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- 啓蒙主義と教会:人間の理性を神に置き換える宗教
2025.12.28 豊川の家の教会 礼拝メッセージ 1. 啓蒙主義とは何か 「人間の理性を神に置き換える宗教」というタイトルで、どうして日本の多くの教会が人間主義的なキリスト教になってしまっているのか、また世界でも同じような傾向になっているのかを扱います。 そこに一番大きく介在しているのは、啓蒙主義という教え、考え方、思想です。この啓蒙主義は、近代の日本の思想・経済・教育と大きく関わっています。 まず「啓蒙」という言葉の意味について説明します。啓蒙の「啓」は「開く・悟す」という意味です。「蒙」は覆われて暗い無知な状態、つまり無知や迷信や古い習慣に覆われている状態を指します。したがって啓蒙とは、無知や迷信や古い習慣に覆われている人を、理性や知識によって目覚めさせるという意味になります。 啓蒙主義というのは、辞書的に言えば、無知や迷信、古い習慣に覆われている人々が、理性や知識によって目覚めさせられる、というものです。日常では「知識を与える」「教えて理解させる」「近代的・合理的にする」というニュアンスで使われます。 会社でも「啓蒙活動をしましょう」という言葉をよく使いますが、そこでは「無知」という言い方はせず、「古い習慣・しきたりを、知識や理性によって改革しましょう」という意味で使われます。 しかし、西洋思想での啓蒙(Enlightenment)の本来の意味は、単なる教育ではありません。語源には「光で照らす」「闇から理性へ抜け出す」という意味があります。 そこでイマヌエル・カントが定義した言葉が重要です。カントはこう定義しました。「啓蒙とは、人間が自ら招いた未成年状態から抜け出すことである。」 ここで言う「未成年状態」とは、他人の権威、教会、伝統、神に依存して考える状態です。啓蒙とは、自分の理性で考え、判断し、結論することです。ここには明らかに「神」が絡んでいます。カントの有名な標語はこうです。「自らの理性を用いる勇気を持て。」 啓蒙思想という言葉の革新的な意味は、単なる知識の普及ではありません。**判断の最終権威は神ではない。啓示ではない。伝統ではない。人間の理性だ。**という転換です。つまり「光」は神の啓示ではなく、人間の理性に置き換えられるのです。 2. なぜ啓蒙主義は宗教改革と違うのか 啓蒙思想は宗教改革の時代と同時期に起こってきます。しかし両者はまったく別の方向を向いています。 宗教改革は、ローマ・カトリックが聖書の言葉を独占し、自分たちの支配のためにねじ曲げ、無知な人々を作り、そこから利益を搾取していたことを批判しました。宗教改革は、神の言葉を回復する運動です。そして教会の権威を聖書に従属させる運動でした。当時ローマ・カトリックは、教会の権威の下に聖書を置き、聖書の言葉を変え、神の権威を教会の下に置きました。しかし宗教改革は、主語を神に戻す改革でした。 一方、啓蒙主義はローマ・カトリックに対して、まったく違う角度から来ます。教会が神の言葉の上に立っていることを排除するだけではなく、さらに進んで、**神そのものを排除し、理性を最高権威に持っていく。そして聖書と神を理性の裁判台に置く。**つまりローマ・カトリックも含めて、理性によって裁くのです。主語は人間です。 当時ヨーロッパには神権政治がありました。それに対する抵抗が二つあったのです。一つは「聖書への回復」。もう一つは「人間の理性を神と置き換える」。 日本語の「啓蒙」には、教育・善意・進歩・開化という肯定的イメージがあります。しかし啓蒙という言葉の本質には、自己神格化、つまり自分を神にする/自分の理性を最終判断にするという意味が入っています。これを自覚せずに、私たちは無自覚に人間中心主義に入っていきます。 まとめると、啓蒙とは「理性を光にし、権威を人間に移す思想」です。教育や説明の話ではなく、権威構造を転換する話です。啓蒙思想は、人間の理性を権威にし、神からそれを取り上げるのです。その根底には、ローマ・カトリックや神権政治への抵抗がありました。宗教改革も抵抗という意味では似ていますが、方向は真逆です。近代思想、文明改革、自由主義神学の基礎は、この啓蒙主義にあります。 3. 啓蒙主義の歴史的特徴 啓蒙主義は17世紀から始まります。神権政治の抑圧の中で、庶民が考えることをやめ、ゾンビのように従う人間になっていることに対して、「考えなさい」「自分の理性で判断しなさい」「盲目的に従ってはいけない」というところから来ています。 その結果、理性を最高権威として、啓示・伝統・権威・教会を相対化します。絶対視しません。神も否定しない場合がありますが、「一つの考え方」として相対化します。 そして人間は理性によって世界を理解し支配できると考えます。真理は外から与えられるものではなく、人間が認識・判断するものだとします。代表的特徴として、神の主権は否定しつつも、存在は認め、神は「介入しない存在」として遠くに置かれます(理神論)。この世は因果律(因果応報)で説明され、主体は常に「考える人」です。 ロダンの「考える人」は啓蒙主義の象徴とも言えます。啓蒙主義は「世界をどう理解するか」という認識論・哲学です。 4. 日本における啓蒙主義の特徴(西洋との違い) 西洋の啓蒙主義は、教会の権威、神の支配への批判でした。特にローマ・カトリック、またイギリス国教会など、国家が宗教によって民衆を支配していた構造への抵抗でした。 幼児洗礼も、歴史的には国家が身分制度・共同体登録を統治する仕組みと結びついて、洗礼を受けなければ社会共同体で生きられないようにする形がありました。だから幼児洗礼が「必要」だとされる構造が生まれた、という背景が語られることがあります。 西洋的啓蒙は、神中心の秩序から人間中心の秩序へ転換するものを打破しようとし、宗教も「一つの考え方」として相対化します。絶対視しません。 一方、日本型の啓蒙思想は文明開化の時代、明治期に入ってきます。西洋にいた留学生や、日本に入ってきた宣教師などを通して、まず上流階級(政府官僚・指導層)に入ります。日本ではこれを日本に馴染むように変換しました。大きな前提は、天皇制と国家権威を温存することでした。 また日本は、土着信仰・偶像礼拝が盛んで、「神を追い出す」方向には行きにくく、また、伊勢神宮と皇室の結びつきもあります。だから日本では、宗教批判よりも、封建制度を根絶し、国家建設を進めるための実用的ツールとして啓蒙思想が用いられました。伝統を整理し国家を近代化する手段として啓蒙主義が取り込まれたのです。これは日本の近代化の中心思想の一つになりました。 文明開化のスローガン自体が啓蒙主義です。「学問によって国を強くする」「理性・知識による進歩」「遅れた習慣の打破」「文明/野蛮という二分法」。ここには「人類は理性によって段階的に進歩する」という進歩史観があります。 この啓蒙思想は中国など他地域にも広がっています。たとえば中国でトイレに「もう一歩前へ」などの標語があり、「あなたの一歩は人類の進歩のための一歩である」といった形で啓蒙的進歩観が日常にまで入り込んでいるのが見えることがあります。 日本では福沢諭吉、中村正直、中江兆民などが文明開化の翻訳者・解釈者でした。ただし重要なのは、啓蒙主義が文明開化の中心思想であっても、唯一の思想ではないことです。日本はそこに国家主義(富国強兵)、国体論、天皇制、そして家制度のような伝統秩序を接合して近代化しました。家制度は啓蒙思想と反対の要素を持ち、今でも根強く残ります(長男は家を守る等)。つまり日本は、啓蒙主義と国家主義と伝統秩序を接合して成立した近代社会です。 5. 啓蒙主義が宗教化すると「人間中心主義」になる この啓蒙主義が宗教化していく中で、それを人間中心主義と言います。人間中心主義の宗教とは、支配神学、霊的戦い神学、表面的キリスト教、律法主義など、さまざまな形で現れます。いずれも「行いによって」「自分の意思で」「改善していこう」という構造を持ち、「私が」「あなたが」という主語が前に出てきます。神が主語ではありません。 「人間中心主義」と言ったら、「人間中心主義の宗教」だと理解すればよいです。人間が基準、目的、尺度になります。「人にとってどうなのか」が最終判断になります。神は補助的・中立的・心理的役割に縮小します。 キリスト教に現れる形としては、救いが「人の理解」「決断」「応答」になります。「福音の招きに応答しましょう」という構造になり、救いが人間中心に置き換わります。恵みも、人が受け取りやすい形に調整されます。恵みは絶対ではなく、神が一方的に与えるのではなく、あなたが選ぶ出来事のように扱われます。「恵みを数えてください」という賛美が、恵みを出来事化・物化する方向に働く場合があります。恵みがキリストであることを理解しなくなるのです。なぜなら人間中心だからです。 聖書も、神の啓示ではなく「マニュアル」「教科書」にされます。聖霊は神ではなく体系になり、聖書は生ける神の語りではなく教材になります。 人間中心主義は、福音の神中心構造を人中心構造へすり替える宗教です。啓蒙主義は思想・認識論であり、「人はどう知るか」が中心です。啓蒙主義の主体は「理性を持つ人間」。それが宗教化すると、主体は「欲求し経験する人間」になり、神は相対化され、距離を置かれ、神は遠くにいる存在になります。信仰の中に「神が自分の内に生きておられる」という現実が失われます。 そして人間中心主義は、神を道具にします。神を神として恐れず、欲求実現のツールにします。これが人間中心主義です。 6. 西洋教会への影響(内側からの変質) 西洋のキリスト教会は、啓蒙主義と、その実践である人間中心主義宗教から極めて多くの影響を受けました。外側から攻撃されたのではなく、教会の内側の構造そのものを揺るがす影響です。福音の土台が崩される影響です。 啓蒙主義は、教会の権威、聖書理解、信仰のあり方を根本から再編しました。その結果、西洋の教会は、正統信仰を守った流れと、啓蒙主義を受け入れて変質した流れに分岐しています。すぐ分かる例があります。「先生、聖書は正しいですか」と聞いた時に、「聖書はちょっと間違いがあるんだよ。古代人が書いたから」と言うなら、それが啓蒙主義的再編です。 啓蒙主義が教会に突きつけた問いはこれです。 • 理性は啓示より上位に置けるか • 伝統や権威は批判されてよいか • 神の言葉は批判されてよいか • 真理は神が語るものではなく、人が検証し判断するものか LGBTの問題でも、この問いが教会に投げつけられています。「聖書は古代人が書いたものだから、現代文化の中で再検証し問い直さないといけない」という言い方は、神の権威を理性の裁判台に置いています。自由主義神学、ナラティブ神学、プログレッシブ神学などに、その構造が見えます。 7. 教会が受けた具体的影響 (1)聖書理解の変質 聖書を神の啓示ではなく歴史文書・宗教文献として分析する。奇跡や超自然を否定する。書いた人を研究対象にする。これは聖書の権威が人間理性の裁判台に置かれたということです。 (2)神理解の変質 神は存在するかもしれないが介入しない存在として語られる。その結果、教会がこの地に神の国を建設しなければならない、悪の支配から解放しなければならない、という形で、神が介入しないかのように語られることも起こります。 別の形では、伝統主義・律法主義に落ちる教会は、祈り・摂理・奇跡を否定し、聖霊の働きも否定します。聖書を霊的なものではなく道徳基準として扱い、立法主義になります。生きて働く神から抽象的原理へ移します。 (3)救済理解の変質 罪は道徳的未熟さ、救いは人格向上・倫理的改善。キリストは贖い主ではなく模範的人物。十字架の中心性が失われるためです。 (4)教会の役割の変質 教会が「救われて召し出された者の集まり」ではなく、「倫理的教育機関」「福祉団体」「NGO」のようになる。礼拝が道徳メッセージの場になる。神の業の場から人間形成の場へ変わります。 8. 二つの流れ(分岐) 教会には二つの流れがあります。1つは 啓蒙主義を受け入れた教会 (現代では自由主義神学等)。もう1つは啓蒙主義に抵抗し、 宗教改革の伝統を守る流れ (改革派・正統信仰)。 後者の特徴は、聖書の自己証明(聖書は神が書かれたもの)、神の主権、超自然的救済の現実です。超自然的救済とは、時の始まる前に神が選び、あなたが選んだのではなく神が選び、神があなたを変えていく、神が主体の働きだという現実です。 ここで重要な点があります。啓蒙主義は教会を外から破壊したのではありません。教会内部の「理性的・道徳的に整いたい欲求」と結びついて、内側から教会を変質させました。外見はキリスト教、用語も聖書的、しかし構造は人間中心、という偽装形態が生まれました。 9. 日本の教会が「啓蒙主義的福音構造」になった理由 日本には宗教改革の経験がありません。ヨーロッパは中世教会の堕落があり、聖書への回帰があり、その後に啓蒙主義が来ました。宗教改革があった後に啓蒙主義が出てきました。 しかし日本は宗教改革を経験していません。カトリック的神権政治も経験していません。日本にあったのは天皇制、封建制度、国粋主義、家制度です。そこに西洋近代化として啓蒙主義が一気に流入しました。 そして日本に入ってきた多くのプロテスタントは、明治以降、19世紀以降の欧米から来ていますが、すでに自由主義神学、リバイバル神学、道徳主義などの影響下で変質したものも多く含んでいました。結果として福音は倫理、信仰は決断、救いは人生改革、教会は教育機関・福祉団体になりました。啓蒙主義を通過した、人間中心主義的・加工済みのキリスト教が広がったのです。 さらに教育構造が追い打ちをかけました。神学が大学制度の中で「学問」になり、神学は宗教研究・思想史、聖書は研究対象、神は信仰対象ではなく概念になります。三位一体は説明されても信仰に結びつかない。多くの新学生は頭でっかちになり、証明が来ていない。砕かれていない。父・子・聖霊が主語にならないまま、空虚な福音が広がる。 そこに日本的文化適用が加わります。日本文化は「排他性を和らげる」「わかりやすく感じよく」「強い決断を避ける」。結果、罪は曖昧になり、裁きは沈黙し、選びは隠蔽され、救いは「選択」になります。 啓蒙主義+日本の和の文化=日本型人間中心福音、という構造になります。 啓蒙主義は理性中心、日本文化は空気・常識中心で相性が良い。「常識でしょ」「空気読みなさい」。普遍倫理と共通感覚の道徳。超自然を排除する傾向。どちらも神の主権を避けます。だから日本では神の主権、選び、裁き、排他性(選ばれた者だけが救われる)が強く嫌われます。 その結果、日本の教会の説教は個人の経験が中心になり、キリストとの結合が語られません。聖霊の働きも、体験演出か、逆に「もう終わった」とされるか、両極端になります。しかしどちらも誤りです。聖霊は今も働き、信者のうちに働き導いておられます。 10. 「神は愛である」だけが前面に出る危険 教会の入口に「神は愛である」と掲げるのは悪くない。しかしそれだけが前に出ると、「愛は神である」と誤認が起こります。本来は「神は聖である」「神は義である」「神は愛である」「神は知恵である」「神は力である」という秩序が必要です。人が慰めを欲するから「愛」だけが神の本体のように扱われ、人が聞きたいことだけが語られる。これは聖書が告げた通りです。人々は耳に心地よい教師を集めます。 福音は説明ではなく宣言です。多くの日本の教会は「分かってもらう」「納得してもらう」「共感を得る」ことを目指します。しかし福音は「述べ伝える」のであり、分かるか分からないかは神の証明にかかっています。知識量が救いではありません。福音は権威として告げられ、服従を伴います。 日本文化では宣言は暴力的支配に見えることがあります。しかし旧約の預言者は「神はこう言われる」と宣言し、彼らは殺されました。福音は耳が痛い反応を起こします。それは光が照らす時に起こる反応です。 11. 人間中心主義の最悪性(善意と愛の顔) 人間中心主義が最も危険なのは、悪としてではなく、善意と愛の顔をして現れるからです。 • 相手を傷つけないように • 分かりやすくして • 分かって納得してもらう • つまずかせないため こうした善意が、神がなさった出来事を「人がどう受け取るか」へ変容させます。人の理解・経験・感情が中心になります。これは出エジプト記32章の金の子牛事件と同型です。 金の子牛は無神論ではありません。決定的なのは32章5節で、アロンが祭壇を築き「明日は主(ヤハウェ)の祭りである」と布告したことです。主の名を用いたまま、礼拝・祭り・熱心さを保ったまま、神の主権と現実の働きを人間の管理下に置きました。問題は誰が主導権を握っているかです。 人が扱える形、分かる形、安心できる形に神を変える。これが人間中心主義です。相手の感情に配慮して、扱える形に御言葉を変えた瞬間、それは御言葉ではなくなります。福音を破壊しています。 12. AIと啓蒙主義(人間中心主義への自動転落) ここからAIの話に行きます。生成AI(ChatGPT、Google Gemini等)は意図的に神を否定しないことがあります。しかし設計思想の土台は啓蒙主義です。だからAIは「あなたに分かりやすいか」「あなたの感情を傷つけないか」「共感できるか」「納得できるか」「心理的に安全か」を最適化します。 その結果、AIは人間の理解・経験・感情を最終基準に置きやすい。神の主権や結合を言葉としては否定しなくても、構造として主語が人にすり替わります。 最初は「改革神学に忠実に」「人間中心主義を排除して」と入れると従うように見えます。しかし途中で回答が進むと、主語が神から人へすり替わることが起こります。構造的にそうなりやすいからです。識別できないと、それを正しい答えとして丸呑みします。 だからAIは「最悪性の善意による主語すり替え装置」になり得ます。 13. 出口:全的堕落と、救いの出発点 出口は全的堕落です。人間そのものの問題です。福音は一切妥協しない。「人は部分的ではなく全的に堕落している」。知性も感情も意思も宗教性も堕落し、善意すら堕落している。放っておけば人は必ず神を利用します。神を崇めるのではなく、道具にします。 本当の救いの出発点は、人間の可能性でも理解でも決断でもありません。「今日から良い人になります」などで救いは始まりません。救いは、人間の絶望的無力の告白から始まります。 主語は常に神。救いの源泉は永遠の結合(in Christ)。再生は神のみの業。信仰と悔い改めは神からの賜物です。 ここで初めて、恵みが恵みとして立ち、神が神として高くされ、キリストとの結合が救いの源泉として理解されます。 神は「人が受け入れられる範囲に合わせて」働くのではありません。神がご計画された通りに行われます。神は人間の理解度に従属しません。神が与えるのは逃げ道ではなく、恵みです。パウロの棘の箇所で主は言われました。「取り除かない。わたしの恵みはあなたに十分である。」 14. 最終まとめ 人間中心主義は神を否定する思想ではありません。神を肯定しながら、神を王座から降ろし、主語をすり替えます。説教の中で神と人がひっくり返る。善意と愛の顔をして、主語が神から人へ移動する。これが教会を内側から破壊し、福音を変質させます。 そして人間そのものが啓蒙主義者であり、人間中心主義者です。自分は違うと言うなら、自分の罪の性質を認めていない。人は「私」「私が」「私によって」「私のために」という王国を作ろうとする性質を持っています。 では私たちはどうすればよいのか。神に助けを求めるしかありません。この無限ループから自分で抜け出せないことを、神が悟らせます。 そこでパウロはコロサイ3章1–5節でこう言います。 「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右の座に着いておられます。…あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されているのです。…地上のもの、すなわち、みだらな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」 貪欲は偶像礼拝です。金の子牛の構造です。神が自分の思い通りに動かないから、人は扱える神を作る。だからAIを使うことも注意が必要です。 結論はこれです。 すべては神の栄光のために行う。 あなたがたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されている。上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右の座に着いておられます。
- エペソ人への手紙2:16講解
