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  • 主語はゲラサの男ではない

    2025.11.16 豊川の家の教会礼拝メッセージ マルコの福音書5:1–17 "こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。 この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。 彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。 それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」 イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。 イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。 ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。 彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」 イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。 豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。 そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。 見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。 すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。   1.人間中心の2つの誤った教え   人中心の教えは「神を人中心に置き換える」致命的な間違えに引き込む 1つ目の人中心の教えは、奇跡の中心が 「神の主権」ではなく「人がどう感じたか」 に変換される。 ① 「あなたもイエスに近づけば問題が解決する」式の“自己改善ストーリー”  典型的な読み方:「イエスの方に走っていけば、鎖がちぎれるようにあなたの問題も解決します」  「あなたがイエスに心を開けば、自由が与えられます」  → すべて人間の行動・意志・選択を救いの原因にすり替える。 聖書:男が救われたのは「イエス様に走ったから」ではない。 イエスが命令されたからである。   ② 悪霊を“人生の比喩”に変換してしまう 「あなたの心にも“レギオン”のような問題が住んでいます」「その心の傷をイエスが癒やしてくださいます」  → 実在の悪霊を否定し、“内面問題”にすり替えることで十字架と救いを心理療法レベルに矮小化する。   ③ “正気に返った”=「クリスチャンは心が穏やかで優しくなる」「救い=性格改善・癒し」と読み替える。 「クリスチャンになると穏やかになります」「イエス様が優しい心を与えてくれます」  → 救いの中心である結合・再生・義認・聖化を完全に消滅   ④ 町の人々の拒絶を“人間の恐怖心”として説明する   「奇跡があまりに大きくて怖かったのです」「人は大きな変化を恐れるものです」  → 核心である罪・価値観の闇・光への拒絶という神学構造を消滅     2つ目は支配神学、霊的戦い神学の歪んだ読み方 これはもっと危険。主語が完全に「人間」になり、救いの出来事がすべて戦い使い方”に変換される。  ① 「悪霊退治の手法」をこの箇所から学ぶという誤用   「悪霊に名を言わせなさい(レギオンの名を聞いたから)」「悪霊を命じる力はあなたにもある!」    「あなたも『出て行け』と宣言しなさい!」  → 完全な異端。  この箇所は キリストの権威の物語であり、人間にその権威を委譲した箇所ではない。   ② 豚の死を“霊的呪いの解除”や“土地の浄化”にすり替える 支配神学はこう言う:  「豚の死は地域の霊が追い出された証拠だ!」「土地の呪いが解かれた!」    「これは霊的領域での勝利のしるしだ!」  → 完全な聖書外の解釈。  豚が死んだのは悪霊の破壊性の現実が出ただけであり、地の解放”など一切書かれていない。 ③ 人間に「地域支配の権威」が与えられていると教える    「あなたにも町を支配する権威がある」   「あなたが宣言すれば、地域の悪霊は出て行く」    「町の雰囲気が悪いのは霊のせいだ。祈りで押し返せ」  これは土着宗教から支配神学が採用した異端が根底➡支配するのはキリストだけである。   ④ 悪霊を恐れることを煽り、人間の“霊的秘密、技法”を求める 「悪霊は大勢いる軍勢軍団(レギオン)を注意せよ」「解放のミニストリーが必要だ」「信仰者には霊的戦いがある」  → 救いの確信は結合ではなく、霊的秘密、技法に置く。これは人間中心的な聖書理解の絶頂   ⑤ 男の救いを“霊的戦士の訓練のモデル”として使う    「彼は霊的戦いに勝利した!」「あなたもこの男のように悪霊に立ち向かえ!」  → この箇所の本質は男は一度も戦っていないという点である。主は戦っていない。主は悪霊が願ったことを許しただけ!主は出ていけと命令しただけ!   なぜこれらは重大な誤りなのか?   理由は一つ: 「主語をイエス・キリストから人間にすり替えている」    •人が悪霊に命じる    •人が霊を押し返す    •人が信仰で勝利する    •人が戦いに勝つ    •人が地域を支配する   これらは全て「人がイエスキリストに置き換わる」思想である。 マルコ5章は、その正反対を語る。   悪霊はキリストの許しがなければ一歩も動けない 男は何もできず、ただ解放されただけ 豚は悪霊の破壊性が現れただけ 人々は光を拒んだだけ キリストは戦わず、悪霊たちの願いを許し、出ていくように命令した。 人間は一かけらも何もしていない。   2.マルコ5:1–17の全体シナリオの理解  この章のテーマはキリストが闇の支配を断ち切り、魂を光の領域へ移す ➡ 主語はすべてキリスト、男、レギオン、2000匹の豚でもない   1. 背景 イエスが自ら“闇に支配された地”に踏み込まれた ゲラサ人の地は、    •異邦人    •神なき文化    •不浄とされる豚が大量に飼われている    •墓(死と汚れ)の領域 = 完全に“闇の領域”として描かれている。   ここにイエスが“自ら”上陸された。これは、光が闇の只中に割り込んでいく主権的な救いの開始であり、人間側の求めではない。   2. 状況 人は闇の支配下で無力 悪霊につかれた男は:    •墓場に住み    •鎖で縛っても破る    •昼夜叫び    •自傷し    •社会から隔離され    •誰も彼を変えられない   つまり、人間側には彼を救う力は一切ない。これはすべての人間の霊的状態を象徴する。「あなたがたは罪の中に死んでいた」(エペソ2:1) 自力では    •正気にも戻れず    •闇からも出られず    •神を求めることもできない ここは 新たに生まれる前の“闇の領域” の姿。   3. 最初の動き  男がイエス様に走ったように見えるが、実際は“神が引き寄せる”  「彼は遠くからイエスを見て走ってきて拝した」これは「彼が信仰を持った」ではない。悪霊が中にいるのに「拝した」時点でそれは矛盾  これは キリストの絶対主権の接近によって、闇が無力化され、抵抗できなくなった証拠。  男が動いたように見えても、動かしているのは 神が男を引き寄せている。   4. レギオン レギオンは、イエスに“願う”しかできない= キリストの主権の前で完全に無力 「神によってお願いします。私を苦しめないでください」悪霊は命令せず、要求せず、挑戦もできない。ただ 願うだけ。これは救いの開始において、人間も闇も“受動”という構造を示している。  救いは    •人が決断して始まるのではなく、    •闇が主権によって破られることで始まる。   5. 解放 「汚れた霊よ出て行け」— キリストの命令だけが救いを成立させる。男が信じたから救われたのではない。 叫んだからでもない。   ただ一言、「出て行け」このキリストの命令こそが、再生の瞬間を構成する主権的出来事。人の意思はまだ何もしていない。   6. レギオンの告白 「私たちは大勢です」= 人間では絶対に勝てない敵、レギオン(数千の兵隊)という名は、「人間には絶対に解決不能」であることを明確にするため。   つまり:    •男には打ち勝つ力がない    •人にも社会にも解決できない    •解放はキリストの主権だけに依存する  これが 結合前の“絶対的無力状態”。   7. 悪霊の懇願と豚 悪霊はキリストの“許可の範囲”でしか動けない  悪霊は:    •地方から追い出さないで    •豚に入らせて    と願うだけ イエスは「許された」。これは憐れみではなく裁きの開始。   豚二千頭が死んだ理由は象徴ではなく単純な事実:    •悪霊は命を保持できない    •入った先で必ず破壊が起きる = 闇の本質が表に出ただけ。   8. 正気に戻る 再生 → 時の中における結合の顕現  「服を着て、正気に返って座っていた」  再生とは:    •暗闇の力が断たれ    •心が整えられ キリストとの結びつきが「経験的に顕現」する正気は “人の努力”の結果ではなく 光の領域に移されたことの結果。  「暗やみの圧制から、御子の御国へ移された」(コロ1:13) これは、 永遠の結合 → 時間内での再生 → 正気への回復 という救いの流れの可視化。   9. 町の人々の反応 救いより財産(豚)を愛し、光を拒絶した    •男が救われて喜ばない    •豚が死んだことにショック    •「この地方から出て行ってほしい」とイエスに願う   理由:           1.価値観が逆  豚二千頭 > 魂ひとつ           2.光が来ると罪が明らかになるため拒絶    3.主権者イエスがいると自分の人生が変わらざるを得ない  これは救いの喜びではなく、光への拒絶(ヨハネ3章)。   10.福音の構造として読む この物語は、悪霊退治でも、霊的戦いの方法でも、人間の信仰物語でもない。  結合の源泉(永遠の結合) ↓ 主権的介入(キリストが闇に踏み込む) ↓ 暗闇の支配の破壊(命令) ↓ 再生(正気に戻る) ↓ 光の領域への移動(コロ1:13) ↓ 拒絶する者と従う者の分岐  光を憎む者はイエスを追い出す   すべての主語はキリスト。 主語を、イエス・キリストから人間にすり替えるような内容は一切入り込む余地がない。   3.5章1~17の解説   「山腹で豚が飼われていた」 この地域(デカポリス)は、異邦人が多く住み、豚は不浄な動物としてイスラエル人は飼わない。つまりこれは典型的な「異邦の地」であり、人々は聖書の神を信じていない社会である。 そこに罪と汚れと霊的支配が満ちていた。   「悪霊はイエスに願った」 悪霊は自分の意思で動いているように見えるが、実際にはイエスの許可がなければ何もできない。  すでに「人間が悪霊と戦う」などという構図は一切存在しない。 •悪霊が行動する前には必ずイエスに願い出る •イエスの判断が優先される •その範囲でしか悪霊は動けない これがマルコの描く「権威の階層」である。   2. 悪霊が「豚の中に入らせてほしい」と願った意味 「豚に入れるように送ってください」これは悪霊が「逃げるための要求」ではない。悪霊はイエスが裁き主であることを知っている。   つまり:    •イエスが彼らを“滅ぼす力”を持っている    •即時に「深淵(アビス)」に落とす権利がある    •それを避けようとして最低限の猶予を求めた   悪霊は、イエスの前では 弱い被造物であり、まったく自由ではない。これが聖書の描く「悪霊とイエスの関係」である。   3. イエスが「彼らを許された」という意味 「イエスはそれを許された」この言葉の意味は次の三つだけ。   1.悪霊の行動はイエスの許可の下でしか起こらない  2.悪霊が人に留まることをイエスは認めない(人は救われる)  3.しかし、悪霊を即時滅ぼすのではなく、豚への移動を一時的に認めた   イエスはここで “悪霊をどう扱うかの全権を握っている方”であることを示された。 •人が命じるのではない •人が戦うのではない •人が退治するのではない 主権者はイエス・キリストだけである。   4. 豚の群れが湖へ落ちて死んだ理由 「二千匹ほどの豚の群れがなだれ込み、死んだ」  ここで大事なのは「理由」を誤解しないこと。 豚が死んだ理由は: 1.悪霊は“命を守る”ではなく“命を壊す”性質を持つ 2.その性質が豚の行動に直接現れた 3.悪霊がいる場所は必ず破壊と混乱が起きる   ここには「象徴」や「霊的な意味づけ」は必要ない。ただ「悪霊はこういうものだ」という事実が起きたのである。   つまり: •人に取り憑いても •豚に取り憑いても   結果は必ず「破壊」になる。   5. 二千頭の豚より“魂一つ”が優先される理由  人々は豚が死んだことでイエスに去ってほしいと言った。 彼らにとっては:    •豚=商売    •豚=財産    •豚=生活の土台 だから二千頭の損失は巨大な痛手だった。   だがイエスにとっては: •豚は失われてもよい •一人の魂の救いの方がはるかに尊い •悪霊に苦しむ者を救うことが最優先  彼らの価値観と、神の価値観はまったく違う。   6.ここまでのまとめ ① 悪霊はキリストの許しがなければ一歩も動けない悪霊退治のスキルや祈りや“霊の権威”などは登場しない。 悪霊を支配するのはキリストだけ。  ② 悪霊の性質は「破壊」である良い目的を持って動くことは一切ない。 ③ イエスは悪霊より強く、悪霊は逆らえない願うしかできず、拒否できず、逃げられない。 ④ 一人の魂の救いは豚二千頭より重い神の価値観は「魂中心」であり、「経済中心」ではない。 ⑤ 信者は悪霊と戦う必要はない結合によって「光の側」に移されているため、悪霊の側に戻ることはない。   この奇跡は「救いの構造」を明らかにする。 •魂は暗闇の支配下にいた(悪霊憑きの男) •キリストが主権をもってその支配を終わらせた(命令) •悪霊はキリストの統治に逆らえず人から離れた(屈服) •男は正気に戻り、光の側に移された(救い)   これは信者が経験する「結合」の写し絵である。   キリストは結合によって私たちを闇から引き出し、悪霊が触れられない領域へ移された(コロ1:13)。   信者は悪霊と戦う必要がない。戦いはキリストが行われ、勝利は完全である。  •悪霊は願うしかできない •イエスはそれを許すかどうかを決める •その結果がすぐ現れる •豚は悪霊の破壊性によって死んだ •イエスは魂の救いを最優先される •すべての主語はイエス・キリスト •信者は悪霊と戦う必要はない(結合による領域移動)   8. なぜ人々は“救いの奇跡”を見ても、イエスに去ってほしいと願ったのか?  マルコは「なぜ人々がイエスを拒絶したか」をきわめて明確に示す。理由は感情や驚きではなく、価値観と罪の問題である。  ① 彼らは“救われた男”より“豚二千頭”を価値あるものと考えた    •男の救い → 喜ばない    •豚の損失 → 耐えられない 彼らにとって最も大切なのは“魂”ではなく“目の前の経済と生活”、この世のことであった。   イエスが町に滞在すれば、今後も同じように彼らの財産が動かされる可能性がある。 彼らの心にあったのは:「この方がいると、また大きな損失が出る。 自分たちの生活が脅かされる。」救いよりもこの世の財産が重要だった。これが拒絶の第一の理由。   ② 男の救いが「キリストの主権」を明確に示したため、彼らはその主権の前に立ちたくなかった  この奇跡は、誰にも説明できない「神の直接介入」    •悪霊はイエスに従う    •イエスの一言で男は正気に戻る    •町の霊的秩序が一瞬で変わる 人々はこれを見て、自分たちの生活・価値観・罪の在り方が、イエスの前ですべて明るみに出ると直感した。  人は、自分を変えられそうな権威を恐れる。 彼らの心には:「この方がいると、私たちの生き方が保てない。だから町から出てほしい。」罪は光を嫌う。 これはヨハネ3章の原理である。   ③ イエスの臨在そのものが“裁き”として働いた  イエスが来られたことで、町の人々は「霊的な中立地帯」にいられなくなった。 •自分たちが豚を飼い、不浄の動物を経済に使っていたこと •異邦文化に深く同化していたこと •神を無視して生きてきたこと  これらすべてが、イエスの権威の前では逃げ場がなくなる。人々は「罪の領域」から光が差し込むことを恐れた。 その結果: 「去ってほしい」 =光が来たために、闇が光を嫌って押し返した。  これが三番目の理由。   ④ 彼らは“救い主”を求めていなかった求めていたのは“平穏な生活の維持”だけ この町の人々は、悪霊に苦しむ男を本気で救おうとしていなかった。  なぜか?    •常に鎖で縛られ    •墓場に住み    •泣き叫び    •自傷行為を繰り返す 彼は町にとって“迷惑者”であり、同情よりも「隔離の対象」であった。つまり、男の回復より、自分たちの生活の安定のほうが重要だった。 イエスの奇跡は、救い主を歓迎する者にとっては光だが、救いを求めない者にとっては脅威になる。 結局、人々がイエスに去ってほしいと願った理由は次の通り:  豚二千頭の価値 > 男の魂の価値。イエスの主権が自分たちの価値観を揺さぶった。光が来たことで、自分たちの罪があらわになるのを恐れた。救い主ではなく、生活の安定を優先した   彼らは「救い主を求めた」のではなく、自分の生活を乱さない“安全な神”を求めていた。イエスはその願いを受けて町を去られた。   これは、光を拒む者への裁きの始まりでもある。この出来事は、信者の救いの構造と一致している。   4.この出来事(マルコ5:1–17)の福音構造 救いの全過程が神の側から一方的に働かれるという救済論の構造を啓示している。  1. 人は霊的に暗闇の支配下にある(自力では脱出不可能)  救いの前、人は自分で光に向かうことも、自分で暗闇から脱出することもできない。  これは、    •エペソ2:1「あなたがたは死んでいた」    •コロ1:13「暗闇の圧制」  が指し示す現実である。暗闇の支配から出る力は人間には存在しない。   2. キリストが主権をもってその支配を断ち切る 暗闇から光への移行は“決断”でも“応答”でもなく、キリストの主権的介入によってのみ起こる。    •悪霊はキリストの前に屈服し    •支配はキリストの命令により終了し    •人間は何もしていないのに解放が成立する  救いの開始点は、キリストの主権的働きのみである。   3. 悪霊は逆らえない(救いの妨害は不可能) 悪霊が願っているように見えても、実際は“逆らえない状態”である。救いの瞬間、暗闇の力はキリストの命令ひとつで崩れる。信者の救いに関して、悪霊は抵抗も妨害もできない。救いは神の側の行為であり、闇の側の力は介入できない。   4. 魂は正気に戻り、光の領域に移される(コロ1:13) 人が自分の力で「正気に戻る」のではない。キリストが働き、確実に光の領域に移す。 •コロ1:13「暗闇の圧制から御子の御国へ移された (aorist:完了された出来事)」 これは、「人が移った」のではなく、神が移したのだ。この移動こそ、キリストとの結合(Union with Christ) の現実である。   結合(Union with Christ)とは何か?  結合とは: キリストが、選んだ者を、 永遠のうちに、 再生させ、 信仰を与え、 義とし、 聖化し、 栄光へ導くために、 すべてを開始し、成立させ、保ち続ける、主権的な働きである。 すべては神から発し、神によってなり、神に至る。 ここには 「人が選ぶ」「人が応答する」「人が決める」という要素は一切存在しない。 人間中心を排除すると、 救いの全体は次のように見える:    •原因:永遠の結合 ➡ 神が選んだ    •実現:再生 ➡ 神が生かす    •結果:信仰と悔い改め ➡ 神が与える    •歩み:聖化 ➡ 神が保つ    •完成:栄化 ➡ 神が成し遂げる    すべては、常に、「神」である。信者の位置:悪霊と戦うのではなく、“キリストの側に移された者”として生きる信者は霊的戦いの「戦士」ではない。  聖書が語るのは:  信者は、戦う前にすでに“光の領域”に移されている。悪霊はその領域に入れない。ゆえに信者の霊的生活は、    •悪霊と戦って勝つではなく、    •キリストが勝利した領域で守られて生きる という構造である。 戦いはキリストが行われ、勝利は既に確定している。信者はその勝利の中に置かれている。   【最終まとめ】 ・救いは人の選択ではなく、神の主権の開始 ・闇の支配との分離は神だけが行う ・悪霊は救いに反抗できない ・魂は神によって光へ移される ・結合とは神が救いを全行程にわたり成し遂げ続ける働き ・信者は戦う者ではなく“光の側に移された者”   すべての主語は神であり、救いは始めから終わりまで神が主語である。  このことを覚えよ。ゲラサの男が主語ではない。 主が光を差し込み(マルコ5:6–8)、主が悪霊を砕き(5:13)、主が彼を宣教者として立て(5:19)、 主がデカポリス全域に福音を広げた(5:20)。  すべては、主が永遠の時の始まる前から選んでいた悪霊に憑かれた狂った男を時の流れの中で結合し、光を入れたことから始まった(5:15)。 憐れみと慈しみによって男を選ばれ、時の中で光を地域に押し広げたのも主であり(5:20)、異邦人の群衆を動かしたのも主(7:31→8:1)。その中で、主は使徒たちを「あなたはキリスト」(8:29)という核心へ導いた。  主は異邦人に開かれた神の国を語り(10:14–15、11:17、13:10)、十字架と復活によって福音を完成した(15–16章)。そのうえで主は命じた。 「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えよ」(16:15)。  主語は人ではない。すべて主が行った。 光を差し込み(5章)、広げ(5:20)、導き(8:29)、完成し(15–16章)、遣わす(16:15)のは主のみ。   ― 主語は人ではない。 光を差し込み、広げ、導き、完成し、遣わすのは、ただ主だけである。

