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空の検索で64件の結果が見つかりました。

  • 信仰はプロセス

    1. 信仰は「みことばを聞く」ことから始まる • ローマ人への手紙 10:17 「したがって、信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのことばによるのです。」   → 信仰はまず「聞く(みことばを受け取る)」ところから始まる、と明確に述べられています。   2. 理解し、知識を持つことが伴う • マタイの福音書 13:23(種蒔きのたとえ) 「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことです。」   → 「悟る(ギリシャ語で suniémi = 理解する)」という表現が出てきており、単なる聞くだけでなく「理解すること」が伴う信仰を示しています。   3. 事実として受け取る、認める • ヨハネの福音書 17:8 「わたしが父から受けたことばを彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、まことにわたしがあなたから出たことを知り、またあなたがわたしを遣わされたと信じました。」   → 弟子たちは「受け入れ」「知り」「信じた」と三段階で記され、事実としての受容が含まれています。   4. 信頼する(委ねる) • ヘブル人への手紙 11:1 「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」   → 信仰は「確信させるもの」、つまり神の約束に対する信頼の態度です。   また、ヨハネ3:16も有名です。 • ヨハネ 3:16 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」   ここでは「信じる」とは単なる同意ではなく、心から御子に信頼する行為を指します。 まとめ これらの箇所から、「信仰」とは: 1. 神のことば(福音)を聞き、 2. それを理解し(悟り)、 3. 真実として受け入れ(知り)、 4. 神に信頼する(依り頼む)   という聖書的なプロセスで成り立っていることが読み取れます。

  • 「イエスが教えた本物の信仰のしるし」— マタイ5章から学ぶ

    <全体の概要> 「山上の説教」と「幸いの教え」は密接に関係していますが、範囲と焦点が異なります。以下に明確 な違いを示します。 【1】山上の説教(マタイ5–7章) • 範囲:マタイの福音書 第5章〜第7章全体 • 内容:キリストが山の上で弟子たちと群衆に語った、最も長く体系的な説教 • 主題:神の国に属する者の「義」「生活」「心の在り方」 • 構成: o 幸いの教え(5:1–12) o 塩と光の譬え(5:13–16) o 律法の成就(5:17–48) o 隠れた義の実践(6章) o 金銭・心配・信頼(6章後半) o 批判と祈り(7章) o 二つの道と家の譬え(7:13–27) → 山上の説教は、キリストの弟子にふさわしい生き方全体を語る包括的な教えです。 【2】幸いの教え(マタイ5:3–12) • 範囲:山上の説教の「導入部分(序文)」にあたる • 内容:「再生された者の聖化の祝福を宣言」つまり 「神の国に属する者の祝福の宣言」であり、律法ではない。 「これを守れば祝福される」のではなく「このような者はすでに救われており祝福されている」 という福音的な宣言 ➡ この宣言は、神の恵みによって再生され、御霊によって歩んでいる者の姿を描いている。 • 構成: o 心の貧しい者 o 悲しむ者 o 柔和な者 o 義に飢え渇く者 o あわれみ深い者 o 心のきよい者 o 平和をつくる者 o 義のために迫害される者 → これらは「真の信仰者の救いの成長」であり、単なる道徳、倫理の教えではなく、再生された者 に人生を通して現れる祝福の実態を示しています。 ① 単なる道徳的教訓ではない • 幸いの教えは「こうすれば祝福される」という行動リストではなく、再生され、信仰義認され た者に神が造り出す「内なる性質と実」である。 • これは律法ではなく、福音に根ざす(ローマ8:29、ガラテヤ5:22)。 ② 順序性を持った聖化の歩み • 「心の貧しさ」→「悲しみ」→「柔和」→「義への渇き」→「あわれみ」→「きよさ」→「平和」→ 「迫害」の流れは、救いの成長過程として読むべき。 • 幸いは「性格的傾向」ではなく、「神が造り変えてくださる証拠」。 ③ 神中心の救いの実としての理解 • 幸いとは「自分の努力で到達する」ものではなく、神の恵みによる再創造の実(エペソ 2:10)。 • すべては「神の栄光と御国の拡がり」を表す。 観点 山上の説教 幸いの教え 範囲 マタイ5–7章 マタイ5:3–12  内容  神の国の義・生活の全体像 神の国に属する者の霊的特徴 位置づけ キリストの教え全体の包括的説教 の説教の冒頭、導入 目的 律法の成就・真の義の示し 御国に属する人の祝福の状態を宣言 対象 キリストの弟子(真の信仰者) 同上(弟子の姿勢と状態) はじめに   マタイの福音書5章3〜12節にある「幸いの教え」は、イエスが本物の信仰を持つ人にどんな特 徴があるかをはっきりと教えてくださった箇所です。これは、「こうすれば天国に入れる」という条件 ではなく、すでに神に救われた人に見られる特徴(しるし)なのです(R.C.スプロール)。 1. まず、「心の貧しい者」とは?  イエスは最初にこう言いました。 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3) これは、「神の前で自分は何も持っていない」と心から思っている人のことです。 ジョン・マッカーサーはこう言います: 「心の貧しさ」とは、神の前に自分が霊的に破産していると認めることです。  つまり、自分ではどうしても神に受け入れられないと知っている人です。だからこそ、救いをただ神 のあわれみにすがって受け取るのです。 2. その心には、罪を悲しむ思いがある  イエスは続けてこう言いました。 「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」(5:4)   これは、自分の罪に対して本当に悲しむ心を意味します。 悔い改めとは、「自分はもう十分にやった」と思うことではなく、神の前で砕かれていることなので す。 3. その人は柔らかい心になります 「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」(5:5)   神の前にへりくだり、人と争わず、自分の正しさを主張しない心。これも、救われた人に自然にあら われる性質です。 4. 義に飢え渇く人へ 「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(5:6)  この「義」は、神に喜ばれる正しさのことです。  ジョン・オーウェンはこう言いました: 義に飢え渇くのは、再生された人のしるし。聖霊の働きがその人の中にある証拠です。   神をもっと愛したい、罪からもっと離れたい…そういう思いは、信仰が本物であることのサインで す。 5. 主がしてくださる変化   このような心を持つ人に、神はこうしてくださいます:   • あわれみ深くなる(5:7)   • 心が清くなる(5:8)   • 平和をつくる者にされる(5:9)   これは自分の努力ではなく、神の恵みによる変化です。 6. そして、最後には迫害される 「義のために迫害されている者は幸いです…」(5:10)  本物の信仰を持っている人は、この世ではときに誤解され、拒まれることがあります。 でも、天の御国がその人たちのものとイエスは約束しておられます。 7. 外側だけの信仰ではない   最後に、マタイ5:20ではイエスはこう言われました: 「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人 の義にまさっていなければ…」  これは、外側の行動だけでは足りないという意味です。   R.C.スプロールも言います: 神が見ておられるのは、私たちの「心」です。内側からの変化こそが、神の御国にふさわしいもの です。 8.神の前にへりくだることから始まる道  へりくだると言う意味は、「神さまの求めている基準には、自分の力ではとても届かない」と心の底 から悟るということ  ――それは、イエスさまが語られた「本当の祝福された道」の入り口に立ったと いうことです。  イエスさまはこう言われました。  「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)  「心の貧しい」とは、自分には神さまの前に立てるような正しさがないとわかっている、そんな人の ことです。「自分にはどうにもできない」「神さまの前にふさわしくない」――そう心から思えること。 そこから、本当の信仰の道が始まるのです。  そして、このようにへりくだって歩み始めた人は、だんだん神さまのことばに従うようになります。そ れは自分で頑張ってやるのではなく、神さまがその人の心に信仰を与えてくださるからです。だか ら、神の国に属する人たちには、必ずこのような心の変化が現れてきます。 9.子どものような信仰って?   ある日、イエスさまは弟子たちに、大切なことを教えるために、小さな子どもをそばに呼んで言わ れました。 「本当に言います。あなたがたも悔い改めて子どものようにならなければ、決 して天の御国に入れません」(マタイ18:3)  ここで言われているのは、子どもが持っている「素直さ」や「正直さ」です。子どもは、「自分の力で なんとかしよう」とは考えません。信頼する人にすなおに頼ります。そんな姿こそ、神さまが喜ばれ る信仰の姿なのです。 10.本物の信仰には、従う心がある -   イエスさまは、ご自分を信じる人のことを「わたしの羊」と呼んで、こう言われました。 「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。わたしは彼らを知っています。彼 らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼ら は決して滅びることがありません」(ヨハネ10:27–28)  イエスさまの「羊」とは、イエスさまのことばに耳を傾けて、従っていく人のことです。信じる心は、神 さまが与えてくださるもの。そして、ほんとうに信じている人には、神さまに従いたいという心が与え られていくのです。 だから、「イエスさまを信じている」と言っていながら、神さまのことばにまったく従う気がない人は、 自分の信仰が本物かどうか、もう一度よく考えてみる必要があります。 11.まとめ • イエスさまの「幸いのことば」は、救われた人に見られる特徴です。 • 「自分にはどうすることもできない」と気づいて、神さまにすがるところから信仰が始まりま す。 • そこから、罪に対する悲しみ、優しさ、正しさを求める心へと導かれていきます。 • 神さまは、そういう人を変えてくださり、やがて人を愛し、平和をつくる者へと成長させてくだ さいます。 • この道を歩む人には、たとえ苦しみや迫害があっても、天の御国の祝福が約束されていま す。 12.聖書が教える信仰 「御子(イエス)を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者 はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ3:36)  信仰は「心の内側の変化」から始まります イエスさまを信じるとき、神さまはその人に「新しい心」を与えてくださいます。 「わたしは彼らのうちにわたしの律法を置き、彼らの心にこれを書き記す」 (エレミヤ31:33) 13. 神さまは「従わせようとする心」を与えてくださる • 信じたからといって、すぐに楽に従えるようになるわけではありません。 • ときには苦しみ、ときには葛藤し、自分のわがままを捨てる痛みもあります。 • でも、それでも「神さまに従いたい」と自分を叩いてでも従わせようとする思いが生まれる それは、神さまが与えてくださる信仰の働きです。 「私は、自分の思いを行うために、あなたがたのうちに働いて、願いを起こさ せ、実行させてくださる神なのです」 (ピリピ2:13) 14. 従順とは、楽なことではなく「戦い」です • イエスさまご自身も「ゲッセマネの祈り」で、御心に従うことに苦しみ、汗が血のように流れ るほど祈られました(ルカ22:44)。 • 私たちも、神の子として従おうとするとき、苦しみが伴います。 • でもその戦いこそ、神さまに属する者のしるしです。   あなたはこの1度しかないこの地上での人生をイエスキリストに最後の望みをおいて 生きたいですか? 心から従順に御言葉に従いたいですか? あなたがそのように望むことは神がすでに幸いの教え、神の主権の中に招きいれてくださ っているのです。 主は幸いの教えを通して従順に神に従う真の信仰者の聖化の祝福を教えています。

