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空の検索で83件の結果が見つかりました。

  • 十字架とあがない

    2025.10.1 The Word for you  少年が自分の作った大切なボートを失くして、それをおもちゃ屋に飾ってあるのを見つけて買い戻す話からあがないの理屈を話しました。しかし、それは子ども向けの理屈であって本質ではありません。  皆さん、想像してください。  イエスさまは、無実であるのに、あの残酷なローマの鞭で打たれました。ただの縄ではありません。革ひもの先に鉛や骨が縫い込まれ、振り下ろされるたびに皮膚をえぐり、肉を裂き、血が飛び散る鞭です。打つたびに背中は開き、肉片がはじけ飛び、骨がのぞき出る。普通の人なら、その場で死んでもおかしくない。 注)「イエスは39回の鞭打ちを受けた」と説明しましたが、申命記25:3に基づくユダヤ人の習慣(39回で止める)と間違えました。残酷なことに回数は限定ありませんでした。ローマ兵による拷問であり、ユダヤ律法の制限には従っていなかったと理解した方が良い。ですから十字架のあがないにおいて聖書記述には鞭打たれた「回数は不明」とローマ兵士の気分で鞭を打たれた言うのが正確です。恐ろしいことです。  そして、兵士たちは茨で冠を編み、それを頭に押し付けました。鋭い棘が頭皮に突き刺さり、血が顔を覆い、目に流れ込み、視界を奪う。その上で杖で頭を殴りつけ、唾を吐きかけ、「ユダヤ人の王さま、万歳!」と嘲笑いました。 ――王ではなく、笑いものにされたのです。  やがて十字架刑。分厚い鉄の釘が、両手首と足首を貫きました。神経を砕き、骨を割り、激痛が全身を走る。呼吸をするためには、釘にかけられた手と足で体を持ち上げなければならない。そのたびに、背中の裂けた肉が荒削りの木にこすれ、血が滲み、痛みは増す。肺は押しつぶされ、息ができない。数分おきに窒息しかけ、全身はけいれんする。  十字架は、ゆっくり、ゆっくり、人を殺すための拷問でした。  そして、その中でイエスさまはこう言われたのです。「わたしは渇く。」血も汗も流れ尽くし、体内の水分は失われ、舌が乾き、上あごに張り付く。声も出せないほどの渇き。  それは肉体の渇きだけではない。父なる神から見捨てられた魂の渇き――地獄の乾きです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!」これは、永遠の断絶、地獄の叫びです。本来なら私たちが味わうはずの地獄を、イエスさまは数時間のうちにすべて飲み干された。  皆さん、これが代価です。 イエスさまがあなたを買い戻すために支払われた代価――血、裂けた肉、渇き、見捨てられる孤独、そして死。少年がボートをお金で買い戻したのは理屈ですが、とても表面的に見えてしまいます。 本当のあがないは以上のようにイエスさまはご自身の命であなたを買い戻されたのです。

  • 「代償を量りなさい」ってどういうこと? 福音構造と変わる心

    2025.9.28  礼拝メッセージ「「代償を量りなさい」ってどういうこと? 福音構造と変わる心 — なぜそれでもキリストに従えるようになるのか —   1. イエスさまの問いかけ ― 代償の重さ イエスさまは群衆に向かってこう言われました。  ルカの福音書14章 26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。 31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。34 ですから、塩は良いものですが、もし塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」     これは単なる「覚悟の話」ではなく、 全存在を差し出すことを求める命令 です。塔を建てるには費用を計算する、戦争に出るなら勝てるかを考える。同じように、イエスさまは「わたしに従うなら、すべてを差し出す計算をしなさい」とおっしゃるのです。一見、これは弟子になるための条件のように聞こえます。しかし実際には、 人間には不可能な代償 を示すことによって、信仰の本質を明らかにしているのです。 2. それは無理だと認めることから ― 信仰者の無力の発見 悔い改め   イエスさまは「できます」と即答することを期待していません。むしろ「自分には到底できない」と悟ることを求めておられます。 人間は自分の力では、自分の命をも含めたすべてを手放すことなどできません。「家族よりもキリストを愛する」「財産をすべて捨てる」など、人間的には不可能です。 聖書はこう言います。 「あなたがたは、自分の背きと罪の中に死んでいた者であって…」(エペソ2:1) またローマ3:10–11 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」 人は霊的に死んでいるため、自分から神に従う力も心も持ちません。 だから「代償を量れ」という命令は、 自分の無力を悟らせるための問いかけ なのです。   3. 結合 ― 救いの源泉 では、従えないはずの人間がどうして従えるようになるのでしょうか?その答えは「キリストとの結合」にあります。   「神は、天地の基が据えられる前から、私たちをキリストにあって選んでくださった。」(エペソ1:4) 「神は、私たちをキリスト・イエスにあってともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました。」(エペソ2:6)    神は永遠のご計画の中で、信じる者をキリストに結び合わせてくださいました。ジョン・マレーが言うように、救いに属するすべての恵み(再生、信仰、義認、聖化、栄化)は、この結合から流れ出します。 ➡ →「代償を量れ」という不可能な問いは、私たちを 結合の源泉 へ導き、「結ばれているからこそ従える」という真理に目を開かせるのです。  4. 再生 ― 新しい心をいただく   結合の現実は、時間の中で「再生」として現れます。これは聖霊による心の造り変えです。 「わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。」(エゼキエル36:26) 「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3) 死んでいた心に新しい命が与えられるのです。このとき、人は初めて「自分には無理だ」と悟り、同時に「神にすがりたい」という思いを与えられます。 再生は「できる人間になること」ではなく、 無力を悟り、神に頼る心が生まれること なのです。 5. 悔い改めと信仰 ― 無力を認めてキリストにすがる   再生された人は、こう言います。「自分には不可能だ。だからキリストにすがるしかない。」 これが悔い改めと信仰です。 「あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰によるのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ2:8) 「神は、悲しみを伴う悔い改めをもって救いに至らせてくださる。」(Ⅱコリント7:10) 悔い改めとは「自分にはできない」と認めること。信仰とは「すべてをしてくださるキリストにすがること」。この二つが与えられるとき、弟子として歩む入口に立つのです。   6. 義認 ― 神の前に義とされる 信仰によって結ばれると、神は罪を赦し、キリストの義を私たちに着せてくださいます。 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。」(ローマ5:1) 「キリストは罪を犯したことがないのに、私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21) つまり「代償を払って弟子になろう」と努力するのではなく、 すでにキリストが代償を払ってくださったことに結びつく ことで、神の前に完全に義とされるのです。   7. 聖化 ― 日々キリストに似た者へ 義とされた者はそのままでは終わりません。「結合」から流れる恵みは「聖化」へと進みます。 「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」(Ⅰテサロニケ4:3) 「キリストとともに十字架につけられています。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20) 聖化は、生活の中で実際に小さな「代償」を払う歩みです。 家族や友人よりもキリストを第一にする(ルカ14:26) 正直を選ぶことで損をする(Ⅰペテロ3:16) お金よりも誠実を優先する(マタイ6:24) これらはすべて「代償」ですが、それを喜んで受け入れる心は、自分の力ではなく聖霊の働きによって与えられます。 福音の救いの構造の中で信仰者はキリストの似姿へと変えられて行きます。   キリストとの永遠の結合にあって ー選びー再生・結合―信仰・悔い改めー義認―聖化  使徒パウロはこの福音構造のなかで変えらました。 <罪のなかで死んでいたパウロ> 1テモテ1:13 13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。  <義認を通り、聖化を歩くパウロ> ガラテヤ2:20 19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。   パウロは自分の財産全部を捨てるどこか、自分の命を捨てました。パウロは自分はキリストとともに死んでいる自分とキリストが自分の結合していること、そのことを愛おしく語っています。 これは福音の構造の中における変化です。 イエスさまの例え この信仰者の変化をイエスさまは次のように話しています。  塩の譬え ― 証しの効力 「塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。」(34節) 塩は保存や味付けに必須ですが、塩気を失えば無価値です。これは「クリスチャンとしての本質(キリストとの結合による新しい命)」を失った宗教的外見を指します。 真にキリストに結合された者は、決して完全に塩気を失うことはありません(聖徒の堅忍)。 しかし、表面的福音主義や人間中心の宗教に留まる者は、塩気を失ったように外へ投げ捨てられるのです(マタイ7:21–23)。 聞く耳のある者は聞きなさい 「聞く耳のある者は聞きなさい。」(35節) これは単なる締めくくりではなく、神の選びにより開かれた耳への呼びかけです。 人は自力でこの言葉を理解し従うことはできません。聖霊によって耳と心が開かれる時にのみ、キリストの厳しい要求が恵みとして受け入れられます。 神学的まとめ 「すべてを捨てる」は救いの条件ではなく、結合から流れ出る従順の実。 「塩気のない塩」は、外面的信仰や表面的福音主義の虚しさ。 最後の呼びかけは、選びと聖霊の働きを前提にした、福音の真の聞き方。 この箇所は、「代償を量る」ことの厳しさと、それでも従えるのは神の恵みゆえという福音の逆説を教えています。 8. まとめ 整理すると、こうです。 イエスさまの「代償を量りなさい」とは、人間には無理だと悟らせる問いかけ。 本当の信仰とは「自分をあきらめてキリストに頼ること」。 神が聖書と聖霊を通してキリストの栄光を示してくださるとき、心は変わる。(パウロの回心) そして 結合 → 再生 → 悔い改めと信仰 → 義認 → 聖化  の流れの中で、弟子として従う歩みが実現する。   イエスさまは「あなたのすべてを捨てなさい」と言われます。でも、それは自分の努力ではできません。 だからこそ、神が御言葉でキリストの栄光を見せ、聖霊が心を変え、「無理だったこと」を「従いたい心」へと変えてくださるのです。 「代償を量りなさい」という命令は、私たちを落ち込ませるためではなく、 キリストの恵みに満ちた招きへ導く真実の問いかけ なのです。 <このみことばが私たちの中で真実となりますように>   ガラテヤ2:19-20 19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

