信仰義認と死んだ信仰
2026.6.21 豊川の家の教会礼拝メッセージ
信仰義認と死んだ信仰
信仰義認とは、罪人である人が、自分の行いや功績によってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の前に「義」と宣言されることです。
信仰義認とは、簡単に言えば、神の前で有罪の罪人が、キリストの贖いと義のゆえに、信仰によって「義」と宣言されることです。
中心は三つです。
第一に、人間は自分で義となれない。人は神の律法を完全に守れません。善行、宗教熱心、悔い改めの深さ、奉仕、献金、教会生活によって、神の前で義を獲得することはできません。人間の側には、神に差し出せる救いの功績がないのです。
第二に、キリストが罪人の代わりに立たれた。キリストは罪のないお方でありながら、十字架で私たちの罪の罰を負われました。そして、キリストの完全な義が、信じる者に与えられます。つまり、私の罪はキリストに負われ、キリストの義は私に数えられる。これが信仰義認の核心です。
第三に、それを受け取る手段が信仰である。信仰は、救いを生み出す功績ではありません。信仰そのものが立派だから救われるのではありません。信仰は、ただキリストを受け取る空の手です。だから聖書は言います。「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」(ローマ 3 章 28 節)
信仰義認で大切なのは、神が人の中に何か良いものを見つけて義とするのではないということです。神は、キリストに結ばれた者を、キリストの義のゆえに義と宣言されます。
ですから、救いの根拠は、私の信仰の強さではなく、私の悔い改めの涙でもなく、私の奉仕や変化でもなく、キリストの十字架と復活です。
ただし、信仰義認は「行いは不要だから、罪のままでよい」という教えではありません。義とされた者は、聖霊によって新しくされ、悔い改めと従順の実を結び始めます。
整理すると、義認は、神が罪人を義と宣言する一度限りの法廷的宣言。聖化は、義とされた者を神が実際に造り変えていく生涯の働き。順序が重要です。良い行いをしたから義とされるのではない。義とされたから、良い実を結ぶようにされる。
信仰義認とは、福音の中心です。罪人である私は、自分では神の前に立てない。しかし、キリストが私の罪を負い、私のために義を成し遂げてくださった。だから私は、自分の行いではなく、キリストを信じる信仰によって、神の前に義と宣言される。これが信仰義認です。信仰義認はこれ以上でも、これ以下でもありません。神が、信仰義認の教理を、現実の試練の中で信仰として与えてくださいますように。
"イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。
麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。
それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。
だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」"
マタイの福音書 13 章 24~30 節
教会には麦と毒麦が存在します。どこの教会も同じです。麦と毒麦が存在します。
最後の時に、神が毒麦を集めて火の中に投げ込みます。
人は教義を暗記して救われると、聖書は教えません。
「年を取ったから、子供だから覚えられない。」「記憶力が落ちたから、信仰義認は難しい。」しかし、それは本当に問題の核心なのでしょうか。もし信仰義認が、神学用語の定義を暗記する試験問題であるなら、その言い訳も成り立つかもしれません。
しかし、信仰義認とは、「私は何によって神の前に受け入れられるのか」という、救いそのものの問題です。
人は、自分にとって本当に重要なことは、専門用語で説明できなくても知っています。自分の子どもの名前を忘れない。自分がどこに住んでいるかを知っている。誰が自分の配偶者なのかを知っている。どの薬を飲まなければならないかを覚えている。それは神学的定義を暗記しているからではなく、自分の人生と結びついている現実だからです。
同じように、救われた者は、「私は自分の行いでは救われない。」「キリストだけが私の望みだ。」「十字架によって赦された。」という現実を知っています。たとえ「信仰義認」という四文字熟語を忘れても、その中身まで失うわけではありません。
むしろ問題は、何年も教会にいながら、「結局、自分の頑張りが必要だ。」「自分の悔い改めの深さで神に受け入れられる。」「教会生活や奉仕によって義とされる。」と考えているなら、それは記憶力の問題ではないということです。それは、自分が何によって救われるのかを知らない、という問題です。ただ、教会と言う人間の作った組織の中にいるだけです。
「覚えられない」は、この問いから逃れるための便利な言葉になり得ます。しかし聖書は、「記憶力のある者は救われる」とは教えません。また、「神学用語を正確に説明できる者は義とされる」とも教えません。聖書が問うのは、あなたは誰を信頼しているのか、ということです。
自分の行いなのか。自分の決心なのか。自分の宗教生活なのか。それとも、キリストの贖いと、その義だけなのか。
もし本当にキリストによって救われたなら、その人は障害や認知機能の衰えによって神学用語を忘れることはあっても、「私は罪人で、イエス様だけが救いです。」という拠り所そのものまで失うことはありません。なぜなら、救いは人間の記憶力によって保たれるものではなく、神の新しい創造の御業だからです。
だから、「記憶できないから信仰義認が分からない」という言葉は、しばしば問題の本質を隠す詭弁となります。本当に問われるべきなのは、「あなたは何によって神の前に義とされると信じているのか」ということです。そして、その答えが「キリストの十字架と復活だけです」の本質を語り、生きる信仰がないなら、それは記憶力の問題ではなく、その人が受けた福音そのものを吟味すべき問題なのです。
