罪の中で死んでいる構造、そしてキリストとともに生かされる構造

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罪の中で死んでいる構造、そしてキリストとともに生かされる構造
“あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むままを行い、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かし、あなたがたは恵みによって救われたのです。”
エペソ人への手紙2章1〜5節
福音が、救いの全体構造の照明で与えられていることは、とても重要である。なぜなら、単独の聖句だけを切り取ると、いくらでも人間中心に曲げられるからである。「信じなさい」だけを切り取れば、信仰が人間の決断に見える。「悔い改めなさい」だけを切り取れば、悔い改めが人間の努力に見える。「従いなさい」だけを切り取れば、救いが人間の行いに見える。しかし聖書全体の福音構造で見 るなら、そうならない。
“神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。”
エペソ人への手紙1章4節
神が選ばれる。神が召される。神が再生される。神がキリストとともに生かされる。神が信仰と悔い改めを与えられる。神が聖化される。神が保たれる。神が完成される。
“あなたがたは、恵み のゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神の賜物です。”
エペソ人への手紙2章8節
だから、福音が救いの全体構造の照明で与えられていない者は、聖句を使っても福音を壊す。偽りの教えは、聖句を使う。しかし、その聖句を神中心、キリスト中心、救いの構造の中で読まない。人間の決断、人間の努力、人間の体験、人間の成功へすり替える。