聖書はすべてキリストを中心に読む

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聖書の中心はすべてキリスト ― 福音とは、キリストの成就がある信仰構造 ―
今日は、「聖書をどう読むのか」という、とても大切なことを一緒に考えたいと思います。聖書を読むとき、私たちはすぐにこう考えやすいのです。「この御言葉は私に何を教えているのか」「私は何をすればいいのか」「この人物のように行動すれば祝福 されるのではないか」
しかし、その前にもっと大切な問いがあります。「この御言葉は、キリストとどのようにつながっているのか。」聖書は、最終的に私たちを中心に書かれているのではありません。
聖書の中心はキリストです。
イエス様ご自身が、ヨハネ5章39節で言われました。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証しするものです。」
ここで言われている「聖書」とは、当時まだ新約聖書が完成していませんから、主として旧約聖書です。つまりイエス様は、旧約聖書は、わたしについて証ししていると言われたのです。
ルカ24章でも、復活されたイエス様は、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体の中でご自分について書かれていることを弟子たちに説明されました。
ですから旧約聖書を読むときの基本は、
旧約 → 「私たち」に直接適用ではありません。
そうではなく、旧約 → キリストにおける成就 → 「キリストにある私たち」です。
キリストにおける成就を通して読むのです。
キリストにおける成就を飛ばしてしまうと、聖書の読み方そのものが変わってしまいます。旧約にはイスラエルが出てきます。王が出てきます。約束の土地があります。敵との戦いがあります。勝利があります。祝福があります。呪いがあります。預言者による象徴的な行動もあります。これらを見て、「イスラエルが敵と戦った。だから私たちも地域の悪霊と戦わなければならない」「イスラエルが土地を取り戻した。だから私たちも霊的領土を奪還しなければならない」「預言者が特別な行動をした。だから私たちも預言的行動をすれば霊的現実を変えることができる」と直接結びつけるなら、そこには重大な問題があります。旧約の出来事を、そのまま現代の自分たちに置き換えて解釈してしまいます。なぜなら、キリストにおける成就が 抜けているからです。