御霊によって主に従う
2026.10.7 The Word for you
全てのキリストを信じる人々、真の信仰者には、霊的な葛藤、全て、生活の中において罪との葛藤があります。これを霊的な戦いと聖書は言います。霊的な戦いとは罪との葛藤のことです。そして、聖書は「御霊によって罪と戦って主に従う」ということを教えます。私たちは、小さなことから、霊的戦いに対して視点を持って戦っていきます。
【ルカの福音書 16章10節】 「最も小さな事に忠実な人は、大きな事にも忠実であり、最も小さな事に不忠実な人は、大きな事にも不忠実です。」
イエス様は、小さなことにも忠実であるように教えています。むしろ、小さなことに忠実であるように教えています。それは、私たちの日々の生活の中にある約束や、託された責任を軽く扱ってはならないと言っています。
私たちの日々の生活の中で、神様が私たちにみことばを通して語ってくださっていることを、軽く扱ってはいけません。ですから、すでに正しいと分かってることに、今日、今従うということが、問われています。先伸ばししたりせずに、今分かってること、明らかに目の前に示されてることに従いなさい。子供たちもそうです。約束を守る、嘘をつかない、自分の責任を果たす、間違えたらその間違いを認めて謝り、行動を改める。
信仰は、ただ礼拝に参加する、集会に行くだけではなく、こうした日々の具体的な行動に現れます。
どちらかというと私たちは、礼拝を重視して日々の行動を軽く扱うきらいがありますが、神様は礼拝を朝も昼も夜も行うように言います。それは、私たちの生活の中で神を礼拝するということです。ですから、ここで今言っていることは、社会常識だけではなくて、社会常識というのはどちらからと言うと1番守らなければいけない当たり前のことですが、イエス様は心の中を言っています。心の中の誠実さ、心の中の責任、そしてそれが実際に聖書にかなうことを実践する。
私たちはともすると、「誠実だとか約束を守ることによって救われる」というような、自分の得点にします。私たちが良いことをしたら、何か救われたような気分になったり、何か、「あ、これで正しいんだ」と思ったりしますが、それは、救われるための方法ではないということをもう1度言います。
神が私たちを救う。救いは絶えず神からです。御霊によって、新しい心を与えてくださる、その救いの実として、忠実な歩みが生まれます。
この「御霊によって」という言葉、「御霊に満たされる」「御霊によって歩く」「御霊によって祈る」、聖書には、多く「御霊によって」「御霊に満たされなさい」と書かれていますし、私も「御霊によって」ということをよく話しますが、この、「御霊によって」が分からない人がものすごく多くいます。多分キリスト教の信者ということを、信仰者ということを自称している人のほとんどが、「御霊によって歩く」「御霊に満たされる」という言葉を、具体的に、自分が自主的にそれを行うことができると理解してる人は少ないと思います。
むしろ「御霊に満たされる」と「満たされなさい」ということについて、いろいろな教えが世の中には出回っています。よくあるのは、集会の中で音楽を聞いて、その詩に感動し、その場で涙が出てきた、または、奇跡を体験したと、そういうことを「御霊によって満たされる」と理解して、それを求めるようになります。しかしそれは、「御霊によって満たされる」「御霊に満たされる」ということでしょうか?そして、それによってその信仰者は罪に打ち勝っていくのでしょうか?
