Search Results
空の検索で64件の結果が見つかりました。
- 何から逃げるのか2- 1ペテロ5章8節「悪魔と罪の心の関係」
何から逃げるのか2 ― 1ペテロ5章8節 2025.10.22 The Word for you 何から逃げるのか ― 1ペテロ5章8節 No.2 罪と死の法則 命の御霊の法則 出所 アダム キリスト 支配者 罪とサタン 父 子 聖霊 結果 死(分離と滅び) 命(結合と義) 構造 「肉の性質」に働く 「キリストとの結合」に働く 終着点 永遠の死 永遠の命 1. 目の欲、肉の欲を通して働く、この世の文化と記憶の誘惑 ― (ローマ7:23/コロサイ3:1–2/1ヨハネ2:16/創世記3章/エペソ2:2) 1) 選ばれた者の現実と誘惑の再来 暴言や嫌がらせを言いわれ続けてきた信仰者がいました。神はその信仰者に人を赦す心を与えてくださった。信仰者はもはや罪の支配の中ではなく、御霊の支配の中に生きている。しかし、時に暴言や行為が信仰者の記憶の中でフラッシュバックする。また、あるときには過去に見た光景――罪の快楽や欲望の映像――が思い起こされる。これらは、罪の性質と記憶に刻まれた“この世の空気の流れ”が共鳴することで起こる誘惑である。 2) サタンの戦略:記憶を媒体 伝える道具とする「残骸的誘惑」 ジョン・マレーはこう述べた。 “The law of sin operates through memory, desire, and inclination;yet grace restrains its dominion.” (罪の法則は記憶・欲望・傾向を通して働くが、恵みがその支配を抑制している。) — Collected Writings, Vol. 2つまり、罪の法則は単に「今の刺激」によってではなく、**「記憶された過去の刺激」**を通しても再び活動する。 この「罪の残骸」は、サタンによって再利用される。スプロールが言うように―― “Satan cannot create new temptations;he reanimates the old ones buried in memory.” (サタンは新しい誘惑を創り出すことはできない。彼は記憶に埋もれた古い誘惑を再び甦らせるのだ。) — R.C. Sproul, The Invisible War (Ephesians 6 Exposition) 3) 事例「自己義 自分は正しい」と「目の欲」― ① 自己義 自分は正しい(心の高ぶり) カルヴァンは言う。 “This false righteousness is the mother of pride and hatred.” (偽りの義こそ高ぶりと憎しみの母である。) — Institutes III.12.6 サタンは信者に「あなたは正しい」と思わせる。それはあなたが生きてきた価値観、文化、思想に働くサタンの要塞にある。そして、他者の罪を思い出させることで、正義感に似た敵意を呼び覚ます。 これは「霊的な誘惑」の最も巧妙な形である。 ② 目の欲(感覚の高ぶり) ヨハネはこう言う。 「この世にあるものは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの誇りである」(1ヨハネ2:16)。 マッカーサーはこの箇所を次のように解釈する。 “The lust of the eyes is not just visual pleasure;it is the coveting heart that stores images to sin again later.” (目の欲とは単なる視覚的快楽ではなく、罪を後で再現するために映像を蓄積する貪りの心である。) — John MacArthur, Worldliness: A Biblical Response つまり、過去に見たもの――ポルノ、ゲーム、いかり、オカルト、この世の冨、成功――の映像が記憶に残り、再び思い出されるとき、それが再度「欲望の再燃装置」として働く。罪は「欲望を思い出す力(memory of delight)」を使って人を誘惑する。 4) 文化・価値体系・思考、偽の宗教、哲学、心理学などの学問の流れと罪の再活性化 スプロールは、エペソ2:2「空中の権を持つ者」についてこう説明する。 “The ‘air’ represents the spirit of the age—the collective mindset,values, and desires of a fallen world.” (“空気”とは時代精神、堕落した世界の集合的思考・価値・欲望のことだ。) — The Invisible War つまり、文化・価値体系・思考、偽の宗教、哲学、心理学そのものが「空中の権威」の伝達媒体である。 私たちが日々触れている思想、情報・映像・娯楽・教育などは、無意識に**肉の性質(self and desire)**を刺激し、心に記憶として蓄積される。そしてその「記憶の堆積物」が後で記憶の中で映像されるとき、 サタンはそれを“再起動”させ、「かつての快楽・怒り・うらやみ・報復感情」を呼び覚ます。これはまさに「罪の法則が記憶を通して再び作動する」瞬間である。 5) (例)記憶の二つのルートで働く罪 誘惑のルート 罪の形 発動の仕方 ①自己義のルート 心の高ぶり(霊的プライド)、相手の罪を思い出し、「私は正しい」と感じる。サタンが義憤を利用する。 ②目の欲のルート 感覚的快楽(肉の欲望) 過去の映像・経験・刺激を思い出し、「もう一度感じたい」と思わせる。 両者に共通するのは、「過去の記憶」がサタンの再利用素材になっている点である。 それは「文化」「価値観」「思想」偽の宗教、娯楽という“この世の空気”の中に漂い、 常に再活性化される準備ができている。 6) 罪と死の法則 vs. 御霊の支配 カルヴァンはローマ7章をこう注解した。 “The law of sin does not rule, but it makes war against the law of the Spirit.” (罪の法則は支配してはいないが、御霊の律法に戦いを挑む。) — Commentary on Romans 7:23 罪の法則は「支配」ではなく「妨害」として存在する。それは「牙を抜かれた獅子」のように吠え立てるが、信者を飲み込むことはできない(1ペテロ5:8)。 御霊の支配は、信者を「記憶の再燃」からも守る。サタンの誘惑は、外的には文化・価値体系、思想を通し、内的には記憶と欲望の層を通して働く。 罪の性質は、自己義と目の欲、肉の欲、この世の暮らし向きなどから心を揺さぶり、過去の記憶を再び燃やして罪と死の法則を動かそうとする。思想、文化、価値観そのものが「空中の権威」の伝達媒体であり、サタンは私たちが日々触れている思想、情報・映像・娯楽、美意識・社会的事象などにより、継続的に、密接に、無意識に私たちの肉の性質(self and desire)を刺激し、心に記憶として蓄積する。 人間的な方法や行いでこのようなサタンの誘惑と罪の性質に対して対処する方法はない。 2. 再生と聖霊の封印 ― 永遠の結合の現れ ヤコブ1章18節はこう言います。 「神はご自分の意思によって、真理のことばをもって私たちを生まれさせてくださいました。」 再生とは、永遠の結合が時間の中に現れる瞬間です。神が選びのうちに結ばれた者を、実際にキリストとの結合の中に引き入れる時、聖霊がその魂に住まわれます。「あなたがたも真理のことば、救いの福音を聞き、それを信じたことにより、約束の聖霊によって証印(しるし)を押されました。」(エペソ1:13–14) この「証印」とは、所有の保証であり、サタンの介入を完全に閉ざす封印です。 この時からサタンの働きは、外側の誘惑に限定され、魂の中心には決して触れられない。 3. 三人の教師の証言 カルヴァン 「サタンは外から誘惑を仕掛けるが、罪は私たちのうちに根づいている。彼は火をつけるが、薪は私たちの心にある。」(『キリスト教綱要』II.4.2) カルヴァンは、罪の責任を人自身の内に置きます。悪魔を責めることは、肉を弁護することになるからです。 ジョン・マレー 「誘惑は外から来るが、欲望の反応は内から起こる。」(『Collected Writings』第2巻) マレーは、信徒の戦いの場を「外の悪の流れと内なる堕落の交差点」と定義しました。また、「キリストとの結合は天地創造の前の選びに根ざす。再生前であっても、選ばれた者はキリストの仲保の支配の外にはいない。」と述べています。 R.C.スプロール 「サタンは神の鎖につながれている犬のようなものだ。神がその鎖を伸ばさないかぎり、一歩も動けない。」(『The Holiness of God』) また、「悪魔を責めることは、自分の肉を弁護することだ。」(『Essential Truths』第44章) 三者は共に、 サタンの力を過大評価することなく、罪の責任を人間の内に見つめさせ、信徒をキリストとの結合に立ち返らせています。 4. まとめ ― キリストと結ばれた者の勝利 サタンの働きは、社会や文化の見えない流れを通して起こります。彼のねらいは人の中の罪の性質であり、目的は信仰を壊すことです。 しかし――キリストと結ばれた人は、永遠の契約によって完全に守られています。その魂の中心は神のもの。聖霊が内に住み、サタンは外から火を投げても燃え上がることはできません。 「罪はあなたを支配しない。あなたは律法の下ではなく、恵みの下にいる。」(ローマ6:14) 「あなたがたのうちにおられる方は、世にいる者よりも偉大です。」(1ヨハネ4:4) 信徒は、サタンの吠え声を恐れる必要はありません。彼は吠えることはできても、かみつくことはできません。ただし、エペソ4:27の警告を忘れてはなりません。 「悪魔に機会を与えてはいけません。」 私たちは、すべてのことが神の主権の御手の中にあることを覚え、キリストの勝利のもとに歩む者として、常に上にあるものに心を向けていなければなりません。(コロサイ3:1) それは、信仰の大盾となります。(エペソ6:16)信仰の怠慢や罪の放置は、サタンが外から誘惑する機会を生じさせますが、それでもキリストとの結合の中にある者の魂は、決して倒れることはありません。 「神の平和の神は、まもなくサタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」(ローマ16:20) これは、信者の戦いではなく、キリストの勝利が信者に現れるという約束です。 サタン、悪霊は選ばれた者の中に入ることは出来ない。サタン、悪霊の働きは外側に限られ、肉を刺激するにすぎない。選ばれた者は、永遠の契約により再生前から守られている。聖霊の証印は契約であり、サタンはその契約の前に無力、つまり無力化されている。神に選ばれたものは、神が信仰を与えその信仰に神が堅く立たせてくださり、主の勝利にあずかる者にしてくださいます。 「だれも、わたしの手から彼らを奪い取ることはできません。」(ヨハネ10:28)
- 何から逃げるのか- 1ペテロ5章8節「悪魔と罪の心の関係」
