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信仰義認と死んだ信仰5

2026.7.10 信仰義認と死んだ信仰5

聖書は、「死んだ信仰」という言葉を単なる未熟な信仰の意味では用いていません。それは、信仰を持っていると思っていながら、実際には救いに至る生きた信仰ではない状態を警告する言葉として用いています。

 

1. 死んだ信仰は「救うことのできない信仰」である

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その信仰に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか。」(ヤコブ2章14節)

 

ヤコブは、「そのような信仰が救うことができるのか」と問いかけます。答えは「できない」です。ここで問題なのは、「信仰が弱い」ことではありません。「信仰があると言っているが、実際には救いに結びついていない」ということです。

 

2. 死んだ信仰は、知識や同意だけで終わる

「あなたは、神はおひとりだと信じています。立派なことです。しかし、悪霊どもも信じて、身震いしています。」(ヤコブ2章19節)

 

悪霊でさえ、神がおられることを知っています。イエスが神の子であることも知っています。しかし、悪霊はキリストに信頼しません。つまり、聖書の正しい知識があること、たとえば信仰義認の教理に同意すること、教会に所属していること、これら自体は、生きた信仰の証明にはなりません。

 

 

 

3. 死んだ信仰は、自分を欺く危険がある

「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7章21節)

 

「その日には大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』」(マタイ7章22節)

 

しかし主は、「わたしはあなたがたを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」(マタイ7章23節)と言われます。

 

彼らは自分たちを信者だと思っていました。しかし、キリストとの真実な関係を持っていませんでした。これが死んだ信仰の恐ろしさです。本人は救われていると思っていることです。

 

4. 死んだ信仰は、福音を聞いても益を受けない

「聞いたみことばも、それを聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったので、何の益にもなりませんでした。」(ヘブル4章2節)

 

イスラエルは神の約束を聞きました。しかし、信仰と結びつかなかったため、約束の地に入れませんでした。福音を何度聞いても、自分の罪が分からない。キリストの贖いが自分の救いとして結びつかない。自分の行いに頼り続ける。ならば、その人は長年教会にいても益を受けない危険があります。

 

5. 生きた信仰はキリストに結びつく

聖書が語る生きた信仰とは、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)という信仰です。それは、私は罪人である。私は自分を救えない。キリストが私の罪を負ってくださった。キリストの義だけが私の望みである、と、キリストにより頼む信仰です。

 

6. だから聖書は自分を吟味するよう命じる

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。」(Ⅱコリント13章5節)

これは、真の信者を絶望させるためではありません。むしろ、「私は何により頼んでいるのか。」「キリストの十字架だけを救いの根拠としているのか。」「それとも、自分の決心、行い、宗教生活に望みを置いているのか。」を吟味するためです。

死んだ信仰の最大の危険は、迫害でも失敗でもありません。救われていると思い込みながら、実際にはキリストを知らないまま最後の日を迎えることです。だから聖書は繰り返し警告します。「兄弟たち。ますます熱心に、あなたがたの召しと選びを確かなものとしなさい。」(Ⅱペテロ1章10節)

 

そして同時に、真にキリストにある者には慰めも与えます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、だれも彼らをわたしの手から奪い去ることはありません。」(ヨハネ10章27〜28節)

 

死んだ信仰への警告は、キリストにある者を不安に陥れるためではありません。真にキリストにより頼む生きた信仰へと招く、神の憐れみによる警告なのです。

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