  • 光に照らされる悔い改め

    2025.11.5 The Word for you 光に照らされる悔い改め   私たちは、自分の心を変えることはできません。どれだけ反省しても、どれだけ誓っても、心は変わらない。 しかし――神は心を創造される方です。死んでいた心に、命を吹き込む方です。 そのとき、   罪は罪として見え、 イエスの十字架が自分のためだと分かり、 キリストの命が魂に触れます。   その実が、「悔い改め」です。   ― イエスの死と命が、聖霊によって魂に結びつけられる ―   マタイ3章で、バプテスマのヨハネは言いました。 「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8) 1. 再生 ― 神だけが行う、一瞬の新しい心の創造 使徒11:18 「神は、命に至る悔い改めをお与えになった。」 再生(新生)は、 神のみの働き 不可逆 (戻ることはありません) 一瞬   死んでいた心に神が命を吹き込む。 それが再生です。 罪が罪として見えるのは、 再生がすでに起きている証拠  です。   2. 照明 ― 聖霊が心に光を当てる  新しい心は与えられた。しかし光がなければ見えません。 そこで聖霊が照らします。 神の聖さが見える 罪が罪として見える キリストが必要な方として見える 照明があるから、悔い改めが生まれます。   3. 悔い改め ― イエスの死と命が、聖霊によって魂に結びつけられること 第二コリント4:10 「イエスの死を身に帯びる…それはイエスの命が現れるため。」 悔い改めとは、 イエスの十字架の死と復活の命が、聖霊によって魂に結びつけられること。 罪の痛み 神への渇き キリストを求める願い これらはすべて 神の命の働き  です。   4. 信仰 ― キリストへと向けられた心の向き 信仰は「自分でつかむ決断」ではありません。 信仰とは、神が心をキリストへ向けられた状態です。 悔い改めと信仰は、 一つの命の動き です。     5. 聖化 ― 神が心を神へ傾け続け、その心が神を選び続ける生涯  再生は一瞬。しかし 聖化は生涯続きます。  聖化とは、聖霊によって新しくされた心が、神に向かうように傾けられ続けること。 それは、人は神に「協力」しているのではありません。人は「自分から応答」しているのでもありません。   主体は常に神。 しかし人は人生の舞台から消えるのではなく、 心が新しくされたから、神へ歩むことが自然になるのです。   ✦ 一文で核心を言うなら 聖化とは、神が心の向きを変え続け、その向けられた心が、喜び・平安・愛・希望をもって実際に神へと歩む出来事です。   そして、 その喜び・平安・愛・希望は、来るべき栄光の“前味”です。 歩むのは人 向けているのは神 味わっているのは未来の栄光   私たちは賛美しましたね。 Blessed Assurance ♪ Oh, what a foretaste of glory divine ♪   なんと素晴らしい、 来るべき栄光の前味でしょう。   クリスチャンとは、 この前味を味わいながら歩む者なのです。     6. 戒めは、光へ連れ戻す愛である 「悔い改めは神がするから、私は言わない」 ——それは愛ではない。 「互いに戒め合いなさい。」(コロサイ3:16) 「罪を犯したら指摘しなさい。」(マタイ18:15) 戒めは人を光の前に連れていく愛。   悔い改めは光の中で神が生むいのち。   まとめ もし、今あなたの心に、「主よ、あわれんでください」 という祈りがあるなら、それは弱さではありません。   それは、イエスの死と命が、聖霊によって あなたの魂に結びつけられている証です。   再生は神のわざ。照明は神の光。悔い改めはその実。信仰は向けられた心の向き。聖化はその心が栄光の前味をもって歩む生涯。 すべて同じ キリストの命  です。  アーメン。

  • 十字架の神学 ― 第二コリント4章10–12節

    2025.11.4 The Word for you 十字架の神学 ― 第二コリント4章10–12節  今日は十字架の神学について話します。ここでは、どのようにパウロが苦しみの中において伝道をしていったのか、再生と照明がどのように彼を動かしたのかということを説明したいと思います。    「私たちはいつもイエスの死を身に帯びています。それはイエスの命が私たちの身に現れるためです。」 これは第二コリントの4章10〜12節のところに書いてあります。    「私たちはいつもイエスの死を身に帯びています。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスの命が私たちの死ぬべき体において現れるためです。こうして、死は私たちのうちに働き、命はあなたがたのうちに働いています。」  この箇所は、実は「照明の神がその栄光の輝きを私たちに照らしてくださっている」という節の後に続いています。そしてその後に、パウロがどのように苦しみの中で福音を伝えたのかが語られ、その中心にこの4章10〜12節が置かれています。    ここは、十字架の神学を最も深く語った箇所の一つです。  ここには、キリストとの結合によってキリストの死と命が信仰者の生活の中に同時に現れるという真理が示されています。  これは、パウロがダマスコに行く途中に光に照らされたときの、神の照明によって悟った事実の結果です。 神の照明は人を壊し、そして新しく創造します。    信仰者は十字架と共に、キリストと共に十字架につけられて死にました。そしてキリストと共に復活し、そこから新しい命がその人の人生に現れてくるのです。     1. 「イエスの死を帯びる」とは何か    パウロは、自分の体にイエスの死を帯びていると言っています。彼は、自分の古い人が十字架で死んだという照明によって、真の信仰者がキリストの死に結ばれていることを悟りました。    ローマ書6章6節にはこう書かれています。 「私たちは、自分の古い人がキリストと共に十字架につけられたことを知っています。それは罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」    十字架に結合されている自我、また肉は、キリストの十字架に結ばれています。 パウロはこれをはっきりと悟っていました。    第二コリントの4章で「死を帯びる」と言うとき、彼は日々の苦難や迫害の中で、死に渡されていく自分を見ていました。  それは何かと言えば、神によって自分の力やプライドがごみくずのように捨て去られ、扱われ、そして自分の心――すなわちエゴ――が死に渡されていることを理解していたのです。    どれほどパウロがプライドの高い人であったか。どれほど彼が自分の力を過信していたか。そのパウロが日々の苦難や迫害の中で、その力と誇りを打ち砕かれていったのです。 そしてそれは神が行っておられることなのです。     2. 死を通して現れる命    その中において命が現れます。  その命というのは復活の命のことです。  死に渡される目的は何か。それはイエスの命が私たちに現れるためです。    パウロはこのように語ります。  すなわち、神は私たちを苦しみの中に置くことで、キリストの復活の力を私たちのうちに現されます。  あなたの本当の弱さの中にこそ、キリストの復活の力が現れるのです。    ここには、「すでに」と「いまだ」という聖化の構造があります。  すでに私たちはキリストと共に復活して生かされています(エペソ2:6)。  しかし、その命はまだ完全には現れていません(ローマ8:23)。  そのため、復活の命は信仰者の人生の中で、特に弱さや苦難――それをパウロは「死」と呼びます――を通して現れるのです。     3. 信仰者に命じられていること    ローマ書6章11節にはこう書かれています。 「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと認めなさい。」  パウロは、このキリストとの結合を事実として認めるように命じています。    さらにローマ書8章11節でもこう語ります。 「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださいます。」    キリストの御霊を持たない者は、キリストのものではありません。復活の命は、信仰者のうちに住まわれる三位一体の神によって現れます。それはキリストとの結合によるのです。     4. 福音の構造 ― 死から命へ    この「死」は、命が流れてくる源泉です。  これが神の福音を伝える構造です。  それは「僕(しもべ)の死が多くの命を生む」という構造なのです。    「死は私たちのうちに働き、命はあなたがたのうちに。」とパウロは言います。  彼は自分の力とプライドが苦難の中で砕かれるたびに、キリストと共に死んでいることを悟っていました。  そしてその死が、教会に命をもたらすと語っています。    これは単なる犠牲ではありません。  福音の働きの構造そのものです。    イエス様もこう言われました。 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一つのままです。しかし、死ねば多くの実を結びます。」  この言葉は、まず何よりもキリストご自身の十字架の死を指しています。キリストは一粒の麦として地に落ち、十字架で完全に死なれました。そのゆえに、無数の人々が新しい命に生かされたのです。  ですからパウロが「死は私たちのうちに働き、命はあなたがたのうちに」と言うとき、彼は自分自身がキリストの死にあずかり、キリストの復活の命に生きていることを語っているのです。     5. 苦しみと結合の神秘    パウロ自身の苦しみは、キリストの死との結合です。  復活の命はそこから流れ出しています。  そしてその命は今も私たちに流れ、私たちを生かしています。    真の信仰者が苦しみの中で、古い自分――誇り、力、栄光、正しさ――に対して死ぬとき、その死がキリストの命を他の人に流す通路となるのです。    あなたの死が他の人を生かすのです。それが、死から命が流れていくということです。    それは自分の犠牲ではありません。それはあなたの死です。 私の死です。  神は私たちを試練と困難の中に置かれ、そこで砕き、壊されます。そして神の照明によって新しく造り変えられ、新しい創造として神の前に立つのです。    それが福音の伝道です。  それが福音を伝えるということです。  教会が成長する――それが神が与えられた方法です。   6. 苦難の中の希望    第二コリント4章8〜12節でパウロが語っているのは、単なる「苦難の忍耐」ではありません。  彼はキリストとの結合の神秘を語っています。    ダマスコへの途上でパウロは強い光に照らされ、心を貫かれました。イエスがサウロに語られ、彼は肉の目を失いましたが、心の目が開かれたのです。    真の信仰者が苦しみの中で希望を失わないのは、その苦しみがキリストの命をあらわす舞台にされているからです。そのことを照明によって悟ります。  その苦しみ、困難、絶望が、キリストの命をあらわす舞台にされていることを、神によって悟るのです。 そしてその悟りの中で、信仰者は喜びをもって生きるのです。   7. まとめ― 照明による変化   パウロは語りました。  神の輝き、御顔の光が彼の心を突き通して彼を変えました。  それが照明です。  それがパウロが言う「わかる」ことであり、「認める」ことです。    皆さんの心と魂にも、神の照明が突き通して貫き、死んでもなお喜び、キリストと共に生きているということを、甘く味わえるように変えられていくことを祈ります。   祈り    愛する天のお父様、あなたの照明を心から感謝します。  主とパウロがこのように私たちに、あなたの御言葉を通して語ってくださったことを感謝します。  主よ、あなたがパウロに与えられた憐れみと慈しみは、今も私たちに届いています。  どうか私たちが多くの人々に、あなたの素晴らしい恵みと憐れみと慈しみを届けることができますように。  愛するイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

