半ペラギウス主義の危険性
- thewordforyoujapan
- 3月8日
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更新日:3月29日
2025-2-23半ペラギウスの危険性
アルミニウス主義や半ペラギウス主義が世界中の教会に広く受け入れられている理由は、いくつ
かの要因に分けて考えることができます。特に、これらの神学的立場が人間の自由意志を強調
し、現代の文化や伝道の実践と適合しやすいことが、大きな理由となっています。
1. 自由意志の強調が人間の直感に合う
アルミニウス主義や半ペラギウス主義は、どちらも「人間の自由意志」を強調します。これは多くの
人々にとって自然に理解しやすい考え方です。
• アルミニウス主義:「神の恵みは不可欠だが、人間は自由意志によって救いを受け取ることがで
きる」
• 半ペラギウス主義:「人間には神に応答する良い心が少し残っている。その意志がまず神に向か
おうとし、それに対して神の恵みが応答する」
この考え方は、個人の選択や責任を重視する現代の価値観と調和しやすいため、多くの教会で広
く受け入れられています。
2. 福音伝道のしやすさ
アルミニウス主義や半ペラギウス主義の考え方は、伝道活動において実践しやすいという点があ
ります。福音派の中にも広がり、大衆伝道など伝道を熱心に行うところで実践されます。それは神
は全ての人々を愛しており、救われる可能性があると言う考え方が根本にあるからです。
• 「神はすべての人を愛しており、誰でも救われる可能性がある」というメッセージは、福音伝道の
際に聖書を全く理解していなくても簡単なロジックで伝える方も伝えやすく、理解されやすい。
• 「あなたはイエスを信じるかどうか決めることができる」といった決断を促すアプローチは、これも
シンプルで理解しやすいので多くの伝道集会で用いられる。
• たとえば、リバイバルの伝道では、福音を広める際に人々の「信仰の決断」を重視し、多くの人
がアルミニウス的な理解のもとで信仰に導かれるようになった。そこには一時的な思い込みで信じ
たと思う人々が起こり、心の変容のない状態で教会クラブにいたり、去ったりする。
しかし、神の選びに預かっている者もおり、麦と多くの毒麦が混在する状態になる。
このように、アルミニウス主義の神学は、実際の伝道活動と親和性が高いため、広く受け入れられ
ています。
例えばリバイバルには半ペラギウス的なリバイバルと選びによるリバイバルがあることを聖書は
教えている。(半ペラギウス的リバイバル)
"人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言
った。イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再び
ただ一人で山に退かれた。" ヨハネの福音書 6 章 14~15 節
(選びによるリバイバル)
"異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちにあずかるように
定められていた人たちはみな、信仰に入った。" 使徒の働き 13 章 48 節
"その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を
見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。" ヨエル書 2
章 28~29 節
終末のユダヤの救いも神の主権による真のリバイバルである。選びによる救いが数多く、一度に
イスラエルに起こる。それは人の努力や決心ではない、ただ神の憐れみといつくしみである。
3. 神の愛と公平性を強調する
アルミニウス主義は、「神はすべての人に救いの機会を与えている」と教えます。この考え方は、
多くの人々にとって慰めとなり、また神の公平性を強調するため、受け入れやすくなります。
• キリストの贖いは選ばれた者にのみと言う聖書のことばは受け入れがたく、「キリストの贖いはす
べての人のためである」という普遍的贖罪(ユニバーサリズム)の教えは、多くの教会で支持されや
すい。 • 特に、神の愛を強調する現代のメッセージと親和性が高い。
4. 肉の行いの生産物である文化や思想との相性
現代社会では、個人の自由や選択が重視されています。
• 欧米の個人主義文化では、「自分で信仰を選ぶ」ことが強調されるため、アルミニウス主義や半
ペラギウス主義の「人間の決断」を重視する考え方が受け入れられやすい。
• アジアやアフリカなどの地域でも、「修行や努力によって神に近づく」という宗教観が根付いてい
るため、半ペラギウス的な「人間の側の努力が重要」という考え方と相性が良い。
このように、現代の価値観に合致しているため、これらの神学的立場が広く受け入れられていま
す。5. 神学的な誤解や単純化
多くの教会では、神学的な議論が十分にされず、アルミニウス主義と半ペラギウス主義が混ざっ
た形で教えられています。
• 牧師や教師が厳密な神学を学ばずに、「救いはすべての人に提供されており、あなたの決断が
大切」というシンプルな形で教えてしまう。
• 教会の教育が十分でない場合、アルミニウス主義と半ペラギウス主義の違いが明確に理解され
ず、人間の自由意志を強調する方向へ進みやすい。
このような神学的な単純化や誤解が、結果的にアルミニウス主義や半ペラギウス主義の広まりに
影響を与えています。
