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キリストはすべてのすべて
― 選びから栄化まで、すべての救いはキリストにあって ―

9月19日
読了時間: 16分

キリストはすべてのすべて


― 選びから栄化まで、すべての救いはキリストにあって 

―エペソ人への手紙一章四節から見るキリストとの結合

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」エペソ人への手紙 1章4節 

 

小さな言葉に置かれた救いの中心

今日、私たちが心を留めたいのは、「選び」という言葉だけではありません。「世界の基が据えられる前」という永遠にも、もちろん目を向けます。しかし、聖霊がこの一節の中に置かれた、さらに小さな言葉を見落としてはなりません。それは「この方にあって」です。

神は、私たちをキリストから離れた者として選び、それから後でキリストと関係を結ばせようとされたのではありません。聖書は、神が私たちを「この方にあって」選ばれたと言います。選びの初めから、私たちはキリストを離れて考えられていません。神の永遠のご計画は、キリストを中心として立てられました。

そして、この「あって」はエペソ一章四節だけの言葉ではありません。私たちはキリストにあって贖われ、義とされ、新しく造られ、生き、聖くされ、守られます。キリストにあって死に、キリストにあって復活し、キリストにあって栄光を受けます。

ここに十個の別々の教理が並んでいるのではありません。選びから栄化まで、すべての救いを一本で貫く現実があります。それがキリストとの結合です。今日の結論を初めに言います。

「キリストにあって」は、すべての救いの「あって」です。

救いの恵みは、キリストから切り離して一つ一つ数えるものではありません。恵みを数えることは出来ないのです。恵みはキリストから切り離して配られるのではありません。神はキリストご自身を私たちに与え、私たちをキリストに結びつけ、そのキリストのうちにあるすべての恵みにあずからせてくださいます。


 

ウェストミンスター大教理問答が語る「キリストとの結合」

この「キリストとの結合」とは、いったい何でしょうか。ここで、ウェストミンスター大教理問答第66問の定義を土台にして確認しておきましょう。

「選ばれた者がキリストと持つ結合とは、神の恵みの御業であり、それによって彼らは、霊的に、神秘的に、しかも真実に、また離されることのないように、彼らのかしらまた夫であるキリストに結び合わされることである。この結合は、彼らの有効召命においてなされる。」

ここで大切なのは、結合が私たちの決心によって作られる関係ではなく、「神の恵みの御業」だということです。そして、それは単なる比喩でも、頭の中の理解でもありません。「霊的に、神秘的に、しかも真実に、離されることなく」キリストに結ばれるのです。キリストは私たちの外におられる救いの提供者であるだけではなく、私たちのかしらであり、私たちはそのキリストに属する者とされます。

さらに、大教理問答は、この結合が「有効召命において」現実のものとされると語ります。父が永遠にキリストにあって選び、御子が歴史の中で贖いを成し遂げ、聖霊が福音によって私たちを召し、生かし、信仰を与え、キリストに結びつけられます。ですから、「キリストにあって」は単なる言葉の飾りではありません。救いのすべてが起こる場所、関係、現実を指しているのです。

 

「キリストにあって」とは何か

ここで皆さんにお尋ねします。聖書は、ローマ八章一節で「キリスト・イエスにある者」、第二コリント五章十七節で「キリストのうちにあるなら」、第一コリント一章三十節で「キリスト・イエスのうちにあります」と語ります。では、この繰り返される「あって」「うちにある」とは、何を意味しているのでしょうか。

ある人は答えるかもしれません。「キリストに代表される、という意味ではないでしょうか。」別の人は、「キリストに属する、という意味ではないでしょうか。」また、「キリストから恵みを受ける」「キリストのいのちにあずかる」という意味だ、と答えるかもしれません。どれも、そこから生じる恵みとしては聖書的です。

では、もう一度尋ねます。「代表される」「属する」「恵みを受ける」が、そのまま「あって」の意味なのでしょうか。――いいえ。もしそう置き換えてしまえば、「キリストにあって」という言葉そのものが消えてしまいます。代表されることも、恵みを受けることも、いのちにあずかることも、その前にある一つの現実から生じます。それが、キリストとの結合です。

では、「キリストにあって」とは「御霊によって」という意味でしょうか。――これも同じではありません。聖霊は、私たちをキリストに結びつけられる方です。「御霊によって」は、その結合を現実のものとされる方とその働きを示します。一方、「キリストにあって」は、御霊によってキリストに結ばれた者が、いまどこにあり、どなたに属し、どなたのうちに救いを持つのか、その現実を表します。