  • 聖なる光に貫かれる 再生と照明――聖霊が心を照らす恵み

    イザヤ6章/ヨハネ12章37–41節/マタイ16章13–17節 2025.11.2 豊川の家の教会礼拝メッセージ 1. 神の聖なる光 ― イザヤ書6章から 神は“私の味方”である前に、“聖”として現れます。 では、聖とは何でしょう。 イザヤは神殿で主の栄光を見ました。 「聖なる、聖なる、聖なる主、万軍の主。 その栄光は全地に満ちている。」(イザヤ6:3) 神の本性は、単に聖なる方でありません。更に聖なる、聖なる方でもありま せん。 天使が大声で叫ぶ、「聖なる、聖なる、聖なる方」です。 「聖なる、聖なる、聖なる」――神の本当の姿をあらわす言葉 この「聖なる、聖なる、聖なる主」という言葉は父、子、聖霊の 三位一体の神への賛美でもあるのです。 『聖なる、聖なる、聖なる』は、教会史を通じて三位一体の神への賛美としても受け取られてきました。 イザヤが見たのは、「聖なる、聖なる、聖なる主」でした。 ただ天使は「聖なる方」ではなく、「聖なる」を三回、繰り返しているのです。 これは、聖書の中で神を表すときに使われる、最も荘厳な言葉です。 1) 一回の「聖なる」 ――神は人とは違う方 「聖なる」とは「分けられている」「他と違う」という意味です。 神は、私たち人間と同じように作られた存在ではなく、 すべてのものから区別された、完全に特別な方です。 だから私たちはイエスさまを『友のように』と語るだけでなく、恐れと敬いをも って近づくべきです。 2) 2回の「聖なる、聖なる」 ――神の聖さは欠けがない ヘブライ語では、何かを強く言いたいとき、同じ言葉を繰り返します。「聖な る、聖なる」と言うとき、それは 「少しも汚れがない」「完全に純粋で、完全に正しい」ことを表しています。 つまり神は、どんな罪も、偽りも、ゆがみもない完全な方なのです。私たちの 考えや行いの中にどんな小さな罪があっても、 そのままでは近づけない完全な方です。 3)3 回の「聖なる、聖なる、聖なる ――言葉では表せないほど完全 ヘブライ語には「いちばん〜」「もっとも〜」という最上級の言い方がありませ ん。 だから、言い表せないほど強く強調すべき時に、三度の反復で最上級の強 調を表します。 『聖なる、聖なる、聖なる』は、限りなく完全な聖を 示す最強の賛美です。 「聖なる、聖なる、聖なる主」とは、 つまり「どこまでも、限りなく、完全に聖なる方」という意味です。 「神は比較を超え、完全に聖そのものであり、 その存在全体が完全に美しく、魂を圧倒し、ひれ伏させます。 聖なる、聖なる、聖なる方。 神の義は聖なる義、 神の愛は聖なる愛、 神の力は聖なる力、 神の知恵は聖なる知恵です。 神のすべては「聖さ」の中に満ちています。 聖はすべてを包み、 義は聖の実行であり、 愛は義の中心にある憐みと慈しみであり、 力と知恵は、その愛と義を調和させ、現実に実現させる神の働きです。 三位一体の神の本性「すべては聖のうちにあり、聖の外には何もない」 聖のない義は存在せず、 愛は義の中にあり、 愛の中に力はあり、知恵は力とともにあります。 すべては聖のうちにあり、聖の外には何もない。 4) 信仰の告白としての意味 「聖なる、聖なる、聖なる主」 それは神ご自身が“聖そのもの”である方だという告白です。 つまり、神は他のどんな存在とも比べられない。 完全に正しく、完全に美しく、完全に清い。 そして、その神が選ばれた人々に近づき、 罪を清め、新しく生かしてくださる――それが福音です。 「その瞬間、イザヤは自分の罪を悟り」こう叫びました。 「ああ、私は滅びる。私は汚れた唇の者だから。」(6:5) 神の聖さは、人の想像を超えた完全な純粋さと光です。 R.C.スプロールは言います。 「神の聖さの前で、人は自分の罪と死を悟る。 だが、神は滅ぼすためではなく、清め、命を与えるために近づく。」 「主よ、あなたの聖にふさわしい恐れと喜びを、私の心に。」 2. 聖なる光の火 ― 再生の瞬間 もし聖なる光が私たちを焼くなら、なぜイザヤは生きたのでしょ う。 神は祭壇から火ばさみで炭火を取り、それをイザヤの唇に触れさせました。 「これがあなたの唇に触れた。あなたの咎は除かれ、あなたの罪は赦され た。」(イザヤ6:7) この「火」は、単なる物質的な象徴ではありません。 それは「聖なる、聖なる、聖なる」主の栄光の光が、火として臨んだものでし た。 神の聖なる光が、聖霊を通してイザヤの魂に触れたのです。 この炭火は「祭壇」から取られました。 祭壇とは、罪のための「いけにえ」がささげられる場所―― すなわち、キリストの十字架を予表する贖いの祭壇です。 したがって、この火は、単なる清めの象徴ではなく、 受肉前の御子の臨在を指し示す予表でした。 この点について、ヨハネは次のように説明しています。 「イエスは多くのしるしを彼らの前で行われたが、彼らはイエスを信じなかっ た。これは、預言者イザヤの言葉が成就するためであった。彼はこう言っ た。 『主よ、私たちが聞いたことを、だれが信じたでしょうか。 主の腕はだれに示されたのでしょうか。』(イザヤ53:1) それゆえ、彼らは信じることができなかった。イザヤはまたこう言った。『主は 彼らの目を盲目にし、心をかたくなにされた。 それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、立ち返って癒やされることのないた めである。』(イザヤ6:10) イザヤはイエスの栄光を見て、彼について語ったのである。」 (ヨハネ12:37–41) このように、ヨハネ自身が明確に証言しています。 イザヤが見た「聖なる主」とは、まさにイエス・キリストの栄光の顕れであった のです。 イザヤが神殿で見た栄光の光は、十字架の贖いにおいて完全に啓示され た受肉前の御子の臨在を指し示す予表でした。 炭火の光は、キリストの贖いの力が聖霊によって適用された象徴なのです。 その光は裁きの炎ではなく、再生をもたらす命の炎でした。 罪を焼き尽くすと同時に、新しいいのちを生み出す光です。 イザヤはその瞬間、死から命へと移されました。 御怒りを受けるべきだった者が、神の栄光の光―― すなわちキリストの贖いの光―によって生かされ、神の器とされたのです。 「神の火はイザヤを滅ぼさなかった。それは彼を新しくした。」 したがってここで起こったのは、 十字架の贖いの光による再生の出来事でした。 聖霊を通して、神の光が魂の奥深くまで貫き、 罪の死から永遠のいのちへと移す――それが再生です。 3. 聖霊の超自然的な光 ― 再生から照明へ 信仰は“分かった”から始まるのではなく、 “照らされた”ときに始まります。 ジョナサン・エドワーズはこう語りました。 「この神の光は、自然な理解によるものではなく、 神ご自身が魂に直接注がれる超自然的な光である。 それが来ると、魂はキリストの栄光と美しさを見るようになる。」 この神の光 ―それは創造主の栄光そのもの―が、 聖霊を通して信仰者の心と魂に触れます。 そのとき、闇に沈んでいた心は照らされ、御言葉の真理を悟るようになりま す。 「人が自力で神を信じるのではなく、 聖霊が、栄光の主の光をもって心の闇を照らし、悟りを生み出す。」 これが、再生の結果として起こる照明(illumination)です。 照明とは、聖霊が理性を清め、心の眼を開いて、すでに与えられた 啓示を“真理として見る”ようにする恵みです。 ここで注意すべきは、 これは「新しい啓示」ではありません。 すでに語られた聖書の啓示が、 聖霊によって信者の心に悟らされるのです。 スプロールは言います。 「聖霊はまず照らす。 その光が魂を貫き、私たちに真実の神の美しさと栄光を見せる。」 照明とは、御言葉の真理が心に実在として見えるようになることです。 聖霊は考え(理性)を清め、心の目を開き、すでに与えられた御言葉を真 理として見えるようにしてくださいます。 それは知的理解を超えた神秘的体験ではなく、 聖霊によって理性と心が共に啓かれる霊的理解です。 ジョナサン・エドワーズもこう言いました。 「信仰とは、神について多くを知ることではなく、 神の美しさに心が打ち砕かれることだ。」 「聖霊よ、私の考えをきよめ、心の目を開いてください。」 4. ペテロが見た光 ― (マタイ16:15–17) イエスが弟子たちに尋ねました。 「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」 ペテロは答えました。 「あなたこそ、生ける神の御子キリストです。」 イエスは言われます。 「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。 それをあなたに示したのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父です。」 (16:17) ペテロがキリストを信仰告白できたのは、 彼の知恵や知識の力ではありません。 天の父が、聖霊によって彼の心を照らしたからです。 これはイザヤが体験した光と同じです。 再生によって、死から命へと移された者が、 聖霊の照明によって、 神の真実の美しさと栄光を悟るようになるのです。 5. パウロが見た光 ― ダマスコの途上で パウロもまた、イザヤやペテロと同じ「聖なる光」に貫かれた人で した。 彼はもともと、律法の熱心な守り手として、教会を迫害する 者でした。 しかし、彼がダマスコへ向かう途中、その人生を根底か ら変える光に出会います。 「ところが、行く途中、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼をめぐり照らした。彼は地に倒れ、『サウロ、サウロ、 なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。」 (使徒の働き9:3–4) この光は単なる物理的な輝きではありません。 それは「聖なる、聖なる、聖なる主」の臨在――すなわち復活のキ リストご自身の光でした。 パウロはその光に打たれて地に倒れ、肉の目が見えなくなりまし た。 しかしそのとき、魂の目が初めて開かれたのです。 彼は、イザヤと同じように、自らの罪の深さを悟り、 ペテロと同じように、キリストの真実な栄光を見ました。 そして彼もまた、聖霊によって再生と照明の恵みを受けました。 「すぐに、サウロの目からうろこのようなものが落ち、再び見える ようになった。彼は立ち上がってバプテスマを受けた。」 (使徒の働き9:18) この「うろこのようなものが落ちる」という描写は、 聖霊の光が心の闇を貫き、覆いを取り去る照明の象徴です。 パウロは再生の恵みによって新しい命を受け、照明の恵みによって 真理を悟りました。 その後、彼は生涯をかけてこう告白します。 「神は暗闇の中から光が輝き出よと言われた方です。その神が、キ リストの御顔にある神の栄光を知る光を、私たちの心に輝かせてく ださったのです。」(Ⅱコリント4:6) パウロの体験は、イザヤが「聖なる主の光」に貫かれ、 ペテロが「父からの啓示」によってキリストを見、 そして信仰者すべてが「再生と照明の恵み」を受けるという、 救いの光の連鎖を完成させています。 イザヤは「聖なる光」によって罪を悟り、 ペテロは「啓示の光」によってキリストを告白し、 パウロは「復活の光」によって生涯の方向を変えられました。 三人に共通するのは―― 神の聖なる光が、罪の闇を砕き、心を照らし、使命を与えるという 一点です。 6. 信仰の告白としての意味 聖の光が触れると、人は二つの声を聞きます ――「私は滅びる」と「あなたこそキリスト」。 聖霊の照明は、単なる「理解」でも「感情体験」でもありません。 それは心と魂を刺し通す霊的悟りです。 「神の聖なる光は、心と魂を刺し通し、 人を恐れさせ、そして魅了する。 その光は人を壊すが、同時に癒す。」 この光に触れるとき、信仰者のうちには二つの反応が生まれます。 罪の醜さを悟る恐れ。イザヤが「私は滅びる」と叫んだように。 神の美しさに圧倒される喜び。 ペテロが「あなたこそキリストです」と告白したように。 また、パウロはその光に打たれて地に倒れ、肉の目が見えなくなりました。 しかしそのとき、魂の目が初めて開かれたのです。 自分の罪深さと、神の恵 みの素晴らしさに。 この二つの悟りを通して、信仰者はこう確信します。 「聖なる、聖なる、聖なる主の栄光は、 まことに真実で、美しく、永遠である。」 まとめ 神の聖なる光があなたの心に触れるとき、あなたは自分の罪の闇を知り、 同時に神の美しさと栄光を悟ります。 それは裁きの火であり、同時に再生の光です。 その光は人を砕き、同時に生かします。 真の信仰者は祈ります。 「聖なる、聖なる、聖なる主よ、 あなたの光は真実で、美しく、栄光に満ちています。」 Ⅱコリント4:6 「初めに『光あれ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光の知識を、 私たちの心に輝かせてくださったのです。」 人間の知恵によって神を知ることはできません。 神が聖霊によって、御言葉を通し、 キリストの真理を悟らせてくださいます。 そして、あなたは変えられていくのです。 私たちの再生と照明は、 すべてキリストとの結合から流れ出る恵みです。 キリストとの結合は救いの源であり、泉です。 聖霊は、 この結びつきを私たちの現実の歩みの中で 確かに働かせてくださいます。 だから私たちは―― 『恐れと喜び』で主に近づき、 御言葉により生かされ、生きるのです。