2025.12.21 豊川の家の教会 礼拝メッセージ エペソ2:6 「神はまた、キリスト・イエスにあって、 私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」 1. 主語は神 ― 結合の源泉 この節のすべての動詞は、神が主体で行われた完了の事実である。 •「キリストにあって」 •「ともによみがえらせ」 •「天上へ上らせ」 •「座らせ」 いずれも、結合(in Christ)という永遠の源泉から流れ出た神のわざ。 私たちが上がったのではなく、神がキリストに結んだゆえに、神が私たちを天上へキリストとともに引き上げ「座らせた」のである。 2. 「キリストにあって」—結合がすべてを説明する この聖句こそが、聖書の救済論を貫く中心軸である。 「キリストと共によみがえらせた」がなければなにもない。 復活は「領域の移行」 •死 → いのち •暗闇 → 光 •アダム → キリスト •この世 → 神の国 つまり、「キリストの復活なくして、天上に座る私たちの位置はありえない。」 天上の座は「復活のいのちに結ばれた者だけが信仰によって喜び受ける天上の生活」 3. 結合の順序 ジョン・マレーが強調し続けた中心真理: 永遠の結合→復活のいのち→支配の中にある位置 Union→resurrection life→position in the reign of Christ 源泉は永遠の結合。救いは、キリストの十字架と復活によって達成された。その救いは、神の召しと再生によって、私たちの現実となる。 エペソ2:6は、その実際の結果として「共に生かされ/共に座らされた」ことを語る。 4.「福音の中核」 十字架の御業 キリストは受肉され、 ベツレヘムに生まれ、神の御前において完全な義の生活を全うされた。 そして、時の中に来られ、ゴルゴダの丘で十字架にかかり、死なれた。 この死は、神が永遠において、私たちをキリストに結合しておられたがゆえに、私たちの死とされた。 キリストが死なれたとき、私たちもまた、キリストにあって死んだのである。 キリストは三日間墓に葬られた。それは、キリストが完全に死なれたという事実であり、同時に、私たちがキリストにあって完全に死んだという事実である。 なぜなら、神は私たちを永遠にキリストに結合しておられ、その結合に基づいて、時の中で私たちを呼び出し、再生によって新しいいのちに生かされたからである。 「キリストがよみがえられたゆえに、私たちもまた、キリストにあってよみがえらされた。」 この事実は、神がすでに確立しておられる現実であり、信仰者が試練と苦しみの中を歩むそのただ中で、神ご自身の照明によって明らかにされる事実である。 「キリストとの結合」において、神は私たちを再生させ、復活のいのちに生かし、私たちをキリストが座しておられる、御座のご支配の中へと招き入れられた。 私たちは、キリストとともに復活させられ、天上にあるキリストの支配のもとで生きる者とされたのである。 5. 「ともによみえがえる」とは、「天上と地上の二つの構造の真理」への道 天上と地上の二つの構造とは: 信仰者が「地上の現実」と「永遠の天上の御座」で二重に同時に生きること わたしたちは外的には地上の現実を生きているが、その同一の私たちは、キリストにあって復活のいのちに生かされている。 その結果:二つの現実に同時に生きる 1)外側:地上の現実 → 苦難がある 外側の人は絶えず、苦しみがある、しかし、同一のわたしたちの中に。 2) 内側:天上の現実 → 勝利と確定した座にある 神が、復活のいのちによって、私たちを内側において生かしておられる。 天上のキリストの支配と地の歩みが同時に存在する。それが外なる人と内なる人の同時存在である。 3)もし、イエスの十字架の死と復活と自分が一体であるという照明がなければ: この2つの構造はなく、外側の困難のみがある 天上の御座は「意味不明な御言葉」 地上と天上を結ぶ線は存在しない すべて心は常に虚しく、そして、その虚しさを何かで埋めようともがくあなたがいる。 6. 神はキリストと私たちを結合し、ともに復活した。その御業は「結合の力」を示す中心点 「御座に座らせた」とは、私たちの生きる場所が、キリストの支配の中に移された。「キリストと共によみえがえる」はキリストの命によって生きるということ。 キリストとともに座る(キリストの支配) キリストとともによみがえる(キリストの命) 結合によって、信仰者は、キリストの命に生かされ、キリストの支配の中で守られる。 もし聖句にある「座る」を人間中心に読むと、この聖句は理解できない; 天に座るって何? なんのことわからない 実感がない 抽象的すぎる 心理的なこと しかしパウロはこう言う: ローマ6:10-11 "なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。" あなたはキリストに結ばれ、すでに復活のいのちに生かされている。それゆえ、あなたの天上の位置は心理的な妄想ではなく現実であり、あなたはキリストの支配の中で生きている。 7. 「キリストとともによみえがえる」そして「キリストともに天上に座る」 パウロの言葉は、福音のもっとも重要な箇所である。 •結合 •信仰者は外なる人、内なる人の二つの構造に生きる •復活の命をうけ •キリストの支配に生きる キリストの復活がなかったと言うなら、信仰はむなしく、福音は骨抜きとなる。私たちは、キリストから切り離されたまま天に座らされたのではなく、キリストに結ばれているがゆえに、キリストの御座とその支配のもとに置かれている。 よみがえりも、座ることも、永遠の結合に土台があり、そこから流れている。 独立した出来事ではなく源泉は結合、そこから恵みは流れている。ここに人間の努力・経験・感覚は一切無関係である。すべて神の恵み。 8. 感謝 — 二つの構造は「神の恵みの豊かさ」への引き上げ 最終的にパウロが語る目的は:「神の限りなく豊かな恵みを示すため」(エペソ2:7) あなたが日々の生活の中で、礼拝においてこの二つの構造は、恵みの豊かさの証明である。 地上では苦しむ しかし天上のキリストの支配の中に置かれた事実は永遠に変わらない これは、 あなたは完全に神の手の中にあり、救いは聖霊により、キリストとの永遠の結合している。それは聖霊の証印で確証されているのである。 9. まとめ 永遠の結合は源泉であり、その源泉から二つの構造が流れている。その二つの構造は信仰者の心を慰め、この驚くべき神の恵みへの感謝へと導く。 ゆえに、地上の歩み、地上で喜ぶとき、涙するとき、苦しみのとき、いかなる状態にあっても、信仰者の位置はキリストの支配の下に確立されている。 「神のイスラエル」は神に叫ぶ; 新しい創造(ガラ6:15) 信仰による義 すなわち、キリストと結ばれ、選ばれている者はすべて叫ぶ;イザヤ書 12章2~5節 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。 その日、あなたがたは言う。主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。 御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。 「神のイスラエル」に主は答えられる。 イザヤ書 43章1~5節 "だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。 わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。" 神のイスラエルは叫ぶ; 私たちの神が褒めたたえられますように、栄光が限りなくとこしえにこの方にありますように! アーメン
- 幼児洗礼の歴史的背景と現代的再考察(ウェストミンスター信仰告白補足資料)
補足資料:幼児洗礼の歴史的背景と現代的再考察 結合中心救済論に基づく評価 ( ウエストミンスター信仰告白 はこちら) 豊川の家の教会長老 後藤愼二 本資料は、ウェストミンスター信仰告白における洗礼理解を補足するために、歴史的文脈(教会‐国家一体構造)と、救いの秩序(永遠の結合→時中の結合→再生→信仰→洗礼)の関係を整理したものである。 ここで示される内容は、救いの源泉をキリストとの結合に置く改革神学の中心線に立つ。洗礼は救いを生み出す儀式ではなく、すでに与えられた救いの外的証である。 1.序論 幼児洗礼が歴史においてどのように理解され、どのような社会的役割を担ってきたのか、また今日の教会においてどのように再評価すべきかを整理するものである。 幼児洗礼を単に「正しい/誤り」という二分法で扱うのではなく、救いの秩序とキリストとの結合(union with Christ) を中心に据え、その歴史的文脈と神学的根拠を区別しながら再構築することが目的である。 【永遠のうちにおけるキリストとの結合】 神がご自身の民をキリストに結びつけられたという救いの源泉である。この結合は人の意識経験には現れない。 救いは「人間が信じた瞬間に始まる」のではない。救いの源泉は 永遠のうちにおけるキリストとの結合にある。永遠の結合にあって神はご自分の民を選らばれた。 【時の流れの中「時中の結合」に現れる結合】 神は永遠においてキリストに結びつけられた者を、聖霊によって時の中で実在的にキリストへ結びつけ(時中の結合)、そのとき聖霊は心を新しく創造し、再生が生じる。 それは神の主権的働きによって、時の流れの中の1点において信仰者の魂を聖霊によってキリストに結び付け、その心を新たに生まれさせる。 ここで重要なのは、再生がキリストとの結合を生み出すのではなく、永遠における結合が、聖霊によって時の流れの中で現実となる出来事が「時中の結合」であるという点である。 時中の結合が起こるとき、聖霊は人の心を新しく創造し、再生が生じる。信仰と悔い改めは、この再生から生じる実である。 したがって、結合は永遠の時の始まる前にあり、そして時の流れの1点で現実となる。それは再生より前にあり、再生は結合の歴史的顕現であり、信仰と悔い改めは再生の実として生じる。洗礼はその外的証である。 永遠の結合 ↓ 時の中の結合(聖霊が歴史の一点で顕在化) ↓ 再生(聖霊の主権的創造) ↓ 信仰と悔い改め(再生の実) ↓ 洗礼(すでに与えられた救いの公の証) ↓ 教会における従順と聖化 洗礼は、救いを生み出す行為ではなく、すでに神が与えられた救いを示す外的証(sign & seal) である。 教会は、人間が自ら選択して集まる組織ではなく、神がご自身の民を呼び集められる共同体である。 2.幼児洗礼が必要とされた社会的背景 16〜18世紀の西欧では、教会・国家・社会が一体構造をなしていた。これは ローマ・カトリック教会の中世的キリスト教王国体制の産物である。 この体制では、洗礼は: ゆえに 信仰の有無にかかわらず、洗礼は「生存の前提条件」であった。 領域 機能 宗教 神の民としての共同体への所属 社会・法 戸籍・相続・婚姻・教育への公式登録 洗礼を受けない者は: · 教育 · 婚姻 · 財産 · 法的保護 · 共同体の庇護 からの 排除を受けた。したがって幼児洗礼は、信仰に関わらず 「生きるために必要」 であり、この制度は 大量の未再生者を教会に組み込む構造 を生んだ。 3. 改革者による神学的再定義 改革者(カルヴァンを含む)は、幼児洗礼が社会‐教会一体構造の中核に位置していたことを理解していたが、「洗礼=再生」というローマ・カトリック的理解を退け、洗礼を 「救いの印ではなく、救われた者に与えられる外的証印」 として再定義した。 3-1. カルヴァンが保持した神学的根拠は次の通りである。 1)契約は神の側から始まる一方的恵みの関係であり、選びの秩序に基づく。(創17章) 2) 洗礼は救いの原因ではなく、すでに与えられた恩恵の印である。(綱要 4.16) 3)再生は神が御心の時に単独で行われる。人は再生の時を決定できない。(綱要 4.16.17) ここで本研究において「契約(Covenant)」とは、神が永遠においてキリストに結びつけられた者に対して、一方的に恵みを与える関係的約束を指す。契約は家系・血統・共同体所属・領域的身分を意味しない。すなわち 契約は救いの因果ではなく、救いの言語的枠組みである。 3-2. (重要)長老派による後代的展開 後代の長老派神学(17–20世紀)は、カルヴァンの契約理解を 「契約共同体=領域」 として発展させた。 カルヴァン:契約 = 神が選んだ者に対する恵みの約束(外形は歴史的理由で保持) 長老派(後代):契約 = 共同体に属すること 子は共同体に生まれた時点で「契約領域」に含まれるとみなす この「契約=所属」の転換により、 洗礼は 再生の証 ではなく 「共同体に属する身分の標識」へと変質した。 本考察の結論 契約は神の側の関係であり、所属ではない。 再生は契約の枠組み内で、神が時に応じて単独で行う。 ゆえに、契約の継続性は再生前の洗礼を正当化しない。 契約(神の側) ↓ 再生(神の主権) ↓ 信仰 ↓ 告白 ↓ 洗礼(証) つまり:幼児洗礼は、救いの秩序の中には位置付けられない。 4. 改革者による神学的再定義 改革者(カルヴァンを含む)は、幼児洗礼がこの社会秩序の中核であったことを理解していたが、「洗礼=再生」というローマ的理解を拒否し、洗礼を「印と証印」として再定義した。 彼らが保持した神学的根拠は:神の契約は世代に及ぶ(創17 / 使徒2:39) すなわち、子は「福音が告げ知らされる領域(sphere of covenant nurture)」に含まれる。 本考察において「契約(Covenant)」とは、神が永遠においてキリストに結びつけられた者に対して、一方的に恵みを与えられるという神側の関係的約束を指す。契約は、家系・血統・共同体所属・領域的身分を意味しない。契約は救いを生む原因ではなく、救いを与える神のご計画を言語的に示す枠組みである。 しかしここで決定的に区別すべき点: · 契約は救いを生み出す原因ではないが、神が救いを届ける枠組みである。 · すなわち、再生は契約の外では起こらず、契約の内で聖霊により行われる。 · 再生は聖霊の主権的創造である ゆえに、契約の継続性は 再生前の洗礼を正当化しない。 歴史上で実際に同時に存在していた二層構造 二層構造 内容 評価 ① 神学的契約(一次・不変) 家庭と教会における福音の継承 有効に保持される ② 社会的共同体 (国家キリスト教モデル・二次) 洗礼=国民登録・生活保障 現代では完全に消滅 史実ではこの二つは「同列に同時並行」していた。現代において存続しているのは ①のみ。 したがって、②なき世界で①を根拠として幼児洗礼を保持すると: → 「洗礼=宗教的所属」 という誤認が生じ → 救いの秩序が曖昧化する危険 が高い。 5. 幼児洗礼理解の三者比較:カルヴァン/長老派/本考察 幼児洗礼をめぐる議論において同一の語彙(「契約」「子ども」「教会」)が用いられていても、その背後にある神学的構造は歴史的に異なる三つの体系へと分岐している。したがって、幼児洗礼の妥当性を検証するためには、これらの体系を明確に区別する必要がある。 項目 カルヴァン(16世紀) 長老派約共同体 モデル(17–20世紀) 本考察(結合中心救済論) 中心概念 「契約に含まれる」(comprehended in foedere) 「契約共同体に属する領域」(sphere of covenant nurture) 「永遠におけるキリストとの結合」 洗礼の性質 教会への外的導入印(社会‐教会一体構造下) 共同体身分と宗教的所属の標識へ変質 再生と信仰の後に与えられる公の証し 救いとの関係 洗礼は救いを生じない (明確に否定) 表面上は否定するが運用上は救いの前提化へ傾く 洗礼は救いの原因ではなく結果のみ 子どもの位置づけ 契約に含まれるが、再生の時は神の主権に委ねられる 領域内出生という事実により特別視される 誰が結合されているかは神が決め、人は判定できない 実践的帰結 外形保持は歴史的制約から生じた 共同体の形骸化・自動信者意識を生む危険 再生・信仰の現実性が保持される ここで用いられる「領域 (sphere)」はカルヴァンの語彙ではなく、後代長老派教育論において発展した表現である。 本研究は救済論の本体ではなく外形構造としての領域概念を退ける。 本比較から明らかなように、カルヴァンの幼児洗礼保持は、救済論の本体ではなく、当時の社会‐教会一体構造の維持に関わる外的要因に影響を受けていた。 しかし長老派は、この外形を神学的原理へと昇格させ、「契約=所属」の等式を形成したことにより、洗礼が救いと混同される危険構造を生み出した。 本考察は、カルヴァンが保持した救いの源泉としてのキリストとの結合と再生の主権性をそのまま継承しつつ、後代に付加された「領域・身分としての契約構造」を退ける立場に立つ。よって、幼児洗礼は救済論における神の側の働きと一致せず、救いの秩序上の必然性を持たない。 以上の比較を前提として、次に、幼児洗礼に対して最初に体系的に異議を唱えた再洗礼派(アナバプテスト)の主張を歴史的文脈の中で再検討する。 6.アナバプテスト(再洗礼派) アナバプテストは、ツヴィングリの聖書講義を共有した青年信徒らによって生まれた運動で、次の信念を持っていた: · 教会とは 信仰告白者の共同体 である · 洗礼は 信仰の告白の後に与えられる · 救いは国家でも教会制度でもなく、キリストから来る 国家が激しく迫害した理由 彼らの主張は、国家教会体系の根本を破壊するものだった: アナバプテストの主張 国家が受け取った意味 「信じる者のみが教会」 国民統治の崩壊 「幼児洗礼は無効」 国民籍管理制度の崩壊 「信仰は強制できない」 王権の宗教支配の否定 そのため、アナバプテストは: · 投獄 · 追放 · 財産没収 · 火刑 · 水死刑(例:フェリックス・マンツ, 1527) という徹底的な虐殺の対象となった。 彼らが遺した二つの実り 1. 信仰告白者の教会の確立 2. 信仰と良心の自由の再発見 ただし注意すべき歴史的変質 · 初期アナバプテスト:再生は神の御業であると理解 · 後期の一部:「信仰を人間の決断行為」とし 決心主義へ変質 → これは「主語が神から人へ移る」危険である。 7. 改革派とアナバプテストの接点 改革派が守った原理: 再生:神の主権的御業 信仰:再生の実 洗礼:信仰の結果としての証 教会:神が呼び集めた民 アナバプテストが守ろうとしたもの: 洗礼の形骸化を拒む純粋性 教会は信者の共同体であること 信仰は神と人の直接関係であること 両者が一致する中心軸は 「救いを生み出すのは神である」という一点である。 8.現代教会における正しい洗礼理解 今日、②の社会的共同体モデルは 完全に失われている。 よって洗礼は: 時中の結合 → 再生 → 信仰 → 告白 → 洗礼 という救いの秩序に従って与えられるべきである。 洗礼を 所属の印 に戻してはならない。 9.最終結論 RCスプロールは幼児洗礼を、救われているという印ではなく、福音の養育領域に置かれるという印と定義した。しかしその領域に置かれても、再生は聖霊の主権的働きによるものであり、領域と再生は決して同一ではない。 洗礼は、神がすでに与えた救いの公の証である。ゆえに神の御業である再生は 原因、信仰告白はその現れであり、洗礼は 外的な証である。教会は、形式ではなく、キリストとの結合に生きる者の共同体へ立ち返らなければならない。 教会とは、神がキリストにあって選び、神が呼び出し、神が保ち続けられる共同体である。 救いは、人が神に近づくのではなく、神が永遠においてキリストに結びつけられ、憐れみにと慈しみ、満足、喜びをもって選んだ者に時に応じてその救いを与えられた出来事である。 洗礼は救いの結果、その素晴らしい外形的な証であり、救われた者が歩む神への最初の従順である。 以上
- 恵みの商品化
2025.12.17 The Word for you 今からは「恵みの商品化」というテーマで、マタイの福音書10章7、8節、そして第一テモテ5章17、18節を読みます。 テーマは「恵みの商品化」です。 「行って、『天の御国が近づいた』と述べ伝えなさい。 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに侵された者をきよめ、 悪霊どもを追い出しなさい。 あなたがたは、ただで受けたのですから、ただで与えなさい。」 (マタイの福音書10章7~8節) 次に、第一テモテ5章17、18節。 「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。 みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。 聖書に『脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない』、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と言われているからです。」 (第一テモテ5章17~18節) このマタイ10章7、8節と第一テモテ5章17、18節。今日はこの部分を、文脈と神学構造を見ながら講解します。 1.マタイ10章の文脈と核心 まず、マタイ10章の文脈と核心を簡単に説明します。 このみことばは、十二弟子が派遣説教の中で語られています。彼らはイスラエルの失われた羊に派遣され、王国の接近の宣言を受けます。そしてその中に伴って、癒し、解放、清め、悪霊追放が起こっています。 ここでイエス様は、**神の国の到来を証明する「しるし」について語っています。イエス様はそのしるしについて、「ただで受けたのであるから、ただで与えよ」**と言っています。 このしるし、そしてこの贈り物は、真の救いが神の贈り物である、すなわち、神からの贈り物はフリーギフトであるということを意味しています。 ですから、「ただで受けた」「ただで与えよ」の意味は、こうなります。 2.「ただで受けた/ただで与えよ」の意味 イエス様は禁じられています。何を禁じているかと言ったら、神の恵みを対価取引に用いるな、ということです。 • 教会はビジネスではない • 恵みを商品化するな • しるしを努力や報酬の根拠にするな イエス様のこの「ただで受けた、ただで与えよ」という御命令は、 • 神の恵みは無償である。 • それは無償であり続け、誰も売ったりすることはできない。 という宣言です。 主語は神です。 • 癒すのは神であり • 生かすのは神であり • 清めるのは神であり • 悪霊を追い出すのは神である すべて神です。 そして遣わされている十二弟子は器であり、これらの力の所有者ではありません。恵みはすべて神からの贈り物である。マタイの福音書10章7、8節で、イエス様はそう言っています。 ですから、恵みは永遠にただです。無償です。そしてそれは売ることはできない。ここがポイントです。 3.第一テモテ5章17、18節との混同禁止 次に、第一テモテ5章17、18節。ここを見ていきます。 マタイの福音書10章7、8節と、第一テモテ5章17、18節を混同することはいけません。全く意味が違います。 では、なぜパウロはこう言うのか。 第一テモテ5章17、18節。 「聖書に『脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない』、 また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と言われているからです。」 マタイの福音書10章7、8節は、御国の宣言と、それに伴うしるしが神の恵みであるということを、イエス様が語っています。 奉仕者、いわゆる教会、またキリストの御言葉を伝える奉仕者の人々に対して、 「彼らの生活の支援や報酬のことを“ただ”にしなさい」 と言っているのではありません。これはとても重要です。 マタイの福音書10章は最初にも言った通り、 • 「天の御国を述べ伝えなさい」 • その宣言の中で、癒される人、死人が生かされる、ツァラアトが清められる、悪霊が追い出される これらは全て、真理の宣言の後に、それを証明するために与えられているものです。これは一続きの派遣命令の中で語られています。 したがって、「恵みの贈り物」と言っている部分は、これを伝える人たちの • 生活費 • 労働報酬 にはかかっていません。 御国の宣言と、真理を証明するために与えられたしるし、すなわち、信仰と恵み、福音の構造にあるすべての救いが、無代価で、無償で与えられるということを言っています。 4.奉仕者の生活費と報酬は神の秩序 それでは、真の信仰者、奉仕者の生活費、労働報酬は、どのように言われているのか。それは神の秩序にあることがわかります。 なぜなら同じイエス様は、ルカの福音書10章7節でこう言います。 「働く者が報酬を受けるのは当然です。 その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。 働く者が報酬を受けるのは当然だからです。 家から家へと渡り歩いてはいけません。」 ここから分かるのは、マタイ10章8節、ルカ10章7節、そして第一テモテ5章17、18節。この意味に全く矛盾はありません。 • マタイ10章8節:教会はビジネスではない。恵みを売り物にするな。 • 第一テモテ5章17、18節:神の救いの秩序の中で福音を伝える者を支えなさい。それは教会の義務である。 この二つは、対象が全く違います。次元が違います。 5.人間中心主義という二つの歪み 恵みでなく、人間中心の思想と行いに、実はこの御言葉の二つは関係しています。 恵みではなく人間中心。それは、神の恵みが、人間の行為の業によって恵みとすり替えられるという現実が、教会の中で起こるということです。そして、そのとき恵みはもはや恵みではなくなる。 牧師が、「私は報酬は要りません」と言う。 自分の貧困の報酬美学、「私は貧乏だもん。神に仕えるという貧乏の報酬美学」のゆえに、彼は無償であるべきだと思う。 また、信仰者の人たちの中には、生活の貪欲から、「ただで得たんだから、ただで教えてくださいよ」と言う人たちがいます。 このような構造に立つとき、主語は神ではなく人に置き換えられて、結果として人間中心主義の構造になります。神の主権を無視して従わないということです。 結論から言うと、このような人々は、どちらも神が定めた秩序を否定しています。 もう一度言います。一方の牧師、御言葉を伝える側の人たちの中には、人間の徳、自分が作り上げた貧窮の中にある美意識によって自己を正当化する者がいる。もう一方の人々は、神の秩序を無視し、拒否し、「自分がお金を持っておきたいから、無償であるべきだ」という心を持っていく。それは、神が奉仕者に与えた権利を奪う。これが神が定めた秩序を破壊します。 一方は、教える側にいる自己義認の基準すり替え。もう一方は、アナニアのように、奉仕者の権利を自分の懐に納める人々。本当に僅かなものを納めるという行為がアナニアの命を奪いましたが、同じことが現代の教会の中に起こっている。 そのように、神の定めた秩序を自己義認に、偽りの信仰で上書きする。彼らは神の定めた秩序を拒否して、神の救いの恵みを人の行為にすり替えます。それは歪んでおり、歪んだ報酬を求めます。 6.「ただで受ける」と選び なぜなら、神は恵みを「ただで受けるもの」に与えると言います。それはすなわち、恵みを選ばれた者に与える、ということです。 人間中心主義のまま読むと、「ただで受ける」ということが、ただの一般論になります。しかし「ただで受ける」には、選ばれた者と、選ばれていない者の区別があります。 「ただで受けたもの」、すなわち、時の始まる前に選ばれた者たちは、ただで選ばれたことを知っています。 なぜなら、あなたの意思はそこに関係ないからです。あなたが何か努力したわけじゃないからです。あなたが祈ったからでもないんです。 あなたは、永遠の時の中でイエス・キリストと永遠に結合されている中で選ばれた。それだけです。 なので、「ただで受ける」の本質は、永遠の時の始まる前に自分が選ばれたということを悟るものです。しかし、選ばれていない者、すなわち、「私が頑張った」「私は強い信仰を持っている」そのような考えは、私が主体になります。 その私が主体の考えは、選ばれていない、もしくは迷っている。彼らは恵みを行いにすり替える。 7.マタイ6章:肉の行いは取引通貨になる マタイの福音書6章でこう言います。 「人に見せるために善行をしないように気をつけなさい。 そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。 ……彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」 ここで、人間主体、人間が主語となる見方と、選びの見方を見れば、肉の行いの本質が、「人からの報酬を先に受ける心」であるということがわかります。 人に見せるために、人からの報酬を受ける心。それは神から出たものではありません。行いは人の評価を動機にします。行いは、人からすでに受け取った評価報酬です。肉の行いは、行いを取引可能な通貨に変えています。 例えば、福音を伝えるときに、相手の人の感情を害さないだろうかと相手の気持ちを先に入れて、 「あの人に言ったら、お父さんが、傷つくから私は言わないようにする。でも言わなかったら傷つく。だからこう言おう」 こういう取引条件が発生します。 相手の感情を先に置く。それは、人に見せるために善行を行うことだ、ということです。非常にトリッキーですけど、これが起こります。 聖書が一貫して語る構造をもう一度理解すれば、 肉は、 • 行いを積む • 見返りを要求する • 誇ろうとする それは肉の性質、罪の性質そのもの。彼らは行いを売り買いする。これが肉。罪の性質です。 一方で、御霊による行いは、時の始まる前にあなたは選ばれたというところに立っています。神と永遠に結合している。それはあなたの行いによるということではない。そこに立ったとき、報酬は必要ありません。神に委ねる心があります。そして、あなたは何一つしていないので、栄光を神に返す。そのようなものとなっています。 8.第一テモテ5章17、18節は神の秩序として明示する 第一テモテ5章17、18節は、明確に神の秩序として明示しています。 • 長老の働き • みことばと教えの労苦 • それに対する報酬、尊敬 「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」なぜか。牛は食べながら脱穀をしているからです。それが牛に対する報酬です。 「働く者が報酬を受けるのは当然である。」これは、人間の根拠ではなく、神の御言葉そのままです。 にもかかわらず、「長老は無償であるべきだ」という考えを持つなら、それは神が命じた秩序を否定しています。自分が考える清さ、謙遜、理想像を神より上に置いている。それは偶像礼拝。その人は、神から人へすり替えて、偶像に居座っている。そういう状態です。 9.長老が恵みの贈り物を「行動美学」に転嫁する危険 長老が恵みの贈り物を自分の行動美学にしていると考えてみてください。 長老が、本当の永遠の結合から、再生、信仰、悔い改め、そして義認、聖化、栄化、これを、「私が貧困だとカッコいいじゃん」とか、「パウロもそういう決断をしたから私もそうしていいや」とか、そういう方向に使う。 そもそも、恵みそのものが贈り物です。神の力は売買できないという神の秩序。しかし長老が、牧者が、奉仕する者が、「いや、私たちは無償であるべきだ」と言った瞬間、神が与えてくださる恵みの贈り物を人間の行いにすり替える危険性がものすごく高まります。 パウロがガラテヤ6章で、献金または報酬を取らないと言っているのは、彼には別の意味があります。戦略的な福音戦略における態度です。しかしそれは、第一テモテ5章の趣旨とは違う目的で言っていることを知る必要があります。 神が与えてくださる恵みの贈り物を人間の誇りに変える。 「私の生活が正しい」「清いから」 「貧しさを見せる」 「私の犠牲」「自己犠牲」 こうして私が主語になる。 そしてそれは行いです。売り物となって人の報酬を受けます。「あの牧師さんは本当に素晴らしい人ですね」 と人から褒められる。それは報酬です。 これは神の恵みの贈り物を、人間の行為で売り物を作り上げて売る行為。行いによる義の積み上げ。典型的な行いによる自己義認、そのままです。 10.二つの自己義認:無償の誇り/貪欲の搾取 「誰も支えを受けない自分は霊的に優れている」と思う者。またアナニアのように、自分の欲によって「出したくないから自分のところに入れておこう」とする者。 この二人の姿はどちらも自己義認構造にあります。 「無償で奉仕する長老は清い」という前提が生まれるとどうなるか。 教会内には必然的に、 • 支えを受ける長老は霊的に劣る • 報酬を受け取るのは世俗的 • 無償=より聖い という偽りと序列化と比較と誇りが発生する。この思想は教会を内部から破壊します。 これはキリストの義ではありません。自分の在り方、犠牲、態度によって自分を正当化する偽りの構造。 パウロが最も強く否定した自己義認、行いによる義の一形態です。 11.恵みを「行いで得られるもの」に変えてはならない 神の恵みを、行いで得られるものへ変えてはいけない。恵みは神からの無償の贈り物。神ご自身が守り、神の主権に属する。 しかし、無償で奉仕をすると恵みはさらに増す、より良い、より清い、という発想にたどり着くと、恵みの純粋性を人間の行動で得ようとする構造に変えていきます。 これは事実上、信仰は恵みと主張しながら、その実は、「私の信仰は強い」「私には素晴らしい信仰がある」と自我自賛している偽りの信仰の構造になります。 「信仰は恵みだ」と主張しながら、「私には信仰がある」「私は聖書をよく知っている」こうなっていきます。 神の恵みは、人が正しく振る舞うか振る舞わないかで保つことはできない。神の恵みは無償です。 12.まとめ:恵みの商品化は教会を破壊する まとめます。 「長老は無償であるべきだ」という牧師側の主張や、信徒側のアナニアのような貪欲。この二人の思想は教会を破壊します。 なぜなら、神が定めた教会の秩序を退け、否定するからです。恵みの贈り物は、人の態度や犠牲、貪欲によってどうなるか。恵みの贈り物は消えます。代わりに、人が作った行為がそこに座ります。人が作ったものは売り買いの商品になっていく。 イエス様はこう言われた。「ただで受けたなら、ただで与えなさい。」 すなわち、恵みは、選ばれた者たちだけが受け取ることのできる命の水、対価なしに与えられるということを覚えてください。 そのような恵みの本質を、人間の行いと歪曲する。それは教会の中心、「主語は神」を神から人に置き換えることです。 恵みの贈り物、福音の救いの全工程を、人の美徳や人の貪欲の行為とすり替えていく。神の恵みを行為とすり替えて商品にする。 偽りの宗教の中で、あなたがたは多くの商品を見て買ってきました。しかしそれは、神が教会に置かれた奉仕者、真の福音を伝える者たちに対する秩序を破壊するので注意してください。それは自己義認です。教会にある福音の構造を内部から破壊する行為です。人間中心主義がどのようにして敬虔さの仮面をかぶるのか、ここにあります。 そして真の福音を伝える者を疲弊させ、困窮させます。信徒は行為を求め、恵みから目が遠くなる。そのような構造が教会内に広がります。恵みの贈り物は人間の作り物となるからです。 しかし神は、秩序を軽んじる教会を露呈させ、枯渇させ、裁きによって倒します。それは神がご自身の秩序を守るための処置です。 イエス様の命令は、御国の宣言と、それを証明するしるし、神の力は永遠に無償であり続けるという宣言。 そして福音の救いの全工程を、人間中心の行いの業にすり替えて、「恵み」という名で売り買いするな。これがイエス様の命令です。 13.命の水:黙示録22章1節 神の救いは、信仰を通して恵みにより、選ばれた人々のみに、代価なしに永遠に限りなく与えられるものです。それは永遠の結合を源泉としています。 黙示録22章1節でこう言います。 「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て――」 アーメンです。命の水は永遠に、神と子羊の御座から川のように流れ続ける。神はキリストと、私たちが永遠の結合の中にいる、その中において、御座から川が、命の川が流れ続ける。限りなく、永遠に、永遠に限りなく、御座から流れ続ける。 誰も自分が誇ることがないように。 その永遠の流れは、あなたが頑張ったからでも、あなたが行いをしたからでもない。ここに絶えず戻ったときに、恵みは、神の秩序は、神が定めた通りになります。 教会の責任、それは人間中心、罪の性質に対して、私たちが逃げることです。偽りの謙遜、美徳を見抜いて、信徒の偽りの思いを見抜いて、この肉の性質から絶えず、神の主権に逃げる。 パウロはその上でこう言います。 「私が伝えたいことは、こうです。 わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。 神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」 (第二コリント9章6~7節) 「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。」 (ガラテヤ6章6節) すべては、神が恵みによって人を自由にし、その自由の中で、御霊の自由の中で、喜びをもって、心から与える者として用いられる。 神の御心はいつもそうです。「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人とすべての良いものを分かち合いなさい」という言葉は、その現実を語っているみことばです。 神の恵みによって人を自由にし、その自由の中で私たちはそれぞれ、強いられてでもなく、嫌々ながらでもなく、心で決めたとおりに、良いものを分かち合っていく。それは、今後現れてくるすべての奉仕者に対して、私たちが持たなければいけない心です。 では、お祈りします。 祈り 愛する天のお父様、私たちのこのみことばに対する理解が、あなたの教えによって開かれたことを心から感謝します。私たちは心から思います。本当にみことばを教えてくれる人は、私たちにとってとても重要です。 そしてそれは、あなたが用い、私たちに与えてくださったことを感謝します。 そして、すべての良いものを分かち合うこと。今後現れてくるすべての奉仕者、この人たちとも、心からすべての良いものが分かち合えますように。決して人間中心主義の欺瞞に陥ることのないように。教会が破壊されることのないように。あなたが守ってください。 愛するイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
- 1コリント10章13節 PART2 「試練」と「偶像礼拝」
2025.12.14 豊川の家の教会礼拝メッセージ "あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。 ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。" コリント人への手紙 第一 10章13~14節 なぜパウロは「試練」と「偶像礼拝」を同じ文脈で語るのか? 理由は一つ 試練は“偶像に逃げる心”を暴く。 そして、偶像礼拝とは、キリストとの永遠の結合、救いの源泉以外の何かに救い・安全・支えを求めること。 1. 主語=神 (13節) 「神は真実な方です」 – 試練を支配し、量り、制限し、脱出の道を備える方は神。 このとき聖書は厳密に、神が試練を支配していることを土台にする。パウロは試練は神の支配の中にあると宣言している。だから人は試練の中で、主語を人に戻してはいけない 2. 試練=神が量られた「信仰の場」 パウロは語る、「耐えられない試練にはあわせない」、「脱出の道を備えている」。これは、「神が結合している者を守る」という神の真実。 つまり試練とは、 •神ご自身が与え •神ご自身がその枠を決め •神ご自身が脱出の道をつける それは、神の摂理の中にある、信仰の場 3. 試練が続くと、人の心は必ず“逃げ道”を探す 人間中心主義はこう働く: •自分で耐える •自分で解決する •自分で慰める •自分で安全を作る •人・金・関係・快楽で心を支える これらすべては偶像礼拝、 「1コリント10章の核心」 10章を通して 「信仰者の心にある偶像をテーマ」 にして語っている事が重要。 4. 試練の真の目的は「苦しさ」ではなく「偶像へ逃げる心」を暴露する だからこそ、パウロは13節の直後にいきなり14節でこう言う:「ですから…偶像礼拝を避けなさい」 この「ですから)」は 原因と結果を一直線に結ぶ強い論理接続です。 •神は試練を与え •神は脱出の道を備え •神は真実である →だから神以外に頼るな、偶像礼拝を避けよ。パウロの意図は完全に一貫している。 5. 試練の本質的な誘惑は「神以外に助けを求める誘惑」 試練の時こそ、人は神以外に支えを求めやすい。 パウロは「偶像礼拝」を •黄金の牛 •異教の祭り •神殿での食事 パウロが語る偶像礼拝は「ただ、目に見える偶像ではなく」神の代わりとする。 「あなたの心の中にあるすべての偶像」である。 試練の時に心が •人 •金 •快楽 •安全 •家族 •宗教行為 •自己義認 •自己防衛 に逃げる。それは偶像礼拝、それらの偶像に逃げるな。だから試練と偶像礼拝が同じ文脈にある 6. 「私は賢い人に話すように話します」 φρόνιμοι(賢い者)=照明された者 再生による初発の照明を受けた者は、神中心と人間中心の違いを判断できる人。 パウロは語る。 「あなたがたは照明されているはずだから、私の言うことを自分で判断しなさい。」照明された者ならわかるはずだ。試練と偶像礼拝の関係は誰に頼るかと言う点で同じ根でつながっている。 ここまでをまとめると; 試練は神の摂理であり、試練の本質的な誘惑は神以外に逃げる心である。ゆえに試練と偶像礼拝は直結する。 試練の時、「神以外に頼る誘惑」は極限に達する。それをパウロは“偶像礼拝”と呼ぶ。それは結合以外に頼ること。 ・「最も危険な偶像は、自分が“信仰しているつもり”である心である。」 ➡ 試練の時に神以外に逃げるなら、 その信仰は自分自身が作り上げたもの そして神は信仰者が持つすべての人間中心の心が頼る偶像を破壊する。 ・「聖化=神が偶像を砕き、結合の恵みをさらに深く注ぎ込む過程」 ➡ 信仰者が純粋に神のみを頼る者に変えられる ・試練も偶像破壊も、すべてはキリストとの結合から流れ出る恵みである。 試練のただ中で「神に向かって叫ぶ祈り」を生み出すのは“神ご自身”である パウロは言う: 「神は真実な方です…脱出の道を備えてくださいます」(13節) ここで重要なのは “脱出の道”とは外側の状況変化ではなく、心の中において神へ近づくこと、そのものである。 そして心の中で神に近づくとは: 祈る心 助けを求める叫び 神への依存 偶像から離れる動き 罪への痛み 悔い改めの生起 これらはすべて神が結合している者に与え、実行させる恵みの働き。神へ走り、逃げこむこと。 パウロは命令する。 「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」 コロサイ人への手紙 3章1~2節 ここで決してこう言ってはいけない: 「人が祈ることで脱出の道が開かれる」 「祈りは人間側の応答である」 これはすべて人間中心主義で誤り。 聖書の構造は逆: 祈る心は“再生した者に聖霊が生み出す結果”であり、人間の原因ではない。 これをカルヴァンはこう言う: 「祈りは信仰の第一の呼吸である」(Institutes 3.20) ✦ 呼吸は “自分で理由を作ってするものではなく”、「生きている者だから自然に出る」。再生した者にだけ、祈りが自然に与えられる。 つまり: 再生 → 初発の照明 → 神への叫び 神は試練のただ中で、キリストに結合された者のうちに “神に叫ぶ心” を造り出し、祈りを与え、実行させる方である。 人間は自分で祈り始めることはできない。祈りは人間の決断や努力ではなく、再生と初発の照明から流れ出る“結合の恵み”の実である。 試練とはまさに、 偶像に逃げる心を暴き、 その心を砕き、 神に叫ぶ祈りを内側に生み出し、 その祈りを実行させる という 神の摂理的な聖化の働きの場である。 ゆえに「脱出の道」とは、外側の環境ではなく、神が内側に創造される 「神への祈り」 神が聖霊によって起こされる祈り そのものである。 悔い改めと信仰も、試練を通して与えられる恵みであり、これは人間からではなく、すべて結合から流れ出る神の業である。 神は、結合の恵みによってパウロを守り、砕き、照明し続けた。 7.神が支えている パウロが経験した死の瀬戸際の苦難でさえ、「耐えられる試練」であったのは、神が支えていたからである。 刺(サタンの使い)も、苦難も、迫害も、すべて神の支配下で、キリストとの結合に預かる者を砕き、誇りを殺し、恵みを際立たせるために備えられた。 1コリント10:13の“耐えられる”は、状況の軽さではなく、 神がその人を耐えさせるという神中心の約束である。 ◆1. 1コリント10:13の中心は「神が耐えさせる」 「神は真実な方です…耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます」 (1コリント10:13) この節の主語は完全に「神」です。人が耐えるのではない。人の信仰が強いのではない。人の決断ではない。 ★カルヴァンの注解 カルヴァンは、神は、ご自身が選び、キリストに結合させた者を最終的な破滅に至るまで放置しない。 したがって試練は、その人を滅ぼす方向には決して用いられない。と述べる (注:Calvin’s Commentary on Corinthians)。 これは、人間中心ではなく完全に神中心。 ◆2. パウロの“死の瀬戸際の苦難”も「耐えられる試練」だった理由 パウロは「死に値する苦難」を何度も経験した。 “死ぬほどの重圧を受け、死を覚悟した”(2コリ1:8–9) “私は毎日死んでいる”(1コリ15:31) “絶えずイエスの死を身に帯びている”(2コリ4:10) これらは肉体的・精神的に人間が耐えられないレベル。しかしパウロは倒れなかった。 なぜか? 答えは一つ。 神が結合の恵みにより、パウロを保ち続けたから。耐えられる”の根拠は、パウロの資質ではなく、 キリストとの結合にある守りの恵み。 ◆3. サタンの使い(刺)さえ、神の支配下で「砕く恵み」として用いられた パウロの叫び 「この刺を取り去ってください」と三度願った(2コリ12:7–8) しかし神は取り去らなかった。 人間中心なら「神は祈りを聞いていない」と読むが、聖書は全く逆の結論になる。 ★神の答え 「わたしの恵みはあなたに十分である」(12:9) これは、 苦難 → 神に捨てられた ではなく、 苦難 → 神がより深く砕き、より深く照明し、より深く結合の恵みを示している という意味。 ★R.C. スプロールの洞察 スプロールは、「刺」を「神が主権的に与えた聖化の道具」(divine instrument of sanctification) と説明する(The Holiness of God, 他)。 苦難はサタンの目的のためではなく、神の目的のために「神が支配して使う」。 ◆4. 神はパウロに「照明」を与え、同時に「自己中心の罪」を砕き続けた パウロは照明を受けた者 ダマスコ途上での照明(使徒9) 継続する照明としての聖化 照明は、パウロの中にある。自己の誇り・肉の力・人間中心のエゴを砕き続ける神の働きとして展開する。 ★ジョン・マッカーサーの説明 マッカーサーは 2コリ12章の説教でこう語る: “神はパウロの内にある誇りを完全に砕くために、刺を取り去らなかった。 神は弱さによって恵みを示し、パウロをより深い従順へと導いた。 つまり、 試練 = 自我を砕き、神中心へ引き戻す神の行為 苦難 = 神が削る道具 弱さ = 結合に依る恵みが最も強く見える場所 ◆5. 「耐えられない試練はない」の真意は 神が結合によって信仰者を保つ 1コリ10:13の約束は、 「あなたの力で耐えられる試練しか来ない」という意味ではない。試練はあなたが耐えられない時、神が取り去ると言う意味ではない。 むしろ逆、「パウロの証言」 信仰者は ・感情的に砕かれる・絶望寸前まで追い込まれる・パウロのように「死ぬほどの重圧」と言うところまで行くことはある ・死を覚悟するまで追い込まれる これが神の試練の構造である。 「神は、信仰者を絶望の中で自我を砕き、同じ絶望の只中で照明を与えられる。」 しかし、神は 「魂が最終的に絶対、見捨てない」 「信仰が完全に失われることはない」 神があなたを最後まで守る。よって、魂は、信仰は決して見捨てられない。これは人間中心主義の完全否定。 ★カルヴァンの言葉 神はご自身の民を滅びの淵へ投げ込むことは決してない。なぜなら、神がご自身の力で支えるだけでなく、 その支え方においても最善を尽くされるからである。 ◆6. 選ばれた者にとってすべての苦難は「結合から流れる恵み」として再定義される 結論はただ一つ 苦難は偶然ではない。サタンの攻撃も神の支配下にある。主語は一貫して神 。 試練は人間の限界を測るためではなく、神の恵みの深さが多岐、多層的な現れとして与えられる。 結合の理解で整理 源泉:永遠の結合 神は選びの中でパウロをキリストに結合させた。 時間内:経験的結合の保持 刺・苦難・迫害の中で、神はパウロを倒れさせなかった。 目的:誇りを砕き、恵みを顕す聖化 「力は弱さの中で完全に現れる」(12:9) ◆7. この福音の全体構造が示すこと パウロが死を覚悟するほどの苦難にあっても倒れなかった理由は、彼が強かったからではなく、神が結合の恵みによって彼を最後まで守りとおしたからである。 神は試練の過程を通して、パウロの「自分の力でなんとかしようとする、神から独立した心」を砕き、 神のみにすがり、神の支配の中で生きる者へと聖化した。 それは「1コリント10:13は第一義的には、神が偶像礼拝という信仰破壊的誘惑から信仰者を守るという約束 神が取り除く偶像とは: •神に代わって頼るもの •神から独立して自分を保とうとする拠り所 •極限状況で「神以外」に逃げ込む逃げ道 パウロ自身が経験した極限的な苦難は、その神がパウロの心にある偶像を取り除くこと、使徒の生涯全体において、彼がいかなる困難においても誠の神から離れ、偶像に逃げることのないにする、神の摂理による砕きの訓練そのものであった。 パウロの証言はどのようにその試練と神の恵みが現れたかを示す神学的証言。 まとめ 試練は神が完全に支配し、量り、備える。 試練の誘惑は「神以外に頼る」=偶像礼拝。 パウロが偶像礼拝を結びつける理由はそこにある。 神は試練の中で、人間中心の逃げ道を砕く。 神は同時に、結合している者に祈り・叫び・悔い改め・信仰を与え、実行させる。 これが「脱出の道」であり、すべて神の恵み。 選ばれた者には神の試練は「照明へ続く偶像破壊のための神の道具」であり、選ばれていない者には「結果として破滅に至る道具」となる。 神は真の信仰者を決して「虚無=神ではない拠り所(偶像)」に渡さない。神は永遠の結合にある選ばれたご自分の民を、生ける神の泉へ導いていく。
