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わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している―その本当の意味

  • 8月1日
  • 読了時間: 19分

更新日:8月6日

2026.7.26 豊川の家の教会礼拝メッセージ

イザヤ書43章「キリストの証人として立てられる民」

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」―その本当の意味

 

イザヤ書43章は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」「恐れるな」「見よ、わたしは新しいことをする」という慰めや励ましの言葉として、多くの人に読まれています。しかし、この章は単なる慰めの章ではありません。この章全体には、一つの大きな流れがあります。それは神が、ご自身の民を選び、贖い、守り、試練を通して造り変え、ご自身の証人として立てられるという救い全体の構造です。そしてその預言は、イエス・キリストによって究極的に成就されました。

 

私はイザヤ書を読むたびに思わされます。旧約聖書は、新約とは別の救いを語っているのではありません。イザヤはキリストの初臨の七百年以上前に、神によって示された預言を通して、やがてキリストにおいて完成される救いを見ていました。エペソ人への手紙が語る神の選び、ローマ人への手紙が語る神の救いの連鎖、ガラテヤ書が語るキリストにある神の民、それらの土台が、すでにイザヤ書の中に置かれています。

 

そして、この章で繰り返される言葉があります。それは「わたし」です。

神は、「わたしが造った」「わたしが贖った」「わたしが集める」「わたしが新しいことをする」「わたしが罪をぬぐう」と、繰り返しご自身を救いの主語として示しておられます。神は、ご自身が救いのすべてを行うと語っておられるのです。


救いの主語は、最初から最後まで神です。ここにイザヤ書43章の中心があります。救いとは、人間が自分の力で神へ近づくことではありません。神が罪人をご自身のもとへ引き寄せ、キリストによって贖い、最後まで完成される救いの御業なのです。


イザヤ書43章1節  

だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」

 

この一節には、神がご自身の民を救われる御業の基本的な構造が示されています。

神はまず、「あなたを造り出した」と言われます。私たちは、自分で存在するようになった者ではありません。命も、人格も、存在そのものも、神から与えられました。


さらに神は、「あなたを形造った」と言われます。神は創造して終わりのお方ではありません。陶器師が粘土を形造るように、ご自身の民を日々造り変えておられます。それは信仰生活も同じです。私たちは自分で自分を聖なる者へ変えることはできません。神が御霊の働きにより、試練を用いて私たちの自己中心を砕かれ、キリストの似姿へと形造ってくださるのです。


続いて神は、「恐れるな」と言われます。なぜ恐れなくてよいのでしょうか。問題がなくなるからではありません。敵がいなくなるからでもありません。神が先に救ってくださったからです。ここが福音です。


「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:4-5)


エペソ書は明確に語ります。神が「先に」私たちを愛してくださいました。神が私たちを選び、贖ってくださったから、神のものとなったのです。パウロは、「世界の基の置かれる前から、神は私たちをキリストにあって選ばれた」と語ります。私たちが神を選んだから神のものになったのではありません。救いは、私たちの人生の途中から始まるのではありません。神の永遠のご計画から始まっています。

 

そして神は、「あなたの名を呼んだ」と言われます。羊飼いは羊を一匹ずつ知っています。イエス様も、「羊はその声を知っている」と言われました。羊が羊飼いを見つけたのではありません。羊飼いが羊を呼んだのです。これが神の召しです。私たちが神を見つけたのではありません。神が私たちを見つけてくださいました。私たちが神を握ったのではありません。神が私たちを握ってくださったのです。だから最後に、「あなたはわたしのもの」という宣言になります。これが信仰者の確信です。私たちは自分のものではありません。罪のものでもありません。サタンのものでもありません。キリストのものです。

 

そして新約聖書は、この関係を「キリストにあって」という言葉で説明します。これがキリストとの結合です。信仰者は、世界の基が据えられる前から、神の永遠のご計画においてキリストにあって選ばれました。そして神の定められた時に、聖霊によって再生され、キリストと実際に結び合わされ、その命にあずかり、その義を着せられ、その愛の中に生かされます。