では、エペソ一章四節についてはどうでしょう。「神のご計画の中で、キリストにあって選ばれた」と言えば十分でしょうか。ここでも御言葉の順序に注意しなければなりません。神のご計画がまずあって、その計画の中へ後からキリストが置かれたのではありません。御言葉は、「この方にあって私たちを選び」と言います。第一にキリストがおられます。神は、キリストから離れた私たちを先に選び、後でキリストに入れようとされたのではありません。キリストを救いのかしらとして定め、そのキリストにあって私たちを選ばれたのです。

ですから、皆さん。「キリストにあって」を別の言葉一つに置き換えようとしてはいけません。「あって」は、代表、義認、新生、聖化、堅忍、復活、栄化のどれか一つを意味するのではありません。それらすべてを生み出し、すべてを貫いているキリストとの結合を示しています。

ここで答えは一つに集約されます。

「あって」は、すべての救いの「あって」である。

この小さな一語が、私たちの目を自分自身からキリストへ戻します。救いの中心は、私が何を持っているかではありません。私は、誰にあるのか。私はキリストにある。その結合から、救いのすべての恵みが流れ出るのです。

 

マレーが示した救いの中心

ジョン・マレーは『Redemption Accomplished and Applied』第二部第九章で、次のように述べています。

“Union with Christ is the central truth of the whole doctrine of salvation.”

キリストとの結合は、救いの教理全体の中心的真理である、という意味です。マレーは結合を、救いの適用における一つの段階として扱いません。結合は、新生、信仰、義認、子とされること、聖化、堅忍という各段階の横に置かれる一項目ではありません。それらすべての下にあり、すべてを包み、すべてをキリストに結びつける現実です。

カルヴァンもまた、キリストが私たちの外にとどまり、私たちがキリストから離れているなら、キリストが救いのために成し遂げられたことは私たちの益にならない、と教えました。私たちはキリストの功績を遠くから受け取るのではありません。聖霊によってキリストご自身に結ばれ、結ばれたキリストのうちに、義といのちと聖さを受けます。


霊的で神秘的で有機的で現実的な結合

この結合は霊的です。「霊的」とは、観念的、象徴的という意味ではありません。聖霊が私たちをキリストに結びつけておられるという意味です。「キリストにあって」は結合した者の現実を表し、「御霊によって」はその結合を私たちのうちに実現される方とその働きを示します。二つを同じ言葉に置き換えることはできませんが、切り離すこともできません。

この結合は神秘的です。曖昧な感情や神秘体験ではありません。聖書によって明らかにされていながら、人間の理解では説明し尽くせない、生けるキリストとの結合です。天におられるキリストと、地上にいる私たちが、聖霊によって真実に結ばれています。

この結合は有機的です。聖書は、かしらとからだ、ぶどうの木と枝という姿で語ります。枝は木から生命という品物を一度受け取り、独立して生きるのではありません。木につながっているので、木のいのちが枝に働き、実を結びます。私たちも、キリストから離れて恵みを所有するのではありません。キリストにあり続けるので、キリストのいのちに生かされます。

そして、この結合は現実的です。法的な比喩でも、頭の中の理解でもありません。私たちはキリストの神性に吸収されず、キリストと同一人物にもなりません。創造主と被造物の区別は永遠に保たれます。それでも結合は現実です。区別は保たれますが、キリストとその民を何ものも引き離すことはできません。


 

三位一体の神が成し遂げる一つの救い

キリストとの結合を中心に置くと、福音の全体構造が見えてきます。救いは、人間が神を探し、信仰を作り、最後まで維持する物語ではありません。父なる神が計画し、御子が成し遂げ、聖霊が現実に適用される、三位一体の神の御業です。


父なる神はキリストにあって選ばれた

世界の基が据えられる前、父なる神は御子を救いのかしら、仲保者として定められました。そして私たちを、そのキリストにあって選ばれました。私たちはまだ存在していませんでしたから、永遠の昔に御霊による経験的な結合を感じていたのではありません。しかし、神の永遠の愛と選びの中で、救われる者は一度もキリストから切り離された個人として考えられていません。

順序を守らなければなりません。「この人々を選び、後でキリストに結びつけよう」ではありません。「キリストにあって、この人々を選ぶ」です。選びの根は私たちの中にありません。私たちの決心、行い、将来の信仰を見込んだ選びでもありません。選びはキリストにあります。