  • 律法による義、信仰による義-律法主義、霊的戦い神学、福音の三要素はなぜ十字架の御業を冒涜するのか

    律法による義、信仰による義  2025.9.14 礼拝メッセージ ローマ10章6-11 10:6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。 10:7 また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。   ローマ10章のパウロの警告 「天に上る」=自分の努力でキリストを降ろそうとする。 「地に下る」=自分の力でキリストを復活させようとする。 「律法主義」「霊的戦い」「福音の三要素」がなぜ十字架の御業を冒涜することになるのか   1. 律法主義 ― 十字架+律法遵守 <特徴> 「人は律法を守ることによって義を得る」と教える。 実際には誰も完全に守れないのに、行為を救いの条件に据える。  <十字架への冒涜> もし人間の律法遵守が救いの条件なら、「キリストの義は不十分」ということになる。 これは「十字架は必要だが、それに加えて自分の行いも必要」とする立場。 実質的に「自分の義を立てる」ことで神の義を拒んでいる(ローマ10:3)。   2. 霊的戦い神学 ― 十字架+断ち切り儀式 <特徴> 「人は本質的に霊的に死んでいるのではなく、地域を縛る悪霊が目を覆っている」 罪を犯すたびに悪霊が入り込むため、「断ち切り」「縛り」の儀式を繰り返す必要があると教える。  <十字架への冒涜> 聖書は「キリストは一度の犠牲で永遠に完全にした」(ヘブル10:14)と教える。 しかしこの教えは「赦しはまだ不完全。断ち切りを続けなければならない」と主張する。 つまり、「十字架の赦しでは足りない、悪霊や罪の対処が必要」とする。 結果、キリストの十字架の贖いを無視、結果的に否定して「断ち切り儀式」に置き換えてしまう。   3. 「福音の3要素」 ― 十字架+口の告白 <特徴> 「イエスが死に、葬られ、よみがえったと信じて口で告白すれば救われる」と強調する。再生によって与えられる信仰や悔い改めを無視し、未信者の口の決断行為に救いを依存させる。  <十字架への冒涜> 聖書の順序は「再生 → 信仰と悔い改め → 義認 → 告白はその果実」。 しかしこの教えは「ただ告白すれば救いが成立する」とする。 結果、「十字架と復活はまだ不十分。あなたの告白が加わって初めて救いが完成する」という構造になる。   4. 「律法主義」「霊的戦い」「福音の3要素」の共通点 ・十字架の十分性を否定する。 ・救いを人間の行為で条件づける。 ・信仰義認を実質的に拒否する。 すべて、「十字架+〇〇」がなければ救いは成立しない、と言っている。 それは、十字架を不完全と見なし、御業を軽んじる冒涜。   5.  3つの異端の教えの接点 1)律法主義=「天に上る」試み  律法を守って自力で義を獲得しようとすること。 2)霊的戦い神学=「地に下る」試み  悪霊を断ち切ることで、赦しや解放を自力で完成させようとすること。 3)福音の3要素=「天にも地にも行こうとする」試み  告白という人間の行為を救いの成立条件にし、御業を補おうとすること。  すべて「十字架の完成を不十分と見なし、自分の手で完成させようとする」という点で、パウロの警告と直結する。   6. 福音の答え 「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」(ローマ10:8)。 救いは「遠くに探しに行くこと」でも「儀式で断ち切ること」でも「口で条件を満たすこと」でもない。すでに完成された十字架の御業が、再生によって信じる心に与えられている。そこから自然に信仰の告白があふれ出る。 7. まとめ 律法主義も、霊的戦いも、福音の3要素も、みな共通して 「十字架+人間の行為」 を条件とし、キリストの御業を冒涜している。未信者はこれを理解できない。また、霊的に幼い信仰者は頭で理解するが実践においては心で理解していないので騙される。パウロの警告どおり、それは「天に上ろうとし」「地に下ろうとする」愚かさ。 しかし福音はこう告げる:   「キリストはすでに来られ、死に、葬られ、復活された。その御業は完全だ。キリストは律法の完成、キリストは律法の到達点だ。再生され、信仰、悔い改めを与えられた者だけが、ただその完成された救いにあずかる。」 「十字架+人間の行為」の異端の教えに絶対、騙されてはいけない。  8. 最初の信仰と義認の理解 ローマ10:9-10 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。  1)ここには2つの義の意味が含まれている。 再生の瞬間に与えられる信仰と悔い改めによって、人は義とされる • スプロール:「信仰の始まりは、自分の徹底的な堕落を認め、神に憐れみを求めるところから始まる」(Faith Alone, p.121)。 • 「神よ、私は罪人です、助けてください」という叫びが義認の信仰の典型。 • 義認は一度きりで完全に成し遂げられる。 「口でイエスを主と告白し、心で神がよみがえらせたと信じる」とは、日本版福音の3要素のように表面的に信じることを決断し、ただイエスを主と告白して神がイエスをよみがえらせたと唱えることではない。それは神が信仰者に与える信仰、悔い改めではない。 なぜなら未信者は主の主権、キリストとの結合によって信仰者に適用される十字架の意味も復活の意味も知らず、正しい知識の啓示を受けず、表面的にしか「口でイエスを主と告白し、心で神がよみがえらせたと信じる」と唱えることしかできないからである。 再生された人は、最初に与えられる信仰・悔い改めに根ざし、その本質的な信仰はキリストと信仰者が御霊によって結び合わされている、その結合を源泉としている。   2)義認に伴う信仰の表れ ローマ10:9にはキリストの十字架の御業に対する自分の直接的な参加を深く理解している信仰が見える。これは「義認の条件」ではなく、「義認に伴う信仰の表れ」である。 • 「口の告白」は最初の与えられた義認が信仰の心から外側にあふれる表現であり、かつ聖化に伴う継続的な表現であり、信仰義認と聖化の両面性がある。この告白の現れは再生直後の真実な信仰告白も聖化の過程にもおける信仰告白も同じである。 救いの条件でなく、救われた者に現れる証である。 • RCスプロール「これは浅い信仰ではなく、内容を伴う真の信仰告白である」(Romans: An Expositional Commentary)と言っている。 • この告白は「義認の条件」ではなく、キリストとの結合から流れ出る信仰の成長した更なる義の姿。   3)義認と聖化の区別 • 義認=一度限りの法的宣言。信仰によって直ちに義とされる。 • 聖化=義認の必然的結果として伴い、生涯を通じて告白と従順が深まっていく、更なる義。 • 「義認は信仰のみによるが、決して信仰が独立しているのではなく、必ず聖化の実を伴う」(What Is Reformed Theology? p.151)。 • ローマ10:9の告白は、聖化の果実として外に現れる信仰の姿。   4) 信仰の持続と連続性 • 義認を与える信仰は一度きりで完全に成立する。 • しかしその信仰は連続性を持ち、生涯を通じて態度として持続し、成熟し、最後の信仰となって神の前に立つ。 • 信仰は「義認の条件」ではなく、「義認に伴う信仰の外面への現れ」 • 「口の告白」は両面性があり、義認の初期的外的な現れであり、同時に聖化に伴う継続的な外的な現れでもある。 • 最初の信仰と最後の信仰は同じ本質を持つ。 • 信仰義認は一回限りの出来事であると同時に、救済の全体構造を貫く本質として継続する。   5)義認の連続性 • ローマ10:9の告白は「義認の条件」ではない、救いの結果である。 • 義認は一度きりで完全に与えられる。 • しかしその信仰は連続性を持ち、生涯を通じて成長し、聖化の中で「イエスを主と告白する」という形で必ず現れ続ける。 • 最初の信仰は最後の信仰へと持続し、救済の全体構造を貫く本質となる。 6)揺るがない確かさ • 「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない」(10:11)。 • スプロール:救いは人間の努力に基づかず、神の憐みと慈しみによる。 • その保証は確実に確かなものであり、その救いは決して揺らぐことはない。 このメッセージはローマの教会のユダヤ人、異邦人のクリスチャンへの語りかけであることを理解する。ユダヤ人のつまずきと異邦人の思い上がりがその背景にある。   7)「キリストの十字架の御業によって救われる。」 • 人間が律法によって義を得ようとするのはまさに「天に登ってキリストをさがして連れて来る」「冥界に下ってキリストを見つけよみがえらせる」という、愚かであり絶対に不可能な試みである。 • しかし神はすでに十字架と復活において救いを完成された。 キリストは律法の成就であり、到達点である。救いはキリストについて語られたことを聞くことであり、「信仰者の心に、口に」ある。 • 人は心で信じて義とされ、口で告白することで信仰が外に現れる。それはキリストとの結合により与えられた結果である。義認は一度きりでまた完全である。 • 神に与えられた信仰は連続性を持ち、さらに生涯を通じて持続し、信仰者をキリストの似姿に変え続ける。最後の信仰へと至る。最後の信仰、すなわちクリスチャン人生の最後の信仰の本質は最初の信仰の本質と全く同じである。 • そして、真に信じる者は決して失望させられることがない。 8.信仰による義がもたらす結果 ローマ10:1-11はキリストとの結合を源泉とする救いの実際的な適用を説明している。信仰から来る告白は義認の条件と言うより、むしろ、救われた結果の信仰が外的・継続的にその人に現れると言う聖化そのものである。 1)ローマ10章の中核 救いの土台はすでに成し遂げられたキリストの御業 人は自分の努力で天に登ったり、死の陰府からキリストを引き上げたりすることはできない(10:6–7)。 これは「律法による義」の不可能性を示す。 すべてはすでに キリストの受肉・死・復活という完成された福音 による。  信仰による義は、人間の行為ではなく、神の恵みの絶対的主導。 信仰と告白は聖霊によって与えられた心の動機のあふれ 「心で信じて義と認められ、口で告白して救われる」(10:9–10)。 スプロールはこれを「救いを獲得する条件」とは理解しない。 むしろ、神が新しい心を与えたときに必ず現れる内的動機の外的表現。 したいこと=志しとしての告白であり、律法主義的な「しなければならない」ではない。  2)信仰による義が生み出す結果は内からあふれる恵みのしるし 福音は神の力として響きわたる 福音は単なる情報ではなく「神の力」(ローマ1:16)。 テサロニケの教会のように(Ⅰテサ1:8)、受けた福音が生活と証しを通して自然に「響きわたる」。 これは運動主義的な活動ではなく、聖霊が御言葉を通して世界に響かせる霊的な喜びの躍動。宣教は人間の戦略の成果ではなく、神の定めた手段を通して御霊がなさる働き。 3)伝道は義務ではなく、愛の志し 「遣わされなければ、どうして宣べ伝えることができるだろう」(10:15)。 教会全体が関わるのは、律法的義務ではなく、神に愛された者が押し出されて持つ志し。 祈り・支援・派遣は神の子どもとしての特権。 宣教への関与=「やらねば」ではなく、「せずにはいられない」喜びの務め。   4)ローマ10章の中核の整理: 救いの根拠はすでに完成されたキリストの御業にある 信仰と告白は、聖霊が新しい心に与える志しの自然なあふれ 福音は人間の活動でなく神の力として響きわたり、実を結ぶ 福音伝道は義務でなく、愛と感謝に押し出された喜びの特権