 

イザヤ書43章2節  

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

 

この御言葉は、多くの人に守りの慰めを与えてきました。しかし、ここで神は「水に入らせない」とは言われません。「火を避けさせる」とも言われません。神は、水の中も通ると言われます。火の中も歩くと言われます。つまり信仰者にも試練があります。そして神は、その試練を用いて働かれます。

 

ヘブル12章には、「主は愛する者を訓練される」とあります。ヤコブは「さまざまな試練に会うときは、いつでもこの上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)と語ります。ペテロは「試練によって信仰は精錬される」(1ペテロ1:7)と教えています。試練は偶然ではありません。神の御手の中にあります。


では、神はなぜ試練を与えられるのでしょうか。私たちを苦しめるためではありません。神は試練を通して、キリストだけを望みとする聖なる心を、私たちのうちに創造してくださいます。人は平安な時には、自分の知識に頼ります。経験に頼ります。財産に頼ります。健康に頼ります。人間関係に頼ります。自分の計画に頼ります。しかし試練が来ると、それらは一つ一つ崩れていきます。神はその過程を通して、自分自身に対する信頼を砕かれます。自己努力では立てないことを教えられます。人間の方法では救われないことを悟らせられます。そして最後に「主よ、あなたしかありません」という信仰へ導いてくださいます。


これが聖化です。聖化とは、自分の力で立派なクリスチャンになることではありません。御霊によって自己信頼を砕かれ、ますますキリストに依り頼み、自己中心から離れ、罪を憎み、神に従う者へと造り変えられていくことです。

 

イザヤ書43章3‐4節

「わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」

 

神は、「あなたは高価で尊い」と言われます。これは、人間が自分自身の中に、救いに値する功績や根拠を持っているという意味ではありません。神が自由な恵みによってご自身の民を愛し、選び、贖われたからこそ、神の目に高価で尊い者とされたのです。この箇所では、歴史的には神が国々を動かしてイスラエルを捕囚から救い出されることが語られています。しかし、この神の贖いは、やがて御子イエス・キリストがご自身の命を贖いの代償として与え、ご自身の民を罪と死の支配から救い出されることにおいて、究極的に成就しました。恵みが先にあります。神の愛が先にあります。だから救いがあり、最後まで守られるのです。

 

イザヤ書43章5‐6節

「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東からあなたの子孫を来させ、西からあなたを集める。北に向かっては『引き渡せ』と言い、南に向かっては『引き止めるな』と言う。わたしの息子たちを遠くから来させ、娘たちを地の果てから来させよ。」

 

神は世界中からご自身の民を集めることを約束されます。この預言は、歴史的にはバビロン捕囚からの帰還ですが、キリストによってさらに大きく成就しました。福音はエルサレムから始まり、ユダヤ、サマリア、そして地の果てにまで広がりました。東から、西から、北から、南から、神は世界中から、ご自身が選ばれた民を集めておられます。これは黙示録7章の全ての時代、地域、言語、国民から贖い出された神の民、すなわち教会の完成を意味します。

 

誰かが教会へ導かれ、福音を聞くことも、神の摂理の外にある偶然ではありません。しかし、ただ福音を耳で聞くだけで人は救われるのではありません。神は、宣べ伝えられる福音を用いて、ご自身が永遠の昔から選ばれた者の心を聖霊によって再生し、キリストへと有効に召してくださるのです。


そして、7節で神は、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した」と言われます。これが人生の目的です。私たちが救われた目的は、自分の願いがかなうためではありません。神の栄光を現すためです。神は私たちを新しく創造し、キリストとの結合の中で、ご自身の似姿へと造り変え、ご自身の栄光を現す器としてくださいます。

 

イザヤ書43章8-13節

「目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。

すべての国々をともに集わせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちのだれが、われわれにこのことを告げ、初めのことを聞かせることができるだろうか。彼らが自分たちの証人を出して証言し、人々がそれを聞いて『本当だ』と言うようにせよ。