  • 「キリストと教会」 本当の結合の奥義について

    「キリストと教会」 本当の結合の奥義について キリストと教会の奥義とすり替わる「夫婦についての非聖書的」な誤解と、福音による秩序の回復― エペソ5:31–32 31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」 32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。   1. こんな教え、聞いたことありますか?(実際にある誤った考え) 今の教会の中には、こんなふうに言われることがあります: 「夫婦の愛こそが神さまの愛を映すもので、霊的な本質である」 「夫婦が仲良くなるほど、霊的にも成長していく」 「理想的な夫婦になることこそ、信仰者のゴールだ」 「夫婦の愛を通してキリストと教会の関係を表すのがクリスチャン」 一見「いいことを言っている」ように思えるかもしれません。でも実はこれらの考えは、聖書が教える秩序や、私たちの信仰の中心をすり替えてしまう誤った危険な考えです。 2. どこが間違っているのか?―改革神学に基づく聖書理解から見た問題点 【間違いその1】 夫婦の関係が先で、キリストとの関係はそのたとえと言う考え →これは順番が逆です! エペソ5:31–32では、パウロが創世記の「夫婦の結びつき」を引用しながら、「実はこれはキリストと教会の結びつきのこと」と教えています。 つまり、霊的な原型(本体)は、キリストと信仰者たちの結合であり、夫婦の結びつきはその地上的な型(モデル)にすぎません。 そしてこの「キリストとの結びつき」は、ただの象徴的関係ではありません。 それは全人格的、契約的、有機的な結合です。 人格的結合:私たちの思い・意志・感情がキリストに向けられ、人格全体がキリストに応答し、交わる関係です(ヨハネ17章)。   契約的結合:キリストの十字架によって成し遂げられた新しい契約に基づく、取り消されることのない救いの関係です(ヘブル9:15)。   有機的結合:ぶどうの木と枝のように、「聖霊」によってキリストに結び合わされ、そのいのちに生かされて実を結ぶ実質的なつながりです(ヨハネ15:5、ローマ6:5)。   だから、夫婦関係を原型とし、それを土台に聖書の霊的真理を理解しようとするのは、神の啓示の順序を転倒させることになるのです。 【間違いその2】   夫婦関係がうまくいけば、信仰も成長する、また、夫婦の愛を通してキリストと教会の関係がこの世に示されるという考え; →これは、人の努力で霊的に成長できるという、ペラギウス主義、霊的体験主義的な間違いです。 たとえば「良い夫婦になること」が神との結びつきや霊的な成長につながるというのは、神の恵みによる救いという聖書の真理に反しています。 エペソ2:8–10「救いは、あなたがたの努力ではなく、神の賜物です」 ヨハネ15:5「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」 霊的な成長は、個々の信仰者がまずキリストとの人格的・契約的・有機的な結合にあずかるところから始まります。それは天から新たに生まれることであり、すべて神の御業です。 夫婦関係の成熟や調和も、個々の救いの結果です。その結果として現れてくる実であり、決して霊的成長の出発点ではありません。 【間違いその3】   結婚を通して霊的な結びつきを体験できるという考え →これは「結婚を神秘的な体験」と考える、スピリチュアリズムやニューエイジ思想に近い考え方です。   結婚は、救いを与えるものでも、霊的体験の場でもありません。   結婚は、すでにキリストとの結合にあずかっている者たちが、神の創造秩序に従って歩む中で、福音の型として神の栄光を表すものです。 ローマ12:1–2では「自分のからだ全体を神にささげなさい」と教えています。 霊的な礼拝とは、夫婦で一体的に体験する神秘ではありません。それは一人ひとりが神に与えられた信仰によってキリストに結ばれ、その恵みに生きることです。信仰者が受ける神の恵みは神がそのそれぞれの信仰者に与えた信仰によって義と認められます。     3. 本当に大切なのは何か?―エペソ5章が語る「奥義」 この箇所では、夫婦の話をしているように見えて、実はキリストと教会(信者)との人格的・契約的・有機的な結合の奥義を語っているのです。   だから、地上の夫婦に完全な一致や愛を求めすぎることは、偶像化につながります。私たちのうちに真の一致と愛を生み出すのは、キリストとの生ける結合に生きることによってです。パウロはこの文脈で「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と[「キリストのことばをあなたたがたのうちに豊かにすまわせ」と命じています。 18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。19 詩と賛美と霊の歌をもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。 (コロサイ3:16) 16 キリストのことばをあなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。 私たちはキリストに結ばれ、そのいのちに生きる者として、御霊によってみことばに生かされるとき、あらゆる関係がゆっくりとですが確かに整えられていきます。 4. 先輩たちの証言 ― 改革派の偉大な神学者たちの言葉 ジャン・カルヴァン(『キリスト教綱要』III-1-1)  →「キリストとの結合は、私たちが救いのすべての祝福にあずかる入り口である」 ジョン・マレー(『Redemption: Accomplished and Applied』)  →「キリストと教会の関係は、創造の前から神に定められたものであり、結婚はその型である」 ヘルマン・バヴィンク(『改革派教義学』)  →「結婚は霊的成長の手段ではなく、創造秩序にある制度。福音の象徴である」   これらの証言は一貫して、「キリストと信者との結合が救済論の中心であり、結婚はそれを反映する型にすぎない」と教えています。 5. まとめ ― 本当の「結合」とは? - 本当の結合は、信じる者とキリストとの間にある、全人格的・契約的・有機的な永遠の結合です。 それは: 〇全人格的結合 私たちの思い・意志・感情がキリストに向けられ、人格全体がキリストに応答し、交わる関係です(ヨハネ17章)。  〇契約的結合: キリストの十字架によって成し遂げられた新しい契約に基づく、取り消されることのない救いの関係です(ヘブル9:15)。  〇有機的結合: ぶどうの木と枝のように、聖霊によってキリストに結び合わされ、そのいのちに生かされて実を結ぶ実質的なつながりです(ヨハネ15:5、ローマ6:5)。   夫婦の結びつきは、その霊的原型を地上に映し出す型であり、救いの手段ではありません。   結婚は、福音によって新しくされた者が、神の秩序の中で整えられていく過程の中で与えられる祝福です。   それは共同体としての結合、真のイスラエルすなわち神の花嫁 キリストと神が時の始まるまえより、選ばれたすべての民との結合 「子羊の婚宴」は本質的結合の完成、契約の完成であり、終末論的完成です。 この日こそ、私たちが待ち望む結婚の完成です。それは地上の結婚制度を超えた、贖われた信仰者たちとキリストの永遠の契約の完成です。そしてこの約束に預かっているものは「幸いな者」と呼ばれています。   黙示録19:7-9 7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。 8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」 9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、とかきなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。 【最後に】 結婚や家庭は神が与えられた尊い祝福であり、制度です。しかし、それを信仰の中心や霊的成長の源泉ではありません。 すべてはキリストとの結合という福音の本質にあります。すべてはそこから始まり、そこに帰って行きます。私たちは、まずキリストとの結合に生きることを第一とし、そこからすべての関係が整えられていくという秩序を理解し、大切にしましょう。 キリストこそが私たちのいのちであり、すべての結合の中心です。 この恵みの真理を、感謝と信仰のうちに受け取り、歩んでいきましょう。