  • 交わりについての学び

    2025.9.24 The Word for you 交わりについての学び    私たちが共に持つ礼拝後の交わりについて学びたいと思います。礼拝後の交わりを休憩やお茶菓子タイムと思っている理解の浅いクリスチャンは多くいます。多くの教会ではお茶菓子タイム、お食事タイムなどありますが、それを礼拝と理解している人々はいません。   礼拝後の交わりは単なる休憩や慰めの時間ではありません。礼拝の一部なのです。これは、神が御自身の民を建て上げるために与えてくださった聖なる恵みの手段です。したがって、交わりをどう理解し、どう実践するかは、神の御前でとても重要です。   1. 雑談とお茶菓子の正しい位置   お茶や軽食そのものは罪ではなく、神の賜物です(Ⅰテモテ4:4「神が造られたものはすべて良い」)。感謝をもって神にささげるなら、それは交わりを助け、神に栄光を帰すものとなります。   しかし、お茶や菓子、あるいは雑談が交わりの中心や目的となり、御言葉や祈りが二次的になるなら、それは神の秩序を歪めます。雑談が御言葉に従属しないなら、それは交わりではなく、ただの社交や雑談にしか過ぎません。  聖書はこう教えます。  「そして彼らは、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)  交わり、パン裂きの中心は御言葉と祈りであり、そこから外れればすでに本質を失っているのです。  交わり礼拝後の交わり、また、パン裂きは聖餐式と実際の食事を意味します。使徒の時代、家々では聖餐式と食事が同時に行われていました。信仰者たちが一緒に神の御前でする食事も礼拝の一部であることがわかります。   2. 御言葉を教えあう心   みことばについて核心的な信仰の質問が出て、牧師が御言葉をもって答えるとき、それは神がくださる恵みの時です。  その信仰者の質問と牧師の回答はその2人だけの恵みではなく、そこにいる人々もそこから学び、証をシェアし教会の建ち上げとなります。  聖書はこう警告します。 「肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。従うこともできないのです。」(ローマ8:7)   選ばれた者はこの世で試練に会いますが、神は御言葉を通してその試練を恵みに変え、私たちを清められます。御言葉を重んじる心こそ、信仰を最後まで保たせてくださる神の力に結びつくのです。   3. 励ましの本当の源  「交わりを通して課題や励ましを見つける」という言葉は美しく聞こえます。しかし、それが御言葉を妨げ、避ける方向に働くなら、それは神の意図された交わりではなく、人間中心の慰めに過ぎません。   真の励ましは人間の言葉ではなく、神の義に根ざしています。 「彼らは神の義を知らず、自分の義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」(ローマ10:3)   御言葉に立つ者は、弱さの中にあっても神が必ず守り導いてくださり、最後まで信仰にとどまらせてくださいます。これが永遠の救いの確かさです。   4. 「リラックスできる場所が必要だ」という意見について  霊的に成熟していない信仰者は、「交わりは休憩時間だからもっとリラックスした日常的な分かち合いの場が必要だ」と良く言います。   けれども、それはしばしば御言葉から目をそらしてしまう言い訳となってしまいます。救われて間のない信仰者間ではほとんどの場合、みことばを中心とした交わりの自制が出来ずに雑談に終わってしまいます。 ジョン・マッカーサー 「The Necessity of Christian Fellowship, Part 1」より  神は御言葉を通して民を建て上げられます。そこから離れることは、本当の慰めを避けてしまうことになります。   リラックス自体は悪いことではありません。しかし、それを理由に御言葉を二次的に扱うなら、それは「自由」ではなく、肉による「自由の乱用」になってしまうのです。   改革神学が教える信徒の自由とは、「神に喜ばれることを自発的に行う自由」であって、「神の秩序を無視して好き勝手にする罪に対する自由」ではありません。   R.C.スプロールの言葉を借りれば、「自由は常に神の聖さのもとに制限される」のです。 5. 御言葉の秩序を回復する   交わりは、神が教会に与えられた聖化の手段(means of grace)です。雑談が御言葉へ導く「橋」となるなら、それも用いられるでしょう。しかし御言葉を妨げる雑談は、肉的な交わりに転じてしまいます。  神は選ばれた者を御言葉を通して日々清め、試練を通して訓練し、最後まで信仰に立たせてくださいます。そこには確かに痛みも伴いますが、やがて永遠の救いと栄光へと至る希望があります。  パウロの交わり理解(コロサイ3:16) パウロは交わりの自由の本質を次のように示しています。 「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:16)   ここでの交わりの自由の特徴は:  御言葉が豊かに宿ることが中心。 互いに教え、忠告し合うことによって建て上げられる。 賛美と感謝をもって神に向かう礼拝の延長である。 したがって、雑談や「リラックスの名目」で御言葉や祈りの自由が脇に追いやられる交わりは、パウロの示す本質から外れてしまいます。 まとめ   愛する兄弟姉妹、神は私たちをただ慰め合うためではなく、御言葉に根ざした交わりへと召してくださいました。  選ばれた者は試練の中で御言葉を学び、恵みによって清められ、ついには栄光に至ります。これは私たちの力ではなく、神が最後まで守り導いてくださる約束です。   どうか、お茶や菓子、雑談の中にも必ず御言葉を中心に据え、礼拝の延長として主に受け入れられる交わりを築きながら、永遠の救いを見据えて共に歩んでいきましょう。

  • 「結合と人の子」 ― 天が開かれ、人と神がつながる 

    2025.9.21 礼拝メッセージ「結合と人の子」 ― 天が開かれ、人と神がつながる ―   1.はじめに:「結合」ってなんですか?  「結合」とは、神さまが聖霊によって私たちをイエスさまとつないでくださることです。 それは、神さまの力(主権)によって、聖霊なる神を通して行われます。 この結合は、信じる人の心や考え、感情、体、生活、人生のすべてに関わります。   2.結合は神さまの約束です  神さまは、聖書の中でこう約束しておられます:     • エゼキエル36:26 「わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える」     • ヨエル2:28 「わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ」     • ヨハネ14:16–17 「父なる神は、助け主(=聖霊)をあなたがたにお与えになる」     • 使徒1:4–5 「あなたがたは間もなく、※聖霊によってバプテスマを受ける」  ※バプテスマの神学的意味:キリストの中に浸される=キリストと1つとなる  これらのことは、神さまが選んだ人にだけ与えてくださるのです。 3. イエスさまは「神」であり「人の子」   イエスさまは、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある(I AM)」と言われました(ヨハネ8:58)。 これは、「わたしは永遠の神である」という意味です。(出エジプト3:14)イエスさまは「わたしはある(I AM)」と語られた永遠の神であり、同時に「父の独り子(神の子)」として来られました。   「神の子」とは、父と一つであり、永遠に父と御霊とともにおられる方、という意味です(ヨハネ1:14,18)。神の子としてのイエスさまは、父なる神を完全に現し、神の栄光をあらわす方です(ヘブル1:3)。  「人の子」とは、イエスさまがご自分を紹介するときによく使った名前です。 聖書では80回以上使われています。「人の子」とは、神と人の間をつなぐために来られた救い主という意味です。   「人の子」は人間性を強調する表現、同時にイエスさまは「神の子」としての完全な神性を持っておられることを忘れてはいけません。    もしイエスさまが「人の子」でなければ、人間として私たちを代表し、私たちの罪を背負うことはできません。もしイエスさまが「神の子」でなければ、罪のない完全な贖いを成し遂げることはできません。  「イエスさまは『神の子』としての完全な神であり、同時に『人の子』としての完全な人である その二つが一つに結ばれているからこそ、私たちの救いは確かなのです。」 4.なぜ「人の子」との結合が大切なのか?   人間は皆、芯まで腐り切った罪人で、自分では神さまに近づくことができません(ローマ3:23)。 でも、「人の子」であるイエスさまは私たちと違い罪はなく、完全な義を生きられましたが、人間の体を持ち、私たちと同じように苦しみ、死に、よみがえられた方です。   だから神さまは選ばれた者を、この「人の子イエスキリスト」に**結びつける(結合させる)**ことによって、選ばれた人に神の子であるイエスさまの義といのちを与え、神の子の身分、特権を与えることができるのです。  1)聖書に出てくるヤコブのはしごは「結合の絵図」 ヨハネ1:51 「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見る」 このことばは、「人の子」が神と人の間の“はしご”のような存在であることを表しています。 このように考えるとわかりやすいです:   三位一体の神さまの働き どのような方 お名前 どんな働き? 計画する方 父なる神 あなたを選び、救いを決められる つなぐ方 イエスさま(人の子) あなたの罪をゆるし、神とつなぐはしごになってくださる 実行する方 聖霊なる神 あなたの心に神さまのいのちを与えてくださる     5. 「人の子」の特別な役割   イエスさまは「人の子」として、地上で神の権威をもって行動されました。     •罪をゆるす •病気をいやす •安息日の主  また、イエスさまは「人の子」として、苦しみを受けて、十字架で死なれました。 その死によって、神の右の座、主権に王座につかれたのです。 6. 「神の子」としての特別な役割   イエスさまは「神の子」として、父なる神の愛をはっきりと示してくださったのです。 (ヨハネ1:18) 。 そして、私たちを罪から救い出すために、神の義を満たす犠牲となられました (ローマ8:3–4) 。 さらに、死に勝利してよみがえり、信じる者に永遠のいのちを与えられるのです (ヨハネ11:25–26) 。  7.これから来られる「人の子」   聖書は、イエスさまが**「人の子」としてもう一度来られる**と約束しています。  マタイ24:30 「人の子が雲に乗って来る」 黙示録19章 「白馬に乗って、勝利の王として来られる」 この再臨のとき、「人の子」と結ばれている者は、その栄光にともに入れられます。 結合は今の人生だけでなく、永遠の御国で完成し、そこでキリストと同じ栄光の姿に変えられるのです。 Ⅰコリント15:49 「私たちは土で造られた者のかたちを着たように、天に属する方のかたちをも着るのです。」 Ⅰヨハネ3:2 「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるのかはまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れるとき、私たちはキリストに似た者となることが分かっています。なぜなら、そのときキリストをありのままに見るからです。」 「栄化とは、選ばれた人々が再臨のときにキリストの栄光の姿を直接見ることにより、完全に罪から解放され、キリストに似た者とされることである」 •   これは神の主権的選びのゴールであり、 •   キリストとの結合の完成形であり、 •   Ⅰヨハネ3:2の預言の成就であるとスプロールは語ります。 8. 結び:私たちは「I AM」と結ばれている   イエスさまは「わたしはある(I AM)」―― つまり、永遠の神ご自身です。 私たちが結ばれている方は、ただの先生や有名人ではなく、 宇宙をつくられた神ご自身です。 だから、私たちの救いは変わることがありません。 神が結んでくださったこのつながりは聖霊によって与えられ、絶対に切れることはありません。   9.結合=新しい人として生きること(再創造)  聖書には、こう書かれています。 ガラテヤ6:15 「大切なのは、新しくつくられること(新しい創造)です」 神さまは、あなたをイエスさまに結びつけることで、新しくつくりかえてくださるのです。 それは  コロサイ3:9–10 「あなたがたは古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨て、新しい人を着たのです。この新しい人は、造り主のかたちにしたがって新しくされ、ますます真の知識に至ります。」 エペソ4:22–24 「以前の生活については、欺きによって滅びに至る古い人を脱ぎ捨て、心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造られた新しい人を身に着けるのです。」 そしてこの再創造は、一度で終わるのではありません。 Ⅱコリント4:16  「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新しくされています。」 ローマ8:13  「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」 さらに聖書はこうも言います。 ローマ8:29 「神はあらかじめ知っておられる者たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。」   「結合は『御霊によって罪の性質に支配された古い自分から解放され、日々新しくされながら、最終的にキリストの似姿へ変えられていく歩み』を意味します (ローマ8:29) 。  そして、その歩みは、神があらかじめ備えてくださった良い行いに歩むことでもあります (エペソ2:10) 。 「この結合は、神が永遠において選んでくださった結合であり、時間の中では信仰と悔い改めを通して現れます」 そして再臨のとき、私たちはついにキリストの栄光の似姿に変えられるのです (Ⅰコリント15:49、Ⅰヨハネ3:2) 。その完成は、キリストをありのままに見ることによって起こるのです。」 すべては神さまのあわれみと恵みによって行われるのです。    10.最後に  1.イエスさまは「I AM」=まことに永遠の神であり、また、まことに人の子です。 2.イエスさまは「人の子」として来られ、私たちを代表し、神と人をつなぐはしごです。 3.私たちの救いはイエスさまの「神の子」としての神性と、「人の子」としての人性、その両方に基づいています。 4.神の選びと結合は、神により、選ばれた者はイエスさまに結ばれているので決して揺らぐことはありません。   「あなたは『人の子イエス』と結ばれることによって、永遠の神であるキリストのいのちにあずかり、生きる者とされた」    「誰がこのような救いを思いつくことができるでしょうか?人間には到底できません。 自由意思でたどり着けるはずがありません。これはただ、神の選びと恵みの御業なのです。」   ですから、この神の結合と選びについてパウロは ローマ11:33 でこう言います。  "ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。 "「すべてのことは神から発し、神によって成り、神に至るのです。どうかこの神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」  (ローマ11:36)  「救いは最初から最後まで神さまがしてくださることです。結合による選びから、永遠の御国に入るその日まで、すべては神さまの力と計画によるのです。」   みことばのみ、信仰のみ、恵のみ、キリストのみ、神の栄光のみ。