  • なぜ、信じても苦しみが続くのか?2 すでに/いまだの救い

    第2回 すでに/いまだ ― 二つの次元を生きる 聖書箇所エペソ2:6/ローマ8:23/コロサイ3:3–4   → すでに 「神はまた、キリスト・イエスにおいて、私たちをともによみがえらせ、 ともに天の所に座らせてくださいました。」(エペソ2:6)   → いまだ 「しかし、私たち自身も心の中でうめきながら、子とされること、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(ローマ8:23)   → そして栄光 「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている。 あなたがたのいのちであるキリストが現れるとき、あなたがたも彼とともに栄光のうちに現れる。」(コロサイ3:3–4)   1.  信仰者は「二つの世界」を生きている 前回(第1回)で学んだように、「上にあるものを思う」とは、努力して天を目指すことではなく、 外からサタンと罪の誘惑、うちにある罪の性質から神の完全な支配へと逃げ込み、とどまる信仰の姿でした。 しかし、その「上にとどまる」信仰生活には、 ①   永遠の救いがすでに完成している現実 と、 ②   今も未完成の中を栄光に向かい生きている現実 ①    と②とのあいだに、ひとつの緊張があります。   それはすでに救いが完成していながら、  いまだその完成を待っている と言う信仰者の生き方です。 それが、「すでに」と「いまだ」の間を生きるという現実です。 私たちは「すでに永遠に救われた」けれど、 「いまだ時の流れの中で完成へ進んで行く」。 この二つの現実が信仰の中で常に交差しています。   2. 「すでに」――永遠における完成した現実 パウロはエペソ2章で言います。 「神はキリストにおいて、私たちをともによみがえらせ、天の所に座らせてくださいました。」 「ここで注目すべきは、『座らせてくださいました』という、完成を示す表現。 それは「ました」と言う表現が示すように、救いはすでに神のうちで完成しており、今もそうであり、永遠に完成しているのです。」 神は永遠のうちにあなたをキリストと結び、その結合の中であなたはすでに天において義とされ、永遠に変わることのない義とされました。   永遠の結合とは、神があなたを永遠の昔にキリストとひとつに結び、もう決して離さないという約束のことです。   したがって、真の信仰者の信仰生活とは「完成を求めて登る」旅ではありません。「完成された場所から地上を歩く」旅なのです。   繰り返します。真の信仰者の信仰生活とは「完成を求めて登る」旅ではありません。「完成された場所から地上を歩く」旅です。   3. 「いまだ」――時間の中で進行する現実 しかし、私たちはまだこの地上に生きています。 肉体は弱く、感情は揺れ、サタン、罪が誘惑し、罪の性質の欲が働き私たちを苦しめます。   パウロはローマ8章で言います。 「私たちはうめきながら、からだの贖われることを待ち望んでいる。」 これは「いまだ完成していない現実」です。 永遠の中で、完全に救われた者でありながら、完成を待ち望む者。 すなわち、神の御前で義人でありながら、時の流れの中では罪人。   この「いまだ」は、神が私たちを御子と同じ姿に形づくられる、 神が定められた救いの段階です。神学ではこれを聖化と呼びます。 聖化において聖霊は絶えず、 私たちを「上にあるもの」へと心を戻し続けます。   4. すでに/いまだ ― 永遠と時間の交差点 この二つの現実は矛盾ではなく、交わっています。   あなたの魂は「すでに」キリストと共に天の御座にあり、 あなたの肉体と心は「いまだ」地上を歩んでいます。   信仰生活とは、この交差点で生きることです。 『すでに』:永遠に救いは完成している。 『いまだ』:その完成を日々味わいつつ、御子のかたちへと形づくられる ローマ8:29  "神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。" もし「すでに」だけを強調すれば傲慢になり、 「いまだ」だけを見れば辛さに押し潰される。   神がお与えになった信仰はその二つの間に立ち、永遠の結合が与えたれていると言う聖書のみことばに従うこと、すなわち、逃げること、戦うことに導きます。   再度、説明しますが、逃げる、戦うとは、神の支配が絶対であり、この神のうちにあなたがキリストと結合されて共にいるという聖書の御言葉にとどまることが従順です。それはサタン、罪の誘惑、罪の性質への不従順です。   5. 現在の戦いと完成の確信 この「すでに/いまだ」の間には戦いがあります。 肉の思いは「地のもの」を求め、御霊は「上のもの」を思わせます。 しかし信仰者の確信は、決して「どちらの現実に立つか」ではありません。 → 誰に結ばれているかにあります。 神は信仰者の確信をキリストとの結合に導きます。   あなたは“すでに”キリストに結ばれている。 “いまだ”戦いがあっても、その結合は永遠に揺るがない パウロはローマ6:11でこう語ります。 "同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。" 「『認めなさい』=ロギゾマイ。 神の宣言を事実として数え入れること。 感情の波ではなく、1+1=2の確定事実として受け取ること。   6. 「上を思う」信仰の成熟 「上にあるものを思う」とは、 実に神のご支配は圧倒的であり、永遠に全ての権威、権力、主権の上あります。この神をご支配の中に永遠に自分がおり、神があなたを永遠に守っているという聖書のみことばの真理に心から従うことです。 信仰生活とは、永遠における完成の中を歩む時間的な聖化です 神はあなたをキリストと永遠に結び、「すでに」その救いを完成し、「いまだ」聖化の中でその栄光を現しておられます。   7. まとめ ― 「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」 あなたがたのいのちであるキリストが現れるとき、あなたがたも彼とともに栄光のうちに現れる。」(コロサイ3:3–4) パウロはここで、「信仰者の命」はこの世には見えないと語ります。 あなたの救いの本当の姿は、この世の人の目には隠されています。   “隠されている”とは、消えているのではなく、神の手の中で完全に守られているという意味です。 神ご自身が、その命をご自分のうちに保管しておられ、誰もそこに手を伸ばすことはできません。   R.C.スプロールはこう語ります。 「再臨とは、キリストが新しい救いを始める時ではなく、すでに神のうちに完成していた救いを、 すべての被造物の前に明らかにされる時である。神の民が長い間“信仰によって見ていた現実”が、今度は“目で見る現実”として啓示されるのだ。」 スプロールは再臨を“啓示の時”として描きます。 神の側ではすでに完成している救いが、 時の流れの中で、全世界に栄光のうちに示される。 それが「あなたがたのいのちであるキリストが現れるとき」という意味です。   要約すれば、「隠された命」とは、永遠の中で完成している救いが、 時の流れの中で栄光のうちに全世界に示されることです。   それは新しい命が生まれる瞬間ではなく、 すでに神のうちで完成していた救いが、 再臨のときに歴史、時の流れの中で啓示される出来事なのです。   さらにRCはこう述べます。 「再臨の日こそ、神の約束が歴史の舞台で目に見える形で現れる時だ。 その日、キリストにある者は皆、公にその栄光を共有する。」   再臨とは、永遠において完成した救いが、時の流れの中で目に見えられる形で現れ、神の栄光の中で明らかにされる時です。   その瞬間、   キリストが雲とともに現れ(マタイ24:30)、 信者は栄光の体に変えられ(ローマ8:23)、 隠されていた命が全世界に示されます。   「見えない現実こそが、永遠の現実です。 神の民は、まだ見ていないものを見ています―― それが信仰であり、再臨の日にその信仰が目に見えるように現れます。   「あなたの命は神のうちに隠されている」とは、あなたの救いが「すでに」永遠の中で完成しており、キリストの命の中に確保されていることです。 神は時の流れの中では、まだ「いまだ」その完成を現わしていません。   しかし再臨の日、 その“隠された完成”が歴史の中に、栄光のうちに現れるのです。   だから、いまだ戦いの中にあっても、罪と弱さを抱えていても、あなたの命はすでに永遠の中で完成しており、 キリストのうちに保たれています。聖霊はその証印です。   「再臨とは、神がご自身の約束を完全に見える形で実現する日です。 その日、信仰によって見ていたものが、栄光の光の中で明らかにされます。」   あなたがたのいのちであるキリストが現れるとき、 あなたがたも彼とともに栄光のうちに現れる。   キリストの中に隠されているあなたがたの命とは 永遠の中で完成している救いが、 時の流れの中で栄光のうちに全世界に示されることです。   信仰者の歩みは、キリストの再臨と栄光の体が与えられることを待ち望む  「『すでに』 永遠の結合と、『いまだ』 聖化の過程」の間の中で、 人生を進んでいく勝利への旅なのです。   もう一度言いますが、信仰生活とは、 神が成就された永遠の救いにあって 同時に時の流れの中で選ばれた者が歩み、 御前で聖なる傷のない者にされることです。   (エペソ1:4) "すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。"   ―「すでに」― 神はあなたをキリストと永遠に結び、「すでに」、その救いを完成し、   ―「いまだ」― 「いまだ」、聖なる、傷のない者にされようとする段階の中で その栄光をあなたに現れる義の変容を通して現しておられます。   そして再臨の日、隠されていた命が全世界に啓示されるのです。

  • なぜ信じても苦しみが続くのか?「すでに/いまだ」の救い

    キリストとの結合 ― すでに、いまだ   結合が福音の中心 2025.10.18 豊川の家の教会 礼拝メッセージ  私たちがクリスチャンであるのは、神が私たちを救われたからです。しかし、救いとは「罪が赦されること」だけではありません。救いとは、キリストと結ばれることそのものです。ジョン・マレーはこう語ります。   「救いのすべての祝福は、キリストとの結合から流れ出る。結合は恵みの順序の中の一項目ではなく、全体を貫く中心軸である。」   この“結合”があって初めて、選びも現実となり、再生も起こり、そして義認・聖化・栄化も実を結びます。   1. 神のなさることは、すべて時にかなって美しい  「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」 ― 伝道者の書 3章11節    私たちは、永遠と時の流れという二つの次元の中で生きています。しかし、私たちの救いは、単に時間の中で起こった出来事ではなく、神の永遠のうちにある結合です。神は永遠の計画の中で、キリストのうちに私たちを選び(エペソ1:4)、それは単なる「救いの予定」ではなく、キリストの中にいるあなたを、永遠の喜びと満足をもって見つめておられたという意味です。    父なる神は、御子キリストのうちにあなたを見、御子の義と美しさの中にあなたを見、「これこそわたしの愛する者、わたしの心にかなう者」と喜ばれました(マタイ3:17)。すなわち、神はキリストの中にあるあなたを永遠に愛し、喜ばれたのです。    同時に、神はキリストのうちに教会全体を見ておられました。すなわち、あなたはただ個人としてではなく、キリストの体の一員として、愛と喜びの中に選ばれたのです。この教会的選びこそ、神が「キリストにある者たち」を御自身の民として抱かれる愛の広がりです。    これこそが、神のうちにあるあなたの永遠の結合の始まりです。    そして神は、その永遠の結合を時間の中での結合として現実にするために、聖霊によって私たちを再生させてくださいました。    伝道者の書は語ります――神は人の心に「永遠を思う思い」を与えられた。それは、人間が時間の中に生きながらも、永遠の神との結合を求める存在として造られたからです。    今日は、この「永遠における結合(永遠の結合)」と「時間の中で実現する結合(時間の中での結合)」 という二つの側面を見つめながら、なぜ神が私たちの心に永遠を思う思いを与えられたのかを学びたいと思います。    それこそが、私たちの信仰の土台そのものだからです。今日のメッセージはその信仰の土台のことです。     2.救いのすべての段階   救いの各段階は別々の出来事ではなく、一つの源から流れ出ています――キリストとの結合です。    永遠の選び(エペソ1:4) 「すなわち、神は、天地創造の前に、私たちをキリストにあって選び、御前に聖く、傷のない者にしようとされました。」    時間の中での再生(ヨハネ3:5) イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」    神の御前における一度きりの義認(ローマ5:1) 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」    御霊による聖化(1テサロニケ4:3) 「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、不品行を避けることです。」    終わりの日の栄化(ローマ8:30) 「神はあらかじめ定めた人たちを、さらに召し、召した人たちを義と認め、義と認めた人たちを、さらに栄光を与えました。」   これらはすべて、「キリストとの結合」という一つの現実の中で展開します。だからこそ、私たちの信仰生活の全体を要約する言葉があるとすれば――それは「キリストとの結合」なのです。   3.一つの結合 ― 「すでに」と「いまだ」    ここで大切なのは、結合が二種類あるのではないということです。「結合は一つ」です。ただし、その一つの結合が、二つの次元――「すでに」と「いまだ」――の中で現れるのです。  「すでに」― 永遠における結合(神の側の完成した現実) 「いまだ」― 歴史の中での結合(聖霊による現実化)    福音はこの二つの次元の中で結合を理解することによって、私たちはキリストとの結合を表面的な理解から、その神的深みへと導かれます。   4.「すでに」― 永遠における結合    エペソ1:4にはこう書かれています。 「神は天地創造の前に、私たちをキリストにあって選び、御前に聖く、傷のない者にしようとされました。」 神はあなたを個別に愛する前に、キリストにあってあなたを見ておられました。 選びそのものが、キリストとの結合の中で行われたのです。   R.C.スプロールはこう語ります。  「神の義は神の本性上の義務であるが、あわれみは神の自由な御心の選びである。神は罪人に義を求める義務をお持ちだが、赦しを与える義務はお持ちでない。したがって、救いとは神の恵みの選びである。」  この「神の自由な恵みの選び」の中で、私たちはすでにキリストに結ばれていたのです。   5.「いまだ」― 時間の中での結合   しかし、私たちは時間の中を生きる存在です。神が永遠において定められた救いは、歴史の中で現実化されます。  「私たちはこの御子にあって、その血による贖い、すなわち罪の赦しを受けています。」(エペソ1:7) 「あわれみ豊かな神は、私たちをキリストと共に生かし、共によみがえらせ、共に天の所に座らせてくださいました。」(エペソ2:4–6)   再生とは、聖霊がキリストとの結合を現実に適用し、私たちに新しいいのちを与える、歴史の中の瞬間です。信仰とは、その結合から生み出される、人間の側の応答です。 ジョン・マレーはこう言います。 「結合は再生を含み、信仰を生み出し、義認・聖化・栄化のすべてを抱える。結合なしに、救いのどの段階も成立しない。」   したがって、「再生してから結合する」のではなく、結合したゆえに再生が起こるのです。    6.「すでに」と「いまだ」の交差点   信仰生活は、この「すでに」と「いまだ」の間を歩むことです。 「すでに」 私たちはキリストと共によみがえらされ、天の所に座しています(エペソ2:6)。   「いまだ」 私たちは罪との戦いを続け、完成の時を待っています(ローマ8:23)。   この構造は、信仰義認と聖化の関係にも現れています。すなわち、「キリストにあってすでに義とされた者が、キリストにあっていまだ聖くされつつある」― これが永遠の義であり、いまだ聖くされつつある信仰生活の真実な姿です。     7.教会的な結合   聖書はこの結合を多くの比喩で語ります。 • 体 ― キリストが頭、私たちは肢体(エペソ4:15–16) • 神殿 ― 神の御霊が内に住む(1コリント6:19) • 花嫁 ― 教会はキリストの花嫁(エペソ5:25–27)  特に聖餐は、「すでに―いまだ」の結合を目に見えるかたちで味わう時です。パンと杯を受け取るとき、「すでに」与えられたキリストの十字架の結合を思い起こし、同時に「いまだ」完成していない栄光の食卓を味わいつつ待ち望むのです。  聖餐は単なる記念ではありません。それは、キリストとの結合が今ここで確かに働いているという聖霊の印です。「すでに」赦され、「いまだ」完成を待つ者として、私たちはパンと杯を通して、キリストの臨在と交わりの現実を経験します。   8.苦難と結合 ― 共に死に、共に栄光にあずかる  「もし彼らがわたしを迫害したなら、あなたがたも迫害する。」(ヨハネ15:20) 「わたしはキリストと共に十字架につけられた。」(ガラテヤ2:20)   R.C.スプロールは言います。  「神の聖徒たちが苦難を通して栄光にふさわしい者とされるのは、彼らが御子の苦難にあずかるからである。 苦しみは恵みの欠如ではなく、恵みの深まりである。」   苦しみは、結合の破れではなく、むしろ結合の証拠なのです。「すでに」起こった十字架の一致は、「いまだ」見ぬ、栄光の一致へとつながります。だから私たちは苦難を恐れません。それはキリストが共におられる証だからです。   9.永遠の安全と現在の歩み  「だれが神に選ばれた者たちに訴えを起こすのか。神が義と認めてくださるのだ。」(ローマ8:33) 「どんな被造物も、キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない。」(ローマ8:39)  私たちの救いは、永遠の中で「すでに」確立され、歴史の中で「いまだ」進行し、やがて「完全に」成就します。 10.まとめ   永遠の昔、時が始まる前から、神は私たちをキリストにあって、ご自身のうちに結び合わせておられました。そして歴史の中で、御子キリストが十字架にかかり、選ばれた者の罪を贖われました。さらに時の流れの中で、聖霊が働き、その者をキリストに結び合わせ、罪の中で死んでいた心を新しく創造し、再生させ、永遠のいのちへと導かれたのです。   この驚くべき、神の恵みの結合の真理こそ、私たちの信仰の確かな土台です。   もう一度、最初に話したことを説明したいと思います。この理解はあなたのクリスチャン人生を大変革します。  「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」― 伝道者の書 3章11節   私たちは、永遠と時の流れという二つの次元の中で生きています。しかし、私たちの救いは、単に時間の中で起こった出来事ではなく、神の永遠のうちにある結合です。    神は永遠の計画の中で、キリストのうちに私たちを選び(エペソ1:4)、それは単なる「救いの予定」ではなく、キリストの中にいるあなたを、永遠の喜びと満足をもって見つめておられたという意味です。    父なる神は、御子キリストのうちにあなたを見、御子の義と美しさの中にあなたを見、「これこそわたしの愛する者、わたしの心にかなう者」と喜ばれました(マタイ3:17)。すなわち、神はキリストの中にあるあなたを永遠に愛し、喜ばれたのです。これこそが、神のうちにあるあなたの永遠の結合の始まりです。    そして神は、その永遠の結合を時間の中での結合として現実にするために、聖霊によって私たちを再生させてくださいました。    伝道者の書は語ります――  神は人の心に「永遠を思う思い」を与えられた。それは、人間が時間の中に生きながらも、永遠の神との結合を求める存在として造られたからです。    これが、キリストとの結合 ― すでに、いまだ。救いのすべての始まりであり、終わりです。