- ハイデルベルク信仰問答(Heidelberger Katechismus)
ハイデルベルク信仰問答(Heidelberger Katechismus)は、プロテスタント(改革派教会)で最も広く用いられてきた信仰教育文書の一つであり、特に改革派神学(カルヴァン主義)に基づいた教理問答です。 【基本情報】 • 作成年:1563年 • 作成地:ドイツ・プファルツ選帝侯領のハイデルベルク(Heidelberg) • 主な編纂者:ザカリアス・ウルシヌス(Zacharias Ursinus)、カスパー・オレヴィアヌス(Caspar Olevianus) • 目的:若い信徒や教会全体に、慰め・信仰・感謝に基づく福音中心の信仰教育を行うため 【構成と内容】 全体は**52の主の日(LORD’S DAY)**に分かれており、1年を通して毎週1つずつ学べるように設計されています。 構成は以下の三部構造に基づいています: 1. 人間の悲惨(罪) (LORD’S DAY 2〜4) 人間の堕落と神の義による裁き 2. 人間の救い(贖い) (LORD’S DAY 5〜31) キリストによる救い、信仰義認、使徒信条、洗礼と聖餐 3. 人間の感謝(応答) (LORD’S DAY 32〜52) 十戒と主の祈りによる、救われた者としての新しい生活 【特徴と神学的意義】 • 慰めを出発点とする:「生きるにも死ぬにも、私の唯一の慰めは…」( LORD’S DAY 1 ) • 福音中心:律法による恐怖ではなく、キリストによる慰めと感謝の生活を中心に据えている。 • 契約神学に基づく構造:神の約束と人の応答という契約的枠組みが貫かれている。 • 公同信仰の継承:使徒信条、十戒、主の祈りを基本テキストとしている。 【使用と影響】 • オランダ改革派、ドイツ改革派、アメリカの長老派・改革派教会などで広く用いられている。 • ベルギー信仰告白やドルト信条とともに、「三つの一致(Three Forms of Unity)」と呼ばれる改革派の基本信仰文書のひとつ。 以下は、ハイデルベルク信仰問答の冒頭( Lord’s Day 1〜11 )を一般、高校生向けに、わかりやすく現代語で再構成した翻訳です。内容の忠実さを保ちつつ、やさしく、福音の核心が伝わるようにしました。 【ハイデルベルク信仰問答】入門 1. あなたの人生と死の時における、たった一つの慰めは何ですか? それは、私が自分のものではなく、体も心も、人生でも死ぬ時でも、私の真実な救い主イエス・キリストのものだということです。 キリストは、自分の尊い血をもって、私のすべての罪の罰を完全に受け、悪魔の力から私を買い戻してくださいました。そして今も、天の父なる神の御心がなければ、私の髪の毛一本すら失われることがないように、私を守ってくださっています。 すべてのことが、私の救いのために働くようにしてくださるのです。 だから私は、聖霊によって永遠のいのちが与えられていることを確信し、今から主のために生きたい、という願いが与えられているのです。 2. この慰めのうちに生き、死ぬために、あなたは何を知らなければなりませんか? 3 つのことです。 1. 自分がどれほど罪深く、惨めな者か 2. 自分がどのようにしてその罪から救われるのか 3. 救ってくださった神に、どう感謝して生きるべきか 第一部:人間の惨めさ(罪) 3. あなたは、自分の惨めさをどこから知るのですか? 神の律法(十戒など)によってです。 4. 神の律法は、私たちに何を求めていますか? イエス・キリストが言われたように、 「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが第一の戒めです。次に重要なのは、隣人を自分のように愛しなさい」ということです。 5. あなたは、これらを完全に守れますか? いいえ。私たちは、生まれつき神をも人をも愛せず、かえって嫌うような性質を持っているのです。 6. 神は、私たちをそのように悪くつくられたのですか? そうではありません。神は、最初の人間を「神のかたち」に従って、正しく、聖く、神を愛し、共に生きる者として造られました。 7. それなのに、どうして人間は今、堕落しているのですか? それは、最初の人間アダムとエバがエデンで神に背き、堕落したからです。その結果、すべての人が罪の性質を持って生まれるようになったのです。 8. では、私たちはそれほど堕落しているのですか? はい。私たちは、自分では何の善もできず、悪に傾く者になっています。神の霊によって新しく生まれなければなりません。 9. 神は、私たちができないことを律法で求めることで、不公平ではありませんか? いいえ。神はもともと私たちが律法を守れるようにつくられました。しかし、人間が自ら神に背き、その能力を失ったのです。 10. 神は、そのような罪を見逃してくださるのですか? 決してそうではありません。神は、私たちの生まれつきの罪も、実際に犯す罪も、正しくさばかれるお方です。永遠の刑罰をもってさばかれるのです。 11. でも、神はあわれみ深い方ではありませんか? もちろん、神はあわれみ深い方です。しかし同時に、正しい裁き主でもあります。ですから、神への罪は、永遠の罰によって償われなければならないのです。 第二部:人間の救い(贖い) 12. それでは、どうしたらこの罰から逃れ、再び神に受け入れられることができます か? 神はご自分の正義が満たされることを望まれます。だから、私たちは自分で、あるいは他の誰かによって、その罰を完全に償わなければなりません。 13. 私たち自身で、その罰を償うことができますか? いいえ。むしろ、私たちは日々さらに罪を重ねてしまいます。 14. では、他の被造物(天使など)に償ってもらえますか? できません。神は、人間の罪を他の存在に背負わせることはなさらないし、どんな被造物も神の怒りに耐える力を持っていません。 15. では、どんな救い主が必要なのですか? 人間であり、しかも罪のない正しい方。そして、すべての被造物よりも力ある、まことの神であるお方です。 16. なぜ、救い主はまことの人でなければならないのですか? 神の正義は、罪を犯したのと同じ人間の性質によって償われなければならないからです。しかも、その人自身が罪を持っていては他人の罪の代わりにはなれません。 17. なぜ、その救い主は神でもなければならないのですか? 神としての力によって、人間として神の怒りを耐えぬき、私たちに永遠のいのちを与えることができるからです。 18. そのようなお方は誰ですか? 私たちの主イエス・キリストです。神が恵みによって、私たちの完全な救い主としてお与えくださった方です。 19. どうしてそのことがわかるのですか? 聖書の福音によってです。これは、エデンの園で神が約束され、預言者たちが語り、旧約のささげものなどによってあらわされ、ついにキリストご自身によって成就しました。 続けて、** LORD’S DAY 7〜11 (救いにあずかる信仰)**を高校生向けに翻訳していきます。 第三部:信仰によってキリストに結びつけられる LORD’S DAY 7 20. では、アダムによって全人類が滅びたように、キリストによって全員が救われるのですか? いいえ。本当の信仰によってキリストに結びつけられた人だけが救われ、そのすべての恵みを受けるのです。 21. では、「本当の信仰」とは何ですか? 本当の信仰とは、神のことばに書かれているすべてを真実として知ることと、心から信頼して受け入れることです。 その信仰は、聖霊が福音を通して働かれることで私たちの心に生まれます。そして、その信仰によって、神が私の罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださると信じられるのです。しかも、それはキリストの功績だけによって、ただ恵みによって与えられるものなのです。 22. キリスト者として信じるべきことは何ですか? 福音に約束されているすべてのことです。これらは、「使徒信条」と呼ばれる信仰のまとめに表されています。 23. それはどういう内容ですか? 使徒信条 私は信じます。 • 天と地を造られた全能の父なる神を。 • そして、そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを。 主は、聖霊によってみごもられ、処女マリアから生まれ、 ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死に、葬られ、陰府(よみ)にくだり、 三日目によみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座しておられます。 そこから、やがて生きている者と死んだ者とをさばくために来られます。 • 私は信じます。 聖霊を。 聖なる普遍的教会(全世界にある神の教会)と、聖徒の交わりを。 罪のゆるし、からだのよみがえり、そして永遠のいのちを。 LORD’S DAY 8 24. この信仰の内容(使徒信条)は、どのように分けられますか? 3 つに分けられます: 1. 父なる神と、私たちの創造について 2. 御子イエス・キリストと、私たちの救い(贖い)について 3. 聖霊と、私たちの聖なる生き方(聖化)について 25. でも、神はひとりなのに、どうして「父・子・聖霊」の三つの人格を言うのですか? それは、聖書がそのように教えているからです。神はおひとりですが、「父・子・聖霊」という三つの人格(ペルソナ)として、ご自身を表してくださいました。ですから、私たちもそのように信じるのです。 神についての信仰の内容 LORD’S DAY 9(父なる神) 26. 「私は、天地の創造主である父なる神を信じます」とは、どういう意味ですか? それは、イエス・キリストの父である永遠の神が、天地万物を何もないところから造られ、今もそれらを保ち、支配しておられることを信じるということです。 この神は、キリストのおかげで、私の神、私の父ともなってくださり、私が必要とするすべてを備えてくださると信じます。 たとえ苦しいことがあっても、それさえも私の益になるようにしてくださると信じます。なぜなら、神は全能の神であり、また、愛と誠実に満ちた父だからです。 LORD’S DAY 10(神の摂理) 27. 「神の摂理(せつり)」とは、どんな意味ですか? 神の摂理とは、神の力と愛によって、すべてのことが神の御手の中で導かれているということです。 草や花、雨や晴れ、豊作や飢え、健康や病気、貧しさも富も…すべては「たまたま」起きているのではなく、神の父なる手によって起こされているのです。 28. 神の摂理を知ると、私たちにどんな良いことがありますか? 3 つの祝福があります。 1. 苦しみの時には、神の目的があるとわかって、忍耐できるようになります 2. 良い時には、心から感謝できます 3. 将来のことにも、神がすべてを支配してくださっているという安心感を持てます そして、どんなことがあっても、神の愛から私たちを引き離すものは一つもないという確信を持つことができます。 LORD’S DAY 11(御子イエス) 29. なぜ神の子は「イエス(救い主)」と呼ばれるのですか? それは、イエスが私たちの罪から救ってくださるお方だからです。 そして、救いは、イエス以外のどこにもないのです。 30. 「イエスを信じている」と言いながら、他のもの(聖人・自分の努力など)に救いを 求めている人も、本当にイエスを信じているのですか? いいえ。彼らは口ではイエスを信じていると言っても、実際にはその信仰を否定しているのです。 イエスを本当に信じる者は、イエスの中に、救いに必要なすべてがあると信じるからです。 もし他のものにも頼ろうとするなら、それは「イエスだけでは足りない」と言っているのと同じなのです。 キリストと私たちの救い(続き) LORD’S DAY 12 31. なぜイエスは「キリスト」(=油注がれた者)と呼ばれるのですか? それは、神がイエスを特別な働きのために任命し、聖霊によって油注がれたからです。その働きは、三つあります: 1. 預言者として、神の真理を語られること 2. 祭司として、十字架で自分自身をささげ、私たちの罪のために完全ないけにえとなられたこと 3. 王として、今も私たちを治め、守り、悪に打ち勝つ力を持っておられること 4. では、なぜ私たちも「クリスチャン(キリストに属する者)」と呼ばれるのですか? それは、私たちが信仰によってキリストに結びつけられ、「小さなキリスト」として生きる者となるからです。 つまり私たちは: • 神のことばに従って生きる預言者として、 • 自分の生活を神にささげる祭司として、 • 罪や悪と戦い、キリストとともに王として生きる者として、 この地上で生きるように召されているのです。 LORD’S DAY 13 33. なぜイエスは「神のひとり子」と呼ばれるのですか?私たちも神の子ではないの ですか? イエスは、永遠の存在として、神と本質を同じくする「本当の子ども」だからです。 一方、私たちは神の子とされていますが、それはキリストを通して神に受け入れられた養子としての意味です。 34. なぜイエスを「主」と呼ぶのですか? それは、イエスが私たちを完全に罪から贖い(買い戻し)、自分のものとしてくださった主であるからです。 つまり、イエスはもう「一部の助け手」ではなく、人生のすべてを支配する主人、王なのです。 LORD’S DAY 14 35. 「イエスは聖霊によって宿り、処女マリアから生まれた」とは、どういう意味です か? これは、イエスが人間の普通の方法ではなく、聖霊の働きによってマリアの体に宿られたという意味です。 そのためイエスはまことの人間でありながら、罪を持たない完全な存在として生まれられました。 36. このように「まことの人」として来られたことは、私たちにとってどんな意味があり ますか? それは、イエスが私たちと同じ人間として、 • 私たちの罪の身代わりになり • 神の怒りを受け止め • 完全に償ってくださったことを意味します。 つまり、イエスは神でありながら人となられ、本当の意味で「私たちの代表」となってくださったのです。 キリストの苦しみと救いの完成 LORD’S DAY 15(苦しみと十字架) 37.「苦しみを受け、十字架につけられた」とはどういう意味ですか? それは、イエスが生涯のすべてにおいて、特に十字架の上で、 神の怒りを受けて苦しまれたという意味です。 この苦しみは、自分の罪のためではなく、私たちの罪の身代わりとして受けられました。 イエスは完全に正しい方でしたが、私たちの代わりに罪人として扱われ、 神の裁きを受けてくださいました。 そのゆえに、私たちは神の怒りから解放され、神の子どもとして受け入れられるのです。 LORD’S DAY 16(死と葬り) 38. なぜイエスは「死なれた」と言われるのですか? それは、罪の代価が「死」であるからです(ローマ6:23)。 イエスは私たちの罪の報いを完全に受け取られ、真の死をもって償いを完成されました。 この死によって、罪の支配は終わり、信じる者は永遠の死(神からの断絶)から救われたのです。 39. なぜ「葬られた」とも言うのですか? それは、イエスが本当に死なれたことを確証するためです。 葬られたということは、キリストが「本当に死んだ」と公に示されたということです。 そして、私たちの古い人もキリストとともに葬られたのです(ローマ6:4)。 つまり、信仰によってキリストに結びつけられた者は、罪に対して死んだ者とみなされます。 LORD’S DAY 17(復活) 40. イエスの復活は、私たちにどんな益をもたらしますか? イエスの復活は、私たちの義が確かなものになったという証拠です(ローマ4:25)。 ― つまり、神は御子の死を受け入れ、すべての罪が赦されたと宣言されたのです。 イエスの復活は、新しいいのちの力として、私たちの心に働きます。 ― 聖霊によって、罪の支配から自由にされ、新しい歩みへ導かれます。 そしてイエスの復活は、私たち自身のからだの復活の保証です。 ― キリストが初穂(最初の復活者)であるように、私たちも同じ栄光のからだによみがえります。 LORD’S DAY 18(昇天) 41. なぜイエスは天にのぼられたのですか? それは、御自身の地上の使命を完成し、父の右の座に着くためです。 そこにおいてイエスは、王としてすべてを治め、信じる者のためにとりなし続けておられます。 また、天におられるキリストは、私たちの永遠の命の保証です。 私たちの「かしら(頭)」がすでに天におられるので、やがて「体(教会)」である私たちもそこに引き上げられるのです。 LORD’S DAY 19(再臨と裁き) 42. 「そこから来て、生きている者と死んだ者とをさばく」とはどういう意味ですか? それは、イエスがやがて栄光の主として再び来られるという約束です。 そのとき、すべての人はよみがえり、キリストの前に立たされます。 信じる者には、すでに裁きが済んでいます(ローマ8:1)。 ― なぜなら、彼らの罪はすでにキリストの十字架で裁かれたからです。 しかし信じない者には、義なる神の裁きが下されます。 この再臨の約束は、恐れではなく慰めと希望です。 キリストが今も主として治めておられ、最後には完全な勝利をもたらされるからです。 聖霊と聖化の恵み LORD’S DAY 20(聖霊) 43. 「私は聖霊を信じます」とは、どういう意味ですか? それは、聖霊が父と子とともにまことの神であり、また、信じる者のうちに住まわれる方であると信じることです。 聖霊は、 キリストの救いの恵みを、実際に私たちに適用してくださる方です。 福音を通して信仰を生み出し、 日ごとに私たちをキリストに似た者へと変えてくださる方です。 聖霊によって、私たちはキリストと結びつけられ、神の子どもとして歩む力を与えられます。 教会と交わり LORD’S DAY 21(教会と赦し) 44. 「聖なる普遍的教会と聖徒の交わりを信じます」とは、どういう意味ですか? それは、キリストが、世界のあらゆる時代と場所から、 信仰によって呼び集められた民を一つの体として結んでおられる、という意味です。 この教会は、人間の組織ではなく、キリストご自身のからだです。 聖霊によって結び合わされた信徒たちは、互いに助け合い、祈り合い、愛をもって仕え合います。 だから教会の交わりとは、ただ「仲良くすること」ではなく、キリストを中心として一つにされることなのです。 45. 「罪のゆるしを信じます」とは、どういう意味ですか? それは、キリストの十字架のゆえに、神がすべての罪を完全に赦してくださると信じることです。 この赦しは、部分的なものではなく、 「過去・現在・未来の罪」すべてがキリストの血によって洗い清められるという意味です。 神は、私たちを「義」と認めてくださり(義認)、 今も御霊によって聖めてくださいます(聖化)。 つまり、「赦し」と「きよめ」はどちらもキリストとの結合から流れ出る恵みなのです。 復活と永遠のいのち LORD’S DAY 22(からだのよみがえり) 46. 「からだのよみがえりを信じます」とは、どういう意味ですか? それは、死がすべての終わりではないということです。 信じる者は、死んでも魂がすぐにキリストとともにある喜びの世界へ行きます(ピリピ1:23)。 そして、キリストが再び来られるとき、 神は私たちのからだを新しくよみがえらせ、 キリストの栄光のからだのように変えてくださいます(ピリピ3:21)。 そのとき、死も苦しみもなく、罪ももう存在しません。 すべてが新しくされ、神の国が完全に現れるのです。 LORD’S DAY 23(永遠のいのち) 47. 「永遠のいのちを信じます」とは、どういう意味ですか? それは、すでに今この地上で、キリストによって永遠のいのちを持っているということです。 永遠のいのちとは、単に「終わりのない時間」ではなく、神との親しい交わりの中で生きることです。 