  • 「私は絶えず罪人であり、義人である」

    「私は絶えず罪人であり、義人である」2025.6.3 ―― 私はいつも芯の芯まで腐っている。けれども、神は御前において私を完全に義と宣言される。この確信を与えてくださる神に栄光を捧げます。この逆説の恵みに、私はただ畏れ慄くばかりである。―― ❖ 主の前に叫ぶ者の言葉 私は絶えず、「私は最も惨めな罪人である」とうめきます。 けれども、同時に「それでも私は神に受け入れられている!」と心から喜ぶのです。 これこそが、イエス・キリストを信じる者の、真実な心の姿です。 福音を知れば知るほど、この叫びと喜びが私たちのうちに深く湧き上がってくるのです。 ❖1. 聖書が示す「人間の本当の姿」 •エレミヤ17:9 「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」 → 私たちの心の奥には、自分自身ではどうすることもできない汚れが潜んでいます。 •ローマ3:10–12 「正しい人は人はいない。ひとりもいない。」 → 神の前に、自力で義とされる者は誰一人いません。 •詩篇51:5 「私は罪ある者として生まれました。」 → 私たちは、生まれながらにして神に背を向ける存在なのです。 ❖2. なぜそんな私が、神に受け入れられるのか? 答え:キリストが私の代わりに完全な義を生き、十字架で私の罪の裁きを受けたから。 •ローマ5:1 「信仰によって義と認められた私たちは、…神との平和を持っている。」 •ローマ8:1 「今や、キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」 → それは私たちの努力や感情ではなく、イエス・キリストの義が私たちに着せられるという神の恵みのわざです。 ❖3. クリスチャンとは「罪人、でも義とされた者」 •ローマ7:18(パウロ) 「良いことをしたいと思っても、それを行う力が私にはない。」 → クリスチャンもなお罪と戦い続けています。 しかしその中でこそ、「すでに義とされた」という福音の恵みを、ますます深く味わうのです。 •ローマ5:5 「神の愛が、私たちの心に聖霊によって注がれている。」 → 神の愛は「できるようになった者」に注がれるのではありません。 「自分にはできない」と気づいた者に、聖霊を通して注がれるのです。 ❖4. 偽りの教えは、この福音を否定する 今日、多くの教会で語られている教えの中には、本物の福音を否定し、罪人としての自己認識を奪おうとする偽りの福音が混入しています。 以下のような教えは、すべて「罪人であり続ける現実」から目をそらさせようとする敵の策略です。 ❌ 表面的な福音主義  「神さまはあなたを愛しています。あなたはそんなに悪くありません。もっと前向きに自分を肯定しましょう。」 ❌ 支配神学  「私たちはこの地を支配する勝利の民。現実を変える力があなたにあります。勝利を宣言しましょう!」 ❌ 霊的戦い神学  「悪霊のせいでうまくいかないのです。先祖の罪の影響を断ち切り、解放を受けましょう。」 ❌ カリスマ神学  「もっと油注ぎを受けましょう。賛美の力で神の臨在を引き下ろしましょう。」 ❌ ペンテコステ的自己肯定神学  「私はキリストのうちにあるから、もはや罪人ではありません。」 → この最後の教えは特に危険です。 キリストのうちにあるからといって、私たちのうちの罪が消えたのではありません。 それは、神の御前で「義と見なされている」のであって、私たち自身が完全に義になったわけではないのです。 このような教えは、ルターが命をかけて回復した福音の真理―― 「Simul Justus et Peccator(義とされつつ、なお罪人である)」 を否定し、聖化の過程と日々の悔い改めを捨て去ります。 「罪人であることを否定する教え」は、十字架の必要を否定する教えです。 芯の芯まで腐っていると悟った者だけが、キリストの義の素晴らしさを真に感謝できるのです。この悟りか神からの贈り物です。 ❖5. 終わり ― 本物の礼拝、本物の福音 真に神を礼拝する者は、いつでも、どこでも 「私は最も惨めな罪人である」と心の中でうめききつつ、まさにその瞬間にこう叫ぶのです。 「それでも私は神に受け入れられている!」 神は、そのように呻く者にこそ、御子イエス・キリストによる義と平安の確信を与えてくださいます。 そして、その者は罪人でありながら、 心からこの神の恵みを喜び、感謝し、平安にとどまるのです。 真の礼拝者は、霊とまことをもって神を礼拝します。 これが、「罪人、しかし義とされた者」として生きる者の、心の叫びであり、喜びの源なのです。

  • 「救いと教会 ― 教会との結合」

    「救いと教会 ― 教会との結合」 2025.6.8 礼拝メッセージ  「教会に属していないと救われないのですか?」「救われたあと、自分に合った教会を選べばいいのでは?」この問いは、現代の教会、信仰者、すべての人々にとって非常に重要な問題です。 【第1:救いは信仰のみ、教会は救いの“結果”として与えられる】 まず、断言できます。 救いの条件に「教会所属」はありません。 「人は律法の行いとは関係なく、信仰によって義とされる」(ローマ3:28) 「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われた」(エペソ2:8) 人は、神の恵みによって、キリストへの信仰により義とされる。これがSola Fide(信仰のみ)の福音です。 スプロールも言います:“We are saved by grace alone, through faith alone, in Christ alone.” 【第2:神の選びから結合・内住まで ― 信仰者の教会への召命】 神の救いは、以下のような一つの鎖のように結ばれています: ・予知(前もって知る)―ローマ8:29 ・予定(あらかじめ定める)―ローマ8:29 ・召命(召す)―ローマ8:30 ・再生(新しく生まれる)―ヨハネ3:5「御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできない」 ・信仰―ピリピ1:29(信仰は与えられる) ・悔い改め―使徒11:18(悔い改めは神からの賜物)          ・義認(義と認める)―ローマ5:1 ・聖化(聖い者に変えられる)ローマ6:22 ・栄化(栄光を与える)―ローマ8:30      1)救いの御業の目的は個人の救いを通して、神の栄光がこの地上に現れること私たちは、神との選びにおいて、キリストのからだなる教会に計画され、召され、結合されているのです。「私たちは、神の御心により、御子にあって前もって定められ…」(エペソ1:11)「教会はキリストのからだであり、すべてをすべてで満たす方が満ちておられるところです」(エペソ1:23) 2)信仰者は、キリストと結合し(1コリント6:17) 霊によって新しく生まれ(ヨハネ3:5)、 信仰と悔い改めを神から与えられ(ピリピ1:29, 使徒11:18) その結果として教会という共同体に結合される(1コリント12:13) 「ひとつの御霊によって、私たちは皆、ひとつのからだにバプテスマされ…」(1コリント12:13) 3)さらに、父・子・聖霊の三位一体の神が、信仰者のうちに永遠に住まわれます。 ・「わたしたちは、御父と御子が、その人のところに来て、住まう」(ヨハネ14:23) ・「キリストがあなたがたのうちにおられる」(コロサイ1:27) ・「あなたがたのうちに住まわれる聖霊」(ローマ8:11) 4)真の信仰者たちは神の神殿とされる 「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊が宿っておられる」(1コリント3:16) 結合(Union)は、一度きり、全人格的、契約的に、有機的にキリストに結ばれたこと。 内住(Indwelling)は、神が信仰者のうちに臨在され続けること。ペンテコステの聖霊降臨の重要性はここにあります。 ➡ この結合、内住は教会が生まれることの土台となる。 <結合と内住の違い> 区分 結合(Union with Christ) 内住(Indwelling of God) 定義 全人格・契約・有機的な結合。再生と同時に成立 結合に基づく神との霊的交わり 時期 再生と同時、一度限り 継続的に続く 主体 キリストとの関係(位置) 三位一体の神の臨在(経験) 聖句 1コリント6:17、ローマ6:5 ヨハネ14:23、ローマ8:10、2コリント13:5     【第3:キリストの内住 ― 教会と信者における現実】 「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」(コロサイ3:11) この御言葉は、単なる象徴ではない。再生された者には、実際にキリストご自身が聖霊を通して内住している。 ・信者の心の中に、キリストが住まわれる ・教会全体に満ち、満ちるキリスト ・その結果、私たちは内から造り変えられていく(これが「聖化」) 【第4:なぜ「あとから教会を選ぶ」ではいけないのか?】 「救われたあと、自分に合った教会を探せばいいのではないか」「教会に行かなくても、個人的に礼拝して信仰があれば十分」一時的な迷いや偽りの教会で傷を負った場合を除き、 ・長期にわたって教会を拒絶し、悔い改めず、交わりを避けるなら、 ➡ 聖書の基準から見て、その信仰は偽である可能性が極めて高い。 ➡ その人は「名ばかりの信者(ノミナル・クリスチャン)」か、あるいは ➡ まだ再生に達していない「自然の人」である ➡現代の自己中心的な個人主義の影響 スプロールはこう警告:“The church is not a spiritual shopping mall. It is the body of Christ, ordained by God.”教会は「霊的なショッピングセンター」ではありません教会は神により定められているキリストのからだです。   【第5:結論 ― 教会は「選ぶ場所」ではなく「結合された命」】 ・組織教会に属さないと救われない? → ❌ それは異端的 ・教会は信仰に関係ない? → ❌ それも聖書に反する ✅ 救いとは、キリストに結ばれること。そしてキリストに結合されるとは、キリストのからだである教会に結合されたということです。 ➡ あなたは、信仰を与えられた、その瞬間から、神の永遠のご計画の中で「教会に召された者」 【終わりに ―教会とは何か?】 あなたが本当に救われているなら――キリストは、あなたのうちに住んでおられます。そして、あなたはキリストのからだである教会に結合されています。それはあなたの聖書の教義の理解が浅くとも深くと全く関係ありません、結合されています。これはまさに、あなたがキリストの十字架の御業に結合されていること、復活に結合されていることと同じです。   ➡ それは 「私は芯の芯まで腐っています。助けて、イエス様、どうかわたしを憐れんでください!!」 と言う心からの叫び 神から与えられた憐みと恵みより与えられた信仰より神に義(神の御前で正しい)とされることから来ています。最後の望み、イエスキリスト、それ以外になにもありません。 ➡ この福音の現実を信じてください。 ✨ 「教会は、キリストのいのちが満ちあふれる真の信仰者たちの集まり」 ✨ 「真の信仰者とは、キリストの内住によって造り変えられる者」 「だから、教会を信じた後で選ぶとか、行くとか、行かなくても信仰生活はできるとか言うような次元の話は聖書的に間違っています。」 真の信仰者たちは神により、教会に計画され、選ばれ、新たに生まれ、信仰によって生きるのです。 そして神の栄光を信仰者たちが集まり、ともにほめたたえ、イエスの福音をこの地上で延べ伝えます。 それが神の教会です。      <神に栄光をほめたたえる教会> エペソ 1:6 「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」 エペソ 1:12 「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」 エペソ 1:14 「聖霊は、私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」 パウロの祈り ― 教会がキリストを知るために エペソ 1:18–19 パウロは、教会が 神の召しによる望み、 聖徒が受け継ぐ栄光、 信じる者に働く偉大な神の力を「知る」ように祈っています。 R.C.スプロール/ジョン・マッカーサーの要約的解説 キリストを知るとは 「キリストをかしらとする神の主権と結合によって、単なる聖書知識の習得ではなく、選びから栄化に及ぶ救い全体において   ・霊的再生の現実、 ・神の力の体験、 ・キリストの愛の深い理解、   そして キリストをかしらとし、そのからだである教会との結合 によって、信仰者が“神の満ち満ちた豊かさ”に満たされることを意味する。」 キリストと教会 エペソ 1:22 「神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会にお与えになりました。」 宇宙、時間、霊的な世界、すべての被造物の主権はキリストにあり、キリストは教会のかしらである。 エペソ 1:23 「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」   キリストと教会 ― 宇宙の主権と教会の栄光の器 (エペソ1章・コロサイ3章より) エペソ書とコロサイ書は、キリストの宇宙的主権と教会との関係を壮大なスケールで描いています。   エペソ1:22–23では、神がキリストを「すべてのものの上に立つかしらとして教会にお与えになった」と語られています。 宇宙、時間、霊的世界、すべての被造物は、キリストの御足の下に従えられています。 そしてこの万物の主権者であるキリストが、教会においてかしらとして与えられているのです。 「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」(エペソ1:23)   この御言葉が語る通り、教会はキリストの満ち満ちた臨在の現場であり、ただの集会や組織ではなく、神の救済のご計画が現実に働いている契約共同体です。 これは神の臨在が教会において具現化されている証しと理解されます。   コロサイ書はこの主題をさらに具体的に描き出します。 「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」(コロサイ3:11)   ここで語られているのは、キリストの臨在があらゆる違いを超えて、教会を一つのからだとして統合するという現実です。人種や文化、地位を越えたキリストにある新しい人(再創造)の共同体としての教会こそ、神の栄光を表す場所なのです。 さらに続く3:16では、次のように命じられます。 「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」   これは「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と同義であり、キリストの臨在は御言葉と聖霊によって教会のうちに住まわれていることを示しています。ジョン・マッカーサーは、「満たしとは感情的高揚ではなく、神のことばに支配された状態である」と語っています。 RCスプロールも、「教会における“満たし”とは神の真理によって構造的に統治される臨在であり、それは再生された民が共有する契約の現実である」と述べています。 🔚 結論 キリストは全宇宙の主であり、その主権をご自身のからだなる教会に注いでおられます。教会は、みことばによって建てられ、聖霊によって満たされ、キリストの栄光をこの地に表すために召された神の民です。 ➡ 文化や身分の差異は意味持たず、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」という現実が、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」と言う命令とお互いに響きあいながら、愛と赦し、感謝と賛美によって変えられて教会に生きられていきます。 これこそが、「すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところ」(エペソ1:23)の意味であり、私たちが属するキリストのからだとしての教会の真の本質なのです。 Soli Deo Gloria ― ただ神にのみ栄光を。