  • 十字架の御業と本当の救い

    十字架の御業と本当の救い 2025.9.17 The Word for you 「十字架の御業」、また「あがない」は救いにおける中心教義です。 これをわかっていないということは、その人は救われていないのか? ここについて少し話したいと思います。 救いというのは、どのように私たちに来るのか? 聖書をしっかりと見つめて考えていくと、聖書はこのように言っています。 救いにおける一番重要な部分、それは「選び」です。 そして選びに基づいて何が行われているかというと、イエス・キリストとの結合の中において選びが行われているのです。 この選びの現れは、神の御指によって行われています。 決して私たちの意思によるものではありません。 また、決して私たちの知識によるものでもないということを理解する必要があります。 取税人が救われたときのことです(ルカによる福音書18章)。 パリサイ人は胸を張って「自分は正しい」と祈りました。 彼はユダヤ教の知識に長けており、立法をしっかり守っているという自負がありました。 しかし取税人は立法も知らず、日々悪いことをしていました。 それでも彼は神の憐れみにより、このように祈りました。胸を打ち叩きながら―― 「神様、こんな罪人の私はあわれんでください。私は全くダメです。神様、助けてください。」 この心は、神がこの取税人に与えた心です。 聖書はこれを「悔い改め」、そして「信仰」と呼びます。 それ以外に何もありません。 この悔い改めと信仰は、十字架のキリストと結合しているのです。 日本の有名な牧師(私は全く尊敬しませんが、多くの人が尊敬している人)がいます。 彼はディスペンセーション主義に立ち、「字義通りに聖書を解釈する」と宣伝してネットで発信しています。 その牧師が「三分聖書」というシリーズの中で、取税人の祈りについて次のようなやり取りをしていました。 ある視聴者がこう質問したのです。 「なぜ取税人の祈りは、十字架の死・葬り・復活を信じていないのに、この人は救われたのですか?」 彼は答えました。 「旧約の時代の救いと新約の時代の救いは違うのです。旧約の人々はイエスの十字架の死と復活を知りませんでした。だから『私は罪人です。助けてください、神様。』と言うだけで救われたのです。しかし新約の時代には、歴史的な事実が明かされました。ですから皆さんが十字架の死と復活を事実として認めれば、救われるのです。 これは一見もっともらしいですが、イエス様が語られたことと違うのです。 この牧師の言っていることは、「歴史的知識を事実として認めれば救われる」というものです。 これはパリサイ人と同じです。 「私は聖書をよく知っている。献金も十分の一している。私はこれをしている。」――これは行いです。 しかし、取税人の祈りは違います。 「私はダメです。神様、助けてください。」 これこそが聖書のいう信仰、悔い改めと信仰なのです。 この有名牧師の言葉には「悔い改め」がありません。 「新しく生まれさせる神の御業」もありません。 「神の選び」もありません。 「神の主権」もありません。 ただ「自分で決断すれば救われる」と言っているのです。 つまり「十字架+行い」を語っているのです。 私は昨日、泣いていた一人の男を見ました。 彼は「私はこれがよくわからない」と言って泣いていた。 しかし私は彼に言いたいのです。 「あなたの涙は、十字架の強盗、また取税人の涙と何一つ変わらない。 あなたはわからないかもしれないけれど、あなたの心は十字架のキリストに結びついている。 それがあなたの救いの証なのです。」 「私は全くダメだ」という心。 「どうか助けてください」という心。 そこからあふれる涙は、キリストとの結合のしるしです。 それは、時の始まる前に神があなたを選び、新しく生まれさせてくださった結果なのです。 すなわち、これが悔い改めと信仰です。 そしてそれは十字架の御業にそのまま結合しています。    • 罪の代わりに死んでくださったこと    • 神の怒りを鎮めてくださったこと    • 神と和解させてくださったこと    • 永遠の命を与えてくださったこと これが十字架の御業です。 贖いとは、その御業の中で、神が罪に対して代価を払い、罪の奴隷から買い取ってくださることです。 子どものたとえで言えば―― 子どもが大きな借金をした。 しかしイエス様が全部払ってくださり、完済してくださった。 しかし、もしその子がこう言ったらどうでしょう。 「僕は十字架の御業をよく覚えていないからダメなんじゃないか。覚えなきゃ。」 また別の子はこう言うかもしれません。 「私は十字架の御業も贖いも全部暗記した。イエス様が死んで、葬られて、三日目によみがえったことを信じます。」 けれども、表面的にただそう言うだけで、心が悔い改めていなければ――それは天と地ほどの差があります。 涙は決して無駄ではありません。 「助けてください」という祈りは、取税人の祈りと同じです。 では祈ります。 愛する天のお父様。 私たちが絶えずあなたの十字架とあなたの命によって結ばれていること、選びと再生によって私たちの救いが現実に心に来ることを感謝します。 「私は何もできない罪人です。御言葉も覚えられません。どうかこんな私を憐れんでください。」 イエス様はこう言いました――「この男が救われている」。 この取税人が救われています。 彼はパリサイ人のように知恵もなく、お金もなく、ただのボンクラでした。 しかしこの男の心はキリストと結びついたのです。

