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黙示録8章から11章 七つのラッパと裁きの警告

10月3日
読了時間: 15分

2026.9.27 豊川の家の教会礼拝メッセージ

黙示録8章から11章 七つのラッパと裁きの警告

 

神は永遠の御心によって、万物をキリストにあって一つに集める御国の完成を定められました。その御心が、キリストの初臨によって歴史の中で実行に移され、再臨と審判を経て永遠の御国の完成に至ります。これを行っておられるのは、御座におられる神と小羊です。そして、この歴史のただ中で神はご自身の民を御霊によってキリストに結び、キリストの証人として立たせ続けられます。黙示録8章から11章は、世への警告的裁きだけでなく、その裁きと苦難のただ中で最後まで証しする神の民を描いています。

 

同じ歴史をもう一度見る

4章でヨハネがまず見たのは天の御座です。

5章では屠られた小羊が御座におられる方から巻物を受け取ります。十字架で勝利し、復活された小羊が、その封印を解くにふさわしい方です。

6章では封印が解かれ、地上に戦争、飢饉、死、迫害が現れます。その歴史を開いておられるのは小羊です。

7章には神の民が御座と小羊の前に立ち、涙をぬぐわれる姿が示されます。神が永遠に定められた御国の完成へ、歴史は進んでいます。

4章から7章と8章から11章は、御座から支配される同じ歴史を、封印とラッパという二つの巡回によって示します。どちらも六つの裁きの後に神の民を扱う挿入部があり、終末へ進みます。封印では小羊が歴史を開き、教会は迫害や災いを通ります(6章)。ラッパでは、教会を迫害する世に神が下される応報と、悔い改めを求める警告が示されます(8章から9章)。第六の封印は御怒りの大いなる日に至り(6章12節から17節)、第七のラッパは死者の審判と神のしもべへの報いに至ります(11章15節から18節)。天で起こる封印と地上のラッパは別々の出来事ではありません。御座におられる神と小羊は、キリストの初臨から再臨と審判に至る歴史を治め、永遠の御国を完成されます。

 

8章1節から5節 静けさ、祈り、祭壇の火

「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」(黙示録8章4節)

 第七の封印が解かれると天が静まり、七人の御使いがラッパを与えられます(8章1節から2節)。静けさには神の臨在と裁きを前にする畏れが響きます(ハバクク2章20節、ゼパニヤ1章7節)。聖徒の祈りが香とともに神の前に上った後、祭壇の火が地へ投げられます(8章3節から5節)。これは、神が迫害される民の訴えを聞き、地上に裁きを下されることを示します。私たちの祈りが神を動かす独立の力なのではありません。屠られた小羊に結ばれ、キリストの執り成しに支えられた祈りを、御座の神が受けてくださるのです(ローマ8章34節)。

6章9節から11節では殺された聖徒が「いつまで」と叫びます。8章ではその祈りが御座の前に上り、祭壇からの火が地に下ります。このつながりによって、七つのラッパは迫害する世への神の応報であると分かります。9章20節から21節が人々の悔い改めない姿を示すので、裁きには悔い改めを求める警告も含まれます。

聖徒の祈りは香とともに御座の前に上ります。十字架で贖いを成し遂げ、今も執り成しておられるキリストに結ばれた者として、教会は神に祈ります。その祈りを聞かれる主が、地上の歴史も治めておられます。

 

8章6節から13節 四つのラッパと出エジプトの災い

第一のラッパ。雹と火が血を交えて地に投げられ、木と草が焼かれます(8章7節)。出エジプト9章23節から25節では雹と火がエジプトの地を打ちました。この幻の「地」は人間が生き、食物を得る陸地です。「地に投げられた」という向きも、裁きが御座の神の支配の下で地に及ぶことを示します。したがって第一のラッパは、キリストの初臨から再臨・審判に至るまで陸地に生じる破壊や生活の損失を、神が迫害する世に与える限定的な裁きと警告として描きます。草木そのものを「ある国」や「ある思想」と特定する必要はありません。

 