  • 「この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる」

    「この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる」― マタイ16:13–18より 2025.6.10みことばをあなたに     「私は芯の芯まで腐っています。イエス様、どうか助けてください。このような者をあわれんでください。」   この叫びが心の底から湧き上がるということは、いったい何を意味しているのでしょうか?   これは単なる悲鳴でも、芝居がかった感情表現でもありません。 これは、神によって砕かれた魂の叫びであり、聖霊によって与えられたまことの信仰告白なのです。 すなわち、これが信仰と悔い改めそのものです。   この信仰と悔い改めにより、神はその人を義と認めてくださいます。 これを信仰義認と呼びます。     【ペテロの信仰告白とキリストの宣言(マタイ16:13–18)】   「あなたは、生ける神の御子キリストです」 「わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」   ペテロのこの告白は、イエスがキリストであり、神の御子であるという信仰の核心を表しています。   そして主は言われました。   「この岩の上に、わたしの教会を建てる」   ここで言う「岩」とは、ペテロという人物ではなく、 彼の語った信仰告白そのもの――つまり、キリストご自身とその救いの福音を指しています。     【ロードシップ・サルベーション:主の主権による救いと教会の土台】   ジョン・マッカーサーは次のように語ります:  “真の救いとは、イエス・キリストを主(Lord)として告白することである。それは、人が自分の意志で決断するものではなく、神によって心が砕かれ、主にひれ伏すしかないと認めさせられた者の叫びなのだ。”   「イエスは主です」という言葉は、自分の力で言えるものではなく、 再生された者の信仰の実です(1コリント12:3参照)。   「イエス様、あなたしかいない」という叫び。 「私は腐っています」という自己絶望の中から出る祈り。 これこそが、まことの教会が建てられる岩なのです。     【信仰義認の恵みと教会のかたち】   改革神学はこう教えます:   「義とされる(Justified)」とは、罪人が神の前で正しいと宣言されること。 それは、キリストの完全な義がわたしに転嫁された結果であり、 罪人が信仰を通して神から受ける恵みの賜物です。   この信仰はどこから来るのでしょうか? エペソ2:8は明確にこう語ります:   「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。 それは自分自身から出たことではなく、神の賜物です。」   つまり、信仰は人間の選択や努力ではなく、神の賜物です。 ゆえに、その信仰によって義とされた者たちの集まり――教会とは、神のわざそのものであり、 人間の制度や組織ではありません。     【教会とは、信仰告白に結ばれた者たちの契約共同体】   教会は、「信じたから入れるクラブ」ではありません。   神の永遠のご計画の中で、選ばれ、再生され、信仰によって義とされた者たちが、 キリストに結合されて生きる契約的な命の共同体です(エペソ1:22–23参照)。   「教会はキリストのからだであり、すべてをすべてで満たす方が満ちておられるところです」   イエスはこう語っておられるのです:   「この信仰の告白、この信仰の上に、わたしの教会を建てる」   「イエスは主です」、つまり、 「私は芯まで腐っています。イエス様、助けてください」―― この告白こそが、教会の真の土台なのです。   【この土台は神の業である】   教会に通えば救われるのでしょうか? 親や友だちに合わせて教会に来ているだけではないでしょうか? ただ雰囲気が好きで教会に来ているだけではありませんか?   神はあなたに問いかけています:   「あなたの心の底から、 『私は腐っている。神よ、私の希望はあなたしかいない』と叫んだことがあるか?」   この信仰の叫びこそが、 キリストがご自身の教会を建てられる“岩” なのです。   そして、あなたが今日もなお、この叫びの中に生きているなら―― あなたは主の教会の一部なのです。   まとめ   教会は、人間の組織や制度ではありません。 教会とは、神の恵みによって信仰が与えられた者たちの集まりです。   イエス・キリストが語られたその岩とは―― 「私は芯まで腐っています。イエス様、どうか助けてください」 というまことの信仰の叫びなのです。   この叫びの上に、キリストは今日もご自身の教会を建てておられます。 教会とは、立派な建物の中にあるものではありません。 十字架が立っている場所にあるわけでもありません。   教会とは、「私は本当に罪人です。どうかこんな私をあわれんでください」と告白する者たち自身なのです。

