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打ち上げ花火―二つの民と、キリストを唯一の望みとする信仰

  • 8月8日
  • 読了時間: 16分

2026.8.2 豊川の家の教会礼拝メッセージ

打ち上げ花火――二つの民と、キリストを唯一の望みとする信仰


今日のテーマは打ち上げ花火と言う日本の夏の風物詩から第1コリント8章を話します。

日本の打ち上げ花火の多くは神社などへの奉納を言う前提で行られることが多いですが、正しい方法を探す問題としてではなく、キリストに結ばれているという真理に立って理解していきます。

打ち上げ花火をどう受け止めるか。それ自体が信仰なのではありません。しかし、その受け止め方には、私たちの心が何を恐れ、何を信頼し、何を望み

としているかが現れます。その意味で、打ち上げ花火の問題は、信仰の実を映し出す一つの出来事です。「神社の奉納花火を見に行ってもよいのでしょうか。」夏になると、このような質問を受けることがあります。特に、「クリスチャンは見てはいけない」「悪霊の影響を受けるから避けなければならない」「霊的に危険な場所へ近づいてはいけない」という教えを耳にすることがあります。しかし、聖書が本当に問うているのは、花火を見たか、見なかったかという外面的な行動ではありません。神が私たちを、どのような民として生かしておられるのかということです。

聖書は、全人類が最終的には二つの民に分けられることを教えています。一つは、神が永遠の昔からキリストにあって選び、キリストによって贖い、御霊によって生かし、最後まで守られる民です。もう一つは、キリストに結ばれておらず、罪の中にとどまり、自分自身を中心として生きる人々です。

この二つの民の違いは、花火を見たか、見なかったかではありません。悪霊を恐れて花火を見ない人の中にも、キリストがおられないことがあります。反対に、何も考えずに花火を楽しみ、偶像礼拝にまで参加する人の中にも、キリストがおられません。一方は恐れに見てはならいと言う律法的な縛りによって行動し、もう一方は無関心によって行動しています。しかし、どちらにも共通していることがあります。それは、心の中心にキリストがおられないということです。


御霊によって歩くとは何か

ガラテヤ書にある「御霊によって歩く」ということは、特別な霊的体験や高揚した感情のことではありません。御霊によって歩くとは、神が私たちの日々の生活の中で試練を用いて高ぶりを砕き、自分の力、自分の判断、自分の方法、人間の教えに頼る心を取り扱い、キリストを唯一の望みとする心を私たちのうちに造り続けてくださることです。

選びの民とは、生まれつきキリストを望むことのできる人々ではありません。選びの民も、もともとは罪の中で死んでいました。神を求めず、神を信頼せず、自分の知識、自分の経験、自分の宗教心、自分の正しさによって生きていました。しかし神が、その人をキリストと共に生かしてくださったのです。

そして神は、その人を一度生かしただけで放置されません。試練を通して自分への信頼を砕き、キリストだけを望みとする者へと造り変えてくださいます。選びの民とは、自分の力で絶えずキリストを望み続けられる強い人々ではありません。神によって絶えずキリストへ立ち返らされる人々です。自分の信仰、自分の判断、自分の方法が崩された時にも、神によってキリストを最後の望みとさせられる人々です。これが、御霊によって生かされている民です。


救いは初めから終わりまで神の御業である

聖書は、救いが初めから終わりまで神の恵みによる御業であることを教えています。神は、世界の基が据えられる前から、ご自身の民をキリストにあって選ばれました。そして時が来ると、みことばと聖霊によって新しく生まれさせ、義とし、試練を通して聖なる者へと造り変え、最後まで守り、栄光へと導いてくださいます。ですから、救いは人間の努力の結果ではありません。信仰さえも、神が与えてくださる恵みです。真の信仰者の希望は、自分の能力にも、自分の正しさにも、自分の信仰の強さにさえもありません。ただ、キリストの完成された御業にあります。神が始められた救いは、必ず神によって完成されます。

エペソ書2章1節は、こう語ります。「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であって」死んでいる者は、自分で命を得ることができません。自分で正しい教えを見つけることも、偽りの宗教から抜け出すことも、キリストを選び取ることもできません。だから福音は、こう宣言します。「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」コロサイ書2章13節も語ります。「あなたがたは背きの中にあり、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。」ここで行動しておられるのは神です。死んでいた私たちを見つけ出したのも神です。私たちをキリストに結びつけたのも神です。新しい命を与え、信仰と悔い改めを与え、義とし、聖化し、最後には栄化してくださるのも神です。