  • 新しく生まれる、救い

    2025.9.7 新しく生まれる、救い 礼拝メッセージ 1. 救いとは何か? 多くの人は「救い」を「死んだあとに天国に行けること」と考えます。 しかし聖書の救いは、もっと、もっと大きいです。永遠の時の始まる前から、永遠の未来までを貫く神の憐れみと恵みのご計画です。救いとは神の意思により、ある人々を選び、永遠の滅びから救い出すことです。 エペソ1:4-5 「神は世界の基が置かれる前から、私たちをキリストにあって選び…愛をもって御子により子にしようとあらかじめ定められました。」 そして救いは今、現在、生きている中で現実に起こります。その救いのすべては神の憐れみといつくしみによる、神があなたに送られた贈り物です。 •あなたを罪の奴隷状態から解放する(ローマ6:18)。 •神との新しい関係に生きる(Ⅱコリント5:17)。 •神の子として造り変えられる(エペソ2:10)。 「しかし、あなたの救いは、永遠の時の始まる前に、キリストにあって、神によってキリストに結び合わされ、そして神が人々を選びました。それは永遠の選びです。そして私たち時の中で神が実際にあなたをキリストに結合させます。 その瞬間から私たちの時の流れの中での救いが始まります。神の救いを理解することはできません。ただ、神の救いはとても深く、人にはとても計りえないのです。」 それはただ憐れみといつくしみに満ちています。 2. 人は生まれつき罪人 聖書ははっきり語ります。私たちはみな、生まれながら神から離れています。人はみな、罪人であり、自分から神を探したり、神を選んだりすることはできません。 ローマ3:11には「義人はいない。正しい者は一人もいない」「神を求める者はいない」と書かれています。つまり、私たちには「神を愛し、信じる力」がないのです。 「もし神がこの私たちの考え方を変えてくださらなければ、誰も自分が芯まで腐っている罪人であると認めて、神に助けを求めません。」 3. 完全な堕落 この状態を「完全な堕落」と呼びます。これは「人が常にとても悪い行動しかしない」という意味ではありません。 それは頭・心・意志のすべてが罪に汚されているため、 • 頭(考え) は神を正しく理解できず(ローマ1:21) • 心(思い) は光よりも闇を愛し(ヨハネ3:19) • 意志(選ぶ力) は神に従うことができません(ローマ8:7) だから人は自分の力では神を選択したいと思わず、正しいことを行うことができません。滅び行く人々は自分は芯まで腐っていないと主張し、自分には少しでも良いところがあると言います。 ですから、罪人が自分の醜さを認め、神に助けを求めることは100%神の恵みでしかありません。 4. ニコデモという人に語られた「新しく生まれる」 ヨハネ3章で、ユダヤの国会の指導者ニコデモが夜にイエスを隠れて訪ね聞きました。どうしたら神の国に入ることが出来ますか? イエスは彼にこう言われました。 「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができない。」(ヨハネ3:3) イエスの回答は「新しく生まれる」とは人間の努力、地位、財産では無理、聖霊によって心が造り変えられることだと。 ニコデモはイエスが言ったことを受け入れることができません。彼はユダヤ人の中のエリートでユダヤ教という宗教を誰よりも極めていました。今まで自分が築いてきた地位、学問を捨ててどうしろというのかという抵抗感でいっぱいです。 ニコデモは「大人がもう一度母の胎に戻れるのですか?」と聞き返しました。 それはニコデモの「無理」という回答でした。 イエスはさらにこう言われました。 「新しく生まれる」とは人間の努力、地位、財産では無理、聖霊によって心が造り変えられることだと。人間には無理、神にしか出来ないと言いました。 5. 十字架の御業との結合 十字架にすべての赦しの秘密がある •神がまず、私たちをキリストに結び合わせてくださる(結合)。 •その結合の結果として、私たちは新しく生まれる。 •そして信仰と悔い改めが心のとても深いところから湧き出します。 「信仰と悔い改め」とは何か?それはとてもシンプルです。 1.自分が芯まで腐り果てており、絶望しかなく、 2.神にただ助けてくださいと願う思いです 3.それが信仰であり、悔い改め キリストについて語られるときに、神はキリストとあなたの魂を結び合わせます。 •ローマ6:3–5 「私たちはバプテスマによってキリストと結び合わされ、その死にあずかったのです。…もし私たちがキリストと一体となって死に似たものとされているなら、復活にもあずかるのです。」 •ガラテヤ2:20 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」 •コリント第一6:17 「しかし、主と交わる者は主と一つの霊です。」 •エペソ2:5–6 「罪の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、…キリスト・イエスにおいてともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました。」 •エペソ5:31–32 「二人は一体となる。この奥義は偉大です。私はキリストと教会について言っているのです。」 この結合により、信仰者は十字架の上のキリストと魂の結合によって死に、そして、キリストとともによみがえることを自分のものとします。 それは、その人がこのことを認識すること、理解しているかどうかではありません。 ただ、神だけがあなたをキリストに結びつけることができます。 その結果、あなたは信仰と悔い改めが起こります。 繰り返しいいます。その信仰、悔い改めはとてもシンプルです。 とても心の深いところから湧き出してきます。 ルカ18:13 「一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』」 この「信仰、悔い改め」はその人の魂が神によりキリストに結び合わされていることを示します。この人は2000年前に十字架の上のキリストと一体となっており、キリストと共に死んだのです。神がそのことを行ったのです。 この人はキリストのみことばを通して、自分に起こったことをのちに理解していきます。 キリストの十字架は単なる象徴ではありません。キリストとの結合により、キリストに結合された人の魂は十字架のキリストとともに死んだと言うと言う歴史的な現実と一体となります。 十字架の死 死んだ人は2度と裁かれることはありません。神はキリストの身代わりの死によって私たちが受けるべき罰を受けてくださり、キリストとの結合は私たちの罪をその主の命を代償にしてすべて許されたのです。 6. 救いは生き方を変える(動機の転換) 救いとは「気分がよくなること」でも「努力して良い人になること」でもありません。この福音により人は罪が赦され、平安と喜びを得るとき、心の動機が変わり、生き方全体が変えられます。 1) たとえ話、学校 ある生徒がいました。いつも先生の目を盗んでカンニングしたり、友だちをからかったり、自分のことしか考えていませんでした。 しかしある日、福音を聞きました。 その時、心の底から自分が芯まで腐り、どうしようもないと神に助けを懇願しました。彼の心は深く、深く、神のあわれみといつくしみの深さにこころ打たれました。 「イエス・キリストは私の罪のために十字架で死に、よみがえられた。こんな私で良いですか?私は赦され、神に受け入れられ、永遠の御国が約束された。私は受ける資格はありません!」 それから、彼は聖書を貪るように読み、教会に来てキリストとの結合、すべてが神の贈り物であることを学びました。 赦されたこと、平安、憐れみを受けた感謝、そして永遠の御国の保証から来る喜びが胸を満たしました。 そして、生き方が変わり出しました。 •正直に答えるのは、赦された者として神の前に立ちたいから。 •弱い友だちを守るのは、憐れみを受けた自分が憐れみを示したいから。 •「自分のため」でなく、永遠の御国を見据えて神に喜ばれるために行動するようになったのです。 これは努力の結果ではなく、神から与えられた新しい心でした。 2) たとえ話、家庭 ある家庭に、父を批判し、母を批判して、さみしさと不満に満ちている子がいました。 しかしある日、福音を聞きました。 その時、心の底から自分が芯まで腐り、どうしようもないと神に助けを懇願しました。彼の心は深く、深く、神のあわれみといつくしみの深さにこころ打たれました。 「イエス・キリストは私の罪のために十字架で死に、よみがえられた。こんな私で良いですか?私は赦され、神に受け入れられ、永遠の御国が約束された。私は受ける資格はありません!」 赦されたこと、平安、憐れみを受けた感謝、そして永遠の御国の保証から来る喜びが胸を満たしました。 それから、彼は聖書を貪るように読み、教会に来てキリストとの結合、すべてが神の贈り物であることを学びました。 だから態度が変わりました。 •不満と悲しみの子が、感謝に動かされて仕える子に。 •反抗していた子が、平安のうちに父、母を許し、正しいことを実行する子に。 救いは死んだあと天国に行くことだけじゃない。今、生きているこの時から始まっています。 神は赦しと憐れみをその子に与えました。それは選びの喜びと永遠の平安に生かされることです。 7. 問い:「人は信じるから新しく生まれるのか?それとも新しく生まれるから信じるのか?」 答え:聖書は明確に語ります。 神が先に結合を与える → そこから新しく生まれる → その結果として信じる。 もし人間の信仰が先なら、救いは人間の弱い意志にかかってしまいます。 しかし神が先に命を与えるなら、救いの土台は人間ではなく神にあるのです。神が行う救いは確かで揺らぐことがありません。神の意思で行われることは神の約束であり、神は必ず守ります。 8. 神の救いは確かで永遠 •新しく生まれるのは神のわざであり、人ではなく神が始められる。 •神が始めた救いは必ず完成される。 •神の力は永遠に続くので、救いも永遠に確かである。 パウロはこう語ります。 「もし誰かがキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、新しいものが来ました。」(Ⅱコリント5:17) 救いの確信は、自分の感情や努力ではなく、キリストが自分の魂と一体であるという不動の土台に置かれています。神が造り出す、新しく創造なのです。 まとめ •人は生まれながらに罪人であり、完全に堕落している。 •神が人をキリストに結びつけ、新しく生まれ、信仰、悔い改めが生じる。 •救いはあなたの動機を変え、生き方を根本から少しずつ変える。 •神が始めた救いは永遠に失われない。 それは十字架の上でキリストとあなたが一つとなり、キリストとあなたが罪に死んだからです。 3日間キリストは葬られ、3日後によみがえりました。あなたはよみがえりのキリストと共に共によみがえりました。 ローマ6:10-11 「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」 ローマ8:1 「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