第二のラッパ。燃える大きな山の「ようなもの」が海に投げられ、海の生き物と船が損なわれます(8章8節から9節)。「ようなもの」とあるため、実際の山の幻ではありません。山が海へ移る姿は大きな動揺を思わせます(詩篇46篇2節)。ここで損なわれるのは海と船です。第一のラッパが陸であったのに対し、第二は航海、船、人命を含む海上の損失を表します。海も神の支配を離れた安全な場所ではなく、神が世に警告を与える領域となります。

 

第三のラッパ。松明(たいまつ)のような星が川と水源に落ち、水が苦よもぎとなって多くの人が死にます(8章10節から11節)。星が「天から落ちる」姿は、ここでも地上の水が神の裁きの下に置かれることを示します。苦よもぎは苦しみを表す旧約の言葉です(哀歌3章19節)。第一が陸、第二が海であるのに対し、第三は飲み水を含む内陸の水を打ちます。命を支える水が苦しみと死をもたらすものに変わる幻によって、キリストの初臨から再臨・審判に至るまで水にかかわる災厄さえ世への警告として用いられることを示します。

 

第四のラッパ。太陽、月、星の三分の一が打たれ、昼も夜も光が失われます(8章12節)。出エジプト10章21節から23節にはエジプトへの暗闇の災いが記されています。第四の幻は、地、海、飲み水の次に、人の生活を照らす天の光にまで裁きが及ぶことを示します。この幻は、天体の働きが異常になって地上の生活に害が及ぶ事柄まで含めて、神の警告を示します。四つの幻を合わせれば、神に逆らう世が陸にも海にも水にも空にも宇宙にも、御座から離れた逃れ場を持たないことが見えてきます。

これら四つのラッパは、人々の地上の生活に及ぶ裁きを示します。木々の三分の一、海と水の三分の一、天の光の三分の一という表現は、被害が最終審判の全面的なものにはまだ至っていないことを示します(8章7節から12節、16章1節から9節参照)。エジプトの災いが神の民を圧迫する権力への裁きであったように、ここにも教会を迫害する世への応報があります。9章20節から21節によれば、災いを生き残った人々は悔い改めません。この記述から、ラッパには世に立ち返りを求める警告の意味もあると分かります。

 

神の民も災害によって傷つき、命を失うことがあります。7章で神のしもべに印が押され、9章4節では印のない人々がいなごの害を受けると区別されます。一方、6章9節から11節には殺された聖徒が現れ、11章7節でも証人が殺されます。この二つを併せて読むと、印による守りは地上での無傷ではなく、小羊に属する者が神の裁きによって最終的に滅ぼされないことを指します。

 

「悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということをせず」(黙示録9章20節)

 9章 底知れぬ所のいなごと解き放たれる騎兵

第五のラッパ。天から落ちた星に底知れぬ所の鍵が与えられ、煙といなごが上ります(9章1節から3節)。星をサタンと読む根拠は、サタンが天から落ちると語られたルカ10章18節との対応です。底知れぬ所を悪霊が恐れたルカ8章31節も背景です。煙が日と空を暗くする幻は、悪の欺きと霊的な暗闇が人を覆う姿を表します。

 

いなごは出エジプト10章やヨエル2章の災いを思わせますが、草木を食べず、神の印のない人々を苦しめます(9章4節から5節)。この本文上の違いにより、いなごを通常の虫害でなく、悪の勢力が不信仰な人々の心と生活にもたらす恐怖と苦悩として読みます。王の名が「滅ぼす者」であることも、この意味を確かめます(9章11節)。

ある人々はこのいなごを旧約聖書のヨエル書を誤って解釈し、自らをヨエルの軍隊と呼びます。彼らは聖霊が注がれた信仰者たちが終末において福音を伝えて世界規模のリバイバルを起こす。それが自分たちであると主張します。しかし、神がヨエル書を通して語ることは全く違います。いなごの軍隊は神の裁きです。神はいなごを裁きとして用います。そしてイスラエルに悔い改めを求めます。神に立ち返ることを求めるのです。この構造は9章でも同じように語られます。

