信仰義認の本質について

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今日は「信仰義認」について話します。
十字架の強盗も取税人も、彼らは聖書に熟知していたわけでもないし、神学を学んだわけでもありません。教会に通っていたわけでも、教会のメンバーでもなかった。彼らは「悪い人」でした。彼らは、キリストが時の始まる前に選んだ人と結合しているなんて話など、聞いたことも見たこともない、そういう人たちでした。
だけど彼らは時の中で、神が再生(ボーン・アゲイン)を起こしてキリストに結びつけられたのでしょう。そして、そんな中で神の憐れみにすがり、十字架のキリストを「王」として仰いだのです。
彼らの口から出た言葉は、すごく単純でした。ゴテゴテと話してはいない。その単純な言葉の裏には、聖霊の再生の働きがありました。人間の理解の深さや、御言葉をどれだけ知っているか、聖書をたくさん読むかといった話は、そこには全くなかったのです。「聖書を読み、御言葉を蓄えれば良いクリスチャンになる」という考えは聖書にはありません。神がキリストに結びつけられた「結果」として、信仰が現れているのです。
厳密に言うと、「贖い(あがない) 」——これはキリストが十字架の上で成し遂げられた救いの獲得ですが——その「贖い」という考え方と「信仰義認」を切り離すことはできません。
「贖い」とは何でしょうか。それは、あなたや私が罪の中に死んでいて、律法の呪いの下にあり、死の支配の中にいる状態……例えるなら、完全に水の中に沈んでいて息ができず、出口もない、そんな苦しい状況から神様が十字架の上で尊い血を流し、助け出してくださるということです。
「贖う」とは、正確に言えば「買い取る」という意味です。買い取った相手はサタンでも神でもありません。それは「罪と律法の呪い、そして死の中にいる人をそこから出すために、神様が命を払ってくださった」ことを意味しています。