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死んだ信仰

2026.6.12 死んだ信仰

「そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」(黙示録3章16節)


 毎週、福音を聞いている。「アーメン」と言う。教会に通う。聖書の知識もある。しかし、何も変わらない。何度聞いても、心が砕かれない。罪を示されても、悔い改めない。キリストの十字架を聞いても、自分の罪が見えない。復活の主を聞いても、自分の王座から降りない。福音を聞きながら、何年たっても変わらない。


 それは、「まだ成長していない」のではない。聞いたみことばが、信仰と結びついていないのである。生まれた子供が何年経っても生まれたばかりの姿である場合、それはもはや生まれたばかりの子供ではなく病気なのである。


 信仰もそれと同じある。生まれたばかりの信仰は必ず、実を結ぶ。聖書は実を結ばない信仰は死んでると言う。 それはもはや信仰ではない。それは、死んだ信仰である。


 福音は、聞き流すための話ではない。神が罪人を殺し、キリストに生かす知らせである。罪と死と律法の支配の下にある人間を砕き、キリストの支配へと移す神の力である。それなのに、福音を聞いてもなお、自分を守り続ける。罪を握り続ける。嘘を言い続ける。自分の考えを神のことばより上に置く。「信じています」と言いながら、自分が主であり続ける。それは、生ぬるい死んだ信仰である。


 主は言われる。「わたしは、あなたがたを知らない。」最後の日、主の前に立つとき、「私は毎週教会に行きました。」「私は聖書を学びました。」「私は信じているつもりでした。」「私はずっと福音メッセージを聞いていました。」そう訴えても、それは人を救わない。なぜか、なぜなら、まことの心がない。そのような外面的な正しい行いでは人は救われないと聖書は言う。神は心の中をみておられる。


 最後の日に残るのは、教会にいた記録ではない。聞いた回数でもない。口先の信仰告白でもない。キリストに捕らえられた者だけが残る。


 主は、その生ぬるい死んだ信仰のゆえに、その見かけだけの信仰を退けられる。そして、

「この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」(マタイ25章30節)と言われるのである。だから、問われているのは、「あなたは教会にいるか」ではない。「あなたは福音を聞いたか」でもない。


 問われているのは、福音を聞いてなお、自分のままで生き続けるのか。それとも、神によって砕かれ、自分には望みがなく、キリストだけが救いであることを知らされるのか。

あなたは本当に、主を信じているのか。それとも、信じているふりをしているだけなのか。人にはごまかせても、主にはごまかせない。


 あなたの口は「信じています」と言う。しかし、あなたの心はどうか。あなたの生活はどうか。あなたの悔い改めはどこにあるのか。あなたは、福音を聞きながら、なお自分を守り続けていないか。あなたは、みことばを聞きながら、なお罪を握り続けていないか。あなたは、主を信じているのか。それとも、主の前で嘘をついているのか。


 主は、生ぬるい者にこう言われる。「そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」


 この警告は、世の人へのことばではない。福音を聞き続けながら、「自分は大丈夫だ」と思っている者への、主ご自身の警告である。神はあなたに問いただしておられる。

"わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。"ヨハネの黙示録 3章19節


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