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「私は変わりたい、変えてください」から先に進んでいるか

9月12日
読了時間: 12分

2026.9.6 豊川の家の教会礼拝メッセージ

「私は変わりたい、変えてください」から先に進んでいるか

 

前回、「罪との葛藤」について考えました。

そこで確認したことは、ただ「変わりたい」と思うだけでは足りないということでした。

「神さま、変えてください」と祈ることは大切です。しかし、その祈りのあとに、「だから今、従います。」が続かなければなりません。分かっただけでは終わらない。反省しただけでは終わらない。祈っただけでは終わらない。実際に従う。では、前回から今日まで、その従順は生活の中に現れているでしょうか。

 

前回から、何が変わったのか

「変わりたい」と言った。「自分から動けるようになりたい」と言った。「責任を持ちたい」と言った。「逃げたくない」と言った。

その言葉が本物なら、少しずつでも行動に変化が現れます。

以前より自分から動く。言われる前に考える。自分から確認する。失敗したら自分で修正する。人のせいにせず、自分の責任を認める。完璧である必要はありません。しかし、何も変わらないまま「変わりたい」という言葉だけを繰り返すことはできません。

 

問われているのは、気持ちではありません。**実際に従っているか。**そこです。

「神さま、変えてください」と本当に叫んでいるのか

「神さま、変えてください。」

この祈りは大切です。しかし、本当に自分の罪を前にして、奈落の底から叫ぶように、「主よ、助けてください。」と神を求めているでしょうか。

まさか、30秒ほど一度祈って、「祈ったから終わり。」になってはいないでしょうか。

問題は、30秒か30分かではありません。問題は、本当に神を求めているのかということです。

詩篇42篇の詩人は言います。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは神を 生ける神を求めて渇いています。」詩篇42篇1~2節

 

鹿が水を求めるのは、飾りではありません。水がなければ生きられないからです。

同じように、新しくされた魂は、「神がいなくても何とかなる。」とは思いません。

「私はキリストなしでは立てない。」「私はキリストなしでは罪と戦えない。」「私はキリストを必要としている。」

だから求めます。だからすがります。

本当に自分では立てないと知った人は、自分の力に戻るのではなく、助けてくださる方により頼みます。

それなのに、「神さま、変えてください。」と祈ったあと、すぐ元の生き方に戻る。

逃げる。人に任せる。責任を取らない。分かっているのに動かない。

それなら、「変えてください」という祈りが口先だけになっていないか、真剣に考えなければなりません。

新しく創造された心は、絶えずキリストを求める

詩篇42篇の言葉は、一度だけ神を求めた人の言葉ではありません。

「私のたましいは神を 生ける神を求めて渇いています。」

魂そのものが神を求めています。

ただ、「問題を解決してください。」ではありません。

ただ、「この状況を変えてください。」でもありません。

「神よ、私はあなたご自身を必要としています。」という渇きです。

これが、新しく創造された心の方向です。

キリストにすがることは、一時的な感情ではありません。

苦しいときだけ求める。失敗したときだけ祈る。問題が起きたときだけ助けを求める。

それだけではありません。

新しく創造された心は、絶えずキリストを求めます。

それは、御霊によって新しくされた心が、もはや自分自身を最後の支えとはしないからです。

 

「自分では立てない。」「自分では罪に勝てない。」「自分にはキリストが必要だ。」

この根本的な依存が、真の信仰者のうちにあります。

それは、いつも同じ強さの感情があるという意味ではありません。

祈りがいつも熱いという意味でもありません。

信仰者にも、うなだれるときがあります。思い乱れるときがあります。涙の中にいることもあります。

詩篇42篇の詩人自身がそうでした。

 

しかし、その中で自分の魂に語ります。

「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」詩篇42篇5節

 

ここに、生きた信仰があります。

うなだれない信仰ではありません。苦しまない信仰でもありません。

うなだれても、神を待ち望む信仰です。

倒れても、神を求める。罪に負けても、神から離れて平気ではいられない。またキリストへ戻る。またキリストにすがる。また御顔を求める。

新しい心は、「もういい。」と神から離れて平気ではありません。

御霊によって、また神へ向けられます。

鹿が水を求めるように、またキリストを求めるのです。

すがることと、すぐ従うことは表裏一体

 

そして、神を求めることは、従うことから切り離されません。

キリストにすがることと、すぐ従うことは表裏一体です。

鹿が水を求めながら、水から逃げることはありません。本当に渇いているなら、水へ向かいます。

同じように、「主よ、助けてください。」とキリストを求めながら、キリストが示された道から逃げ続けることはできません。自分では立てないと知っているから、キリストにすがる。キリストにすがるから、与えられた力によって従う。また弱さを知る。またキリストにすがる。そして、また従う。