何から逃げるのか ― 1ペテロ5章8節 2025.10.21 The Word for you 1. 悪魔と罪の心の関係 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえる獅子のように、 だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(1ペテロ5:8) ペテロが描く「悪魔」とは、人間の外にいる実在の霊的存在です。しかし、その攻撃の目標は人の中にある罪の性質――聖書が「肉」と呼ぶ部分です。サタンはキリストと結ばれた者の中には入れませんが、肉を刺激し、信仰を崩すために外側から働きかけます。 2. サタンはキリストと結ばれた人の中に入れない (1)聖書の証言 「しかし、あなたがたのうちに神の霊が住んでおられるなら、あなたがたは肉の中ではなく、御霊の中にいます。」(ローマ8:9) 聖霊が住まうところにサタンは入り込むことができません。エペソ1:4–5は、神が天地の創造の前からキリストにあって選び、子としてくださったことを語ります。したがって、信者は永遠の契約のもとにあり、サタンがその結びつきを壊すことはできません。 (2)外から働くサタン 「あなたがたは以前は罪と罪過の中に死んでいました。そのときはこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、今も不従順の子らの中に働く霊に従って歩んでいました。」(エペソ2:1–2) ここでパウロは、サタンが人の中に住んでいたとは言いません。人は「この世の流れ」に従って歩んでいたのです。サタンの影響は外的なものであり、社会の価値観・欲望・文化を通して及びます。魂の中心――神の選びの領域――には触れられません。 (3)再生前も神の所有のうちに エペソ1:4はこう言います。 「神は、天地の創造の前から、キリストにあって私たちを選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされた。」 選びは時間の出来事ではなく、永遠の神の決定です。 したがって、まだ再生していない時でさえ、選ばれた者は神の主権の中にあります。サタンがその魂を自由に操ることはできません。 彼の働きは外側――この世と肉――に限定されています。 3. 選ばれた者の守りとサタンの限界 (1)神の守りの境界線 カルヴァンはこう言います。 「選ばれた者たちは堕落の中にあっても、神の秘められた御手のもとに保たれており、悪魔はその魂を完全には支配できない。」(『キリスト教綱要』II.4.2) 再生前でも、選ばれた人は完全にサタンの支配下にはありません。神の見えない御手がその人を囲み、堕落の只中でも保たれています。 (2)ヨブ記が示す制限 「では、彼のすべてをおまえの手にゆだねよう。ただし、彼自身には手を触れてはならない。」(ヨブ1:12) サタンは神の許しなしには何もできません。攻撃できるのは外側――肉体や環境――の範囲に限られ、魂そのものには一切手を触れられないのです。 「神はサタンをも用いて御旨を成し遂げる」(創世50:20) (3)神の鎖につながれた敵 R.C.スプロールは言います。 「サタンは神の鎖につながれた犬のようなものだ。神が鎖を伸ばさない限り、一歩も動けない。」(『The Holiness of God』) サタンの「自由」は見せかけに過ぎません。実際は神の主権のもとで制限されており、その働きすら神のご計画の中に組み込まれています。 4. サタンのねらいと働き サタンのねらいは、単なる悪い行動を引き起こすことではありません。彼の本当の目標は、人の信仰を崩し、神への従順を壊すことです。 ねらい:人の中にある「肉(罪の性質)」を攻撃する。 内容:罪の性質とは、アダムから受け継いだ堕落した本性。 目的:信仰を倒し、神への信頼と従順を破壊する。 カルヴァンが言うように、 「サタンは火をつけるが、薪は人の心の中にある。」(『綱要』II.4.2)つまり、サタンの誘惑は外から来ますが、反応して燃え上がるのは内なる罪です。 5. サタンの働きの流れ サタンの働きは段階的です。彼は人の肉を刺激し、欲を膨らませ、最終的に信仰を崩壊させます。 標的を定める(肉):人の中にある罪の部分を狙い撃ちします。 刺激する:欲望をゆさぶり、思いを揺さぶります。 「人はそれぞれ、自分の欲に引かれ、誘惑に陥る。」(ヤコブ1:14–15) 信仰を崩す:罪を行わせることよりも、神への信頼と従順を破壊することが目的です。 結果:恐れ・疑い・恥によって人を縛り、神との交わりを遠ざけます。 この流れは、人が「信仰の盾」を下ろした時に最も顕著になります。エペソ6章16節が命じるように、「信仰の盾を取りなさい。」それは、燃える矢――すなわちサタンの誘惑――を防ぐ唯一の武具です。 6. サタンの支配の広がり ― 「空中の権威を持つ支配者」 エペソ2章2節は、サタンの支配が「この世の流れ」として現れることを語ります。サタンは個人を順番に訪問するのではなく、世界全体の価値観・文化・思想の「空気」を通して働きます。 「空中の権威」とは、空そのものではなく、人の社会・心・文化に存在する目に見えない影響の層です。 サタンは世界全体の価値観・文化・思想の「空中(spiritual atmosphere)」を支配し、人々の思考や価値観を神から離す方向へ傾けます。「不従順の子らの中に働く霊」とは、神に背く心を活性化させるサタンの力のことです。 しかし――信仰者はその「空気の中」に生きながらも、その支配の中にはいないのです。なぜなら、彼らの国籍は天にあり(ピリピ3:20)、支配者はサタンではなくキリストだからです。 7. 「探し回る」とはどういうことか 「あなたがたの敵である悪魔が、ほえる獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(1ペテロ5:8) この「探し回る」という表現を読むと、悪魔が地上を歩き回り、個々の家を訪ねているように思うかもしれません。しかし、ペテロが意図しているのは、世界全体に及ぶ働きです。 ギリシア語の「歩く」(περιπατεῖν)は、単なる移動ではなく「生き方」や「支配のあり方」を表す言葉です。 聖書では―― 「霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)=御霊の導きに従って生きること。 「この世の流れに従って歩んでいた」(エペソ2:2)=神に背く生活。 したがって、「悪魔が探し回る」とは、サタンが全世界の中で、自分の支配を拡張するように働くことを意味します。彼は同時的・構造的に働き、個人を順番に訪ねるのではなく、社会の仕組みそのものを通して人を捕らえます。
- 病、災害、死に対する神の主権1 ヨブ記
2025.10.12 豊川の家の教会 礼拝メッセージ 病、災害、死に対する神の主権 病、災害、死に対する神の主権がどのようなものであるかを聖書から理解して行きましょう。 選ばれている人々と選ばれていない人々、それぞれに病、災害、死の意味は大きく変わります。このことを最初に心において忘れないようにしてください。 Ⅰ.異端の教えの主張 1. 神の主権を認めない考え方の主張 「病気は罪の結果である。だから悔い改めれば癒される。」 この誤った教えはしばしば「因果応報の教え(retribution theology)」と言われます。この教えは旧約のヨブ記の友人たちが代表として聖書の中に現れます。 ヨブ記の中で、ヨブの友人たち(エリファズ・ビルダデ・ツォファル)が「ヨブの苦しみは罪の罰」だと主張して責める場面がいくつもあります。 ・エリファズの発言(ヨブ記4:7–8) 「思い出してみよ。罪のない者が滅びたことがあるか。どこで正しい者が断たれたことがあるか。私の見たところでは、不義を耕し、害悪の種を蒔く者は、それを刈り取る。」 エリファズは「人は罪を犯すから苦しむ」と主張し、ヨブの苦難を「彼の隠れた罪の当然の報い」と見なしています。 ・ビルダデの発言(ヨブ記8:4–6) 「もしあなたの子どもたちが神に罪を犯したのなら、神は彼らをその咎のために捨てられたのだ。だが、もし、あなたが神を熱心に求め、全能者に祈るなら、あなたが潔白で正しいなら、神はすぐにあなたのために立ち上がり、あなたの住まいを回復してくださるだろう。」 ビルダデはヨブの子どもの死を「彼らの罪の結果」と断定し、ヨブ自身も「悔い改めれば回復できる」と因果応報的に語ります。 ・ツォファルの発言(ヨブ記11:4–6) 「あなたは言う、『私の教えは純粋だ。私は神の前に潔白だ』と。しかし、どうか神が語り、あなたに答え、知恵の奥義を明らかにしてくださるように。神があなたの罪よりも少なく罰しておられることを知るがよい。」 ツォファルは、ヨブが「むしろ本来受けるべき罰より軽く罰されている」と言い放ち、ヨブの病と苦しみを神の罰と決めつけます。 神の最終的な裁き(ヨブ42:7) さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主は手マン人エリフェズに仰せられた。 「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりのともに向かって燃える。それは、あなた方がわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ・ (ヨブ記42章7節) 神ご自身が、友人たちの教え―神は「罪が病の原因である」という報いの神学―を誤りとして神の怒りを燃やされています。 <まとめ> 登場人物 聖句 内容 エリファズ ヨブ4:7–8 「罪のない者が滅びたことはない」=因果応報の教え ビルダテ ヨブ8:4–6 「子どもたちが罪を犯したから死んだ」 ツォファル ヨブ11:4–6 「神はおまえの罪より軽く罰している」 神の裁定 ヨブ42:7 「おまえたちは真実を語らなかった」=異端へ教えへの怒り この一連の流れが、まさに「罪が原因だとして病を説明する異端の教えの原型」です。 ヨブ記全体は、「義人の苦しみは罪の罰ではなく、神の主権的摂理の中にある」という真理を啓示しています。 2. ヨブの友達3人の理屈構造 ⑴.神は正しい者を祝福し、罪人を罰する。 ⑵.病気は罰である。 ⑶.ゆえに病気になった人は、何らかの罪を犯している。 ⑷.その罪を悔い改めれば、病気は癒される。 この理屈は一見「正義の神」を擁護しているように見えるが、実際には神の主権を人間の行いの下においています。 神の怒りはこの異端の教えの上にあります。 Ⅱ. 聖書における誤りの指摘 1. ヨブ記の例(ヨブ2章) ヨブの友人たちは、「ヨブが苦しんでいるのはヨブが行った罪のせいだ」と非難した。しかし神は明言される: 「あなたがたはわたしについて真実を語らなかった」(ヨブ42:7)すなわち、人の行いの罪によって病や苦しみが来たと結びつける教えは神の主権を卑しめるものであり、神への冒涜である。 2. ヨハネ9:1–3 「この人が生まれつき盲目なのは、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現れるためである。」 イエス・キリストは、罪と病の単純な因果関係を完全に否定された。病は神の栄光の現れの機会であり、神の摂理のもとにある。 Ⅲ. 現代にある因果応報 異端の教えと聖書の教え 1.因果応報の教えは、誤った神学にあり、福音を「因果応報」にすり替え教える。 異端の教え 内容の特徴 根本的誤謬 繁栄の神学 信仰と献金によって病と貧困から解放される 神の恵みを報酬化する「取引の神」像 先祖の罪の呪い 先祖の罪の呪いが子孫の病気として現れる 罪責と罰の関係を「血統」に拡大する 悪霊の攻撃 病気は悪霊による攻撃、祈りで追い出せる 悪霊に因果を転嫁し、神の摂理を否定 律法主義 神の祝福・呪いを行いで決定する 義認の恵みを破壊し、十字架の意味を無化 これらはいずれも、神の主権を否定し、福音を人間の罪の結果、罰であると変える。 