あなたがたはわたしの証人、--主のことば--わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にも、それはいない。

わたし、このわたしが主であり、ほかに救い主はいない。

このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はいなかった。だから、あなたがたはわたしの証人。--主のことば--わたしは神だ。

これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を行えば、だれがそれを戻しせるだろうか。」

 

そのように造り変えられた者に向かって、「あなたがたはわたしの証人」と語られます。証人とは、自分の力で神を証明する人ではありません。「目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たち」すなわち、私たちは罪の中で死んでいました。しかし、神によって目が開かれ、耳が開かれ、キリストを知る者とされた人です。これこそ、使徒の働き1章8節でイエス様が語られた、「あなたがたはわたしの証人となります」という約束の成就です。聖霊が臨まれ、キリストとの結合に生かされた者たちは、自分の力ではなく、神の力によって証人として立てられます。そして、造り変えられた生活を通して神の救いを現すとともに、キリストの十字架と復活をみ言葉によって宣べ伝える者とされるのです。

 

だから神は、10節で「あなたがたはわたしの証人、わたしが選んだわたしのしもべである」と言われます。順番を見てください。「証人」が先ではありません。「わたしが選んだ」が先です。神の選びがあるから、証人となるのです。13節で神はこう言われます。「わたしが事を行えば、だれがそれを戻せるだろうか。」神が始められた救いを、誰も止めることはできません。神が選ばれた者を、誰も奪うことはできません。神がキリストと結び合わせた者を、誰も引き離すことはできません。ここに信仰者の確信があります。私たちが神を守っているのではありません。神が私たちを守っておられるのです。だから私たちは恐れる必要がありません。神は、ご自身が始められた救いを、最後の日まで必ず完成してくださるからです。

 

イザヤ書43章1~13節までを見ました。神は、ご自身の民を永遠の昔から選び、贖い、ご自身のものとし、試練の中でも守り、さらに「あなたがたはわたしの証人」として立てられることを学びました。そしてその証人とは、人間の努力によって神を証明する人ではなく、神によって再生され、キリストとの結合の中に生かされた人であることを見ました。


ここから神は、「新しいことをする」と宣言されます。しかし、この「新しいこと」を正しく理解しなければ、この章全体を誤って理解してしまいます。ある人々はこれを「神はあなたの人生に新しい仕事を与えてくださる」「新しい成功を与えてくださる」「新しい祝福を始められる」という意味で、この御言葉を引用することがあります。しかし、この章が語っている「新しいこと」は、そのような人間中心の話ではありません。神が、キリストによって救いを完成されるという預言なのです。

 

イザヤ書43章14節

あなたがたを贖う、イスラエルの聖なる方、主はこう言われる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り……」

 

歴史的には、この預言はバビロン捕囚からの帰還を指しています。イスラエルは、自分たちの力で祖国へ帰ることはできませんでした。軍隊もありません。政治的な力もありません。人間の方法では不可能でした。しかし、神は「わたしは行う」と言われます。ここでも主語は神です。神が歴史を動かされます。神が王を動かされます。神が国々を支配されます。だから、ご自身の民は帰ることができるのです。

 

しかし、この出来事はそれだけで終わるものではありません。新約聖書は、この出来事をさらに大きな救いの型として教えています。捕囚下のイスラエルが解放を必要としていたように、神の民は、罪と死の奴隷状態から救い出されなければなりませんでした。しかし、その鎖は人間には決して断ち切ることができません。知識では救われません。努力でも救われません。宗教でも救われません。神ご自身が来てくださらなければならなかったのです。


だから、御子イエス・キリストが来られました。十字架によって罪を贖い、復活によって死に勝利し、ご自身の民を罪と死の支配から救い出してくださいました。バビロンからの帰還は、キリストによる永遠の救いを前もって示す出来事だったのです。

 

イザヤ書43章15節

「わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」

 