  • 広さ、長さ、高さ、深さ

    エペソ人への手紙第3章18節の祈りに対する整理 2025.6.15 礼拝メッセージ パウロは、エペソの信徒たちのためにこう祈りました。   「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、 あなたがたに 知恵と啓示の御霊 を与えて、 神を知る ことができるようにし、 心の目をはっきり見えるようにしてくださいますように。」 (エペソ1:17–18)   この「知る」とは、ただ情報を得ることではありません。 それは、 心の目が開かれ、神の救いのご計画を全体として御霊により啓示され悟ると言うこと です。    ・予知(前もって知る)―ローマ8:29・予定(あらかじめ定める)―ローマ8:29 ・召命(召す)―ローマ8:30 ・再生(新しく生まれる)―ヨハネ3:5、「御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできない」 ・信仰・悔い改め ―ピリピ1:29(信仰は与えられる)、使徒11:18(悔い改めは神からの賜物)       ・義認(義と認める)―ローマ5:1 ・聖化(聖なる者に変えられる)ローマ6:22 ・栄化(栄光を与える)―ローマ8:30       1)救いの御業の目的は個人の救いを通して、神の栄光がこの地上に現れること私たちは、神との選びにおいて、キリストのからだなる教会に計画され、召され、結合されているのです。 「私たちは、神の御心により、御子にあって前もって定められ…」(エペソ1:11) 「教会はキリストのからだであり、すべてをすべてで満たす方が満ちておられるところです」(エペソ1:23) 2)信仰者は、キリストと結合し(1コリント6:17)  霊によって新しく生まれ(ヨハネ3:5)、 信仰と悔い改めを神から与えられ(ピリピ1:29, 使徒11:18) その結果として教会という共同体に結合される(1コリント12:13) 「ひとつの御霊によって、私たちは皆、ひとつのからだにバプテスマされ…」(1コリント12:13) 3)さらに、父・子・聖霊の三位一体の神が、信仰者のうちに永遠に住まわれます。 ・「わたしたちは、御父と御子が、その人のところに来て、住まう」(ヨハネ14:23) ・「キリストがあなたがたのうちにおられる」(コロサイ1:27)・「あなたがたのうちに住まわれる聖霊」(ローマ8:11)   4)真の信仰者たちは神の神殿とされる「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊が宿っておられる」(1コリント3:16)結合(Union)は、一度きり、全人格的、契約的に、有機的にキリストに結ばれたこと。 内住(Indwelling)は、神が信仰者のうちに臨在され続けること。ペンテコステの聖霊降臨の重要性はここにあります。 ➡ この結合、内住は教会が生まれることの土台となる。   <結合と内住の違い> 区分 結合(Union with Christ) 内住(Indwelling of God) 定義 全人格・契約・有機的な結合。再生と同時に成立 結合に基づく神との霊的交わり 時期 再生と同時、一度限り 継続的に続く 主体 キリストとの関係(位置) 三位一体の神の臨在(経験) 聖句 1コリント6:17、ローマ6:5 ヨハネ14:23、ローマ8:10、2コリント13:5     【キリストの内住 ― 教会と信者における現実】 「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」(コロサイ3:11)この御言葉は、単なる象徴ではない。   再生された者には、実際にキリストご自身が聖霊を通して内住している。 ・信者の心の中に、キリストが住まわれる ・教会全体に満ち、満ちるキリスト ・その結果、私たちは内から造り変えられていく(これが「聖化」)   パウロは、エペソの信徒たちのためにこう祈りました。 17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、 19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。  この「知る」とは、ただ情報を得ることではありません。 それは、心の目が開かれ、神の救いのご計画を全体として知ることです。これは聖霊の働きによります。     エペソ1章〜2章からの要点 【1:4】天地の創造の前に、神は私たちを選ばれました 【1:7】キリストの血によって、私たちは贖われました 【1:13–14】聖霊によって、将来の相続が保証されました 【2:1–5】死んでいた私たちを、神はキリストとともに生かしてくださった 【2:8–9】救いは行いではなく、ただ神の恵みによるものであり、信仰は神の賜物 これが全体像:選び、贖い、再生、義認、聖霊の保証、相続 ──すべて神の恵みによる壮大な救済の計画   私たちは、これらの神の素晴らしい恵みの働きをどれほど知っているでしょうか? どれほど心を打たれて、感謝と礼拝に導かれているでしょうか? パウロはこう祈り続けました。 18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。  まさにそうなのです。   ――パウロの祈りの「神学的深み」そのものです。 パウロは、創造のはじまりから栄化の終わりまでのすべてを、「キリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さ」で貫いて祈っています。   これは単なる「霊的体験、個人的な祈り」ではありません。   これは――神の救済史の全体を、愛によって貫き、キリストの十字架によって確証された、福音の全構造を震える心で語る祈りです。   【エペソ3:18】その広さ、長さ、高さ、深さについて    神の救済計画(創造〜栄化)の構造   1. 広さ=創造と選びの広がり:存在するすべてのものを貫く神の愛   神は世界を創造された時から、愛によって計画を始められた(創世記1:1、エペソ1:4)       •光も闇も、天も地も、天使も人も――すべてが神の愛のご計画の中で造られた。     •「選び」は人間の自由意思ではない。被造世界の中で、主がご自身の愛の対象を定めた主権の現れ。     •広さとは、創造に先立つ「愛の永遠の意志」の広がり。   「 宇宙を超えた創造と選びにおける主権的な愛の広がり」     2. 長さ=歴史の流れを導く愛:再生・信仰・悔い改めの中に働く神の導き   「神は、時が満ちるに及んで、御子をお遣わしになった」(ガラテヤ4:4)   •私たちは時の中にいるが、神の愛は時を超えて先に働いている。 •再生は、時間の中で起こるが、永遠のご計画の成就として与えられる。 •信仰も悔い改めも「人間の応答」ではなく、愛の長さの中に仕込まれた恵みの出来事。   「創造から終末までの「歴史全体」に流れ込む、切れ目なき愛の持続」    3. 高さ=義認と聖化による天への引き上げ:神の栄光と結合される愛の高み   「あなたがたはキリストとともに天の所に座らされた」(エペソ2:6)       •十字架の義によって罪の下から引き上げられ、     •聖化によって神のかたちに変えられつつあり、     •やがては栄化によってキリストとともに完全な栄光に与る。   この「高さ」に含まれるもう一つの驚くべき真理は、神の救いの完成は、すでに決定しているという確実性です。 パウロはローマ8:30でこう語ります: 「神はあらかじめ定めた人たちを、さらに召し、召した人たちを義と認め、義と認めた人たちには、さらに栄光をお与えになりました。」 ここで注目すべきは、「栄光をお与えになりました(過去形)」という表現です。 私たちの時間の中ではまだ到達していない「栄化」が、 神の永遠の計画の中では、すでに与えられたものとして語られているのです。 これは、神の救いの計画が途中で頓挫することは決してないという確信を与えます。   選ばれた者たちには、神によって完全な救いが始まり、神によって成り、神によって確実に完成されます。 このように、選びから栄化までのすべてが神によって語られ、すでに完成形で示されていることは、神の民が必ず終わりまで堅く保たれるという」確信となります。   これはパウロがピリピ1:6で語る「あなたがたのうちに良い働きを始められた方が、それを完成してくださる」という約束と一致します。 したがって、栄化とは、単なる希望ではなく、神の契約における確実な未来なのです。        「最も低き者を、神の御座へと引き上げる神の愛の高さ」    4. 深さ=十字架の御業:死、呪い、裁き、断絶の最も深いところまで降りられた愛   「キリストは死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリピ2:8)  •ただ主は死んだのではない。 •ローマ3:25「神はこのキリストを、信仰による血による宥めの供え物 神の怒りと呪いを、私たちの代わりに一身に負われた。  •その深さは、誰も届かない罪の底へ、神ご自身が降ってくださった深み。  •神の愛の深さとは――神が沈黙された場所で、なお私たちを見捨てなかったという事実。   「神の断絶すら飲み込む十字架の愛の深み」    パウロの祈り:これは福音の全体構造へ「神の愛という光」を当てる祈り   「私は、創造から栄化に至る、すべての神のわざの中心に、キリストの愛があることを、聖徒たちとともに悟ってほしい――そのように祈る。」   19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。    「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」  こうして ➡「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」    <人知を超えたキリストの愛の全貌>   神の主権にすべてがあり(私たちは神の主権の中にあり) キリストとの結合 (キリストはわたしの内にあり)    広さ=創造と選びの愛:すべての時空を超えた主権  長さ=再生・信仰・悔い改めの愛:時間の中の契約的導き  高さ=義認・聖化・栄化の愛:神の子としての天の御座に引き上げられた  深さ=十字架の御業:裁きの底にまで届いた神の愛 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ること   「人知をはるかに越えたキリストの愛」=人間の理性では捉えきれないが、御霊による啓示によってのみ悟られる福音の奥義   1コリント2:9–10 "しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。   それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。" 神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。 · 神ご自身の満ち満ちたさまにまで…」というのは、キリストの愛を知り、信仰の成熟へと造り変えられていく、内住の現実と結びついている。     「天地創造の前からあなたに注がれていた愛、 十字架でそのすべてを証明された愛、 天の御座にまであなたを引き上げる愛、 そして時間も空間も死さえも打ち破ってあなたに届いている愛―― その“福音の全体構造の広さ、長さ、高さ、深さ”を、すべての聖徒たちとともに、心の目が開かられて理解する力を与えられるように。」   この祈りの内容は、人間の自由意志による決断や霊的感覚の追求とは異なり、神の主権とキリストの完成された救いの計画を啓示によって知ることを求める祈りです。

