主の祈り 神の子どもとして
2026.9.15 The Word for you
今日は、ウェストミンスター大教理問答の第187問、「主の祈りはどのように用いられなければならないか」について解説したいと思います。この187問の回答は、『「主の祈り」は、わたしたちがそれに従って他の祈りをなす型として指針であるだけでなく、一つの祈りとしても用いられる。それゆえ、これは、理解、信仰、敬けんな心、また祈りの義務を正しく果たすために必要な他の美徳をもって、祈られなければならない。』という内容です。
この、「主の祈りはどのように用いられなければならないのか」という問いに対しての回答は、「主の祈りとは何ですか」という質問に対する回答ではなく、文字通り「主の祈りをどのように用いるのか」に対しての回答でした。この回答は非常に実務的で、2つの点に絞られています。1つは「他の祈りを組み立てるための型であり、指針である」ということです。そしてもう1つは「そのまま1つの祈りとして用いてよい」ということです。それは、機械的に唱える為ではなく、理解して、与えられた信仰を用いて、与えられた敬虔な心を持って祈る、そういう答えでした。
これはとても分かりにくいと思います。
しかし、今日私が話したいことは、そもそも「なぜ真の信仰者たちはこの祈りを祈ることができるのか」ということです。どうしたらそのように祈りを祈ることができるのでしょうか。私たちはウェストミンスターの回答にある「理解、信仰、敬虔な心」が与えられますが、ここのところを深掘りしないと、結局このウェストミンスターの187問の「主の祈りはどのように用いられなければならないか」ということを本当に理解することはできません。そうしないと、結果的には単なる便利な道具として、あるいはただ繰り返して唱えるだけの祈りとして、人間的な目線でしかこの祈りを捉えられなくなってしまうからです。聖霊の照明を受けて初めて、理解と信仰と敬虔さをいただいた中で、ウェストミンスターの説明が単なる技術だとか精神論、または宗教的な祈り言葉ではなくなっていきます。
では、その真意のところをお話ししたいと思います。主イエスは弟子たちに「だから、あなた方はこう祈りなさい」と言われました。最初に「天にいます私たちの父よ」と呼びかけるように教えられています。主の祈りは、単に神に願い事を伝えるための祈りではありません。「日々の食べ物をください」「私の必要な糧をください」「悪霊から私を守ってください」、そういう祈り、願い事を伝えるための祈りではないです。「神の国を来らせてください」という願い事を伝えるための祈りではありません。ここがスタートです。それは父・子・聖霊なる三位一体の神の交わりの中に招き入れられた神の子どもたちに、御子イエスご自身が直接教えられた祈りです。これは選ばれ、再生され、信仰、悔い改め、義を与えられ、神の子どもとされた人たちに、主イエスが直接「祈り方」として教えられました。
永遠から父は御子を愛しておられます。御子も父を愛しておられます。そして聖霊はその三位一体の交わりにおいて働かれます。私たちはこの神の交わりの外側に立って、神に向かって声を投げかけているのではないです。私たちが救われる前、この命によって生まれていない時に、私たちはこの祈りの外に立って主の祈りを用いて祈っていたのかもしれません。しかし御子に本当に結ばれ、御子と結合された者、御子にある者とされて、私たちは御霊によって神を「アバ、父よ」と呼ぶ者にされています。そのような子どもたちに対して主イエスは、「こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ」とそのように教えてくださったのです。本来、父を完全に知り、父を完全に愛し、父の御心を完全に行われる方は永遠の御子です。父は御子を愛し、御子は父に完全に服従、信頼し、十字架の御業まで従われました。この御子が、ご自分に結ばれた者たちを父の御前へと導いて、この方を「私たちの父」と呼ぶように教えられました。
ですから主の祈りは、御子が父に向かっておられるその父、子の交わりに、御霊によって参与された神の子どもたちの祈りであると言うことができます。「御名が聖とされますように」「御国が来ますように」「御心が天で行われるように地でも行われますように」。この3つの願いは、まず神の永遠の御旨に根差しています。神の側では、御名の栄光も、御国の完成も、御心の成就も、不確定なものでは全くありません。神の永遠の御旨において、すべては御子にあって定められています。永遠において神の側では、「御名が聖とされる」「御国が来る」「御心が天で行われているように地でも行われますように」、これは永遠においては神の側では完成した事実として私たちは見ます。これを聖書では「すでに」と言っています。
しかし未だ、その時間の、私たちの時間の中においてすべてがすでに起こり、終わったという意味ではないです。神様の永遠の御旨において初めから終わりまでが完全に定められ、その完成が確定している。そしてその永遠の「すでに完成されている永遠の御旨」は、歴史の中に現されてきます。御子は人となられました。父に完全に従い、十字架にかかりました。死んで復活し、天に上げられました。キリストの受肉、完全な従順、十字架、復活、昇天によって、神の永遠の御旨は時の中で決定的に成就しました。特に「御心が天で行われるように地でも行われますように」という祈りは、御子ご自身がご自身の完全な従順において、その中心的な成就をご自分で実行され、ご自分でみました。御子は父の御心を完全に行われました。私たちは今なお時の中に生きています。すでに父が、永遠の御旨の中において完成されているこの定めにむかって、私たちは日々、主の再臨に向かって進んでいます。私たちは今なお時間の中に生きていますが、だからこそ主は私たちに「御国が来ますように」と祈りなさいと言いました。
御国が全く来ていないからではないです。御国はすでにキリストの初臨において来ています。しかし御国は未だ全面的には現れていません。全面的に表れるのは主の再臨の時です。これが聖書の言っていることです。
