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聖霊の力とキリストの証人 その3

  • 7月4日
  • 読了時間: 22分

 先週、キリストの証人について話しました。使徒の働き1章8節です。御霊に満たされることについて学びました。御霊に満たされるとは、私たちの生活において、神がご自身の民である人々を試練の中に置かれるということです。

 

 そして、試練の中を通して、その人のうちにある神に属さないものを打ち砕く。そのように神は働かれます。そして、その働きによって、信仰者は自分自身ではなく、キリストに望みを置く者へと変えられていきます。その結果として、その信仰者のうちには、キリストの御業を褒めたたえる証が現れてきます。キリストの十字架、復活、主権、救いを証言していきます。福音を語るとは、聖書の知識を自分で探求して、聖書の教理を語ることではありません。多くの人は福音を話そうとして、自分の知識、自分の力、自分の思い、自分の義によって福音を語ろうとします。

 しかし、それは福音ではありません。福音は、永遠の時の昔に、キリストにあって選ばれた人々に語られるために、神が御子イエス・キリストを通して現されたものです。

 

御霊に満たされる

 

 使徒の働き一章から二章において、御霊に満たされるということを定義するとすれば、それは苦しみが消えることではありません。ある人たちは、御霊に満たされると苦しみが消えるというふうに思います。また、御霊に満たされるということは、痛みが消えることだと思う人たちもいます。

 御霊に満たされると、不安が消えると、そのように勘違いする人たちがいます。御霊に満たされることは、葛藤が消えることではありません。ある人は、自分の罪と御言葉の間で苦しみ、葛藤を覚えます。そして、御霊に満たされるというこの教理を、葛藤が消えることだと思います。

 

 よく間違われるのは、いろいろなところにある教会と言われる場所で、賛美を流し、その歌に酔いしれることです。そして、その時に自分自身を忘れ、その歌のリズムや、断片的な歌詞、繰り返しリピートされる歌詞に酔い、自分の罪や自分の葛藤や自分の痛みを一時的に忘れるという、そのような宗教的な行いがあります。しかし、その人たちは家に帰り、その家に帰った後に、自分の内に痛みと苦しみと葛藤があること、また肉の欲望があることを見ます。そして、それに対して自分たちはなす術がない苦しみと悲しみが、そこに絶えずあることを見ます。そして、「なぜだ。なぜ私にはこれがあるのか。私は満たされていないのか。御霊に満たされていないのか。」と自問自答します。

 

 そして、その人たちは何十年もそういうことを繰り返しながら、死ぬまで御霊に満たされるという教理を理解せずに死んでいきます。ある人は、超自然的な力を受けることだと思います。

またある人は、奇跡を行う力を受けることだと思います。

またある人たちは、勇気を受ける、強くなる、痛みに勝つ、悪霊に勝つ、そのように御霊によって満たされるという教理を教えられ、理解してきました。

 

 しかし、聖書ははっきりと示しています。御霊に満たされることは、痛みの中でしかありません。

御霊に満たされるということは、苦しみの中でしか起こらないのです。御霊に満たされるというのは、悲しみの中、不安の中、葛藤の中、ここにしか御霊に満たされるという神の御業は起きません。それらは決して消えません。痛みはあなたの内に絶えずあります。不安は絶えずあなたの内にあります。そして、自分がいかに無力であるかという思いが絶えずあります。それは正常なクリスチャンの姿です。むしろ聖書は、その苦しみの中に神が信仰者を置くと言っています。なぜなら、神は自分の子らを苦しみの外で育てることはしないからです。

 神は自分の子たちを絶えず苦しみの中で育てます。苦しみの中で訓練し、十字架の下でへりくだらせます。

なぜなら、あなたが強い時には、あなたは決してへりくだらないからです。あなたが自分でできると思っている時には、あなたは決してへりくだらない。あなたに自分が勇気があると思ったら、あなたに力があると思ったら、あなたにお金があると思ったら、あなたに良い行いがあると思ったら、あなたは決して神の前でへりくだらない。むしろ、あなたは神の前でプライドを持ちます。

 

