打ち上げ花火―二つの民と、キリストを唯一の望みとする信仰

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打ち上げ花火――二つの民と、キリストを唯一の望みとする信仰
今日のテーマは打ち上げ花火と言う日本の夏の風物詩から第1コリント8章を話します。
日本の打ち上げ花火の多くは神社などへの奉納を言う前提で行られることが多いですが、正しい方法を探す問題としてではなく、キリストに結ばれているという真理に立って理解していきます。
打ち上げ花火をどう受け止めるか。それ自体が信仰なのではありません。しかし、その受け止め方には、私たちの心が何を恐れ、何を信頼し、何を望み
としているかが現れます。その意味で、打ち上げ花火の問題は、信仰の実を映し出す一つの出来事です。「神社の奉納花火を見に行ってもよいのでしょうか。」夏になると、このような質問を受けることがあります。特に、「クリスチャンは見てはいけない」「悪霊の影響を受けるから避けなければならない」「霊的に危険な場所へ近づいてはいけない」という教えを耳にすることがあります。しかし、聖書が本当に問うているのは、花火を見たか、見なかったかという外面的な行動ではありません。神が私たちを、どのような民として生かしておられるのかということです。
聖書は、全人類が最終的には二つの民に分けられるこ とを教えています。一つは、神が永遠の昔からキリストにあって選び、キリストによって贖い、御霊によって生かし、最後まで守られる民です。もう一つは、キリストに結ばれておらず、罪の中にとどまり、自分自身を中心として生きる人々です。
この二つの民の違いは、花火を見たか、見なかったかではありません。悪霊を恐れて花火を見ない人の中にも、キリストがおられないことがあります。反対に、何も考えずに花火を楽しみ、偶像礼拝にまで参加する人の中にも、キリストがおられません。一方は恐れに見てはならいと言う律法的な縛りによって行動し、もう一方は無関心によって行動しています。しかし、どちらにも共通していることがあります。それは、心の中心にキリストがおられないということです。