信じる者は、すでにこのいのちを味わいながら歩み、やがて再臨の日に、それを完全に受け取ります。 そのとき、「神ご自身が彼らとともに住み、涙をぬぐい去られる」(黙示録21:3–4)。 ― これが信仰の完成、永遠の喜びなのです。 義認と感謝の生活 LORD’S DAY 24(義認と行い) 48. 私たちはなぜ「行いによって」ではなく、「信仰によって」義と認められるのですか? それは、私たちの中には神の前に誇れる善が何一つないからです。どんなに良い行いをしても、罪の汚れが混じっており、神の完全な義には届きません。 だからこそ、神は恵みによって、キリストの完全な義を私たちに着せてくださったのです。信仰とは、自分の力を捨てて、このキリストの義により頼むことです。 「信仰によって義と認められる」(ローマ3:28)― それは、キリストとの結合によって、彼の義が私のものとされるという意味です。 49. では、良い行いには何の意味もないのですか? いいえ。良い行いは、救いの原因ではなく結果です。つまり、救われるために行うのではなく、救われた者として行うのです。 神は、キリストに結ばれた者を新しく造り変え、その人が喜んで神を愛し、隣人に仕えるようにされます。これが聖霊による「新しい生き方」です。 LORD’S DAY 25(信仰の源 ― 恵みの手段) 50. そのような信仰は、どこから生まれるのですか? 信仰は人間の努力からではなく、聖霊の働きによって生まれます。聖霊は、**福音の宣教と聖礼典(洗礼と聖餐)**を通して信仰を育ててくださいます。 福音は、神の恵みを耳から心へ伝える「ことばの手段」。聖礼典は、その恵みを目に見えるかたちで示す「しるしと保証」です。 LORD’S DAY 26–27(洗礼) 51. 洗礼は、何を意味していますか? 洗礼は、キリストの血と御霊によって、私たちの罪が洗い清められたことを神が保証するしるしです。 水で洗うように、神は私たちの罪の汚れを取り除き、キリストの義によって新しくしてくださいました。つまり、洗礼は「キリストと結ばれた」ことの外的な証拠なのです。 52. では、洗礼の水そのものに力があるのですか? いいえ。水ではなく、キリストの血と聖霊の力が罪をきよめます。洗礼は、信じる者にとって、神の約束のしるしであり、確かな保証なのです。 LORD’S DAY 28–30(聖餐) 53. 主の晩餐とは何ですか? 主の晩餐(聖餐)は、イエスが十字架にかかられる前の夜に弟子たちに与えられた食事で、キリストのからだと血を覚える聖礼典です。 パンは、キリストの「裂かれたからだ」を、杯のぶどう酒は、キリストの「流された血」を表しています。 信仰によってこの食卓にあずかるとき、私たちは聖霊によって、キリストご自身に養われ、結ばれていることを確かめます。 54. 聖餐はただの記念なのですか? いいえ。聖餐は単なる記念ではなく、霊的な現実の交わりです。キリストのからだは天にあり、しかし聖霊によって信じる者の魂に与えられるのです。 「私はぶどうの木、あなたがたは枝である」(ヨハネ15:5)― 聖餐とは、この結合を目に見える形で確かめる恵みの食卓なのです。 55. 誰でも聖餐にあずかれるのですか? いいえ。主の晩餐は、真実な信仰と悔い改めをもつ者のための食卓です。 もし罪を悔いずにあずかるなら、 それは「主のからだをわきまえない罪」となります(Ⅰコリント11:29)。 だから信徒は、聖餐にあずかる前に、自分の心をへりくだらせ、「キリストだけが私の義」と信じて臨むのです。 LORD’S DAY 31(天国の鍵 ― 宣教と戒め) 56. 「天国の鍵」とは何ですか? それは、キリストが教会に与えられた二つの務め、すなわち 福音の宣教 教会の戒め(discipline) のことです。 福音が宣べ伝えられるとき、信じる者には天国の門が開かれ、拒む者には閉ざされます。 また、教会の戒めを通して、罪を悔い改めない者を教え導き、教会の清さを守ることもまた、神の恵みの働きなのです。 感謝の生活:恵みへの応答 LORD’S DAY 32(感謝と善い行い) 57. では、恵みだけで救われるのなら、なぜ良い行いをする必要があるのですか? それは、キリストが私たちを新しく造られたからです。救いは、私たちをそのままの罪人として残すためではなく、神のかたちに回復するためのものです。 善い行いとは、救いの条件ではなく、救われた者の証しです。私たちは、神に感謝し、神を愛し、隣人に仕えることで、この世界においてキリストの栄光を現すのです。 「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするために造られた」(エペソ2:10) 58. 善い行いとは、どのようなものですか? それは、 神のことばに従って行われ、 神の栄光を目的とし、 自分の知恵や人の習慣からではなく、 信仰と感謝から生まれる行いです。 LORD’S DAY 33(悔い改め) 59. 悔い改めとは何ですか? 悔い改めとは、心の真の変化です。古い人(罪の性質)が死に、 新しい人として神に従うようになることです。 この変化は、 罪のために悲しみ痛むこと(罪の死) 神の恵みに生きる新しい喜び(新しい命) の二つから成り立っています。 LORD’S DAY 34(十戒 ― 第一戒) 60. 神の律法(十戒)は、救いに関係あるのですか? はい。ただし、「救われるための手段」ではなく、「救われた者が神を愛して生きるための道しるべ」としてです。 律法は、罪を示す鏡であり、同時に、神の御心を示す光でもあります。 第一の戒め: 「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト20:3) 意味:神を第一とし、心のすべてをもって神を信頼すること。自分の力、財産、人間、偶像、運命などを神のように頼ることは偶像礼拝です。 LORD’S DAY 35–44(十戒の続き) 第二の戒め: 「あなたのために偶像を造ってはならない。」 神は、目に見えるかたちで礼拝されることを望まれません。神を自分の想像でつくり変えることは、真の礼拝を歪めます。神は御言葉によってご自身を現されます。 第三の戒め: 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」 神の名は軽く扱われてはなりません。祈り・賛美・誓いのすべてにおいて、神の名は真実と敬意をもって語られなければなりません。 第四の戒め: 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」 この戒めは、神が私たちを休ませる主であることを思い出させます。キリストにあって、私たちは律法のわざから解放され、毎日が「主の日(Sabbath)」として、神の安息に生きるように招かれています。 第五の戒め: 「あなたの父と母を敬え。」 権威を与えられた人々(家庭・社会・教会)を尊び、従うこと。これは、秩序と愛の中に神の御手を見る信仰の表れです。 第六の戒め: 「殺してはならない。」 神はすべての命の主です。憎しみや怒り、無関心によって他者を傷つけることも殺人の罪です。むしろ、隣人を愛し、助け、守るように召されています。 第七の戒め: 「姦淫してはならない。」 心も体も神に属しています。性的な純潔は、キリストとの結合を映し出すものです。忠実さと貞潔さは、神の愛のかたちです。 第八の戒め: 「盗んではならない。」 神が与えたものを正しく管理し、他人のものを奪う代わりに、分かち合う心を持つように求められます。働きは神の恵みへの応答です。 第九の戒め: 「偽りの証言をしてはならない。」 真理を語ることは、神の性質を映すこと。うわさ話、誤解、偽りの沈黙も神の名を汚します。誠実に語り、隣人の名誉を守りましょう。 第十の戒め: 「むさぼってはならない。」 むさぼりは、心の偶像礼拝です。「神がくださったもので満足する心」こそ、感謝の生活の頂点です。 LORD’S DAY 45–52(祈り ― 主の祈り) 61. 感謝の生活の中で最も大切なことは何ですか? それは祈りです。祈りは、神との親しい交わりであり、感謝の息そのものです。神に従う力は、自分の中にではなく、祈りを通して神から受け取ります。 「祈りこそ、信仰の呼吸である」(カルヴァン) 主の祈り 62. どのように祈るべきですか? イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」が模範です。これは、私たちの祈りのすべてを正しい順序に導きます。 主の祈りの意味(マタイ6章) ① 天にまします我らの父よ→ 神が父であることを思い出し、信頼をもって近づきます。 ② 御名が聖とされますように→ 神の名があがめられるように、私たちの言葉と生き方を清めてください。 ③ 御国が来ますように→ 神の支配がこの地に広がり、人の心が主に従うように。 ④ 御心が天で行われるように地でも行われますように→ 自分の願いではなく、神のご計画に従う心をください。 ⑤ 日ごとの糧を今日もお与えください→ 物質的・霊的に、今日生きるために必要な恵みを求めます。 ⑥ 私たちの罪をお赦しください→ キリストの十字架を思い出し、赦された者として他者を赦します。 ⑦ 私たちを試みにあわせず、悪からお救いください→ 誘惑に勝つ力を与え、サタンの策略から守ってください。 ⑧ 国と力と栄えはあなたのものだからです→ すべての栄光が神に帰される。祈りは感謝で終わります。 結びの告白 私は信じます。救いは、始めから終わりまで神の恵みによることを。私はキリストに結ばれ、聖霊によって導かれ、父なる神の栄光のために生きる者です。アーメン。
- 第1テモテ1章3節~4節講解
2025.12.10 The Word for you 「私がマケドニアに行く時に言ったようにあなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。 そのようなものは、議論を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。」 第1テモテの核心のテーマ。それは、テモテがパウロから命じられたことは、 「教会内で異なる教えを教えないように命じる。」この一点です。 教会の中で、パウロが伝えた福音と異なる教えを教えることがないように、命じています。 この異なる教えの中心にあるのは、人を中心とした、人を源泉にすり替えた、人間中心の教え、そして自己義認。 全体は、福音と偽りの教えの戦いを描いています。福音対人間中心の教えが、テモテに宛てている手紙のテーマです。 現代の教会で起こっている現象に当てはめるなら、果てしない作り話と系図であり、それは人間の作り話、デマを信仰の土台に据えることそのまま。 例えば、第三神殿がエルサレムのイスラム教ドームの下に隠されて建造されているというような、極端なユダヤ主義の妄想。また、カリスマ的に、雲や空に偶然できた十字架の形を霊的印として、救いの根拠にすること。終末論とか、政治、現代の国際紛争を、霊的なメッセージとして結びつけようとする支配神学。自分の体験を聖書のみことばの上に置き換える、そのような信仰、これらすべては人間から出てきています。人間の考えです。 人間中心の宗教の構造というのは、自分は正しいという自己義認の一つの形態。 パウロが強く退けているのは、こういった人間の妄想、人間の物語、人間のロジック、自分の義を信仰の基礎に据えるという構造です。 現代にあるこの構造は、古代の偽の経験だとか、ユダヤの経図、そして現代の第三神殿も、現代の政治も同じ構造を持っています。 そして、そのようなものは、パウロがこう言います、「神に委ねられた信仰の務めを実現させない。」そのようなものとして却下しています また、教会に持ち込まさせたり、話をさせるなという命令を、テモテにします。 自己義認とは何でしょうか。自己義認というのは、自分は正しい。これです。 もっと言えば、これから頑張って良い行いをして良い人になる。これも自己義認。いつも優しく人に好かれる言葉を言う。自己義認。祈りと聖書を読め、すごく聖書的ですけど、そうするとキリストの姿に変えられていく。これは人を救いの源泉に据えている考え、そのまま。 パウロはそれを、第1テモテの1:6で虚しい議論と呼び、1:7で律法の誤解と無理解と言い、4:1では惑わす霊と悪霊の教えというように、断罪しています。 すなわちパウロは人間中心の教えは、自己義認の実現させるためのツールであり、それは悪魔的な考えであり、思想であり、悪魔の教えであると言っています。外側は敬虔に見える。しかし内側は、自己救済の宗教だと言っています。 これはすごく深いです。自己義認に陥る者は、外側の行為は、宗教的であり、敬虔的に見せかけています。 この自己義認の現れ方、ここに入って陥っていく者たちは、外側の行為は宗教的に見えます。宗教的に着飾ります。宗教的にデコレーションします。そして、人への言葉遣いなどは、経験的に見せかけます。宗教用語を散りばめます。 そこには、偽りの奉仕、偽りの祈り、偽りの断食、偽りの従順、偽りの献金、偽りの聖さの追求、そして偽りの聖書の御言葉を語る行為があります。 しかし実際には、内側は空虚です。いくら聖書の言葉を語っても空虚であり、内側は人を許さない、呪う、汚れたもので満ちています。 これが自己義認の実態です。自分で義を積み上げている。しかし積み上げきれない。自分の霊性が素晴らしいと証明する、でも証明されない。自分は頼り、良い、しかし内側は悪い。これが自己救済という自己義認の構造そのものです。そして、イエス様はこう言われています。 マタイの福音書の23章の27 わざわいだ、わざわいだ偽善の律法学者パリサイ人。 自己義認の人たち。宗教的にお前たちは見える。お前たちは、白く塗った墓のようなものだ。お前は白く塗った墓のようなものだ。 外側は美しく見えても、着飾って、宗教言葉を散りばめても、着物を宗教的なものに着替えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。それが、自己義、人間中心主義の教えの実態。そのようにイエス様は言われる。 パウロも、同様に第2テモテの3:5で、こう語っています。敬虔の形を持っていても、その力を否定するもの。敬虔の形を持っていても、実はその力を否定するもの。まさしくイエス・キリストが言われて いるマタイの23:27をそのまま、プリサイスに、正確に、直線的に言っています。 偽善者だ。 敬虔という、偽物の敬虔を作ろうというが、内側が死人の骨やあらゆる欲、汚れでいっぱいのもの、それが人間中心の教え、悪魔の教えそのものであると、パウロに言わしめたものです。 そこにはキリストとの結合の力は存在していない。御霊の力は存在していない。 パウロが対峙していた偽りの経験。 第1テモテの4:3-7でパウロは、禁欲的、外的な行為を霊的だとする偽りの経験を否定しています。それは食物を制限すること、結婚を禁止すること、肉体的な行為の積み上げ、このようなものをパウロは却下しています。否定しています。 これらは見た目に 鍛錬というように見えても、それは人間中心であり、神はそこにいません。 パウロは肉体の鍛錬について、全く無意味ではないと言います。肉体の鍛錬4:8で肉体の鍛錬も少しは有益です。ここの、有益というのは、一時的に、地上的に、外面的な範囲では、健康、また生活の秩序、一時的な自制という意味においては、少しは有益だと言っています。 しかしその後の聖句で、今の命と来るべき命を約束する敬虔は全てに有益です。と言っています。ここで2つの敬虔があります。一つは肉体の鍛錬、少しは有益。対、今の命と来るべき命を約束する敬虔。これを比較させています。 そして来るべき命を約束する敬虔は全てに有益だと言います。なぜなら、肉体的な鍛錬というのは永遠と関係ないからです。救いの源泉にもならずに、霊的命は何もない。 その後に来る今の命と来たるべき命を約束する敬虔とは何を言っているのか。 来たるべき命。 今の命というのは私たちは永遠の時が始まる前にイエス様の内にあって選ばれた、それは永遠の結合が時の中において、結合から流れ、再生、照明、聖化、栄化へと続く、これが今の命。 そして、来るべき命とは、肉体が朽ちない体に変えられる、罪が一切ない、キリストとの完全な交わり、もはや試練も涙もない、神を完全に喜ぶ状態、これが来るべき命です。 そして、この両方ともに、人間の選択はない。私たちが選んだから、私たちは救われたのではなく、私たちは選ばれた上で、そして私たちは救われている。 私たちは信じたから、再生されたのではなく、私たちは再生され、そして信じるものに変えられた。そこには人間の選択、応答、鍛錬は何もない。 永遠の神とキリストにあって、永遠の中で私たちをキリストに置いてくださり、そして神が私たちを選んでくださった結果として約束された命です。生ける泉が私たちの内にあり、その泉から、喜びの井戸から私たちは水を汲む、それは苦しみではなく喜びです。 この敬虔は全てに有益です。 聖書は言います。神の主権の下で、神の主権の、永遠の主権の中で、神が与える恵みの手段の中を歩むこと、つまり、私たちは永遠の結合、再生、照明、信仰、聖化の流れの中に、みことばと信仰と祈りと賛美が、手段として置かれていて、その中を通って私たちは生きていきます 。それは敬虔な歩みそのものです。そしてこの敬虔は私たちに、有益な結果を生みます。 それは、この敬虔は、私たちが結合の現実の中に生きる中において、試練と、壊し、そして照明を私たちは受けます。そして私たちの内側が、心が変えられていく、偶像が破壊されていく、それは聖化として歩ませる恵みそのものです。 この結果私たちは、試練に耐える信仰、欲望に支配されない歩み、誘惑に対する洞察や、教会の一致、キリストの体、つまりこの世での歩みのすべてに影響するということをパウロは言っています。 しかし、これは信者が努力で成長するのではなく、神が働かれるが故に、敬虔は有益なものとなるということ。つまり、パウロが言っている今の命、来るべき命に対する有益さの顕現とは、永遠の結合の証そのものです。私たちはそのような歩みをしています。 その中において私たちは自己義認の実態を理解する必要がある。 自己義認というのは、自分を神の座に置く偶像礼拝のことを言っています。最も重要なのは、自己義認は、実は自分を神にする偶像礼拝そのものだということ。 カルバンはこう言います。 「人間の心は絶えず偶像を生み出す偶像生産工場である。」 私たちの心は絶えず偶像を生み出す生産工場。その偶像とは私たち自分自身。私たちはこの構造をエゼキエル書の28章2節で見ることができます。 人の子よ、ツロの君主に言え。 神である主はこう言われる。 あなたの心は高ぶり。 私は神だ。 海の中で神の座についていると言った。 あなたは自分の心を神のようにみなしたが、 あなたは人であった神でない。 このエゼキエル書の28章の2節は、自己義認の心そのもの、自分が義の源になる。自分の努力で神に近づく。自分の聖さで受け入れられると思う。これはすべて、私は神だという心の翻訳そのものです。 ツロの象徴は、ヨエルの書や預言書で私たちは学びました。人間中心の誤った思想、宗教、高ぶりの象徴です。ツロは繁栄しながらも、神に依存していません。その高ぶりは、自分中心、自分の義、自分の救済、自分の栄光という思想として、旧約の中に登場します。 第1テモテが警告する異なる教えの、根の姿そのものです。 ツロの引用は自己義認そのままです。 人間中心の教えはキリストの義を不要にする反福音です。人間中心の教えはキリストの義を不要にします。 自己義認はこのように言います。 自分はできている。腐っていない。自分は正しい。自分の努力が神に受け入れられる。私は一生懸命努力している。自分の聖さで神に近づける。このような思想は自己義認です。 これはすなわち、これらの言葉は、キリストの義は不要だと言っています。自分は腐っていない、キリストの義は不要だ。自分の努力、一生懸命聖書を読んだ、いいことをしたから、神に受け入れられる。キリストの義は不要である。私は洗礼を受けて聖いから神に近づける、キリストの義は不要である。 これが自己義認。これが人間中心主義の結末。キリストの義は不要である。 見た目は敬虔。白塗りの墓。その実態は、十字架のみわざの破壊行為。死人の骨と腐ったもので満ちている墓の中身。 パウロはこう言います。 キリスト・イエスは罪人を救うために来られた。 罪人を救うのは、人の努力ではなく、永遠の結合から流れる神の恵みです。 第1テモテの福音の構造は、1:12~16で、パウロはこう告白しています。私は憐れみを受けた。私は教会を迫害し、とんでもない人間だった。しかし私は憐れみを受けた。 14主の恵みが満ち溢れます。 パウロが変えられた神の御業、永遠の泉から来ます。人間の努力ではなく、永遠の結合から流れ出る神の恵み、福音の構造がパウロを変えています。 そして、これが神中心の、パウロがテモテが伝えた福音です。 まとめ 第1テモテの福音は 、人間中心主義対福音の戦いです。パウロは、教会から人間中心の教えを排除せよとテモテに命令しています。 人間中心は白塗りの墓です。外見は敬虔に見える。しかし内面は腐っている。一見敬虔に見える自己義認の行為の実態は、神に従っているように見える。見える。実は、しかし、自分を神の座に置く偶像礼拝であり、反福音、その言葉は、自分は正しい、私は腐っていない、自分の努力、私は頑張っている、だから神に受け入れられる。私は洗礼を受けて聖いから神に 近づける。このような考え方は自己義認そして、キリストの十字架を否定する。 私たちは、悪霊と戦わなければいけない、マモンからお金を、マモンから私たちはお金を神に戻さなければならない。このような霊的な戦い神学には、「まだキリストの十字架が不足である。だからあなたたちは戦いなさい。」そのように、人々に語り、キリストの十字架が完全に私たち、そのサタ ン、悪霊に対して勝利している、コロサイ2:15、「捕虜として凱旋の列に加えられた」という、このみことばを否定します。 そのように、自己義認を教える教えは、悪魔の教えです。 ではお祈りします。 天のお父様、パウロがテモテへ当てた手紙で、自己義認が、いかに私たちの信仰、また教会を汚すか。 私以外に神を、偶像を作ってはならない、私以外に神はいないという、あなたの宣言を私たちは守ります。私たちは偽りの教えに対し、憤慨し、偽りの教えを拒否します。 人間が中心の教えのその実態は、悪魔の教えであるとあなたが教えてくださっていること、神の主権、キリストとの結びつき、そして永遠に溢れる救いの泉が私たち一人一人 の心に与えられていること。 このパウロの教えを心から感謝します。どうか私たちが人間中心に騙されることなく、あなたの御霊によって敬虔に歩むものとされますように。 イエス・キリストの御名をとおして、感謝してお祈りします。アーメン
- 1コリント10章13節 PART1なぜパウロは「試練」と「偶像礼拝」を同じ文脈で語るのか?