2. 聖書の教え ⑴.神の主権と摂理のもとにある病 病は信仰者にも、「未信者」にも神の摂理のもとで病は起こります。しかし、「目的」と「意味の現れ方」は、選ばれた者と未信者とで根本的に異なります。 ⑵.普遍的摂理 ― 病はすべて神の主権下にある カルヴァンは『キリスト教綱要』I.16章でこう述べています:「何ひとつ偶然はない。人の病も、災害も、死も、神の御旨の外では起こらない。神の手の外に出るものは一つもない。」ゆえに、信者も未信者も、病の出来事そのものは神の主権的摂理の下にあります。これは自然的因果ではなく、「創造主の統治秩序」に属するものです。 ⑶.選ばれた者における病 ― 聖化の道具・父の訓練 ヘブル12:6–10は、信者に対して次のように語ります:「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子をむち打たれる。」 <カルヴァンはこれをこう解釈します>:「神は御子たちを罰するためではなく、御自分のかたちに似せるために鍛錬する。」 (『綱要』III.8.5) したがって信者の病は、神の怒りのしるしではなく、聖化と御旨の実現のための恵みの手段(discipline in love)です。神の父なる愛の中で、罪の残滓を清め、天への備えとして用いられます。 ⑷. 未信者における病 ― 裁きの前触れ・悔い改めへの呼びかけ 一方、未信者の病も同じ摂理下にありますが、その目的は異なります。カルヴァンは『綱要』I.17.1でこう区別します:「神は同じ出来事をもって、信者を清め、悪人を罰する。」 つまり、 • 信者にとっての病=父の愛の訓練 • 未信者にとっての病=神の義の警告、あるいは裁きの予告 しかし、ここでもなお、神の慈愛は現れています。ローマ書2:4にあるように、「神の慈愛はあなたを悔い改めに導くためである。」神は病を通して、未信者にも悔い改めの機会を与えられるのです。 ゆえに未信者の病も、「無意味な苦痛」ではなく、神が救いへと招く「外的召し(external call)」としての摂理なのです。
- 病、災害、死に対する神の主権 ヨブ記(ショート)
2025.10.8 The Word for you 病 、災害、死に対する神の主権がどのようなものであるかを聖書から理解して行きましょう。 選ばれている人々と選ばれていない人々、それぞれに病、災害、死の意味は大きく変わります。このことを最初に心において忘れないようにしてください。 1. 神の主権を認めない考え方の主張 「病気は罪の結果である。だから悔い改めれば癒される。」 この誤った教えはしばしば「因果応報の教え(retribution theology)」と言われます。この教えは旧約のヨブ記の友人たちが代表として聖書の中に現れます。 ヨブ記の中で、ヨブの友人たち(エリファズ・ビルダデ・ツォファル)が「ヨブの苦しみは罪の罰」だと主張して責める場面がいくつもあります。 エリファズの発言(ヨブ記4:7–8) 「思い出してみよ。罪のない者が滅びたことがあるか。どこで正しい者が断たれたことがあるか。私の見たところでは、不義を耕し、害悪の種を蒔く者は、それを刈り取る。」 エリファズは「人は罪を犯すから苦しむ」と主張し、ヨブの苦難を「彼の隠れた罪の当然の報い」と見なしています。 ビルダデの発言(ヨブ記8:4–6) 「もしあなたの子どもたちが神に罪を犯したのなら、神は彼らをその咎のために捨てられたのだ。だが、もし、あなたが神を熱心に求め、全能者に祈るなら、あなたが潔白で正しいなら、 神はすぐにあなたのために立ち上がり、あなたの住まいを回復してくださるだろう。」 ビルダデはヨブの子どもの死を「彼らの罪の結果」と断定し、ヨブ自身も「悔い改めれば回復できる」と因果応報的に語ります。 ツォファルの発言(ヨブ記11:4–6) 「あなたは言う、『私の教えは純粋だ。私は神の前に潔白だ』と。しかし、どうか神が語り、あなたに答え、知恵の奥義を明らかにしてくださるように。 神があなたの罪よりも少なく罰しておられることを知るがよい。」 ツォファルは、ヨブが「むしろ本来受けるべき罰より軽く罰されている」と言い放ち、 ヨブの病と苦しみを神の罰と決めつけます。 2.神の最終的な裁き(ヨブ42:7) さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はエマン人エリフェズに仰せられた。 「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりのともに向かって燃える。それは、あなた方がわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ・ (ヨブ記42章7節) 神ご自身が、友人たちの教え――神は「罪が病の原因である」という報いの神学――を誤りとして神の怒りを燃やされています。 3.まとめ 登場人物 : 聖句 :内容 エリファズ :ヨブ4:7–8 :「罪のない者が滅びたことはない」=因果応報論 ビルダデ :ヨブ8:4–6 :「子どもたちが罪を犯したから死んだ」 ツォファル:ヨブ11:4–6 :「神はおまえの罪より軽く罰している」 神の裁定:ヨブ42:7 :「おまえたちは真実を語らなかった」=誤った教えの否定 この一連の流れが、まさに「罪が原因だとして病を説明する異端の教えの原型」です。 ヨブ記全体は、「義人の苦しみは罪の罰ではなく、神の主権的摂理の中にある」という真理を啓示しています。 4. ヨブの友達3人の理屈構造 神は正しい者を祝福し、罪人を罰する。 病気は罰である。 ゆえに病気になった人は、何らかの罪を犯している。 その罪を悔い改めれば、病気は癒される。 この理屈は一見「正義の神」を擁護しているように見えるが、実際には神の主権を人間の行いの下においています。 神は怒りはこの教えの上にあります。
- 不品行を避けなさい
2025.10.5 豊川の家の教会礼拝メッセージ 1.律法主義:「見るな!」 コロサイ人への手紙 2章20~22節 "もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。 これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。" 「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めは、禁止命令です。 禁止命令。 聖書はこれらの考えを律法主義と呼びます。律法は神が定めました。しかし、「律法主義」とは、神の恵みではなく「自分の努力・行い・規則の遵守」で義とされる(神に認められる)と考える誤りです。 このような命令では人の心を外側から縛りますが、心の中の欲は決してなくなりません。律法主義はむしろ、人間の欲を強く刺激します。 ローマ人への手紙 7章7~11節でパウロはこう言います。 "それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が隣人のものを「欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。 しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、 私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。 罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。 律法主義によって人の心のなかは、むしろ「やってみたい!」って欲望が強くなってしまうのです。 それは、人間が自分の力で罪の性質に勝とうとするやり方の結果です。 人間中心の律法主義、必ず、人間は罪の性質に負けるとパウロは教えています。 2. 神の命令は「逃げなさい!」 聖書はどう教えているのでしょうか? 日本語の新改訳聖書にはⅠコリント6:18にこう書いてあります。 注意して読みましょう。 「不品行を避けなさい」 この教えの意味を人間中心の考え方で読んではいけません。 ここで使われている「避けなさい」という言葉はギリシャ語では「φεύγε(フェブゲ)」、「逃げなさい!」という意味です。 新改訳聖書の「避けなさい」と言う表現は自分の意志の力で努力して避けるように聞こえてしまいます。それは原語から検証すると良い解釈ではありません。 何度も言いますが、自分の力で努力して良いことを行い、義を得ようとする行為は律法主義です。律法主義は自分の力で戦うように求めます。そして律法主義では、必ず、主語は「私」が主語、自分になります。 自分は律法主義に陥っているかどうかの見極め方はとても簡単です。 罪を避ける行為の主語が「あなた」はとなるとき、あなたは律法主義、人間中心となっています。 「私は避けなければならない」、「あなたは○○をしなければならない」 これは人間の欲望と「自身」の戦いです。そして「あなたは」必ず、負けます。 しかし、主語が「私には律法を守ることはできない、でも主よ、あなたの律法に従いたいです」「イエスさま、助けてください」と自分をあきらめ神にすがるとき、中心はもはや「あなた」ではなく、「神」となっています。その時、あなたは御霊によって歩いています。それはもはや、あなたの欲望とあなたの戦いではなく、あなたの欲望と「御霊」の戦いです。そしてあなたは「御霊」が勝利するのを目撃して驚き、神をほめたたえる者となるでしょう。 「逃げなさい!」 「不品行から逃げなさい!」 「私には律法をまもれない、イエスさま、私を助けてください」 神の主権、神が中心におられます。 その欲望に襲われる、まさにその時とき、「欲情の思い、考えの衝動」からあなたの心は天を仰ぎ、神に祈りに入ります。「祈りのなかで神に助けを求めること」 自分をあきらめ、イエスさまに助けを求めるのです。 •動画を前に「自分で頑張ってがまんする」のではなく、「神のもとに逃げなさい」 •ゲームを前に「自分で頑張って我慢する」のではなく、「神のもとに逃げなさい」 •人を憎む中で「自分で許さなくてはと頑張る」ではなく、「神のもとに逃げなさい」 •人生の不安のなかで苦しむのではなく、「神のもとに逃げなさい」 神への疑い、心配、人生への不安、人への怒り、憎しみ、許さない心、嫉妬、お金、健康、名誉、不品行への思い、世を愛する心、そのような思いから 「すぐに、逃げなさい!」 これは神さまが教える戦い方です。 老人、大人、子ども、ユダヤ人、ギリシャ人、日本人、金持ち、貧乏人、健康な人、病人、障害者の違いはありません。 すべて救われている人は「罪から逃げなさい!」 「欲情の思い、考えの衝動」からあなたは心で天を仰ぎ、祈りに入ります。 「逃げなさい」、祈りのなかで神に助けを求めるのです。その思いから、出てくる、抜けなさい。 3. 聖書における「逃げなさい」の意味 Ⅰコリント6:18 「不品行を避けなさい(φεύγετε τὴν πορνείαν)」 →「避ける」は「走って逃げる」「距離を取る」という強い命令。 しかし、単に体の行為を止めるのではなく、その欲望の心に入らないという意味を持ちます。 Ⅱテモテ2:22 「若い時の情欲を避け、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」 →逃げるとは、別の方向へ心を向けること。 罪から逃げると同時に、神の義と愛を追い求める方向転換が含まれています。 