これが信仰者の歩みです。

 

「キリストにすがっています。」と言いながら、従わない。

「神さま、助けてください。」と言いながら、示されたことを先延ばしにする。

「変えてください。」と言いながら、自分から動かない。

それでは、すがることと従うことが切り離されています。

真の信仰は、「いつか従います。」ではありません。

 

「今、従います。」です。

 

祈る。そして従う。助けを求める。そして動く。

すがる。そして、すぐ従う。

従順は必ず行動に現れるヤコブは言います。

「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」ヤコブ1章22節

 

御言葉を聞いた。注意された。自分の問題も分かった。

それでも同じ生き方を続けるなら、「分かっています」という言葉だけでは足りません。

神を求める心は、生活の方向を変えます。

完全になるという意味ではありません。二度と失敗しないという意味でもありません。

しかし、方向が変わります。

 

以前なら逃げていたところで、逃げずに向き合う。以前なら誰かを待っていたところで、自分から動く。以前なら言い訳していたところで、自分の責任を認める。以前なら放置していたところで、最後まで確認する。

なぜなら、その人が求めているのは、自分の楽な道ではなく、神だからです。

「生ける神を求めて渇いています。」

その渇きは、必ず神に従う方向へ人を動かします。

罪との葛藤には、実際の戦いがある

詩篇42篇の詩人は、自分の魂に語りかけました。

「神を待ち望め。」

自分の心がうなだれているからこそ、自分の心を神へ向け直したのです。

 

罪との戦いも同じです。

逃げたい。しかし、神を待ち望んで、逃げない。

人に任せたい。しかし、神にすがって、自分から動く。

言い訳したい。しかし、神の御前で責任を認める。

責任を避けたい。しかし、神に助けを求めて責任を取る。

これが罪との戦いです。

 

戦って負けることはあります。しかし、負けることと、最初から戦わないことは違います。

倒れたとき、生きた信仰は自分の内側だけを見続けません。

「わがたましいよ、なぜうなだれているのか。」

そして自分を神へ向けます。

「神を待ち望め。」

倒れても、キリストに戻る。罪を正当化しない。そして、もう一度従う。

そこに罪との戦いがあります。

また、「できない」という言葉の中に、「したくない。」「面倒だ。」「誰かに任せたい。」「責任を負いたくない。」という心が隠れていることもあります。

もちろん、本当にできないことはあります。しかし、できることまでしないなら、それは単なる弱さではありません。

 

従順の問題です。

悔い改めは、神へ向きを変えること

本当の悔い改めとは、「ごめんなさい。」と言うだけではありません。

向きを変えることです。

そして、その向きはただ「悪いことから良いことへ」ではありません。

自分から神へ向き直ることです。

自己依存から、キリストへの依存へ。逃げる方向から、神に従う方向へ。

人に任せていたなら、自分から動く。待っていたなら、自分から確認する。逃げていたなら、向き合う。失敗したなら、自分から修正する。言い訳していたなら、自分の責任を認める。

なぜそうするのか。

 

ただ立派な人間になるためではありません。

神を求めているからです。神の御前を歩みたいからです。

詩篇42篇の詩人が、「いつになれば私は行って 神の御前に出られるのでしょうか。」と願ったように、新しくされた心は神の御前を求めます。

だから、生活の中でも神に従うのです。

考える。行動する。確認する。修正する。責任を取る。

こうした具体的な生活の中に、神へ向き直った心が現れます。

自分の力で変わるのではない。しかし、何もしなくてよいのでもない

これは、「もっと自分で頑張れ。」という話ではありません。

しかし同時に、「神さまが変えてくださるのだから、自分は何もしなくてよい。」という話でもありません。

この二つは、どちらも間違いです。

イエスさまは言われました。

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。」ヨハネ15章5節

 

鹿が水なしでは生きられないように、私たちはキリストを離れて生きることはできません。

だから、キリストを求めます。キリストにすがります。御霊の助けを求めます。

しかし、そこで何もしないのではありません。

 

パウロは言います。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」

ピリピ2章13節

 

神が働いてくださる。だからこそ、従うのです。

神が力を与えてくださる。だからこそ、与えられた力によって動くのです。

「自分の力ではできない。」だから、キリストにすがる。

「キリストが助けてくださる。」だから、すぐ従う。

自分の力だけで頑張るのでもない。何もしないで待つのでもない。

キリストを求め、キリストにすがり、御霊によって、自分が従う。

これが聖書の歩みです。

 