  • 神との結合10 律法、罪からの解放

    神との結合10-1 律法、罪からの解放 2025.8.5 キリストとも結合が私たちをどのように罪と律法から解放しているのか ローマ書から学ぶ ローマ人への手紙 7章1~2節 "1それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですか──私は律法を知っている人たちに話しています──律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです。 2結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。" 【1】ローマ7:1–3におけるパウロの意図:「死=効力の消失」 パウロはまず「律法が人を支配するのはその人が生きている間だけだ」と述べ(7:1)、次に日常的・法的に知られた例――結婚関係を用います: 「夫が生きている間は、女は律法によって夫に結ばれている。しかし夫が死ねば、女は夫に対する律法から解かれる」(7:2) この文脈での「夫の死」は、夫という人物の消滅そのものよりも、女に対する夫の支配(法的拘束力)の終了=効力が消滅したことを意味しています。 • 死とは、支配の終わりであり、律法の効力が対象者に対して無効化されることを象徴します。 • これは「死が全ての関係を断ち切る」という神が定めて永遠にに変わることのない原則です。 【2】7:4 信者はキリストとの結合によって律法に対して死んだ ここでパウロはこの比喩から信仰者と律法との霊的現実へと話しを切り替えて行きます。: ローマ7:4 "ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。" この文脈でのポイントは: • 律法が死んだのではなく、信仰者が律法に対して死んだ。 • それはキリストに結合された、そして十字架と復活にあずかることによって起こった。 •この死は、律法が信者に対してもはや支配・効力を持たないという意味で、「律法の支配の終り」を表します。 しかし、その終わりはすべての人々にとっての終わりではなく、キリストに結ばれた者に与えられた終わりであり、永遠の分離です。 【3】まとめ:7:1–3の原則が、信者に起こった霊的現実の意味 • 原則(7:1–3):死は律法の支配を終わらせる。 • 適用(7:4):キリストとの結合によって、信者は律法に対して死に、律法の効力は無効となった。 ゆえに―― 「パウロは7:1–3で“死=律法の支配の無力化”の原則を説明して、その原則を、キリストとの結合により信仰者に起こった現実にあてはめて説明した」 ・この理解は極めて的確な文脈的、神学的であり、 表面的な知識だけでなく、本質を見抜いた理解 です。 まとめ ローマ7章においてパウロはまず、律法が人を支配するのはその人が生きている間だけであるという律法の原則を話した。 その上で、夫の死によって妻が律法の拘束から解かれるという例を示す。ここでの「死」は、夫の妻に対する支配権の消滅を意味した。 それは律法がキリストに結合されている者に対して支配的な力を失ったと説明しています。 続いてパウロは、この原則をキリストと結合している者にあてはめて話した。 すなわち、真の信仰者はキリストとの結合によってキリストと共に十字架で死んでいる。キリストはまことに人であり、真の信仰者はこのキリストとともに律法に対して死んだ。罪に対して死んだ。自己に対して死んだ、この世に対して死んだ。キリストとの結合は信仰者をキリストとともに死につけた。 ゆえに律法はもはや信仰者を支配することは出来ない、信仰者は神である復活された永遠の神、キリストに結ばれており、実を結ぶ者とされた。律法の効力は信仰者に対して無効となり、その人はもはや律法の下にいない。裁かれることはない。罪の支配的な力を無力にしました。 罪も自己もこの世もはや信仰者を支配する効力を失った。しかし、それらが消えてなくなることではない。 "「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。" コリント人への手紙 第一 15章55~57節 ここで言う死とは原罪、罪の性質のことを指します。 それらは今まではあなたにとって主人であったがもはや主人ではない。あなたはキリストに贖われ、神のものとされた。あなたの主はキリストです。

  • ローマ人への手紙 8章26節 祈り2

    ローマ人への手紙 8章26節 祈り2 2025.8.29 The Word for you   それでは始めます。   火曜日に祈りについて話しましたが、今日もキリストとの結合と祈りについて、さらに学んでいきます。 火曜日には、ローマ書8章26節で「私たちは何を祈ったらよいのかわからないのですが、御霊ご自身が言葉に表せないうめきをもって取り成してくださいます」と学びました。   この「私たちは何を祈ったらよいのかわからないのですが」というのは、「私たちが何を祈ったらよいのかわからない時に、聖霊様は言葉に表せないうめきをもって取り成してくださる」という意味ではありません。 それは「わからない時」ではなく、「私たち自身が何を祈ったらよいのか分からない者である」ということなのです。   私たちはこれをどのように学んだかといえば、「自分が完全に罪によって汚れ、心の奥底まで腐っている」ということを話しました。 ローマ書7章と8章のメインテーマは「私はみじめな人間です」というところから始まります。 この「私はみじめな人間です」から、深いうめきが起こってくる、とパウロは言っています。   この「うめき」とは何でしょうか。 キリストを知らない人、再生していない人は、このうめきを「人生の苦しみ」と捉えます。 自分が抱えている問題に自分を重ね合わせ、そこから脱出したい、その問題から逃れたいという思いを「深いうめき」だと思い込み、聖書にかぶせてしまいます。   そして次に何が起こるかというと、聖霊の取りなしを「自分のことを自分の言葉で代弁すること」と考え、異言の形で心からひねり出す訓練をしてしまいます。 それは完全に聖書から離れています。なぜかといえば、その聖句の一部分だけを取り出して、文脈を見ていないからです。   しかし聖霊は、文脈に基づいてここを読むように真の信仰者に教えます。 では文脈で見るとどうなるでしょうか。 パウロは8章26節の前、18節から「うめき」について話しています。 もっと前から「うめきの原因」を述べていますが、特に18節から本格的に語っています。   「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば取るに足らない」とパウロは言います。 つまり「栄光の体が必ず与えられる」ということを語っています。   まず、被造物のうめきから始まります。 「被造物は切実な思いで神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。」 被造物は虚無に服し、滅びの束縛にあります。 これは「神の呪いの下にある」という意味です。   創世記でアダムが神に背いたとき、地全体も呪われました。 その結果、アダムは祝福された存在から呪われた存在となり、本性は心の奥底まで腐ったものになりました。 「私はみじめな人間です」というパウロの嘆きは、被造物全体の嘆きでもあるのです。   しかしパウロは続けてこう言います。 「被造物も神の子どもたちの栄光の自由にあずかれる。」 つまり被造物もうめいているのは「贖いの完成を待っているから」なのです。   この「うめき」とは「創造の最終ステージ」を指します。 信仰者には新しい体が与えられ、古い天と地は新しい天と地に造り替えられます。 それを待ち望む希望のうめきなのです。   だから聖書が言う「うめき」は、単なる「苦しみからの脱出願望」ではありません。 それは「新しい創造を待ち望む希望」なのです。 そしてその根底には、常に「私は心の奥底まで腐っている」「みじめな人間だ」という認識があるのです。   この「腐敗とみじめさ」は人だけではなく、天と地も同じです。 私たちは「祈りさえ自分の力ではできない」というほどに無力です。 しかし、それゆえに私たちは「キリストの義」に希望を置きます。 「キリストが私たちの内に住み、私たちと結合しておられる」――これが希望なのです。   だから私たちの祈りは不完全です。 完全な祈りをできる人は誰もいません。 むしろ、みんなポンコツなのです。 祈りをスラスラと流れるように言えても、それは本当の祈りではありません。 祈りはもっとドロドロとしていて、肉的なものに引っ張られてしまいます。 それが私たちの現実です。   しかし神はその中で働かれ、私たちの祈りを変えてくださいます。 御言葉を通して心を内側から少しずつ変え、従順の思いを起こさせてくださいます。 それは私たちの本性にはないものです。   そして次に、ローマ8章34節。 「キリスト・イエスは死に、よみがえり、神の右に座し、私たちのために取り成しておられる。」 この御子のとりなしは「二重の救いの保障」です。 内において聖霊が祈りを取りなしてくださり、外においてキリストが御座から守ってくださいます。   だからローマ8章は冒頭から「キリストにある者は決して罪に定められない」と宣言します。 その理由は、この「ダブルの保障」、さらに「三位一体の保障」があるからです。   そして最後に、ローマ8章29–30節。 「神はあらかじめ定めた人々を召し、義と認め、栄光を与えられた。」 これは「選び、召し、義認、聖化、栄化」という救いの完成の保証です。 これがローマ7章8章のフィナーレです。   こうして父なる神が計画され、御子が実行され、御霊が守り続けてくださいます。 三位一体の壮大な救いの計画が、ここにあるのです。   最後にパウロはこう言います。 「神は、世界の基が据えられる前から、私たちをキリストにあって選び、御前で聖なる者、傷のない者としようとされました。」(エペソ1:4) そして「それは私たちが神の栄光を褒めたたえるためです」(エペソ1:12)。   これはすべて神の御業です。 父なる神が決め、計画され、御子キリストが贖いを実行し、聖霊が保証として守ってくださいます。 三位一体の神の臨在は、あなたを守り続けて、永遠の御国にまで保障してくださるのです。   これこそが、ローマ7章8章が語る壮大な福音の全体像であり、エペソ1章において賛美へと結実する救いの確証なのです。   愛する天のお父様。 このローマ書7章8章の深さ、高さ、広さ、長さが、どれほど私たちの心を癒してくださるかを感謝します。 また、私たちが自分の目の前のことしか見ていないことをも教えてくださいます。   パウロが語った「御霊のうめき、被造物のうめき、私たちのうめき」は、この世の悲しみや苦しみではなく、体の贖いを待ち望む希望のうめきです。 それは選ばれた者にしか与えられない救いの保証であり、聖霊の証印であることを感謝します。   愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。 アーメン。