1)スプロールの説明:罪の欲は心の戦場 スプロールは『The Holiness of God』の中でこう言います: 「罪はまず心のうちに巣をつくり、思いと感情を支配する。 逃げるとは、思考の中で罪が根を下ろす前に、その場から退くことである。」 つまり、逃げるとは「欲望の思考過程にとどまらないこと」。 罪の映像や記憶、快楽の想像、復讐の感情に心が入りかけたとき、それを考え続けない・追わない・掘り下げない。そこから「出てくる」「抜ける」ことが、聖書の教える「逃げなさい」です。 2)神学的まとめ 「逃げる」とは律法的な「しない努力」ではなく、 神の主権と恵みのもとへ心を移す信仰の行為です。 人間中心では「自制の努力」になるが、神中心では「神の支配の中へ退避する信仰」になる。 実際にはこうです: 「罪から離れる」=「神の支配に入る」 4.神に従い、悪魔に抵抗する、神に近づくこと、逃げることは同義 ヤコブ4:7–8"ですから、 神に従い、悪魔に対抗しなさい 。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。 神に近づきなさい。 そうすれば、 神はあなたがたに近づいてくださいます 。 1)ここでヤコブは4つの命令を出していますが、文法的にも神学的にも「神に従う」→「悪魔に抵抗する」→「神に近づく」は「神へ逃げる」 一本の流れです。 つまり、「悪魔に抵抗する」とは、神に従うことの現れであり、「神に近づく」とは、逃げることの目的地です。 2) 「神に従う」と「悪魔に抵抗する」 R.C.スプロールは『Holiness of God』でこう説明します:「神への服従は、単なる服従行為ではなく、主権の認識である。神の権威を受け入れることは、同時にサタンの権威を拒否することである。」 したがって「神に従う」と「悪魔に抵抗する」は同義的関係にあります。従順は抵抗であり、抵抗は従順の形です。 3) 「逃げる」と「神に近づく」 パウロはⅠコリント6:18で「逃げなさい(φεύγε)」と命じます。この「逃げる」は単に後退ではなく、方向を持った逃走です。つまり、罪や悪魔から逃げるとは「神に向かって走る」ことです。 ジョン・マッカーサーはこう言います: 「誘惑から逃げることは臆病ではない。それは信仰の積極的行動であり、神の臨在に避難することだ(refuge in His presence)。」 したがって、「逃げる」と「神に近づく」は異なる命令形でも、内容的には一体です。逃げる方向が神に向かい、それは神に近づく行為そのものです。そして神、ご自身が助けてくださいます。 4) 福音が教える逃げ方(フェブゲ:φεύγε) 聖書が「逃げなさい」と命じるとき(Ⅰコリント6:18、Ⅱテモテ2:22)、それは単なる外的行動―― その場から離れるという行為―だけを意味しているのではありません。 それは、 心の中に生じた罪の欲望・衝動・思考から逃げること を意味しています。R.C.スプロールはこのことを、「心の中の戦場から逃げる霊的行為」と呼びました。 罪はまず心の中で形を取り、思い・感情・意志を支配します。だから神は、選ばれた者の心の中に「逃げなさい」という思いを与えられます。この“逃げなさい”という思いは、神の恵みの働きであり、 聖霊が内側でくださる警告の声 です。 あなたは、その声を聞くときにわかります。 「ここにとどまってはいけない」「考え続けてはいけない」「見続けてはいけない」—その御霊の思いに逆らわず、 すぐに従って逃げること です。 そのとき、こう祈ってください。 「神さま、私は無力です。自分の力では勝てません。どうか助けてください。」 それは敗北ではなく、 信仰の行為 です。逃げると言うことは、信仰によって 神の主権へ、神の支配の中へ、天と地と造られた神へ、すべてを支配しておられる方、良いことも、悪いことも、涙も喜びも、疑いも罪も死も私たちの人生のすべてを支配しておられる方へ、このお方へ逃げ帰ること だからです。 あなたは「この神の主権とキリストと結ばれている」ことを思い出してください。キリストはあなたの罪のために十字架で死なれ、復活されました。そのキリストがいつもあなたと結合されており、御霊によって「そこから逃げて私のもとに来なさい!」と命じておられるのです。その思いに従う力さえ、神があなたに与えてくださいます。だから、逃げるときにあなたは一人、孤独ではありません。逃げる者を支える方、すなわちキリストがあなたと共におられるのです。 5. 罪の性質とは? 聖書は、私たちに「罪の性質」があると教えます。これは単なる悪い習慣ではなく、アダムから受け継いだ根本的な性質です。 ローマ7:18 「私のうち、すなわち私の肉のうちには、良いものが住んでいない」 罪の性質は意志・思い・感情、体に働きかけ、そしてそれによって造られたものを通して働きかけます。 「欲しい、楽しみたい、見たい、自分は正しい、怒り、嫉妬、嘘、無責任」――心の奥からわき上がる衝動。これが「罪の性質」の姿です。 6. 誘惑と罪の誕生 ヤコブ1:14–15はこう言います。「人が誘惑されるのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」罪は外から突然やってくるのではありません。心の内側の欲が呼び水になり、外の誘惑に結びついて「罪」が生まれるのです。 7. 本当の戦いの場 だから戦いの本当の場所は、外側の世界ではなく 心の中 です。 •律法主義は心の外側を縛りますが、心を変えることはできません。 •神の命令(「逃げなさい!」)は、心の中の罪の性質に対する抵抗です。 スプロールはこう言いました。 「罪との戦いは欲望の戦いだ。欲望を直視して立ち向かうのではなく、その欲から逃げることが戦いの勝利なのだ。」 8. 福音による勝利 福音は「罪を避ける方法」を教えるのではなく人を新たにキリストの荷姿に変えていきます。 •キリストの死と復活によって、罪の支配から解放された(ローマ6:6)。 •キリストに結ばれている者には、御霊が「逃げなさい!」と内側で声を与える。 •その思いに従う力も神から与えられる。 だから「逃げる」とは単なる方法論ではなく、 神の恵みによる従順の実、それは聖化 なのです。 9. まとめ 行為 神学的意味 対象 聖句 神に従う 神の主権を認める、神の主権に従う) 神 ヤコブ4:7 悪魔に抵抗する 偽りの支配の教え(人間中心)を拒絶する サタン ヤコブ4:7 逃げる 神の主権、支配の教え(福音)に逃げ帰る 罪の性質・誘惑 Ⅰコリ6:18、Ⅱテモ2:22 神に近づく ご同上 神 ヤコブ4:8 福音が教える「逃げなさい」――神の主権と御霊の導きの中で 「罪からにげる」とは、まず、神さまがすべてを支配しておられるということを思い出すことです。 神さまはキリストにあってあなたを造り、選び、キリストと結合しました。神はあなたをいつもその御手の中で守っておられます。 だから、誰もあなたを罪に定めることは出来ません。また、罪があなたを支配することもできません。 「罪から離れる」というのは、自分の中に起こる罪の思いや欲望から心を離し、 すべてを支配しておられるあなたの神さまのもとに逃げ帰ることです。 それは、新しく神さまの支配に「入る」ということではありません。 あなたはもうすでに、キリストと結ばれて、神さまの恵みの支配の中に生かされている人 だからです。だから、 「罪から離れる」とは、キリストと結ばれているという現実に、いつも心を向ける状態 ことです。 神さまの恵みの中にとどまり、その支配の中で安心して従うこと です。 そのとき、あなたの心の中で御霊が静かに「逃げなさい」と語られます。その御霊の思いは、神さまがあなたを清くしようとしておられるしるしです。御霊は「いのちの御霊の律法」(ローマ8:2)として、外から命令するのではなく、あなたのうちでいのちの力として働き、志と行動を与えてくださる方です。 ピリピ2:13にはこう書かれています。 「神は、御心のままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、また行わせてくださるのです。 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」 ですから、御霊が「逃げなさい」と心に語るとき、それはあなた自身の決意ではなく、 神の恵みの御手が、あなたを罪から守ろうと動いている瞬間です。 その御霊の思いがあなたの心に「逃げなさい」と現れたら、つぶやかず、疑わず、ためらわずに、すぐ従いましょう。御霊はあなたに志を与えるだけでなく、従う力と喜びも与えてくださいます。 逃げるという行為は、「イエスさまが私の主です。私の神です。」と心から信頼して、御霊の導きに従ってその肉の思いから、神の主権、神のご支配の中に逃げ帰る信仰の行為です。
- 十字架とあがない
2025.10.1 The Word for you 少年が自分の作った大切なボートを失くして、それをおもちゃ屋に飾ってあるのを見つけて買い戻す話からあがないの理屈を話しました。しかし、それは子ども向けの理屈であって本質ではありません。 皆さん、想像してください。 イエスさまは、無実であるのに、あの残酷なローマの鞭で打たれました。ただの縄ではありません。革ひもの先に鉛や骨が縫い込まれ、振り下ろされるたびに皮膚をえぐり、肉を裂き、血が飛び散る鞭です。打つたびに背中は開き、肉片がはじけ飛び、骨がのぞき出る。普通の人なら、その場で死んでもおかしくない。 注)「イエスは39回の鞭打ちを受けた」と説明しましたが、申命記25:3に基づくユダヤ人の習慣(39回で止める)と間違えました。残酷なことに回数は限定ありませんでした。ローマ兵による拷問であり、ユダヤ律法の制限には従っていなかったと理解した方が良い。ですから十字架のあがないにおいて聖書記述には鞭打たれた「回数は不明」とローマ兵士の気分で鞭を打たれた言うのが正確です。恐ろしいことです。 そして、兵士たちは茨で冠を編み、それを頭に押し付けました。鋭い棘が頭皮に突き刺さり、血が顔を覆い、目に流れ込み、視界を奪う。その上で杖で頭を殴りつけ、唾を吐きかけ、「ユダヤ人の王さま、万歳!」と嘲笑いました。 ――王ではなく、笑いものにされたのです。 やがて十字架刑。分厚い鉄の釘が、両手首と足首を貫きました。神経を砕き、骨を割り、激痛が全身を走る。呼吸をするためには、釘にかけられた手と足で体を持ち上げなければならない。そのたびに、背中の裂けた肉が荒削りの木にこすれ、血が滲み、痛みは増す。肺は押しつぶされ、息ができない。数分おきに窒息しかけ、全身はけいれんする。 十字架は、ゆっくり、ゆっくり、人を殺すための拷問でした。 そして、その中でイエスさまはこう言われたのです。「わたしは渇く。」血も汗も流れ尽くし、体内の水分は失われ、舌が乾き、上あごに張り付く。声も出せないほどの渇き。 それは肉体の渇きだけではない。父なる神から見捨てられた魂の渇き――地獄の乾きです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!」これは、永遠の断絶、地獄の叫びです。本来なら私たちが味わうはずの地獄を、イエスさまは数時間のうちにすべて飲み干された。 皆さん、これが代価です。 イエスさまがあなたを買い戻すために支払われた代価――血、裂けた肉、渇き、見捨てられる孤独、そして死。少年がボートをお金で買い戻したのは理屈ですが、とても表面的に見えてしまいます。 本当のあがないは以上のようにイエスさまはご自身の命であなたを買い戻されたのです。
- 「代償を量りなさい」ってどういうこと? 福音構造と変わる心