神は「わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」と言われます。ここには、神がどのようなお方であるかを示す、四つの呼び名があります。

神は主です。聖なる方です。創造者です。そして王です。救いは、この創造者なる神の御業です。私たちが神を王としたからではありません。王である神が、私たちをご自身の国へ迎え入れてくださったのです。

 

イザヤ書43章16-17節

海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、

戦車と馬、強力な軍勢を引き出した主はこう言われる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せる。」


神は、紅海の出来事を思い起こさせます。「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け…」。イスラエルの前には海がありました。後ろにはエジプト軍が迫っていました。人間には希望がありませんでした。しかし、神は海を分けられました。道を造られました。イスラエルは歩きました。敵は滅びました。神は「あの時と同じように、いや、それ以上の救いを行う」と言われます。

 

イザヤ43章18節 

「先のことに心を留めるな。昔のことにを目を留めるな。」


これは、出エジプトを忘れなさいという意味ではありません。神は「もっと偉大な救いが来る」と言われているのです。出エジプトは偉大でした。バビロン帰還も偉大でした。しかし、それらは影にすぎません。本体はキリストです。


神は宣言します。


イザヤ書43章19-20節 

「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。

野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」

 

「見よ。わたしは新しいことを行う。」

この「新しいこと」とは何でしょうか。第2コリント5章17節でパウロは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と言いました。この「新しいこと」は、歴史的には、神がバビロンから民を解放し、荒野を通って帰還させる新しい出エジプトを指しています。しかし、その帰還も最終的な救いではありませんでした。それは、キリストによる罪と死からの解放、そしてキリストにある新しい創造を前もって示していたのです。神は罪人を新しく造り変えられます。死んでいた者に命を与えられます。敵であった者を神の子とされます。そして、そのすべては「キリストにあって」行われます。神は、ご自身の自由な恵みによって罪人をキリストと結び合わせ、その結合の中で新しい創造の命にあずからせてくださるのです。

 

救いの源泉は人間の意志や努力ではありません。神の自由な恵みです。そして、選び、義認、聖化、栄化に至る救いのすべての恵みは、キリストとの結合の中で私たちに与えられます。神は、ご自身が選ばれた者をキリストと結び合わせます。御霊によって再生させます。信仰を与えます。悔い改めを与えます。義と認めます。聖化へ導きます。そして最後には栄光へ導かれます。イザヤ書は、その救い全体を見ています。

 

さらに神は、「荒野に道を、荒れ地に川を設ける」と言われます。この荒野は、歴史的には捕囚から帰還する民が通る荒野です。しかし、聖書全体の光の中で見るなら、それはまた神から離れ、命を失った人間の姿を映し出しています。神から離れた人間には、神を愛する力も、神を求める力もありません。しかし神は、その荒野に道を造られます。この道と水は、最終的には、道であるキリストと、命を与える聖霊の御業において完全な意味を持ちます。


また神は、荒れ地に川を流されます。ヨハネ7章38節でイエス様は、「わたしを信じる者の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」と言われました。これは聖霊を指しておられました。つまりこの預言は、キリストと聖霊の御業によって究極的に成就したのです。神は、荒れ果てた私たちの心に聖霊を与え、御子との結合の中で新しい命を生きる者へと造り変えてくださいます。

 

イザヤ書43章21節

「わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える。」 


ここで思い出してください。前半では、「あなたがたはわたしの証人」と言われました。証人とは、自分の力で神を証明する人ではありません。神が新しく創造した人です。神がキリストに結び合わせた人です。神が聖霊によって生かした人です。その新しくされた存在そのものが、「神は救い主である」という証しです。そしてその民は、神の栄誉を口によって宣べ伝え、キリストによって成し遂げられた救いを告げ知らせる者とされるのです。

 

しかし、ここで章の流れは突然変わります。イザヤ書43章22~28節で、神はイスラエルの現実を示されます。

 

