も含みますが、「すべての諸教会」として、教会時代全体の教会に向けた言葉でもあります。 私たちはすでに終末的緊張の中に教会が置かれていることを理解すべきです。 千年王国の始まりは、イエスが来られ「御国があなたがたのただ中にある」と語られた時からすでに存在します。神の王国であり、霊的現実です。 第二の循環ブロック(黙示録4–7章:封印) 第二は七つの封印で、黙示録4章から7章です。 これは初臨から再臨までの時代の中で起こる歴史的苦難です。戦争、飢饉、疫病、迫害、殉教、そして終わりが描かれます。天地震動の中で、王も奴隷も裁きの前に立ちます。 その終わりには、明らかに最終審判の姿も描かれます。 7章では地上の視点で十四万四千人が出てきます。ここは多くの人が関心を持つので、少しだけ触れます。 黙示録7章:印と十四万四千 黙示録7章で「印」と「十四万四千人」という言葉があります。 「生ける神の印を押すまでは、地も海も木も害してはならない」(7章3節)。 この箇所を読む鍵は、黙示録21章12節から14節です。 城には十二の門があり、門にはイスラエルの子らの十二部族の名が記されています。 城壁には十二の土台石があり、そこには子羊の十二使徒の名が記されています。 ここで門は旧約の十二部族、土台は新約の十二使徒です。旧約の約束の民と、新約の完成された民が、一つの神の都に組み込まれていることが示されています。 神の民は、全てのユダヤ人ではありません。ユダヤ人の中で選ばれた者であり、異邦人の中で選ばれた者です。旧約も新約も同じく、選びによって形成される民です。 十二は約束の民の完全形を表す象徴です。 そこに千が掛けられます。千は数量の上限ではなく、神の完全性・十分性・永続性を示す象徴数です。 12 × 12 × 1000 が十四万四千です。 「千の山の獣はわたしのものだ」という表現は、神が全てを所有することを示します。 「千代まで契約を守る」も、千代で終わるという意味ではなく、永遠の契約の確かさを示します。 第二ペテロが「一日は千年のよう、千年は一日のよう」と語るのも、時間計算を拒否する文脈であり、神の支配の超越性を示します。 したがって十四万四千は、完全で欠けのない全体の象徴です。十二が二重になるのは、神の民が救済史の中で完全に成立していることを示します。選ばれた者が漏れなく救いの中にあることを示します。 なぜこの極限表現が必要か。 それは、大患難のただ中にある教会に対して、「神の民は途中で崩壊しない」という保証を与えるためです。 神の計画に賭けはありません。見える現実に左右されず、神の民は完全に守られます。 ここは人数ではなく身分の宣言です。人数として読むと、救いの限定や霊的階級化へ流れやすくなります。それは福音と一致しません。 象徴として読むなら、「神の民は誰一人漏れない」という宣言になります。結合は絶たれません。これはローマ書8章と一致します。 「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができるでしょうか。」 黙示録はこの神学を、象徴と言語構造で語っています。 そして黙示録7章9節では、天上に「すべての国民、部族、民族、国語からなる数えきれない大群衆」が描かれます。これは別集団ではありません。十四万四千と同一の教会です。地上の視点と天上の視点の違いに過ぎません。 したがってローマ書11章の「残りの者」、マタイ福音書の弟子共同体、黙示録7章の十四万四千は、すべて同一の神の民を指しています。キリストに結ばれている、時の始まる前に選ばれた民です。 今日はイントロダクションが長くなりましたが、概ねこのような全体像です。あと2、3週ほどかけて、ゆっくり話していきます。よろしくお願いいたします。 最後に祈ります。 祈り 愛する天の父なる神様。 この黙示録へ私たちを導いてくださったことを感謝します。 十四万四千、それは選ばれた民が完全に守られるという身分の宣言です。 私たちが時の始まる前からキリストにあって選ばれ、地上において象徴として示され、あなたが最後まで守り続けられることを感謝します。 天上において、すべての部族、すべての国、すべてのところから集められる大群衆として、同一の民が示されることを感謝します。 私たちは永遠の中で生かされ、現在において試練と困難を通りますが、御霊によって導かれ、あなたが守り抜かれることを感謝します。 初臨からすでに患難は始まり、再臨によりすべてが完成することを感謝します。 その完成の時、私たちの体が栄光の体へ変えられ、永遠の御国へ導かれることを感謝します。 愛する主イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン。
- 結合の民は最後まで地上に置かれて完成に導かれる 黙示録2