アルミニウス主義や半ペラギウス主義が世界中の教会に広く受け入れられている理由は、以下の
ようにまとめられます。
1. 自由意志の強調は人々の直感に合っている。
2. 伝道活動のしやすさ 簡単な理解
3. 神の愛と公平性の強調 により、人々には魅力的なメッセージとなる。
4. 現代文化との親和性 があり、人々が受け入れやすい。
5. 神学的な誤解や単純化 により、深い議論なしに広がっている。
これらの要因が重なり、多くの教会でアルミニウス主義や半ペラギウス主義が広まっています。
問題はアルミニウス主義に半ペラギウス主義が理解のないままミックスされて教えられていること
です。それを吟味して見分けることは一般のクリスチャンにはとても難しいと思います。
半ペラギウス主義の信仰的な危険性
半ペラギウス主義(Semi-Pelagianism)は、人間の自由意志が神の恵みに先行し、救いの決定的
な要素となる という立場を取るため、歴史的に異端とされてきました(529 年、オランジュ教会会
議で異端宣告)。この教えはアルミニウス主義の教えとともにミックスして教えられているのが実態
です。そもそも半ペラギウス主義、アルミニウス主義についての厳密な学びがなく、教義について
の問題まで理解している人々が少ないと言うことが背景にあります。その信仰的な危険性は、実
際の教会や個人の霊的成長にも影響を及ぼします。1. 「人間中心」の信仰に陥る
半ペラギウス主義は、「神の恵みは助けてくれるが、最初のステップは人間が決める」という考え
を持っています。 この結果、以下の問題が生じます。
(1) 神ではなく人間が主導する信仰、原罪(人間に宿る罪の性質)の無理解、否定
• 聖書の教え:「人間は霊的に死んでおり、自力で神を求めることはできない」(エペソ 2:1-5, ロー
マ 3:10-11)
"さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、
不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望む
ことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われた
のは恵みによるのです。"
エペソ人への手紙 2 章 1~5 節
"次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
悟る者はいない。神を求める者はいない。"
ローマ人への手紙 3 章 10~11 節
• 半ペラギウス主義:「人は神の恵みがなくても、最初に神に近づくことができる」
• 結果:信仰の出発点が神の主権ではなく、人間の意思に置かれる ため、自己努力による救い
の概念が生まれる。
(2) 祈りや信仰が「努力主義」になりやすい。
• 「もっと信じなければ」「もっと祈らなければ」と、神の恵みよりも人間の意志と行動が強調され
る。• 信仰生活が「神の恵みによるもの」ではなく、「自分の決意と努力」に依存するものとなり、喜び
や確信が失われる。
2. 恵みによる救いが損なわれる
(1) 「救いは自分の選択次第」=行いによる救いへと傾く
• 半ペラギウス主義では、「神の恵みは人間の自由意志を助けるもの」とされる。
• その結果、「救われるためには、まず自分から信じることが必要」という考えに結びつき、救いが
神の恵みよりも人間の決定に依存する ことになる。
• これは「行いによる救い」に繋がる危険性がある(ガラテヤ 1:6-9, 2:16)。
"私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、こ
のように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音
があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者た
ちがいるだけです。しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝え
た福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。私たちが
以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反
する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。"ガラテヤ人
への手紙 1 章 6~9 節
"しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認め
られると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを
信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっ
ては義と認められないからです。"ガラテヤ人への手紙 2 章 16 節
(2) 救いの確信が失われる
• 「私はまた、罪を犯した、また、犯した、救くわれていない?」
• 「もし私が神を拒んだら、すぐに救いを失うのではないか?」
• こうした疑問が生じると、救いの確信が神の約束ではなく、自分の意志や努力に基づくものにな
り、不安定になる(ヨハネ 10:28-29, ローマ 8:30)。
"わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも
彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手か
ら奪い去ることはできません。"
ヨハネの福音書 10 章 28~29 節
"神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たち
にはさらに栄光をお与えになりました。"
ローマ人への手紙 8 章 30 節
3. 「神の主権」が弱まる
(1) 神の選びが絶対主権であると言う聖書の教えが相対的なものに変わる
• 聖書は「神が私たちを選ばれた」と明確に教えている(エペソ 1:4-5, ローマ 8:29-30)。
"すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷
のない者にしようとされたのです。
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にし
ようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。"
エペソ人への手紙 1 章 4~5 節
• しかし、半ペラギウス主義では、「神の選び」は「人間が信じることを見越したもの」 とされること
が多い。
• その結果、「神の選び」は絶対的なものではなく、人間の意志によって変わり得るものとなる。
(2) 神の恵みが十分に強調されない
• 聖書の救いの本質は、「神の恵みによるもの」(エペソ 2:8-9)
"この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たこと
ではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。"
エペソ人への手紙 2 章 8~9• しかし半ペラギウス主義では、「人間が神に近づくための努力」が強調されるため、「神の恵みが
完全に人を救う」という聖書の教えが薄れてしまう。
4. 教会の実際の問題点
(1) 「決断」重視の伝道方法の問題
• 半ペラギウス的な教会では、「救われるにはイエスを選び、決心しなさい」というアプローチが主
流になる。
• しかし、聖書は「神が選び、神が信仰を与える」と教えている(ヨハネ 6:44, 2 テモテ 2:25)。
"わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできませ
ん。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。"
ヨハネの福音書 6 章 44 節
"反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせて
くださるかもしれません。"
テモテへの手紙 第二 2 章 25 節
• 神の選びではなく、人間の決断と、「一時的な決断はしたが、心の変容のしていない偽りの信者
が増える(マタイ 7:21-23)。
"わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたし
の父のみこころを行う者が入るのです。
その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あ
なたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法
を行う者たち、わたしから離れて行け。』"
マタイの福音書 7 章 21~23 節
(2) 救いの確信を持てない信者が増える• 「私は十分信じたのか?」 • 「私の信仰は本物なのか?」
• こうした不安を抱える人々が増え、恵みの確信ではなく、「決断の質」による自己評価 になる
• これは本来の福音のメッセージ(神の恵みによる救い)とは異なるものとなる。
5. 結論:半ペラギウス主義の信仰的な危険性
問題点 結果
神の主権と人間の自由意志のバランス 神の主権が弱まる
神の恵みより人間の努力の重視 行いによる救いに傾く
救いの確信が不安定になる 信仰生活が不安になりやすい
伝道が「決断重視」になる 名ばかりの信者が増える
半ペラギウス主義は、異端とされた理由が明確にあるように、信仰を人間中心にしてしまい、神の
恵みの完全性を損なう という危険性があります。正しい聖書の教えは、「神の主権と恵みを中心
とし、信仰さえも神の働きの結果である」というものです(ピリピ 1:6, ヘブル 12:2)。
"あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成さ
せてくださると、私は確信しています。"
ピリピ人への手紙 1 章 6 節
"信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前
に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたので
す。"
ヘブル人への手紙 12 章 2 節
そのため、半ペラギウス的な教えに傾かず、「すべては神の恵み」 という福音の本質を守ることが
重要です。聖書の世界観と異教の世界観、すなわち、宗教、文化、慣習、学問、政治に支配され
ている世界との違いが根底にあります。
聖書の世界観は神の支配、権威、権力、主権がすべての上にあります。救いは神の絶対なる恵
みです。


