10人の乙女の例え話(マタイ25)
- thewordforyoujapan
- 3月8日
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更新日:5月25日
2025-2-4 10人の乙女の例え話
マタイの福音書 25章
1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれが“ともしび”を持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。3 愚かな娘たちは、“ともしび”は持っていたが、油を用意しておかなかった。4 賢い娘たちは、ともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。7 娘たちは、みな起きて、自分の“ともしび”を整えた。
8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
ある牧師先生の解釈を説明します。
●前回、「一人は取られ、一人は残される」という携挙について学びました。「取られる」とは携挙を意味します。同じ主を信じている者であっても、「残される」者がいることを教えています。ここで重要な点は、「取られる」のはクリスチャンで、「残される」のはノンクリスチャンだということではないということです。クリスチャンでありながら、「一人は取られ、一人は残される」のだということです。「残された者」はより厳しい状況(大患難)の中を通らなければならなくなります。それは救いの問題ではなく、褒賞の問題です。つまり、「目を覚ましている賢い娘」であるかどうか、主に褒められる「忠実なしもべ」となるかどうかの問題です。
この牧師先生の解釈はとても恐ろしく、また、とても間違っています。この解釈理解の根底にあるのは救いは恵みと行いであると言うことです。 このような間違った理解をしている人達が多くいます。
花婿はキリストです。花婿が彼の教会との結婚式を祝うためにくると言うたとえ話です。結婚式への出席者には娘たちがいます。北海道の牧師の解釈ではそれらの人は、教会に信仰をもって集まっている人々であり、クリスチャンです。そしてその半分は賢明な娘たち、そしてもう半分は愚かな娘たちです。
そして、問題はこの賢明な娘たちと愚かな娘たちとは誰のことなのかが問題です。
さて、質問ですが、北海道の牧師先生が言うようにこの娘たち全員はすべて真の信仰者なのでしょうか?すべての見える教会には神がキリストにあって時が始まる前から選んだ人々だけがいるでしょうか?
この質問は私たちの「この賢い娘たちと愚かな娘たちは誰なのか」についての視点を広げます。
アウグスチヌスが言うには教会には見える教会と見えない教会があります。見える教会とは物理的な教会に集まる人々を外面的に見ています。見えない教会とは、神に選ばれている人達の教会です。
ですから見える教会には見えない教会の人々がいます。つまり、この10人の娘たちは見える教会、見えない教会、偽りの信仰者と真の信仰者を意味しています。
愚かな娘たちが、愚かである理由は、娘たちが結婚式に準備ができていない状態で来たからです。物理的な教会の一員であるためには、ほとんどの場合、教会の歴史を通じて、人はキリストへの信仰を告白しなければなりません。ですから、この10人の娘の全員がキリストへの信仰告白をしたと考えます。 しかし、そこには救いに至る信仰告白があり、偽りの信仰告白があります。
そこにはキリストの御霊と一体である魂があり、また、うわべだけの行為、信仰の魂はキリストと一体ではありません。
そして、その違いは賢い娘たちはランプだけでなく、ランプ用の油も持ってきたと言う表現に現わされています。愚かな娘たちはランプを持ってきたが、必要な油は持ってこなかった。
そして、結局、新郎が予定した時間にそこに着かなかったため、結婚式は遅れました。
娘たちが遅れた花婿の到着を待っていたとき、娘たちは眠りに落ちました。
そして真夜中、娘たちは呼び声で目覚めました、「見よ、花婿が来ています。」
そして、賢明な5人の娘たちはすぐにランプを取りました。
しかし、愚かな乙女たちは、必要なもの、つまりランプの油がないことに気づきました。
そしてなんとかして油を得ようと買いに走りますが、間に合わず買いに行くこともできません。
花婿が来て、結婚式に入り、慣習に従って、外のドアは閉められ、鍵がかけられました。これらの愚かな娘はこの喜びに満ちた結婚式のお祝いから締め出されました。そして、愚かな乙女たちが戻ってきて、結婚式が始まったことに気づくと、彼らはドアを引っ張りました。彼らは入ろうとしました。
ドアは施錠されていた。彼らはドアをノックし、ドア越しに叫び、結婚式を中断して、「主よ、主よ、私たちを入れてください」と言っています。聖書では2回神が名前を呼ぶ箇所が15回あります。
アブラム、アブラム、ヤコブ、ヤコブ、アブラム、ヤコブ、ヤコブ。私の父、私の父、エリシャはエリヤに言います、そして聖書全体を通して、マルタ、マルタ、サウル、サウル、なぜ私を迫害するのですか?