御子はご自分の民を贖われた

時が満ちて、御子は人となられました。完全に律法に従い、十字架で私たちの罪を負い、神の怒りを受け、死者の中から復活されました。キリストは救いを可能にしただけではありません。ご自分にあって選ばれた民のために、贖いを成し遂げられました。キリストの死と復活は、救いの確実な土台です。


聖霊は私たちをキリストに結ばれる

私たちは生まれながらにアダムにあり、罪と死の支配の下にいました。御霊は福音の御言葉を通して私たちを召し、新しく生まれさせ、悔い改めと信仰を与え、キリストへ結びつけられます。ここで、永遠の選びと十字架で成し遂げられた贖いが、私たちの歴史の中で現実のものとなります。

父がキリストにあって選び、御子が贖い、御霊がキリストに結びつける。この三つは別々の救いではありません。父と御子と聖霊が、一人の罪人を、初めから終わりまでキリストにあって救われるのです。


 

一つのあってから流れる十の恵み

ここで、初めに挙げた十の恵みへ戻りましょう。ここではエペソ書だけでなく、新約聖書の各所に現れる「キリストにあって」「キリストのうちに」「主にあって」という表現を見ていきます。大切なのは、「あって」を文脈ごとに別の言葉へ置き換えないことです。一つのキリストとの結合があり、その結合が救いの各局面で異なる実を結びます。

 

一 キリストにあって選ばれた

「この恵みは、キリスト・イエスにあって、永遠の昔に私たちに与えられ」ました。第二テモテ 1章9節

キリストにある者として選ばれたから、キリストが私たちの契約のかしら、代表者となられます。「代表される」が「あって」の意味なのではありません。キリストにあって選ばれたから、キリストに代表されるのです。


二 キリストにあって贖われた

「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」コロサイ 1章14節

キリストは、ご自分と無関係な人々のために働き、その成果だけを後から配られたのではありません。ご自分の民のかしらとして死に、復活されました。私たちはキリストにあるから、その血による贖いと罪の赦しを受けます。


三 キリストにあって義とされた

「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」ローマ 8章1節

義認は、キリストから切り離された義を受け取ることではありません。キリストに結ばれた者に、キリストの完全な義が認められます。私たちの行いや聖化の程度が、無罪判決の根拠になるのではありません。私たちはキリストにあるので、キリストの義によって義とされ、もはや罪に定められません。


四 キリストにあって新しく造られた

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」第二コリント 5章17節

新生は、古い人間に独立した力を注入することではありません。御霊が私たちを復活のキリストに結びつけ、そのいのちによって生かされます。キリストにある者は新しく造られた者です。新しい創造はキリストの外には存在しません。


五 キリストにあって生きる

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ガラテヤ 2章20節

信仰生活は、キリストから一度力をもらい、その後は自分で歩く生活ではありません。私たちは毎日、キリストをいのちの源として生きます。御言葉に聞き、祈り、悔い改め、信仰によってキリストを仰ぎます。私が強いから生きるのではありません。キリストにあるから生きるのです。

ここまでの五つは、永遠の選びから地上の生活までを結んでいます。しかし、「キリストにあって」はここで終わりません。私たちが弱り、倒れ、やがて死を迎えても、この「あって」は続きます。


 

死を越えて続くキリストにあって

 

六 キリストにあって聖くされる

「あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって、神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」第一コリント 1章30節

聖化は、キリストから独立した自己改善ではありません。聖なるキリストに結ばれている者を、御霊がキリストの御姿に似た者へ造り変えられます。義認ではキリストの義が私たちに認められ、聖化ではキリストのいのちが私たちの歩みに実を結びます。どちらも同じキリストとの結合から与えられます。


七 キリストにあって守られる

「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ローマ 8章39節

堅忍は、私たちの信仰心が強く、最後まで自分で救いを保持できるという教えではありません。キリストが、ご自分に結ばれた者を離されないという約束です。私たちの手が弱るときも、キリストの御手は弱りません。倒れることがあっても、キリストとの結合は神によって保たれます。


八 キリストにあって死ぬ

「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」ヨハネの黙示録 14章13節

信者はキリストとの結合を失い、一人で死へ入るのではありません。キリストに結ばれたまま死にます。身体と魂は一時的に分かれますが、どちらもキリストに属しています。魂は主とともにあり、墓に置かれた身体もキリストの所有です。死でさえ、この結合を切ることはできません。