  • 何から逃げるのか2- 1ペテロ5章8節「悪魔と罪の心の関係」

    何から逃げるのか2 ― 1ペテロ5章8節 2025.10.22 The Word for you   何から逃げるのか ― 1ペテロ5章8節 No.2 罪と死の法則 命の御霊の法則 出所 アダム キリスト 支配者 罪とサタン 父 子 聖霊 結果 死(分離と滅び) 命(結合と義) 構造 「肉の性質」に働く 「キリストとの結合」に働く 終着点 永遠の死 永遠の命   1. 目の欲、肉の欲を通して働く、この世の文化と記憶の誘惑 ― (ローマ7:23/コロサイ3:1–2/1ヨハネ2:16/創世記3章/エペソ2:2)   1)     選ばれた者の現実と誘惑の再来 暴言や嫌がらせを言いわれ続けてきた信仰者がいました。神はその信仰者に人を赦す心を与えてくださった。信仰者はもはや罪の支配の中ではなく、御霊の支配の中に生きている。しかし、時に暴言や行為が信仰者の記憶の中でフラッシュバックする。また、あるときには過去に見た光景――罪の快楽や欲望の映像――が思い起こされる。これらは、罪の性質と記憶に刻まれた“この世の空気の流れ”が共鳴することで起こる誘惑である。   2)     サタンの戦略:記憶を媒体 伝える道具とする「残骸的誘惑」 ジョン・マレーはこう述べた。 “The law of sin operates through memory, desire, and inclination;yet grace restrains its dominion.” (罪の法則は記憶・欲望・傾向を通して働くが、恵みがその支配を抑制している。) — Collected Writings, Vol. 2つまり、罪の法則は単に「今の刺激」によってではなく、**「記憶された過去の刺激」**を通しても再び活動する。   この「罪の残骸」は、サタンによって再利用される。スプロールが言うように―― “Satan cannot create new temptations;he reanimates the old ones buried in memory.” (サタンは新しい誘惑を創り出すことはできない。彼は記憶に埋もれた古い誘惑を再び甦らせるのだ。) — R.C. Sproul, The Invisible War (Ephesians 6 Exposition)    3) 事例「自己義 自分は正しい」と「目の欲」―   ① 自己義 自分は正しい(心の高ぶり)   カルヴァンは言う。  “This false righteousness is the mother of pride and hatred.” (偽りの義こそ高ぶりと憎しみの母である。) — Institutes III.12.6  サタンは信者に「あなたは正しい」と思わせる。それはあなたが生きてきた価値観、文化、思想に働くサタンの要塞にある。そして、他者の罪を思い出させることで、正義感に似た敵意を呼び覚ます。 これは「霊的な誘惑」の最も巧妙な形である。    ② 目の欲(感覚の高ぶり)  ヨハネはこう言う。 「この世にあるものは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの誇りである」(1ヨハネ2:16)。 マッカーサーはこの箇所を次のように解釈する。 “The lust of the eyes is not just visual pleasure;it is the coveting heart that stores images to sin again later.” (目の欲とは単なる視覚的快楽ではなく、罪を後で再現するために映像を蓄積する貪りの心である。) — John MacArthur, Worldliness: A Biblical Response   つまり、過去に見たもの――ポルノ、ゲーム、いかり、オカルト、この世の冨、成功――の映像が記憶に残り、再び思い出されるとき、それが再度「欲望の再燃装置」として働く。罪は「欲望を思い出す力(memory of delight)」を使って人を誘惑する。   4)  文化・価値体系・思考、偽の宗教、哲学、心理学などの学問の流れと罪の再活性化   スプロールは、エペソ2:2「空中の権を持つ者」についてこう説明する。 “The ‘air’ represents the spirit of the age—the collective mindset,values, and desires of a fallen world.” (“空気”とは時代精神、堕落した世界の集合的思考・価値・欲望のことだ。) — The Invisible War   つまり、文化・価値体系・思考、偽の宗教、哲学、心理学そのものが「空中の権威」の伝達媒体である。 私たちが日々触れている思想、情報・映像・娯楽・教育などは、無意識に**肉の性質(self and desire)**を刺激し、心に記憶として蓄積される。そしてその「記憶の堆積物」が後で記憶の中で映像されるとき、 サタンはそれを“再起動”させ、「かつての快楽・怒り・うらやみ・報復感情」を呼び覚ます。これはまさに「罪の法則が記憶を通して再び作動する」瞬間である。   5) (例)記憶の二つのルートで働く罪 誘惑のルート      罪の形   発動の仕方 ①自己義のルート        心の高ぶり(霊的プライド)、相手の罪を思い出し、「私は正しい」と感じる。サタンが義憤を利用する。 ②目の欲のルート        感覚的快楽(肉の欲望) 過去の映像・経験・刺激を思い出し、「もう一度感じたい」と思わせる。   両者に共通するのは、「過去の記憶」がサタンの再利用素材になっている点である。 それは「文化」「価値観」「思想」偽の宗教、娯楽という“この世の空気”の中に漂い、 常に再活性化される準備ができている。   6)  罪と死の法則 vs. 御霊の支配  カルヴァンはローマ7章をこう注解した。 “The law of sin does not rule, but it makes war against the law of the Spirit.” (罪の法則は支配してはいないが、御霊の律法に戦いを挑む。) — Commentary on Romans 7:23   罪の法則は「支配」ではなく「妨害」として存在する。それは「牙を抜かれた獅子」のように吠え立てるが、信者を飲み込むことはできない(1ペテロ5:8)。    御霊の支配は、信者を「記憶の再燃」からも守る。サタンの誘惑は、外的には文化・価値体系、思想を通し、内的には記憶と欲望の層を通して働く。  罪の性質は、自己義と目の欲、肉の欲、この世の暮らし向きなどから心を揺さぶり、過去の記憶を再び燃やして罪と死の法則を動かそうとする。思想、文化、価値観そのものが「空中の権威」の伝達媒体であり、サタンは私たちが日々触れている思想、情報・映像・娯楽、美意識・社会的事象などにより、継続的に、密接に、無意識に私たちの肉の性質(self and desire)を刺激し、心に記憶として蓄積する。 人間的な方法や行いでこのようなサタンの誘惑と罪の性質に対して対処する方法はない。 2. 再生と聖霊の封印 ― 永遠の結合の現れ  ヤコブ1章18節はこう言います。 「神はご自分の意思によって、真理のことばをもって私たちを生まれさせてくださいました。」    再生とは、永遠の結合が時間の中に現れる瞬間です。神が選びのうちに結ばれた者を、実際にキリストとの結合の中に引き入れる時、聖霊がその魂に住まわれます。「あなたがたも真理のことば、救いの福音を聞き、それを信じたことにより、約束の聖霊によって証印(しるし)を押されました。」(エペソ1:13–14)   この「証印」とは、所有の保証であり、サタンの介入を完全に閉ざす封印です。 この時からサタンの働きは、外側の誘惑に限定され、魂の中心には決して触れられない。   3. 三人の教師の証言 カルヴァン 「サタンは外から誘惑を仕掛けるが、罪は私たちのうちに根づいている。彼は火をつけるが、薪は私たちの心にある。」(『キリスト教綱要』II.4.2) カルヴァンは、罪の責任を人自身の内に置きます。悪魔を責めることは、肉を弁護することになるからです。   ジョン・マレー 「誘惑は外から来るが、欲望の反応は内から起こる。」(『Collected Writings』第2巻) マレーは、信徒の戦いの場を「外の悪の流れと内なる堕落の交差点」と定義しました。また、「キリストとの結合は天地創造の前の選びに根ざす。再生前であっても、選ばれた者はキリストの仲保の支配の外にはいない。」と述べています。   R.C.スプロール 「サタンは神の鎖につながれている犬のようなものだ。神がその鎖を伸ばさないかぎり、一歩も動けない。」(『The Holiness of God』) また、「悪魔を責めることは、自分の肉を弁護することだ。」(『Essential Truths』第44章)   三者は共に、 サタンの力を過大評価することなく、罪の責任を人間の内に見つめさせ、信徒をキリストとの結合に立ち返らせています。   4. まとめ ― キリストと結ばれた者の勝利   サタンの働きは、社会や文化の見えない流れを通して起こります。彼のねらいは人の中の罪の性質であり、目的は信仰を壊すことです。   しかし――キリストと結ばれた人は、永遠の契約によって完全に守られています。その魂の中心は神のもの。聖霊が内に住み、サタンは外から火を投げても燃え上がることはできません。   「罪はあなたを支配しない。あなたは律法の下ではなく、恵みの下にいる。」(ローマ6:14) 「あなたがたのうちにおられる方は、世にいる者よりも偉大です。」(1ヨハネ4:4)    信徒は、サタンの吠え声を恐れる必要はありません。彼は吠えることはできても、かみつくことはできません。ただし、エペソ4:27の警告を忘れてはなりません。 「悪魔に機会を与えてはいけません。」  私たちは、すべてのことが神の主権の御手の中にあることを覚え、キリストの勝利のもとに歩む者として、常に上にあるものに心を向けていなければなりません。(コロサイ3:1) それは、信仰の大盾となります。(エペソ6:16)信仰の怠慢や罪の放置は、サタンが外から誘惑する機会を生じさせますが、それでもキリストとの結合の中にある者の魂は、決して倒れることはありません。   「神の平和の神は、まもなくサタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」(ローマ16:20)   これは、信者の戦いではなく、キリストの勝利が信者に現れるという約束です。   サタン、悪霊は選ばれた者の中に入ることは出来ない。サタン、悪霊の働きは外側に限られ、肉を刺激するにすぎない。選ばれた者は、永遠の契約により再生前から守られている。聖霊の証印は契約であり、サタンはその契約の前に無力、つまり無力化されている。神に選ばれたものは、神が信仰を与えその信仰に神が堅く立たせてくださり、主の勝利にあずかる者にしてくださいます。   「だれも、わたしの手から彼らを奪い取ることはできません。」(ヨハネ10:28)