 

第一から第四は地上の生活を打ちました。第五では世の内側にある霊的苦悩が示されます。しかし鍵は「与えられ」、期間は五か月に限られます。サタンも御座の神から独立して働けません。

 

第六のラッパ。金の祭壇の角から声が出て、ユーフラテスにつながれた四人の御使いが解かれ、巨大な騎兵が現れます(9章13節から16節)。祭壇の声は8章3節から5節でささげられた聖徒の祈りへの神の応答とつながります。ユーフラテスは、神の民を脅かしたアッシリアやバビロンの方角を思わせます(イザヤ8章7節から8節、エレミヤ46章10節)。馬の口から火、煙、硫黄が出る戦場の幻は、個別の国や兵器を当てるためではなく、人を殺す戦争の力を描くものです(9章17節から18節)。「二億」という数も軍勢の途方もない規模を示します。ここにはキリストの初臨から再臨・審判に至るまで繰り返される戦争、とりわけ終わりに向けて激しくなる戦争が描かれています。封印では、神の民も世とともに通る苦難として戦争が現れます。ラッパでは、戦争は迫害する世に対する裁きと悔い改めを求める警告として示されます。四人が神の定めた時刻までつながれていたことは(9章15節)、その恐るべき出来事も御座の支配の外にはないことを示します。

 

「神の奥義は、神がご自分のしもべである預言者たちに告げたとおりに実現する。」(黙示録10章7節)

 

9章20節から21節では、災いを生き残った人々が偶像礼拝と罪を悔い改めません。ここが第五、第六のラッパの意味を確かめる結びです。悪の力に苦しめられ、戦争で多くの人が殺されても、世はなお神に立ち返らない。しかし、そこで神の証しが終わるのではありません。10章ではヨハネが御言葉を受けて「もう一度預言しなければならない」と命じられ、11章では二人の証人が粗布を着て証しします。裁きの歴史のただ中で、神は御霊によってご自身の民を立たせ、キリストを証しさせ続けられるのです。

 

「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。」(黙示録11章15節)

 

10章 巻物を食べて、再び語る

第六と第七のラッパの間に、ヨハネは小さな巻物を受け取り、食べます。力強い御使いの姿にはダニエル10章5節から6節、巻物を食べてから神の言葉を語る使命にはエゼキエル2章から3章が響きます。巻物は口には蜜のように甘く、腹には苦くなります(10章9節から10節)。神の御言葉は救いの喜びであると同時に、罪を告発し、迫害する世に向かって語らなければならない証言でもあります。証人の務めは、人間的な成功や楽な人生を意味しません。御言葉を受け、その御言葉に生かされ、その御言葉ゆえに苦しみながらも語り続ける務めです。七つの雷の言葉は封じられます(10章4節)。知らされていないことが残る一方、第七のラッパの時に神の奥義が完成することは告げられます(10章7節)。そしてヨハネは「多くの民族、国民、言語、王たちについて、もう一度預言しなければならない」と命じられます(10章11節)。10章は、11章の二人の証人へ向かう備えです。神は裁きの歴史のただ中で、御言葉を受けた者を証人として立たせ続けられます。

 

11章1節から6節 測られた神殿と、主を待ち望む二人の証人

ヨハネは神殿、祭壇、礼拝する人々を測るよう命じられ、外庭は測らずに残します(11章1節から2節)。エゼキエル40章から41章の測量には神がご自分の場所を知り定める姿が示されます。ここでは建物とともに「礼拝する人々」も測られ、新約は神の民を神の宮と呼びます(第一コリント3章16節、エペソ2章21節)。この対応から、神殿と礼拝者の測量を、神がご自分の民を知り守られるしるしと読みます。7章の神の印とのつながりもあります。外庭と都は踏みにじられます。神の守りは迫害を受けない約束ではなく、迫害の中でも神に属する民が失われないという約束です。