  • 教会に地上支配の権限は与えられていない

    教会に地上支配の権限は与えられていない 2025.6.18 支配神学と霊的戦争思想を福音の光で撃ち砕け 【1. 支配神学の主張とその根拠とされる聖句】 支配神学の主張:教会は「神の国の地上代表」であり、あらゆる領域(政治・教育・経済・文化など)を支配し、悪魔の勢力を駆逐する使命を負っている。神はアダムに地の支配権を与え、それをキリストが回復し、今や教会に委ねた。よって教会は「地上における神の統治機関」である。 誤用される聖句: 創世記1:28「地を従わせよ、支配せよ」 詩篇8:6「あなたの御手のわざを人に治めさせ…」 ルカ10:19「蛇やさそりを踏みつける権威を与える」 マタイ16:19「天の御国の鍵をあなたに与える」 黙示録11:15「この世の国は、我らの主とそのキリストの国となった」 【2. みことばによる教会代理支配論の完全破壊】 【誤用1】 創世記1:28「地を従わせよ、支配せよ」 アダムに与えられたのは「創造の秩序管理」の責任であって、霊的・地政学的支配ではない。 ローマ5:12「罪が一人の人によって世に入り」 支配は崩壊、サタンの支配下に。 詩篇103:19「主は天にその御座を備え、主の王国はすべてを支配する」 人間ではなく神が支配者。 【誤用2】 詩篇8:6「万物を彼の足の下に置かれました」 ヘブル2:6–9で明確にキリスト預言として解釈される。「すべてが人に従った」のではなく、「私たちはイエスを見ます」とある。この支配は教会の支配ではなく、キリストの栄光による成就。 【誤用3】 ルカ10:19「蛇やさそりを踏みつける権威」 宣教時の霊的保護の約束であり、地上支配や悪霊追放命令の普遍原理ではない。続く20節で、「霊が従うことを喜ぶな。名が天に書かれていることを喜べ」と教えられる。支配ではなく、救いと神の恵みが中心である。 【誤用4】 マタイ16:19「天の御国の鍵をあなたに与える」 原語の「つなぐ・解く」はラビ的表現であり、天の御旨を宣言する責任の意味。福音の扉を開く責任として、ペテロはユダヤ人・サマリヤ人・異邦人に福音を伝えた(使徒2, 8, 10章)。支配ではなく、宣教の鍵=御言葉の宣言的責任。 【誤用5】 黙示録11:15「この世の国は…主とそのキリストの国となった」 これは終末における最終的成就の預言。現在の教会に地上支配が委ねられた証拠ではない。支配はキリストが再臨されるとき、完全に実現される(黙示録19:16) *ミニコラム* 霊的領域を勝ち取るという異端を撃ち砕け! 「この土地に祈って勝利を宣言しよう地域の悪霊を打ち破り、霊的領域を奪い返そう」 こうした叫びは、現代のカリスマ的スピリチュアル・ウォーフェア思想に満ちている。しかし、それは福音ではない。それは「キリストのすでに勝ち取った勝利」を否定し、教会が支配者として悪霊と戦って勝利しなければならないという偽の福音である。 聖書は明確に語る: コロサイ2:15「キリストは十字架で、支配と権威を打ち破られた」 コロサイ1:13「私たちはすでに暗闇から移された」 ヨハネ18:36「わたしの国はこの世のものではない」 私たちは領域を勝ち取るのではない。福音を宣言し、神が再生された者に御国が来るのを待つのだ。 【3. 真のキリストの王国は何か?】 ヨハネ18:36「わたしの国はこの世のものではない」 ピリピ3:20「私たちの国籍は天にある」 コロサイ1:13「暗闇の力から救い出され、御子の御国に移された」キリストの王国は、「教会が地上を支配する制度的構造」ではない。神によって再生された者が、福音によって神の支配に服する霊的現実である。 【支配神学を福音の光で撃ち砕け】支配神学は、アダム契約を誤読しキリストの十字架を過小評価し教会に与えられた福音の宣言という謙遜な召しを忘れ地上的支配にすり替えた偽りの王国ビジョンである教会は王ではない教会は王を指し示す者である教会の武器は、勝利を叫ぶことではなく悔い改めと信仰を呼びかける十字架の福音の宣言である。 【まとめ】 支配神学が聖書によって明確に否定される証明ヨハネ18:36「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしがユダヤ人たちに渡されないように、わたしのしもべたちが戦ったことでしょう。しかし、わたしの国はこの世のものではありません。」主イエスご自身が語られた決定的宣言である。 地上的支配(政治、軍事、国家、制度)とは無縁であることをはっきりと告げておられる。キリストの国は、御言葉と福音によって支配される霊的な国であり、地上の統治権を信者や教会に委ねたとは一言も語っていない。 ルカ17:20–21「神の国は、見えるかたちで来るのではありません。『見よ、ここにある』『あそこにある』と言えるようなものではありません。実に、神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」 神の国は地上的制度的支配や領域的占有ではない。「ただ中にある」とは、神の御霊によって再生された者のうちに始まる、霊的支配の現実である。 教会が制度的支配を握るという考え方は、キリストの福音に対する完全な反逆である。 2コリント10:4–5「私たちの戦いの武器は、この世のものではなく、神の御前で要塞をも打ち砕く力があるのです。私たちは、あらゆる思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせます。」 戦いとは、支配することでも領域を奪い返すことでもない。それは、神に逆らう高ぶった思いを砕き、キリストの福音に服従させる霊的戦いである。真の支配は御言葉によって魂がキリストに従うことにある。支配神学は、地を征服しようとして魂を見失う異端的運動である。

  • 十字架の血により贖われ罪と戦う

    2025.6.17_The Word foy you 十字架の血により贖われ罪と戦う あなたは贖われた。でも、戦いは続いている 聖書:1ペテロ1:18–19 / ローマ6–8章     1 はじめに:船を作った少年の話 ある少年が、手作りの木の船を作りました。心を込めて仕上げたその船は、彼の宝物でした。ある日、その船を川に浮かべて遊んでいたとき、強い流れに流され、船は見えなくなってしまいました。   数日後、町のおもちゃ屋のウィンドウに、自分の作ったその船が並べられているのを見つけました。少年は店に入り、「これは僕の船だ」と言いましたが、店主は「買いたければ代金を払いなさい」と答えました。   少年は家に帰り、お金をかき集めて再び店に行き、その船を買い戻しました。そして彼はこう言いました。   「君はぼくのものだよ。ぼくが作ったし、買い戻したんだから。」   2 贖いとは何か ペテロはこう書きました。   「あなたがたは、…金や銀のような朽ちるものによってではなく、傷のない、汚れのない子羊のようなキリストの尊い血によって贖われたのです。」(1ペテロ1:18–19)   神は私たちを造られた方です。でも私たちは、罪によって神から離れました。それでも神は、私たちをあきらめず、イエス・キリストの命という最高の代価を支払って、買い戻してくださいました。これが「贖い」です。   3 贖われたのに、なぜまだ罪に苦しむのか? それは当然です。   ローマ6章6節にはこう書かれています。   「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされ、もはや罪の奴隷でなくなるためです。」   ここで使われている「滅ぼされ」は、ギリシャ語で「カタルゲオ」。この語は、「完全に無くす」ではなく、効力を奪う・支配力を破るという意味です。   つまり、罪はまだあなたの中に存在します。でも、もはやあなたを支配することは出来ないと言うことです。   罪は今も、あなたの想像力、欲望、肉体を通して誘惑してきます。しかし、あなたはもはやその奴隷ではありません。   4 パウロの叫び:ローマ7章の現実 パウロは、贖われた後でもこう叫びました。   「私は自分のしたい善を行わず、したくない悪を行ってしまう。わたしは、なんと惨めな人間なのでしょう!」(ローマ7:19, 24)   これは未信者の姿ではありません。再生された者が経験する、内なる霊と肉の激しい葛藤の証言です。   5 聖化とは:贖われた者の戦いの道 聖化とは、贖われた者が罪と戦いながら、少しずつキリストに似た者とされていく過程です。   すでに始まっているけれど、まだ完成していない   倒れることもあるけれど、御霊が導き続けてくださる   あなたが罪と戦っているのなら、それこそが再生された者のしるしです。   6 御霊の力の中で生きる(ローマ8章) 「御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きる」(ローマ8:13) 「御霊も同じように、私たちの弱さを助けてくださいます」(ローマ8:26)   自分の力で戦おうとすれば、必ず敗北します。でも、御霊があなたのうちで働いてくださり、罪を憎む心、キリストに従いたいという願いを与えてくださいます。   7 よくある誤解と訂正 「十字架で罪は完全に打ち砕かれたから、もう罪は残っていない」 これはカタルゲオの意味を無視した誤った教えです。ここから、「完全聖化」や「罪を清める第二の祝福」が生まれます。   「聖霊のバプテスマを受ければ、罪に勝てる」 これは十字架の完成性を否定する異端的な思想です。十字架に“足りないもの”があるかのような、福音への侮辱です。   正しい理解はこうです。   キリストはすでに贖いを完全に成し遂げられました。しかし、罪との戦いは今も続いています。それは、神が私たちをきよめ続けておられるしるしです。御霊が日々、戦いの中で私たちを支えてくださっています。   8 信仰は「私が決めた」ことではない 信仰もまた、神の賜物です。「私はイエスを信じた」と言うと、まるで自分の意志と選択で救われたように聞こえてしまいます。 聖書が教えるのは、「神があなたを再生させ、キリストに信頼する信仰を与えてくださった」ということです。   ですから、私たちはこう告白します。「神が私の心を開いてくださり、キリストを信じるようにしてくださいました。」   9 まとめ ・あなたは神に造られた者 ・しかし罪により、神から離れていた ・神はあなたを見捨てず、キリストの血で買い戻してくださった ・罪の支配は打ち砕かれた(カタルゲオ) ・しかし罪との戦いは今も続いている(ローマ7章) ・それは聖化の道、御霊による導き(ローマ8章) ・信仰も神の賜物であり、あなたは神によって信じる者とされた