2025.9.28 礼拝メッセージ「「代償を量りなさい」ってどういうこと? 福音構造と変わる心 — なぜそれでもキリストに従えるようになるのか — 1. イエスさまの問いかけ ― 代償の重さ イエスさまは群衆に向かってこう言われました。 ルカの福音書14章 26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。 31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。34 ですから、塩は良いものですが、もし塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」 これは単なる「覚悟の話」ではなく、 全存在を差し出すことを求める命令 です。塔を建てるには費用を計算する、戦争に出るなら勝てるかを考える。同じように、イエスさまは「わたしに従うなら、すべてを差し出す計算をしなさい」とおっしゃるのです。一見、これは弟子になるための条件のように聞こえます。しかし実際には、 人間には不可能な代償 を示すことによって、信仰の本質を明らかにしているのです。 2. それは無理だと認めることから ― 信仰者の無力の発見 悔い改め イエスさまは「できます」と即答することを期待していません。むしろ「自分には到底できない」と悟ることを求めておられます。 人間は自分の力では、自分の命をも含めたすべてを手放すことなどできません。「家族よりもキリストを愛する」「財産をすべて捨てる」など、人間的には不可能です。 聖書はこう言います。 「あなたがたは、自分の背きと罪の中に死んでいた者であって…」(エペソ2:1) またローマ3:10–11 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」 人は霊的に死んでいるため、自分から神に従う力も心も持ちません。 だから「代償を量れ」という命令は、 自分の無力を悟らせるための問いかけ なのです。 3. 結合 ― 救いの源泉 では、従えないはずの人間がどうして従えるようになるのでしょうか?その答えは「キリストとの結合」にあります。 「神は、天地の基が据えられる前から、私たちをキリストにあって選んでくださった。」(エペソ1:4) 「神は、私たちをキリスト・イエスにあってともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました。」(エペソ2:6) 神は永遠のご計画の中で、信じる者をキリストに結び合わせてくださいました。ジョン・マレーが言うように、救いに属するすべての恵み(再生、信仰、義認、聖化、栄化)は、この結合から流れ出します。 ➡ →「代償を量れ」という不可能な問いは、私たちを 結合の源泉 へ導き、「結ばれているからこそ従える」という真理に目を開かせるのです。 4. 再生 ― 新しい心をいただく 結合の現実は、時間の中で「再生」として現れます。これは聖霊による心の造り変えです。 「わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。」(エゼキエル36:26) 「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3) 死んでいた心に新しい命が与えられるのです。このとき、人は初めて「自分には無理だ」と悟り、同時に「神にすがりたい」という思いを与えられます。 再生は「できる人間になること」ではなく、 無力を悟り、神に頼る心が生まれること なのです。 5. 悔い改めと信仰 ― 無力を認めてキリストにすがる 再生された人は、こう言います。「自分には不可能だ。だからキリストにすがるしかない。」 これが悔い改めと信仰です。 「あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰によるのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ2:8) 「神は、悲しみを伴う悔い改めをもって救いに至らせてくださる。」(Ⅱコリント7:10) 悔い改めとは「自分にはできない」と認めること。信仰とは「すべてをしてくださるキリストにすがること」。この二つが与えられるとき、弟子として歩む入口に立つのです。 6. 義認 ― 神の前に義とされる 信仰によって結ばれると、神は罪を赦し、キリストの義を私たちに着せてくださいます。 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。」(ローマ5:1) 「キリストは罪を犯したことがないのに、私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21) つまり「代償を払って弟子になろう」と努力するのではなく、 すでにキリストが代償を払ってくださったことに結びつく ことで、神の前に完全に義とされるのです。 7. 聖化 ― 日々キリストに似た者へ 義とされた者はそのままでは終わりません。「結合」から流れる恵みは「聖化」へと進みます。 「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」(Ⅰテサロニケ4:3) 「キリストとともに十字架につけられています。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20) 聖化は、生活の中で実際に小さな「代償」を払う歩みです。 家族や友人よりもキリストを第一にする(ルカ14:26) 正直を選ぶことで損をする(Ⅰペテロ3:16) お金よりも誠実を優先する(マタイ6:24) これらはすべて「代償」ですが、それを喜んで受け入れる心は、自分の力ではなく聖霊の働きによって与えられます。 福音の救いの構造の中で信仰者はキリストの似姿へと変えられて行きます。 キリストとの永遠の結合にあって ー選びー再生・結合―信仰・悔い改めー義認―聖化 使徒パウロはこの福音構造のなかで変えらました。 <罪のなかで死んでいたパウロ> 1テモテ1:13 13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 <義認を通り、聖化を歩くパウロ> ガラテヤ2:20 19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 パウロは自分の財産全部を捨てるどこか、自分の命を捨てました。パウロは自分はキリストとともに死んでいる自分とキリストが自分の結合していること、そのことを愛おしく語っています。 これは福音の構造の中における変化です。 イエスさまの例え この信仰者の変化をイエスさまは次のように話しています。 塩の譬え ― 証しの効力 「塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。」(34節) 塩は保存や味付けに必須ですが、塩気を失えば無価値です。これは「クリスチャンとしての本質(キリストとの結合による新しい命)」を失った宗教的外見を指します。 真にキリストに結合された者は、決して完全に塩気を失うことはありません(聖徒の堅忍)。 しかし、表面的福音主義や人間中心の宗教に留まる者は、塩気を失ったように外へ投げ捨てられるのです(マタイ7:21–23)。 聞く耳のある者は聞きなさい 「聞く耳のある者は聞きなさい。」(35節) これは単なる締めくくりではなく、神の選びにより開かれた耳への呼びかけです。 人は自力でこの言葉を理解し従うことはできません。聖霊によって耳と心が開かれる時にのみ、キリストの厳しい要求が恵みとして受け入れられます。 神学的まとめ 「すべてを捨てる」は救いの条件ではなく、結合から流れ出る従順の実。 「塩気のない塩」は、外面的信仰や表面的福音主義の虚しさ。 最後の呼びかけは、選びと聖霊の働きを前提にした、福音の真の聞き方。 この箇所は、「代償を量る」ことの厳しさと、それでも従えるのは神の恵みゆえという福音の逆説を教えています。 8. まとめ 整理すると、こうです。 イエスさまの「代償を量りなさい」とは、人間には無理だと悟らせる問いかけ。 本当の信仰とは「自分をあきらめてキリストに頼ること」。 神が聖書と聖霊を通してキリストの栄光を示してくださるとき、心は変わる。(パウロの回心) そして 結合 → 再生 → 悔い改めと信仰 → 義認 → 聖化 の流れの中で、弟子として従う歩みが実現する。 イエスさまは「あなたのすべてを捨てなさい」と言われます。でも、それは自分の努力ではできません。 だからこそ、神が御言葉でキリストの栄光を見せ、聖霊が心を変え、「無理だったこと」を「従いたい心」へと変えてくださるのです。 「代償を量りなさい」という命令は、私たちを落ち込ませるためではなく、 キリストの恵みに満ちた招きへ導く真実の問いかけ なのです。 <このみことばが私たちの中で真実となりますように> ガラテヤ2:19-20 19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
- 交わりについての学び
2025.9.24 The Word for you 交わりについての学び 私たちが共に持つ礼拝後の交わりについて学びたいと思います。礼拝後の交わりを休憩やお茶菓子タイムと思っている理解の浅いクリスチャンは多くいます。多くの教会ではお茶菓子タイム、お食事タイムなどありますが、それを礼拝と理解している人々はいません。 礼拝後の交わりは単なる休憩や慰めの時間ではありません。礼拝の一部なのです。これは、神が御自身の民を建て上げるために与えてくださった聖なる恵みの手段です。したがって、交わりをどう理解し、どう実践するかは、神の御前でとても重要です。 1. 雑談とお茶菓子の正しい位置 お茶や軽食そのものは罪ではなく、神の賜物です(Ⅰテモテ4:4「神が造られたものはすべて良い」)。感謝をもって神にささげるなら、それは交わりを助け、神に栄光を帰すものとなります。 しかし、お茶や菓子、あるいは雑談が交わりの中心や目的となり、御言葉や祈りが二次的になるなら、それは神の秩序を歪めます。雑談が御言葉に従属しないなら、それは交わりではなく、ただの社交や雑談にしか過ぎません。 聖書はこう教えます。 「そして彼らは、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42) 交わり、パン裂きの中心は御言葉と祈りであり、そこから外れればすでに本質を失っているのです。 交わり礼拝後の交わり、また、パン裂きは聖餐式と実際の食事を意味します。使徒の時代、家々では聖餐式と食事が同時に行われていました。信仰者たちが一緒に神の御前でする食事も礼拝の一部であることがわかります。 2. 御言葉を教えあう心 みことばについて核心的な信仰の質問が出て、牧師が御言葉をもって答えるとき、それは神がくださる恵みの時です。 その信仰者の質問と牧師の回答はその2人だけの恵みではなく、そこにいる人々もそこから学び、証をシェアし教会の建ち上げとなります。 聖書はこう警告します。 「肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。従うこともできないのです。」(ローマ8:7) 選ばれた者はこの世で試練に会いますが、神は御言葉を通してその試練を恵みに変え、私たちを清められます。