アブサロム、アブサロム。そのため、名前が繰り返されるとき、それは個人的な親密さを表現でした。愚かな娘たちが来て、ドアが鍵をかけられているとき、彼女たちは外の暗闇の中でただ泣くだけではありません。主よ。しかし、彼らは言う、「主よ、主よ、愛しいしよ。あなたは私の主です」。ここにいたかった。あなたの結婚式に来ると思っていました。そして、あなたは私の主です、主よ。
この2度、娘たちが主の名を呼ぶ意味は声は「主よ、あなたは私を知っています。私はあなたについて親密な知識を持っており、あなたとの親密な個人的な関係を持っています。」と言っています。
しかし、主は言います。私はあなたを知らないと言われます。愚かな娘たちは「主よ、主よ」と呼びますが、主は言われます。私はあなたのことを知りません。マタイの福音書の前半で、イエスが第7章21節で「主よ、主よ」と私に言うすべての人が天国に入るわけではなく、天で私の父の意志を行う者が天国に入ると言っているのと同様の方法で終わる、山上の説教を読みます。
その日、多くの人々が私に言うでしょう、「主よ、主よ、私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡を起こしたではありませんか」。
そして、その人たちは言うかもしれません。私は牧師でした。私は日曜学校の先生でした。私は長老でした。私は執事でした。私は毎週、教会に行き、献金をして、祈祷会も参加していました。献金も十分の一献金をしていました。私はイエスキリストの御名により、実際に奇跡を起こし、本当に悪霊を追い出しことをしました。人の病気も癒したことがありました。私は神学を学びました。私はジョンマッカーサーの神学校で聖書を何年も勉強しました。それは私のプライドです。私は健康です。神に感謝しています。献身して教会のために働きました。私は財産から教会に2000万円献金しました。
しかし、主は彼らに宣言します、私はあなたを知らない。無法を行う者よ、私から離れなさい。ここには類似点があります。結婚式で、花婿は「私はあなたを知らない」と言います。ここで、山上の説教の終わりに、イエスは言われました、「私はあなたを知らない」。
主のこの話を聞いている目に見える教会の愚かな娘たちは不安と恐怖に襲われます。愚かな娘たちは自分たちが御国から締め出されるのは油をもっているか、もっていないかであると理解していません。神の与える聖霊が油です。油の意味を理解していません。そして油を買う活動に走ります。しかし、愚かな娘たちは主が言われる油が何か理解していません。そして愚かな娘たちには油は“もの”となってしまいます。
ものとは律法主義で言えば、恵みと行いで義を得ることが出来る信仰や知識、また、福音派では「第2の祝福、聖霊の火など」それはすべて、行い、体験、感覚です。
愚かな娘たちは、自分たちの不安と恐怖を埋めようと必死にそれらのものをお金で買います。
しかし、聖書では油は聖霊であると一貫して教えています。決して油はお金では買えません。
主は言われます。
ヨハネ3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」 5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。 6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
主はマタイ25章13節で真の信仰者に目を覚ましているように命令しています。それは真の信仰者は暗闇の領域から解放されているので、罪と無知の夜から連れ出され、神の光の中に入れられます。真の信仰者は光の中にいるので、霊的な無関心と安楽の中で眠るのではなく、周囲の霊的な問題に気を配る必要があります。彼らは、主の日によって眠っている人々が目覚めさせられるように、眠っている暗闇の人々のように生きるのではなく、御霊によって歩くようにと命令されています。
主の日において、「神が永遠の時の始まる前から選んだ神の子どもたち」がキリストにあって神の御国に一つに集められることを感謝して、神の御顔を直接、仰ぎ見ることができる光栄を喜び、感謝しましょう。