だから、「神さまが変えてくださるまで待ちます。」ではありません。

「主よ、私はあなたを求めます。助けてください。だから今、従います。」です。

最後に ― 鹿が水を求めるように

最後に、もう一度、詩篇42篇に戻ります。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」

これが、生きている信仰の姿です。

生きている信仰は、人間が自分の中から作り出すものではありません。

 

生きている信仰は、キリストとの結合の結果として現れます。

御霊によってキリストに結ばれ、キリストのいのちにあずかった者の中に、新しい渇きが生まれます。

神を求める。生ける神を求める。キリストを必要とする。キリストにすがる。そして、キリストに従う。

これが、生きた信仰です。

 

反対に、死んでいる信仰とは、口では「信じています」と言えても、この神への渇きがなく、キリストにより頼むこともなく、罪との戦いもなく、従順の実も現れない信仰です。

ヤコブは言います。「行いのない信仰は死んでいるのです。」ヤコブ2章26節

行いが信仰を生かすのではありません。従順が私たちを救うのでもありません。ヤコブは言います。

「行いのない信仰は死んでいるのです。」ヤコブ2章26節

しかし、行いが信仰を生かすのではありません。従順によって私たちが救われるのでもありません。聖書は、信仰が強められることや、信仰の強い者・弱い者について語っています。しかし、「強い信仰」とは、自分の内側に強い信じる力を持つことではありません。信仰の強さは、自分を信じる強さではなく、自分から目を離し、約束してくださった神により頼むところにあります。私たちを支えるのは、私たちの信仰の強さではありません。信仰がより頼むお方、キリストが私たちを支えてくださるのです。

強い方は、キリストだけです。

信仰とは、試練を通して神によって砕かれ、もはや自分の力、自分の方法、自分の知識、この世のものに頼ることをやめ、ただ神により頼む心です。それは、自分には何もないことを知って差し出す、空の手のようなものです。空の器と言ってもよいでしょう。私たちは、自分の中から義や聖さや力を生み出すのではありません。御霊によってキリストに結ばれ、キリストからすべてを受け取ります。

強い方はキリストだけです。

キリストこそ、私たちの義であり、いのちであり、力です。そして、キリストに結ばれた者のうちには、そのキリストのいのちが、真の強さ、義、聖さ、優しさ、思いやり、善、希望、愛、そして従順という実となって現れていきます。ですから、行いは信仰に命を与えるものではありません。生きた信仰だからこそ、行いという実が現れるのです。

私たちを救うのは行いではなく、キリストだけです。

そして神は、試練を通して私たちの自己依存を砕き、私たちの手を空にし、ただキリストにより頼む者へと造り変えてくださいます。だから、本当にキリストに結ばれた信仰は、実を結ばないままでは終わりません。

ですから順序は逆です。

キリストに結ばれている。だから、生きた信仰が現れる。生きた信仰がある。だから、神を求める。神を求めるから、キリストにすがる。キリストにすがるから、御霊によって従う。そして、従順の実が現れる。

木が実を結ぶから生きるのではありません。木が生きているから実を結びます。

同じように、生きている魂には渇きがあります。

「私のたましいは神を 生ける神を求めて渇いています。」

そして、その渇きは、生活の中に現れます。

 

神を求めるから、逃げたままでいたくない。神を求めるから、人のせいにしたままでいたくない。神を求めるから、罪を正当化したままでいたくない。神を求めるから、神が示されたことに従いたい。

もちろん、生きた信仰も倒れます。うなだれます。思い乱れます。涙を流します。

しかし、そこで終わりません。

 

詩篇42篇は言います。

「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。」

これが、生きた信仰です。

倒れても、「神を待ち望め。」

罪に負けても、「神を待ち望め。」

逃げたくなっても、「神を待ち望め。」

自分ではできないと思っても、「神を待ち望め。」

そして、神を待ち望むとは、何もしないで座っていることではありません。

神にすがり、神の力によって、今与えられていることに従うことです。

 

だから、この説教の最後の問いは一つです。

あなたの魂は、今、何を求めていますか。

自分の楽さでしょうか。自分を守ることでしょうか。誰かに任せて責任から逃れることでしょうか。

それとも、鹿が水を求めるように、生ける神を求めているでしょうか。

 

もし神を求めているなら、キリストにすがってください。そして、すぐ従ってください。うなだれても、神を待ち望む。倒れても、キリストに戻る。罪に負けても、また立ち上がる。そして、御霊によって従う。

 

今日、神を求める。今日、キリストにすがる。今日、悔い改める。今日、従う。

「私のたましいは神を 生ける神を求めて渇いています。」

この渇きから、すがる。

そして、すぐ従う。

主はいわれます。

「イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

そこに、キリストとの結合から現れる、生きた信仰があります。

 

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