御言葉を重んじる心こそ、信仰を最後まで保たせてくださる神の力に結びつくのです。 3. 励ましの本当の源 「交わりを通して課題や励ましを見つける」という言葉は美しく聞こえます。しかし、それが御言葉を妨げ、避ける方向に働くなら、それは神の意図された交わりではなく、人間中心の慰めに過ぎません。 真の励ましは人間の言葉ではなく、神の義に根ざしています。 「彼らは神の義を知らず、自分の義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」(ローマ10:3) 御言葉に立つ者は、弱さの中にあっても神が必ず守り導いてくださり、最後まで信仰にとどまらせてくださいます。これが永遠の救いの確かさです。 4. 「リラックスできる場所が必要だ」という意見について 霊的に成熟していない信仰者は、「交わりは休憩時間だからもっとリラックスした日常的な分かち合いの場が必要だ」と良く言います。 けれども、それはしばしば御言葉から目をそらしてしまう言い訳となってしまいます。救われて間のない信仰者間ではほとんどの場合、みことばを中心とした交わりの自制が出来ずに雑談に終わってしまいます。 ジョン・マッカーサー 「The Necessity of Christian Fellowship, Part 1」より 神は御言葉を通して民を建て上げられます。そこから離れることは、本当の慰めを避けてしまうことになります。 リラックス自体は悪いことではありません。しかし、それを理由に御言葉を二次的に扱うなら、それは「自由」ではなく、肉による「自由の乱用」になってしまうのです。 改革神学が教える信徒の自由とは、「神に喜ばれることを自発的に行う自由」であって、「神の秩序を無視して好き勝手にする罪に対する自由」ではありません。 R.C.スプロールの言葉を借りれば、「自由は常に神の聖さのもとに制限される」のです。 5. 御言葉の秩序を回復する 交わりは、神が教会に与えられた聖化の手段(means of grace)です。雑談が御言葉へ導く「橋」となるなら、それも用いられるでしょう。しかし御言葉を妨げる雑談は、肉的な交わりに転じてしまいます。 神は選ばれた者を御言葉を通して日々清め、試練を通して訓練し、最後まで信仰に立たせてくださいます。そこには確かに痛みも伴いますが、やがて永遠の救いと栄光へと至る希望があります。 パウロの交わり理解(コロサイ3:16) パウロは交わりの自由の本質を次のように示しています。 「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:16) ここでの交わりの自由の特徴は: 御言葉が豊かに宿ることが中心。 互いに教え、忠告し合うことによって建て上げられる。 賛美と感謝をもって神に向かう礼拝の延長である。 したがって、雑談や「リラックスの名目」で御言葉や祈りの自由が脇に追いやられる交わりは、パウロの示す本質から外れてしまいます。 まとめ 愛する兄弟姉妹、神は私たちをただ慰め合うためではなく、御言葉に根ざした交わりへと召してくださいました。 選ばれた者は試練の中で御言葉を学び、恵みによって清められ、ついには栄光に至ります。これは私たちの力ではなく、神が最後まで守り導いてくださる約束です。 どうか、お茶や菓子、雑談の中にも必ず御言葉を中心に据え、礼拝の延長として主に受け入れられる交わりを築きながら、永遠の救いを見据えて共に歩んでいきましょう。
- 「結合と人の子」 ― 天が開かれ、人と神がつながる
2025.9.21 礼拝メッセージ「結合と人の子」 ― 天が開かれ、人と神がつながる ― 1.はじめに:「結合」ってなんですか? 「結合」とは、神さまが聖霊によって私たちをイエスさまとつないでくださることです。 それは、神さまの力(主権)によって、聖霊なる神を通して行われます。 この結合は、信じる人の心や考え、感情、体、生活、人生のすべてに関わります。 2.結合は神さまの約束です 神さまは、聖書の中でこう約束しておられます: • エゼキエル36:26 「わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える」 • ヨエル2:28 「わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ」 • ヨハネ14:16–17 「父なる神は、助け主(=聖霊)をあなたがたにお与えになる」 • 使徒1:4–5 「あなたがたは間もなく、※聖霊によってバプテスマを受ける」 ※バプテスマの神学的意味:キリストの中に浸される=キリストと1つとなる これらのことは、神さまが選んだ人にだけ与えてくださるのです。 3. イエスさまは「神」であり「人の子」 イエスさまは、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある(I AM)」と言われました(ヨハネ8:58)。 これは、「わたしは永遠の神である」という意味です。(出エジプト3:14)イエスさまは「わたしはある(I AM)」と語られた永遠の神であり、同時に「父の独り子(神の子)」として来られました。 「神の子」とは、父と一つであり、永遠に父と御霊とともにおられる方、という意味です(ヨハネ1:14,18)。神の子としてのイエスさまは、父なる神を完全に現し、神の栄光をあらわす方です(ヘブル1:3)。 「人の子」とは、イエスさまがご自分を紹介するときによく使った名前です。 聖書では80回以上使われています。「人の子」とは、神と人の間をつなぐために来られた救い主という意味です。 「人の子」は人間性を強調する表現、同時にイエスさまは「神の子」としての完全な神性を持っておられることを忘れてはいけません。 もしイエスさまが「人の子」でなければ、人間として私たちを代表し、私たちの罪を背負うことはできません。もしイエスさまが「神の子」でなければ、罪のない完全な贖いを成し遂げることはできません。 「イエスさまは『神の子』としての完全な神であり、同時に『人の子』としての完全な人である その二つが一つに結ばれているからこそ、私たちの救いは確かなのです。」 4.なぜ「人の子」との結合が大切なのか? 人間は皆、芯まで腐り切った罪人で、自分では神さまに近づくことができません(ローマ3:23)。 でも、「人の子」であるイエスさまは私たちと違い罪はなく、完全な義を生きられましたが、人間の体を持ち、私たちと同じように苦しみ、死に、よみがえられた方です。 だから神さまは選ばれた者を、この「人の子イエスキリスト」に**結びつける(結合させる)**ことによって、選ばれた人に神の子であるイエスさまの義といのちを与え、神の子の身分、特権を与えることができるのです。 1)聖書に出てくるヤコブのはしごは「結合の絵図」 ヨハネ1:51 「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見る」 このことばは、「人の子」が神と人の間の“はしご”のような存在であることを表しています。 このように考えるとわかりやすいです: 三位一体の神さまの働き どのような方 お名前 どんな働き? 計画する方 父なる神 あなたを選び、救いを決められる つなぐ方 イエスさま(人の子) あなたの罪をゆるし、神とつなぐはしごになってくださる 実行する方 聖霊なる神 あなたの心に神さまのいのちを与えてくださる 5. 「人の子」の特別な役割 イエスさまは「人の子」として、地上で神の権威をもって行動されました。 •罪をゆるす •病気をいやす •安息日の主 また、イエスさまは「人の子」として、苦しみを受けて、十字架で死なれました。 その死によって、神の右の座、主権に王座につかれたのです。 6. 「神の子」としての特別な役割 イエスさまは「神の子」として、父なる神の愛をはっきりと示してくださったのです。 (ヨハネ1:18) 。 そして、私たちを罪から救い出すために、神の義を満たす犠牲となられました (ローマ8:3–4) 。 さらに、死に勝利してよみがえり、信じる者に永遠のいのちを与えられるのです (ヨハネ11:25–26) 。 7.これから来られる「人の子」 聖書は、イエスさまが**「人の子」としてもう一度来られる**と約束しています。 マタイ24:30 「人の子が雲に乗って来る」 黙示録19章 「白馬に乗って、勝利の王として来られる」 この再臨のとき、「人の子」と結ばれている者は、その栄光にともに入れられます。 結合は今の人生だけでなく、永遠の御国で完成し、そこでキリストと同じ栄光の姿に変えられるのです。 Ⅰコリント15:49 「私たちは土で造られた者のかたちを着たように、天に属する方のかたちをも着るのです。」 Ⅰヨハネ3:2 「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるのかはまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れるとき、私たちはキリストに似た者となることが分かっています。なぜなら、そのときキリストをありのままに見るからです。」 「栄化とは、選ばれた人々が再臨のときにキリストの栄光の姿を直接見ることにより、完全に罪から解放され、キリストに似た者とされることである」 • これは神の主権的選びのゴールであり、 • キリストとの結合の完成形であり、 • Ⅰヨハネ3:2の預言の成就であるとスプロールは語ります。 8. 結び:私たちは「I AM」と結ばれている イエスさまは「わたしはある(I AM)」―― つまり、永遠の神ご自身です。 私たちが結ばれている方は、ただの先生や有名人ではなく、 宇宙をつくられた神ご自身です。 だから、私たちの救いは変わることがありません。 神が結んでくださったこのつながりは聖霊によって与えられ、絶対に切れることはありません。 9.結合=新しい人として生きること(再創造) 聖書には、こう書かれています。 ガラテヤ6:15 「大切なのは、新しくつくられること(新しい創造)です」 神さまは、あなたをイエスさまに結びつけることで、新しくつくりかえてくださるのです。 それは コロサイ3:9–10 「あなたがたは古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨て、新しい人を着たのです。この新しい人は、造り主のかたちにしたがって新しくされ、ますます真の知識に至ります。」 エペソ4:22–24 「以前の生活については、欺きによって滅びに至る古い人を脱ぎ捨て、心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造られた新しい人を身に着けるのです。」 そしてこの再創造は、一度で終わるのではありません。 Ⅱコリント4:16 「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新しくされています。」 ローマ8:13 「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」 さらに聖書はこうも言います。 ローマ8:29 「神はあらかじめ知っておられる者たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。」 「結合は『御霊によって罪の性質に支配された古い自分から解放され、日々新しくされながら、最終的にキリストの似姿へ変えられていく歩み』を意味します (ローマ8:29) 。 