花火を見なかったから救われたのではない

ですから、私たちは自分自身に問い直す必要があります。あなたは、神社の奉納花火を見なかったから救われたのでしょうか。悪霊を恐れ、危険な場所を避けたから救われたのでしょうか。人間の教師から教えられた規則を守ったから、新しく生まれたのでしょうか。決してそうではありません。あなたが罪の中で死んでいた時、神を知らなかった時、偽りの教えの中にいながら自分をクリスチャンだと思っていた時、あなたは自分の力でそこから出てきたのではありません。神があなたのもとに来られたのです。神があなたを呼び出し、キリストと共に生かしてくださったのです。これが福音です。

救いは、人間が正しい方法を発見した結果ではありません。救いとは、罪の中で死に、神を探し出すことも、神に仕えることもできなかった者に、神が一方的な恵みによって命を与えてくださったという御業です。だから、私たちの望みは、自分の知識、自分の判断、自分の方法にはありません。ただ、十字架で完成されたキリストの御業にあります。


人間中心の信仰が生み出すもの

信仰生活の中では、いつの間にか中心が神から人間へ移ってしまうことがあります。「悪霊を縛らなければならない。」「土地を清めなければならない。」「霊的に危険な場所を避けなければならない。」「偶像礼拝が行われた土地には悪霊の影響が残っている。」このような教えが強調されると、信仰生活の中心は、キリストが何を成し遂げてくださったかではなくなります。人間が何をするか。どこを避けるか。どの祈りを唱えるか。どの方法を実行するか。それが中心になります。その結果、人は神よりも自分の方法に依存し、キリストよりも教師の教えに依存し、神の主権よりも悪霊の働きを意識するようになります。花火の問題も、まさにそうです。「神社への奉納花火だから見てはいけない。」「悪霊の影響を受けるから近づいてはいけない。」この判断の根底には、悪の力のほうが、神の守りやキリストの御業よりも現実的に見えてしまう恐れがあります。しかし、問題は花火ではありません。問題は、その人の心が何を信頼しているかです。人間の教えに依存しているのか。悪霊を恐れているのか。自分の判断の正しさに平安を求めているのか。それとも、キリストの完成された御業だけを望みとしているのか。ここに問題があります。


偶像にささげられた肉と、花火の問題

ここで、第一コリント8章と10章に記されている「偶像にささげられた肉」の問題を考える必要があります。コリントの町では、肉が偶像の神殿にささげられた後、市場で売られることがありました。そのため、信仰者たちの間に、「偶像にささげられた肉を食べてもよいのでしょうか」という問題が起こりました。これは、「神社への奉納花火を見てもよいのでしょうか」という問いとよく似ています。パウロは第一コリント8章4節で、「世の偶像の神は実際にはないものであり、唯一の神以外には神は存在しない」と語ります。偶像は、まことの神ではありません。偶像に肉がささげられたとしても、その肉自体が霊的に汚染された物質へ変わるのではありません。悪霊が肉に付着し、それを食べた人に自動的な影響を与えるのでもありません。パウロは続けて語ります。

「食物が私たちを神に近づけるのではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。」第一コリント8章8節

これは、打ち上げ花火についても同じです。花火を見なかったから神に近づくのではありません。花火を見たから神から遠ざかるのでもありません。花火を見ることにも、見ないことにも、それ自体には救いに関する特別な益も害もありません。しかし、パウロはそこで終わりません。第一コリント10章では、偶像礼拝そのものへの参加を明確に禁じています。パウロは、「偶像礼拝を避けなさい」と語ります。さらに、異邦人がささげるものは悪霊にささげているのであって、神にささげているのではないと語り、主の食卓と悪霊の食卓の両方にあずかることはできないと教えています。ここには、はっきりとした区別があります。偶像にささげられた肉を食べることと、偶像礼拝の祭儀に参加することは同じではありません。市場で売られている肉を食べること自体は、偶像礼拝ではありません。しかし、偶像の神殿に入り、その神にささげる宗教的な食事に参加するなら、それは偶像礼拝への参加となります。

第一コリント10章25節で、パウロはこう語ります。「市場に売っている肉は、良心のために何も詮索せず食べなさい。」パウロは、「この肉はどの神殿にささげられたのか」「何という悪霊の影響が付いているのか」と調査しなさいとは言いませんでした。むしろ、何も詮索せずに食べなさいと言いました。

その理由は、「地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」

第一コリント10章26節肉は偶像のものではありません。世界は悪霊の所有物でもありません。地とそこに満ちているすべてのものは、主のものです。これは、花火についても同じです。火薬も、光も、空も、色も、音も、すべて神が支配しておられる被造世界の中にあります。神社が花火を奉納したと宣言したからといって、花火そのものが偶像や悪霊の所有物へ変わるのではありません。天地の本当の所有者は主です。ですから、花火を見て、「ああ、きれいだね」「夏だね」と家族で楽しむことは、偶像礼拝ではありません。