 取税人とパリサイ人の話があります。取税人は神の前で胸をたたいて、「憐れんでください。この罪人を憐れんでください。」と祈りました。取税人は、当時の社会において、とても嫌われた最悪の仕事であり、人からお金を搾取する、盗み取るような、そういう仕事でした。取税人は自分の姿を見て、自分の仕事、自分の人生を見て、「私には何一つ誇れるものがない。むしろ私は罪の中で絶えず苦しんでいる。葛藤している。」そのように知っていました。この主税人は、長く葛藤しているのが見えます。この主税人の心には、正しいことを行いたいができない自分がいるということが表れています。だから取税人は神の前に、「どうかこの罪人を助けてください。」そのように現れています。

 

 もう一人はパリサイ人です。パリサイ人は、自分が律法の先生だと思っています。自分には知識があると思っています。自分には良い行いがあると思っています。

 なぜイエス様はこの例えをしたのか。それは、このパリサイ人の持っている特性が、罪人の特性、肉の性質をよく表すからです。だから、自分で「私には知恵がある」と思わなくても、あなたが知恵を求めていけば、あなたはパリサイ人になります。肉の性質をあなたは甘く見ています。あなたは、どれほど肉の性質が、罪の性質が、あなたの知恵、あなたの力、あなたの思いを超えて、あなたを支配しているか、あなたに影響を与えるか、そのことを理解していないからです。神は、そのような、神に属さない死の性質を、あなたの内に暴露します。そして、その死の性質はあなたを破壊していきます。あなたの内に罪の性質がそのまま現れていき、そこには、この世のあらゆる良くないものが現れてきます。それは罪です。

 

 神は、信仰者、そして未信者、もっと言えば、神に選ばれてキリストと結合している者、そして、選ばれておらずキリストと結合していない者、その両方を同じ場所に置いています。両方を罪の下に閉じ込めています。聖書はこう言っています。すべての人は死の支配の下に置かれ、罪の束縛の中に置かれた、と語っています。

 

 しかし、一方の人たちは滅びに向かいますが、同じ罪の束縛の中に入れられた人たちの中に、あることが起きます。それは、キリストと結ばれるということです。それが時の中に起こります。それは、新しく生まれるということです。このキリストと結ばれた人たちの心には、大きな変革が起こります。それは、新しい心が与えられるということです。心は新たに創造されました。一度きりの神の御業です。この創造は、私たちを大きく変えました。

 

 それは、死の支配からキリストの御支配へ、私たちの位置を移したということです。そして、私たちの聖化が始まっていきます。信仰者の聖化は、そこからスタートします。

 救いとは、単に地獄から天国に行くことではありません。救いとは、この生きている時において、聖く、キリストに似た者へと変えられていくことだと、ローマ書8章29節、30節は語っています。そして、その聖く変えられていく過程について考える時、あなたが時の中で救われた時に、あなたはキリストとどのように結ばれたのですか。あなたは、自分の力で、自分の信仰心で、自分の宗教的な知識によって、キリストと結ばれたのではありません。つまり、あなたは神によって結ばれたのです。神は、時の始まる前から、キリストにあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされました。これは神の御業です。あなたではありません。

 

 ならば、この生きている中で、キリストの御姿に似せられていく、聖くなるというこの御業も、あなたではありません。イエス・キリストです。

 

 では、聖さとは何なのか。多くの宗教家の人たちが聖さを求めます。多くの偽クリスチャンたちは聖さを作ります。しかし、聖さは神のものです。その聖さを人の力で作ることはできません。あなたのうちに聖いものは何一つありません。あるわけがありません。あなたは自分の心を見れば分かります。あなたは神と論争します。「私はこういう良い行いをやったから、私は聖いではないか。」「私はこの日は失敗したけれど、あの日は丸だった。」


 ここに丸×表があります。しかし、今日は丸だった、明日は×だった、そういう丸×表がつくということは、あなたは聖くないということを示しています。

 

 ホーリー、ホーリー、ホーリー。聖なる、聖なる、聖なる主は、永遠に聖い方です。

 

 ここに大きなダイアグラムがあります。三位一体の神の本性は、すべて聖の内にあり、聖の外には何もありません。神は、聖なる、聖なる、聖なる主です。どこまでも、限りなく、完全に聖なる方です。そしてイエス様は言いました。「あなたがたは、父なる神が聖なるように、あなたがたも聖くなければならない。」

 