黙示録シリーズ2 2026.1.21 The Word for you ヨハネの福音書の17章、ローマ書の11章、黙示録の7章、そしてまた14章を、一本の救済史の線で読むというメッセージです。 これは先週、ローマ書の11、7、黙示録の7、14、マタイの24をテーマに話していきますと言い、前回はイントロダクションで終わりましたが、今日はそこの部分に少し入っていきます。 時間は30分ぐらいで終わればいいと思いますが、終わらければ、また次回という形でしたいと思っています。 テーマは、「結合の民は最後まで地上に置かれ、完成に導かれる」です。神はご自分の選ばれた民をこの世の外に避難させるということはしません。 この世の中で守り続け、完成へ導かれます。 これが聖書全体に一貫している救済の全体構造です。 この真理を主イエスご自身は祈りにおいて明確に語られています。 ヨハネの福音書の17章15節から読んでいきます。 「私がお願いすることは、あなたが彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」 彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。 20節。 「私は、ただこの人々のためだけではなく、彼らのことばによって私を信じる人々のためにもお願いします。」 この祈りは弟子たちだけではなく、すべての時代の教会に向けられています。そして、ヨハネの福音書の17章21節から23節、ここで私たちは驚く言葉を聞きます。 「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちのうちにいるようにしてください。あなたが私を遣わされたことを、世が信じるようになるためです。また私は、あなたがくださった栄光を彼らに与えました。私たちが一つであるようになるためです。私は彼らのうちにいて、あなたは私のうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。」 イエス様の祈りは大祭司の祈りです。そしてイエス様がはっきりと言っています。 取り去ることではなく、悪い者から守ってください。そしてイエス様は、「私は彼らのうちにいて、あなたは私のうちにおられます。」 教会は世から取り去られるのではなく、三位一体の神と結合し、この世のただ中で守られ続け、完成へ導かれるという、救いの源泉から流れる終末構造を、永遠の時が始まる前から真理として確定されています。 驚きますね。そして、ローマ書の11章は、取り去られず継ぎ木された一本の民を言っています。パウロがローマ書の11章で扱っているのは、イスラエルの不信仰、異邦人の継ぎ木、しかし、神の選ばれた民は、一本のオリーブの木、そういう構造です。選ばれた民は最初から一本の木として理解されています。 ローマ書の11章24節で、パウロは、野生であるオリーブから切り取られて栽培されたオリーブに継ぎ木されたのであれば、本来栽培されていた彼らは、もっと容易に自分の元のオリーブに継ぎ木されるはずです。 このみことばで言っているのは、重要なのは、異邦人が別の木に移されたのではなく、同じ木に継ぎ木されたという点です。 結論はここです。 賜物と召命は取り消されることがありません(ローマ書11章29節)。 救いは決して、選ばれた者に与えられている救いは決して取り消されることはない。それは一本の木に約束されています。したがって、教会が途中で退場し、別の民が地上史を受け継ぐという構造は、パウロの教えている救いの全体構造と正面から衝突します。 救済史は常に同じ選ばれた民が、同じキリストとの結合の中で完成に導かれるという一本線で進んでいきます。 そして、黙示録の7章に来て、私たちは大患難を通ってきた群衆を見ます。ヨハネは14万4千人の、象徴的な完成数としての神に印された神の民を見ます。 「イスラエルの子らのすべての部族から印された者の数を聞いた。十四万四千人であった。」黙示録7章4節です。 この十四万四千の「144」は、12×12×1000。 この12×12はどこから来ているか。それは黙示録の新しいエルサレムの情景の中に、すでに刻印されています。 すなわち、都には十二の門があり、それはイスラエルの十二部族の名。また十二の土台があり、それは小羊の十二使徒の名。 一つの「12」は旧約の民、契約の民を表し、そしてもう一つの「12」は、新約における選ばれた民、使徒的教会を表します。 そして、この二つの12は混ざり合います。別々の民ではなく、結合して144になる。そして、ローマ書11章が語るとおり、同じ一本のオリーブの木、すなわちキリストにおいて継ぎ木され、旧約と新約を貫く一つの神の民として統合されていきます。 そしてそこに「1000」が掛け合わされて十四万四千になります。この「1000」は人を増やしているという計算ではありません。「1000」は象徴的数として、限界のない充足、欠けのない完成、徹底した充満を表しています。 それは神の救いが、どこにも欠けるところがなく、完成されていることを示す数字です。 すなわち、十四万四千という数字の意味は、旧約と新約にわたる神の選ばれた民が、キリストにおいて完全に一つとされ、そして神の主権の下で完全に保たれ、完成に導かれていることを示します。これは救済史の全体構造の完成の象徴数です。 また、私たちは黙示録7章9節で、同じ民を別の角度から見ます。 「その後、私は見た。すると見よ、すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が、御座の前と子羊の前に立ち、白い衣をまとい、手にナツメヤシの枝を持っていた。」 