  • ローマ人への手紙 8章26節 祈り

    ローマ人への手紙 8章26節 祈り The Word for You 2025.8.26  キリストとの結合と祈りについて更に学んでいきたいと思います。 ローマ8:26はこう言います: 「私たちは何を祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が言葉に表せないうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださる。」 この聖句をよく見ると、何を祈ったら良いかわからない時に御霊ご人身が信仰者のためにうめきとりなすと言っていません。注意して読んでください。 → 何を祈ったら良いかとは「信仰者がある特定の状況の時に何を祈ったらよいかと言う意味ではありません」 また、「特別に何か意識して」「何を祈ったら良いのか」と言うことでもありません。 むしろ「ただ、信仰者は何を祈ったらよいか分からない」 信仰者が何を祈ったらよいのかと言うことはその人の状態を表しています。つまり、実際に、神の御前にあって、ただ、わたしたちは何を祈ったらよいかわからない、そう言う人なのです。 このことが意味することはわたしたちは「絶えず、自分が芯まで腐っていること」を本当に理解する必要があると言う事です。ローマ書の7章、8章の中心テーマはここにあります。この事はとても重要です。 「わたしはみじめな人間です」 この言葉を本当に理解しているかどうかいつも自己吟味が必要です。 本当に芯まで腐っている人が、神に祈りを正しい祈りを捧げられると思いますか?ローマ7章で書いてあるとおり 「私は心の中で良い行いをしたいと欲するのですが、それに反して自分のしたい良い行いではなく、自分が憎むことをしています。」 「罪の性質、自分自身には良いものは一つもないと言う告白です。それは本質的に何も良いことができないのです。 だから完全に正しく祈ることも出来ないと言う啓示を聖霊は御言葉を通して信仰者に与えます。 真の信仰者は必ず、ここに到達します。信仰は神の送り物です。祈りも神の贈り物です。あなたの心の欲から出てくる祈り、「ルカの18:11のパリサイ人のようにこの取税人のようでないことを感謝します。神の栄光ではなく、冨をもとめ、癒しをもとめ、問題解決」を求める祈りは罪の性質から来ます。   ローマ8:26の前提は 人間の無力さです。 信仰者は罪の性質によって意思、感情、思い、知性その存在がすべて完全に歪んでいるため、正しく祈り得ない者です。 「何を祈るべきか分からない」とは、状況的な一時の迷いではなく、人間に根本的に刻まれた欠陥、罪の性質、あなたが肉そのものであることを意味します。 そのため、信仰者の祈りは常に不完全で、罪の性質により、肉そのものであり、御心から外れてしまいます。 しかし、神ご自身による助けが救いとなって聖霊によって御言葉を通してあなたに祈りを与えてくれるのです。 2. 聖霊のとりなし(ローマ8:26–27) 聖霊のとりなしは信仰者の内で「言葉にできないうめき」をもって祈りを整え、御心に一致させます。聖霊の祈りは信仰者の罪の性質にある意識や感情、思いに支配されません。したがって、人間の祈りが常に欠陥だらけであっても、神に届く祈りは完全です。それは神のからの賜物です。 そしてこの聖霊の働きは信仰者といつもともにあります。 聖霊の働きによって「不完全な祈り」は「御心にかなう祈り」となります。これは聖化における聖霊の働きです。この事実はどれだけ、信仰者への慰めになるでしょうか?聖化は聖霊が働き、信仰者へ啓示を与え、信仰者はその御言葉の啓示に従う者に変えられていきます。神はすべての良い行いを時が始まる前からあらかじめ備えておられました。信仰者の祈りも神のご計画にあらかじめ組み込まれ、神が目的を達成するようにされています。   これはキリストとの結合による聖霊の働きであり、神の御業です。

  • 私は腐ってない! ― 信仰義認と聖化の土台 

    「私は腐ってない! ― 信仰義認と聖化の土台」2025.8.24 礼拝メッセージ   ローマ6:21 「ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。」  ― 現代人の叫び「私は腐ってない!」  私たちは日常でよく耳にします。 「人を傷つけるようなことはしていないから、大丈夫。」 「悪い人もいるけど、自分はそこまでじゃない。」 「犯罪者と比べれば、私はまだマシだ。」 こうした声の根底にあるのは、まさに 『私は腐ってない!』 という自己主張です。 しかし、それは聖書から見れば全くの錯覚であり、神の御前では通用しない言葉です。   1. 人間の自己主張 ― 「私は腐ってない!」 人は誰でも心の奥底で「自分はそんなに悪くない」と思いたくなります。 「私は腐ってない! まだマシなところもある!」と叫びます。 しかし、聖書はその声を打ち砕きます。   イザヤ64:6 「人の義は、汚れた衣にすぎない」 ローマ3:10 「義人はいない。一人もいない」 神の主権に従わない努力、善行、宗教的熱心さは、神の前では 人の汚れにまみれた衣 にすぎません。     2. 過去を振り返ると「恥ずかしい」ことばかり パウロはローマ6:21で言います。 「そのころ得た実は、今では恥ずかしく思うものばかり。その行き着くところは死。」 自分の義に頼っていた時代に生み出したものはすべて「死の実」でした。 誇れるどころか、今振り返るとただ愚かで恥ずかしいものです。 現代で真剣にこのような教えをやっていたことを思えばただ恥じ入るばかりです。   「救いの祈りを唱えれば救われる」 決断主義的伝道。 「悪霊追い出し、罪を断ち切れば勝利だ」 偽りの霊的戦い運動。 「信じれば繁栄し、癒される」と叫ぶ繁栄の神学 そして「信じたのだから、あとは自由に生きてよい」と教える救いの3要素   これらはすべて、人間中心の偽りの教え。人の義を取りつくろったにすぎず、最終的には「死に至る実」でしかありません。     3. 自分の義は「人の汚物」 聖書はさらに容赦なく宣言   ゼカリヤ3章3–4節 「ヨシュアは汚れた衣を着て御使いの前に立っていた。御使いは言った。『その汚れた服を脱がせよ。…見よ、わたしはあなたの咎を取り除いた。あなたに礼服を着せよう。』」   ここで使われる「汚れた衣」(צֹאִים, tso’im)は、原語において 「人糞にまみれた衣」 を意味します。 つまり、「人間の義とは人糞にまみれた衣」であり、とても汚れたものを示します。  救われていない人々は自分の義を握りしめ、「これは義だ」と神に差し出します。 しかし実際には、それは「己の糞」を神に差し出しているのと同じことです。   4. キリストの義を着せられる  わたしたちの義が汚れたものにすぎないからこそ、神はご自身の義を与えてくださいます。   大祭司ヨシュアから汚れた衣を脱がせ、礼服を着せたように、 神は選ばれた者から咎を取り除き、キリストの義の衣を着せられるのです。   イエス・キリストは罪なき者として十字架にかかり、彼に結合された者にその義を与えてくださいます。だから、私たちは「自分の義を捨て、キリストの義を着せられる」ことによってのみ救われます。   5. 偽りの福音を退けよ 偽りの福音の行きつく先は滅び  今日、あなたは「まだ、自分は芯まで腐っていない」と思っていますか? 表面的な福音主義は、「神はすべての人を愛している。あなたは愛されている」と人を慰め、神の主権による再生の救いと改めを語らず、滅びに導く毒入りの水です。 決断主義は、救いを「自分の選択」によって達成できると言う行い崇拝です。 経験主義は、体験感動や癒し、奇跡を救いの証として神の主権の救いを否定 救いの3要素は、悔い改めも聖化も救いには不要、罪を放任する偽りの福音 霊的戦いは、何度も何度も地域の悪霊を縛り、何度も何度も自分が犯した罪を断ち切る、1度きりで完成さられた主イエスの十字架の御業の勝利を否定  これらの異端は人間中心の行いによるに偽の福音であり「あなたは腐っていない!」と叫びます。   ➡ 「聖書は神の主権を語ります。」   主イエスは言われます。  「義人はいない。一人もいない」 「人の義はすべて忌まわしい」  「義とされるのは、ただキリストの義の衣を着せられる者だけ」    6. 信仰義認と聖化の土台  真の信仰者はどのように救いを歩むのか?  聖化の出発点は「どう歩むか」ではない! 「How to~ どのように?」 方法ではない! 絶対に方法や知識で神には近づけない。どのようにして歩むと言うアプローチ、考えは神から離れると言うこと。   ➡ <警告> それでも「はい、わかりました!」と言って方法に戻る人々  それはただ、信仰義認と聖化の土台に留まることです。心から普遍の事実として認めることです。 1回きり認めて終わりではない。毎日、毎時間、毎分、毎秒、あなたが呼吸を忘れないように。 このことを忘れてはいけない。 それは大地震が起こっても、地球が消えてもかわらない ロギゾマイ 1+1=2   私は腐り果てている。私には義はない。 しかし、私の義はキリスト   真の信仰者はこの事実を御霊によって悟らされ、神にのみ頼る者へと造り変えられる。  信仰義認も聖化も、どちらもあなたの欲望による決断や努力ではなく、神の選びにより、神があなたに贈り物としてあなたに与えてくださるのです。   信仰による義認は、神の御前で法的に信仰者が律法と罪から解放された宣言 聖化は、日々「私は罪人だ。しかし神はキリストの義のゆえにこんな私を受け入れてくださっている」という確信に生きる   ➡ 真の信仰者は確かに義人であり、そして同時に罪人   これはキリストと結び合わされている結果であり、その人の心には救いの全体構造を知り、喜びがあり、安心があり、そこに良い行いの源泉があります。    7.<原則> ①   聖化における「良い行い」は、信仰者の罪の性質の影響を受けている意志、感情、思いから出ません。  ②   それは御霊の働きによって生み出される実です。  信仰者に誇るもの何1つなく、ただキリストの義の現実化は神の主権の中で信仰者に起こります。キリストとの結合を源泉として信仰者の意志、感情、思いは聖霊によって御言葉を通して変えられて行きます。  ③   真の信仰者は一人、一人、このように変えられて行きます。すべてのものはキリストの足の下に従わせられるのです。それは御霊の働きです。  ④   そして信仰者は。神はキリストとの体、共同体の中でキリストの似姿に立ち上げて行かれます。 それはキリストがすべてとなるためです。   パウロは言います。エペソ1:22-23 "また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。"    8.<まとめ> 自分の義=人の汚物にまみれた衣、死に至る実。 キリストの義=真っ白な衣、命に至る実。 「私は腐ってない!」ではなく、   「主よ、私は腐り果てた罪人です。憐れんでください」と叫ぶ者の内に神の大能の力は働きます。   神はいつも私たちに御言葉を通して語られます。 ルカ18:11~12  "パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』"   ルカ18:13–14 「一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』 義と認められたのは、この人です。」   あなたにはまだ、少しは良いところがありますか?それとも芯の芯まで腐っている罪人ですか? 9.<祈り>  私が「主よ、私は芯の芯まで腐り果てた罪人です。」と告白します。 皆さんは 『神様、罪人の私をあわれんでください。』と取税人と同じように心の底から声に出して祈り求めてください。 頭を下げてください。3回繰り返します。   もう、一度、今から1分 各々、自分の心の中で今の祈りをします。   ✦ 人の義は「人の汚れ」以外の何物でもない。だからこそ、キリストとの結合により、義の衣を着せられることが唯一の救いであり、唯一の信仰義認、そして聖化の土台、それ以外はありません。