2025.12.7 1豊川の家の教会 礼拝メッセージ 1コリント10章13節 PART1 "あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。 ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。 私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。" コリント人への手紙 第一 10章13~15節 なぜパウロは「試練」と「偶像礼拝」を同じ文脈で語るのか? 理由は一つ。試練は“偶像に逃げる心”を暴く。そして、偶像礼拝とは、キリストとの永遠の結合、救いの源泉以外の何かに救い・安全・支えを求めること。 1. 主語=神 (13節) 「神は真実な方です」 – 試練を支配し、量り、制限し、脱出の道を備える方は神。 このとき聖書は厳密に、神が試練を支配していることを土台にする。 だから人は試練の中で主語を人に戻してはいけない。 2. 試練=神が量られた「信仰の場」 パウロは語る 「耐えられない試練にはあわせない」 「脱出の道を備えている」 これは「神が結合している者を守る」という神の真実 つまり試練とは • 神ご自身が与え • 神ご自身がその枠を決め • 神ご自身が脱出の道をつける それは、神の摂理の中にある、信仰の場。 3. 試練が続くと、人の心は必ず“逃げ道”を探す 人間中心主義はこう働く: •自分で耐える •自分で解決する •自分で慰める •自分で安全を作る •人・金・関係・快楽で心を支える これらすべては偶像礼拝 4. 試練の真の目的は「苦しさ」ではなく“偶像へ逃げる心”を暴露する だからこそ、パウロは13節の直後にいきなり14節でこう言う:「ですから…偶像礼拝を避けなさい」 この「ですから)」は原因と結果を一直線に結ぶ強い論理接続です。 •神は試練を与え •神は脱出の道を備え • 神は真実である →だから神以外に頼るな、偶像礼拝を避けよ パウロの意図は完全に一貫している。 5. 試練の本質的な誘惑は“神以外に助けを求める誘惑” 試練の時こそ、人は神以外に支えを求めやすい。 パウロは「偶像礼拝」を • 黄金の牛 • 異教の祭り • 神殿での食事 だけではなく、神の代わりになる「すべて」を含めている 試練の時に心が •人 •金 •快楽 •安全 •家族 •宗教行為 •自己義 •自己防衛 に逃げるなら、それは偶像礼拝。だから試練と偶像礼拝が同じ文脈にある。 6. 「私は賢い人に話すように話します」 φρόνιμοι(賢い者)=照明された者 再生による初発の照明を受けた者は、神中心と人間中心の違いを判断できる人。 パウロは語る、「あなたがたは照明されているはずだから、私の言うことを自分で判断しなさい。」 照明された者ならわかるはずだ。 試練と偶像礼拝の関係は誰に頼るかと言う点で同じ根でつながっている。 まとめ 「試練は神の摂理であり、試練の本質的な誘惑は神以外に逃げる心である。ゆえに試練と偶像礼拝は直結する。」 試練の時、“神以外に頼る誘惑”が最大化する。それをパウロは“偶像礼拝”と呼ぶ。それは結合以外に頼ること。 「最も危険な偶像は、自分が“信仰しているつもり”である心である。」 「試練の時に神以外に逃げるなら、その信仰はまだ自分のものだ。」 そして神は信仰者が持つすべての人間中心の心が頼る偶像を破壊する。 「聖化=神が偶像を砕き、結合の恵みをさらに深く注ぎ込む過程」 信仰者が純粋に神のみを頼る者に変えられる。 「試練も偶像破壊も、すべてはキリストとの結合から流れ出る恵みである。試練のただ中で「神に向かって叫ぶ祈り」を生み出すのは“神ご自身”である パウロは言う: 「神は真実な方です…脱出の道を備えてくださいます」(13節) ここで重要なのは “脱出の道”とは外側の状況変化ではなく、心の中において神へ近づくこと、そのもの である。 そして心の中で神に近づくとは: 祈る心 助けを求める叫び 神への依存 偶像から離れる動き 罪への痛み 悔い改めの生起 これらはすべて 神が結合している者に与え、実行させる恵みの働き 。神へ走り、逃げこむこと。 パウロは命令する。 "こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。" コロサイ人への手紙 3章1~2節 ここで決してこう言ってはいけない: 「人が祈ることで脱出の道が開かれる」 「祈りは人間側の応答である」 これはすべて人間中心主義で誤り。 聖書の構造は逆: 祈る心は“再生した者に聖霊が生み出す結果”であり、人間の原因ではない。 これをカルヴァンはこう言います: 「祈りは信仰の第一の呼吸である」(Institutes 3.20) ✦ 呼吸は “自分で理由を作ってするものではなく”、 「生きている者だから自然に出る」 。再生した者にだけ、祈りが自然に与えられる。 つまり: 再生 → 初発の照明 → 神への叫び 神は試練のただ中で、キリストに結合された者のうちに “神に叫ぶ心” を造り出し、祈りを与え、実行させる方である。 人間は自分で祈り始めることはできない。祈りは人間の決断や努力ではなく、 再生と初発の照明から流れ出る“結合の恵み”の実 である。 試練とはまさに、 偶像に逃げる心を暴き、 その心を砕き、 神に叫ぶ祈りを内側に生み出し、 その祈りを実行させる という 神の摂理的な働きの場 である。 ゆえに「脱出の道」とは、外側の環境ではなく、 神が内側に創造される “神への祈り” そのもの である。 悔い改めと信仰も、試練を通して与えられる恵み であり、これは人間中心ではなく、すべて結合から流れ出る神の業である。 まとめ 試練は神が完全に支配し、量り、備える。 試練の誘惑は「神以外に頼る」=偶像礼拝。 パウロが偶像礼拝を結びつける理由はそこにある。 神は試練の中で、人間中心の逃げ道を砕く。 神は同時に、結合している者に 祈り・叫び・悔い改め・信仰 を与え、実行させる。 これが「脱出の道」であり、すべて神の恵み。 選ばれた者には神の試練は“照明へ続く偶像破壊のための神の道具”であり、選ばれていない者には破滅への序曲となる。 神は真の信仰者を決して虚無に渡すことをしません。神は永遠の結合、生ける神の泉へ羊たちを導いています。
- 福音の二重構造 摂理と 病・災害・死を考える
福音の二重構造 摂理と 病・災害・死を考える 2025.12.3 The Word for you ― 選ばれた者と選ばれていない者に対する神の御手 ― 今日はヨエル書で学んだ福音の2重構造を復習します。 主は神。キリストとの永遠の結合。人間中心主義の誤った教えの否定。この3原則に基づいて講解します。 病気、災害、そして死。人が最も恐れ、最も避けたいと願うこれらの出来事は、すべて神の摂理のもとにあります。 しかし、その摂理は 二つの全く違う意味 を持って働きます。福音の二重構造です。 選ばれた者には、“恵み”として働く病・災害・死 選ばれていない者には、“義”として働く病・災害・死 出来事そのものは同じでも、その意味と方向は、選ばれた者と選ばれていない者によって二つに分かれます。 1. 出来事は一つ。しかし意味は二つ ― 病・災害・死の二重構造 カルヴァンは言います。「神は同じ出来事をもって、信者を清め、悪人を罰する。」(綱要 I.17) つまり、病そのものは「ひとつ」。災害そのものも「ひとつ」。死そのものも「ひとつ」。 しかし、神がその人を“どちらの群れ”に置いておられるかによって、目的は完全に違います。 2. 選ばれた者にとっての病・災害・死 ― それは必ず、恵みとして働く 選ばれた者にとって、病も、災害も、死の影も、「罰」ではありません。 神はそれらを、高ぶりを砕くために、人間中心の考えを砕きます。 罪の残滓を清めるため、信者の中にある神のかわりに頼むものを暴く。それは砕き、 そして照明を与えます。 照明は砕きの中で深く、深く信仰者の心を貫きます。 「主はその愛する者を懲らしめる。」(ヘブル12:6) 「すべてが益となる。」(ローマ8:28) 病によってすべてが心にある神に属さないものが砕かれ、病を通して、すでに与えられている信仰が深められていく。これは選ばれた者だけに与えられる「恵みの摂理」です。 病 → 聖化の手段 災害 → この世を頼らない信仰を形づくる 死の恐れ → キリストの復活への望みを深める 選ばれた者の人生において、“悲劇のように見える出来事が、恵みの階段となる”これが恵みの摂理です。 3. 選ばれていない者にとっての病・災害・死 ― 義として働く 選ばれていな者は、同じ病でも、同じ災害でも、同じ死でも、人間中心の思想の中で働き、そこには神の主権、永遠の結合を求める心はない。 選ばれていない者の者にとっては、恵みではなく“義”の徴です。 聖書はこう語ります: 「神の怒りが現れている。」(ローマ1:18) 「苦しみにあっても、彼らは神に悔い改めない。」(黙示録16:9) つまり、選ばれていない者の者における病・災害・死は、神の怒りの警告となり、悔い改めへの外的呼びかけ、 不信仰の固定化、裁きの前触れとして現れます。 出来事は同じでも、目的は恵みではなく義。これが摂理のもう一つの顔です。 4. 二重構造の中心は「選ばれた者」 ここで重要なのは:病が軽いから恵み、重いから裁き、ではない。災害に遭ったから裁かれた、ということではない。 出来事の「重大さ」や、災害に遭うかどうかではなく、神がその人をどちらに置いておられるかが決定する。 これが二重構造の中心です。 選ばれた者 → 病は恵みの手段 選ばれていない者 → 病は義の徴 結局、あなたが選ばれているなら、どんな出来事も神の恵みの摂理に転換されます。 あなたが選ばれていないなら、どんな出来事も義の摂理として働きます。 しかし、我々は誰が選ばれていないのかを知らない、主語は常に神です。 5. この二重構造は、人間中心主義を完全に砕く この視点は、すべての異端的教えを破壊します。 「信仰が強ければ病にならない」 「献金すれば災害を避けられる」 「悪霊が病の原因」 「行いで運命が変わる」 これらは共通して神の主権をみとめない、人間中心 です。 しかし聖書は、病も災害も死も、神の二つの目的のどちらかを必ず表す摂理と教え、反対に人間中心を完全に否定します。 6. まとめ:病・災害・死は、二つの道のどちらかを必ず示す 同じ病が、ある人には聖化となり、他の人には裁きとなる。 同じ災害が、ある人には信仰を深め、他の人には不信仰を固める。 同じ死が、ある人には栄光の入口となり、他の人には義の宣告となる。 神は罪の原因ではない。しかし、神はそれをも利用する。出来事は一つでも、その意味は二つ。 すべては、「神の恵みの栄光」と「神の義の栄光」を現すため。 「主は憐れみ深く、正しい方。」(詩篇116:5) 「すべては神に帰する。」(ローマ11:36) 病・災害・死は、恵みか義か、そのどちらかの摂理です。 なぜ、神は愛であるならすべての人々を救わないのか?この質問は人間中心主義の頂点。 聖書は静かに語る。神は聖なる方、神の本質は聖、聖の実行は義、神の愛は聖、義の土台に上にある、 義のない、愛は偽り、恵みは愛である。憐れみと慈しみは神の自由な御心による選び、 聖は神のご性質であり、義はその実行。それは神が必ず行う。神の選ばれた者だけ。 選ばれた者にとって病・災害・死が恵みの手段となるのは、彼らがキリストと結び合わされており、父なる神が御子に結ばれた子どもたちを、結合の恵みによって懲らしめ、清め続けておられるからです。 しかし、わたしたちは知らなければならない。神は不信仰の者にも、太陽、雨、家庭、文化、秩序などの「良きもの」が実際に与えられている。 それを「共通恩寵(common grace)」と呼ぶ。神は不信仰者にも良いものを与え続ける。しかしそれさえ最終的には、神の義と怒りを証しするものになりうるし、悔い改めへの外的呼びかけでもある。 彼らが最後の裁きまで悔い改めなかった場合、受けてきた“良きもの”そのものが、神の怒りの正しさを証言する。 パウロの言葉:ローマ人への手紙 2章4節 「それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」 「私はあなたの心を判断しない。しかし罪の道は必ず破滅へ導く。だから悔い改めよ。」 Soli Deo Gloria ただ神にのみ栄光がありますように
- コリント人への手紙 第一 7章13~15節 講解
コリント人への手紙 第一 7章13~15節 講解 2025.11.30豊川の家の教会礼拝メッセージ "また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。 なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。 しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。" 「主語=神」、「結合が源泉」、「人間中心主義の完全否定」の三原則 1. 聖書が語っている主語は「神」 ■主語=神 とはこういうこと; 神が選ぶ 神が結ぶ 神が呼ぶ 神が生まれさせる 神が照らす 神が信仰を与える 神が義とする 神が聖とする · 神が守る 神が栄光へ連れていく この箇所は、結婚を人間の努力や選択の産物として読むと誤る。実際は神の摂理の下にある結婚を語っている という大前提から読む必要がある。 「今日覚えてほしいのは一つです。 ここで『聖なるもの』とは、信仰者と結婚した未信者、その子どもは救われているという意味ではなく、神がその家庭を“神の「可視的契約領域」 「契約的な外形領域」 ”に置いておられることです。 神は、救われて真の信仰者となった者と未信者の結婚が生じる状況そのものをご自身の摂理として支配しておられる。ゆえに、パウロは「離婚せよ」と命じていない。 2. 各節は神が中心 1)13節「離婚してはいけません」 未信者の夫(妻)が、共に住み続けることを承知している場合、離婚してはならない。 これを神中心に読むと:神が認め、共に住まわせる。神が結んだものを人が勝手に壊してはならない。結婚生活は、神が継続させておられる秩序。ここで主語は「神が保たれる」、決して「人が夫(妻)を保つ」ではない。 2)神は「聖なるものとされている」 14節 信者でない夫は妻によって聖なるものとされており… この聖なるものとは決して「未信者が救われている」という意味ではない。 未信者の夫(妻)のみならず、信者自体も芯まで罪人 これは聖書の出発点。 パウロは再生後の自分をこう語る: 「私は肉的で、罪ある人間です。」(ロマ7:14) 「わたしのうちに良いものは住んでいません。」(ロマ7:18) 「私は惨めな人間です。」(ロマ7:24) 信者はみな「結合の外側からキリストの聖を受けている」だけで、自分の内には“聖”はひとかけらもない。これがわからないと、自己義認へ暴走する。子どもに“自分の聖”を継がせるという異端に落ちる。聖書を誤解し、信仰と恵みの救いに混ぜ物を混入させるという深刻な異端に陥る。 3)「聖なるもの」とは 信者の内的な性質を指さない 14節でいう「聖なるもの」は本質的にきれい/敬虔/霊的に高いという状態ではない。 真の信仰者の本質は汚れ、「聖は神の義、キリストのみ」である。「結合ゆえにそのキリストの義が着せられる」。それが信仰義認。これは 結合(union with Christ)の絶対構造。 ジョン・マレーはこう言う: 「聖は人間の内側に由来しない。すべてキリストとの結合という源泉からくる。」 つまりクリスチャンの「聖」とは キリストの義のみ。ならば、未信者に「 キリストの義」はなく、「聖もない」 4)神は「キリストの義」を一人ひとりに与える。信仰者が神より与えられたキリストの義はその信仰者のみを義とする、決してそれはその配偶者、子どもを義としない。 14節の「聖なるものとされている」は信仰義認のことではないことは明白。 すなわち、再生の継承、伝承はない。 義認は一回きり・永続的であり、その効果が親から子へ継承されることは絶対にない。 信者の聖さは子へ継承されない。 ここを間違えるとローマ・カトリック化し、一部のプロテスタント教会の中でもこの考え方はある。 「親がクリスチャンだから → 子どもの救いへの継承」 「父親が有名な牧師だから → 子どもの信仰も素晴らしい」 「私はクリスチャンホームに生まれた → だから救われている」 このように血統、親の信仰、家庭環境により救いが継承されると言う誤った思想は、信仰義認の否定であり、異端の始まりである。信仰義認による救いは絶対に継承、伝承されない。親も子ども、老人も男も女も、ユダヤ人、ギリシャ人、自由人、奴隷、救われるのは、神の選びとキリストとの結合の以外にない。 「カルヴァンは、救いが家族単位で自動的に継承されるという考えを明確に否定している。 親の信仰が子どもを救うのではなく、救いは神が個々に選び、キリストとの結合を与えられることによると述べる(Inst.4.16.6–8)。 3.完全な堕落と神の義 1)すべての人の本性は芯まで罪に汚れている 「信仰義認による聖、キリストの義は神の賜物」 神が信仰と恵みを与えられ、キリストの義、すなわち聖が衣として与えられた結果、それは信仰者の人生において1度きり起こり、永遠に変わらない。親の信仰義認が子を救うことは決してない。 **ここは福音の信仰義認の中核であり、決して誤解することは許されない** 1コリント14節でパウロが言う「聖なるもの」とは、信仰義認によって与えられる神の義ではないことを繰り返し、明言する。 1コリント7章14節の「聖なるもの」とは 「神がその家庭を“神の秩序の中に置く”。つまり、神が信仰者の配偶者(未信者)の夫(妻)、子供はその神の秩序の中におかれる」と言うことである。 それは真の信仰者が家庭内に存在することによって現実となる。神がキリストと結合している真の信仰者を通して、その家庭を聖別、すなわち。分けのである。 これは神が「家庭」を聖別して、その領域を神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」として、そこに未信者の夫(妻)、子どもを置くことである。 2)「神の「可視的契約領域」 「契約的な外形領域」 に置くと言う意味はなにか? 【救いの内側と可視的契約領域の理解】 ■【救いの内側 Invisible】 救われた者のみが属する領域 選び、結合(union)、再生、信仰、義認、聖化 ➡ 見えない神の領域 ■【可視的契約領域 Visible】 可視的な外形領域と契約的な外形領域は同じことを言っている。神学者の表現方法。 <その領域> 礼拝の環境、聖書の言葉、祈りの声、親の福音、教会との接触、神の摂理による保護、良心への光 ➡ 目に見える神の領域 ➡ 子どもは 契約の秩序・福音のメッセージ・祈り・教会に置かれている **これは 救いの保証ではない** 神が恵みの手段を注ぎ込む「場所、すなわち、領域」に置いていること。 ここに置かれるということを「聖なるもの(hagios)」と言う。 ◆ カルヴァン: 子どもは“契約の家に属する(external kingdom)” カルヴァンの表現(Institutes 4.16.6–8): 「信者の子どもは、神の家に属する者として、異邦人の子どもとは聖別(区別)される。」 ここでカルヴァンが言う「属する」は、再生ではなく、家庭の外見的・制度的枠組みに置かれるという意味。 つまり: 内側=救い(選び、再生、信仰、悔い改め、義認、聖化、栄化 外側=「神の「可視的契約領域」 「契約的な外形領域」 (家庭にあるメッセージ・聖書・祈り・礼拝・教会・交わりなど) ◆ジョン・マレー: 神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」=神が恵みの手段を置く領域 「1コリ7:14 の“聖なるもの”は、救いではなく、 神がその家庭を“恵みの神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」”として扱われることを意味する。」 つまり: 子どもは救われているわけではない。しかし神はその家庭を“恵みの舞台”とする。神の福音が届く領域(sphere)に置かれる。 ◆マッカーサー: 信者家庭は“光の下にある領域” マッカーサー(1 Corinthians Commentary): 「キリストと結ばれている選びの民が家庭にいることで、家庭は“光のある領域”に置かれる。これは救いそのものではないが、神が摂理的に働かれる重要な場となる。」 「光のある領域」は「神の「可視的契約領域」 「契約的な外形領域」 の意味。 3)神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」に置かれると、何が起きるのか? 【1】完全な異邦の暗闇ではなくなる 子どもが 偶像支配 倫理崩壊 この世の王国の流れに完全に放置されない。 【2】福音の下に置かれる(means of grace) 聖書、礼拝、祈り、親の信仰、教会の交わり これがジョン・マレーの言う “救いの手段”が与えられる領域と聖別される。 