良いサマリア人のたとえ(ルカ 10:25-37)
- thewordforyoujapan
- 3月1日
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更新日:6月11日
* たとえ話の概要
• 背景:ある律法学者がイエスに「永遠の命を得るにはどうすればよいか?」と質問しました。
• イエスの問い:「律法には何と書いてあるか?」
• 彼は「神を愛し、隣人を愛せよ」と答えました。
• 律法学者の次の質問:「では、私の隣人とは誰ですか?」
*イエスのたとえ話:
• あるユダヤ人が強盗に襲われ、道端に倒れていた。
• 祭司とレビ人(宗教指導者)は彼を見ても助けなかった。
• サマリア人(ユダヤ人と敵対していた民族)が彼を助け、宿屋に連れて行き、治療費を支払った。
• イエスは「この三人のうち、誰が隣人となったか?」と尋ねた。
• 律法学者は「憐れみを示した者です」と答え、イエスは「あなたも同じようにしなさい」と言われた。
*解説
良いサマリア人のたとえ(ルカ 10:25-37)を、アルミニウス主義と聖書の視点で解釈し、愛の行いと
救いの関係を比較してみましょう。
1. アルミニウス主義の視点は 行いは信仰の証
アルミニウス主義は、人間の自由意志と責任を強調し、神の恵みが万人に提供され、それを受け取るかどうかは人間の選択に委ねられていると考えます。この立場からすると、良いサマリア人のたとえは次のように理解できます。 アルミニウス主義にとって自由意志、自分でがんばって信じる信仰の証が行いです。
• 「隣人を愛する」ことは、神の命令に対する自分の信じると決めて信じた信仰による応答である
• イエスは律法の専門家に「何をすれば永遠のいのちを得られますか?」と問われ、「律法を守ること」を強調されました(ルカ 10:27-28)。
• アルミニウス主義では、人間には神の呼びかけに応答する責任があるため、隣人愛の実践は重要な証しとなります。
• ただし、行い自体が救いを獲得する手段ではなく、がんばって信仰を持つ者は愛の行いを実践するよう導かれると考えます(ヤコブ 2:17)。行いは信仰の証
• 「普遍的恩恵(Prevenient Grace)」と愛の行い
• アルミニウス主義では、神の恵みは万人に提供され、信じるかどうかは個々の選択に委ねられています。
• サマリア人は、律法に縛られた祭司やレビ人とは異なり、慈愛の心を持って行動しました。
• これは、神の恵みがユダヤ人だけでなく異邦人にも及んでいることを示唆し、誰もが神の愛に応える可能性を持っていることを象徴しています。
• アルミニウス主義では、「愛の行い」は救いを得る手段ではなく、すでに神の恵みに応答した者が示す「信仰の証」となります。 この信仰とは神が信仰者に与えてくださる信仰のではなく、人間の自由意志によって選択して信じると言う定義です。アルミニウス主義者はこう言います。選びではなく、人間の自由意志による選択です。
2. 聖書は(恵みによる救い)は憐れみの愛は救いの結果と言います。
聖書では、人間の行いではなく、神の一方的な恵みによって救われます(エペソ 2:8-9)。
• 「隣人を愛する」ことは救いの条件ではなく、救われた結果
• イエスのたとえは、「完全に隣人を愛すること」が律法の要求であり、それは人間には達成できないことを示します
(ローマ 3:10-12)
"次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
悟る者はいない。神を求める者はいない。"
それは人間は全的に堕落しており、神の恵みが与えられなければ、信仰を持つことも、愛の行いをすることもできないからです。隣人を愛しなさいと言う律法を含めすべての律法の役割は人間の罪を示すためのものであり、人間は自分でこれらの律法を守ることはできません。そしてそれは救いの手段ではありません。(ガラテヤ 3:24)。律法は罪を示し、絶望を与えますが、福音はキリストの救いを宣言し、希望を与えます。
• 祭司やレビ人が傷ついた人を助けなかったことは、律法や宗教的義務が人を救えないこと を示しています。
• それに対して、サマリア人が示した「憐れみ」は、律法を成就するキリストの愛です。
• したがって、このたとえは「律法は罪を示す鏡であり、律法は人を救う力はありません」。また、「誰が隣人か」を問い直し、神の恵みによって変えられた者が示す愛、憐れみのあり方を示しています。律法は人をキリストに導きます。
• 傷ついた人は、罪によって打ちのめされた人類の象徴。
• 祭司やレビ人は律法や宗教的義務を象徴し、それらが人を救えないことを示す。
• サマリア人(当時のユダヤ人にとって軽蔑される存在)は、あえて見捨てられた者を助けた。これはイエス自身が罪人を救うために来られたことを指し示しています(ルカ 19:10)。
"人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」"
• 「サマリア人」はキリストの姿を象徴しますが律法が果たせない憐れみと救いをキリストが実現したことを表しています。
• つまり、人間は隣人を愛する律法を行うことはできません。律法は罪をします鏡であり、人を救う力はありません。律法は、私たちをキリストのもとへと導き、信仰によって義とされる道を示す役割を持っています。神によって選ばれ、聖霊によって新しく生まれた人のみが救われます。隣人を愛する良い行いは救いを得た結果、その人の心が聖霊により変容されてみことばを理解し、事実として捉え、信頼を置く者となり、みことばに従う生きる者と変えられた結果です。この変化はその人に生き方として日々の生活の中で実践されます。それは救いの証拠です。
"わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。この命令は、救われた者に与えられる新しい性質(キリストの似姿)によってのみ成就される」されます。「人間の努力によってではなく、聖霊の力によってのみ実現可能」であることを理解する必要があります。つまり 「聖霊によって新しくされた者だけが、主の命令に従い、真の愛を示すことができるのです。神はあなたが御子の似姿になるよる生き方が自然に実践します。選ばれている者はは自力で隣人を愛することはできないが、聖霊による新生と変容によって、キリストの愛が自然に行いとなっ
て現れます。時の始まる前からわたしたちを選び、そのように定めらられました。神に選ばれた者は、聖霊の守りによって信仰から離れることはありません。ヨハネの福音書 13 章 34 節