  • 「いのちの御霊の律法」

    「いのちの御霊の律法」2025.8.31 礼拝メッセージ ローマ8:2-4 "なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。""それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。" 1.ローマ8章とパウロの命令   ローマ8:13 "もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。"   ローマの8章は聖化の過程の信仰者について話しています。再生した者への語りかけです。 これは未信者について話していません。そこから理解をします。   ローマ8:1 「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」 「キリストにある者」=キリストと結合された者=すでに信仰によって義とされた者。 ローマ書8章の冒頭から、対象は「救われた者」であるとパウロは明言しています。   また、ローマ8:9で言います。 「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでいるなら、あなたがたは肉の中ではなく、御霊の中にいるのです。もしキリストの御霊を持たない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」 パウロは「御霊が住んでいる」ことを確定的に語っています。 これは再生した者です。未信者には御霊の内住がありません(ヨハネ14:17)。 未信者はローマ書8章の対象ではありません。   そしてパウロは御霊が住まわれる人を 「神の子ども」とローマ8:14–15で呼びます。 「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。…あなたがたは、再び恐怖に陥れる奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」 子としてくださる御霊を受けた人々は神の世継ぎとなる身分を受けたと言うことです。  2.からだの行いを殺す命令の意味   ローマ8:13の「からだの行いを殺すなら」と命令は、神の子とされた信仰者に与えられた命令です。そしてそれは日常、継続的に殺しなさいと言う命令。「殺すなら」(θανατοῦτε)=日常的、継続に神を選択、罪を断つ  コロサイ3:5 「ですから、地上の体の部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、また貪欲を殺してしまいなさい。」  「殺してしまいなさい」というその場ではっきり決断するように命令。「殺してしまいなさい」(νεκρώσατε)」=その場ではっきり、神を選択、罪を断つ決断   パウロの命令は日常、継続的に神を選択し、罪を断ち、また、その場ではっきりと罪を断つ決断の命令   3.ローマ8:13の御言葉をピリピ2:12-13から理解   ローマ8:13の御言葉をピリピ2:12-13から理解 "こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。   "この命令は恐れおののいて自分の救いを達成するように言う命令です。しかし、その命令の達成は神が神の主権、御心のままに、働いて、神があなたに思いを与えると言います。しかし、恐れおののいて、あなたの救いを達成させると言う人間の常識では理解が困難な命令です。どう言うことなのか解説します。   <命令> 「私がいない今は、なおさら、あなたは恐れおののいて自分の救いを達成するように努力しなさい。 この命令はどのように完成されるかと言う説明をパウロはその次の節で説明している。   どのようにパウロの命令が完成するのか? 1) 神はみこころのままに 2) あなたがたの内に働いて  3)そして神があなたがたの内に志を立たせる 4) そして事 「あなたの救い それは聖化の過程」を 5)神があなたに行わせる  ➡ 「ピリピ2;14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい」   <何に不平を言うな、疑うな、従えとパウロが言っているのか?  1)神はみこころのままに 2)あなたがたの内に働いて  3) そして神があなたがたの内に志を立たせる 4) そして事 「あなたの救い それは聖化の過程」を 5) 神があなたに行わせる 1)から5)の原理について不平を言うな、疑うな 聖霊が御言葉を通してあなたに与える啓示、志にしっかり従いなさい。 4.この命令は誰に与えられたか?   御霊が御言葉を通してあたえる啓示はあなたの心を深くとらえます。 それはあなたの内に従順を生み、心から従う心を創造し、あなたを自分の欲に引っ張る罪の性質の力を支配し、御言葉に従い通す努力を生みます。    <罪と死の律法 ローマ8:7–8> 「なぜなら、肉にある者は神に敵対しており…肉にある者に神に喜ばれることはできないからです。」 再生していない者(肉にある者)は、罪を殺すどころか、神に喜ばれることができない。 したがって、8:13の命令はこの人々には絶対、不可能であり、それらの人々は対象外。   ローマ8:13の「御霊によってからだの行いを殺す命令」が与えられている者、 ローマ8:1 「キリストにある者」  ローマ8:9「御霊が住んでいる者」 ローマ8:14「神の子とされた者」   つまり、「御霊によってからだの行いを殺す命令」は御霊によって再生し信仰によって義とされ、御霊が内住している信者に与えられた。すなわち、キリストと結合されている者のみに与えられている。 この祝福はキリストと結合している者だけのみに与えられる祝福   5.御霊によってからだの行いを殺す命令の理解を角度を変えて考える   違う角度で、再度、話してみます。 「罪の性質の働きを殺すとは一度きりの完全勝利ではなく、いつも継続して殺し続ける行為」  重要な理解は「罪のからだが滅ぼされる」、すなわち、罪の支配は無力化された(καταργέω)と言う事実、しかし、未だ、経験的には日々、支配的な力を喪失した罪の性質の残存が信仰者を悩ませる。   パウロが言う「からだの行いを殺す」とは、御霊によらない人間の自己努力や方法で罪を抑圧することではない。罪を殺すのは御霊なる神の働きであり、信仰者は御霊に満たされるように命令されていいます。 御霊に満たされると言うことは感情の高ぶり、神秘体験、聖書知識の量や方法ではありません。   救いは信仰を通して恵みより与えられた。信仰義認も与えられた。 聖化における罪の性質を殺すと言う行為も神から与えられた。   これは「信仰を通して恵みによる」 「信仰を通して恵み」は「いのちの御霊の律法」  それは同じ原理です。 救いの始めから最後までを貫く神のあわれみと慈しみです。     6.信仰は神の恵みを受ける空の器   信仰が有効なのはただキリストとの結合によります。 それは神から与えられる「空の器よう」です。 真の信仰者は自分から善を生み出す力はなく、主を離れては何もできなないことを御言葉と経験を通して悟ります。そして信仰は神の恵みがあふれでる泉です。   真の信仰は自分を制する人間の技術や努力ではなく、山を動かす技術ではありません。 信仰は自分が芯まで腐り果て無力であると確信し、絶えず、神に助けを求める空の器。その空の器に神は恵み注ぎます。そして神はその空の器に志しを与えるのです。   空の器に神が信仰を通して御霊が御言葉によっていのちと力を注がれます。 信仰者は神の志に従いたいと言う動機、思いが注がれて、御言葉から「強い決断と継続した行動」が与えられます。それが御霊によって歩むことの結果です。 神が肉の欲を満足させない強い決断と継続の意思の歩みをあなたの内に実際に生み出します。 (ガラテヤ5:16)。   したがって、人生を生きる1分、1秒を「自分は芯まで腐っている」「自分はなんてみじめな人間である」という現実の認識をもち、空の器を主に向けて絶えず神に助けをもとめ、御言葉をしたい求め続ける、御霊によって歩く――それは「信仰によって生きる」、聖化そのものです。(マタイ5:3)。   7.聖霊が御言葉によっていのちと力を注がれる   ローマ10:17「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのことばによるのです。」  信仰は自分で神を信じきる、信じなさいとか漠然とした願いや感情ではない。 信仰と御言葉は一つです。決して別々に存在しません。    御言葉は絶えず、聖霊によって信仰者の心を神の主権、キリストとの結合、永遠の救いのご計画、福音の構造、十字架の死と復活、キリストへと導きます。     神の選びと御心の計画のなんたるかを啓示によって与えられ、そして信仰を通して救いの確信と安らぎを天から受けるのです。神は信仰者を常に「御霊に満たされる空の器」として生きるようご計画されてそのように変えられて行きます。   信仰とは「自分を芯まで腐りきっているとあきらめ、自分への希望をすべて捨て、イエスキリストのみが救いであるとすがり続ける」 その者はいつも神の御言葉を飢え、渇き、愛し求めます。 すべての真の信仰者はローマ7章、8章をいつも経験します。  パウロはローマ人への手紙 9章23~26節で言います。   "しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。   「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。 あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」   あわれみの器である選ばれた人々は心の中でいつも、どこでも心のなかで祈ります。 「わたしは芯の芯まで腐っている罪人です。私には何も良いものはありません。主よ、憐れんでください。神よ。心から感謝します。あなたは私を選び、キリストに結びつけてくださった。主よ、感謝します。」   8.罪と死の律法、原理を不信者の視点から理解 キリストと結合していない者は自分が芯まで腐っていることを認めず、罪の性質が自分のすべてに影響していることをしらない。   言い換えれば「自分は芯まで腐っていない」と主張し、罪の性質すなわち、「肉は自分の存在のすべてであることさえ」しることはない。その心は神を頼むことから離れ、そして人間の欲の力、いろいろな方法に頼り、罪の性質から逃れるために必死にのたうち回り、絶望する。   それは罪と死の律法の支配にある状態 パウロはこれを「罪と死の律法、または原理」と呼びます。 "肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。     9.真の信仰者はキリストと結合により、いのちの御霊の律法によって歩む   ローマ人への手紙 8章8~10節 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。 キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。"   <いのちの御霊の律法> キリストの御霊を持つ者   1)神はみこころのままに 2)あなたがたの内に働いて  3)そして神があなたがたの内に志を立たせる 4)そして事 「あなたの救い それは聖化の過程」を 5)神があなたに行わせる   <罪と死の律法>(ローマ7章)キリストの御霊をもたない者   1)人間は己の欲望のままに歩む 2)律法の命令に直面すると、罪がかえって力を増す 3)罪の支配のしたにおり、罪の奴隷となっている 4)罪が意志を支配し、肉の行いが死臭のように覆う 5)その結果、律法は救いではなく、罪の認識と死の宣告をもたらす 6)その人の心は罪に対して無感覚になり、神の放置の裁きに入る <いのちの御霊の律法と罪と死の律法の比較> ・「いのちの御霊の律法」= 神が内に働き、聖霊によって義と命へ導く原理 ・「罪と死の律法」= 人間の堕落と罪の支配の下で、律法によりかえって死に閉じ込められる原理   ➡ 神は御霊によらない人間の方法や人間の努力を信仰者に与えていない 神が信仰者に与えたのは御子キリスト」   10.まとめ  キリストとの結合による「いのちの御霊の律法」とキリストのからだ   ガラテヤ5:16 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。」  いのちの御霊の律法、原理は「御霊によって歩む」とは、「御言葉=信仰によって生きる」ことです。 信仰は、自分の力に頼らず、すべてを神にすがりつき生きること。   それは御霊によらない人間の方法や努力ではない。絶えず御言葉を通して神に、頼む生き方。 その生き方は個人的な生き方ではありません。それはキリストの体である選ばれ、召し出された人々の共同体、教会、交わり、説教、賛美、祈りの中にある生き方です。   コロサイ3:16は言います。   “キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。”   この理解はとても重要です。神は時の始まる前から人々を神の住まい、教会として選んだのです。 キリストとの結合による「いのちの御霊の律法」は真の信仰者の共同体となります。 クリスチャンが教会のメンバーと、夫婦で、家族で、御言葉の真理を語り、励まし、祈り、賛美しあうことは何という祝福でしょうか。それはキリストを頭としたキリストのからだであり、神がすべての人々がキリストによって満ちるところです。   「神によって選ばれた人々はともに1人の人であるキリストの似姿に変えられて行き、ともに栄光の体を与えられます。」 選び、再生、信仰、義認、聖化、そして栄化のすべては神の御業であり、神から選ばれた人々への贈り物です。 エペソ書1:4: 神は世界の基が据えられる前から「キリストにあって」、私たちを選び、御前で聖なる傷の無いものにされようとしました。 このみことばは聖化が神の御業であることを宣言しています。神はこの素晴らしい真理を聖書を通して啓示されています。                         「いのちの御霊の律法」は私たちの理解を遥かに超えます。 ただ神の御心は「選ばれた人々に対する憐みといつくしみ」であることを信じてください。  イエスさまは言いました。決してあなたを見捨てることはありません。 それは変わることのない永遠の約束です。 そういうことで選ばれた人々にとって「いのちの御霊の律法」は決して強制とはなりません。 しかし、キリストにあって幼い人々はこの真理をなかなか理解できません。 知恵と御霊の啓示を神に祈り求めてください。神は必ず与えてくださいます。   ですからパウロは命令するのです。神の憐みと慈しみ信じること。そして神を選択し、不平をいわず、疑わず、こころから感謝して「いのちの御霊の律法」に従いなさいと。 いつも聖霊が御言葉を豊かにあなたの心に住まわせ、神が与える志に不平を言わず、疑わず、決断し、継続して従順に従うように。これは「いのちと御霊の律法を守りなさいと」言う命令です。   <いのちの御霊の律法> キリストの御霊を持つ者へ パウロは命令します。 1)神はみこころのままに 2)あなたがたの内に働いて  3)そして神があなたがたの内に志を立たせる 4)そして事 「あなたの救い それは聖化の過程」を 5)神があなたに行わせる ですから 不平をいわず、疑わず、聖霊が御言葉を通して与える志にしっかり従いなさい。