そして、その歩みは、神があらかじめ備えてくださった良い行いに歩むことでもあります (エペソ2:10) 。 「この結合は、神が永遠において選んでくださった結合であり、時間の中では信仰と悔い改めを通して現れます」 そして再臨のとき、私たちはついにキリストの栄光の似姿に変えられるのです (Ⅰコリント15:49、Ⅰヨハネ3:2) 。その完成は、キリストをありのままに見ることによって起こるのです。」 すべては神さまのあわれみと恵みによって行われるのです。 10.最後に 1.イエスさまは「I AM」=まことに永遠の神であり、また、まことに人の子です。 2.イエスさまは「人の子」として来られ、私たちを代表し、神と人をつなぐはしごです。 3.私たちの救いはイエスさまの「神の子」としての神性と、「人の子」としての人性、その両方に基づいています。 4.神の選びと結合は、神により、選ばれた者はイエスさまに結ばれているので決して揺らぐことはありません。 「あなたは『人の子イエス』と結ばれることによって、永遠の神であるキリストのいのちにあずかり、生きる者とされた」 「誰がこのような救いを思いつくことができるでしょうか?人間には到底できません。 自由意思でたどり着けるはずがありません。これはただ、神の選びと恵みの御業なのです。」 ですから、この神の結合と選びについてパウロは ローマ11:33 でこう言います。 "ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。 "「すべてのことは神から発し、神によって成り、神に至るのです。どうかこの神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」 (ローマ11:36) 「救いは最初から最後まで神さまがしてくださることです。結合による選びから、永遠の御国に入るその日まで、すべては神さまの力と計画によるのです。」 みことばのみ、信仰のみ、恵のみ、キリストのみ、神の栄光のみ。
- 十字架の御業と本当の救い
十字架の御業と本当の救い 2025.9.17 The Word for you 「十字架の御業」、また「あがない」は救いにおける中心教義です。 これをわかっていないということは、その人は救われていないのか? ここについて少し話したいと思います。 救いというのは、どのように私たちに来るのか? 聖書をしっかりと見つめて考えていくと、聖書はこのように言っています。 救いにおける一番重要な部分、それは「選び」です。 そして選びに基づいて何が行われているかというと、イエス・キリストとの結合の中において選びが行われているのです。 この選びの現れは、神の御指によって行われています。 決して私たちの意思によるものではありません。 また、決して私たちの知識によるものでもないということを理解する必要があります。 取税人が救われたときのことです(ルカによる福音書18章)。 パリサイ人は胸を張って「自分は正しい」と祈りました。 彼はユダヤ教の知識に長けており、立法をしっかり守っているという自負がありました。 しかし取税人は立法も知らず、日々悪いことをしていました。 それでも彼は神の憐れみにより、このように祈りました。胸を打ち叩きながら―― 「神様、こんな罪人の私はあわれんでください。私は全くダメです。神様、助けてください。」 この心は、神がこの取税人に与えた心です。 聖書はこれを「悔い改め」、そして「信仰」と呼びます。 それ以外に何もありません。 この悔い改めと信仰は、十字架のキリストと結合しているのです。 日本の有名な牧師(私は全く尊敬しませんが、多くの人が尊敬している人)がいます。 彼はディスペンセーション主義に立ち、「字義通りに聖書を解釈する」と宣伝してネットで発信しています。 その牧師が「三分聖書」というシリーズの中で、取税人の祈りについて次のようなやり取りをしていました。 ある視聴者がこう質問したのです。 「なぜ取税人の祈りは、十字架の死・葬り・復活を信じていないのに、この人は救われたのですか?」 彼は答えました。 「旧約の時代の救いと新約の時代の救いは違うのです。旧約の人々はイエスの十字架の死と復活を知りませんでした。だから『私は罪人です。助けてください、神様。』と言うだけで救われたのです。しかし新約の時代には、歴史的な事実が明かされました。ですから皆さんが十字架の死と復活を事実として認めれば、救われるのです。 これは一見もっともらしいですが、イエス様が語られたことと違うのです。 この牧師の言っていることは、「歴史的知識を事実として認めれば救われる」というものです。 これはパリサイ人と同じです。 「私は聖書をよく知っている。献金も十分の一している。私はこれをしている。」――これは行いです。 しかし、取税人の祈りは違います。 「私はダメです。神様、助けてください。」 これこそが聖書のいう信仰、悔い改めと信仰なのです。 この有名牧師の言葉には「悔い改め」がありません。 「新しく生まれさせる神の御業」もありません。 「神の選び」もありません。 「神の主権」もありません。 ただ「自分で決断すれば救われる」と言っているのです。 つまり「十字架+行い」を語っているのです。 私は昨日、泣いていた一人の男を見ました。 彼は「私はこれがよくわからない」と言って泣いていた。 しかし私は彼に言いたいのです。 「あなたの涙は、十字架の強盗、また取税人の涙と何一つ変わらない。 あなたはわからないかもしれないけれど、あなたの心は十字架のキリストに結びついている。 それがあなたの救いの証なのです。」 「私は全くダメだ」という心。 「どうか助けてください」という心。 そこからあふれる涙は、キリストとの結合のしるしです。 それは、時の始まる前に神があなたを選び、新しく生まれさせてくださった結果なのです。 すなわち、これが悔い改めと信仰です。 そしてそれは十字架の御業にそのまま結合しています。 • 罪の代わりに死んでくださったこと • 神の怒りを鎮めてくださったこと • 神と和解させてくださったこと • 永遠の命を与えてくださったこと これが十字架の御業です。 贖いとは、その御業の中で、神が罪に対して代価を払い、罪の奴隷から買い取ってくださることです。 子どものたとえで言えば―― 子どもが大きな借金をした。 しかしイエス様が全部払ってくださり、完済してくださった。 しかし、もしその子がこう言ったらどうでしょう。 「僕は十字架の御業をよく覚えていないからダメなんじゃないか。覚えなきゃ。」 また別の子はこう言うかもしれません。 「私は十字架の御業も贖いも全部暗記した。イエス様が死んで、葬られて、三日目によみがえったことを信じます。」 けれども、表面的にただそう言うだけで、心が悔い改めていなければ――それは天と地ほどの差があります。 涙は決して無駄ではありません。 「助けてください」という祈りは、取税人の祈りと同じです。 では祈ります。 愛する天のお父様。 私たちが絶えずあなたの十字架とあなたの命によって結ばれていること、選びと再生によって私たちの救いが現実に心に来ることを感謝します。 「私は何もできない罪人です。御言葉も覚えられません。どうかこんな私を憐れんでください。」 イエス様はこう言いました――「この男が救われている」。 この取税人が救われています。 彼はパリサイ人のように知恵もなく、お金もなく、ただのボンクラでした。 しかしこの男の心はキリストと結びついたのです。
- 新しく生まれる、救い
2025.9.7 新しく生まれる、救い 礼拝メッセージ 1. 救いとは何か? 多くの人は「救い」を「死んだあとに天国に行けること」と考えます。 しかし聖書の救いは、もっと、もっと大きいです。永遠の時の始まる前から、永遠の未来までを貫く神の憐れみと恵みのご計画です。救いとは神の意思により、ある人々を選び、永遠の滅びから救い出すことです。 エペソ1:4-5 「神は世界の基が置かれる前から、私たちをキリストにあって選び…愛をもって御子により子にしようとあらかじめ定められました。」 そして救いは今、現在、生きている中で現実に起こります。その救いのすべては神の憐れみといつくしみによる、神があなたに送られた贈り物です。 •あなたを罪の奴隷状態から解放する(ローマ6:18)。 •神との新しい関係に生きる(Ⅱコリント5:17)。 •神の子として造り変えられる(エペソ2:10)。 「しかし、あなたの救いは、永遠の時の始まる前に、キリストにあって、神によってキリストに結び合わされ、そして神が人々を選びました。それは永遠の選びです。そして私たち時の中で神が実際にあなたをキリストに結合させます。 その瞬間から私たちの時の流れの中での救いが始まります。神の救いを理解することはできません。ただ、神の救いはとても深く、人にはとても計りえないのです。」 それはただ憐れみといつくしみに満ちています。 2. 人は生まれつき罪人 聖書ははっきり語ります。私たちはみな、生まれながら神から離れています。人はみな、罪人であり、自分から神を探したり、神を選んだりすることはできません。 ローマ3:11には「義人はいない。正しい者は一人もいない」「神を求める者はいない」と書かれています。つまり、私たちには「神を愛し、信じる力」がないのです。 「もし神がこの私たちの考え方を変えてくださらなければ、誰も自分が芯まで腐っている罪人であると認めて、神に助けを求めません。」 3. 完全な堕落 この状態を「完全な堕落」と呼びます。これは「人が常にとても悪い行動しかしない」という意味ではありません。 それは頭・心・意志のすべてが罪に汚されているため、 • 頭(考え) は神を正しく理解できず(ローマ1:21) • 心(思い) は光よりも闇を愛し(ヨハネ3:19) • 意志(選ぶ力) は神に従うことができません(ローマ8:7) だから人は自分の力では神を選択したいと思わず、正しいことを行うことができません。滅び行く人々は自分は芯まで腐っていないと主張し、自分には少しでも良いところがあると言います。 ですから、罪人が自分の醜さを認め、神に助けを求めることは100%神の恵みでしかありません。 4. ニコデモという人に語られた「新しく生まれる」 ヨハネ3章で、ユダヤの国会の指導者ニコデモが夜にイエスを隠れて訪ね聞きました。どうしたら神の国に入ることが出来ますか? イエスは彼にこう言われました。 「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができない。」(ヨハネ3:3) イエスの回答は「新しく生まれる」とは人間の努力、地位、財産では無理、聖霊によって心が造り変えられることだと。 ニコデモはイエスが言ったことを受け入れることができません。彼はユダヤ人の中のエリートでユダヤ教という宗教を誰よりも極めていました。今まで自分が築いてきた地位、学問を捨ててどうしろというのかという抵抗感でいっぱいです。 ニコデモは「大人がもう一度母の胎に戻れるのですか?」と聞き返しました。 それはニコデモの「無理」という回答でした。 イエスはさらにこう言われました。 「新しく生まれる」とは人間の努力、地位、財産では無理、聖霊によって心が造り変えられることだと。人間には無理、神にしか出来ないと言いました。 5. 十字架の御業との結合 十字架にすべての赦しの秘密がある •神がまず、私たちをキリストに結び合わせてくださる(結合)。 •その結合の結果として、私たちは新しく生まれる。 •そして信仰と悔い改めが心のとても深いところから湧き出します。 「信仰と悔い改め」とは何か?