主の民が一つのからだであるのは、キリストに結ばれているからです。迫害によって地上の集まりが傷つけられ、信仰者が弱さや恐れを覚える時にも、神はご自身の民を知り、失われるままにはされません。神の守りとは、苦難を一切経験しないことではなく、苦難の中でもキリストに属する者を最後まで保たれることです。

 

二人の証人は粗布を着て1260日間、預言します(11章3節)。彼らは「二本のオリーブの木」と「二つの燭台」と呼ばれます(11章4節)。ゼカリヤ4章では、神の働きが「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」成し遂げられることが示されます(ゼカリヤ4章6節)。また黙示録1章20節は燭台を教会と明示します。したがって、この二人の証人は、人間的な強さによって世に立ち向かう特別な二人ではなく、御霊によって支えられ、キリストを証しする神の民を象徴していると読みます。「二人」であることには、証言を二人以上で確かめる律法の背景もあります(申命記19章15節)。ここで中心なのは人数そのものではなく、神ご自身が世の前に確かな証言を立てておられることです。

 

この二人の証人の姿は、私たちが「主を待ち望むキリストの証人」として見てきた信仰者の姿と重なります。証人は痛みを感じない人でも、恐れを知らない人でも、疲れない人でもありません。粗布を着ていること自体が、彼らの証言が苦難の中でなされることを示します。それでも神は御霊によって彼らを支え、キリストを最後の望みとして証しさせ続けられます。証人の力の源泉は、人間の能力や精神力ではなく、キリストとの結合から流れ出るいのちを御霊が働かせてくださることにあります。だから黙示録11章の証人は、「勝ち続ける強い人」の象徴ではなく、試練の中で神に支えられ、最後までキリストを証しする神の民の姿なのです。

 

11章2節の42か月と3節の1260日は、一か月を30日と数えれば同じ三年半です。この数の旧約背景は、聖徒が圧迫される「一時と二時と半時」(ダニエル7章25節)です。完全を表す七年の半分という形から、神の民の苦難には神の定めた限界があると読みます。

 

11章2節の42か月と3節の1260日の期間はキリストの初臨から再臨・審判までを示します。12章からそれを理解できます。男の子(イエスキリスト)が御座に引き上げられた後、女は1260日間、神に養われ、竜はイエスの証しを持つ者たちと戦います(12章5節から6節、14節、17節)。獣が聖徒と戦う期間も42か月です(13章5節から7節)。これらの対応から、三年半は、キリストの初臨・十字架・復活・昇天によって決定的な勝利が現されてから、再臨・審判に至るまでの、神の民の証しと苦難の期間を象徴すると読みます。証人の歩みには終わりがあり、その終わりを決めるのは獣ではなく神です。


2人の証人の口から火が出る姿には、神の言葉を火と呼ぶエレミヤ5章14節が響きます。

11章5節が「口」から火が出ると記すことも、証言とのつながりを示します。雨を閉ざす姿はエリヤ(列王記第一17章1節)、水を血に変える姿はモーセ(出エジプト7章20節)を思わせます。これは証人たち自身が超自然的な力を誇示する姿ではありません。モーセやエリヤと同じように、神の御言葉を携えて世の前に立つ証人の姿です。証人たちの口からでる火はイエスの証です。そして彼らの証言を退ける世に対して、神ご自身が裁きの権威を持って裁かれるのです。

 

11章7節から14節 証人は殺される。しかし証しは滅びない

証人が「証しを終えると」、底知れぬ所から上る獣が彼らと戦って殺します(11章7節)。ダニエル7章では獣のような王国が聖徒を攻撃し、黙示録13章7節でも獣に聖徒と戦うことが「許され」ます。重要なのは「証しを終えると」という言葉です。獣が証人の使命を途中で奪ったのではありません。神が定められた証しを終えた後に、獣が彼らの肉体を殺すことを許されるのです。これは、神の民が迫害や殉教から免れるという約束ではありません。むしろ、殺されるところまで追い詰められても、神が定められた証しは失敗しないことを示します。証人たちの強さは、死を避けることではなく、死に至るまでキリストを証しつづけるところにあります。