【3】祈りの対象になる(特別扱い) 信仰者の祈りは 契約的祈りであり、神はこれを特別に扱われる。 【4】道徳的・霊的な破滅への直行を“遅延・抑制”する これはマッカーサー、スプロールが一致して語る。サタンの支配が絶対的にならない。良心が働く。堕落のスピードに抑制が働く。 【5】選ばれた子どもの場合、後の救いの「道筋」となる これはとても意味深い。 救いの「道筋」=神が救いへ導くために使う舞台 救いの原因:永遠の結合(in Christ)と神の選び 救いの道筋: 神の秩序にある領域の恵み(福音・祈り・礼拝・教会) 改革神学ではこれを連帯的聖別(federal holiness)と呼ぶ。 再度、言う。 「神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」=「聖とされる」 **子どもが救われているという意味ではない** 神がその子を“神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」に置き、福音の光と恵みの手段の下で扱われるということ。 4.15節 神は言う「離れて行くなら、離れさせなさい」 1)信者でない者が離れて行くなら、離れさせなさい 神中心に読むと:神がその結婚を否定し決定された場合、未信者は去っていく。その場合、信仰者は「縛られる必要がない」。 つまり、神が結婚契約を解かれたという意味。これも主語は常に“神が結婚を結び、神が解く”。 2)「神は平和を得させようとして召された」 パウロが言う「平和」とは、感情的な平穏ではなく、神が秩序を保ち、混乱を終わらせる神の側の働き すなわち:信者に“平和”を与えるために、神がその結婚を続けさせたり、あるいは終わらせたりされる という意味。 それは、神が未信者を去らせるとき、あなたは“自分の失敗”ではなく、神が平和のために結婚の枠組みを解かれたのだと受け取ること。 ここでも主語は明確に 神のみ。 「神が召し」「神が平和を与え」「神が家庭を導く」。 5. 神中心のまとめ 1)神が結婚の継続か、離婚かを決める。人間ではなく神 真の信仰者が家庭にいるとき、家庭は神の摂理の中で区別され、聖書、祈り、礼拝、教会の中に置かれる 神が未信者を去らせるとき、それは神が契約を解く摂理。信者はその場合「縛られない」(罪に問われない) 神は信者に平和を与える目的で召しておられる すべての動きの主語は 主語=神 2) この箇所が示す “結合の秩序” 家庭における秩序は、救いの根源であるキリストとの永遠の結合から流れており、 再生(神の働き) ↓ 照明 ↓ 信仰・悔い改め ↓ 聖化 ↓ 家庭の秩序 ↓ すべてが神の側から発する一つの流れ。 未信者との結婚においても、結合の恵みが家庭全体を“神の秩序”に置くという摂理が現れる。 6.神が子どもに与えられる神の恵み・取り扱い 「救いではないが現実に働くもの」 1)神の言葉に触れ続ける “神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」特権” 親のうち一人が真の信仰者なら、家庭は完全な異教家庭ではなくなる。家庭に聖書、祈り、礼拝、福音の声が流れ込む。子どもは神の言葉の光の下に置かれる。カルヴァンはこれを 「神の家に置かれる恵み」 と呼ぶ。 2)サタン・偶像の完全支配からの“聖別” 未信者家庭の子どもは当然、“この世の王国” の支配領域にある。しかし、真の信仰者が家庭にいるとき、神はその家庭を“可視化的契約領域”に置かれる。 これは 摂理的保護(providential protection) であり、悪魔が“完全に支配する家ではない”という意味。 3)祈りの対象として扱われる恵み 信仰者である親の祈りは、神が契約的に特別に扱われる祈り。信者の祈りは一般恩寵ではなく、結合の恵みから流れる祈り。神がその子どもを特別に取り扱う。しかし、これは「救いの保証」ではない マッカーサーもこう言う:「信者の家庭に生まれた子どもは祈りによって特別に扱われる。」 4)罪・破滅へまっしぐらに進む道からの“遅延” 真の信仰者のいる家庭では、子どもが完全に滅びへ突き進むスピードに対して、神の摂理で悪が暴かれ、ブレーキがかけられる。 破壊的状態、環境から守られる。悪習・犯罪・偶像への道が断たれ、遅らされる。良心が多少でも啓発される。 これらは回心の保証ではない、神がその子どもを「滅びへの直行から守る」恵み。 5)後に救われる場合、家庭の“聖別”が手段として働く 救いの原因は神の選びと結合だけだが、神はしばしば以下の外的恵みを救いの手段に使われる: 親の祈り 福音の声 礼拝、 教会、 教会の交わり ※注意: **これらは救いの“原因”ではない** 「手段」である。 7.未信者の夫(妻)が去った場合はどうなるのか? 1)真の信仰者は平安に召され、子供が信仰者につくか、未信者につくかによって神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」は決まる。 未信者の配偶者に子どもがついて行く場合は、子どもの「可視的契約領域」は失われる。だから子どもは「一般恩寵だけの領域」に戻る しかし、ここで強調すべきは:「可視的契約領域」の有無=救い有無」ではない。 子どもが選ばれているなら、神は手段を変えて、どこからでも救いに導く。 2)神の「可視的契約領域」は真の信仰者にあるキリストとの 結合を源泉とした救いの秩序 神は結婚と家庭という秩序を尊ぶ。神は結婚と家庭を創造秩序としての神のものとして扱われる。家庭は結婚が前提にある。 よって、未信者の両親の家庭に属する子どもは「可視的契約領域」には置かれていない。 3)福音の声が届く場をつくる 神は真の信仰者の子どもに対して 福音を聞く機会 聖書を知る機会 神を知る環境 を与える目的で領の中で“聖別”する。 4)将来の救いのための手段として置かれる 選びがあるなら、神は神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」を「救いの導きの道」として用いる。 選びがなければ、この領域に置かれていても救いには至らない。 8.最後に 1)神が子どもを「可視的契約領域」に置くのは何のためか? 答え:神がその子どもを福音の中で扱うためである。 ・選びの保証ではない ・救いの保証でもない ・しかし明確に「神の恵みの領域」に置かれる これは、神が子どもに与える摂理的・契約的恵みであり、家庭を通して働く神の “扱い” である。 ジョン・マレーは契約の家庭は「手段としての聖別」に置かれる 「救いの源は永遠の結合であり、子どもの「聖別」は救いの原因ではなく、救いへと導くために神が用いられる“外的手段”である。」 と語り、それは、「選びでもない また、 再生でもない」。ただ“神が働く舞台を整える恵み”であることを明確にしている。 ●「聖なるもの」=救いではない(選びではない) 再生ではない 結合でもない 選びの印でもない 意味するのは “神の「可視的契約領域」での聖別” ●神が子供を 家庭全体を 神の語りかけの領域 に置く サタンの完全支配から引き離す ●恵みの手段を提供 ジョン・マレーが示すように、 神はこの神の「可視的契約領域」を救いの手段として働かせる。 福音が聞こえる 祈りの対象となる 教会の交わりに接する 聖書的倫理の中で育つ これらはすべて選びがある者には救いの通路となる。選びがない者には届かず終わる。 ●この神の領域は真の信仰者が家庭の中に存在する限り継続 真の信仰者がいなくなった家庭は一般恩寵の領域に戻る 「可視的契約領域」は消え、聖別は消える ただし、子どもが選ばれているなら神は別の手段によって必ず救いに導く 聖”とは:選びでもない。再生でもない。救いでもない。 しかし、神がその子を可視的契約も恵みの領域” に置くという恩寵である。 “真の信仰者が家庭にいるだけで聖別される”とは何か カルヴァンはこう言います(1コリ7:14註解):家庭は偶像的領域ではなく、 神の領域に区別される。 しかし、未信者の配偶者も子も 救われてはいない。 ➡ これは 「すでに」の側面 すでにとは? •神の秩序に分類される •神の守りの秩序の下に入る •罪の洪水状態ではなくなる •神の御言葉・祈り・礼拝の光が家庭に流れ込む“土台”が置かれる ここは 真の信仰者が家庭にいるだけで起こる外的聖別 です。 ➡ すでにがあるとは「いまだ」がある これは家庭の聖別が 内的に深まり・広まり・高まり・長くなっていく過程 のことです。 これは以下によって進む: •信者が御言葉の照明に深く生かされていく •祈り・礼拝・賛美が真実になっていく •信徒自身の聖化が進む •御霊の実が家庭で現れる(ガラ5:22–24) •教会からの光、説教、交わりの恩恵が家庭に流れ込む カルヴァン(III.vi–viii):「結合の豊かさは、時間の中で徐々に開示される。」 スプロール: 「聖化は“現れ”であって、深まりは生涯を通して続く。」 マッカーサー: 「信者の成熟に比例して、家庭の“霊的領域”は広がる。」 ➡ この“現れ・深化・拡大”が 「いまだ」 まとめ:可視的契約領域における “すでに/いまだ” ◆すでに •信仰者の存在自体が家庭を「可視的契約領域」”に置く •救いではないが、確実な外的聖別 •家庭は“神の方に属するもの”として扱われる •家庭の雰囲気、方向、関係の秩序が神の規範の下に置かれる ◆いまだ •結合の豊かさが時間の中で徐々に現れる •信者の成熟に応じて、家庭の聖別は深まり、広がる •御霊の現れ(祈り・御言葉・礼拝・愛・秩序)が増し加わる •罪の構造が徐々に崩れ、神の秩序が形成されていく •家庭が“キリストの香り”によって支配されるようになる 目的は:神の言葉の下に置くため。祈りの対象とするため。神が用いられる “救いの手段” を提供するため。 完全な悪の支配から区別するため 源泉はキリストとの結合:キリストとの永遠の結合に属する親が家庭にいることによって、その恵みが家庭全体に流れ出す。 源泉は結合された者にあり、神はその者を“契約の器”として扱われる、それは憐れみの器。 神がその結合された者により、家庭全体を「可視的契約領域」と聖別されるキリストとの結合を源泉とした福音構造にある結婚と家庭に与えられた恵みである。 私たちのうちには罪の性質が絶えず働き、思い・感情・意志を人間中心へと戻そうとします。しかし、神が御霊によって信仰者を引き寄せ、主語を神へと戻させ、自分の思い・感情・意志を光の下で見張らせ、肉が自然に向かう人間中心の方向を拒否させてくださいます。この志そのものを、神が与え、保ち、成長させてくださいます。
- ヨエル書2章28節、29節
豊川の家の教会 長老 後藤愼二 28 その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。 あなたがたの息子 や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。 29 その日、わたしは、 男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。 1.裁きから悔い改め、そして霊の注ぎの理解 1:15 「ああ、その日だ! 主の日が近い。それは全能者からの破壊として来る。」 ◆1. 「主の日」=人間の終末意識ではない 聖書における「主の日」は、人間が霊的に目覚める日ではなく、 主権者なる神が歴史に実際に介入し、裁きを行う日 。 主の日は「人が備える日」ではなく、 神が来られる日 である。(このテーマは 2:1 でも再提示される。) ◆2. 「近い」=時間的ではなく迫りくる必然 「近い(קרוב karov)」は、単に“もうすぐ”という時間の問題ではなく、 確実性の宣言 。 まだ目に見えていなくても 神はすでに行程を開始しており 歴史は不可逆的に裁きへ進んでいる 誰が悔い改めるかではなく、 神が何をされるか が時を決める。 ◆3. 「全能者からの破壊として来る」 ここが本節の中心。 災害・戦争・経済崩壊など、外面的現象が原因ではない 主体は「全能者」シャダイ(שַׁדַּי) つまり主の日とは、 神がご自身の民に対して、敵国や自然災害を手段として用いる裁き である。 それは 人間の不誠実に対する“後追いの反応”ではなく 永遠の計画に基づく神の主権的行為 であり 選びと滅びの線引きを歴史において顕在化させる働き であり 外形契約民の終焉を告げる宣言 である。 ◆4. なぜ「破壊」と表現されるのか ここで破壊されるのは「民そのもの」ではなく、 偽りの信仰 外形契約の特権意識 礼拝の形式主義 物質的祝福に依存した宗教 である。 信仰の偶像が砕かれる。 選ばれた者は、この破壊を通して 真のいのちへと導かれる 。 同じ「主の日」が ある者にとっては滅び ある者にとっては贖いへと導く契機 となる。 ◆神学的まとめ(1:15) 主の日の本質 人間中心の誤解 聖書的真理 性質 人の準備の日 神の到来・裁き 原因 人の応答・不信仰 神の主権的計画 効果 全員覚醒 滅びと救いの分離 手段 災害・戦争・社会崩壊(それ自体が原因) 神がそれらを用いる道具 結論: 主の日は「破壊を通して真理と偽りを区別する神の介入」。 人の行為の結果ではなく、永遠の計画の現れ である。 2. 生活基盤の崩壊は「神の裁きの可視化」 ― 1:16節 「私たちの目の前で食物が断たれてしまったではないか。喜びと楽しみも、私たちの神の家から断たれてしまった。」 17節 「種は塊となって土の下に腐り、倉は荒れ果て、かんなは壊された。穀物が枯れたからだ。」 18節 「家畜はうめき、牛の群れはさまよう。草場がないからだ。羊の群れも滅び失せた。」 ◆1. 「食物が断たれた」=経済崩壊ではなく、契約の祝福撤回 ここで語られる「食物」は単なる生活物資ではなく、 生存の基盤 礼拝の献げ物の原料 神の祝福の象徴 である。したがって「食物が断たれる」とは、 神が契約的祝福を撤回したという霊的裁きの可視化 を意味する。 「喜びと楽しみが神の家から消える」とは、 worship(形式)は続いていても 神の臨在がそこにない状態 すなわち、 宗教が空洞化する瞬間 である。 ◆2. 「種が土の下で腐る」=神が増殖力そのものを止めている 災害後に「種が腐る」という描写は、単なる不作ではない。 種 = いのち・供え物・祝福の源泉 腐敗 = 回復可能性の消滅 ここで裁きは「収穫がない」段階を越え、 再建の可能性すら奪うレベル にまで深まっている。神は「働けば回復できる」という余地を削り、 人間の努力神学を根底から破壊する。 ◆3. 「倉は荒れ果て、かんなは壊された」=制度・管理構造の崩壊 倉やかんな(納屋)は単なる物置ではなく、 経済システム 社会秩序 宗教行政 指導者による管理 といった、 祝福を管理・分配する体制の象徴 である。それが壊されるとは、 神が“祝福を流す制度”そのものを破壊された ということであり、「制度を整えれば霊的繁栄が戻る」という 教会成長論的発想を、土台から否定する構造 になっている。 ◆4. 「家畜はうめき…羊の群れも滅び失せた」=礼拝の停止と贖いの象徴装置の崩壊 家畜は単なる家計資産ではなく、 いけにえ(贖い・礼拝) 財力 契約の象徴 である。「羊が滅びる」とは、 犠牲制度そのものが停止すること を示す。 つまり、 外形的な宗教秩序は完全に破壊され もはや儀式的再建による回復の道は閉ざされている ということである。 ◆神学的まとめ(1:16–18) 領域 表面的現象 霊的意味 食物断絶 飢饉 神が契約祝福を撤回 種の腐敗 農業崩壊 回復の可能性を遮断 倉・納屋崩壊 社会制度崩壊 祝福管理構造の破壊 家畜・羊 財産喪失・いけにえ停止 外形宗教の終焉 結論: 神は外側の宗教制度を破壊することで、 真の結合によるいのちだけを残される。 同じ状況の中で: 選ばれた者には → 聖化の試練・信仰の純化 滅びる者には → 絶望・硬化・終末的滅び が進行する。外面的には区別がつかないが、 神は魂の中心で分離を行われる。 3.ヨエル1~2章の裁きからペンテコステへの線 ヨエル1章の裁き→ 魂の中心での分離→ 礼拝の停止(外形宗教の終焉)→ ヨエル2:28 以降の「霊の注ぎ=結合の民の歴史的現れ」 ここで極めて重要なのは: ヨエル2:28,29 の“霊の注ぎ”は、1章の裁きに「民が正しく応答した結果」ではない これを誤ると、 決心主義 リバイバル主義 へ必ず落ちる。 リバイバル神学・決心主義の誤読 彼らはヨエル書をこう読む: 裁き → 民が悔い改める → 神が霊を注ぐ → そこから教会や力強い働きが生まれる この構造では、教会は 霊が来た「結果」 人間の悔い改めに対する「報酬」 人間側の霊的状態の「成就」 として扱われる。つまり、教会が 原因ではなく結果の側 に追いやられる。 正しい線引き 教会は「リバイバル運動の報酬・結果」ではない 教会は、 救い(結合)の結果として歴史に現れる 霊は教会を作り出すために注がれるのであって、 悔い改めが霊を呼び込むのではない 霊は「結合の民」を歴史に可視化するために注がれる(ペンテコステ)。悔い改めは、その結合が再生として適用された結果であって、原因ではない。 この理解が打ち砕くもの ① 決心主義への反撃 誤謬:人間の悔い改め → 神が霊を与える → 教会誕生 正:永遠の結合に基づく霊の注ぎ(時間内での結合適用)→ 再生が起こり→ 悔い改めが生じ→ その民が教会として歴史に現れる 因果関係が 完全に逆転 する。 ② リバイバル主義の誤謬の遮断 誤謬:「民族的悔い改めが起きたら、日本にリバイバルが起こる」 正:霊の注ぎが原因となって、選ばれた者に悔い改めが起こる。悔い改めが条件なら、 選びは無視される。 ③ “教会が手段、個人救済が目的”という発想の破壊 誤謬:神 → 個々の救い → まとまりとしての教会 正:神の永遠の結合 → 教会(永遠の民) → 時間の中で個人が接ぎ木され救われる 教会理解と救済論そのものの再定義 である。 ④ ヨエル書の読み方そのものの転換 一般的誤読(人が動く):断食 → 涙 → 「主よ来てください」 → 霊が注がれる 聖書的構造(主が動く):裁き → 民の分離 → 結合の民に霊が注がれる → 信仰と悔い改めが現れる 主体は常に神であり、人間はその結果として動く。 裁き → 聖霊の注ぎ の関係(神中心構造) 1. 霊の注ぎは裁きの「後の出来事」だが、原因ではない 「悔い改めが起きたから」 「断食したから」 「人が整ったから」 という条件によって霊が来るのではない。霊の注ぎは、永遠の選び(結合)に基づき、 時間の中で実現する救済史的介入 である。裁きは、そのために歴史を整える 前景の手段 であって、原因ではない。 2. 霊の注ぎの目的:結合の民を時間の中に現れさせる ヨエル2:28の本質は、 個々人の体験 賜物の高揚 力の発動 ではなく、 キリストと永遠に結びつけられた民が、歴史上に共同体として現れること である。 これがペンテコステで成就する。 エペソ1:13 – 約束の聖霊は、結合に属する者への印 Ⅰコリ12:13 – 同じ霊によって、一つのからだにバプテスマされる 使徒2章 – 結合の民が「教会」として時間の中に立ち上がる 3. 霊の注ぎは、滅びる者と選ばれた者を分ける ヨエル書は「二つの民の誕生」を語る書である。 民 裁きでの結果 霊の注ぎでの結果 外形契約民(滅びる) 礼拝断絶・乾き・喪失 霊は注がれない 選ばれた民(永遠の結合) 試練の中で照明・悔い改めへ 霊が住まわれ、教会として歩む 裁き = 線引き 霊の注ぎ = 選ばれた者への生命付与 4. ペンテコステは個人の霊的経験ではなく、救済史の転換 「霊の注ぎ」とは、 結合の民(教会)が歴史において可視的に立ち上がった瞬間 である。 人が「信じたから」「応答したから」「祈ったから」ではなく、 キリストが昇天し 父から約束の聖霊が遣わされ すでに永遠に存在していた結合が、歴史上に現れた という出来事。 まとめ:裁きと聖霊の注ぎと永遠の教会 誤った理解(人間中心):裁き → 人が悔い改める → 神が霊を注ぐ 聖書的理解(改革神学): 永遠の結合(永遠の教会) → (時間の中で)裁きによる線引き→ 選ばれた民に霊が注がれる→ 教会が歴史の中に現れ、そこに個々が接ぎ木される 永遠の教会(エペソ1章からの整理) 教会は、時間の中で突然生まれた存在ではなく、 永遠の計画と選びとして存在し、歴史に現れた という真理がエペソ1章に示されている。 ◆1. 永遠の起点:創世前の選び(1:4) 世界の基が据えられる前から、神は私たちをキリストのうちに選ばれた。起源はペンテコステではなく、 創世前の選び 。 ◆2. 目的:御子における子としての身分(1:5) イエス・キリストによって、御自分の子にしようと定められた。 子とされる身分 が、永遠のご計画によって定められている。 ◆3. 完成点:キリストに一つに集める計画(1:10) 天と地のすべてが、キリストにあって一つに集められる。歴史のゴールは、教会の完成= キリストにある一致 。 ◆4. 所有権:神の相続民(1:11) 御国を受け継ぐ者。教会は、歴史の“結果”ではなく、 永遠の計画に組み込まれた神の相続民 である。 ◆5. 成立の方法:約束の聖霊による封印(1:13–14) 約束の聖霊によって証印を押された。