十字架の神学 ― 第二コリント4章10–12節
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- 11月8日
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2025.11.4 The Word for you 十字架の神学 ― 第二コリント4章10–12節
今日は十字架の神学について話します。ここでは、どのようにパウロが苦しみの中において伝道をしていったのか、再生と照明がどのように彼を動かしたのかということを説明したいと思います。
「私たちはいつもイエスの死を身に帯びています。それはイエスの命が私たちの身に現れるためです。」
これは第二コリントの4章10〜12節のところに書いてあります。
「私たちはいつもイエスの死を身に帯びています。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスの命が私たちの死ぬべき体において現れるためです。こうして、死は私たちのうちに働き、命はあなたがたのうちに働いています。」
この箇所は、実は「照明の神がその栄光の輝きを私たちに照らしてくださっている」という節の後に続いています。そしてその後に、パウロがどのように苦しみの中で福音を伝えたのかが語られ、その中心にこの4章10〜12節が置かれています。
ここは、十字架の神学を最も深く語った箇所の一つです。
ここには、キリストとの結合によってキリストの死と命が信仰者の生活の中に同時に現れるという真理が示されています。
これは、パウロがダマスコに行く途中に光に照らされたときの、神の照明によって悟った事実の結果です。
神の照明は人を壊し、そして新しく創造します。
信仰者は十字架と共に、キリストと共に十字架につけられて死にました。そしてキリストと共に復活し、そこから新しい命がその人の人生に現れてくるのです。
1. 「イエスの死を帯びる」とは何か
パウロは、自分の体にイエスの死を帯びていると言っています。彼は、自分の古い人が十字架で死んだという照明によって、真の信仰者がキリストの死に結ばれていることを悟りました。
ローマ書6章6節にはこう書かれています。
「私たちは、自分の古い人がキリストと共に十字架につけられたことを知っています。それは罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」
十字架に結合されている自我、また肉は、キリストの十字架に結ばれています。
パウロはこれをはっきりと悟っていました。
第二コリントの4章で「死を帯びる」と言うとき、彼は日々の苦難や迫害の中で、死に渡されていく自分を見ていました。
それは何かと言えば、神によって自分の力やプライドがごみくずのように捨て去られ、扱われ、そして自分の心――すなわちエゴ――が死に渡されていることを理解していたのです。
どれほどパウロがプライドの高い人であったか。どれほど彼が自分の力を過信していたか。そのパウロが日々の苦難や迫害の中で、その力と誇りを打ち砕かれていったのです。
そしてそれは神が行っておられることなのです。
2. 死を通して現れる命
その中において命が現れます。
その命というのは復活の命のことです。
死に渡される目的は何か。それはイエスの命が私たちに現れるためです。
パウロはこのように語ります。
すなわち、神は私たちを苦しみの中に置くことで、キリストの復活の力を私たちのうちに現されます。
あなたの本当の弱さの中にこそ、キリストの復活の力が現れるのです。
ここには、「すでに」と「いまだ」という聖化の構造があります。
すでに私たちはキリストと共に復活して生かされています(エペソ2:6)。
しかし、その命はまだ完全には現れていません(ローマ8:23)。
そのため、復活の命は信仰者の人生の中で、特に弱さや苦難――それをパウロは「死」と呼びます――を通して現れるのです。
3. 信仰者に命じられていること
ローマ書6章11節にはこう書かれています。
「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと認めなさい。」
パウロは、このキリストとの結合を事実として認めるように命じています。
さらにローマ書8章11節でもこう語ります。
「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださいます。」
キリストの御霊を持たない者は、キリストのものではありません。復活の命は、信仰者のうちに住まわれる三位一体の神によって現れます。それはキリストとの結合によるのです。
4. 福音の構造 ― 死から命へ
この「死」は、命が流れてくる源泉です。
これが神の福音を伝える構造です。
それは「僕(しもべ)の死が多くの命を生む」という構造なのです。
「死は私たちのうちに働き、命はあなたがたのうちに。」とパウロは言います。
彼は自分の力とプライドが苦難の中で砕かれるたびに、キリストと共に死んでいることを悟っていました。
そしてその死が、教会に命をもたらすと語っています。
これは単なる犠牲ではありません。
福音の働きの構造そのものです。
イエス様もこう言われました。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一つのままです。しかし、死ねば多くの実を結びます。」
この言葉は、まず何よりもキリストご自身の十字架の死を指しています。キリストは一粒の麦として地に落ち、十字架で完全に死なれました。そのゆえに、無数の人々が新しい命に生かされたのです。
ですからパウロが「死は私たちのうちに働き、命はあなたがたのうちに」と言うとき、彼は自分自身がキリストの死にあずかり、キリストの復活の命に生きていることを語っているのです。
5. 苦しみと結合の神秘
パウロ自身の苦しみは、キリストの死との結合です。
復活の命はそこから流れ出しています。
そしてその命は今も私たちに流れ、私たちを生かしています。
真の信仰者が苦しみの中で、古い自分――誇り、力、栄光、正しさ――に対して死ぬとき、その死がキリストの命を他の人に流す通路となるのです。
あなたの死が他の人を生かすのです。それが、死から命が流れていくということです。
それは自分の犠牲ではありません。それはあなたの死です。 私の死です。
神は私たちを試練と困難の中に置かれ、そこで砕き、壊されます。そして神の照明によって新しく造り変えられ、新しい創造として神の前に立つのです。
それが福音の伝道です。
それが福音を伝えるということです。
教会が成長する――それが神が与えられた方法です。
6. 苦難の中の希望
第二コリント4章8〜12節でパウロが語っているのは、単なる「苦難の忍耐」ではありません。
彼はキリストとの結合の神秘を語っています。
ダマスコへの途上でパウロは強い光に照らされ、心を貫かれました。イエスがサウロに語られ、彼は肉の目を失いましたが、心の目が開かれたのです。
真の信仰者が苦しみの中で希望を失わないのは、その苦しみがキリストの命をあらわす舞台にされているからです。そのことを照明によって悟ります。
その苦しみ、困難、絶望が、キリストの命をあらわす舞台にされていることを、神によって悟るのです。
そしてその悟りの中で、信仰者は喜びをもって生きるのです。
7. まとめ― 照明による変化
パウロは語りました。
神の輝き、御顔の光が彼の心を突き通して彼を変えました。
それが照明です。
それがパウロが言う「わかる」ことであり、「認める」ことです。
皆さんの心と魂にも、神の照明が突き通して貫き、死んでもなお喜び、キリストと共に生きているということを、甘く味わえるように変えられていくことを祈ります。
祈り
愛する天のお父様、あなたの照明を心から感謝します。
主とパウロがこのように私たちに、あなたの御言葉を通して語ってくださったことを感謝します。
主よ、あなたがパウロに与えられた憐れみと慈しみは、今も私たちに届いています。
どうか私たちが多くの人々に、あなたの素晴らしい恵みと憐れみと慈しみを届けることができますように。
愛するイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