聖書には「御霊によって罪に打ち勝つ」「御霊によって罪を殺す」という教義が、しっかりと言われています。「御霊によって歩くなら肉の行いを殺す」とも書いてあります。
しかし、そのように「御霊に満たされる」ということを理解せずに、先ほど言った違った方法で、「満たされる」ということを実践していくと、どうなってしまうのでしょうか。それを実践してる人たちは、その教えの集会に出ている時は確かに心に高揚を覚えて、確かに心の感動を覚えて、確かに涙が溢れて、確かに喜びが溢れますが、それはその時だけになっていくのではないでしょうか。そして、その結果として、そういうところで教えてもらう人たちは、代わりとして罪の告白を何回もさせられていきます。そして、罪を行ってることに対して「それはあなたの信仰が弱いから、祈り求めたら山も動く。だから、強い信仰をもらうように祈りなさい、断食しなさい。」または、「それは先祖の祟りだ」とか、「あなたが行った罪の呪いだから、それを断ち切らなければならない」という、方法に入っていきます。
しかし、最初に話している「御霊に満たされなさい」はどこかに行ってしまいます。「御霊に満たされなさい」は、集まり、皆で音楽を聞いて賛美し、その後に律法に従う強制、また悪霊と戦うという、違った意味での霊的戦いに招かれていきます。
パウロはこう言います。約束を守り誠実に行動し、責任を果たす。私たちは神によってキリストに結ばれて、御霊によって新しく造られると聖書は言います。キリストとの結びつき、結合が、新しい命と日々の歩みの土台です。神は罪を許すだけでなく罪に支配されていたものを、御霊によって罪と戦って、神に従って生きるものへと造り替えられます。
だから、礼拝に、集会に来た時だけ信仰者らしく振るまって、日常ではこの世の欲に従いながら、「信じているから救われる」と安堵する考えは、福音に反します。
聖書の言葉で罪を覆い隠して、悔い改めを覆い隠して、不要にしてしまう、そのような理解、考えは人をキリストには導きません。滅びに向かっている人に偽りの安心を与えていきます。偽りの救いを与えてしまいます。そしてその人は罪を手放すことを自分でしません。なぜならその人は、自分の力で律法を守ろうとするからです。なぜならその人は自分の罪の呪いでそれが自分に来ていると思ってるので、それを断ち切ろうとするからです。また、自分を正当化しようとします。
礼拝に出席するだけで御霊に満たされることはありません。その行為は御霊を悲しませます。礼拝で信仰者らしく振るまっても、不忠実です。それが消え去ることではありません。礼拝の出席や、礼拝に来て、皆の前で手を組んで、悔い改めの祈りをしたとしても、全くもって忠実な歩みの代わりにはなりません。御霊による神の支配は、そのようなものではなく、神の支配は、真の礼拝だけでなく、家庭にも仕事にも、また人との関係にも及びます。
問われるのは、罪を正当化して、それを、「まあいいや」「これぐらいいいだろう」と、それを正当化してその中に留まり続けているのか、それとも、罪を認めて悲しみ、キリストに頼り御霊によってその罪を殺そうとしてるのかというところにあります。
では、御霊によって罪と戦うとはどういうことですか?
これは多くの信仰者が知りたいと思っているところです。「御霊によって罪と戦う」ということは、まず第1に御霊が私たちのうちにいなければなりません。神の御心に、自発的に喜んで従う心を、神は御霊を通して生み出します。そして、その喜んで従う心は、私たち自身が罪に従うことを拒みます。もう嫌だと。そして神に従って歩む選択をするのです。
「御霊によって罪と戦う」というのは、最初に御霊が私たちのうちにおられます。そして神の御心に、自発的に自分のうちから喜んで従う心を、御霊を通して神が生み出します。新しい創造と言われます。その御霊の働きによって私たち自身が罪に従うということをできなくします。罪に抵抗する心が私の内に与えられ、罪に従うということを拒み出します。今までは10円玉を拾ったら、あなたのポケットに入れていたのかもしれませんが、あなたの心はその10円玉をポケットに入れて持ち去ることができなくなっていきます。今までは平気でキセル乗車をしていたのに、キセル乗車をすることができなくなっていきます。そして、誠実に、神に従って悪いことをしないという道を選んでいきます。神は私たちのうちに働きます。そして、従う願いを起こし、実際に行うことができるようにしてくださいます。だから疑わずに従いなさいとパウロは言います。
【ピリピ人への手紙 2章13節】
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて、志を立てさせ、事を行わせてくださる方なのです。」
その働きによって信徒自身が従うことを願います。罪を拒ばんで、神の心を実践していく。自然にそれが起こるのではなく、あなたには、罪を拒む、憎むという心が与えられ、戦うという意思があります。そこに決して罪に従わない、神に従うという、「従う」という実践があなたの心の中に与えられ、あなたはそれに、体に鞭を打って従わせる。そのようにパウロは言います。