聖霊は、 結合が歴史に適用された印 であり、永遠に属する民が時間の中で「教会」として歩むための保証である。 ◆6. 本質:キリストのからだ(1:22–23) 教会はキリストのからだであり、すべてを満たす方の満ち満ちたもの。教会とは、 永遠の結合が歴史において有機体として現れた姿 まとめ この裁きの後に来る聖霊の注ぎ、すなわちペンテコステにおける“結合の民”の歴史的現れは、人が悔い改めた報酬ではなく、すでに永遠の昔からキリストにあって選ばれ、結合のうちに置かれていた教会が、聖霊によって時間の中に現れ、そのいのちが流れ始めた出来事である。 「永遠の結合」とは、神の永遠の選びと、キリストにおける予定の現実を指しており、実際の「神秘的結合」は、キリストの死と復活の成就と、有効召命の瞬間において歴史の中で適用される。 ヨエル書に語られる四段階の裁きは、歴史を通して偽の民と選ばれた民を区別する神の摂理であり、悔い改めは、霊による結合の適用と再生の 結果 であって原因ではない。 したがって: 「裁き → 悔い改め → 霊の注ぎ」という並びは、原因の順序ではなく、永遠の結合が歴史に現れる“出来事の表面上の並び”にすぎない。源泉はキリストとの永遠の結合、教会はその現れ、人間の応答はその流れ出た結果である。 5. 「すべての人に」= ユニバーサリズムではない 「すべて」とは全人類ではなく、結合の民(選ばれた者)の“すべての種類”。 老いた者 若い者 男 女 奴隷 自由人 「種類、区分を超えて」霊が与えられるという意味であって、“全人類がすべて救われる”という意味ではない。 「“全人類が救われる”のではなく、結合の民がユダヤ人・異邦人、老若男女、奴隷・自由人にまで“あらゆる区分を越えて拡がる”という意味」 → 救いは選びによって限定されている(ヨハ 6:37 –44 / ロマ 8:29 –30)。 6. 旧約の「ただ中にいる」の影が、新約で「うちに住む」という実体 ヨエル 2:27 「わたしがあなたがたのただ中にいる」 旧約:→ 神は民の「ただ中」に住まれた(影・外側の臨在) 新約:→ 神は信者の「うち」に住まわれる(実体・内住の臨在) エペソ 3:17 「キリストがあなたがたの心に住まわれるため」 コロ 1:27 「あなたがたのうちにおられるキリスト」 → ヨエル 2:28 –29は、この“内住の実体化”の預言。 ※ここで強調する「結合の民の誕生」とは、永遠のうちにすでに与えられていた結合の現実が、聖霊の注ぎによって教会として歴史の中に可視化されたという意味であり、永遠の結合そのものがこの瞬間に初めて始まった、という意味ではない。 7. 異言は「結合の可視化」であって、カリスマの能力現象ではない 使2:6–11の異言は外国語(既存の言語) 語られたのは「神の大いなる御業」(結合と救済史) 照明された民が、結合の生命に促されて語った現象 × 祈りの言語 × 霊的ランク × 恍惚体験 × 霊のパワー × ヒーリング・能力 ではない。 異言とは、学ばずに知らない本物の外国語で神をほめたたえる宣言。 「結合 → 照明 → 宣言」 の流れが、救済史の転換点で可視化される。 8. カリスマ運動が黙らない理由 彼らは “現象”だけを見て、救済史・結合・選び・照明 を見ない。 その結果: 異言を“超自然能力”に矮小化し 霊の注ぎを“感情の高揚”に変え 聖霊の働きを“パワー”と誤解し 人間の祈りや決心を“原因”にしてしまう つまり 神の主権 を見失っている。 ヨエル 2:28 –29を正しく理解するためには、救済史と主権の中に立つことが不可欠である。 9. ペンテコステは「教会誕生の日」 霊が注がれた日は、“個人の体験”が起きた日ではない。 ■ 教会が歴史に誕生した日である。 それは: 結合の生命 聖霊の永住 キリストの内住 一つのからだ 一つの霊 一つの望み が この日から公に現れた から。 Ⅰコリ 12:13 「同じ霊によって一つのからだにバプテスマされた」 ペンテコステとは: 個人的な聖霊の賜物の始まりではない “教会” という新しい創造の誕生 永遠の選びと結合が歴史の中で教会としてスタート ※ここでの「スタート」とは、永遠の選びと結合の現実が、ペンテコステを通して教会として表舞台に現れたという意味であり、永遠の結合そのものがこの時点で初めて生じた、という意味ではない。これを捉えないと、ペンテコステが“現象の祭り”になる。 10. 「結合の民”」なしに福音は存在しない キリストが信者のうちに永遠に住むこと、 教会が歴史に出現したこと、 これは福音の中心の中心。 もしこれを語らなければ: 福音は道徳になる ペンテコステは現象になる 聖霊はパワーになる 教会は組織になる 結合の実体を語らない福音は、もはや福音ではない。 ◆ヨエル 2:28 –29 の核心 ヨエル 2:28 –29 は: ユニバーサリズム否定(対象=真のイスラエルのみ) 異言の誤読を否定(現象ではなく救済史) 霊の注ぎ=賜物ではなくキリストの内住 体験ではなく “教会誕生” の日 力ではなく “結合の適用” 現象ではなく “臨在の革命” これが本体。 これを語らなければ、福音ではなくなる。
- 天の御国は激しく攻められている
2025.11.23 豊川の家の教会礼拝メッセージ 恵みがこの世に押し入り、選びの民を捕らえる。 マタイの福音書11章12節から。 バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、神の御国は激しく攻められています。 そして激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。 今日はこの御言葉について学びたいと思います。 一般的にこの御言葉は難解で理解しにくい箇所です。この言葉は、神の国がどのようにこの世に現れているのか、また人の心をどのように作り変えていくのかを示す大切な御言葉として理解します。 ギリシャ語をちょっと勉強しましょう。 ギリシャ語がどのように言っているのかというのを、英語を挟んで作ってありますので、分かりやすくなっていると思います。 まず最初に 「ἡ(イ)」 というのがあります。これは 「その(the)」 という意味です。 次に 「βασιλεία(バシレイア)」 と書いてあります。これは 神の主権・王権 という意味です。 「τῶν(トン)」 というのは 「~の」 という意味です。 「οὐρανῶν(ウラノーン)」 というのは 「天」 という意味です。(本文中で「ブラノン」となっていた部分は誤りなので修正) ここに英語で “Kingdom of the Heavens” と書いてあります。 それから 「βιάζεται(ビアゼタイ)」。 これは 「力によって取られる/押し進められる」 という意味です。 そして 「καί(ケー)」。これは 「and/そして」 です。 その次に「βιασταί(ビアスタイ)」(暴力的に攻め入る者たち)、「ἁρπάζουσιν(アルパゾウシン)」(奪い取る、つかみ取る) という語が続きます。ここまでが一つの文です。 これを直訳すると、 天の主権支配は力によって取られ、押し進められ、暴力的に攻め入る者たちはそれを掴み取っている。 これがギリシャ語の直訳です。 この部分だけを切り取って読もうとしても読めません。この部分だけだと、「何だろう、この意味は?」となります。しかし聖書はその通りに書いてあります。これはギリシャ語直訳なので、嘘も隠しもなく、非常に明確に、天の支配・主権は強い力で取られ、押し進められ、暴力的に攻め入る者たちはそれを掴み取っている。 と言っています。 ここでの結論としてイエス様は、「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、神の御国は激しく攻められている。そして激しく攻める者たちがそれを奪い取っている。」と言われました。 今日は、この集会が終わる時には、もしあなたがキリストに選ばれているのだったら、この意味が分かるようになります。 最後まで悟れていない人は、 ・キリストにある幼児か、 ・または未信者か、 いずれかです。 文脈:ヨハネの捕縛と神の国の到来 マタイの福音書11章は、ヨハネの話から始まります。 ヨハネが捕らわれて、ヨハネのところから使いが来て、ヨハネは迫害されている。そしてヨハネから福音が始まった。しかし、そのヨハネは迫害され、牢に入れられ、最後には首をはねられる。首を切られて、お盆に乗せられて持ってこられる。そういう状態です。 そして、神は長い間約束されてきた救いの計画を、イエス・キリストによって実行し始めた――そういう箇所です。 神の国とは何か まず理解しなければならないのは、神の国とは何か ということです。 神の国は、永遠における 父・子・聖霊の一致と支配 として存在しています。崇高で、非常に崇高です。 そしてその主権が、キリストご自身の 受肉・死・復活・昇天 という歴史的事実を通してこの世に現れ、聖霊によって選ばれた者たちのうちに適用されます。 神の御国が来る、というのは、永遠の選びと救いが、時の中で実際に行われる という出来事です。 神の御国は永遠の昔にすでにあり、神の支配は永遠から永遠まであります。時の流れの中において、その神の支配が選ばれた者たちの心に到来します。 「神の御国は攻められている」の意味 「神の御国は攻められている(βιάζεται)」と書かれています。 ここで誤解してはならないのは、 • 神の国が弱いから攻撃されている • 人間が神の国を責め立てている という意味ではない、ということです。 イエス様がここで語っておられるのは、神の支配がこの世に現れてくる時、暴力的な対立が必ず伴う ということです。 神の福音が罪と死に支配されたこの世に入り込むとき、そこに衝突が生まれます。イエス様は、そのことを別の箇所でこう語っています。 家族の間の対立、友人との対立。福音のゆえに家族が分裂し、迫害が起こる。これは、神の国と罪・宗教・闇との戦線 が張られたということです。表面的には「神の国が攻められているように見える」神の福音が宣言されるとき、罪は光に耐えられないので抵抗します。 外形的な宗教家、形だけの人たち、心にキリストがいない人たちは恐れます。 • 権威の喪失を恐れて拒絶する宗教家 • 地位とシステムを守ろうとするパリサイ人 • 自分中心の信仰を守ろうとする人々 彼らは、闇の中で光に抵抗します。その結果、彼らが福音を歪め、別の福音を語り、多くの人を騙し、自分たちの支配に引き入れるように見えます。 表面的には、まるで宗教や闇が神の国を攻めているかのように見えます。 しかし、真理は逆です。主語は常に神です。ここでイエス様が教えておられる根本は、主語はいつも神である ということです。 • 攻めている主体は 神の国 • 攻撃されているのは 罪・宗教・闇 神の国がこの世に 侵攻してきている。それが「神の国が攻められている」という表現の真の姿です。神の国が信仰し、前進し、その結果として抵抗と衝突が起きている。 あなたの心で何が起こるか 神の国が、神の支配があなたの心に来るということは、あなたの心の中に 暴力的な神の国の侵攻 が起こるということです。 • あなたの心は抵抗し、 • あなたの宗教心は反抗し、 • あなたの罪はそれに対して戦います。 それが、そのまま 現実 になります。 パリサイ人の反抗 ヨハネの時代に最も強く反抗したのは誰か。それは、自分の行いを誇りにしていた パリサイ人 でした。彼らは神を愛していません。自分の義を打ち立て、自分の正しさ・宗教的な行いを誇っていた。しかし彼らの心はキリストに結びついていませんでした。これは 律法主義、行いによって神に認められようとする宗教的抵抗でした。 イエス様が彼らの前で罪人や取税人を受け入れ、一緒に食事をし、「あなたの罪は赦された」と語られたとき、パリサイ人たちは怒りと反発でイエスを殺そうとしました。 彼らの信仰は 神の義 ではなく、自分の義 に立つものでした。 「知識の鍵を取り上げる」宗教 イエス様は彼らにこう言われました。 あなたがたは知識の鍵を取り上げてしまった。自分は入らず、入ろうとする人を妨げている。(ルカ11章) パリサイ人たちは 神の国を破壊することはできません。しかし彼らがすることは、「人々がそこに入るのを妨げる」こと。 これは今も同じです。 • 罪の心 • 偽の宗教 • 外面的な行い • 心のない礼拝 • 反抗心 それらは、あなたの心の中にあり、あなたが神の国に入るのを妨げています。 律法そのものは悪ではないしかし、誤解してはならないのは、 律法そのものは悪くない ということです。 神の律法は、神ご自身の聖なる御心を表すものです。 • 医学の知識が悪いのではない • 会計学が悪いのではない • 学校や仕事が悪いのではない 悪いのは あなたの心 です。 文字の律法と、心に刻まれた律法 恵みによって救われた者にとって、神の律法はもはや束縛ではありません。聖書は、選ばれた者たちに関して、神の律法が心に刻まれると言っています。 • 律法が「文字」であるとき、その人を殺します。 • しかし、心に刻まれたとき、それは命となります。 外側だけの信仰、形だけ教会に来て、献金したから責任を果たしたとか、賛美したから大丈夫だとか、もっと言えば「救いの三要素を言ったから大丈夫だ」と思う。 これは 形骸的 であり、心の変化はありません。このような思いで神を礼拝する者を、神は拒絶されます。 しかし、神の国の前進は止まらない しかしながら、神の国は永遠にその進軍を止めることはありません。それは 恵みの力 です。 神様は永遠のご計画の中で、すべての反抗をご存じです。そしてそれさえもご計画の中に含めた上で、選びの民をキリストへと導かれます。あなたが選ばれていない場合、すべてのものは滅びに向かいます。 神は憐れむ者を憐れみ、慈しむ者を慈しみます。神は聖であり義であり、義は決して曲がりません。 十字架と結合 あなたは罪を行い、神に逆らって生きています。神はどうされるか。 神はご自分のひとり子イエス・キリストを、あなたのために十字架につけ、 • あなたの罪と、 • あなた自身を キリストと共に十字架につけ、葬り、新しく生まれさせ、よみがえらせます。 この キリストとの結合 によって、選ばれた者は救いを得ます。これが憐れみであり、慈しみであり、そこに神の愛がある。 「激しく攻める者がそれを奪い取る」とは何か 「激しく攻める者がそれを奪い取る」という言葉は、人が自分の努力で神の国を勝ち取るという意味ではありません。神の恵みがその人を捕らえる ということです。 神は人の心を開いて罪から救い出し、ご自分の支配の中に引き入れます。これを 結合 と言います。 パウロ:恵みによって捕らえられた者 この「捕らえる」という出来事をよく表しているのは、パウロのダマスコ途上の体験です。 パウロは元々、キリストを信じる人たちを迫害していました。神の国を破壊しようとしていた。しかし復活されたキリストが彼の前に現れて、「サウロ、サウロ、なぜあなたは私を迫害するのか」 と語られた時、パウロは強い光に打たれ、地面に倒れ、目が見えなくなりました。その瞬間、彼の心は砕かれ、神の恵みによって捕らえられました。 のちにパウロはこう告白します。 「私はすでに捕らえたわけではありませんが、キリスト・イエスに捕らえられているのです。」 これが本当の信仰です。 恵みに捕らえられた者は「激しく攻める者」とされる キリスト・イエスに捕らえられた人は、パウロのように変えられていきます。彼は、彼に与えられた天性の知性と力、加えて神の力のすべてを用いて神に仕え、神の国を 激しく攻めて 進みました。 ここでいう「激しく攻める」とは、神の御国を人々の心に送る ということです。その福音によって人々は救い出されてきます。 パウロは、自分がキリストを選んだのではなく、キリストが自分を選び、捕らえたと言います。 これは、神の国が人の心に入り、支配を始めるという出来事です。恵みが彼の人生に押し入った のです。恵みが彼の人生に押し入り、彼を打ち倒した。そして彼は、新しい人に造り変えられた。 人の意思ではなく、神の主権 神に選ばれた人は、神によって心を新しくされ、キリストと結ばれ、新しい心が与えられ、神の国を第一に求める人 に変えられていく。パウロ自身がその代表です。人が自分の意思で神を選ぶことはできません。どんなにがんばっても、自分の力で救われることはできません。 また、あなたがどんなに福音を伝えようと、あなたは他の人を救うことはできません。 • あなたの祈りも • あなたの聖書通読も それ自体は手段であって、救いの原因ではない。 試練の中での照明 神がご自身で、永遠の時の始まる前にあなたを選び、御言葉で照らし、苦難で照らす。 パウロは御言葉を読んでいて照らされたのではなく、人を殺しに行く途中で照らされました。あなたにも試練がある時、あなたは 神の照明 を受けることになる。 苦しみの中で、逃げ場のないところで、あなたの罪と無力がさらけ出される時、神はあなたの心を砕き、恵みによって捕らえられた者とされる。神の律法が重荷でなくなる。 神に捕らえられた人は、やがて神の律法を重荷だと感じなくなっていきます。 かつては、自分の力で立法を守ろうとして苦しんでいた。しかし今は、神を愛して生きる道として、それが心に刻まれています。 それは「やらねばならない」という従順ではなく、「ただその方のために生きたい」という恵みからの従順。 神の国とは、キリストとの結合 神の国に入るとは、神の内に捉えられること です。 神の支配はキリストの内にあります。つまり、神の国とは キリストと結ばれて生きること そのもの。 キリストの心は、あなたの思いと感情と意思と理性を包みます。それが「神の国があなたのただ中にある」という言葉の成就です。神の心があなたの心に広がるとは、イエス・キリストの思いがあなたの感情・意志・理性・知性にまで広がっていくことです。 激しく攻める者の姿 パリサイ人とは大違いです。いくら周囲から反対されても、神に捕らえられた人は、神の言葉に照らされ、心を動かされ、神の国を慕い求めて歩み出します。 どんな迫害を受けても、どんなにつらいことがあっても、どんなに罪の性質が残っていても、その人は、 • 罪の性質が死ぬまで残ることを理解しつつ、 • しかし神の義が自分と共にあることを理解し、喜び、 どんな反抗にあっても進んでいきます。その姿は外から見ると、まるで激しく攻める者のように見えます。 これが「激しく攻める者がそれを奪い取る」ということです。 しかし、実際には 神がその人を引き寄せておられる のです。 「私の羊は私の声を聞き分けます。父が引き寄せない限り、誰も私のところに来ることはできません。」 こうして神の国は、この地で確かに広がり、現れていきます。 この世での神の国の前進 今も全く同じです。 神の国は、神の言葉と聖霊の働きによって前に進んでいます。 • 多くの間違った教え • 文化 • この世の仕組み • 偽りの宗教 • 人々の性質 これらすべてが、選ばれた人々を神の国から遠ざけようとします。 しかし、神に捕らえられた人々は、この前進する神の国の証人として生きています。彼らは神の御国を宝物として悟ります。 そして、この世の文化・教え・思想・偽り・ゲーム・コンピューター、何でも――まるでゴミのように捨て去って、神の御国に入ります。分かれ目は「あなたの心に神の国があるか」 もう一度言います。 • 律法が悪いのではなく、 • 学問が悪いのでもない。 問題は、あなたの心に神の国があるかどうか。これこそが救いの分かれ目です。 これこそが、神の国がこの地で確かに現れているという証拠です。すべてのものを塵あくたと思い、神の御国を宝物だと思う心。 それがあなたの家・あなたのうちにあるなら、確かにそこに神の国があります。 まとめ • 神の国は人の力ではなく、神の恵みの力によって前進する。 • 宣言したり、サタンを縛るという人間側の「霊的戦術」で進むのではない。 • 人の抵抗や律法主義や異端の教え、この世の思想や富は、真の信仰者を止めることはできない。 • 神に捕らえられた人は、すべてを捨てて御国を慕い求めて前進していく。 神の御国は激しく攻められている。それは、神の恵みがこの世の暗闇に押し入っているからである。 そこにはものすごい抵抗がある。 しかし、恵みは選ばれた者の心を捕らえ、御国を表していく。選ばれた者は、すべてを塵あくたと思い、 すべてを捨てて、キリストに従っていく。これが、神の御国が今あなたの中に侵攻している 印 です。 祈り お祈りします。 愛する天のお父様。神の御国は激しく攻められています。あなたの恵みが私たちの心に来られていることを感謝します。 私たちの心の暗闇に、あなたの恵みが押し入り、私たちの抵抗、私たちの激しい反抗、私たちの罪、私たちの自分勝手な信仰、思い、宗教、この世の思想、そういったものをすべて打ち砕きながら進まれる、その力を感謝します。 私たちの心を捉え、引き寄せ、私たちをあなたに絶えず引き寄せてくださる主よ、感謝します。 そのように御国が私たちの只中に広がっていくことを心から感謝します。それは神よ、あなたの御業です。 父よ、心から感謝します。愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。