 三位一体の神のように、私たちは聖くなければならない。それが神の命令です。聖くなるということです。

ならば、あなたはどのようにして聖くなるのですか。すでに、聖くなる方法がありません。聖くなる道もありません。私たちのうちでは、聖くなりたいと思っても、その聖ささえ分かりません。

 

 それが本質です。しかし神は、御霊を私たちにくださいました。聖霊をくださいました。この聖霊の働きによって、私たちは今生きている現実の世界の中で、聖くされていきます。聖書は、あらゆるところで、この御霊の働きと聖さについて説明しています。聖書は特に、使徒の働きにおいて、御霊に満たされることと聖さについて、それはキリストの証人について、とてもはっきりと何回も語り続けます。すなわち、使徒の働きの中において、御霊に満たされるということは、聖くされるということです。この「御霊に満たされる」を、現代のキリスト教はすでに誤って理解し、誤って伝えています。それは、自分中心、人間中心に聖書を置き換えてしまっているからです。

 

 使徒の働き四章の中で、ペテロが語りました。ペテロは御霊に満たされて、大祭司、またその他の人たちに向かって言いました。ペテロは、聖霊に満たされて、御霊に満たされて、大祭司、その他の律法学者たちに語ったわけです。

 ここの箇所を、神を中心に見ずに理解すると、こうなります。「ペテロはスペシャルな力をもらった。」 そして、「ダビデのように勇敢に戦う力をもらった。」そうすると次にどうなるかと言うと、「天から油注ぎをいただきましょう。」そちらの方へ行ってしまいます。それは何かと言えば、聖霊を神ではなく、天から注がれる力のようなものに置き換えてしまうということです。分かりますか。聖霊は神です。しかし、「聖霊を注いでください」と言った時に、神ではなく、力になっているのが分かります。パワーです。これは聖書が教えていることではありません。

 

 聖書は一貫してこう言います。聖霊に満たされるとは、神の御業である。聖霊に満たされるとは、痛みが消えることではない。痛みは絶えずあり続ける。ペテロが御霊に満たされた。この御霊に満たされた時に何が起こっているか。

 

 その前の節を見ると、よく分かります。ペテロたち、そこにいたキリストの証人たちは、脅されています。

分かりますか。4章21節でこう言います。「そこで彼らは二人をさらに脅した上で釈放した。」彼らは脅されていたのです。29節。「主よ、今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたの御言葉を大胆に語らせてください。」ここをよく見てください。脅かしにあっている。この脅かしは、生命の危機を示しています。単なる脅しではありません。命を取るところまで含んだ脅しです。この時に何と祈っているかと言えば、「彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたの御言葉を大胆に語らせてください。」いいですか。脅しにあっていたら、どう祈りますか。脅しにあっていたら、常識で考えれば、「どうか彼らから私を守ってください。」とか、「彼らを滅ぼしてください。」とか、そちらに行くでしょう。

 

 でも彼らは何と言ったか。「しもべたちにあなたの御言葉を大胆に語らせてください。」むしろ逆です。そうすると、ペテロが御霊に満たされている前提が分かります。ペテロが御霊に満たされたのは、ペテロが命を脅されている状態です。しかも、ペテロは成功した人ではありません。ペテロは多くの失敗を重ねていき、最後はイエス・キリストを、鶏が鳴くところまで裏切りました。最後の最後まで、イエス・キリストを裏切りました。彼はイエス・キリストを裏切ったことをものすごく悔いて、そして自分自身が砕かれています。この砕きの状態の中において、人は初めてキリストの証人とされるのです。キリストの証人というのは、あなたの状態が良くなったから、「今日から私は状態が良くなったので、キリストの証人です。」ということではありません。

 

 聖書の御言葉が分かったから、キリストの証人なのではありません。キリストの証人というのは、あなたが試練の中に置かれて、自分の安全なところがなくなってしまって、あなたの万策がすべて尽きて、あなたの心が不安に満ちて、あなたが痛くて、悲しい。その時に、あなたは初めて、神に心から頼る者とされるということです。それは、あなたの宗教的な心の画策をすべて破壊します。

 

 あなたは宗教的だから、いろいろなことを画策します。神に従順であることも画策します。画策というのは、表では従っているように見えても、心にはないということです。あなたは心の奥底では従っていないのに、表面的な態度において従うふりをします。だから、「試練に合わせないでください。」と言うのです。「ああ、もう試練は嫌だ。」それがあなたの本心です。私ははっきり言います。ここにいるすべての人の本心は、