  • 祈りは依存 ― 再生前から始まっている主の訓練

    2025.6.20_The Word for you 祈りは依存 ― 再生前から始まっている主の訓練 マルコの福音書 9章25~29節 1. はじめに:祈りってなに? みなさん、「祈り」ってなんでしょうか? 「祈れば神さまが動いてくれる」「祈れば問題が解決する」――そう思っていませんか? でも、それは聖書が教える祈りではありません。 祈りは、神を動かして自分の願いを叶えるための手段ではありません。 祈りとは、神にすがり、神の御心に従う者へと変えられていく「信仰の応答」そのものです。 2. 今日の聖書:マルコ9章25〜29節 ある父親が、悪霊に苦しめられている息子をイエスの弟子たちのもとに連れてきました。 弟子たちは、イエスから「悪霊を追い出す権威」を与えられていましたが…このときはできなかったのです。 イエス様はその子から悪霊を追い出しました。 その後、弟子たちはこう尋ねます: 「どうして私たちは霊を追い出せなかったのですか?」 イエス様の答えはこうでした: 「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」 3. 再生されていなかった弟子たち ここで大事なのは、弟子たちはまだ「新たに生まれて」いなかったということです。再生とは、神が聖霊によって心を新しくされること。信仰も祈りも、再生がなければ生まれません。 弟子たちは祈れなかった。できなかった。それは当然のことでした。まだ新しくされていなかったからです。 4. ではなぜ、イエス様はできない弟子に権威を与えたのか? それは、「失敗させるため」ではなく、「主が不在を教えるため」です。 弟子たちは「任命された」「力をもらった」ことで、自分たちの中に何かがあると思っていました。 でもそれは違いました。 イエス様は、あえて彼らを失敗させることで、こう教えようとされました: 「あなたは自分の力では何もできない。私が与えなければ、あなたは祈ることも、従うことも、信じることもできない。」 5. 訓練は再生される前から始まっていた ここが今日のポイントです。 弟子たちはまだ再生されていない。祈れないし、信じられない。でもイエス様は、それでも彼らに訓練を与えていたのです。  ・ 訓練は、再生を起こすための条件ではありません。  ・再生されたときに、かつての訓練が「意味を持つようになる」ための神の備えです。 イエス様は弟子たちに、できないこと、祈れないことを体験させておられた。それは、将来祈る者とされるときの「燃え上がる種火」となるためです。 6. 祈りとは何か(本質的定義) ここではっきりさせておきます: 祈りは、神を操作して、自分の目的を達成するための手段ではありません。 祈りは、自分が無力であることを神に告白し、神の御心に従う者へと砕かれていく応答です。 祈って癒されたから信仰があるのではありません。祈る者とされたのが神の恵みであり、それが「信仰」です。 7. 終わりに 祈りは、信仰者が自分からつくり出すものではありません。あなたが神を操作して、あなたが思う必要なものを与えてもらうため方法ではありません。 神は永遠の昔からご自身の時の中であなたのために祈りを準備していました。 もしあなたが、自分の意思で神に近づき、神にすがりついたと思っているなら、それは根本的な誤解です。神があなたの心を変え、砕き、祈る者とされたからこそ、あなたは祈ります。 祈りには、偽物と本物があります。 ・偽りの祈りは、神を動かして自分の願いを叶えようとするものです。 ・ 本物の祈りは、神ご自身が与える依存の叫びです。神にすがりつき、助け求める主の祈りの本質です。 神の栄光です。 弟子たちができなかったのは、祈れなかったからです。 祈れなかったのは、再生されていなかったからです。 主はその失敗を通して、後に祈る者へと変えられていくための訓練を始めておられたのです。 主は、あなたを祈る者とされるために、救われる前から、今も、将来もその訓練を行います。

  • 「神との結合1 ろうそくの火と部屋のたとえ」

    「ロウソクと部屋の例え 結合」2025.7.8 The Word for you 聖霊によって三位一体の神と結ばれるとは? (R.C.スプロールの改革神学に基づいて) ロウソクと部屋のたとえ:キリストは火、私たちは部屋 ある家に暗い部屋があります。中にロウソクの火が灯されると、火の光と熱は部屋全体をやさしく照らし、あたためていきます。 このたとえの中で ロウソクの火はキリストを表しています。 部屋は信者の全存在――つまり、あなたの意志、感情、思い、身体、人格そのものを表します。 そして、聖霊は空気のように、火の光と熱を部屋中に届ける働きをするお方です。 部屋とは「あなたのすべて」 部屋はただの空間ではありません。 この部屋には―― あなたの意志(どこへ向かおうとするか) 感情(何に反応し、何を愛し、何を嫌うか) 思い(何を考え、何に価値を置くか) 身体と生活 そして、あなたという存在のすべて ――が含まれています。   この全体が「あなた」という「器」であり、「部屋」です。   神との関係は「契約」によって結ばれている   この関係は単なる霊的な影響ではなく、神ご自身が御子キリストにおいて一方的に結んでくださった「救いの契約」に基づいた関係です。 「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:33) この契約は、神の主権と誠実さによって保証されています。 R.C.スプロールが強調するように、これは「人間の応答による不確かな絆」ではなく、神の変わらぬご意志と恵みによる、確かな約束です。 有機的な結びつき ― ぶどうの木と枝のように   この関係はただの「法律上の契約」ではありません。生きたつながり、すなわち有機的な結合です。 キリストはこう言われました: 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5) 枝は木から切り離されると死にます。 私たち信者も、キリストと結び合わされてはじめて、いのちを受けて生きることができます。 聖霊はこのぶどうの木と枝の間にある命の流れのように、キリストの恵みといのちを、信者のうちに届けるお方です。   三位一体の神は聖霊をとして以上のように聖霊を通して信仰者と結合しますが、ろうそくの火は部屋とは区別されたまま存在します。   「結合」と「内住」のちがい   結合(Union with Christ): 再生のときに聖霊によって与えられる、キリストとの霊的な結びつき これによって、私たちは義認・聖化・栄化といった救いのすべての祝福にあずかります。 これは神との根本的な結びつきの事実そのものです。 内住(Indwelling of the Spirit): 結合の結果として、聖霊が私たちの内に住まわれること これは、信者が日々の生活の中で神の臨在と助けを経験する現実です。   ロウソクのたとえで言えば: 結合は、火と部屋が深く結び合って、部屋を変える「霊的関係」そのもの 内住は、火の光と熱が部屋全体に満ちて、住む人を照らし温めていく「日々の実感と変化」 まとめ:スプロールの改革神学とともに理解する   あなたがキリストを信じるのは、あなたが選んだからではありません。 神が主権的な恵みによってあなたを選び、聖霊があなたを再生させ、キリストと結び合わせてくださったのです。 そして今、あなたの意志も、思いも、感情も、身体も、存在のすべてが―― キリストの命に照らされ、導かれ、日々きよめられています。 この結びつきは、契約に基づいた永遠に破れることのない絆であり、 同時に、ぶどうの木と枝のように、日々いのちが流れる生きた関係でもあるのです。