「この人たちは誰ですか。」と長老が私に言った。「私の主よ、あなたこそご存じです。」と答えると、長老は言った。 「これらは大きな患難から出てきた者たちで、その衣を洗い、小羊の血によって白くしたのです。」黙示録7章14節。 ここで描かれているのは、地上から取り去られた人たちではありません。守られ続けてきた人たちです。しかも彼らは、小羊の血によって贖われた者たちです。 特別な時代の特別な信徒ではない。小羊の贖いの血潮によって救われた教会は、患難を回避される集団ではなく、患難の中で守られ続ける集団として描かれています。 世界のただ中を通過して、完成へ導かれていく勝利者。 黙示録14章、最終的勝利の場面です。 黙示録14章1節でこう言います。 「また私は見た。すると見よ。小羊がシオンの山に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と小羊の父の名が記されていた。」 13章ではこう言います。 「獣は聖徒たちに戦いを挑んで勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。地に住む者たちで、世界の基が据えられた時から、ほふられた小羊のいのちの書にその名が書き記されていない者は、みなこの獣を拝む。」黙示録13章7〜8節。 つまり、14章の勝利者たちは、支配と偽りの礼拝が世界を覆う時代、その歴史のただ中を通過して、そして守られ続け、完成に至った人々です。 黙示録14章の勝利者たちは、世界を覆う巨大な獣の支配、そのただ中を通過しつつ、そこから守られ完成に至った民です。 黙示録13章、14章、7章、ヨハネ17章、マタイ24章の構造的連結から明確にされています。 黙示録13章の獣の支配は、全地に及ぶ歴史的事実です。前提として黙示録13章では獣の支配はこう言われています。 獣はあらゆる部族、民族、国民を支配する権威を与えられた。13章7節。13章8節で、地に住む者たちは皆彼を拝むと言っています。 ここに描かれているのは、地域的な一時的事件ではなく、全世界的な規模で反キリスト的な構造があるということです。そこには偶像礼拝があり、偽りの礼拝が行われていると言っています。 そして13章10節でこう言います。 「ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。」 この獣の支配のただ中に、聖徒たち、選ばれた者たちが存在しているということが明言されています。 構造を見ます。 獣の支配が広がります。偽りのキリスト教が広がります。そして同じ時間帯に、選ばれた者たちは地上に置かれ、忍耐を求められています。 教会が携挙された後の時代ではありません。本文はそのような構造を一切取っていません。 そして14章で勝利者たちは、獣の時代を通過した後に現れてきます。14章1節。 「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っており、小羊とともに十四万四千人がいた。」 13章の直後に配置されています。文学構造上、これは逃避ではありません。これは通過後の到達点を意味しています。 それはさらに重要なのは14章12節です。 14章12節でこう言います。 「ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を保っている者たちの忍耐がある。」 これは13章10節と対応しています。 13章10節「ここに、聖徒の忍耐が必要である。」 14章12節「ここに、聖徒の忍耐がある。」 つまり13章は戦いのただ中にある聖徒たち。14章はその戦いを通過してなお、守られ続けている姿という連続的構造になっているのが見えます。 したがって14章の勝利者は、獣の時代を逃げた人々ではなく、時代を通過してなお、信仰を保たれた人々です。 黙示録7章に戻ります。 大患難から出てきた群衆。同じ構造は7章でさらに明確になります。 7章14節でこう言います。 「これらは大きな患難から出てきた者たちで、その衣を洗い、小羊の血によって白くしたのです。」 ここで「患難から出てきた」とは、患難を経験した後に到達した状態を示しています。ここでは、患難を回避した者とは書かれていません。 そして、十四万四千人と数えきれない群衆は、象徴構造は違いますが、見せ方としては同一の神の民を別角度から描写しているのが分かります。 黙示録の構造は一貫して、「安全地帯に行く勝利」ではありません。そんなことは一切書いていません。戦場を通り、守られ続ける完成という形を取っています。 マタイ24章で、再臨と裁きが同時に到来する構造を私たちは見ることができます。主イエスは終末を、教会が途中で地上から消える出来事としては一切語られていません。 むしろ、教会が地上に置かれ続ける現実と、そのただ中で終末が一挙に到来するという現実を並べて語られています。 まず、教会が苦難を通されることが前提として語られます。 「その時、あなたがたは苦しみに引き渡され、殺されます。」マタイ24章9節。 ここで重要なのは、苦しみの有無ではありません。この予告が教会の地上存在を前提にしているという点です。 主は終末が近づく過程を、避難する過程としてではなく、地上に置かれたまま守られ続ける過程として語られています。 