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聖書はすべてキリストを中心に読む

  • 8月22日
  • 読了時間: 8分

2026.8.19 The Word for you

聖書の中心はすべてキリスト ― 福音とは、キリストの成就がある信仰構造 ―

 

今日は、「聖書をどう読むのか」という、とても大切なことを一緒に考えたいと思います。聖書を読むとき、私たちはすぐにこう考えやすいのです。「この御言葉は私に何を教えているのか」「私は何をすればいいのか」「この人物のように行動すれば祝福されるのではないか」

しかし、その前にもっと大切な問いがあります。「この御言葉は、キリストとどのようにつながっているのか。」聖書は、最終的に私たちを中心に書かれているのではありません。

聖書の中心はキリストです。


イエス様ご自身が、ヨハネ5章39節で言われました。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証しするものです。」

ここで言われている「聖書」とは、当時まだ新約聖書が完成していませんから、主として旧約聖書です。つまりイエス様は、旧約聖書は、わたしについて証ししていると言われたのです。

ルカ24章でも、復活されたイエス様は、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体の中でご自分について書かれていることを弟子たちに説明されました。

 

ですから旧約聖書を読むときの基本は、

旧約 → 「私たち」に直接適用ではありません。

そうではなく、旧約 → キリストにおける成就 → 「キリストにある私たち」です。

キリストにおける成就を通して読むのです。

 

キリストにおける成就を飛ばしてしまうと、聖書の読み方そのものが変わってしまいます。旧約にはイスラエルが出てきます。王が出てきます。約束の土地があります。敵との戦いがあります。勝利があります。祝福があります。呪いがあります。預言者による象徴的な行動もあります。これらを見て、「イスラエルが敵と戦った。だから私たちも地域の悪霊と戦わなければならない」「イスラエルが土地を取り戻した。だから私たちも霊的領土を奪還しなければならない」「預言者が特別な行動をした。だから私たちも預言的行動をすれば霊的現実を変えることができる」と直接結びつけるなら、そこには重大な問題があります。旧約の出来事を、そのまま現代の自分たちに置き換えて解釈してしまいます。なぜなら、キリストにおける成就が抜けているからです。

 

旧約聖書は、キリストに向かっています。旧約の祭司は、完全な大祭司であるキリストを指し示しました。旧約の犠牲は、ただ一度ご自身をささげられたキリストを指し示しました。過越の子羊は、神の小羊であるキリストを指し示しました。神殿は、神が人とともに住まわれるキリストを指し示しました。ダビデの王権は、永遠の王であるキリストを指し示しました。

ですから、旧約の契約的、制度的、類型的なものを、そのまま現代の自分や教会へ持ってくるのではありません。まず、キリストにおいて何が成就したのかを見るのです。

そしてキリストは十字架で言われました。「完了した。」キリストは死なれ、復活されました。新しい契約が立てられました。御霊が与えられました。そして私たちは、御霊によってキリストに結ばれています。ここから新しい契約に生きる信仰者の歩みが始まります。

ですから福音の構造は、

旧約 → キリストにおける成就 → 新しい契約 → 御霊によるキリストとの結合 → 信仰者の生活です。ところが、キリストを飛ばしてしまうと、

旧約 → 自分たちとなります。

 

そうすると何が起きるでしょうか。イスラエルの戦争が、私たちの霊的戦争になります。イスラエルの土地が、私たちが奪還すべき地域になります。イスラエルの王権が、現代の教会の支配権になります。預言者の行動が、私たちが未来を変えるための預言的行動になります。旧約の祝福と呪いが、そのまま現代のクリスチャンへ移されます。

ここから、霊的戦い神学、支配神学、地域霊、領土奪還、預言的行動、宣言によって現実を変える思想、現代の使徒や預言者が地域や社会を治めるという思想、国家や社会を「神のものとして取り戻す」という思想、そうした様々な枝が生えてきます。

しかし、枝だけを見ていてはいけません。根を見る必要があります。

その根とは何でしょう。旧約聖書をキリストにおける成就として読まず、旧約と現代の自分たちを直接つないでしまうことです。

ですから問題の根は、それぞれの神学や実践だけではありません。「預言」という言葉そのものでもありません。根本問題は、キリストとキリストの成就を飛ばして、旧約をそのまま現代の「自分たち」に当てはめていることです。福音の構造が変わっているのです。

 

ここを間違えると、聖書の中心がだんだんキリストから人間へ移っていきます。「キリストが何を成し遂げてくださったのか」ではなく、「私たちは何をすればいいのか」「私たちは何を宣言すればいいのか」「私たちはどのように戦えばいいのか」「私たちはどの土地を取り戻せばいいのか」という話になっていきます。主語が変わるのです。福音は後景に隠されていきます。

 