  • 何から逃げるのか- 1ペテロ5章8節「悪魔と罪の心の関係」

    何から逃げるのか ― 1ペテロ5章8節 2025.10.21 The Word for you   1. 悪魔と罪の心の関係  「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえる獅子のように、 だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(1ペテロ5:8)    ペテロが描く「悪魔」とは、人間の外にいる実在の霊的存在です。しかし、その攻撃の目標は人の中にある罪の性質――聖書が「肉」と呼ぶ部分です。サタンはキリストと結ばれた者の中には入れませんが、肉を刺激し、信仰を崩すために外側から働きかけます。   2. サタンはキリストと結ばれた人の中に入れない (1)聖書の証言 「しかし、あなたがたのうちに神の霊が住んでおられるなら、あなたがたは肉の中ではなく、御霊の中にいます。」(ローマ8:9)    聖霊が住まうところにサタンは入り込むことができません。エペソ1:4–5は、神が天地の創造の前からキリストにあって選び、子としてくださったことを語ります。したがって、信者は永遠の契約のもとにあり、サタンがその結びつきを壊すことはできません。   (2)外から働くサタン 「あなたがたは以前は罪と罪過の中に死んでいました。そのときはこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、今も不従順の子らの中に働く霊に従って歩んでいました。」(エペソ2:1–2)    ここでパウロは、サタンが人の中に住んでいたとは言いません。人は「この世の流れ」に従って歩んでいたのです。サタンの影響は外的なものであり、社会の価値観・欲望・文化を通して及びます。魂の中心――神の選びの領域――には触れられません。   (3)再生前も神の所有のうちに エペソ1:4はこう言います。 「神は、天地の創造の前から、キリストにあって私たちを選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされた。」 選びは時間の出来事ではなく、永遠の神の決定です。 したがって、まだ再生していない時でさえ、選ばれた者は神の主権の中にあります。サタンがその魂を自由に操ることはできません。 彼の働きは外側――この世と肉――に限定されています。   3. 選ばれた者の守りとサタンの限界 (1)神の守りの境界線 カルヴァンはこう言います。 「選ばれた者たちは堕落の中にあっても、神の秘められた御手のもとに保たれており、悪魔はその魂を完全には支配できない。」(『キリスト教綱要』II.4.2) 再生前でも、選ばれた人は完全にサタンの支配下にはありません。神の見えない御手がその人を囲み、堕落の只中でも保たれています。   (2)ヨブ記が示す制限 「では、彼のすべてをおまえの手にゆだねよう。ただし、彼自身には手を触れてはならない。」(ヨブ1:12)  サタンは神の許しなしには何もできません。攻撃できるのは外側――肉体や環境――の範囲に限られ、魂そのものには一切手を触れられないのです。   「神はサタンをも用いて御旨を成し遂げる」(創世50:20)   (3)神の鎖につながれた敵 R.C.スプロールは言います。 「サタンは神の鎖につながれた犬のようなものだ。神が鎖を伸ばさない限り、一歩も動けない。」(『The Holiness of God』) サタンの「自由」は見せかけに過ぎません。実際は神の主権のもとで制限されており、その働きすら神のご計画の中に組み込まれています。   4. サタンのねらいと働き  サタンのねらいは、単なる悪い行動を引き起こすことではありません。彼の本当の目標は、人の信仰を崩し、神への従順を壊すことです。 ねらい:人の中にある「肉(罪の性質)」を攻撃する。 内容:罪の性質とは、アダムから受け継いだ堕落した本性。 目的:信仰を倒し、神への信頼と従順を破壊する。   カルヴァンが言うように、 「サタンは火をつけるが、薪は人の心の中にある。」(『綱要』II.4.2)つまり、サタンの誘惑は外から来ますが、反応して燃え上がるのは内なる罪です。   5. サタンの働きの流れ  サタンの働きは段階的です。彼は人の肉を刺激し、欲を膨らませ、最終的に信仰を崩壊させます。   標的を定める(肉):人の中にある罪の部分を狙い撃ちします。   刺激する:欲望をゆさぶり、思いを揺さぶります。  「人はそれぞれ、自分の欲に引かれ、誘惑に陥る。」(ヤコブ1:14–15)   信仰を崩す:罪を行わせることよりも、神への信頼と従順を破壊することが目的です。  結果:恐れ・疑い・恥によって人を縛り、神との交わりを遠ざけます。   この流れは、人が「信仰の盾」を下ろした時に最も顕著になります。エペソ6章16節が命じるように、「信仰の盾を取りなさい。」それは、燃える矢――すなわちサタンの誘惑――を防ぐ唯一の武具です。   6. サタンの支配の広がり ― 「空中の権威を持つ支配者」  エペソ2章2節は、サタンの支配が「この世の流れ」として現れることを語ります。サタンは個人を順番に訪問するのではなく、世界全体の価値観・文化・思想の「空気」を通して働きます。 「空中の権威」とは、空そのものではなく、人の社会・心・文化に存在する目に見えない影響の層です。   サタンは世界全体の価値観・文化・思想の「空中(spiritual atmosphere)」を支配し、人々の思考や価値観を神から離す方向へ傾けます。「不従順の子らの中に働く霊」とは、神に背く心を活性化させるサタンの力のことです。   しかし――信仰者はその「空気の中」に生きながらも、その支配の中にはいないのです。なぜなら、彼らの国籍は天にあり(ピリピ3:20)、支配者はサタンではなくキリストだからです。   7. 「探し回る」とはどういうことか 「あなたがたの敵である悪魔が、ほえる獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(1ペテロ5:8)    この「探し回る」という表現を読むと、悪魔が地上を歩き回り、個々の家を訪ねているように思うかもしれません。しかし、ペテロが意図しているのは、世界全体に及ぶ働きです。   ギリシア語の「歩く」(περιπατεῖν)は、単なる移動ではなく「生き方」や「支配のあり方」を表す言葉です。 聖書では―― 「霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)=御霊の導きに従って生きること。 「この世の流れに従って歩んでいた」(エペソ2:2)=神に背く生活。   したがって、「悪魔が探し回る」とは、サタンが全世界の中で、自分の支配を拡張するように働くことを意味します。彼は同時的・構造的に働き、個人を順番に訪ねるのではなく、社会の仕組みそのものを通して人を捕らえます。

  • 病、災害、死に対する神の主権1 ヨブ記

    2025.10.12  豊川の家の教会 礼拝メッセージ  病、災害、死に対する神の主権   病、災害、死に対する神の主権がどのようなものであるかを聖書から理解して行きましょう。 選ばれている人々と選ばれていない人々、それぞれに病、災害、死の意味は大きく変わります。このことを最初に心において忘れないようにしてください。   Ⅰ.異端の教えの主張  1. 神の主権を認めない考え方の主張  「病気は罪の結果である。だから悔い改めれば癒される。」 この誤った教えはしばしば「因果応報の教え(retribution theology)」と言われます。この教えは旧約のヨブ記の友人たちが代表として聖書の中に現れます。   ヨブ記の中で、ヨブの友人たち(エリファズ・ビルダデ・ツォファル)が「ヨブの苦しみは罪の罰」だと主張して責める場面がいくつもあります。   ・エリファズの発言(ヨブ記4:7–8) 「思い出してみよ。罪のない者が滅びたことがあるか。どこで正しい者が断たれたことがあるか。私の見たところでは、不義を耕し、害悪の種を蒔く者は、それを刈り取る。」 エリファズは「人は罪を犯すから苦しむ」と主張し、ヨブの苦難を「彼の隠れた罪の当然の報い」と見なしています。   ・ビルダデの発言(ヨブ記8:4–6) 「もしあなたの子どもたちが神に罪を犯したのなら、神は彼らをその咎のために捨てられたのだ。だが、もし、あなたが神を熱心に求め、全能者に祈るなら、あなたが潔白で正しいなら、神はすぐにあなたのために立ち上がり、あなたの住まいを回復してくださるだろう。」 ビルダデはヨブの子どもの死を「彼らの罪の結果」と断定し、ヨブ自身も「悔い改めれば回復できる」と因果応報的に語ります。  ・ツォファルの発言(ヨブ記11:4–6) 「あなたは言う、『私の教えは純粋だ。私は神の前に潔白だ』と。しかし、どうか神が語り、あなたに答え、知恵の奥義を明らかにしてくださるように。神があなたの罪よりも少なく罰しておられることを知るがよい。」 ツォファルは、ヨブが「むしろ本来受けるべき罰より軽く罰されている」と言い放ち、ヨブの病と苦しみを神の罰と決めつけます。   神の最終的な裁き(ヨブ42:7) さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主は手マン人エリフェズに仰せられた。 「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりのともに向かって燃える。それは、あなた方がわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ・ (ヨブ記42章7節)   神ご自身が、友人たちの教え―神は「罪が病の原因である」という報いの神学―を誤りとして神の怒りを燃やされています。   <まとめ> 登場人物 聖句 内容 エリファズ ヨブ4:7–8 「罪のない者が滅びたことはない」=因果応報の教え ビルダテ ヨブ8:4–6 「子どもたちが罪を犯したから死んだ」 ツォファル ヨブ11:4–6 「神はおまえの罪より軽く罰している」 神の裁定 ヨブ42:7 「おまえたちは真実を語らなかった」=異端へ教えへの怒り この一連の流れが、まさに「罪が原因だとして病を説明する異端の教えの原型」です。 ヨブ記全体は、「義人の苦しみは罪の罰ではなく、神の主権的摂理の中にある」という真理を啓示しています。   2. ヨブの友達3人の理屈構造 ⑴.神は正しい者を祝福し、罪人を罰する。 ⑵.病気は罰である。 ⑶.ゆえに病気になった人は、何らかの罪を犯している。 ⑷.その罪を悔い改めれば、病気は癒される。   この理屈は一見「正義の神」を擁護しているように見えるが、実際には神の主権を人間の行いの下においています。 神の怒りはこの異端の教えの上にあります。  Ⅱ. 聖書における誤りの指摘  1. ヨブ記の例(ヨブ2章)  ヨブの友人たちは、「ヨブが苦しんでいるのはヨブが行った罪のせいだ」と非難した。しかし神は明言される: 「あなたがたはわたしについて真実を語らなかった」(ヨブ42:7)すなわち、人の行いの罪によって病や苦しみが来たと結びつける教えは神の主権を卑しめるものであり、神への冒涜である。   2. ヨハネ9:1–3 「この人が生まれつき盲目なのは、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現れるためである。」  イエス・キリストは、罪と病の単純な因果関係を完全に否定された。病は神の栄光の現れの機会であり、神の摂理のもとにある。    Ⅲ. 現代にある因果応報 異端の教えと聖書の教え   1.因果応報の教えは、誤った神学にあり、福音を「因果応報」にすり替え教える。 異端の教え 内容の特徴 根本的誤謬 繁栄の神学 信仰と献金によって病と貧困から解放される 神の恵みを報酬化する「取引の神」像 先祖の罪の呪い 先祖の罪の呪いが子孫の病気として現れる 罪責と罰の関係を「血統」に拡大する 悪霊の攻撃 病気は悪霊による攻撃、祈りで追い出せる 悪霊に因果を転嫁し、神の摂理を否定 律法主義 神の祝福・呪いを行いで決定する 義認の恵みを破壊し、十字架の意味を無化 これらはいずれも、神の主権を否定し、福音を人間の罪の結果、罰であると変える。 2. 聖書の教え ⑴.神の主権と摂理のもとにある病 病は信仰者にも、「未信者」にも神の摂理のもとで病は起こります。しかし、「目的」と「意味の現れ方」は、選ばれた者と未信者とで根本的に異なります。 ⑵.普遍的摂理 ― 病はすべて神の主権下にある カルヴァンは『キリスト教綱要』I.16章でこう述べています:「何ひとつ偶然はない。人の病も、災害も、死も、神の御旨の外では起こらない。神の手の外に出るものは一つもない。」ゆえに、信者も未信者も、病の出来事そのものは神の主権的摂理の下にあります。これは自然的因果ではなく、「創造主の統治秩序」に属するものです。  ⑶.選ばれた者における病 ― 聖化の道具・父の訓練 ヘブル12:6–10は、信者に対して次のように語ります:「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子をむち打たれる。」 <カルヴァンはこれをこう解釈します>:「神は御子たちを罰するためではなく、御自分のかたちに似せるために鍛錬する。」 (『綱要』III.8.5) したがって信者の病は、神の怒りのしるしではなく、聖化と御旨の実現のための恵みの手段(discipline in love)です。神の父なる愛の中で、罪の残滓を清め、天への備えとして用いられます。  ⑷. 未信者における病 ― 裁きの前触れ・悔い改めへの呼びかけ 一方、未信者の病も同じ摂理下にありますが、その目的は異なります。カルヴァンは『綱要』I.17.1でこう区別します:「神は同じ出来事をもって、信者を清め、悪人を罰する。」  つまり、      • 信者にとっての病=父の愛の訓練      • 未信者にとっての病=神の義の警告、あるいは裁きの予告  しかし、ここでもなお、神の慈愛は現れています。ローマ書2:4にあるように、「神の慈愛はあなたを悔い改めに導くためである。」神は病を通して、未信者にも悔い改めの機会を与えられるのです。 ゆえに未信者の病も、「無意味な苦痛」ではなく、神が救いへと招く「外的召し(external call)」としての摂理なのです。

  • 病、災害、死に対する神の主権 ヨブ記(ショート)

    2025.10.8 The Word for you 病 、災害、死に対する神の主権がどのようなものであるかを聖書から理解して行きましょう。 選ばれている人々と選ばれていない人々、それぞれに病、災害、死の意味は大きく変わります。このことを最初に心において忘れないようにしてください。   1. 神の主権を認めない考え方の主張 「病気は罪の結果である。だから悔い改めれば癒される。」 この誤った教えはしばしば「因果応報の教え(retribution theology)」と言われます。この教えは旧約のヨブ記の友人たちが代表として聖書の中に現れます。   ヨブ記の中で、ヨブの友人たち(エリファズ・ビルダデ・ツォファル)が「ヨブの苦しみは罪の罰」だと主張して責める場面がいくつもあります。   エリファズの発言(ヨブ記4:7–8) 「思い出してみよ。罪のない者が滅びたことがあるか。どこで正しい者が断たれたことがあるか。私の見たところでは、不義を耕し、害悪の種を蒔く者は、それを刈り取る。」 エリファズは「人は罪を犯すから苦しむ」と主張し、ヨブの苦難を「彼の隠れた罪の当然の報い」と見なしています。   ビルダデの発言(ヨブ記8:4–6) 「もしあなたの子どもたちが神に罪を犯したのなら、神は彼らをその咎のために捨てられたのだ。だが、もし、あなたが神を熱心に求め、全能者に祈るなら、あなたが潔白で正しいなら、 神はすぐにあなたのために立ち上がり、あなたの住まいを回復してくださるだろう。」 ビルダデはヨブの子どもの死を「彼らの罪の結果」と断定し、ヨブ自身も「悔い改めれば回復できる」と因果応報的に語ります。   ツォファルの発言(ヨブ記11:4–6) 「あなたは言う、『私の教えは純粋だ。私は神の前に潔白だ』と。しかし、どうか神が語り、あなたに答え、知恵の奥義を明らかにしてくださるように。 神があなたの罪よりも少なく罰しておられることを知るがよい。」 ツォファルは、ヨブが「むしろ本来受けるべき罰より軽く罰されている」と言い放ち、 ヨブの病と苦しみを神の罰と決めつけます。   2.神の最終的な裁き(ヨブ42:7) さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はエマン人エリフェズに仰せられた。 「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりのともに向かって燃える。それは、あなた方がわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ・ (ヨブ記42章7節)   神ご自身が、友人たちの教え――神は「罪が病の原因である」という報いの神学――を誤りとして神の怒りを燃やされています。   3.まとめ 登場人物  : 聖句 :内容 エリファズ :ヨブ4:7–8 :「罪のない者が滅びたことはない」=因果応報論 ビルダデ :ヨブ8:4–6  :「子どもたちが罪を犯したから死んだ」 ツォファル:ヨブ11:4–6  :「神はおまえの罪より軽く罰している」 神の裁定:ヨブ42:7 :「おまえたちは真実を語らなかった」=誤った教えの否定   この一連の流れが、まさに「罪が原因だとして病を説明する異端の教えの原型」です。 ヨブ記全体は、「義人の苦しみは罪の罰ではなく、神の主権的摂理の中にある」という真理を啓示しています。   4. ヨブの友達3人の理屈構造 神は正しい者を祝福し、罪人を罰する。 病気は罰である。 ゆえに病気になった人は、何らかの罪を犯している。 その罪を悔い改めれば、病気は癒される。   この理屈は一見「正義の神」を擁護しているように見えるが、実際には神の主権を人間の行いの下においています。 神は怒りはこの教えの上にあります。