イザヤ書43章22-28節

しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。むしろ、イスラエルよ。あなたはわたしのことで疲れ果てた。あなたはわたしに全焼のささげ物の羊を携えて来ることはなく、いけにえを献げてわたしをあがめようともしなかった。あなたに苦労をさせず、乳香のことで、あなたを煩わせてもいない。あなたはわたしのために、金で菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪でわたしに苦労をさせ、あなたの咎でわたしを煩わせただけだ。わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。わたしに思い出させよ。ともにさばきに向かおう。あなたが正しいとされるために、あなたのほうから申し立てよ。あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの仲保者たちは、わたしに背いた。それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるように、イスラエルがののしられるようにした。」

 

「しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。」

神はこれほど救いを語られました。しかし、人間は神を求めませんでした。23節では、「あなたはいけにえをささげなかった」。24節では、「あなたの罪で、わたしを煩わせた」と言われます。神は人間の姿を暴かれます。ここに完全堕落があります。人間は、自分から神を求めません。神を礼拝しません。神を愛しません。神に従うこともできません。完全堕落とは、すべての人が可能な限り最悪であるという意味ではありません。人間の理性、意志、感情、良心のすべてが罪によって損なわれ、自分の力では神のもとへ来ることができないという意味です。

 

ローマ人への手紙3章10‐11節でパウロは、「義人はいない。一人もいない。悟るものはいない。神を求める者はいない」と言いました。それが人間です。しかし、神は25節で驚くべきことを言われます。


「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」


救いは、人間が神へ近づいた結果ではありません。神が、ご自身のために罪を赦してくださる恵みです。ここでも主語は神です。「わたし、このわたしが。」人間は何も誇れません。26節では、「あなたのほうから申したてよ。」と言われます。しかし、人間は神の前で弁明することはできません。27節では、「あなたの最初の先祖は罪を犯した。」と言われます。アダムから始まり、イスラエルも、祭司も、王も、預言者も、すべて罪人でした。これが聖書の人間理解です。完全堕落です。

 

だからこそ、救いは完全な恵みなのです。もし人間に救われる力が少しでも残っているなら、十字架は必要ありませんでした。しかし、人間は死んでいました。だから神が来られました。神が再生を与えられました。神が信仰を与えられました。神が悔い改めを与えられました。神がキリストと結び合わせてくださいました。神が聖化へ導いてくださいます。そして神は、最後まで守り抜いてくださいます。


これがイザヤ書43章です。神が永遠の昔からご自身の民を選び、時が満ちてキリストによって贖い、御霊によって新しい命を与え、ご自身の証人として立て、最後には栄光へ導かれる、その壮大な神の救いの全体構造が示されています。


そして、イザヤ43章で約束された罪の赦しがどのように成し遂げられるのかは、イザヤ53章において明らかにされます。その贖いは、主のしもべであるイエス・キリストの十字架によって、歴史の中で完全に成し遂げられました。


だから私たちの希望は、自分の信仰の強さではありません。自分の努力でもありません。私たちの唯一の希望は、神が私たちをキリストに結び合わせてくださったことにあります。この救いの中心に、人間の決断はありません。最初から最後まで、神ご自身が主語です。

 

わたしが造った。

わたしが贖った。

わたしが呼んだ。

わたしが集める。

わたしが新しいことをする。

わたしが罪をぬぐう。

わたしが事を行う。


 これが、イザヤ書43章に響いている神の宣言です。


したがって、イザヤ書43章のメッセージは、単なる人間中心の「あなたは愛されている」という慰めではありません。神が愛される理由を自分自身の中に何一つ持たない罪人を、ご自身の自由な恵みによって選び、キリストによって贖い、御霊によって生かし、ご自身の証人として立て、最後には栄光へ導かれるという、神ご自身の救いの宣言なのです。


この神は、今日も生きておられます。そして、ご自身が始められた救いの御業を、最後の日まで必ず完成してくださいます。


「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8:30)


この神に、すべての栄光がありますように。

 


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