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試練を軽く扱わない

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試練を軽く扱わない

ヤコブの手紙1章12節を読みます。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」


 救いは、信仰義認によって、キリストの義のみによる。これは救いの土台であり、そこには差はない。神が救われた者を義と認められる根拠は、ただキリストの義のみである。信仰者の忠実さでも、忍耐でも、従順でもない。ただキリストの義によって義と認められる。

 しかし聖書は、救われた者、義とされた者の地上の歩みには差があると言っている。同じ試練の中で、神の慈しみと恵みとして砕かれ、御霊によって主に従わされていく者がいる。一方で、同じ試練の中で逃げ、自己憐憫に沈み、肉を正当化する者もいる。ここに、天における報いの差がある。

 

 報いとは、救いの条件ではない。救いは、ただ神の恵みによって、キリストの義によって、無罪と宣言されることである。しかし報いとは、神が、救われた者の地上での忠実、忍耐、従順を、永遠において無意味にされないということである。報いとは、神が信仰者の地上での困難の中における忠実、忍耐、従順を、永遠に無意味にされないということである。


 だから、試練から逃げるということは、単に「辛いから避けた」ということでは終わらない。辛いから逃げた。嫌だから逃げた。痛いから逃げた。それは、神が与えられた砕き、従順、神に仕える機会、神に従う機会を軽く扱ったことになる。


 逆に、試練の中、困難の中、苦しみの中で、信仰者が神に頼らざるを得ない位置に置かれ、その心に神を頼る心が与えられ、その中で主に従わされるなら、その苦しみは神が覚えてくださる。その苦しみは全く無駄にならない。なぜなら、そこには御霊の実が現れるからである。



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