  • 不品行を避けなさい

    2025.10.5 豊川の家の教会礼拝メッセージ   1.律法主義:「見るな!」  コロサイ人への手紙 2章20~22節 "もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。 これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。"   「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めは、禁止命令です。 禁止命令。 聖書はこれらの考えを律法主義と呼びます。律法は神が定めました。しかし、「律法主義」とは、神の恵みではなく「自分の努力・行い・規則の遵守」で義とされる(神に認められる)と考える誤りです。 このような命令では人の心を外側から縛りますが、心の中の欲は決してなくなりません。律法主義はむしろ、人間の欲を強く刺激します。   ローマ人への手紙 7章7~11節でパウロはこう言います。 "それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が隣人のものを「欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。   しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、 私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。 罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。   律法主義によって人の心のなかは、むしろ「やってみたい!」って欲望が強くなってしまうのです。 それは、人間が自分の力で罪の性質に勝とうとするやり方の結果です。 人間中心の律法主義、必ず、人間は罪の性質に負けるとパウロは教えています。   2. 神の命令は「逃げなさい!」  聖書はどう教えているのでしょうか?   日本語の新改訳聖書にはⅠコリント6:18にこう書いてあります。 注意して読みましょう。 「不品行を避けなさい」  この教えの意味を人間中心の考え方で読んではいけません。 ここで使われている「避けなさい」という言葉はギリシャ語では「φεύγε(フェブゲ)」、「逃げなさい!」という意味です。 新改訳聖書の「避けなさい」と言う表現は自分の意志の力で努力して避けるように聞こえてしまいます。それは原語から検証すると良い解釈ではありません。 何度も言いますが、自分の力で努力して良いことを行い、義を得ようとする行為は律法主義です。律法主義は自分の力で戦うように求めます。そして律法主義では、必ず、主語は「私」が主語、自分になります。   自分は律法主義に陥っているかどうかの見極め方はとても簡単です。   罪を避ける行為の主語が「あなた」はとなるとき、あなたは律法主義、人間中心となっています。 「私は避けなければならない」、「あなたは○○をしなければならない」 これは人間の欲望と「自身」の戦いです。そして「あなたは」必ず、負けます。   しかし、主語が「私には律法を守ることはできない、でも主よ、あなたの律法に従いたいです」「イエスさま、助けてください」と自分をあきらめ神にすがるとき、中心はもはや「あなた」ではなく、「神」となっています。その時、あなたは御霊によって歩いています。それはもはや、あなたの欲望とあなたの戦いではなく、あなたの欲望と「御霊」の戦いです。そしてあなたは「御霊」が勝利するのを目撃して驚き、神をほめたたえる者となるでしょう。   「逃げなさい!」 「不品行から逃げなさい!」 「私には律法をまもれない、イエスさま、私を助けてください」 神の主権、神が中心におられます。   その欲望に襲われる、まさにその時とき、「欲情の思い、考えの衝動」からあなたの心は天を仰ぎ、神に祈りに入ります。「祈りのなかで神に助けを求めること」 自分をあきらめ、イエスさまに助けを求めるのです。 •動画を前に「自分で頑張ってがまんする」のではなく、「神のもとに逃げなさい」 •ゲームを前に「自分で頑張って我慢する」のではなく、「神のもとに逃げなさい」 •人を憎む中で「自分で許さなくてはと頑張る」ではなく、「神のもとに逃げなさい」 •人生の不安のなかで苦しむのではなく、「神のもとに逃げなさい」   神への疑い、心配、人生への不安、人への怒り、憎しみ、許さない心、嫉妬、お金、健康、名誉、不品行への思い、世を愛する心、そのような思いから 「すぐに、逃げなさい!」   これは神さまが教える戦い方です。 老人、大人、子ども、ユダヤ人、ギリシャ人、日本人、金持ち、貧乏人、健康な人、病人、障害者の違いはありません。 すべて救われている人は「罪から逃げなさい!」 「欲情の思い、考えの衝動」からあなたは心で天を仰ぎ、祈りに入ります。 「逃げなさい」、祈りのなかで神に助けを求めるのです。その思いから、出てくる、抜けなさい。 3. 聖書における「逃げなさい」の意味   Ⅰコリント6:18  「不品行を避けなさい(φεύγετε τὴν πορνείαν)」  →「避ける」は「走って逃げる」「距離を取る」という強い命令。  しかし、単に体の行為を止めるのではなく、その欲望の心に入らないという意味を持ちます。   Ⅱテモテ2:22  「若い時の情欲を避け、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」  →逃げるとは、別の方向へ心を向けること。  罪から逃げると同時に、神の義と愛を追い求める方向転換が含まれています。   1)スプロールの説明:罪の欲は心の戦場  スプロールは『The Holiness of God』の中でこう言います: 「罪はまず心のうちに巣をつくり、思いと感情を支配する。 逃げるとは、思考の中で罪が根を下ろす前に、その場から退くことである。」  つまり、逃げるとは「欲望の思考過程にとどまらないこと」。 罪の映像や記憶、快楽の想像、復讐の感情に心が入りかけたとき、それを考え続けない・追わない・掘り下げない。そこから「出てくる」「抜ける」ことが、聖書の教える「逃げなさい」です。   2)神学的まとめ  「逃げる」とは律法的な「しない努力」ではなく、  神の主権と恵みのもとへ心を移す信仰の行為です。 人間中心では「自制の努力」になるが、神中心では「神の支配の中へ退避する信仰」になる。  実際にはこうです:  「罪から離れる」=「神の支配に入る」   4.神に従い、悪魔に抵抗する、神に近づくこと、逃げることは同義   ヤコブ4:7–8"ですから、 神に従い、悪魔に対抗しなさい 。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。 神に近づきなさい。 そうすれば、 神はあなたがたに近づいてくださいます 。   1)ここでヤコブは4つの命令を出していますが、文法的にも神学的にも「神に従う」→「悪魔に抵抗する」→「神に近づく」は「神へ逃げる」 一本の流れです。 つまり、「悪魔に抵抗する」とは、神に従うことの現れであり、「神に近づく」とは、逃げることの目的地です。   2) 「神に従う」と「悪魔に抵抗する」  R.C.スプロールは『Holiness of God』でこう説明します:「神への服従は、単なる服従行為ではなく、主権の認識である。神の権威を受け入れることは、同時にサタンの権威を拒否することである。」 したがって「神に従う」と「悪魔に抵抗する」は同義的関係にあります。従順は抵抗であり、抵抗は従順の形です。  3) 「逃げる」と「神に近づく」  パウロはⅠコリント6:18で「逃げなさい(φεύγε)」と命じます。この「逃げる」は単に後退ではなく、方向を持った逃走です。つまり、罪や悪魔から逃げるとは「神に向かって走る」ことです。  ジョン・マッカーサーはこう言います: 「誘惑から逃げることは臆病ではない。それは信仰の積極的行動であり、神の臨在に避難することだ(refuge in His presence)。」  したがって、「逃げる」と「神に近づく」は異なる命令形でも、内容的には一体です。逃げる方向が神に向かい、それは神に近づく行為そのものです。そして神、ご自身が助けてくださいます。   4) 福音が教える逃げ方(フェブゲ:φεύγε)  聖書が「逃げなさい」と命じるとき(Ⅰコリント6:18、Ⅱテモテ2:22)、それは単なる外的行動―― その場から離れるという行為―だけを意味しているのではありません。 それは、 心の中に生じた罪の欲望・衝動・思考から逃げること を意味しています。R.C.スプロールはこのことを、「心の中の戦場から逃げる霊的行為」と呼びました。   罪はまず心の中で形を取り、思い・感情・意志を支配します。だから神は、選ばれた者の心の中に「逃げなさい」という思いを与えられます。この“逃げなさい”という思いは、神の恵みの働きであり、 聖霊が内側でくださる警告の声 です。 あなたは、その声を聞くときにわかります。 「ここにとどまってはいけない」「考え続けてはいけない」「見続けてはいけない」—その御霊の思いに逆らわず、 すぐに従って逃げること です。  そのとき、こう祈ってください。 「神さま、私は無力です。自分の力では勝てません。どうか助けてください。」 それは敗北ではなく、 信仰の行為 です。逃げると言うことは、信仰によって 神の主権へ、神の支配の中へ、天と地と造られた神へ、すべてを支配しておられる方、良いことも、悪いことも、涙も喜びも、疑いも罪も死も私たちの人生のすべてを支配しておられる方へ、このお方へ逃げ帰ること だからです。  あなたは「この神の主権とキリストと結ばれている」ことを思い出してください。キリストはあなたの罪のために十字架で死なれ、復活されました。そのキリストがいつもあなたと結合されており、御霊によって「そこから逃げて私のもとに来なさい!」と命じておられるのです。その思いに従う力さえ、神があなたに与えてくださいます。だから、逃げるときにあなたは一人、孤独ではありません。逃げる者を支える方、すなわちキリストがあなたと共におられるのです。   5. 罪の性質とは?  聖書は、私たちに「罪の性質」があると教えます。これは単なる悪い習慣ではなく、アダムから受け継いだ根本的な性質です。 ローマ7:18 「私のうち、すなわち私の肉のうちには、良いものが住んでいない」 罪の性質は意志・思い・感情、体に働きかけ、そしてそれによって造られたものを通して働きかけます。 「欲しい、楽しみたい、見たい、自分は正しい、怒り、嫉妬、嘘、無責任」――心の奥からわき上がる衝動。これが「罪の性質」の姿です。   6. 誘惑と罪の誕生  ヤコブ1:14–15はこう言います。「人が誘惑されるのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」罪は外から突然やってくるのではありません。心の内側の欲が呼び水になり、外の誘惑に結びついて「罪」が生まれるのです。   7. 本当の戦いの場  だから戦いの本当の場所は、外側の世界ではなく 心の中 です。 •律法主義は心の外側を縛りますが、心を変えることはできません。 •神の命令(「逃げなさい!」)は、心の中の罪の性質に対する抵抗です。   スプロールはこう言いました。 「罪との戦いは欲望の戦いだ。欲望を直視して立ち向かうのではなく、その欲から逃げることが戦いの勝利なのだ。」   8. 福音による勝利 福音は「罪を避ける方法」を教えるのではなく人を新たにキリストの荷姿に変えていきます。     •キリストの死と復活によって、罪の支配から解放された(ローマ6:6)。     •キリストに結ばれている者には、御霊が「逃げなさい!」と内側で声を与える。     •その思いに従う力も神から与えられる。  だから「逃げる」とは単なる方法論ではなく、 神の恵みによる従順の実、それは聖化 なのです。   9. まとめ   行為 神学的意味 対象 聖句 神に従う 神の主権を認める、神の主権に従う) 神 ヤコブ4:7 悪魔に抵抗する 偽りの支配の教え(人間中心)を拒絶する サタン ヤコブ4:7 逃げる 神の主権、支配の教え(福音)に逃げ帰る 罪の性質・誘惑 Ⅰコリ6:18、Ⅱテモ2:22 神に近づく ご同上 神 ヤコブ4:8       福音が教える「逃げなさい」――神の主権と御霊の導きの中で    「罪からにげる」とは、まず、神さまがすべてを支配しておられるということを思い出すことです。 神さまはキリストにあってあなたを造り、選び、キリストと結合しました。神はあなたをいつもその御手の中で守っておられます。 だから、誰もあなたを罪に定めることは出来ません。また、罪があなたを支配することもできません。 「罪から離れる」というのは、自分の中に起こる罪の思いや欲望から心を離し、 すべてを支配しておられるあなたの神さまのもとに逃げ帰ることです。 それは、新しく神さまの支配に「入る」ということではありません。 あなたはもうすでに、キリストと結ばれて、神さまの恵みの支配の中に生かされている人 だからです。だから、 「罪から離れる」とは、キリストと結ばれているという現実に、いつも心を向ける状態 ことです。 神さまの恵みの中にとどまり、その支配の中で安心して従うこと です。    そのとき、あなたの心の中で御霊が静かに「逃げなさい」と語られます。その御霊の思いは、神さまがあなたを清くしようとしておられるしるしです。御霊は「いのちの御霊の律法」(ローマ8:2)として、外から命令するのではなく、あなたのうちでいのちの力として働き、志と行動を与えてくださる方です。    ピリピ2:13にはこう書かれています。 「神は、御心のままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、また行わせてくださるのです。 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」 ですから、御霊が「逃げなさい」と心に語るとき、それはあなた自身の決意ではなく、 神の恵みの御手が、あなたを罪から守ろうと動いている瞬間です。   その御霊の思いがあなたの心に「逃げなさい」と現れたら、つぶやかず、疑わず、ためらわずに、すぐ従いましょう。御霊はあなたに志を与えるだけでなく、従う力と喜びも与えてくださいます。   逃げるという行為は、「イエスさまが私の主です。私の神です。」と心から信頼して、御霊の導きに従ってその肉の思いから、神の主権、神のご支配の中に逃げ帰る信仰の行為です。

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