終末の到来点をこう示されます。 「そのとき、人の子のしるしが天に現れ、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて来るのを見るのです。」マタイ24章30節。 ここに描かれているのは、まず教会がなくなり、その後で主が来るという順序ではありません。 再臨そのものが終末の決着だと言っています。 この構造の核心は、再臨が完成、裁き、分離の同時到来だということです。完成、裁き、分離は同時です。 再臨は次の段階の開始ではありません。栄化の成就です。完成です。 そして主は分離がどのように起こるのかを示されています。 マタイ24章40節でこう言います。 「二人の男が畑にいると、一人は取られ、もう一人は残されます。」 主が描くのは、世界が集団として地上から消える光景ではありません。同じ畑、同じ作業、同じ瞬間、同じ歴史空間の中で、取られる者と残される者が分かれるという形です。 これは空間移動としての救済ではありません。裁きとしての分離です。 ここで重要なのは、その直前の文脈です。ノアの日の例が語られています。洪水で取り去られたのは、裁かれた人々でした。その意味をイエスは文脈上固定しています。 その上で「一人は取られ、一人は残される」と語っています。すなわち、取られる者は裁かれる者です。 なぜ選ばれた民は地上で守り続けられているのか。答えは、人の行動でも、熱心さでも、努力でもありません。理由は一つです。すでにキリストと結合されているからです。 コロサイ3章3節。 「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」 この「隠されている」とは、この世界から別の場所に移されたという意味ではなく、この地上に置かれていても、最終的に失われることのない位置にあるということを示しています。 ヨハネ10章28節。 「だれも、わたしの手から彼らを奪い去ることはできません。」 守られる根拠は、人の忍耐でも忠実さでもありません。神が民を守るという主権的事実です。 イエス・キリストとの結合は逃避の手段ではありません。裁きの中で絶対に失われることのない存在のあり方そのものです。 ヨハネ17章で、取り去るのではなく守るという真理が語られています。 だから主イエスは地上に残る民について、こう祈られました。 「あなたが彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」 この祈りは弟子たちだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、ヨハネ17章20節で、そう祈られています。 それは、教会が世から取り去られるのではなく、この世のただ中で悪から守られ、完成に導かれる終末構造をそのまま確定しています。 なぜこの構造が崩されやすいのか。 宗教性は、救いを苦難からの回避に変えます。自分たちを安全圏に移動させるという欲望によって、御言葉を変えるからです。 それは、イエス・キリストが神であり、神の主権によって人々が選ばれているということを知らないからです。 しかし福音の構造は、十字架においてすでに示されています。 「もし私たちが彼とともに死んだのであれば、彼とともに生きることになる。」ローマ6章8節。 「私たちはキリストとともに苦しむなら、共に栄光を受けるためです。」ローマ8章17節。 福音は回避ではありません。死を通って命です。通過の先に復活があります。苦難の先に栄光があります。 だから終末も同じ構造を持っています。回避ではなく、患難を通る。試練を通る、苦しみを通る。しかしそこは破滅ではありません。 神は選ばれた者たちを守り続け、再臨は逃避の開始ではなく、完成そのものです。 一本の救済史の線を整備すれば、 ヨハネ17章は取り去られない。 ローマ11章は一本の木として選ばれた民が守られ続ける。 黙示録7章は患難を通過する選ばれた人々。 黙示録14章は獣の時代を越えて立つ勝利者たち。 そしてマタイ24章は、再臨と裁きが同時に起こる。 取り去られることを願う人々は、取り去られてどこに行くのか。裁きに行きます。 結論は明確です。 選ばれた人々、教会は最後まで地上に置かれ、裁きの中で守られ続け、再臨と同時に完成に導かれます。 再臨は回避ではなく、完成の成就です。すべてはそこで成就します。 そして大祭司である主イエス・キリストは、私たちのために父なる神に祈られています。 ヨハネ17章15節。 「私がお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」 祈ります。 愛する天の父なる神様。 あなたが私たちをこの患難の時代の中において守り続けてくださっていること、私たちは死の陰の谷にあっても、あなたと共に歩んでいること、この素晴らしい啓示を感謝します。 どうか、誰一人、「取り去られたい」という思い、回避したいという人間の欲望によって、ディスペンセーション主義がもたらした誤った教えの中に入り、永遠の滅びに至ることのないように守ってください。どうか助けてください。 主イエスのお名前によって感謝してお祈りいたします。 アーメン。