 

遺体が横たわる「大きな都」は、「霊的に」ソドム、エジプトと呼ばれ、「彼らの主も十字架につけられたところ」と記されます(11章8節)。最後の句は歴史上のエルサレムを思わせます。しかしソドム、エジプトという異なる名を重ね、「霊的に」と記すことは、一つの地名を越えた象徴的な意味を示します。ソドムの罪、エジプトの圧迫、キリストの拒絶を受け継ぐ、神に逆らう世の都です。世は証人の死を見て喜び、贈り物を交わします(11章9節から10節)。人間の目には、キリストの証が完全に消されたように見えます。完全に福音が地上から消えたように見えます。

 

しかし三日半の後、神から命の息が証人に入り、彼らは立ち上がります(11章11節)。神の教会は決して消えません。神の息で骨が立つエゼキエル37章5節から10節が背景にあります。続いて証人は天からの声に招かれ、敵の見ている前で上ります(11章12節)。ここで主語は最後まで神です。証人が自分で復活するのではありません。神が命の息を与え、神が立たせ、神が彼らの証言を公に正しいと示されます。二人の証人は一時的に敗北したように見えても、キリストに結ばれた神の民の証は獣によって無にされません。神が最後まで保ち、ご自身の証人として完成へ導かれるからです。


11章15節から19節 第七のラッパと完成した御国

第七のラッパで、世界の王権が主とそのキリストのものとなったと宣言されます(11章15節)。11章18節には死者の審判、神のしもべへの報い、地を滅ぼす者への裁きが並びます。これらが再臨の時の最後の審判と永遠の御国の完成を示す根拠です。封印が6章12節から17節で御怒りの日に至るのと同じく、ラッパの巡回もここで再臨の結末に至ります。天の神殿が開かれ契約の箱が見えるのは(11章19節)、神の臨在と契約の旧約の背景に照らし(出エジプト25章21節から22節)、御座の神が約束を成し遂げられる姿として読みます。

4章から7章では、小羊が封印を解き、最後に神の民は御座と小羊の前に立ちます。8章から11章では、御座から警告が下り、御言葉を受けた神の民が証しし、第七のラッパで最後の審判と御国の完成が告げられます。したがって8章から11章の中心は、恐ろしい裁きの一覧ではありません。御座の神が裁きの歴史を支配し、そのただ中でご自身の民を御霊によって支え、キリストの証人として最後まで歩ませ、ついには御国を完成されることです。

 

御座と小羊を仰ぐ

神の民も戦争や災害に遭い、迫害され、命を落とすことがあります。7章の印も、11章の測量も、地上で無傷でいられるという約束ではありません。御座の神が小羊に属する民を知り、苦難の中でも最後まで守られるという約束です。二人の証人は、その守りがどのように現れるかを示します。彼らは苦しみ、殺されさえします。しかし、神が定められた証を終えるまで立たされ、死の後にも神によって立たされます。神のみことばは決して消えることはありません。

 

神は永遠の御心によって御国の完成を定められました。

 

御座におられる神と屠られた小羊が、キリストの初臨によって御心を歴史の中で実行に移され、再臨と審判を経て永遠の御国を完成されます。地ではラッパが警告を告げます。そのただ中で神は、ご自身の民を御霊によって支え、主を待ち望むキリストの証人として歩ませます。証人は人間的に強いから立つのではありません。試練の中で自分への望みを失い、キリストだけを最後の望みとし、キリストとの結合から流れるいのちによって最後まで支えられるのです。世が彼らを弱いと見なし、証しを封じ、ついには殺したように見えても、神の御心は止まりません。神は証人を立たせ、第七のラッパで審判と御国の完成を現されます。だから私たちは、地上の災いだけを見るのでも、自分の力を見つめるのでもありません。御座におられる神と屠られた小羊を仰ぎ、御霊によって、最後までキリストの証人として歩むのです。

 

救いは御座に着いておられる私たちの神と子羊にある。(黙示録7章10節)

 

 

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