自分の子どもの名前は覚えている。家に帰る道は覚えている。どの薬を飲まなければならないかも覚えている。それは、生活と命に関わる現実だからです。しかし、神が自分をどこから救い出してくださったのか、罪の中で死んでいた自分を、何の功績もないまま、どのように義としてくださったのか、キリストが十字架で何を成し遂げてくださったのか、それは「覚えていない」「分からない」と言う。それでいて「私は信じています」と言うなら、それは何を信じているのでしょうか。
信仰義認は、神学用語の暗記ではありません。「私は自分の行いではなく、キリストの義によってのみ神の前に立つ」という、救いの土台そのものです。
贖いも、難しい専門知識ではありません。「私は罪の奴隷であり、神の怒りと死の支配の下にあった。しかしキリストが十字架で、私の罪を負い、代価を払い、神の前に赦しと義を与えてくださった」という、救いの現実です。
だから、子どもの名前は覚えている。道は覚えている。薬は覚えている。しかし、自分が何から救われ、誰によって救われ、何を根拠に神の前に立っているのかを知らないなら、それは記憶力の問題ではありません。それは、福音がその人の命の現実になっていないということです。そのような信仰は、聖書が語る信仰ではありません。信仰とは、曖昧な宗教感情ではありません。信仰とは、罪の中で死んでいた者が、キリストの贖いと義だけにより頼み、神の前に立たせていただくことです。
聖書は、これは「忘れた・覚えられない」問題ではなく、福音を聞いても信仰と結びついていない危険として語ります。「聞いたみことばも、それを聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったので、何の益にもなりませんでした。」(ヘブル 4 章 2 節)
また、救いの核心をこう言います。「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」(エペソ 2 章 1 節)
「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」(エペソ 2 章 8〜9 節)
「人が義と認められるのは、律法の行いとは関わりなく、信仰による」(ローマ 3 章 28 節)
「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント 5 章 21 節)
つまり聖書はこう言っています。自分が罪の中で死んでいたことを知らない。自分の行いでは義とされないことを知らない。キリストが自分の罪を負い、義を与えてくださったことを知らない。それで「私は信じています」と言うなら、問われるべきは記憶力ではなく、その信仰が本当に福音に結びついているかです。
このような信仰を、死んだ信仰と言います。それは、信仰という言葉は持っていても、キリストに結びついていない信仰だからです。ヤコブは言います。「たましいを離れたからだが死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は死んでいるのです。」(ヤコブ 2 章 26 節)
ここでいう「行い」とは、救いを得るための功績ではありません。本当にキリストに結びついた信仰なら、必ずその命が現れるということです。
罪を知らない。贖いを知らない。義認を知らない。キリストの十字架を、自分の救いとして知らない。
ここで言う「知る」とは、単なる知識を持つことではありません。
用語を説明できることでも、教理を暗記していることでもありません。自分が神の前に罪人であると示され、自分の義では立てないと砕かれ、キリストの十字架だけが自分の救いであると頼らされることです。
それがないまま、「信じています」と言うなら、それは生きた信仰ではありません。福音を聞いていても、福音に結びついていない信仰です。
キリストの義により頼む信仰ではなく、宗教的習慣、教会生活、感情、自己満足にとどまっている信仰です。だから、そのような信仰は死んだ信仰です。
キリストに結びついていない信仰は、人を救いません。
聖書は、「死んだ信仰」という言葉を単なる未熟な信仰の意味では用いていません。それは、信仰を持っていると思っていながら、実際には救いに至る生きた信仰ではない状態を警告する言葉として用いています。
1. 死んだ信仰は「救うことのできない信仰」である
「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その信仰に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか。」(ヤコブ 2 章 14 節)
ヤコブは、「そのような信仰が救うことができるのか」と問いかけます。答えは
「できない」です。ここで問題なのは、「信仰が弱い」ことではありません。「信仰があると言っているが、実際には救いに結びついていない」ということです。
2. 死んだ信仰は、知識や同意だけで終わる
「あなたは、神はおひとりだと信じています。立派なことです。しかし、悪霊どもも信じて、身震いしています。」(ヤコブ 2 章 19 節)
悪霊でさえ、神がおられることを知っています。イエスが神の子であることも知っています。しかし、悪霊はキリストに信頼しません。つまり、聖書の正しい知識があること、たとえば信仰義認の教理に同意すること、教会に所属していること、これら自体は、生きた信仰の証明にはなりません。
3. 死んだ信仰は、自分を欺く危険がある
「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ 7 章 21 節)「その日には大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって
多くの奇跡を行ったではありませんか。』」(マタイ 7 章 22 節)
しかし主は、「わたしはあなたがたを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」(マタイ 7 章 23 節)と言われます。
彼らは自分たちを信者だと思っていました。しかし、キリストとの真実な関係を持っていませんでした。これが死んだ信仰の恐ろしさです。本人は救われていると思っていることです。