「御霊に頼る」とは、何もせずに、心が変わるのを待つということではありません。これは全く違います。勝手に変わっていくのではありません。あなたの生活の中で試練、苦しみがある。そこから、逃げずに留まり、あなたの罪と無力さを、神があなたに見せ、あなたがそれを認める時、その時にキリストに助けを求めます。その助けは絶えずあります。そしてその中において、すでに正しいと分かってる判断を、実践するというところにあなたは置かれていきます。
「従う心が与えられていないから、仕方がない」という言葉を言う人がいますが、罪を続ける言い訳をしてはいけません。それは罪を続ける言い訳です。自分の罪を認め、キリストに頼り、今自分が取らなければいけない正しい具体的な行動を神が示されているので、それを行わなければなりません。この構造をよく理解してください。自分の罪と無力さを認め、キリストに助けを求め、すでに神が与えた志を実践する。ここに、「御霊に満たされる」という教義の本質が、実はもうあります。
もう1度言いますが、「御霊に満たされる」ということを、集会に行って気持ちが高まること、良い出来事が起こること、夢が叶うこと、自分の生活が豊かになることと取り違えてはいけません。それは、全くの嘘です。聖書にはそんなこと1つも書いてありません。
神は、キリストに結ばれたものを、試練の中に導きます。荒野に必ず導きます。そしてその荒野を通して、御霊にあって、あなたの力を頼むこと、自分自身を神とする心を砕かれます。いいですか?何事も自分の願い通りになることを求めていたあなたが、自分の罪と無力さを認める、キリストだけを希望とする、神の御心に従うものへと造り替えられる。
御霊によって、自分が壊されていき、自分が神であったのに、御霊によって神のご支配があなたの心に広がります。これが御霊による聖化です。
神によって心が砕かれたかどうかというのは、あなたの感覚では判断できません。
「私は心が砕かれた」と言ったとしても、あなたの心が砕かれたかどうかは、あなたの判断、感覚ではありません。それはまた間違いです。ある人はこう言います、「私はこれほど砕かれたのにまだ罪をしてしまう。」はっきり言いますが、あなたは砕かれていません。だから罪をします。
御霊の働きは、自分を正当化することをやめます。罪を認めて、本当に悲しみます。キリストに絶えず頼り、実際に罪を拒ばみ、主に従います。その歩みが現れる時に、あなたの心が砕かれているということが証明されていきます。
試練を通して、自分の思い通りにしようとするその甘えた心が砕かれて、御霊によってキリストに頼るようにされる。御霊は、みことばによってキリストを見上げさせます。キリストの許しと恵みによって砕かれた心を、慰め癒して、神への信頼と平安を与えます。そして主に従う歩みを支えられます。聖徒はこの御霊の働きによって、自分を神とする思いを、自分を主とする思いを喜んで捨てます。そして日々自分の十字架を背負い、キリストに従います。
神はすべてのことを通して、この聖化の働きを、神ご自身が進めていきます。あなたではありません。「御霊に満たされて歩む」ということは、心にこのように現れる、悔い改めや、忠実な歩みから切り離すことはできません。
悔改めを子供に言うと、「ごめんなさい」と言うことで済ませることが多いです。子供の理解の悔い改めは、「ごめんなさい」です。しかし、それは悔い改めではありません。すいませんも、悔い改めでもありません。どうか私の罪を許してくださいも、悔改めでもありません。それは悔い改めではありません。聖書の言う悔い改めではありません。
自分が神に背く罪人であるということを認めていることです。犯かした罪を嘆き悲しみ、自己正当、自分が正しいという言い訳をやめ、ただキリストの許しと恵みだけを希望として罪から離れ、神に従うことです。いいですか?これが「御霊に満たされる」ということです。
御霊の支配の中、神のご支配の中に入っています。罪はその人の主人ではありません。罪の支配から神が主人となられる御霊の支配に入ります。罪の支配の下にはおらず、神の支配の下にいます。これが「御霊に満たされる」という神聖な教義です。
だから、あなたは、神があなたのうちに置いたその悔い改めの心をしっかりと見つめて、「神のみがあなたの救いである」ということを、あなたは見、仰いで、朝も昼も夜も絶えず、ずっとあなたの心は神を見続けていきます。自分が罪人でありながら、自分がこんなに汚いものでありながらあなたは神を見つづけていく。なぜなら、御霊の中にあなたがいて、御霊があなたと共に結ばれて、キリストを結んでるからです。これが「御霊によって満たされる」、「御霊によって歩く」なんです。
ですからこのような中において、約束を破ったらその事実を認めて謝ること、相手と相談して改めて約束を交わしてそれを守る。嘘をついたら、本当のことを話して、嘘を訂正する。果たすべき責任から逃げていたなら、その責任を引き受けて行動に移す。この部分だけ捉えてはいけないのです。これをここだけを捉えたら、単なる道徳になります。倫理行為だけです。良い人だけになってしまいます。そうではなく、これは結果です。御霊に満たされることの結果なのです。
だから、あなたたちが、なぜポルノを見て従ってしまうのか、その罪を悲しまないのか、悪い気持ちで教会に来るのか。なぜなら、それは「御霊によって満たされている」ということを理解してない。つまり神の御思いを、いまだにあなたは、自分は罪人であるということを、しっかりと見つめていないのです。もしあなたが御霊を持っていたら必ずあなたは見つめます。このように、「御霊によって罪を殺し」ます。御霊の実を結ぶ歩みが問われています。