しかし、神社の神に祈ること、礼拝のしるしとして頭を下げること、願いをささげること、奉納に宗教的な意味をもって参加することは、単に花火を見ることとは違います。それは偶像礼拝です。聖書は、花火を恐れなさいとは言いません。悪霊が花火に付着しているから避けなさいとも言いません。聖書が命じているのは、「偶像礼拝を避けなさい」ということです。問題は、物質や場所に悪霊の力が付着しているかどうかではありません。問題は、誰を礼拝しているのか、何に心を向けているのか、誰に自分をささげているのかということです。


「偶像はない」と「悪霊との交わり」の関係

第一コリント8章では、「偶像の神は実際にはない」と語られています。しかし10章では、偶像にささげる者たちは悪霊にささげていると語られています。これは矛盾ではありません。偶像そのものは神ではありません。木や石で造られた像に、神としての実体があるのではありません。しかし、偶像礼拝という行為は、まことの神を退け、被造物を神として礼拝する行為であり、その背後には神に敵対する霊的な働きがあります。したがって、偶像そのものを恐れる必要はありません。しかし、偶像礼拝に参加してよいということでもありません。真の信仰者は、偶像を恐れて逃げ回るのではありません。また、偶像礼拝を軽く考えて参加するのでもありません。偶像は神ではないことを知りながら、唯一の神だけを礼拝します。悪霊を恐れるのではなく、神を恐れます。自分の自由を誇るのではなく、キリストに従います。

ここにも、二つの民の違いが現れます。ある人は、悪霊の影響を恐れて、花火そのものを避けます。その人の中心には、キリストの完成された御業ではなく、悪霊への恐れがあります。別の人は、「偶像など存在しないのだから、何をしても自由だ」と考え、偶像礼拝そのものにも無関心に参加します。その人は神を恐れず、自分の楽しみと自由を中心にしています。一方は悪霊を恐れています。もう一方は神を恐れていません。しかし、どちらにもキリストが中心におられません。

選びの民は、そのどちらでもありません。花火そのものには霊的な力がないことを知り、同時に、偶像礼拝は神が禁じておられることを知っています。だから、悪霊を恐れて花火から逃げるのでもなく、自分の自由を誇って偶像礼拝に加わるのでもありません。キリストにある自由の中で花火の美しさを楽しみ、唯一の神だけを礼拝します。


自由は愛のために用いられる

第一コリント8章では、たとえ自分には食べる自由があったとしても、その自由によって信仰の弱い兄弟をつまずかせてはならないと教えられています。「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」第一コリント8章1節「偶像は何ものでもない」「肉を食べても何の害もない」という知識は正しいものです。しかし、その知識を誇り、弱い人を見下すなら、その自由はキリストにある自由ではありません。ある人は、長い間、「神社に関係するものを見ると悪霊の影響を受ける」と教えられてきたかもしれません。その人に、「そんなものは何でもない。自由なのだから見ればよい」と無理に行動させるなら、その人を信仰によらずに行動させることになります。反対に、「花火を見に行く人は信仰が弱い」「本当のクリスチャンなら行かない」と裁くことも間違っています。真の信仰者は、自分の自由を誇りません。また、自分の禁止事項を他の人の義ともしません。必要なら、自分には見る自由があっても、愛する人の弱い良心のために、その場では見ないということもあります。しかし、それは悪霊を恐れたからではありません。兄弟姉妹を愛し、その人の信仰の成長を願うからです。キリストにある自由は、自分の権利を主張する自由ではありません。愛によって、自分の権利を手放すことのできる自由です。


「すべてのことを神の栄光のために」

パウロは、第一コリント10章31節で結論を語ります。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」花火を見るか、見ないかという問題の最終的な基準も、ここにあります。悪霊を恐れて見ないのではありません。自分の自由を証明するために見るのでもありません。何をするにも、神の栄光のためです。家族で花火を見て、その美しさを楽しむなら、感謝して楽しめばよいのです。良心の弱い人のために見ないと判断するなら、愛によってそうすればよいのです。しかし、どちらの行動も、自分の義としてはなりません。

見る人は、見ない人を見下してはなりません。見ない人は、見る人を裁いてはなりません。そして、どちらも偶像礼拝には参加してはなりません。花火を見ることと、偶像を礼拝することは違います。肉を食べることと、悪霊の食卓にあずかることが違うのと同じです。神が問われるのは、物に触れたかどうかではありません。私たちの心が誰に属しているかということです。