4. 死んだ信仰は、福音を聞いても益を受けない
「聞いたみことばも、それを聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったので、何の益にもなりませんでした。」(ヘブル 4 章 2 節)
イスラエルは神の約束を聞きました。しかし、信仰と結びつかなかったため、約束の地に入れませんでした。福音を何度聞いても、自分の罪が分からない。キリストの贖いが自分の救いとして結びつかない。自分の行いに頼り続ける。ならば、その人は長年教会にいても益を受けない危険があります。
5. 生きた信仰はキリストに結びつく
聖書が語る生きた信仰とは、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ 2 章 20 節)という信仰です。それは、私は罪人である。私は自分を救えない。キリストが私の罪を負ってくださった。キリストの義だけが私の望みである、と、キリストにより頼む信仰です。
6. だから聖書は自分を吟味するよう命じる
「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。」
(Ⅱコリント 13 章 5 節)
これは、真の信者を絶望させるためではありません。むしろ、「私は何により頼んでいるのか。」「キリストの十字架だけを救いの根拠としているのか。」「それと
も、自分の決心、行い、宗教生活に望みを置いているのか。」を吟味するためです。死んだ信仰の最大の危険は、迫害でも失敗でもありません。救われていると思い込みながら、実際にはキリストを知らないまま最後の日を迎えることです。だから聖書は繰り返し警告します。「兄弟たち。ますます熱心に、あなたがたの召しと選びを確かなものとしなさい。」(Ⅱペテロ 1 章 10 節)
そして同時に、真にキリストにある者には慰めも与えます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、だれも彼らをわたしの手から奪い去ることはありません。」(ヨハネ 10 章 27〜28 節)
死んだ信仰への警告は、キリストにある者を不安に陥れるためではありません。真にキリストにより頼む生きた信仰へと招く、神の憐れみによる警告なのです。
聖書的に考えるなら、「年だから、障害だから記憶できない」という言い訳そのものが、しばしば本当の問題から目をそらすための自己防衛として現れます。ただし、ここは慎重に区別する必要があります。本当に認知症などによって記憶機能が著しく低下している場合があります。本当に障害を持った方など、その場合は、神はその人の認知能力の低下によって救いを失わせるお方ではありません。しかし、問題にしているのは、そういうケースではありません。
何年も福音を聞きながら、子どもの名前は覚えている。家に帰る道は覚えている。どの薬を飲むかは覚えている。趣味のことは覚えている。自分に関係することは覚えている。しかし、自分が何から救われたのかは分からない。なぜキリストが必要なのかは分からない。キリストが十字架で何を成し遂げたのかは分からない。自分が何によって義とされるのかは分からない。と言うのです。
すると問題は、「記憶できないこと」ではなく、「それを自分の命に関わる現実として受け取っていないこと」と言う可能性になります。聖書はこう言います。「宝
のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。」(マタイ 6 章 21 節)
人は、自分にとって価値あるものを覚えます。もちろん細部は忘れます。しかし、命に関わることは忘れません。だから、福音を「神学の知識」「教会の話」「難しい教理」として外側に置いているなら、「年だから覚えられない」という説明になります。
しかし、生きた信仰なら、「私は罪人だった。」「私は自分を救えない。」「キリストが私のために死んでくださった。」「私はキリストだけが望みだ。」という救いの現実は、むしろ年齢を重ねるほど深くなっていきます。
パウロは晩年になって、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られました。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ 1 章 15 節)と言いました。
彼は年を取るほど、自分の罪深さとキリストの恵みを忘れたのではなく、ますます深く知ったのです。では、なぜ「年だから記憶できない」と言うのでしょうか。聖書的に言えば、いくつかの可能性があります。
第一に、自分を吟味したくないからです。もし「私は何によって救われるのか」と真正面から問われれば、自分の信仰の実態に向き合わなければなりません。その痛みを避けるために、「年だから、子供だから、病気が」と問題を能力の問題へとすり替えます。
第二に、福音を自分の現実として受け取っていないからです。福音は「聞いた話」であって、「私の救い」ではない。そのため、生活の現実ほどの重みを持っていません。
第三に、宗教的安心感に留まりたいからです。「教会に通っているから大丈夫。」「洗礼を受けたから大丈夫。」「昔決心したから大丈夫。」しかし、その土台を問われたくないため、「難しい」「覚えられない」として吟味を避けます。
だから、死んだ信仰の最も恐ろしいところは、本人が「自分は信じている」と思っていることです。そして、その思い込みを守るために、「難しいから分からない」「年だから覚えられない」「子どもだから」という言葉が、自分を吟味しないための盾になることがあります。
だから聖書は、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。」(Ⅱコリント 13 章 5 節)と命じます。
それは真の信者を絶望させるためではありません。むしろ、「あなたは本当にキリストを知っているのか。自分の行いではなく、キリストの贖いと義だけに望みを置いているのか。」と問いかけ、死んだ信仰から生きた信仰へと招く、神の憐れみによる警告なのです。
以上