「試練は嫌だ。」です。試練の意味が分からない。最悪だ。そういう人たちです。

 

 本当に救われているのですか。試練と救いは関係ありません。はっきり言います。私が今、「本当に救われているのですか。」と言ったら、「救われていないかもしれない。」と思った人がいるでしょう。

 

 それは違います。救いは、イエス・キリストを信じる信仰のみによるのです。それが土台です。他にはありません。それは神の御業です。だから、あなたがどれだけ試練に耐える人で、あなたがどれだけ素晴らしい人か、私は知りません。けれども、試練に耐えることによって、あなたには救いはありません辛いから逃げる。

逃げたら、あなたはクリスチャンではないのか。いや、関係ありません。逃げても逃げなくても、あなたにキリストを信じる信仰が与えられ、そしてあなたがこの方に望みを置いた時に、あなたが確かにキリストと結合されていることが現れているのです。だから、信仰があなたのうちに現れている時に、あなたはすでに救われており、信仰によってあなたは救われ、それによってあなたの義はキリストであると、神は宣言しています。

 

 信仰義認はそれだけです。だから、あなたが試練から逃げたとしても、救いの根拠は変わりません。

すごくないですか。次に、なぜ試練があなたのところに来るのか。「なんで私にこんな試練が来るんだ。」 どうせ、みんな思うでしょう。「なんで私ばかり、次から次へとこの試練が来るんだ。」 まあ、私のことなんですけどね。次から次へと来る。でも、それには理由があります。


 理由は、神が私を愛しているからです。神があなたをご自分の子として愛しているからです。愛しているから、何をしますか。良いものをくださいますよね。しかし、あなたにとって良いものは、肉にとっては害があります。肉によってあなたが欲しがるもの。外面的なキリスト教を欲しがる人は、「聖霊の熱い火を私にください。」と言います。「奇跡を起こしてください。」と言います。「病気を癒してください。」と言います。しかし、これらはあなたにとって益になりません。なぜなら、あなたのうちにキリストが形作られないからです。神があなたに益として与えるものは、あなたをキリストの形に造り変えていくものです。そして、その働きは神の力によって行われ、神の御業として行われ、あなたが死ぬまでずっと続きます。なので、あなたはもう逃げられません。

 

 「やめた。」と言っても、追いかけてきます。「もう私はいいです。」 と言っても、神は追いかけてきます。

こんな宗教がありますか。神が、「やめた。」と言った人を追いかけ続けるのです。逃げられない。生ける神から逃げられるわけがありません。それは、慈しみと恵みです。愛する子を守る神の働きなのです。


 だから、問題を起こした者がいますよね。今、ちょっとちらっと見えたから言いますが、この人も、だめに見えるのです。だけど、神は追いかける。何かとんでもないことをした人も、私は聞いたのですけれども、後ろの方にいる黒い服を着た人も、人間の目線から言ったら、「だめだな。」と思うのです。だけど、神は追いかけてくるのです。決して見捨てることはありません。✖がどれだけつこうが、神は追いかけてくる。そして、決して見捨てない。このように、神の慈しみと恵みは、絶えず私たちを追ってきます。しかし、私たちは今日、しっかりと理解する必要があります。

 

 キリストの証人である使徒たちは、ペンテコステ以降、猛烈な迫害と猛烈な批判と猛烈な死を、彼らは味わっていきます。

 

 痛みはどこから来るのか。心の中に痛みがある人がいるでしょう。不安がある人がいるでしょう。葛藤があるでしょう。「どうなってしまうのだろう。」 通常、テレビドラマなら、 「どうなってしまうのだろう。」

と言ったら、「続く」になります。でも、あなたの人生は「続く」で終わらないですよね。絶えず、絶えず、それが目の前にあります。しかし、痛みはなくならない。「私は聖霊に満たされていないのか。」 いや、関係ありません。

 

 聖書は言います。聖霊に満たされていたら、痛みを感じなくなるのか。感じます。パウロははっきり言っています。「痛い。取り除いてください。」あれは肉体的な痛みだけではありません。肉体的な痛みもあったかもしれませんが、精神的な痛みもありました。取り除いてほしい。両方ともありました。

 