子どもや家族の救いを方法で生み出してはならない

私たちは、親、子ども、配偶者、知人、友人の救いについて考えます。しかし、誰が選びの民であるかは、神だけが知っておられます。ただし、私たちには確かに知っていることがあります。それは福音です。神は、永遠の昔からキリストにあって選ばれたご自身の民を、時が来れば必ず召し、新しく生まれさせ、キリストに結び、最後まで守り抜かれます。それは、その人が花火を見なかったからではありません。親が霊的に危険な場所から遠ざけたからでもありません。悪霊の影響を避けるための方法を実行したからでもありません。私たちは、子どもの救いを人間の方法で生み出すことはできません。危険な場所から隔離すれば、新しい心が生まれるのではありません。正しい規則を守らせれば、信仰が生じるのでもありません。救いは神の御業です。

だからこそ、私たちは神に信頼し、みことばを語り続けます。誰が選びの民か分からないから、すべての人に福音を語ります。選びの民が必ず召されることを信じるから、祈りへ導かれます。私たちは、キリストの証人として立たされます。その働きも、人間の力から生まれるものではありません。神が御霊を注ぎ、神が証人として立たせ、神がご自身の御業を実行されるのです。


祈りを神を動かす方法にしてはならない

このような偶像にささげられた肉、神社に奉納されている打ち上げ花火などにクリスチャンが出会うとき、また、自分の親族が参加することを知った時にこのように人々は言います。

「どう祈ったらよいのでしょうか。」 「何と祈ればよいのでしょうか。」この問いそのものが、常に悪いわけではありません。しかし、気づかないうちに、「正しい言葉を言えば神が動いてくださる」「正しい祈り方をすれば子どもが守られる」「正しい宣言をすれば悪霊の影響を防げる」という方法論に流れてしまうことがあります。しかし、福音は私たちを方法へ導きません。福音は、私たちを神ご自身へと向かわせます。大切なのは、効果のある祈り方を発見することではありません。神が、ご自身の民をキリストにあって選び、御子によって贖い、御霊によって救いへ導き、最後まで守られる方であることを知ることです。神への信頼も、私たちの中から自然に生まれるものではありません。神が、みことばと御霊によって、ご自身を信頼する心を私たちのうちに創造してくださるのです。祈りとは、神を動かす方法ではありません。祈りとは、神がみことばと御霊によって私たちの心をご自身へ向け、聖なる神との交わりの中に生かしてくださる恵みです。そして神は、試練を通して、自分の祈り方、自分の信仰、自分の方法への信頼を砕き、キリストだけを唯一の望みとする心を造り続けてくださいます。すべては神の目的が新しい創造なのです。


まとめ――最後の望みはキリストだけである

打ち上げ花火の問題は、単なる夏の行事についての議論ではありません。そこには、二つの民、二つの生き方が現れます。

一つは、キリストのいない生き方です。そこには自分、宗教、この世があります。ある人は悪霊を恐れて花火を避けます。別の人は何も考えず、自分が楽しければよいとして、偶像礼拝にも参加します。一方は恐れ、もう一方は無関心です。しかし、どちらの中心にもキリストはいません。

もう一つは、キリストに結ばれて生きる民です。この民は、花火を見ないことを自分の義にしません。花火を見る自由を自分の誇りにもしません。悪霊を恐れるのでも、自分の楽しみだけを求めるのでもありません。神がご自身の民を選び、キリストによって贖い、御霊によって生かし、最後まで守ってくださることを望みとします。そして、偶像礼拝には加わらず、花火の美しさを神が支配しておられる被造世界の中に与えられたものとして楽しみます。選びの民の特徴は、一度も間違えないことではありません。常に正しい判断ができることでもありません。選びの民の特徴は、神がその人を見捨てず、恐れ、無関心、自己判断への依存、宗教的な誇りを砕き、キリストへと連れ戻してくださることです。ですから、私たちの平安は、「正しい方法を選べた」「危険な場所を避けられた」という自分の行動から生まれるものではありません。私たちの平安は、罪の中で死んでいた私たちをキリストと共に生かし、最後まで守り、栄光に至るまで救いを完成してくださる神の恵みにあります。花火を見ることも、見ないことも、私たちの救いの土台ではありません。私たちの救いの土台は、十字架で死に、よみがえられたイエス・キリストだけです。

始めから終わりまで、真の信仰者の望みは、ただイエス・キリストだけなのです。


「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

ヨハネの黙示録 22章12~13節


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