神の御名は、まだ全世界のすべてにおいて完全に崇められているわけではないです。神の御心も、地上のすべてにおいて完全に行われているわけではありません。罪も試みも悪も死も苦しみも、なお存在しています。ですから私たちは、すでに神がキリストにおいて成就を確定しているもの、永遠の御旨の中で完成されているものが、時中で完全に現されることを祈るのです。
後半の祈りも同じです。「私達の日ごとの糧を今日もお与えください」「私達の負い目をお許しください」「私達を試みにあわせないで悪からお救いください」。私たちの救いは御子において永遠に確定しています。しかし私たちは、なおこの時の中、歴史の中を御子の再臨に向かって歩んでいます。日々私たちはこの時の中で必要を与えられます。ですから私たちは「日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ります。日々赦しの恵みに生かされます。ですから「私たちの負い目をお許しください」と祈ります。日々、罪と試みと悪との戦いの中で守られます。「私たちを試みにあわせないで悪からお救いください」と祈るのです。それらはキリストとの結合によって私達にそのまま適用されます。なぜなら御子の祈りは私たちの祈りだからです。御子の祈りが私たちの祈りの本質にあります。ですから救いと主の祈りの関係はこのように整理することができます。
・永遠において完成している
・時中、歴史において成就していく
・御霊によって適用される、キリストとの結合によって適用される。
・終末、主の再臨の時にすべて現れる
永遠においては、神の御心の中ですべては完成しています。そして歴史の中においては、キリストにおいてこの御心は成就しました。しかし現在においては、御霊によって私達一人ひとりがキリストと結びついているから、すべての恵みがそこから流れていきます。そして終末において、この完成が完全に全面的に現わされる。
再臨の時に、「御国が来ますように」という祈りはその意味ではもはや必要ではありません。なぜならその時には御国が完全に現れ、神の御名は完全に崇められ、神の御心は新しい天と新しい地において完全に行われるからです。神の義は完全にこの地を覆うからです。罪も悪も試みも死も取り除かれると黙示録にあります。
その時、永遠の御旨において完成されたもの、キリストにおいてこの歴史の中、時中で成就したもの、御霊によってキリストと私達が結ばれて適用されたものが、最終的に完全な姿で現れます。私たちのあがなわれた復活の体も現れます。しかし永遠の結合は永遠に私達と共にあります。そして私たちは神の御前に立ち、神は私たちの神として、私たちは神の栄光を仰ぎ見ます。
したがって主の祈りというのは、永遠の御旨においてすでに完成している神の救いや御国の現実を、この時間の中に生きている私達神の子どもたちがイエス・キリストに結ばれて、御霊によって結ばれて、御霊によって父なる神様に対して、この時中の現実と、そして終末的な完成を願い求める祈りです。そして、私達真の信仰者、神の子どもたちにこの祈りを教えてくださっているのは、他ならぬ御子イエスご自身です。長子です。私たちの神です。「あなた方はこう祈りなさい」。これは単なる祈りの形式の命令ではないです。これは三位一体の神の交わりの中に招き入れられた子どもたちに対して、主イエスが「あなた方もわたしと同じように父に向かって祈りなさい。この方をあなた方の父として呼びなさい」と教えてくださった言葉です。
ですから主の祈りは、父に向かい、御子にあって、御霊によって祈る、神が私達にくださった宝物です。祈りは単なる宗教的なリピートではありません。この理解をしっかりとして、そして敬虔に、結合をもって御霊によって私たちは、未確定の未来を変えるために神に「何々してください、パンをください、何かしてください」と祈って説得することではないです。それは神の子どもではないです。神の子どもは「永遠において完成している」、この理解が最初に来ます。「神の御旨はすでにイエス様にあって完成している」、ここに立ちます。
そして、時の中に私たちはいますが、この私たちのいる中において、私たちはまだ、すべてが神の足元にひれ伏す姿を見ていません。ですが、すべてが神様の御前にひれ伏す、またすべてが神を褒めたたえる、また私たちが神の復活の力によって、私たちの命がキリストと共に新たに現れること、このことを祈るのです。時中で。しかし私たちはそれが完成している、確定しているものであるということを神様に感謝して祈ります。
ですから、私たちは決して未完成だから祈るのではありません。すべて完成している、御旨においてすべて神が確定している、この確信を持って祈りなさい、父なる神様に感謝して、ということです。
主の祈りとは、永遠において完成している父の御旨、それを御子に結ばれた、結合している子どもたちが、御霊によって、時の中、歴史の中において、御霊によって試練の中、苦しみの中において「この方が私の最後の望みです」と祈ります。この御霊に満たされる、これは、あなた方がイエス・キリストを最後の望みとして置いていなかった時の祈りとは根底が違います。あなた方は「イエス様助けてください」と祈ったかもしれません。しかしその時を考えてみてください。その時あなたは「必要な時だけ祈って、必要じゃなければポイ、私はもう自分一人でやれる。困ったらまた祈ってみる」、自分の都合のいい時だけだったのではないでしょうか。それは真の信仰者に与えられている祈りではないです。
真の信仰者に与えられる祈りは、いつも私達の中には「神を慕い、神が私たちの最後の望みである」という思いが絶えず与えられています。それが「御霊によって」です。それが苦しい時にはさらに増し、それが辛い時には増すかもしれませんが、基本は神の子どもたちには神を求める、その呻きが聖霊によって与えられています。ですからパウロは、「私たちはどのように祈っていいか分かりませんが、聖霊が呻きを持ってとりなしてくださる」と言いました。その呻きは私達の一番底にある、心にある「神よ!」という心です。そしてそれを持って、時の中、私たちの人生の歴史の中において、神の再臨、その完成を待ち望みながら切に神に祈る祈りです。
そして主イエスは私達にこう言います。「あなた方もこのように祈りなさい。天にいます私たちの父よ」と。
