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従うイエス様

2026.3.20 従うイエスさま

 信仰の創始者、完成者であるイエスを見続ける。それは如何なる時にもみことばに従う生き様。


"それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」"

マタイの福音書 26章39節


"キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。

キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、

完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となりました。

ヘブル人への手紙 5章7~9節



 従順であられる主は、苦しみの中においても父の御心に完全に服された方です。

 ゲツセマネにおいて、主は「この杯を過ぎ去らせてください」と祈られました。しかし、その祈りはそこで終わりませんでした。「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに」と、完全に父に従われました。


 ここに示されているのは、人の模範ではなく、御子の完全な従順です。


 ヘブル書が語るとおり、キリストは苦しみを通して従順を学ばれ、完全な者とされました。これは、従順が欠けていたからではありません。むしろ、従順が歴史の中で現実に成し遂げられ、全うされたということです。


 そしてこの従順によって、キリストは永遠の救いの源となられました。信仰者は、この従順を生み出すのではありません。すでにこの完全な従順の中に置かれています。しかし同時に、その従順は信仰者のうちにおいて、現実の歩みとして現れます。それは放置ではありません。


 信仰者は、罪と戦い、歯を食いしばり、体を打ち叩くようにして、みことばに従う歩みへと置かれます。


 自分の内から従順を生み出すのではありません。神が、キリストの従順の中にある者を、実際の戦いの中で従わせていかれます。


 したがって、従順は二つに分かれるものではありません。キリストにある完全な従順と、その従順の中に置かれた者が通る現実の闘いは、

一つです。


 神は、キリストに結ばれた者を、安易に流されるままにはされません。むしろ、御心に従うように、現実の歩みの中で取り扱われます。


以上です。


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