  • 神との結合「キリストとの結合」にある奥義

    「キリストとの結合」にある奥義 2025.7.29   「キリストとの結合」にある奥義について更に学びを進めたいと思います。    この結合について語るときに、どうしても見落としてはならない大切な側面があります。それは父なる神、御子キリスト、聖霊なる神についてです。キリストとの結合がその父なる神、聖霊なる神との交わりに結合する事実です。   イエスさまは、(ヨハネ10:30)「わたしと父とは一つである」と語られました。聖書が示すキリストと信仰者の結合は父なる神との結合を意味します。イエスさまはこうも言われました。(ヨハネ14:23) 「わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに行き、ともに住みます」 このみことばも、キリストだけでなく、父なる神ご自身も信じる者と結合して、住まわれるということです。これは父なる神、子なる神の臨在と親密さの約束です。この臨在、すなわち結合は聖霊を通して実現します。   さらに、主イエスは十字架に向かう直前、御父にこう祈られました。(ヨハネ17:21–23) 21 それは、父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。 22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。 23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。   この祈りにおいて、私たちは驚くべき真理の啓示を受けています。 すなわち、信じる者たちは三位一体の神の内に永遠におかれており、父なる神、子なる神は聖霊により信じる者たちの内に神はいます。信仰者たちはIn Christ、In Father、In Holy Spiritにあります。   さらにイエス様は、聖霊の内住についても語られました。 「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります…その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」(ヨハネ14:16–17)   このように、キリストとの結合は同時に、父なる神との結合であり、聖霊なる神との結合でもあるのです。これは、御子イエスご自身のことばによる明確な証言です。この結合は永遠であり、時の内において実行された現実です。   この真理は、使徒たちの証しによっても繰り返し確認されています。ヨハネは「私たちの交わりは、父および御子イエス・キリストとの交わりです」(1ヨハネ1:3)と記し、パウロも「キリストの御霊を持っていない者は、キリストのものではありません」(ローマ8:9)と語りました。   もし私たちが、キリストとの結合だけを取り上げて、そこにとどまるならば、私たちの理解は狭く、ゆがんだものになってしまいます。キリストとの結合は、三位一体なる神すべてとの結合、交わりを含む、壮大で全的な関係なのです。   この結合の真理は、最高次元の神秘、すなわちミステリーと言われます。それはカリスマやペンテコステで言う恍惚とした感情の混乱や抽象的な霊的高揚感ではありません。 聖書の啓示にしっかりと根ざした、真実な信仰の交わりです。   信じる者たちは、父なる神を父として知り、永遠の中におけるその選び、愛の交わりに参加します。 神であり、人である御子キリストと結び合わせられることにより、救い主、贖い主、栄光の主として知り、そのご人格、義、十字架の御業にあずかります。聖霊なる神を、助け主、慰め主、聖化を苦しみ、悲しみにあってもともに歩いて下されるとして知り、その臨在のうちに歩みます。   それは、聖書に明確に示された救いの真理であり、それを聖霊が内なる証しによって、私たちに悟らせ、確信させてくださるのです。この信仰は、知識だけでは終わりません。それは、私たちの最も深い心を揺り動かし、聖なる愛と喜びの泉を湧き上がらせます。   (エペソ2:6)キリスト・イエスにあって、ともに甦らせ、共に天のところに座らせてくださったからです。この御言葉は信じる者たちが、「三位一体の神との交わり」という「至聖所」に入れられていることを明言しています。   福音はパウロはキリストと結合した人々はゴルゴダの丘に立った十字架でキリストとともに死に、葬られ、三日後に甦ったと語ります。そしてパウロはこの結合が信じる人々をキリストともに天のところに座らせてくださいましたと力強く宣言してます。   私たちのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されています(コロサイ3:3)。 私たちの命は神の命の内にともにあるのです。   だからこそ、この確信により、私たちは確信をもって神に近づくことができるのです。 罪を洗い清められ、心に平安を得て、私たちは大祭司であるキリストにあって、まことの御前に進み出るのです。なぜなら、キリストは人の手で造られた聖所ではなく、天そのものに入り、今や私たちのために神の御前に現れておられるからです(ヘブル9:24)。   この真理の啓示に生きるとき、信仰は単なる宗教や知識ではなく、三位一体の神との永遠の交わり、結合という現実に包み込まれます。御言葉はあなたに語ります。時が始まる前から神は「キリストにあって、キリストに結合され」、「父なる神あって、父なる神に結ばれ」、「聖霊なる神にあって、聖霊なる神に結ばれ」、そして、そこには父なる神、そこには絶えず子なる神、聖霊なる神がともにおられました。   父なるはあなたを選ばれた。御前に聖なる傷のない者とされようとしました。 それは神のみこころの良しとするところに従って。神の愛、喜び、やさしさ、楽しみに従ってイエスキリストによりご自分の子にしようとあらかじめ定められたのです。   信仰者の永遠の選びは信仰者と父なる神との交わりです。信仰者はいつもどこでも神による永遠の選び、を思います、それは父なる神の愛です。   そして信仰者の内には子なるキリストの十字架の御業、神の主権にあります。それは子なるキリストとの結合にあります。信仰者はいつもキリストとともに死に、キリストともによみがえり、キリストのすべての主権があることを思い、感謝し、平安に行きます。それは子なる神との交わりです。   そして聖霊は信じる者の内に内住されています。この聖霊は助け主であり、聖化の過程をともに歩んでくださいます。聖霊ご自身とりなしてくださる神です。私たちはこのように聖霊の神とも絶えず交わりをもっています。   キリストとの結合によって、永遠のいのちの中に、真実な交わりの中に生きると言うことは特別な宗教儀式や集会に行って感じたり、経験しりすることではありません。 この交わりはあなたの日常の生活の中にあります。家で、職場で、学校で、あなたはキリストと結合されていることを喜んでください。そして、三位一体の神の住まいとされていることを心から喜こんでください。この喜びは神への賛美、神の栄光の輝きです。この喜び、栄光の集合体は教会です。 永遠に消えることのない希望、永遠の喜びです。

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