それはとてもシンプルです。 1.自分が芯まで腐り果てており、絶望しかなく、 2.神にただ助けてくださいと願う思いです 3.それが信仰であり、悔い改め キリストについて語られるときに、神はキリストとあなたの魂を結び合わせます。 •ローマ6:3–5 「私たちはバプテスマによってキリストと結び合わされ、その死にあずかったのです。…もし私たちがキリストと一体となって死に似たものとされているなら、復活にもあずかるのです。」 •ガラテヤ2:20 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」 •コリント第一6:17 「しかし、主と交わる者は主と一つの霊です。」 •エペソ2:5–6 「罪の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、…キリスト・イエスにおいてともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました。」 •エペソ5:31–32 「二人は一体となる。この奥義は偉大です。私はキリストと教会について言っているのです。」 この結合により、信仰者は十字架の上のキリストと魂の結合によって死に、そして、キリストとともによみがえることを自分のものとします。 それは、その人がこのことを認識すること、理解しているかどうかではありません。 ただ、神だけがあなたをキリストに結びつけることができます。 その結果、あなたは信仰と悔い改めが起こります。 繰り返しいいます。その信仰、悔い改めはとてもシンプルです。 とても心の深いところから湧き出してきます。 ルカ18:13 「一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』」 この「信仰、悔い改め」はその人の魂が神によりキリストに結び合わされていることを示します。この人は2000年前に十字架の上のキリストと一体となっており、キリストと共に死んだのです。神がそのことを行ったのです。 この人はキリストのみことばを通して、自分に起こったことをのちに理解していきます。 キリストの十字架は単なる象徴ではありません。キリストとの結合により、キリストに結合された人の魂は十字架のキリストとともに死んだと言うと言う歴史的な現実と一体となります。 十字架の死 死んだ人は2度と裁かれることはありません。神はキリストの身代わりの死によって私たちが受けるべき罰を受けてくださり、キリストとの結合は私たちの罪をその主の命を代償にしてすべて許されたのです。 6. 救いは生き方を変える(動機の転換) 救いとは「気分がよくなること」でも「努力して良い人になること」でもありません。この福音により人は罪が赦され、平安と喜びを得るとき、心の動機が変わり、生き方全体が変えられます。 1) たとえ話、学校 ある生徒がいました。いつも先生の目を盗んでカンニングしたり、友だちをからかったり、自分のことしか考えていませんでした。 しかしある日、福音を聞きました。 その時、心の底から自分が芯まで腐り、どうしようもないと神に助けを懇願しました。彼の心は深く、深く、神のあわれみといつくしみの深さにこころ打たれました。 「イエス・キリストは私の罪のために十字架で死に、よみがえられた。こんな私で良いですか?私は赦され、神に受け入れられ、永遠の御国が約束された。私は受ける資格はありません!」 それから、彼は聖書を貪るように読み、教会に来てキリストとの結合、すべてが神の贈り物であることを学びました。 赦されたこと、平安、憐れみを受けた感謝、そして永遠の御国の保証から来る喜びが胸を満たしました。 そして、生き方が変わり出しました。 •正直に答えるのは、赦された者として神の前に立ちたいから。 •弱い友だちを守るのは、憐れみを受けた自分が憐れみを示したいから。 •「自分のため」でなく、永遠の御国を見据えて神に喜ばれるために行動するようになったのです。 これは努力の結果ではなく、神から与えられた新しい心でした。 2) たとえ話、家庭 ある家庭に、父を批判し、母を批判して、さみしさと不満に満ちている子がいました。 しかしある日、福音を聞きました。 その時、心の底から自分が芯まで腐り、どうしようもないと神に助けを懇願しました。彼の心は深く、深く、神のあわれみといつくしみの深さにこころ打たれました。 「イエス・キリストは私の罪のために十字架で死に、よみがえられた。こんな私で良いですか?私は赦され、神に受け入れられ、永遠の御国が約束された。私は受ける資格はありません!」 赦されたこと、平安、憐れみを受けた感謝、そして永遠の御国の保証から来る喜びが胸を満たしました。 それから、彼は聖書を貪るように読み、教会に来てキリストとの結合、すべてが神の贈り物であることを学びました。 だから態度が変わりました。 •不満と悲しみの子が、感謝に動かされて仕える子に。 •反抗していた子が、平安のうちに父、母を許し、正しいことを実行する子に。 救いは死んだあと天国に行くことだけじゃない。今、生きているこの時から始まっています。 神は赦しと憐れみをその子に与えました。それは選びの喜びと永遠の平安に生かされることです。 7. 問い:「人は信じるから新しく生まれるのか?それとも新しく生まれるから信じるのか?」 答え:聖書は明確に語ります。 神が先に結合を与える → そこから新しく生まれる → その結果として信じる。 もし人間の信仰が先なら、救いは人間の弱い意志にかかってしまいます。 しかし神が先に命を与えるなら、救いの土台は人間ではなく神にあるのです。神が行う救いは確かで揺らぐことがありません。神の意思で行われることは神の約束であり、神は必ず守ります。 8. 神の救いは確かで永遠 •新しく生まれるのは神のわざであり、人ではなく神が始められる。 •神が始めた救いは必ず完成される。 •神の力は永遠に続くので、救いも永遠に確かである。 パウロはこう語ります。 「もし誰かがキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、新しいものが来ました。」(Ⅱコリント5:17) 救いの確信は、自分の感情や努力ではなく、キリストが自分の魂と一体であるという不動の土台に置かれています。神が造り出す、新しく創造なのです。 まとめ •人は生まれながらに罪人であり、完全に堕落している。 •神が人をキリストに結びつけ、新しく生まれ、信仰、悔い改めが生じる。 •救いはあなたの動機を変え、生き方を根本から少しずつ変える。 •神が始めた救いは永遠に失われない。 それは十字架の上でキリストとあなたが一つとなり、キリストとあなたが罪に死んだからです。 3日間キリストは葬られ、3日後によみがえりました。あなたはよみがえりのキリストと共に共によみがえりました。 ローマ6:10-11 「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」 ローマ8:1 「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
- 神との結合10 律法、罪からの解放
神との結合10-1 律法、罪からの解放 2025.8.5 キリストとも結合が私たちをどのように罪と律法から解放しているのか ローマ書から学ぶ ローマ人への手紙 7章1~2節 "1それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですか──私は律法を知っている人たちに話しています──律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです。 2結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。" 【1】ローマ7:1–3におけるパウロの意図:「死=効力の消失」 パウロはまず「律法が人を支配するのはその人が生きている間だけだ」と述べ(7:1)、次に日常的・法的に知られた例――結婚関係を用います: 「夫が生きている間は、女は律法によって夫に結ばれている。しかし夫が死ねば、女は夫に対する律法から解かれる」(7:2) この文脈での「夫の死」は、夫という人物の消滅そのものよりも、女に対する夫の支配(法的拘束力)の終了=効力が消滅したことを意味しています。 • 死とは、支配の終わりであり、律法の効力が対象者に対して無効化されることを象徴します。 • これは「死が全ての関係を断ち切る」という神が定めて永遠にに変わることのない原則です。 【2】7:4 信者はキリストとの結合によって律法に対して死んだ ここでパウロはこの比喩から信仰者と律法との霊的現実へと話しを切り替えて行きます。: ローマ7:4 "ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。" この文脈でのポイントは: • 律法が死んだのではなく、信仰者が律法に対して死んだ。 • それはキリストに結合された、そして十字架と復活にあずかることによって起こった。 •この死は、律法が信者に対してもはや支配・効力を持たないという意味で、「律法の支配の終り」を表します。 しかし、その終わりはすべての人々にとっての終わりではなく、キリストに結ばれた者に与えられた終わりであり、永遠の分離です。 【3】まとめ:7:1–3の原則が、信者に起こった霊的現実の意味 • 原則(7:1–3):死は律法の支配を終わらせる。 • 適用(7:4):キリストとの結合によって、信者は律法に対して死に、律法の効力は無効となった。 ゆえに―― 「パウロは7:1–3で“死=律法の支配の無力化”の原則を説明して、その原則を、キリストとの結合により信仰者に起こった現実にあてはめて説明した」 ・この理解は極めて的確な文脈的、神学的であり、 表面的な知識だけでなく、本質を見抜いた理解 です。 まとめ ローマ7章においてパウロはまず、律法が人を支配するのはその人が生きている間だけであるという律法の原則を話した。 その上で、夫の死によって妻が律法の拘束から解かれるという例を示す。ここでの「死」は、夫の妻に対する支配権の消滅を意味した。 それは律法がキリストに結合されている者に対して支配的な力を失ったと説明しています。 続いてパウロは、この原則をキリストと結合している者にあてはめて話した。 すなわち、真の信仰者はキリストとの結合によってキリストと共に十字架で死んでいる。キリストはまことに人であり、真の信仰者はこのキリストとともに律法に対して死んだ。罪に対して死んだ。自己に対して死んだ、この世に対して死んだ。キリストとの結合は信仰者をキリストとともに死につけた。 ゆえに律法はもはや信仰者を支配することは出来ない、信仰者は神である復活された永遠の神、キリストに結ばれており、実を結ぶ者とされた。律法の効力は信仰者に対して無効となり、その人はもはや律法の下にいない。裁かれることはない。罪の支配的な力を無力にしました。 罪も自己もこの世もはや信仰者を支配する効力を失った。しかし、それらが消えてなくなることではない。 "「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。" コリント人への手紙 第一 15章55~57節 ここで言う死とは原罪、罪の性質のことを指します。 それらは今まではあなたにとって主人であったがもはや主人ではない。あなたはキリストに贖われ、神のものとされた。あなたの主はキリストです。