 そして私たちは、こう学びます。痛みは決してなくならない。苦しみもなくならない。いいですか。困難もなくならない。試練もなくならない。すべてそのままあります。違いは何ですか。キリストがおられるか、おられないかです。キリストを持たない人たちは、その中で絶望して、命を絶つ。絶望して、自分だけの世界に入っていく。絶望して、線路の上に立つ人もいる。それが、キリストを持たない人たちです。

 

 キリストを持つ人たちは違います。キリストを持つ人たちは、その苦しみの中で、神が与える志に従って歩いていきます。そして、キリストだけが自分の望みであることを知ります。その中で、神はその人たちに御言葉を通して語られます。

 この違いを、ローマ書でパウロはこう言っています。キリストの御霊を持つ人は、キリストのものです。キリストの御霊を持たない者は、キリストのものではありません。はっきり言っています。パウロは同じところでこう言います。肉によって歩けば、あなたがたは死ぬのです。御霊によって歩くあなたがたは、生きます。

 分かりますか。すべてつながっています。私たちの救いは、キリストの十字架の御業によって完全に完成しました。十字架につけられたキリストが言われたでしょう。「すべて完了した。」この「完了した」というのは、あなたの救いは100パーセント保証されたということを言っています。そして、あなたは信仰によって義とされています。行いによるのではありません。はっきりと言っています。しかし、この救いは必ず行いに現れてきます。ヤコブとパウロは、同じことを違う角度で言っているだけです。何も矛盾していません。

 なので、私たちは今、キリストに似た者として変えられていく過程にあるということです。

御霊によって変えられる。

 第二コリント三章にあるように、主の御姿に変えられていく。御霊によって。これは幻想的な、神秘的な変革ではありません。

 

 パウロはここで、コリントの兄弟姉妹たちに、「自分の力では、あなたの堕落した肉には勝てませんよ。」と言っています。コリントの教会では、不品行が頻繁に起こっていました。ある兄弟は、自分の父の妻を自分のものとしていました。そのような不品行、そのようなことが行われていることに対して、パウロはその兄弟を取り除きます。ですが、悔い改めたら戻せと言っています。パウロは、この第二コリントの中で御霊によって変えられることについて話していますが、パウロは超神秘的な変革を言っているのではありません。もっと言えば、神の御業という意味では超自然的です。しかし、人が酔いしれるような神秘体験のことではありません。それは何かと言えば、あなたが試練の中に立たされる。その中において、御霊があなたのうちに神を頼る心を与えられるということです。パウロはガラテヤ人への手紙でこう言っています。

 

ガラテヤ人への手紙6章14節から16節。

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

この基準に従って進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」

 

 私たちの救いには、二つの面があります。一つは信仰義認。もう一つは聖化です。両方とも、全体の救いの構造です。

 しかし、私たちはそれをそのように理解しなければいけません。私たちの救いは、行いによるのではありません。私たちの救いは、信仰によって義とされることです。神が私たちのうちにその信仰を与えてくださる。

それが本当の救いです。そして、義とされる。それは神が十字架に基づいて宣言しています。これが、あなたの救いの土台です。だから、あなたが良い行いをしないから、できなかったからといって、あなたの救いが否定されるわけではありません。ここをしっかり、みんなつかんでください。

 

 でも、もう一つ、聖化も救いです。

その救いというのは、あなたがこの時代において、キリストの御姿に変えられていくことです。それは、あなたがこの世において、神の御心に従って、神が備えた良い業を行っていくということです。それは従順です。

 

 これを、パウロは報いと言います。報いは、あなたが頑張って行うものではありません。あなたが神の御言葉に従う者に変えられていくということです。そして、あなたが本当にしなければならないのは選択です。

その選択というのは、信仰義認の選択ではありません。その選択というのは、あなたがこの時代において、今生きている中において、試練の中を主と共に歩くことを選ぶか、逃げるかの違いです。これだけです。

 

 神はあなたに、私に、何と言われましたか。イエス様はこう言われました。「あなたは自分の十字架を背負って、わたしについて来なさい。」あなたにとっての十字架とは何ですか。だいたい、あなたが嫌なものです。逃げたいものです。あなたの十字架は、あなたが逃げたい、見たくない、関わりたくないものです。まあ、私の十字架もそうなんですけどね。もう見たくない。聞きたくない。来るな。そういうようなものです。それが十字架の特性です。