九 キリストにあって復活する

「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。」第一コリント 15章22節

私たちはキリストとは別に、同じような奇跡を受けて復活するのではありません。復活されたかしらに結ばれているので、そのからだとして復活します。かしらが復活した以上、そのからだも必ず復活します。キリストの復活は、私たちの復活の初穂であり保証です。


十 キリストにあって栄光を受ける

「あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」コロサイ 3章4節

栄化は、キリストから独立して完全な者になることではありません。栄光のキリストに永遠に結ばれ、その御姿に完全に似た者とされることです。私たちは神の本質に吸収されません。創造主と被造物の区別は永遠に保たれます。しかし、キリストとの結合は永遠に失われることはありません。しかし、罪から完全に解放され、復活の身体を与えられ、キリストとともに栄光のうちに現れます。

選びから栄化まで、十種類の「あって」があるのではありません。一つの「あって」が、永遠から永遠まで私たちをキリストのうちに保ちます。


 

福音の全体を一つにするあって

いま、救いの全体をもう一度見渡しましょう。世界の基が据えられる前、父は私たちをキリストにあって選ばれました。歴史の中で、御子は私たちのかしらとして十字架にかかり、贖いを成し遂げられました。聖霊は死んでいた私たちを生かし、キリストに霊的、神秘的、有機的、現実的に結びつけられました。

キリストにあるから、その義が私たちの義と認められます。キリストにあるから、その復活のいのちに生かされます。キリストにあるから、聖くされ、守られます。キリストにあるから、死の中でも主から離れません。キリストにあるから、身体も復活し、キリストの栄光にあずかります。

この順序を逆にしてはいけません。私たちが信じ抜いたから、キリストにあるのではありません。私たちが聖くなったから、キリストにあるのでもありません。父がキリストにあって選び、御子が贖い、御霊がキリストへ結びつけてくださったから、私たちは信じ、悔い改め、聖くされ、最後まで守られます。

それでは、救いの確かさをどこに求めるのでしょうか。自分の決心の強さでしょうか。今日の信仰の調子でしょうか。どれだけ変わることができたかという自己評価でしょうか。それらを見つめ続ければ、私たちは高ぶるか、失望するかのどちらかです。

御言葉は、私たちの目を自分自身からキリストへ向けます。大切なのは、私がどれほど強くキリストを握っているかではありません。キリストが私を捕らえ、ご自分に結びつけ、決して離されないことです。私は何を持っているかという問いよりも深い問いがあります。私は、誰にあるのか。

私はキリストにあります。だから、罪に定められません。私はキリストにあります。だから、罪との戦いの中でも捨てられません。私はキリストにあります。だから、死も私を主から引き離せません。私はキリストにあります。だから、キリストが現れるとき、私も主とともに栄光のうちに現れます。

ここに福音のクライマックスがあります。福音とは、神からから何か数えられるものを1つ1つ受け取って、自分のものとして蓄えることではありません。神がキリストご自身を与え、私たちをキリストに結びつけ、キリストのうちにあるすべてを私たちのものとしてくださることです。

救いの恵みが並ぶ前に、キリストがおられます。神は私たちをキリストにあって選び、キリストにあって贖い、キリストにあって義とし、生かし、聖くし、守り、復活させ、栄光へ導かれます。初めから終わりまで、神が主語です。そして初めから終わりまで、私たちはキリストにあります。

ですから、兄弟姉妹。神は、私たち自身の内には救いの根拠が何もないことを示されます。また、この世のどこを探しても、本当の救いはないことを示されます。

ですから、もう自分の内にも、この世にも、救いを探すことをやめましょう。

人生の旅路を歩むとき、楽しいときも、辛いときも、悲しいときも、キリストを仰ぎましょう。

自分の弱さを思い知らされるときも、罪との葛藤の中にあるときも、そして死を前にするときでさえ、キリストを仰ぎましょう。自分ではなく、世でもなく、ただキリストを。そして、この御言葉に立ち続けましょう。

「キリストにあって」とは、すべての救いがキリストにあるということです。

神がキリストにあって始められた救いを、キリストから離れて完成されることはありません。

キリストにあって選ばれ、キリストにあって贖われ、キリストにあって生かされた者は、最後までキリストにあって守られます。

そして、キリストにある者は、キリストとともに死に、キリストとともに復活し、必ずキリストとともに栄光へと導かれるのです。

救いの初めから終わりまで、すべては「キリストにあって」なのです。

 

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