福音の主語は、まず神です。神が選ばれました。神が御子を遣わされました。キリストが贖われました。キリストが復活されました。御霊が私たちをキリストに結び合わせてくださいます。神が始められ、神が成し遂げられる。これが救いです。しかし、キリストを飛ばした旧約適用では、私たちが祈る。私たちが宣言する。私たちが戦う。私たちが領土を奪還する。私たちが霊的現実を変える。という方向へ進みやすくなります。ここには大きな違いがあります。

ヨハネ15章で、イエス様は言われました。

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」

枝が木を支えているのではありません。枝が命を作り出しているのでもありません。神が枝を木に結んでいるので枝は生きています。神が枝を木に結ばれているから実を結びます。それは神の御業です。

イエス様は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言われました。

これが、福音によって生かされる信仰者の姿です。

 

私たちが天に向かって何かを引き下ろすのではありません。私たちはキリストに結ばれている。キリストから命を受ける。そしてキリストにあって実を結ぶ。

だから聖書を読むときにも、「私は何をしなければならないか」から始めるのではありません。まず、神は何をなさったのか。キリストは何を成し遂げられたのか。この箇所はどのようにキリストへ向かい、キリストにおいて成就しているのか。そこを見るのです。

そして、キリストにあって自分が誰なのかを知り、その恵みの中から歩みが生まれます。

ですから、これから旧約聖書を読むとき、一つの問いを持っていただきたいと思います。

「この御言葉を、私はキリストを通して読んでいるだろうか。」

イスラエルの契約的な歩みを、キリストの成就を飛ばしてそのまま自分に当てはめていないか。王の働きを、そのまま自分の権威に置き換えていないか。土地の約束を、そのまま現代の地域支配へ変えていないか。戦争を、そのまま現代の霊的戦争へ読み替えていないか。

そして何より、その解釈の中心に、神の主権、キリストにおける成就、御霊によるキリストとの結合があるかです。

 

聖書は、最終的に「私たちが何をするか」を中心に語る本ではありません。まず、神がキリストにあって何をしてくださったのかを語る書物です。

旧約はキリストを指し示します。キリストにおいて成就します。新しい契約が立てられます。御霊によって私たちはキリストに結ばれます。そしてキリストに結ばれた枝として実を結びます。

ですから最後に、この二つを覚えてください。

 

キリストを飛ばした読み方

旧約 → 私たち → 私たちが戦う → 私たちが取り戻す → 私たちが実現する

福音の読み方

旧約 → キリストにおける成就 → 新しい契約 → 御霊 → キリストとの結合 → キリストから実を結ぶ

見た目には、どちらも聖書を読んでいます。どちらも聖書の言葉を使います。しかし、根が違います。

 

だから私たちは、聖書をキリストなしに読みません。これは単なる聖書解釈の違いではありません。旧約聖書をキリストにおける成就を通して読むのか。それとも、キリストを飛ばして現代の自分たちへ直接適用するのか。この違いは、最後には、「キリストが何を成し遂げられたのか」を中心にするのか、「私たちが何をするのか」を中心にするのか、という違いになって現れます。だから問題は、解釈の好みではありません。

キリストが中心におられるかどうかです。

 

聖書はすべて、キリストを中心に読む。旧約はキリストを指し示し、キリストにおいて成就する。そして御霊は、私たちをキリストへ導き、キリストに結び、キリストにとどまらせます。

私たちの信仰は、自分の力、自分の宣言、自分の戦いによって何かを実現する信仰ではありません。キリストにとどまり、キリストから命を受け、キリストによって実を結ぶ信仰です。

主は言われます。

 

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」

福音とは、キリストについて語ることだけではありません。すべてがキリストにおいて完成し、私たちがそのキリストに結ばれて生きるという信仰構造そのものです。

補足です。

【旧約聖書を必ずキリストと、キリストにおける成就を通して読むとは】

旧約聖書全体は、キリストを直接語る箇所だけでなく、キリストを約束し、キリストを予表し、キリストを必要とし、キリストによる完成を待ち望む、一つの救済史です。

旧約聖書の一節一節が、すべてキリストを直接預言しているわけではありません。しかし、すべての箇所は、キリストにおいて完成する一つの契約と救済史の中に置かれています。

したがって、旧約聖書のどの部分も、キリストと無関係ではありません。

旧約聖書には、直接キリストを預言する箇所だけでなく、次のようなものがあります。

・キリストが成就される約束

・キリストを予表する人物

・キリストの御業を示す犠牲と制度

・キリストによって完成する救いの出来事

・キリストを必要とする人間の罪と失敗

・キリストが担われる神のさばき

・キリストがもたらされる新しい契約と新しい創造

例えば、旧約聖書における「主を仰ぎ見る」という信仰の歩みは、新約において、御霊によってキリストを仰ぎ、御霊によって歩くこととして明らかにされます。

これは、キリストが救いを成し遂げ、御霊を遣わしてくださったことによって実現しました。

 


 

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