 

 だから、自分の十字架を背負ってわたしについて来なさいというのは、あなたにとっては辛いことです。働きに行きなさい。「ああ、働くのは嫌だ。」逃げる人もいます。働かずに、自分の年老いた母親に、年金暮らしの母親に生活費を頼る。物価高騰で生活費がどんどん上がっている。母親はもう食べられない。だから自分で朝早くから短いバイトに行って、体は痛い、腰も痛い。それでも行きます。しかし、その母親に乗っかって、その母親が稼いできたもので生きる。自分は何もせず、朝から晩までごろごろしている。しかし神は言います。自分の手で働きなさい。周りの人に負担をかけるな。そして神は、その志を与えます。その人は最初に努力します。行こうとします。

 しかし、そこには何があるか。自分で決心して、自分で頑張って、自分でやろうとします。なので、その人は負けます。安易な道、楽な道に、自分は流されていきます。何が違うのか。それは、神が与えた志があるかどうかです。自分が作った志、「私はこうしよう。」というものは、自分の決心なので、決心主義と言います。

決心主義は、その人に何も力を与えません。決心は三日ぐらいで終わります。「今日からダイエットしよう。」決心主義です。一日で終わったりします。

 

 なぜなら、その決心は自分の肉の心から出てきているものです。しかし、神が与える決心、志は違います。志は絶えずあなたの心の奥にあります。消えません。志は、あなたに絶えず御言葉を通して語ってきます。すなわち、試練から逃げないという志は、あなたを試練から逃げさせません。それは、神が逃げられないように扉を閉じるということです。だから逃げられない。逃げられないところで、今度また二つに分かれます。その御心に従って試練を歩くか。もしくは、騒ぐか、逃げるか。そして神はあなたを逃がさないので、どうなっていくか。必ず御言葉を通して、とどまるように語りかけてきます。そして、あなたの肉が打ち砕かれていく時に、あなたにはキリストだけが最後の望みであるという心が与えられていきます。

 

 そして、この方に従っていく心が、あなたの内に置かれていきます。この新しい創造というのは、このことです。新しい創造というのは、再生の時にあなたの内に与えられた心が、時の中において外に現れることを言います。そして、このことをパウロは、「御霊に満たされなさい。」と言います。御霊に満たされるというのは、神秘的な感覚ではありません。御霊に満たされるというのは、何か天から力が注いでくることでもありません。そんなことは聖書では一つも言いません。御霊によって満たされなさいというのは、試練の中を歩いていきなさいということです。その中において、神の救い、イエス・キリストが現されるということです。

では、お祈りします。

 

天のお父様

 

 私たちの人生において、あなたの救いが、あなたが信仰を私たちの内にくださった時に、信仰によって義とされるということが宣言されたことを感謝します。私たちの救いは、あなたの義のみです。誰も自分の義によって救われる人はいません。

 主よ、あなたの義によって、私たちは正しい者とされています。どうかこの真理を、一人残らず心の底にとどめることができますように。たとえ周りの者が、たとえ自分の心が、「お前は罪人だ。」と責めようとも、

たとえサタンが、「お前は腐っている。」「お前は汚い。」と責めようとも、私たちはあなたの十字架の御業によって、キリストと共に死んでいます。罪は、私たちを追いかけることはできません。神の怒りも、私たちを追いかけることができません。そして、罪、律法の呪いも、私たちを追いかけ、捕まえることができません。

なぜなら、私たちはキリストと共に死んでいるからです。

 

 そして、あなたの義が、私たちのうちに今生きていることを感謝します。主よ、あなたが義であるから、私たちは義であります。父なる神が義であり、正しく、聖いように、「あなたがたも聖くなりなさい。」それは、父なる神が私たちと共に、今いらっしゃるからです。

 この真理を心から感謝します。そして、この聖化の過程の中で、私たちは苦しみにもがいていますが、この過程を通して、私たちが、「イエス・キリストのみが救いである。」「それだけが私たちの望みである。」と、あなたが導き、語ってくださっていることを感謝します。キリストが心の中にしっかりと、この素晴らしい聖なる方が心の中にしっかりと描かれますように。また、描いてくださっていることを感謝します。

イエス・キリストの御名を通して、感謝してお祈りします。

 

アーメン。

 

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