top of page

死と律法

2026.2.19 死と律法

 

 今日は「アダムの死」、すなわち「罪と死」について話をしたいと思います。アダムの罪、そして死と、神様が与えたルールである「律法」について話します。


 聖書は「全ての人は罪人である」と宣言しています。なぜ全ての人は罪人なのか、その理由を学びたいと思います。


 聖書は、人が神様の与えたルール(律法)を破ったから罪人になった、とは説明していません。律法という神様が与えたルールを破ったことが、罪人である原因ではないことを知っていますか?


 聖書は創世記のアダムから話を始めています。そこにははっきりとした順序があります。

 * アダムの罪

 * アダムの死

 * アダムの罪が世に入った

 * 死の状態が全ての人に広がった

 * 原罪(罪の性質)が人々のうちに現れた

 * 個々の罪

 * 律法によって全ての罪が暴かれる

このような順番で、罪と死の関係を説明できます。


 まず最初の人、アダムの罪について話しますが、アダムの罪によって、アダムは神から切り離されることになってしまいました。人と神との関係が壊れたのです。

 この出来事は、アダム一人だけの問題ではなく、全人類に影響する出来事でした。それはなぜでしょうか? それは「死」です。アダムの罪によって、アダムは死にました。


 この死には二つの意味があります。

一つは、霊的に神様から分離されたこと。これは罪を犯してすぐに起こりました。

二つ目は、**肉体が神様と分離されたこと(肉体の死)**です。

 アダムは罪を犯してすぐ霊的に神様から分離されて、霊的に死んだ者となりました。聖書はアダムは930歳まで生きて死んだと言っています(※創世記5:5)。この930歳まで生きて死んだアダムの死は、肉体的な死です。ですから、霊的な死(神からの分離)がすぐにアダムにあり、その後、肉体的な死がアダムを襲いました。霊的に死んだ状態に加えて、さらに肉体的にも死んだということです。これはアダムが死の裁きを受けたということです。

 

 この裁きである「死」とは、神の命から切り離された状態を示します。

 そして、アダムの罪は世に入りました。アダムはすべての人類の初めであり、代表(連邦代表)であり、すべての人類は神がアダムと結んだ契約の裁きも、アダムを通して受けているからです。死の状態がすべての人に広がりました。ローマ人への手紙5章19節はこのように言います。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた」。

 

 すべての人は神から離れた状態に置かれているということです。「死」とは、神の命からの分離であり、裁きの状態にあるということであり、神の怒りの下にあるということです。

そして「原罪」です。この原罪を私たちは「罪の性質」とも呼びます。

 

 神から離れた状態というのは人の在り方ですが、この状態は人の内面に潜り込みます。そしてそこに死ぬまで、そのまま宿ります。人が生きている間、この神から離れた状態はその人の内にあって、その状態のことを「原罪」「罪の性質」と言います。

 原罪がその人の内にあるという表現ですが、その原罪とは、「神を求めない」「神に信頼しない」「自分中心で生きようとする」状態のことです。この状態が人の内に性質として座っていることを「原罪」「罪の性質」と呼びます。すべての人間は原罪を内に宿して生きています。

 

 そしてこの原罪は誘惑と結びついて、色々な罪を生み出していきます。それが「個々の罪」です。実際の生活の中で人間が犯していく罪です。

ガラテヤ人への手紙5章19節から21節にはこう書いてあります。

 

「すなわち、みだらな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、妬み、泥酔、遊興、そういった類のものです。」

これらは個々の罪です。これらは私たちの内に住んでいる「神を求めない、神を信頼しない、自己中心で生きようとする」原罪(罪の性質)から出てきています。それが誘惑と結びついて、このような罪が生まれると言っています。

 

 神はルールを与えました。それは聖いルールであり、「神の律法」と呼ばれます。

 罪はルール(律法)がある前からありました。律法というのは、モーセという人に神が示したものです。しかし、罪はそれ以前からありました。なぜなら、神様から人が切り離されること自体が「罪そのもの」だからです。

 ルールは人を良くするためのものではありません。このルールを私たちが持っても、私たちは良い人になることはできません。このルールの役割を、私たちははっきりと理解しなければなりません。このルールは「罪をはっきりと罪であると見せるため」です。

 

 実際に犯す罪だけでなく、実際には犯さないけれど心の中で想像して犯す罪でさえ、明らかに罪として見せます。聖書は、心の中で想像する罪も、実際に犯す罪も変わらない、同じ罪であると指摘しています。

 

旧約聖書の申命記5章21節で、聖書はこのように言います。

「あなたの隣人の妻を欲してはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ロバ、すべてあなたの隣人のものを欲しがってはならない。」

 隣人のものを欲しがってはならない、欲しがるだけでそれは罪だと言っています。実際に行っていなくても、欲しがったら罪であると。

 

 こうして神様のルール(律法)は、人がどんな状態にあるかをはっきりと明らかにします。それは全ての人を罪の中に閉じ込めるためでした。

ガラテヤ人への手紙3章22節はこう言います。

「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それはイエス・キリストを信じる信仰による約束が、信じる人々に与えられるためでした。」

 ですから、全ての人は罪の下にあると宣言しています。聖書が教える「全ての人は完全に堕落している」と言われる教え、原則です。それは赤ん坊、小学生、中学生、高校生、大人、老人、またどこの国の人でも一切例外はなく、全ての人は罪人です。

 

 ここから福音の救いは始まります。よって、選ばれた者も、生まれながらは罪の下にあると言っています。しかし、選ばれた者には、「永遠の結合」において神の計画の中にあるということを、聖書は初めから言っています。

では終わります。

 

祈り

 愛する天のお父様、

 私たちがどのように私たちの罪に向き合って、この事実を理解するのか、今日教えてくださったことを感謝します。

 私たちが罪の下に閉じ込められていたこと、このこともあなたが教えてくださり感謝します。また私たちは選ばれた者、イエス・キリストにある者として、罪に定められることはありません。しかし、この「罪の残骸(罪の性質)」にいつも悩まされ、戦っている者であります。

私たちはその戦いを「聖化」の過程として、いつも戦い、そして私たち自身に頼らず生きていく者に変えられるために、試練の中を進んでいきます。私たちの試練、また苦しみ、全てあなたから与えられていることも感謝します。

愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。

アーメン

​お問い合わせはこちらから

bottom of page