  • 日本における決断主義的伝道の歴史

    2025.6.22 礼拝メッセージ 日本における決断主義的伝道の歴史   1 明治・大正期 明治初期から、日本には世界中から来日したキリスト教の宣教師たちが来日しています。多くはメソジスト、ホーリネスからでした。改革派は全体の5%に満たないぐらいです。 ジェームズ・ハミルトン・バラは1861年に来日し、オランダ改革派の宣教師で日本初のプロテスタント教会「日本基督公会(海岸教会)」の創設に寄与しました。ジェームスバラの話は日本のリバイバル運動の先駆けのようにリバイバル系の教会で神話のように語られます。   宣教師の教派別人数と構造的優劣の分析 改革派・長老派宣教師は明治〜大正期を通して推定10〜20名程度であったのに対し、アメリカのメソジスト派やホーリネス系教団の宣教師100名以上が来日しており、そのうち女性が83名以上。男性宣教師を含めるとかなりの人数は派遣されていました。 【教派別 宣教師数比較(明治末)】 教派 宣教師数 備考 改革派 10〜20名 講解説教中心 ホーリネス・メソジスト 100名以上 うち女性宣教師83名超   <質問> 第1節 それにしても、なぜ改革神学の宣教師は少なかったのか? 改革神学は、福音を最も正確に解き明かす組織神学的体系。 神の主権、罪の全的堕落、キリストの完全な贖い、信仰による義認、聖霊による再生と聖化―これらはすべて改革神学の中核であり、真の福音宣教を成り立たせる基盤である。しかし現実には、改革神学に立つ宣教師・説教者の数は世界的にも、日本においてもきわめて少なかった。召され、語る者が少なかった。 この事実は、単なる偶然でも、時代の流れでもない。それは、教会制度そのものが聖書からそれ、召された者たちを正しく立てることができなかったという罪によって生じた深刻な霊的現実である。   第2節 神の召命と教会制度 【神の召命は主権的である】 聖書は、語る者――すなわち預言者・使徒・牧師・教師が人間の判断によらず、神の主権的召命によって立てられると繰り返し教えている(エレミヤ1:5、使徒13:2、エペソ4:11)。語るという行為は、単なる職務ではなく、神の言葉を神の民に正しく伝えるという聖なる務めである。   【制度による召命の囲い込み】 神の召命の上にあった教会制度と人間的な条件― 学歴(神学校卒業)、手続き(教派による承認)、礼典(按手)、所属(公的組織との関係)を“前提条件”として設け、召命の霊的実体を制度的形骸化で囲い込んだ。その結果、召命を受けた者が、「資格がない」、「ルートが異なる」、「秩序を乱す」として排除・沈黙させられてきた。   第3節 語る者が語れなかったという歴史的罪 【福音が語られなかった理由】 語るべき者たちはいた。彼らは主を恐れ、十字架の福音を愛し、再生された者たちであった。しかし彼らは語らなかった―否、語れなかった。それは制度が封じたのではなく、制度が聖書から逸れ、人間的な条件が語る者を正しく見分け、立てる務めを果たせなかったからである。この過ちは、単なる運営上の失敗ではない。神が立てた器を、神の名のもとに沈黙させたという教会の罪である。   第4節 沈黙の文化と忠実の誤解 多くの敬虔な改革派信徒は、「語るな」「教会の許可なく語ることは傲慢」と言われ、沈黙することを“忠実”と受け止めた。だがそれは本当に忠実だったのか? 神が語れと言われているのに、人間の制度を恐れて沈黙することが、神への従順なのか? ➡ この沈黙の文化こそ、現代の改革派教会が直面している最大の霊的問題である。    第5節 制度を聖書に立ち返らせ、語るべき者を正しく立てよ 【制度は神が与えた秩序である】 改革神学は制度を否定しない。むしろ制度を重んじる。だがその制度は、聖書に基づいて、召命を見分け、賜物を認定し、語る者を公に立てるためのものでなければならない。  制度は福音を縛るためにあるのではなく、福音を守り、語る者を送り出すために存在する!!   【改革の使命】 ゆえに今、私たちはこう叫ばねばならない:「制度を聖書に立ち返らせよ。そして、語るべき者を正しく立てよ。」按手や資格制度を、神の召命に従った賜物認定の手段として回復せよ。聖霊の賜物を無視せず、制度の形だけで判断する悪習を打ち砕け。語ることに召された者に、恐れず講壇を委ねよ   第6節 神は語る者を再び立てる 神は今も生きておられ、御心にかなう者を必ず立てられる。その者は、人の承認を第一とせず、制度に逆らうのではなく、制度を福音のために改革し、十字架と義認の真理を、何者をも恐れずに語る。「制度を恐れず、ただ主の召命と御言葉によって語る者」 それはRCスプロールやジョン・マッカーサーのように、福音の純粋性に生きた者たちである。 語る召命を受けたなら、沈黙するな。神が語らせる! 教会の制度に仕えるなら、語る者を見分け、正しく立てよ。 教会に属する信徒なら、語る者を支え、聖書の制度回復のために祈れ。 私たちは、制度を聖書に従わせる使命を担っている。そして、正しく整えられた制度の中でこそ、真の召命を受けた者が立ち、真の福音を語る。 神が真の長老、牧師、教師を立てる。神はそのために制度をもって秩序を与える。    さて、話をジェームスバラに戻しますが、 「1883年、ジェームズ・ハミルトン・バラ宣教師は夢を見て悔い改め、その祈祷会から全国的なリバイバルが始まった」という物語をリバイバル系の教会で感動的な証を話します。また、そのように聞こえますが、本当にそれが歴史的に事実なのか、御言葉に照らして吟味する必要があります。改革神学の宣教師のバラが、まるでホーリネス運動の宣教師のように語られているからです。   第1に、この話は事実としての根拠がありません。 この物語は、実在したバラ宣教師の手紙や日記、公的記録には確認されていません。つまり、後になってから、体験主義的な神学、特にホーリネス運動や福音派の一部によって、霊的な「物語」として作られた可能性が高いのです。   第2に、神学的に対立しています。 ジェームスバラはオランダ改革派教会の宣教師であり、カルヴァン主義に立つ伝道者でした。彼が信じ、教えていたのは、救いは神の主権と恵みによって与えられるということです。夢や感情ではなく、みことばの説教と神の主権、聖霊による再生が信仰の土台であるという教理に立っていました。ですから、「夢を見て悔い改めたことでリバイバルが始まった」というような体験中心の霊性とは、根本的に全く相容れません。   第3に、倫理的にも重大な問題があります。 ジェームスバラの名を語って、自分たちの霊性やリバイバル運動を正当化することは、さも歴史的、神学的な事実を語っているように信者を感情的に扇動し、聖霊の働きを勝手に話していることです。倫理的に大きな問題があります。   最後に、私たちが守るべき真理とは何か。 神の御業は、ショッキングな体験や夢によってではなく、静かに、確実に、御言葉と聖霊によってなされます。ですから、「1883年のバラ宣教師のリバイバル神話」は、史実としても、神学としても、否定されるべきであると私ははっきり言います。     2 日本におけるホーリネス運動拡大と感情・決断重視の信仰の定着   19世紀末にアメリカで誕生したホーリネス運動は、人間の自由意志による選択、聖霊のバプテスマを強調し、日本では中田重治を中心に急速に展開されました。この運動は『信仰=決断』『神聖な感情体験』を重視し、神の主権と再生に基づく救済論よりも、人間の選択と献身に基づく信仰理解を定着させました。 「長野県、飯田リバイバル」 今日は1919年に起こったとされる「飯田リバイバル」について、簡潔にお話しします。この出来事は、1919年11月、東京・淀橋教会で徹夜の祈祷会を行い、その翌日から長野県の飯田で数日間にわたり祈祷会を行ったことに始まります。その場では「サタン打ち」とも呼ばれ、叫び、転がり、笑い、倒れるという集会が行われて多くの人が癒しの奇跡や救いの体験をしたと記録されています。 この運動に関わった人物たちは、いずれもホーリネス運動に属していました。ホーリネス運動は、もともとメソジストに由来し、体験を強く重視します。祈祷による癒し、聖霊のバプテスマ、感情的な運動です。このホーリネス運動は日本へ最も多くの宣教師を来日させ各地で宣教を行っていきました。    3 戦後アメリカ型福音主義とカリスマ的傾向の浸透   戦後、GHQ宗教課(CIE–RRU)の宗教自由政策により、1945年~1951年に約2,248名の宣教師が来日し、うち1,165名は米国出身であった。内訳は、自由主義福音派(メソジスト系)、ペンテコステ・カリスマ派、エホバの証人などが多数を占め、改革派は推定100〜200名に過ぎなかった。   【教派別 宣教師数比較(GHQ期)】 教派 宣教師数(推定) 備考 改革派 100〜200名 主に長老派 自由主義・福音派 1,000名以上 主流派メソジスト等 ペンテコステ他 数百名以上 カリスマ系   4  平成後期以降の第三の波・リバイバル運動・リベラル神学 第三の波運動およびリバイバル運動が1980年代以降日本に浸透し、日本リバイバル同盟や福音派系団体、リベラル神学系教団を中心が多数を占めるに至った。 【教派別 教会・宣教師数比較(平成以降)】 分類 改革派 非改革派(福音派・カリスマ等) リベラル教派 教会数 100〜150 1,100〜1,200 約1,500 宣教師数 10〜15名 200〜300名以上 不明(多数)   以上、このように世界的な流れと日本におけるキリスト教の歴史をみると明治時代から現代まで日本で伝道された福音は人間の自由意志とその選択により救われると言う決断主義の福音でした。SNSがない時代においては神の主権による福音を聞くことは極めて稀なことだったと言わざるを得ません。   神は語る者を再び立てる。神は今も生きておられ、御心にかなう者を必ず立てられます。 その者は、 人の承認を第一とせず、 制度に逆らうのではなく、 制度を福音のために改革し、 十字架と義認の真理を、何者をも恐れずに語ります。   「ただ主の召命と御言葉によって語る者」 それはRCスプロールやジョン・マッカーサーのように、福音の純粋性に生きた者たちです。 あなたは今、何をなすべきでしょうか? 語る召命を受けたなら、沈黙してはいけません。 教会の制度に仕えるなら、語る者を見分け、正しく立てなさい。 教会に属する信徒なら、語る者を支え、聖書の制度回復のために祈りなさい。

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