【ローマ人への手紙 8章13節】
「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」
【ガラテヤ人への手紙 5章16節】
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満たすことはありません。」
その実行は、人が罪に留まりたくない、キリストにのみ希望を置くという心、「御霊に満たされる」からスタートします。
真の信仰者はキリストの御霊を与えられているのです。
【ローマ人への手紙 8章9節】
「しかし、神の御霊があなたがたのうちに住んでいられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」
しかし御霊を持たないものはキリストのものではない。信仰者も御霊を悲しませます。肉の欲に負けて従うことがあります。しかしそれは常日頃ではありません。だからこそ信仰者に「御霊に満たされなさい」とパウロは命じています。御霊が与えられていることと、いつも御霊の支配に従って歩んでることは同じではありません。
真の信仰者、パウロ、ペテロにも御霊に逆らい不忠実になる時があります。神はその者を、みことばと試練によってくだいて悔い改め、キリストにより頼んで従うように導かれます。パウロはこう言いました。使徒の働きの中で、「私はもう自分の命が終わってしまうのか。そのような時にあいました。それは、神が私を、キリストのみに従って生きるものとするためでした」と言っています。ですから一時的な不忠実さだけで、あなたが新たに生まれていないということは誰にも断定することはできません。
しかし見るべきなのは、罪を全く犯さないという完全な状態ではありません。見るべきなのは、「罪を悲しみ、キリストに頼り、罪に従うことを拒んで、神に従う実」です。砕かれたかどうかは、あなたに判断できません。あなたに対し、神が最後に問うのは実です。
ですから、イエス様は時が来ると刈り取ります。多く実を持ったもの、実をつけたものは刈り取られて倉に入れられ、実をつけないものは刈り取られて火の中に放り投げられます。
ですから、私たちはそのように神の御霊を受けているのであれば、罪を悲しみ、キリストに頼り、罪に従うことを拒んで、神に従っていきましょう。その砕かれた心は、あなたのその砕かれた心あなたには分かりません。私はいつも砕かれてますと言う人がいますが、本当に砕かれた心は実を持ちます。そしてその心はいつも神の御前に出ています。朝も昼も夜もあなたの砕かれた心は神の御前に出て、そして立ち上り、神への素晴らしい生贄として神は受け取っています。
「御霊に満たされる」、「御霊によって歩く」、「御霊によって祈る」、これは、神が天から御霊を信仰者に注がれることを意味していません。あなたが御霊をください。御霊を注いでくださいと祈っても神はあなたには注ぎません。なぜならそのように構造はできてないからです。
最初に言いましたが、あなたがキリストの霊を持っていればあなたはキリストものです。あなたがキリストの御霊を持っていなければ、あなたはキリストのものではありません。それによって決まります。それだけです。人は新しく生まれなければ神の御国に入ることはできません。イエス様はそう言っています。
【ヨハネの福音書 3章3節】
「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」」
神の国とは、神の国に入るとは、それは神の国のご支配の中のことです。すなわち、神の御霊の支配の中にあります。
新たに生まれて、御霊を持つ者の結果として、御霊に満たされていく。そして、良い行いがついていく。キリストの十字架に共につけられて死に、キリストと共によみがえった者に与えられる栄光、キリストとの結びつき、結合にすべてがあります。そこが源泉です。それは神の御業です。あなたは何も貢献していません。
「御霊に満たされる」というのは、神の支配を喜び受け入れ、従うものです。
「御霊に満たされる」というのは、あなたは神に忠実であるか?
あなたはポルノに忠実なのか?あなたは神に忠実なのか?神の支配を喜び受けるのか?
あなたはゲームに忠実なのか?あなたは神の支配に忠実なのか?
ですから、イエス様はこう言われました「悔い改めなさい」。
自分が罪人であるということを神が示してる時に抗がわないで、罪を悲しみなさいと言っています。キリストだけを希望としなさいと言っています。
そして御霊が与えてくださる願いは、あなたの力です。
志、今従えと言っています。小さなことに従いなさい、日々小さなことに従いなさい。
従いたいという気持ちがあなたのうちに湧いてきます。
無いというのは、御霊があなたのうちにないということですか?よく考えてください。
そして、やがて大きなことにも忠実になります。からしだねの話です。小さなからしだね、目にも見えないような。しかし大きな木になります。信仰はそのようなものです。
ですから皆さん、「御霊によって満たされる」「御霊によって歩く」「御霊によって祈る」「御霊によって賛美する」御霊によって、神の御国に入っています。
