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病、災害、死に対する神の主権 パート1 ヨブ記

病、災害、死に対する神の主権 パート1 ヨブ記Artist Name
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病、災害、死に対する神の主権1 ヨブ記

病、災害、死に対する神の主権

病、災害、死に対する神の主権がどのようなものであるかを聖書から理解して行きましょう。

選ばれている人々と選ばれていない人々、それぞれに病、災害、死の意味は大きく変わります。このことを最初に心において忘れないようにしてください。

 神の主権を認めない考え方の主張

「病気は罪の結果である。だから悔い改めれば癒される。」

この誤った教えはしばしば「因果応報の教え(retribution theology)」と言われます。この教えは旧約のヨブ記の友人たちが代表として聖書の中に現れます。

  神ご自身が、友人たちの教え―神は「罪が病の原因である」という報いの神学―を誤りとして神の怒りを燃やされています。

 聖書の教え

1. 神の主権と摂理のもとにある病

病は信仰者にも、「未信者」にも神の摂理のもとで病は起こります。

しかし、「目的」と「意味の現れ方」は、選ばれた者と未信者とで根本的に異なります。

 2.普遍的摂理 ― 病はすべて神の主権下にある

カルヴァンは『キリスト教綱要』I.16章でこう述べています:

 「何ひとつ偶然はない。人の病も、災害も、死も、神の御旨の外では起こらない。神の手の外に出るものは一つもない。」

ゆえに、信者も未信者も、病の出来事そのものは神の主権的摂理の下にあります。これは自然的因果ではなく、「創造主の統治秩序」に属するものです。

 3.選ばれた者における病 ― 聖化の道具・父の訓練

ヘブル12:6–10は、信者に対して次のように語ります:

「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子をむち打たれる。」

したがって信者の病は、神の怒りのしるしではなく、聖化と御旨の実現のための恵みの手段(discipline in love)です。

 4. 未信者における病 ― 裁きの前触れ・悔い改めへの呼びかけ

一方、未信者の病も同じ摂理下にありますが、その目的は異なります。カルヴァンは『綱要』I.17.1でこう区別します:

 「神は同じ出来事をもって、信者を清め、悪人を罰する。」

 つまり、

     • 信者にとっての病=父の愛の訓練

     •  未信者にとっての病=神の義の警告、あるいは裁きの予告

  しかし、ここでもなお、神の慈愛は現れています。ローマ書2:4にあるように、「神の慈愛はあなたを悔い改めに導くためである。」

神は病を通して、未信者にも悔い改めの機会を与えられるのです。ゆえに未信者の病も、「無意味な苦痛」ではなく、神が救いへと招く「外的召し(external call)」としての摂理なのです。

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