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恐れをも支配される神

  • 7月25日
  • 読了時間: 6分

2026.7.22 The Word for you

 恐れをも支配される神 ― キリストとの結合に生きる

聖書は、サタンや悪霊、人間、病、死、歴史、国家、そして私たちを取り巻くあらゆる出来事が、神の絶対主権の下にあることを教えています。サタンも悪霊も神と対等な存在ではありません。彼らは神の許しなくしては何一つ行うことができず、その働きさえも神はご自身の永遠のご計画の中で支配し、ご自身の栄光のために用いておられます。

 

したがって、試練も、サタンの攻撃も、人から受ける苦しみも、病も、死も、環境の変化も、偽教師の存在さえも、神の主権の外にあるものではありません。すべて神の摂理の中にある道具です。しかし、神の目的は、それらの出来事そのものではありません。それらを通して人間の心に生じる「恐れ」「不安」「弱さ」「葛藤」を用いて働かれることにあります。恐れは偶然ではありません。神の支配の外でもありません。神は恐れさえも、ご自身の目的のために用いられます。

 

神の民には、キリストにより頼まざるを得ない心を創造される

 

神の民も恐れます。病を恐れることがあります。死を恐れることがあります。将来を不安に思うことがあります。人を恐れることがあります。サタンや悪霊を恐れることさえあります。しかし神は、その恐れを単に取り除こうとはされません。その恐れを通して、自分には何一つ頼るものがないことを悟らせ、自分の力、経験、知識、方法では立てないことを教えられます。そして神は、その中で「キリストにより頼まざるを得ない心」を創造してくださいます。

 

信仰は人間が生み出すものではありません。神から与えられる賜物です。神は恐れを通して、自分への望みを砕き、キリストとの結合へとますます深く導いてくださいます。御霊は、キリストだけが義であり、救いであり、希望であり、力であることを心に教えてくださいます。このように、同じ試練、同じ恐れであっても、神の民には聖化のために用いられるのです。

 

神を拒む者は、自己中心へ向かう

 

一方、キリストを拒み、自分自身により頼み続ける者も、同じ恐れを経験します。しかし、その恐れはキリストへ向かわせません。むしろ、「自分で解決しよう」「もっと良い方法がある」「もっと強い信仰を持とう」「もっと霊的な力を得よう」「もっと成果を上げよう」という自己中心へ向かいます。

 

恐れから逃れるために、人間は方法を求めます。宗教的方法、心理学、自己暗示、ポジティブ思考、悪霊追放、成功哲学、瞑想、過去の罪を書き出したり、呪いがある場所を特定して断ち切る宣言をする、様々な霊的体験。しかし、その中心にあるのはなお人間です。神は、その恐れさえ裁きの中で用い、人間の自己中心をさらに明らかにされます。同じ恐れであっても、神の民には聖化のために、神を拒む者には裁きのために用いられるのです。

 

 

この原理はマタイ7章22〜23節に現れている

 

終わりの日、人々はキリストの前で言います。「私たちはあなたの名によって預言しました。」「私たちは悪霊を追い出しました。」「私たちは多くの奇跡を行いました。」彼らが差し出したものは、「私たちは」でした。救いの根拠が、自分たちの霊的成果になっています。

 

しかしキリストは、「わたしはあなたがたを全く知らない」と言われます。問題は奇跡ではありません。悪霊追放でもありません。キリストとの結合がなかったことです。彼らはキリストを知っているつもりでした。しかしキリストは彼らを知っておられませんでした。

 

ここに救いの本質があります。救いとは、人間がどれほど霊的な成果を上げたかではありません。キリストに知られ、キリストと結ばれていることです。

 

ルカ11章20節との対比

ルカ11章20節では、「わたしが神の指によって悪霊どもを追い出している」と主イエスは語られます。主語はキリストです。神の国を到来させるのも、サタンに勝利されるのもキリストです。

一方、マタイ7章22節では、「私たちは悪霊を追い出した」と、人々は自らの働きを誇ります。ここで問題とされているのは奇跡や悪霊追放そのものではなく、救いの根拠を自分たちの霊的成果に置いていることです。信仰者は勝利を作り出す者ではなく、キリストとの結合によって、その完成された勝利にあずかる者です。

 

支配神学・霊的戦い神学との違い

 

支配神学や霊的戦い神学では、人間が悪霊を追い出し、地域や国家を回復し、神の国を前進させる主体となる考え方がしばしば見られます。しかし聖書は、歴史を完成されるのは教会ではなく、再び来られるキリストであることを教えています。神の国は人間が完成させるものではなく、王であるキリストが完成されます。だからマタイ7章22節は、人間の霊的成果主義への厳粛な警告なのです。

 

恐れに対する聖書の答え

 

聖書は誰が恐れ、不安の原因である困難や試練を支配しておられるかを教えています。

ですから、「どうすれば恐れや不安がなくなるか」ではありません。「恐れの中で、私は誰により頼むのか」です。

 

神は困難、試練を神の民にご自分の子どもに与えられます。恐れ、不安はその結果です。そして恐れや不安を用いて、ご自分の民には「キリストにより頼まざるを得ない心」を創造されます。一方、神を拒む者は、その恐れを通してさらに自己中心へ向かいます。ここに神の主権があります。恐れそのものではなく、恐れを通して神が何をなさるかが本質なのです。

 

パウロも「わたしは弱いときにこそ強い」と証ししました。神はまず弱さを取り除かれたのではありません。弱さを残されたまま、「わたしの恵みはあなたに十分である」と教えられました。恐れもまた同じです。神は恐れを用いて、自分への望みを砕き、キリストとの結合に生きる信仰を育てられます。その結果として、神が困難や試練を取り去られることもあります。また、恐れそのものを取り除かれることもあります。しかし、恐れを残されたまま、キリストへの信頼を深められることもあります。

 

まとめ

神の主権の下では、試練も、サタンも、人も、病も、死も、環境も、偽教師も、すべて神の道具です。そして、それらに対する反応として恐れや不安が生じます。しかし、その恐れを通して神は二つの働きをされます。

 

神の民には、自分への望みを砕き、「キリストにより頼まざるを得ない心」を創造し、キリストとの結合をますます深め、御子のかたちへと造り変えてくださいます。

 

一方、神を拒む者は、同じ恐れの中でなお自己中心にとどまり、自分の力、方法、宗教的成果により頼み続けます。

 

ここに現れているのは、人間の違いではありません。神の主権的な働きの違いです。

 

聖書の教える信仰者の希望は、「恐れ、不安がなくなること」ではありません。王としてすべてを統べ治めておられるキリストに結ばれていることです。そこに救いがあり、平安があり、聖化があり、最後まで守り抜かれる確かな希望があります。

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